本阿弥光悦

本阿弥光悦 白片身替茶碗 銘不二山

 本阿弥光悦(1558-1637)が生を受けた本阿弥家は、室町時代以来、京都にあって刀剣の目利(鑑定)と磨(研磨)を家職としていましたが、光悦はその家職を通じて培われた彼なりの観法というか心構えについて、次のように考えていたことが『本阿弥行状記』に記されています。
  名作刃物の事 これは私先祖よりの業体にて目利仕 折紙も御所望の節はさし上候へども、又新身とても名作におとらぬ物有之此後とても昔の名作におとらぬ名人いくらも出申べしさなくては千年も後まで当時直(値)高き名作は残り申間敷 既に天国などは私も見不申 たまに有之候物も多くは偽物にて御座候
 すべていか程の名作を持候大将も 心得悪く候へば何の詮なき物に候 左申上候はば名作の折紙も入らぬものなれども 昔より仕来り候事とて 武士の名作を御吟味 御賞翫被遊候 事は治世に乱世をわすれたまはぬ武備第一と奉存候 当時あら身にても一条国広など 後代正宗 宗近ほどにも相成り中べし其外あら身に名作 後代いくらも出来中べし 但名作物などを 小知行の武士方扱ひ候と 却て禍も出来すべし小身衆はあら身のよき物を嗜み申さるべきかにて候 惣て刃物によらず 昔ばかりにて此後出来ぬと申事は決して不自由の論にて今千年の後にも刃物を始め何によらず不自由は有 間敷只今さのみ賞翫仕らぬ諸道具 陶器一切の物 後代直(値)の上る物と 当時直(値)高き物後代下る物ども色々有之べし 兎角天地造物の細工ほど恐入候物は有間敷奉存候 これを神明と申べくと被存候(四八段)
 その表現から推して、光悦自身の言葉を聞き書きしたものとは思えませんが、彼がこのような考えをもっていたことは想像できます。その論旨はまことに尋常、明快で、もしあらゆることがこのような心構えで受け止められていたならば、世の中はさわやかなものであるにちがいありません。ことに「兎角天地造物の細工ほど恐入候物は有間敷奉存候 これを神明と申べくと被存候」といっていますが、刀剣や陶器に関りをもった光悦は、創意創造ということについて、きっとそうした感懐を強くもっていたのでしょう。
  『本阿弥行状記』は光悦の歿後100年以上たってから著されたものですから、後世の仮託も多いように思われます。しかし、光悦の書いた手紙や、光悦に私淑した佐野(灰屋)紹益(1607-91 光悦の甥光益の子、佐野紹由の養嗣子)が著した「にきはひ草」に描かれている光悦像など、信憑性のある資料と比較しますと、その叙述や表現はともかく、思想的な面では光悦の思考や実像が強く投影しているように思われ、また記録性の上でも信じうるところもあり、やはり資料としての価値は決して低いものではありません。
  たとえば、晩年の光悦に私淑した紹益は『にきはひ草』のなかで、「…新しくいてくる物にても なりふりすくれ見事なるを見しりけるハ 利休在世にちかゝりけれハにや」と茶道具に対する光悦の態度を述べていますが、これなど『本阿弥行状記』の「惣て刃物によらず 昔ばかりにて此後出来ぬと申事は決して不自由の論にて…」という条とみごとに重なるのであり、彼自身が書や陶芸で伝統を受けながら独自の境地を開いたのも、そうした信念の所産であったといえるのではないでしょうか。そしてさらに、新しいものでも「なりふりすくれ見事なるを見しりける」という態度を光悦がもったのは、「利休在世にちかゝりけれハにや」と紹益は述べていますが、この一節はまことに興味深く私たちのこころをとらえます。すなわち紹益が一一新しいものでも優れた作品は認めて用いるという光悦の姿勢は、利休在世に近いからであろうといっていることから推して、紹益の認識のなかには、そうした姿勢のよりどころとして利休が大きく存在していたことがうかがわれるのであり、紹益よりもはるかに時代を経た今日、私たちが歴史の流れのなかでとらえますと、そうした時代の創意に積極的に取り組む対し方は、一人利休だけではなく、桃山時代に、数奇風流の場に生きた先達たちに共通したヴィジョンであったように思われるのです。利休の高弟であった山上宗二(1544-90)が、天正年間後期(1580年代)に著したと伝えられる茶書『山上宗二記』に、当時の茶碗に対する好みについて「惣別茶碗之事唐茶硯ハ捨リタル也 当世ハ高麗茶硯今焼茶硯瀬戸茶硯以下迄ナリ 頃サヘ能ク候ヘハ 数奇道具二作也」と記されていますが、その「頃サヘ能ク候ヘハ 数奇道具二作也」という態度は、いうまでもなく光悦の「なりふりすくれ見事なるを見しりける」とするのとまったく同じ精神のあらわれで、千利休はもちろん古田織部により濃厚に受け継がれていますし、桃山という時代の文化をになった人々すべてのこころに生きていたにちがいないのです。自らの美意識を主張しつつ時代に生きてゆくところに、溌刺とした桃山文化が形成されたといっても過言ではなく、本阿弥光悦は、そうした桃山的美意識の一頂点に位置する存在であったといえましょう。
  光悦といえば、やはり一世の能書家として名が高かったですが、彼の残した芸術作品のなかでもとりわけ重要な茶碗について語るとき、これまであまり一般には知られていなかった面、すなわち茶人としても奥義を極めた人であったことが、やはり佐野紹益の著わした『にきはひ草』のなかに誌されています。光悦の茶の湯は織田有楽斎{1547-1621)と古田織部という桃山を代表する大茶人二人から台子点前を伝授されたほど深いものであり、しかも若いころから習得していたようですから、当然一家の風を成していたことが想像されるのです。だが彼は生涯茶の宗匠ではなく純然とした数奇者として生きています。しかし、茶の習い事にもうかがわれるように、幼少のころから上層町衆の子弟として一般庶民とはちがった環境のなかで成育した人であったことは、光悦の残した芸術を考察する上で大いに認識しておかなければならないことで、光悦の茶碗が。まちがえば極めて嫌味なものになりがちな作為の強いものですのに、嫌味に陥らずに一つの風格を備えているのも、そうしたところによるものといえるかもしれません。
  「なりを好ミ作りて やかせたる茶碗等 今代に かつ残りたるも一ふりある物とそいふめる」と紹益が書きとどめた光悦の茶碗は、作陶に関係した記述のある手紙や資料のほとんどが、鷹ケ峰に庵住するようになった元和(1615-23)以後のものであることから推して、やはりその主体は元和元年以降であったと考えられ、『本阿弥行状記』の八三段に記されている「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり 然れども家業体にするにはあらず 只鷹峰のよき土を見立て折々拵へ侍る計りにて 強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし」という述懐が信憑性を増してきます。
  果して鷹ケ峰に手担ねするのに適した土があったか否かは今では判然としませんが、鷹ケ峰に連る鹿苑寺の裏山に作陶の可能な土があったことは、鹿苑寺の住職であった鳳林承章の日記『隔賀記』の寛永十七年(1640)三月十三日の条に、東山の陶工であった作兵衛という人が来て調べたところ二色ほどあったことが記されていますので、地続きの鷹ヶ峰でもおそらく「よき土」があったのでしょう。しかし光悦は、鷹ヶ峰の土ばかりで茶碗を作ったのではなく、楽家の吉左衛門常慶方からも土を取り寄せていたことが、楽家伝来の次の手紙にうかがわれます。
  茶碗を作るには土をねかせておき、細工しやすいようにしておかなければなりませんので、ときには楽家から土を取り寄せていたのでしょうが、この手紙は元和年間以後の筆蹟と推測されています。そこで興味深いのは、そのころから楽家では白土と赤土を用いていたことで、長次郎の茶碗はすべて鉄分を含んだ赤土を用いていましたのに、常慶やその子道入(ノンコウ)時代には白土も使うようになっていたことがうかがわれるのであり、事実、常慶・道入さらに光悦の茶碗には白土を用いているものが見られるのである。
  土だけではなく、釉も常慶や道入に頼っていたようで、参という文面の手紙が伝わっていることや、『本阿弥行状記』に「今の吉兵衛は至て楽の妙手なり 我等は吉兵衛に薬等の伝も譲り得て慰みにやく事なり 後代吉兵衛が作は重宝すへし…」とあることからも明らかであり、確かに光悦の白楽釉は常慶の香炉釉といわれているものと似ていますし、黒楽釉の多くは吉兵衛すなわち道入のそれと同じ調合であったことが作品にうかがわれます。
 「此くすりの本 ちやわん」の本は手本のことで、釉がけの手本になる茶碗を共にもたせたことを意味しています。そして釉がけは「いかにもかすかに」となかなか細かい指示であり、さらに茶碗だけでなく香合も作っていたことがこれによってわかります。しかし、この手紙のなかでことに留意しなければならないのは、「此度御やき可有候かま口あけ御入候べく候」の条で、これは「今度お焼きになる窯口-すなわち窯口の辺り一を特にあけて御入れ下さるよう願います」と解され、すると「たゑもん」の窯は楽焼窯ではなく本焼窯であったように推定されます。しかし「たゑもん」の窯がどこにあったのか判然としないが文末に、「私達は来月二日に下ります」と予告していますので、京都からやや離れた土地、すなわち膳所か丹波の野々村辺りではなかったかと考えられるのであり、それは膳所光悦として伝えられている茶碗や、丹波焼に光悦風の茶碗があることなどからも推測されるのです。さらに、この手紙を一読して多くの人が興味を抱くのは、焼成だけでなく釉がけまで依頼していることで、たとえ手本になる茶碗をもたせて同じように釉がけをするように細かく命じても、そこはやはり行きとどかぬものになるにちがいありませんのに、気軽に頼んでいるところに解せぬ思いを抱かされるのですが、光悦にはさほどこだわりがなかったのでしょうか。
  光悦の茶碗は、すべて手提ねで作られています。手握ね茶碗は轆轤ぴきしたものとちがって彫塑的なものですので、作者が個性的な作為を表すにはより適した作陶法であり、光悦のような非凡な造形感覚の持主にとっては大いに魅力のある余技であったにちがいなく、彼は風流するこころのおもむくままに、まさに自由奔放に手握ねに興じたのでした。
  いうまでもなく、手握ねによる楽茶碗は長次郎によって始められました。だが長次郎の茶碗は、すでに長次郎概説で述べたように、千利休の好みになるいわゆる「宗易形」(利休形)を基本にして成形され、作者その人は個性的な作為はほとんど表にあらわさず、いわぱ没個性的な作風を展開して一風を成したのでしたが、光悦のそれは、長次郎の後継者であった吉左衛門常慶やその子吉兵衛に作陶の法を習いながら、造形性の上では利休好みとはまったくちがった作為豊かな茶碗を楽しみつつ作ったのでした。その作風はむしろ古田織部の好みの周辺にあったとされている志野や織部黒にちかいです。利休と光悦は、面識があったか否かは判然としませんが、二人の生年にはおよそ四十年の開きがあったのに比して、古田織部と光悦とはほぼ二十歳のちがいであり、年齢や生きた時代から考えても光悦は織部により深い共感をもっていたように思われ、ことに茶の湯の師でもありましたから、光悦の作振りはおのずから織部好みに近いものになったのでしょう。また、光悦の作陶は終始手すさびとして行われたものであり、楽家と親しい光悦が、楽焼茶碗の基本形であった利休好みの茶碗を倣うということはあり得ないことで、ことに自由に想うところをあらわそうとすれば、織部好みのものに近くなるのは当然のことであったといえます。
  長次郎の赤楽茶碗「一文字」は、利休晩年の「草ノ小座敷」の詫茶における茶碗として、一つの理想を求めた造形であったといえ、茶碗の姿は無作為で端然と座しているかのような趣がありますが。
  光悦作の赤楽茶碗「乙御前」をみますと、同じく「草ノ小座敷」での赤茶碗として生まれたものでありながら、その趣はまったくちがいます。
 その姿にはおどけたおもしろ味があり、高台に至っては、一見無造作このうえない破格の表現で、そこには遊びのこころが横溢していて、求道的な精神が背骨をなしている利休の好みとは対照的です。
 さらに、長次郎の黒楽茶碗「大クロ」と光悦の黒楽茶碗「雨雲」を見くらべてみますと、「大クロ」は黒無地に終わっているのに対して、「雨雲」は意識的に釉景色を作って茶碗に装飾的効果を求めています。これなど利休の好みにはなかったもので、利休好みの黒楽茶碗はのちに利休の子紹庵が「数奇に入る」といって高く評価していますが、数奇のこころといっても、そのおもむくところ利休と光悦の間には大きな隔りがうかがわれるのです。
  利休は黒無地に無限に深まるものを求めていたのでしょうが、光悦はその釉がけで、窯の中で生じるであろう変化を十分に意識しながら、あたかも料紙の上に文字を書くのと同じように、自らの作為をあらわに示そうと一つのねらいを求めて釉がけしています。さらに想像をたくましくすれば、光悦はその釉がけで、料紙の上に筆で書く文字の世界では得ることのできない、人為的なものと焔という自然との協調によるやきもの独特の効果を期待していたかもしれません。
 それは光悦の他の茶碗を見ていても感じることですが、光悦はその作陶で、一つの茶碗に自らの作為を存分に働かせ、なおかつ焔という自然にゆだねて、どう出来てくるかを楽しむところがあったような気がしてなりません。しかも光悦は利休のように静まりかえったところで端然と座すというのではなく、決して一つの発想にとどまることなく、形の上でも釉がけでも、次々と何かを求めて作っていますが、私はそうした態度に長次郎のような職方では為し得なかった世界、すなわち一人の個性的な作家というにふさわしいものを感じるのです。
  利休好みの長次郎の茶碗と光悦の茶碗との間には、以上のような違いを汲みとることができますが、一般に織部好みとしてとらえられている志野や織部黒、黒織部の茶碗と光悦のそれとを対照してみますと、そこには多くの共通性がうかがわれるのです。たとえば「雨雲」のきっぱりと箆で切りまわした口造りは志野や織部黒に類似を見ることができますし、おもしろみ豊かな破格の高台作りなども、志野の「羽衣」や織部黒にやはり同じ風がうかがわれるのです。いわば利休好みには感情の発露はみられませんが、織部や光悦の茶碗には、時代に生きている人間のさまざまの感情が、そのまま一つの茶碗の姿にあらわに示されています。したがって、求道的な茶に生きるならば利休好みの長次郎茶碗ということになりますが、自由に数奇風流の境地に入るというならば、織部好みや光悦の世界に踏み込むことになるでしょう。
  手すさびという気楽さもあってのことでしょうが、確かに光悦は、自由無碍の境地に遊びつつ、茶を楽しみ茶碗を作っていたように思われます。作陶に関するいくつかの手紙を見ても、作りたくなると矢もたてもたまらなくなるのでしょうか、せわしく「白土赤土を急いで持ってきて欲しい」と吉左衛門常慶に頼み、一方では「たゑもん」に柚がけを頼むような気軽さもあります。そしてまた、気ままに時間をおいて作っていたことは、作行きがさまざまであることが物語っています。おそらく、作りだすと同様の作振りのものをいくつか集中して作り、そしてまた時をおいて折にふれて異なったものを作る、といった作陶振りではなかったかと考えられるのです。
  したがって光悦の茶碗は、どれを基準作とするなどということはできないのであり、そこに作陶年代の違いを汲みとることも不可能にちかいです。とすれば、誰が見ても魅力のある優れた作振りの茶碗が高い声価を得るということにつきるのであり、たとえ光悦の作でも出来のよくない茶碗はいつしか埋もれてしまう運命を生まれながらにもっていたといえるのではないでしょうか。
  ところで光悦の茶碗は、その作振りから三つに大別することができます。すなわち図版で示したように「不二山」「加賀光悦」「七里」「弁財天」「東」など、きっかりと腰の角ばった半筒または筒形式の茶碗の一群。「雨雲」「時雨」「本法寺」など、筒形に近いが腰にまるみをつけ、高台を一見碁笥底のように極めて低くした独特の作行きのもの、それと「毘沙門堂」「乙御前」「紙屋」「雪峯」その他、口部を内に抱え込ませ、胴をまるく張らせたまるみ豊かな作振りの茶碗のー群などですが、まるい作りの茶碗はよく見ると一作一作それぞれに趣はちがっていて、あたかもそれはまるみのある姿のなかで、手担ね茶碗というもののおもしろ味を実験しているかのような感があります。器形の分類から離れて、一碗―碗の姿を見ているとまことにおもしろく楽しいです。
  「不二山」の高台と高台際から腰に至る作振りなどにうかがわれる峻厳な表現はただものではありません。この茶碗は光悦茶碗のなかではもっとも格調の高いものとされ、しかも光悦の共箱(作者自身の署名のある箱のこと)に収まった唯一の茶碗でもあり、箱の蓋表には「不二山 大虚庵」と墨書されています。これはもともと白楽茶碗として焼かれたらしいですが、焼成中に内外ともに下半部の釉の表面が焦げて火変りし、思いもかけない偶然の効果で、またとない片身替りの景色が生じたのでした。それはあたかも白雪をいただく富士山のようであり、しかも二つとできぬということからその名をつけたものと思われるのです。しかしそうした偶然のもたらした変化のある景色だけならば、この茶碗はそれほど高く評価されることもなかったでしょうが、茶碗の作行きも群を抜いて優れているのです。側面から見ると平凡な半筒形に見えるかもしれませんが、高台や高台脇の作行きは、いまも述べたようにいいようのない厳しさがあり、そこには荘重感さえただよっていて、私はこれほどみごとな高台をもった茶碗を他に知りません。
  茶碗というものの要所は、口造りと高台です。光悦は高台の削りには自信もあり、また得意でもあったようですが、口造りにはかなり難渋のあとのうかがわれるものがあります。したがって光悦茶碗の決め手は高台で、器形に応じてそれぞれに趣を変えて楽しんで作っていますが、どこか光悦ならではの手ぐせというか雰囲気があって、そこにはいかに巧みに写しても、写しでは出てこないものがあります。
 おもしろみのある高台ということでは「毘沙門堂」と「乙御前」が面目躍如としています。ことに「乙御前」のそれは、志野茶碗の「羽衣」と同じように、茶碗の高台はかくあらねばならぬという概念から逸脱したもので、まことに無造作に光悦独特の風が生れています。
  光悦の茶碗のなかで、もっとも深い味わいをたたえているのは「時雨」である。ここでは光悦特有の作為はすでになく、静寂の感が茶碗全体を包んでいるかのようです。そしてまことに興味深いのは、そこには長次郎茶碗の「無一物」と相通じる雰囲気がうかがわれることで、光悦は自由奔放な作為の道を歩いたのちにここに至ったのでしょうか。茶碗というものは、妙味豊かな造形作品であるとつくづく思われてなりません。