志野焼とは其の弐 志野の名称

志野 笹文 銚子 265

 桃山時代に美濃で焼かれた長石釉のかかったやきものを、まったく一般的な用語として「志野」と呼んでいます。だが桃山時代の志野を「志野」と呼ばれるようになったのは、記録に見るかぎりでは江戸時代中期、享保、元文頃からで、近衛予楽院の『槐記』や乾山筆の陶法伝書「陶工必用」には「志野」、「篠」と記され、また『槐記』では志野の猪口や小鉢を織部とも呼んでいます。ところが桃山時代の茶会記には、それらはすべて「瀬戸茶碗」、「セト茶碗」、「白茶碗瀬戸」と記されているだけです。「白茶碗瀬戸」とあるのは、おそらく白い釉のかかった志野の茶碗と思われますが、多くはただ「瀬戸茶碗」とのみ記されていますので、当時志野の他に黒茶碗である瀬戸黒や織部黒、黒織部あるいは黄瀬戸の茶碗も焼かれていますので、そのなかのいずれにあたるのかわかりません。
 では、当時志野と呼ばれていなかったものが、後世にいたってなにゆえに「志野」といわれるようになったのでしょうか。これも、その間の消息は詳らかでありません。ところが、室町時代の末期の天文二十二年(1553)から天正十四年(1586)の間、『津田宗及茶湯日肥』や『今井宗久茶湯書抜」 などの茶会記にしばしば記されている茶碗の一つに「志野茶碗」と称されているものがあります。しかも、その茶碗は天下に二、三碗しかなかった名物茶碗で、武野紹鴎、津田宗及.今井宗久という堺の大茶人三人が所持していました。ところが、「志野茶碗」と称されていたその茶碗は天下の名物でしたのに、天正十四年以後ふっつりと荼会記から消え、その後まったく行方がわかりません。もしこの茶碗が、桃山の志野茶碗の源流をなす長石釉のかかった茶碗、すなわち、すでに述べた「自天目」のような茶碗であったならば、志野という名称の由来についても明快な筋遭が立ちます。しかし「白天目」は、利休が書付に「紹鴎せと白天目」と記しているように、当時から「白天目」と呼ばれていたようで、その頃すでに名高い「志野茶碗」を利休が「白天目」と改めて書き付けしたとは思えません。したがって茶会記に見る「志野茶碗」と「白天目」とは別のものであったと考えざるをえません。
 しかし「志野茶碗」は、香道の祖として名高い志野宗信の所持であったためにその名がつけられたかと思われ. いまのところ日本の茶碗か、中国から請来された唐物であったかは判然としませんが、茶会記の様子書などから推測しますと、白い釉のかかった茶碗であったようで、白い釉である点が白天目や桃山時代の志野と共通しています。そしていささか飛躍にすぎる感はありますが.その共通点から、江戸時代に入ってから桃山時代に美濃で焼かれた白い茶碗を「志野」と呼ばれるようになったのかもしれません。その間の消息を物語るものに、時代はかなり下るが嘉永七年(1854)に著された「陶器改」に、
「志野宗催物ズキニテ呂宋白薬ノ沓鉢ヲ茶碗トス、是ヨリ志野茶ワンノ名出ル、後今井宗久へ伝ハリシ由、名物記ニ唐物トアリ、此ノ茶碗ノ出来振ヲ尾州ニテ写シタルヲ志野焼ト云」
と記されていますが、これも「呂宋白薬ノ沓鉢」が出て来たり、美濃であるべきところを「尾州」とするなど、いささかうがち過ぎ、また誤った推定をした記事だが興味深いです。いずれにしても、志野の名称の起こりと由来については今後の考究に待つほかはありません。
 さらに桃山の茶会記の筆者たちは、当時美濃で焼かれたやきものをすべて瀬戸焼と記.しています。これはおそらく、尾州の瀬戸が鎌倉時代以来やきものの産地として著名であり、その流れを汲む美濃のやきものも、総括して瀬戸物と見なしたためと思われますが、本来ならば美濃茶碗と記されるべきでしょう。そしてこの誤った記載が近代にいたってそのまま信じられ、美濃で焼かれた志野や瀬戸黒、織部、黄瀬戸が、尾州の瀬戸産と信じられたのでした。
 さらに室町末期から桃山前期にかけて、茶会記にしばしば記されている茶碗に「伊勢天目」と呼ばれているものがあります。そして伊勢天目のなかに白い釉のかかったものがあったらしく、『津田宗及茶湯日記』の永禄九年(1566)正月十一日の条に「伊勢天目白色」、さらに『神谷宗湛日記』にも、天正十五年に「白イセ天目」と記されています。それらの伊勢天目を美濃の産と見るならば、志野と同じ釉のかかった天目が、かつては伊勢天目とも呼ばれていたと考えられるのです。
  紹鴎所持の白天目茶碗に象徴される白い長石釉のかかった天目茶碗が、十六世紀の前半 から焼かれていたらしいことはすでに述べました。それらの白い天目を.今日では総称して志 野天目と称するようになりましたが、志野天目の焼造は、黒褐色の釉のかかった一般的な天目 (瀬戸天目と総称している)とともに、微量ですが、江戸初期まで形式を変えつつ継続していました。それらも喫茶に用いられたのですから、天目茶碗は、瀬戸や美濃で最も長い歴史をもつ代表的な茶陶であり、伝統的な作品であったといえますが、そうした伝統的な作風とはまったく異なった新しい形式の茶碗、すなわち腰の張った半筒、あるいは筒形の茶碗が桃山時代にいたって始まり、大いに流行するようになります。しかも天目茶碗のように無地のものではなく、 釉の下に鉄絵具で文様が描かれます。それらは一般的な雑器ではなかったからそれほど量産されなかったかもしれませんが、美意識の上では大きな転換が陶工たちの間で行われたといえます。このような変革は、当然、山に住んでいる陶工たちやその周辺から自然発生的に起こるはずはなく、外からの大きな力が加わって起ります。そして、その要因を探るならば、佗の茶風の深まりによって生じた、茶人の茶碗に対する好みの変化の影響をそこに認めぬわけにはいきません。

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About the author: Yoshihisa Tsuruta

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