有田焼 ありたやき

有田焼 色絵瓢徳利 有田焼 色絵瓢徳利 有田焼 染付徳利

肥前国(佐賀県)有田の磁器。西松浦郡有田町を中心として、文禄・慶長の役(1592-8)後発見された有田泉山の原料によるもので、わが国最初の磁器であります。
昔製品の大部分が伊万里港を経て搬出されましたので、伊万里焼とも呼ばれます。【端緒】佐賀藩の藩祖鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮出征軍の先鋒として出陣し、その凱陣の際に多数の陶工が伴われ帰化しました。
そのうち佐賀郡金立村玖摩山(佐賀市金立町)に居住した者は金氏といい、その後松浦郡山形村字藤の川内(伊万里市松浦町山形)に移りました。
また小城郡多久村(多久市)に居住した者は李氏といい、朝鮮忠清南道金江の人でありました。
のち金ヶ江三兵衛と改め、のちの人は李参平と称しました。
初め同村字道祖元で起業したが適意の原料が得られず、次第に西の方へ行き、1616年(元和二)松浦郡有田郷字乱橋に来てその後さらに有田字上白川に移りました。
杵島郡武雄村字内田(武雄市東川登町大字内田)に居住した者は宗伝といい、深海を姓とし、のち有田字稗古場に移りました。
彼らは慶長(1596-1615)から元和・寛永年間(1615-44)にわたってのおよそ二十余年、陶業によって生計を立てていたのであるでしょう。当時は今の有田町を田中村と称し、深林僻蒼とした渓間でわずかに松浦郡平戸(長崎県平戸市)から杵島郡武雄(武雄市)に通ずる道路があっただけで、乱橋にいた李参平は谷に沿ってさかのぽり有田上白川に移って窯を築き製陶しました。
この地が極めて薪水の便がよかったからだと思われます。
泉山磁礦は李参平が発見したもので、創業当時にはもとより粗造であったので顧みる者もありませんでしたが、後世からこれをみるとわが国製陶業大革新の起こりであり、有田陶業が今日あるのは実に参平の功績といえます。
【磁器創業】参平は上白川で窯を起こすと共に杵島郡板野川内(山内町)にも窯を築きましたが、これは現在遺跡がある百間窯で、すでに泉山磁砿を検出しこの地で白磁器を創製していたことは、現に廃窯の跡から掘り出された破片が泉山磁質であることでもわかります。しかしこの地が極めて僻地で交通が不便なため、道路に接する字小樽の地に移窯しました。
同地に廃窯の形跡を存するのは、1810年(文化七)頃再び築かれたものと伝えられ、これを新窯といって今はこの地の字になっています。
以後窯の存廃が一所不定であったことは現に廃窯の跡が所々に散在していることで想像できます。
これは帰化朝鮮人だけに限らず、当時は遠近から相携えて有田に来て陶業を企てたからであります。
これらの工人はその後各地に散在して部落をつくり山林を伐って陶業を営んです。
【寛永の整理】1637年(寛永一四)藩主鍋島勝茂は家老多久茂辰に命じて大々的に人員を淘汰し(826人中男532人、女294人)、帰化朝鮮人以外は陶業に従うことを禁止し退去させました。
これは地方人が朝鮮人について陶法を修得し、所在の山林を濫伐して燃料に当てる弊害があったためであります。
しかし朝鮮人に縁故のある者(当時李参平は子孫および徒弟を合わせて三十余人いたということである)、あるいは多年この地でこの業を世襲した者らは、特に多久家の符信を得てその後も業に就くことが許されました。
この時に有田ほか十三ヵ所を製陶地と定め、また山林伐採税として銭を若干納めさせました。
この頃の陶業戸数は百二十戸あってすべてを李参平が統轄しました。
1655年(明暦元、または1652、承応元年ともいう)参平は有田上白川で没しました。
墓は報恩寺にあります。
当時は制作描画がやや熟達して白磁に青花を描き、氷裂文を青磁に現し、模型彫刻を白磁に施して絵文に代えるなどの技法はことごとく具備していましたが、彩画着色を施して装飾するような技法はまだ発見されていませんでした。
「赤絵の成功」1644年(正保元)伊万里の人東島徳右衛門が長崎に来ていた中国人周辰官について彩画着色の方法を習得して帰り、これを有田郷南川原の陶工酒井田柿右衛門に伝えました。
柿右衛門は数々実験をしたが成功せず、そのため呉須権兵衛に相談して共に幾多の研究を積みついに成功しました。
こうして初めて柿右衛門所製の磁器に彩画錦文を施し、長崎で中国清朝の商人などに売り大いに賞賛されました。
有田磁器を外国商人に販売した始まりであります。
これが1646年(正保三)のことで、以後清朝商人と貿易して彩画錦文の精巧な磁器を輸出しました。
「内山外山の制」1647年(正保四)には有田ほか十三ヵ所の製陶地で陶業を営む者を百五十戸と定め、したがって製陶機械(蹴轆轤)を設備する者も百五十戸に限られました。
この時山林伐採税を廃止し、蹴轆轤一挺につき車税として若干の銭が課せられました。
また内山・外山の区別もこの時に定まりました。
その個所は有田全部を内山と称し、有田郷外尾山・黒牟田山・応法山・広瀬山・南川原山、伊万里郷大川内山・一ノ瀬山、杵島郡筒江山・弓野山・小田志山、藤津郡志田山・吉田山・内野山を外山と称しました。
またこの外山の中に大外山の称があります。
これによって有田産原料が採れるところと採れないところがありました。
この制度は後世に成ったものでありますが、大体領主の領地の区画によって定められました。
すなわち松浦郡外尾山・黒牟田山・応法山・広瀬山・南川原山・大川内山・一ノ瀬山は本藩鍋島氏の領地でありました。
その採る原料に良否の差異はありましたが、みな有田産原料を採って製造するものでありました。
これを外山といいます。
杵島郡筒江山・弓野山・小田志山は家老鍋島氏の領地であり、そのため有田産原料を採ることは許されませんでした。
しかし特に筒江山に限って毎年有田産原料八万五千斤(約五〇トン)を採ることを許されたのは、もと板野川内百間窯にいた朝鮮人の一部が廃窯の時に同地に移住して陶業を起こした縁故ではないでしょうか。今でも武雄市山内町宮野字筒江にはその遺跡があります。
藤津郡志田東山は本藩の領地であったが創業が遅く、西山は支藩の領地であったので共に有田産原料を採ることを許されませんでした。
また内野山は本藩の領地であったが製品が粗造であるため有田産原料を採る必要はありませんでした。
吉田山だけは本藩・支藩が分領していたので、本藩に属するものに限・り1752年(宝暦二)から毎年有田産原料五百芭を採ることを許されました。
これら諸山を大外山といいます。
【鍋島焼】単に外山と称するうち大川内山は、佐賀藩主から徳川将軍へ進献するものおよび他の藩主へ贈進するものを製する藩窯のあったところで、初めは有田岩谷川内にあったものを寛文年間(1661-73)に南川原山に移し、延宝年間(1673-81)に今の大川内山に移しました。
原料は有田泉山磁砿地内に特に採掘する坑があって、御用坑と称してみだりに採掘するのを許しませんでした。
工場は藩士副田孫三郎を主管とし、代々その職を世襲させました。
製品は蓋盤が主でその他精巧な装飾器具をつくらせ、厳密な規定を設けて他の者が模造することを禁じました。
天明年間(1781-9)になって有田代官の所轄になると吏員が駐在して窯匠のすべてを監督しました。
「明暦の改制」1656年(明暦二)再び山林制度を改め、また車税を車運上(今の製造税である)と唱え徴収の法を定めました。
この頃になるといよいよ有田製品の声価は四方へ伝わり、特に江戸で最も盛んに発売されたと伝えられます。
「御用品進献」寛文年間(1661-73)に江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛が仙台藩の委託を受け有田に来て磁器を求めたが得られず、二年間留まってようやく辻喜右衛門所製の良器を得て帰り伊達侯に納めました。
侯は大いにその優秀さを賞賛してこれを皇室に献納しました。
これにより皇室では古来使用してきた土器を廃して青花磁器に改め、佐賀藩主に命じて毎年皇室の御器若干を辻喜右衛門に調製させ上納させることとなりました。
以後辻家は代々この栄職を世襲し、三代喜平次の時直接調進の恩命を受け官職常陸大禄を受領しました。
1672年(寛文一二)には赤絵町の名が起こりました。
【密貿易】享保年間(1716-36)有田大樽の富村勘右衛門は赤絵町の嬉野次郎左衛門と共謀して、幕府の厳禁を犯してしばしば長崎からインド方面に密航し有田製品を販売して巨利を得ました。
しかし1725年(享保一〇)ついに事実が発覚して次郎左衛門は処刑され、勘右衛門は切腹自決しました。
現在ヨーロッパで日本古伊万里と称して珍重する古器物中には、当時密売された多数の品類も遺存しているとみられます。
「宝暦の改制」寛延年間(1748-51)有田内外山製陶業に関する制度を改正し、窯税を窯運上と改称し、また1751年(宝暦元)には製陶業を営む者の証票(名代札という)数百八十個のところを、さらに火口名札の名称で数個を増加することがあって、安永年間(1772-81)に泉山に新窯を築いて窯の不足を補充しました。
[技法の秘密]安永の頃長崎奉行に肥後国(熊本県)天草の原料で磁業を起こそうという計画があり、佐賀藩では有田陶法の秘密が伝わって模造されるなどのことがあれば有田内外の陶業に影響することを恐れ、特に錦付装飾法などは最も秘密とすることですので、一層厳密な規定を設けました。
当時赤絵業者は十六戸ありましたが、その数は現在数十六戸に限定され、特に顔料調合法などは戸主以外には伝授できない盟約を結ばせ、また製造業に対しても一層厳重に警戒してもっぱら秘法の漏洩を防いだにもかかわらず、有田の人で大川内藩窯の名工副島勇七が監督の藩吏と衝突し、ついに遁逃して諸国の製陶地を巡って有田陶法の秘訣を伝授しました。
佐賀藩ではただちに下目付小林伝内を派遣して諸国にその踪跡を捜査させ、数年後にようやく伊予国(愛媛県)砥部で捕らえて帰り、国法に処して有田・伊万里の通行路の鼓峠で晒首にし、国法の厳重であることを示したと伝えられます。
これより以前の万治年間(1658-61)加賀国(石川県)から後藤才次郎が来て陶法を探ったといわれ、1797年(寛政九)には会津(福島県)の佐藤伊兵衛が佐賀高伝寺の下男であると偽って有田に来て、青花白磁の焼成法を習得したことがありました。
また1801年(享和元)尾張瀬戸の加藤民吉が有田・三川内などを歴遊して磁法をことごとく探ったことがありました。
このような形勢に鑑みて佐賀藩は他国の陶商が産地に入ることを堅く禁止し、販売市場は伊万里の地に限りましたので、有田内外山の製品はほとんど伊万里を経て諸方に搬出され、世に伊万里焼と称されるようになりました。
【朝鮮輸出】1790年(寛政二)有田赤絵町の北島源吾は官許を得て対馬に渡航し、藩主宗氏の命で朝鮮需用陶磁器の専売を許され、有田代官の保護の下に対馬で受け渡しの契約を結び以来この事業を世襲しましたが、1871年(明治四)に制度が改革されて専売契約は廃止されました。
【名工】享和(1801-4)・文化(1804-18)の交に泉山に百田辰十という陶家がいて、窯積の改良を研究して従来の平積から天秤二段積の便法を工夫し、約二倍の品を焼成するようになり、斯業発展のうえに著しい功績を残しました。
文政から天保(1818-44)の間に有田の陶業が大いに発達して、産額が急に増加し、精巧な佳品を産出したのは、当時泉山に深海乙吉、上幸平に辻喜平次、大樽に田代半次郎、白川に南里嘉十のような著名な陶業者が輩出し、また赤絵町に今泉平兵衛がいて各技巧を競った結果にほかならないようです。
特に辻喜平次は極真焼を発明し、螢潔滋潤な製品をつくって一層有田焼の声価を増しました。
この頃が有田磁器の全盛時代であります。
「海外貿易」1842年(天保一三)有田の久富与次兵衛は公許を得て長崎でオランダ貿易を開始し、1860年(万延元)には田代紋左衛門もまたイギリス貿易を名義とした公許を得て長崎で開店しました。
1859年(安政六)横浜が開港され、1867年(慶応三)には兵庫港も開かれて磁器の輸出は激増し、深川栄左衛門が長崎・横浜で開店、田代もさらに横浜で開店しました。
1867年鍋島閑叟侯はフランス博覧会を機会に藩士佐野常民を主幹とした商人を派遣して、製品の紹介・需要の調査に当たらせました。
これが有田陶商の海外出店の始まりとされています。
「明治維新後」時の藩主閑叟は殖産興業に留意し、特に有田陶業のためには慶応(1865-8)から明治初年にわたって郡令百武兼貞に命じて大いに改良発展を図らせ、1869年(明治二)にはフランス絵具を得て帰朝した東京の瑞穂屋卯三郎を招き、また西山盛太郎・深海竹治・大塚為助・光武彦七の四人を東京へ派遣して服部杏圃のもとで西洋絵付法を習得させ、翌年にはドイツ人ワグネルを長崎から招聘して陶用絵具および石炭焼などを伝習させました。
コバルトおよびクロムの応用などはこの時から全国に普及しました。
同年また深川栄左衛門が電信用の碍子を試製しました。
1873年(同六)のオーストリア博覧会に際し有田の河原忠次郎はオーストリアに行って石膏型および錦付油塗法などを習得し、東京の勧業寮で各地の陶工らに伝授しました。
1875年(同八)深川栄左衛門らは香蘭社を設立し、1879年(同二一)深見墨之助らは同社から分かれて精磁会社を起こしました。
1877年(同一〇)から紙型絵付が行われ、’さらに1887年(同二〇)頃美濃風の銅版絵付が採用されました。
1892年(同二五)城島岩太郎が初めて尾張・美濃地方の石炭釉に倣ってこれを試用してからようやく一般にも使われ、旧来のイス灰は古風の製品に限られるようになりました。
明治末期からは石炭焼成と共に一間窯が多く用いられました。
1916年(大正五)泉山磁砿発見三百年記念のため磁祖李参平の頌徳碑が建てられた。
「現況」1970(昭和四五)年度における有田の状況をみますと、メーカー数117、従業員数7074人、年間生産金額104億4800万円。(『有田陶業史』『有田沿革史』『日本近世窯業史』『有田磁業史』)

About the author: Yoshihisa Tsuruta

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