織部とは其の弐 生い立ち

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鶴田 純久
織部 大徳利 031

 桃山時代後期から江戸初期にかけて、古田織部好みの茶陶は、美濃だけではなく、伊賀や信楽、備前、唐津などでも焼かれていましたのに、美濃のやきもののみが織部と呼ばれるようになった由来も判然としませんが、おそらく美濃の窯場とは特に密接な関係があったことを人々が知っていたからと思われます。
すでに述べたように、古田織部がいつ頃からどのような形で美濃の窯場で好みの作品を焼かせるようになったかは判然としません。
古田織部が茶の世界に登場するようになるのは天正十年(1582)頃からでありますが、茶人としての活躍は、従五位下織部助に任ぜられたと推測され、山城国西岡の城主となった天正十三年頃からではないかと思われます。
桃山の主要な茶会記によると、会主として初めて登場するのもこの年の二月十三日で(『津田宗及茶之湯日記』)、この茶会に「セト茶碗 セト水指」などを用いていますが、この場合の瀬戸とは美濃のことであり、おそらく千利休などとともに、美濃の窯と関係が深まってゆくのもこの頃からではないでしょうか。
しかも桃山の茶会記を通読しますと、天正十四年頃から「セト」のものが急激に使われるようになってきますが、茶の世界の注文が急増したことを物語り、その先途として千利休や古田織部が好みを示して焼かせたのではないでしょうか。
しかし古田織部が時代の好みに大きな影響を与えるようになるのは、慶長年間(1596~1615)に入ってからであったと思われます。もちろんそれとても確かな資料があっての推測ではありません。
しかし後世織部焼と呼ばれた茶陶のほとんどは慶長年間に入ってからの作であり、織部好みを象徴する沓形茶碗も、慶長年間に入ってから流行するようになったことは、古窯趾から出土する陶片や茶会記の上からも明らかであります。
織部好みの沓形茶碗を語る時必ず引用されるのが、慶長四年二月二十八日に古田織部が自会に用いた茶碗で、招かれた神谷宗湛は『宗湛日記』に次のように記しています。
「セト茶碗ヒツミ候ヘウケモノ也」。
歪みのあるひょうげものの茶碗、志野か織部黒か黒織部であったかは判然としませんが、歪んだ茶碗でひょうげたものということは、その後に元屋敷などの窯で量産される沓茶碗を連想させるのであります。
宗湛がことさらに「ヘウケモノ也」と印象を記しているのは、あるいはそうしたものの初見であったからかもしれず、その茶碗を古田織部が用いているのは興味深いです。
そして古田織部が歿した元和元年に著された『草人木』 に「茶碗八年々瀬戸よりのぼりたる今焼のひつミたる也」と記されているほどに流行したのでありますが、確かに古窯趾出土の陶片からもその情況を推察することができるのであり、そして後世の人々は、それらの作品を織部好みとみなしたのでありました。
しかし古田織部がどのような形で好みの作品を制作過程に乗せたかはわかりません。

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