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あ行 Archive

瞰・漱茶碗 うがいちゃわん

古代にうがい用の特定の茶碗があったかどうかは不詳。
後世には中国から渡来した天目茶碗がよく瞰茶碗に当てられたことが諸茶書に出ており、『東山御物内別帳』には唐の楊貴妃の瞰茶碗で坤寧殿と名付けたものを載せています。
朝鮮語では養歯器(ヤンジキ)といいます。
茶書によっては鵜飼茶碗などの字を当てていることもあります。

魚住焼 うおずみやき

播磨国明石郡中尾村(兵庫県明石市魚住町中尾)の産。
明治初年に西海音助か起こしたもので、器は赤焼の雑器。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

上村信吉 うえむらしんきち

尾張常滑の陶工。白鴎の孫。1814年(文化一一)に生まれた。
白鴎の作品を模造しついにその作風を悟り、非常に巧みで一見白鴎の作品と変わらないようです。
また水盤や植木鉢などに動物などの浮模様を付けることを創意し、便器の形を考案してつくり始めもしました。
陶信吉と銘が施されています。
1862年(文久二)4月3日武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)で客死、四十九歳。
(『常滑陶器誌』)

植松甚左衛門 うえまつじんざえもん

会津焼川南窯の創始者の一人。
岩代国大沼郡川南村大字上荒井新田(福島県大沼郡本郷町宮木)の人で、もとは会津若松藩の弓組の足軽であったが、栗城吉左衛門と共に本郷の三代水野瀬戸右衛門から陶法を学び、居村に瀬戸窯を築いました。
甚左衛門はスズ徳利を、吉左衛門は摺鉢を製しました。これが川南陶器のはじめであります。
(『日本近世窯業史』)

上野有竹 うえのゆうちく

明治・大正時代の茶人、藪内範庵門下。1846年(嘉永元)生まれ。名は理一、別号を清静庵といいます。丹波篠山(兵庫県多紀郡篠山町)の人。
村山竜平と共に大阪朝日新聞社を経営し、そのかたわら茶に親しんです。
1895年(明治二八)から東京で益田孝を中心に大師会という茶道グル一プの集まりが開かれたのに対し、関西でも大阪の実業家を中心に、京阪神の同好者が十八会という茶の湯の社交組織をつくって茶道の普及に尽くしましたが、上野有竹もその一員でありました。
また篠園会の一員として大阪茶道会に重きをなしました。
1919年(大正八)没、七十二歳。

ウエッジウッド・ジョサイア(WedgwoodJosiah) うえっじうっど・じょさいあ

イギリスの陶磁製造業者。1730年7月生まれ。家はスタッフォ一ドシャ一の中産階級で製陶業を営んでいました。
十歳の時天然痘にかかり右膝を痛め以後自分で製陶することをあきらめ、兄ト一マスの経営する製陶工場で製陶工業全般を観察しその改善に努めるようになりました。
当時イギリスは産業革命の影響を受けて人口が増加し、生活用品の需要は急速に拡大してきた。
そのため製陶業もこの需要に対応して、個人的工房生産から工場生産に改変されることが要求されるようになりました。
ウエッジウッドは率先して工房から工場への転換を試みようとしたが兄に同調されず、1758年独立して製陶業を経営し始めました。
彼はまず従来の個人の一貫作業に代えて分業を取り入れ、原料成分や継櫨を改良して量産が可能なようにしました。
また輸送面での損失を減らすために、新しい運河の開通にも努力しました。
次いで彼は数人の化学者たちとも接触をもつようになりました。
その中には酸素の発見者として有名な化学者プリ一ストリ一もいました。
彼はこれらの科学者たちから新しい発見やデ一タを得て、それを彼の製陶業に取り入れると共に、リバプ一ルの指導的企業家ベントリの知遇も得るようになりました。
こうして彼は絶えず素材と工程の改善に力を尽くし、その中へ当時の新しい科学の成果を十分に取り入れていきました。
分業、工場の合理的レイアウト、労働条件の改善が進められた。かくして有名なエトルリア工場が建設されました。やがてベントリも経営に参加しました。
1768年彼はロシア帝国派遣のイギリス大使用のセ。
卜を受注し、これによってロシア宮廷から大量の注文を受けるようになりました。
中には952個の陶器全部に違った風景デザインを要求するものもあったが、この問題は暗箱を利用して風景を写すことで解決しました。
彼はエトルリアの実験室で絶えず実験を進め、窯業技術を科学的に解決しようとしました。
その実験からのちにジャスパ一と名付けられた素材がつくりだされました。
硫酸バリウムを主成分とするものであります。
プリ一ストリ一は絶えずウェッジウッドと連絡をとりその研究成果を彼に伝えました。
1660年に創立された王立学会はイギリスの科学研究の中心的リ一ダ一であり、近代科学の発展に大きな役割を果たしたものであったが、汲の機関誌である『理学通報』にも、ウエッジウッドは論文を発表するようになり、粘土が温度の上昇につれて収縮する現象を利用した高温計は注目を集めました。
1783年には彼も会員に選ばれましました。
この前年にはワットの蒸気機関が導入されており、珪石の粉砕や絵具・原料土の調整に利用されるようになりました。
エトルリア工場は実用品・装飾品・人造宝石(ジャスパ一)などの部門に分けられ、1790年には約一六〇人の職工がいて分業組織で生産に従事しました。
これより先1772年には耐熱性の高い陶器でつくった多くの化学実験用の器具を載せたカタログが発行されました。
世界最初のものであります。
彼のもとには化学者たちから多様な実験器具の注文が集まり、それは同時にイギリスの科学を進歩させる役割をもっていました。
製陶業は純然たる化学工業にまで成長したのであります。
1773年当時のエトルリア工場のカタログによりますと、二〇種の製品があります。
その内容は 1)メダル一カメオ種り古代装飾品や現代美術をモデルとします。1787年までには1032種が用意されます。
2)レリ一フ型メダル装飾板=三〇〇種に増加予定。
3)メダル類=王・女王・古来の歴史的人物の肖像入、一〇〇種に増加予定。
4)古代ロ一マ史に取材した六個一組のメダル。
5)ロ一マ貨幣写しのメダル四〇種。
6)ケ一ザル像=サイズ四種。
7)メダル=史上有名な王五二人。
8)メダル=ロ一マ教皇像二五三種。
9)イギリス一フランスの国王および王妃像メダル=一〇二種。
10)現代名士肖像メダル。
11)胸像八〇種、動物像四〇種。
12)ランプ・燭台=大理石風・岩石風、ジャスパ一製。
13)紅茶・コ一ヒ一セット、各種食卓用容器=緑・黒・白・多彩・二色ジャスパ一。
14)花瓶・植木鉢。
15)テラコッタ古代型飾り壷。
16)レリ一フ付き岩石風の古代型飾り壷。
17)絵画焼付台・飾板。
18)壷・三足器類。
19)インクスタンド、絵具皿、化学・医学用器具。
20)高温用温度計 となっています。
ギリシア・ロ一マに取材した複製的デザインの多いことが特徴であり、この点をグラッドスト一ンは「ウェッジウッドは芸術と産業を結合するという重要な仕事に一生を捧げた。
彼はイギリスの工業の性格を変え、ギリシア芸術の美の精神を復興した」と評価しました。
ウェッジウッドはすぐれた化学者・物理学者を招いて1763年に陶磁研究所を開き、製陶技術を科学的合理性で裏付けることに最後まで力を注いです。
進化論の創始者として有名なチャ一ルズ一ダ一ウィンの祖父の科学者エラスムス一ダ一ウィンは、1780年にベントリが死んだのちは最大の親友でありました。
1795年1月、六十四歳で彼は没したが、ダ一ウィンはその最期にも立ち会った程でありました。
彼は製陶業を一個の工業とし、その製造技術を新しい科学を導入することで合理化した最初の人であり、それはイギリスの産業革命の一端でもありました。

上田宗品 うえだそうほん

奈良風炉師の一人で、窯は奈良に近い京都府相楽郡木津町上梅谷にありました。
箱書には梅谷焼とありその肩書には南都風炉師とあります。
雲華焼を得意とし、遺品に風炉・釜・手焙・火入・灰器・蓋置などがあります。
大小数種の「宗品」印があり、また必良斎と号したので「必良斎」印も用いました。
1769年(明和六)没。墓は上梅谷の心楽寺にあります。

上田暦手 うえだこよみで

名物。
朝鮮茶碗、古三島。上田は元の所持者の名らしいがどういう人であるか不明。
釉色は美麗で暦手の模様が鮮明であります。
小服三島茶碗の秀逸といわれています。
上田某から姫路藩主酒井家に伝来し、現在は根津美術館所蔵。
(『大正名器鑑』)

上田元作 うえだげんさく

肥後国天草島高浜(熊本県天草郡天草町高浜)の製磁家。
同地の高浜焼は宝暦年間(1751-64)またはそれ以前に長崎奉行の手で始められたが間もなく廃窯となり、そのあとを受けて経営したのが上田家であろうと推定されています。
こうして子孫が業を伝え明治の頃まで継続しました。
なお1804年(文化元)に加藤民吉が磁法を学ぶため九州に来てまず元作の下で職工となったが、釉法を伝授されないため去り、1807年(同四)再び来訪してかつての無礼を詫びたが、元作は少しも気にせずかえって自分自身で磁器の調合法を筆記して贈ったと伝えられています。
(『瀬戸陶業史』『日本近世窯業史』)

上田吉右衛門 うえだきちえもん

和泉国(大阪府)湊焼の陶工。
延宝年間(1673-81)雑種の土器や焼塩を製してこの地の産物にしたといわれています。
※みなとやき

上杉瓢箪 うえすぎひょうたん

大名物。漢作瓢箪茶入。一名を大友瓢箪。上杉景勝が愛蔵していたのでこの名かあります。
またこの別名は大友宗麟が所持していたのによる。天下六瓢箪の随一と称され名物茶入中最小のものです。
薄手の精巧な作りで形はやや口瓢箪に類しています。
柿金気釉の中に共色の釉の抜け紋があり、その上に黒味勝ちの飴色釉が鶴斑をなし、置形は口縁から肩にかけて黒飴釉が濃くなだれて景色をつくっています。
この飴色柿釉の変化の妙と火間のかもしだす美しい景色は、松平不昧の油屋肩衝と並び称されます。
もと足利義政が所持、珠光・紹鴎を経て大内義隆に伝わりその義子義長が所持しました。義長は大友宗麟の弟であります。
1557年(弘治三)毛利元就が大内氏を攻めた時、宗麟に使いを遣わして弟義長を助けるべきかどうかと申し送ってきたのに対し、宗麟は弟は殺してもよいがただその所持している瓢箪茶入は欲しいと答えました。
元就は義長を殺しこの茶入を宗麟に送った。
宗麟の子義統は九州征伐の豊臣秀吉に媚びてこれを献上し、のちに上杉景勝が拝領しました。
それ以後定勝の時まで五十年間上杉家にあったが、定勝の死後綱勝が家を継ぐに当たりこれを幕府に献上しました。
その後一時加賀の前田家に移ったが再び幕府に還り、さらに紀伊大納言頼宣が隠居の際にこれを拝領して以来紀州家に伝来し、1927年(昭和二)同家入札の際は三万五千九百六十円でありました。
(『大正名器鑑』)

植木焼 うえきやき

三重県に産したやきものです。明治初年植木丸太夫の創始にかかります。
(『日本諸国窯一覧』)

植木鉢 うえきばち

釉の掛からない気孔を有する素地のものか多く、普通赤色のものでありますが、観葉植物の植木鉢には呉須その他で図案し模様を施し、透明釉を施したものが用いられています。
素地色は白色で気孔のある陶器質。
盆栽に用いられる鉢は別に盆栽鉢と呼ばれて、中国製の鉢に模したものが多く、朱泥焼・黒泥焼などの素地焼締物が多いが、これに次ぐものは海鼠釉を施したもの、絵付を施した施釉のもの、青磁釉・黒釉その他を施したものなどがみられます。
形も用途に応じてさまざまで、丸形・楕円形・正方形・長方形などがあり、深型・中深・浅型・極浅型・皿鉢があり、特大のものから豆盆栽鉢まであり、まれには極彩色の上絵付を施したもの、黒楽焼のものなどがあります。

植木清兵衛 うえきせいべえ

但馬国(兵庫県)の陶工。
養父郡八鹿村神田山(八鹿町)で日用雑器を製していたらしい。
(『大成陶誌』)

植木鹿蔵 うえきしかぞう

愛媛県伊予郡郡中町(伊予市)の陶工。
※こうざんやき

ウィ一ン磁器 うぃ一んじき

ヨ一ロッパ第二の磁器工場で、1716年オ一ストリアの首都ウィ一ンに建設されました。
技術はドイツのマイセンから導入され、べッガ一時代のマイセンの職長が来たこともあって、ウィ一ン磁器の質は最初から良好でありました。したがってその製品もマイセン風であります。
十八世紀の末にはまたイギリスのウエごソウッドの影響を受けた製品を出しました。
(Savage,G.rporcelainjWeis,G.IfUllstein Porzellbuchj)

孟 う

碗の類。
最初は飯器であったが酒器にも用いられました。
多くは円形で素文でありますが、方形で耳足を有し装飾のあるものもあります。
高さ7、8センチ、直径16、7センチのものが普通であります。
(『西清古鑑』)

飲流斎説菜 いんりゅうさいせつじ

中国陶書の一つ。著者は許之衡守白、二巻。
『陶.説』『景徳鎮陶録』『萄雅』のあとを受けてこれを整理・大成したもので、内容は『萄雅』とはば同じでありますが、叙述が簡明でしかも組織的であるのが特色の一つで、また清朝の陶磁器を詳述しているのがその第二の特色であります。

印紋陶 いんもんとう

字義からいえば型押し文のある陶器ということでこの定義に該当する作例は東西に少なくないようです。
しかしこの呼び名が主として用いられたのは、中国の上代に各地でつくられた叩き目のある陶壷腰で・、現在印紋陶といえばそれらを指すのが普通であります。
中国では殿の灰釉陶や灰陶にすでに叩き目のある作品が多く、初めは器形を調整するために付けられた叩き目が次第に文様としての性格を強めてゆくようになります。
中でも揚子江流域の漸江・江蘇一帯で周未から漠初にかけて盛んにつくられた焼締めの灰白色陶には、方格文・菱形文・羽状文などの細密な印紋が印されていて、印紋陶の代表のようにみられています。

隠紋 いんもん

釉ひび。開片・釉豊・貫入・貫乳みな同義。

インペリアル・イエロ一 いんぺりある・いえろ一

中国磁器に盛んに用いられた濃い黄色に対するイギリス人の称呼。
おそらく黄色は清朝皇室の色でありましたのだろう。

伊部焼 いんべやき

備前国(岡山県)の妬器。備前市伊部で産し、声部焼・印部焼とも記し、一般には備前焼と呼びます。
【沿革】備前の地で土器を製出したのは古いが、備前焼としての起こりは鎌倉時代で、当初の害窯は熊山山腹にありましたが、のち今の伊部付近で焼くようになりましました。
始まりは応永年間(1394-1428)とされ、当時伊部には三窯あって、碑原山下にあるものを南窯と呼び、不老山下のものを北窯といい、育王山畔のものを西窯と称し、水喪・種壷・種浸壷などの農具を製しました。
窯は大窯でいずれも長さ35メ一トル程、横幅4.5メ一トル程あり、一窯に器物三万四、五千個を入れ、薪材54.5トンを用いて三十余日間間断なく焼成したといわれます。
その後花瓶・酒壕などをつくり、天正年間(1573-92)になってこの業が大いに進み、初めて茶壷をつくりまた茶碗や置物なども製出しました。後世これ以前を古備前と称しました。
その後特に明和・安永(1764-8)こ頃から天明・寛政(1781-1801)の間は最も隆盛を極め、備前の特色とする火簿.(紅条の斑紋が束縛するように器物の表面に現われたのをいい、質は白土で全体が無知である)の類から、精巧で青色を帯びたいわゆる青伊部または青備前と称する良品を製出したが、1832年(天保三)に大窯を廃止して長さ約16メ一トル、横幅約4メ一トルの小窯に改築してから品質が急に衰えたといわれます。
昔の伊部焼は大饗・木村・森・寺見・金重・頓宮の六姓で業を世襲し、四十六家に制限していましました。
その後明治維新となりますます衰寮したが、1878年(明治一一)に同地に伊部陶器株式会社ができてもっぱら土管を製造し、1896年(同二九)には備前陶器株式会社が創設されて盛んに耐火煉瓦や装飾用陶磁器類誌製出したが、同地固有のいわゆる備前焼は衰微して振わなかりましました。
しかし伊部の原料は非常に微細な分子から成り、含有する酸化鉄分が多くて耐火度が低いとはいえ焼き上げたものは質が非常に緻密堅硬となり、他の地方では容易に模倣できない逸品をつくり得るため、貞観(859-77) ・延善(901-23)頃から本陶器を践詐大嘗祭の神器に当ててきたといいます。
1928年(昭和三)11月に行なわれた御大礼の御調度晶として伊部焼瓶子調製方を同町木村兵次が命じられた。
【製品】品質は妬器に属し、品種は茶壷・茶碗・酒壕・摺鉢から偶像その他動物類の置物などを得意として、巨大なものが少なくないが、現在の技術は昔のものには及ばないようです。
古風の備前焼は無私の焼締めから発達して雅趣ある自然の景留などを特色としたが、のち和英などを用い始めてかえって無趣味に陥りましました。
今に伝存する備前焼は古くても茶用の水指に見立てられた種壷・種浸童などであります。種壷の口はたいてい肇の入る広さで、肩に二つまたは四つの耳があります。この耳が飾りだけで紐の通らないようなものは後世の作であります。種浸壷は種壷よりも大きく胴に膨らみがあって肩には耳はないようです。耳のあるものは後世特に茶壷としてつくらせたものであります。
のち天正(1573-92)頃から茶器を焼出し南蛮物を模したが、それほど剛壁の質ではなく畳付にも南蛮はどの落ち着きはないようです。
当時の備前焼は豊臣秀吉の保謹を受けて発達し、名工も多くいて後世これを吉備前と称しました。
吉備前の特色としては、土は紫土でそれに火棒と松葉焦げと榎肌の三種が現われています。
火律は元来藁の焼けた痕で不規則なおもしろ味がありますが、後世の人工的なものは模様が規則的でおおむね白土であります。
松葉焦げも松葉の焦げた自然の痕の乱れ模様でありますが、後世の人工的なものは雅趣に乏しい。
吉備前の榎肌はまれなもので、火焔が間接に当たりました所が蒼黄色に変化したものであります。
伊部手とは塗り土をしたのが釉状に光沢を出したもので、室町末期から始まるが、のちには紫土に胡麻和が掛かって榎肌のような色合いを呈したものを特に伊部焼といい、赤土で薄釉の掛かりましたもの、あるいは飴釉・蒼釉のものなどを備前焼と呼び分けるようになりましました。
寛永年間(1824-44)の池田侯の入国以来、細工御用達の制が設けられ、それ以後人物鳥獣などの置物細工が流行しました。天正年代の窯印とその工人らを詠んだ歌に「井は古し、松葉正玄、丁新兵衛、丸は宗伯、十は茂右衛門」などがあります。
【原料】背から二種あります。
一つは伊部土で、帯黄灰色を呈し細砂および豆粒大の石粒を混ぜたものです。
他は磯ノ上の粘土で、伊部から8キロ余り離れた邑久郡磯ノ上村(長船町磯上)の畑地から採掘し、鼠色の粗砂を少ししか含まないものであります。
製法には特殊な方法はなく、一般製造法と異ならないようです。
(『古伊部神伝録』『陶器考付録』『本朝陶器故証』『伊部陶誌』『日本近世窯業史』『北村弥一郎窯業全集』『備前窯陶誌』『日本窯業大観』) ※びぜんやき※こびぜん

伊部焼 伊部焼 伊部焼

忌蓋 いんべ

→いわいぺどき(祝部土器)

印杯 いんばい

水塊きした素地を土型に当てて直すこと。
(『帝国窯業調査報告』)

印河合 いんでいごう

肉池。印宋盆。
※いんしゅごう

影青 インチン

白色半透明の薄い磁胎に淡青色の透明釉を施したもので、その釉が肌に刻まれた画花・陰花などの文様部に溜まって他よりも青くみえるので、中国ではこれをインチン(影青の漢音)と呼んです。
近頃では青白磁と呼び慣わしているが、これは中国と欧米で青白-チンパイと称するようになりましたのでそれに応じたものであります。
昔は伝世遺品が少なかりましたので菜学者の注意をひかなかりましたが、のちに中国各地から出土したのをはじめ、朝鮮高麗朝の古墳やわが国の経塚遺跡、さらに南海・オリエントの無数の遺跡から出土して、その分布が世界的な規模に達していること、作品に優秀なものが多いことから一躍その名を高からしめました。
そのインチンが大量につくられたのは宋・元の時代で、主産地は江西省浮梁県の景徳鎮窯であります。
しかし江南の江西・福建・広東の諸省では、早くから灰釉の還元焔焼成による青白磁風の宝器がつくられており、より古いインチンの存在も考えられるし、またその道品には精粗さまざまの類別があるところから、景徳鋲以外にも産窯のありましたことが推測されます。
インチンの器種ははなはだ多様で、花瓶・水注・香炉・瓶子の類から鉢・皿・碗・盃・合子に至るまでつくられぬものはない程であります。
上等品の場合、細緻な磁土で薄い胎をつくり文様を彫琢し、微量の鉄分を含んだ灰紬を掛けて還元煩で焼いています。
この類は日にかざすと胎が透けて見えることが多いようです。
時代が降るにつれて券胎は厚手になり、文様を型押しにしたもの、あるいは貼り付けやイッチンによりましたもの、ビ一ズ珠のような連珠堆緑を貼り付けて文様としたものなど、施文法にも変化が出てきます。
そしてその末に青花白磁、いわゆる染付が現われることになるのであります。

飲中八仙 いんちゅうはっせん

陶器文様。杜甫の詩に飲中八仙を詠んだものがあります。
八仙は賀知章・汝陽王堪・李適之・雀宗之・蘇晋・李白・張旭・焦遂の八人であります。
中国清朝康熊年代(1662一1722)の酒器には飲中八仙を措いたものが多く、その小さなものは官窯の作品で、画筆は生動し色彩もまた精美であるが極めて得難い。その高さが数寸のものはどれも民窯の製品であります。
インチュハップ印宋盆を意味する朝鮮語。
※いんしゅごう

印池 いんち

内地。印朱盆。
※いんしゅどう

インダス文明の土器 いんだすぷんめいのどき

西パキスタンからインド西北部にわたるインダス河流域には、紀元前三千年から同千七百年にわたる古代文明が開けていましました。
その中でもモヘンジョ・ダロ(シンド地方)、ハラッパ一(パンジャ一プ地方)の都市遺跡は特に有名であります。
これらの都市の家屋は規格的に生産された煉瓦で築かれ、排水設備などにも陶管などの陶製晶が多く用いられた。
生活用晶にも尖底壷・皿・盃などの土器がみられるが、彩文土器もつくられています。
成形には廃墟が用いられ、赤地に黒の細密な文様が付けられています。
文様の多くは器物の表面をバンドで区切り、その中に孔雀・山羊などや植物を配したもの、あるいは幾何学文が描かれています。
そのほか有名なのはテラコッタ製の小像で、人物像をはじめ草などの模型もあります。
人物像は男女それぞれの特徴を強調した表現であり、模型とあいまって儀礼用具でありましました。
この種のテラコッタ小像は、のちの歴史時代の遺跡からも多く出土します。

隈青 いんせい

影青に似ているがこれとは別の一種で、菜質が非常に厚く一面に青色の離花を現わしたものです。
離花のあとかすかに青色を施し、さらにその上に釉汁を掛けたもので、その製造は中国明代に始まりましたといわれています。
(『飲流斎説簑』)

困清 いんせい

モ一ス・コレクションの中にこの銘があります。モ一スはこれを瀬戸の産と推定しています。
(『日本陶器目録』)

印色池 いんしょくち

肉池。印朱盆。
※いんしゅごう

印朱盆 いんしゅごう

肉池。印食、印色池、印池、印泥合。
中国における陶磁製の有名なものに、官苛窯の方形のものや、八角委角(撫で角)のもの、定窯の印花文のある方形のものがあります。
『考輿余事』に「諸の玩器は玉や~蛮に勝れるもただ印朱盆のみは束を似て佳とす」とあり、朝鮮語ではインチュハップといいます。
朝鮮・日本ともにおおむね中国産の玉石類を尊ぶので、特種の佳品がないようです。
(『考輿余事』『景徳鎮陶録』『陶説』『朝鮮陶磁名考』)

印刷絵付 いんさつえつけ

同一の模様を大量に製造するのに利用する絵付法。直接印刷と転写印刷とがあります。
直接印刷は瓶・コップのような円筒形のものや平面の製品に、絵具を印刷給付用の油(スキ一ジ・オイル)で練りましたもので模様を印刷する方法であります。
転写印刷は特殊な薄い紙にデヰストリンの帝い膜をつくり、その上に石版印刷またはスクリ一ン印刷法で多色の模様を刷って転写紙をつくり、その転写紙を陶磁器に二スで貼り付け、水に浸すとデキストリンが溶けて紙がはがれ模様のみが残り、乾燥後焼成する給付法。
またスライド転写といって模様を印刷した上から合成樹脂の膜をかけ、転写紙を水に濡らすと模様がその膜と共に紙よりはがれ、この模様の付いた膜を陶磁器面に貼り付け焼成する方法もあります。

印作 いんさく

中国景徳鎮における二十三作の一つで、型物をつくる工場であります。

艶寄緑 いんこみどり

→おうかりょく(鶉寄線)

印金 いんごう

肉池。印朱盆。
※いんしゅごう

隈元 いんげん

安芸国(広島県)厳島神社の別当である大聖護院の住職敬澄が隈元と称しました。
嘉永年間(1848-54)京工を呼んで同地の神妙焼を継いだが、間もなく中止したといわれます。
(『日本近世窯業史』)

インク試験 いんくしけん

碍子および硬質陶器素地の吸水性の有無を知るための試験方法で、一般にはフクシンテストともいいます。
フクシン染料のアルコ一ル五パ一セント溶液中に試験体の破片を一定時間浸したのち、またオ一トクレ一ブ中で数気圧から数十気圧の圧力を加えて素地中への染料の浸透の有無を調べる。
(『窯業辞典』)

隠居山窯 いんきょやまがま

菖蒲窯ともいいます。岐阜県土岐市泉町久尻の古窯。
明治初年岡地に清安寺の住職の隠居所がありましたためこの名が出た。

因久山焼 いんきゅうざんやき

鳥取県八東郡郡家町久能寺の陶器。その窯名は因幡久能寺の冠字によるもので、別に久能寺焼の称もあります。
寛政年間(1789-1801)に京都の陶工六兵衛がこの地に来て尾崎次郎右衛門・芦沢与兵衛に御室焼の陶法を授けたのに始まり、その後宇和・文化.(1801-18)の頃近江信楽の陶工勘蔵が釆て陶業を始め、その子勘助もこの業を継いで文政(1818-30)の初めには陶家四声をみるに至りましました。
幕末・明治の変革に際して一時衰退をきたし、1885年(明治一八)の頃には尾崎・芦沢の両家だけとなりましました。なおモ一スは「因久山勘」の銘のあるものは特に高価だとしています。
製品には茶の湯用の器が多く京都製に近い。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本陶器目録』『困久山焼由来記』)

印器 いんき

印花(押印文)を施した器。
※いんか

印花 いんか

型押模様。押印文。雲鶴などがこれであります。

磐余野手 いわれので

金華山茶入の一手。土屋相模守所持の銘磐余野が本歌であります。
口が開き捻り返しは浅く、髄の中程がくびれ、肩は席状で、金華山窯中で別に一手をなす。
広沢手に似ているが、そのやや角張っているのに対してふっくらした味があります。
(『茶入弁解』)

磐余野 いわれの

中興名物。金華山茶入、.磐余野手本歌。
出来もよく麗しいが、少し寂しい風情があって何となくしっぽりとみえるので、「萩が花たれにか見せむ鶉なく磐余野のべの秋の夕ぐれ」の歌に因んで小堀遠州が銘を付けた。
総体に柿金気色で末日が現われ黒なだれが景色を呈しています。
土屋相模守が所持、その後島原藩主松平主殿頭、佐倉藩主堀田相模守を経て寛政(1789-1801)の頃松平不味の所有となり、以来雲州松平家に伝来。
(『茶器名物図彙』『大正名器鑑』)

岩屋川内 いわやがわち

肥前国(佐賀県)有田皿山の一隅を占める地。鍋島洋犬川内窯の前身で高原五郎七がこの地で開窯。
近来になって.「御細工屋」という窯跡を発見しました。なお岩屋川内の絶壁の上からは柿右衛門の特色ともいえる乳白磁器の原石が出たらしい。
(塩田力蔵)

岩村物産 いわむらぶっさん

天保.(1834-44)の頃から美濃国(岐阜県)恵那郡岩村藩が専売した駄知産陶券。
ここの陶器は1804年(文化元)に塚本源右衛門が始めたもので、1830年(天保元)岩村藩主松平能登守がこれを陶商長谷川平七に専売させ、それに岩村物産の名を付けた。
当時は非常に盛んで工人も多数いたが、磁器が盛んになるにつれて次第に製磁業に転向し、1885年(明治一八)当時にはわずか七戸になりましました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

岩松平吾 いわまつへいこ

肥前有田上幸平の窯家。
膳付物食器および茶器をつくり、それらの素地着画の意匠などにすぐれていましました。
事業に長じ信用があり、晩年業を子に譲り、有田泉山磁石場の監督に当たって古来乱掘にまかされていた坑区を整理して面目を一新しました。
1890年(明治二三)7月没、六十四歳。
各山の窯家がその功績を記念するため泉山磁石場に石碑を建てたPその子孫は大正の頃経営が振わずついに廃業。
(寺内信一) いわみやき(石見焼) 石見国(島根県) 邁摩・都賀・美濃の三部(一部江津市・浜田市・益田市となる)から産出するやきものの絵称。
都賀郡では長浜村(浜田市長浜町)の永見房造(享保二刀文年間、1716-四こ、江津町(江津市)の森田某1763、宝暦一三年)、和木村(江津市和木)の尾川古四郎(一八五入、安政五年)、神主村(江津市神主)の官金原兼太郎(文化年間、1804-18) ・山藤儀三郎(1766、明和三年)二二沢治八(弘化年間、1844一八)、嘉久志村(江津市嘉久志)の山形米三郎(1844、弘化元年)、美濃部では白上村(益田市白上)の野田元蔵(1860、万延元年) ら、木部村(益田市木部)の丸田梅太二859、安政六年)、亭阿弥村(益田市睾阿弥)の吹金原国蔵(1854、安改元年)、藩摩郡では小浜村(温泉津町小浜)の松村寛之助(宝永年間、1704-11)、温泉津村(温泉津町)の森山理一郎(宝永年間) ら、松代村(大田市久利町松代)の石田嘉三郎(1848、嘉永元年)、その他明治年間から開業した者が多数あり、l903年(明治三六) 組合を創設、次いで組合模範工場を江津村と温泉津町に設け、さらに1909年(同四二)には石見村(邑智郡石見町)にその工場を移し信楽・岐阜・京都から教師を招いて事業の発展を図りましました。
1926年(昭和元)の統計によると石見焼の年産額は五十万円を越していたといわれ、中でも都賀郡が首位で、もっぱら日用の粗陶器を製造しました。1947、八年(同二二、三)をピ一クに漸減し今日に至る。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本近世窯業史』『北村弥一郎窯業全集』)

岩松三郎右衛門 いわまつさぶろうえもん

肥前有田の製陶家。
天保(1830-44)の初めに良好な磁器を製出していたといいます。
岩松平吾はその子孫。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

岩船焼 いわふねやき

出雲国能義郡飯梨村岩船(島根県安来市飯梨町)の産。
1866年(慶応二)頃の創始。1875、六年(明治八、九)頃広瀬藩知事松平篤郎が所有して東隣山と号し、土器のほかに白磁染付物を出していましました。
1881年(明治一四)母里村(能義郡伯太町母里)の稲田亀吉がこれを継承して業務はにわかに隆盛となり、愛知県から井上吉兵衛らの工人を招いて、従来の磁器を中止し妬器・土器を製出しました。
1891年(同二四)頃廃絶。
(『出雲陶窯』)

岩藤 いわふじ

名物。金華山茶入、生海鼠手。銘は茶入の景色によるものであるでしょう。
肩先の光沢が美しい黒釉中に青瑠璃色がひそんで見事であります。岩崎家にありましたが伝来は不詳。
(『大正名器鑑』)

岩波享山 いわなみきざん

信濃国(長野県)諏訪の素人陶工。モ一スは「雪散や岩波睾山、茶道を好み1840年(天保一こ偶々諏訪にありし吉左衛門に楽焼を学び、同年その地に小窯を築き茶器を出す。
(雪散や)または(陶変造)の銘あり。
(雪散や)は彼の住居の称にして陶里は彼の雅号なり」と述べています。
一書には睾全とあるがどちらが正しいか不詳。
(『日本陶器目録』『日本陶工伝』) ※ゆきちるや

岩浪 いわなみ

名物。真申古茶入、患河手。銘は『千載集』神祇歌皇太后宮大夫俊成「きふね川玉ちる瀬々の岩浪に氷をくだく秋の夜の月」の歌意に因む。
朽木沢翁が所持、のちに姫路酒井家に転伝しました。
(『大正名器鑑』)

岩永幸一 いわながこういち

肥前国藤津郡八本木村(佐賀県鹿島市)浜山窯の陶工。
窯の創始は詳かでないが、岩永幸一は1862年(文久二)その業を継ぎ、肥後国(熊本県)天草郡深江の原石を用いたといわれます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

巌手焼 いわてやき

陸中国(岩手県)の陶器。明治末期の創業で、技術は尾張常滑から伝習したものです。器は朱泥が多いようです。

岩月捨吉 いわつきすてきち

陶画工。近江国(滋賀県)彦根の人で、1857年(安政四)藩窯湖東焼の御抱え稽古人となり、幹山伝七から陶画を学んです。廃窯後伝七と共に京都に移りその工場に入って絵付に従事。
その作品は非常に優雅で、特に御所物と称し有職模様が巧みで、宮内省御用品中染付模様は主として岩吾が描いたといわれます。幹山の会社の廃止後は陶磁器の貿易に従事し、のちに小売店を始めました。1918年(大正七)8月21日没、七十四歳。
(『湖東焼之研究』)

岩谷焼 いわたにやき

備後国深津郡引野村字岩谷(広島県福山市引野町)の陶磁器。引野焼ともいわれます。
1818年(文政元)福山藩士浜野徳蔵の子源吉および元掛方三島屋徳右衛門らの創窯にかかり、陶器・磁器ともに焼き主に日用雑器ではありましたが、特に鞠(同市鞘町)の保命酒徳利を多く焼いましました。
いわゆる輌焼の色絵撫角徳利も素地はこの岩谷焼の製で、これを鞠の中村生玉堂の上絵窯で給付したものであります。1900年(明治三三)頃に廃窯。

岩田錫吉 いわたすずきち

→とうさい(桃斎)

磐瀬山呉器 いわせやまごき

名物。朝鮮茶碗、錐五器。磐瀬山は竜田川の東傍にあって万葉の頃からすでに歌枕となっていた名所で、この茶碗の淡紅色と背馳なだれを竜田川に相対する磐瀬山の薄紅色になぞらえて小堀遠州が銘としたといわれます。
遠州旧蔵、その後和田晋兵衛、高橋寄席、熊沢一衛と転伝しました。
(『大正名器鑑』)

不言 いわず

名物。国焼茶碗、信楽、新兵衛作。銘は「桃李不言下自成膜」の語によるものだろう。
焼締まりました出来で箆づくりの見事な茶碗であります。馬越家所蔵。
(『大正名器鑑』)

岩越 いわこし

モ一ス・コレクションの中にこの銘があります。
モ一スはこれを天保(1830-44)の頃石見国(島根県)で産したものと推定しています。
いわしまかくべえ(岩島角兵衛)美濃国土岐郡稲津村小里窯(岐阜県瑞浪市稲津町小里、別称稲津焼)を始めた人。
元禄年間(1688-1704)の創業でありましたが、その子孫の代になっていつしか中絶したといわれます。
(『岐阜県産業史』)

岩倉焼 いわくらやき

山城国愛宕郡岩倉(京都市左京区)の陶器。その創始者は仁清の門人と伝えられ、色絵のほかに錆絵・染付もあり、岩倉の印を用いています。
また岩倉山の印のあるものをみるが、これは栗田の陶工錦光山が用いた印であります。なお一書にはこれを宝暦年間(1751-64)の岩倉山鉾屋吉兵衛の所製としています。
(『観古図説』『陶器類集』)

岩倉山 いわくらさん

京都の陶工。初代がどういう人でありましたか明らかでないが、岩倉山こと銭屋吉兵衛は1756年(宝暦六)三文字屋九右衛門の子孫が衰微したため、錦光山吉兵衛と共に代わって徳川将軍家の御茶碗師となり、栗田額三条通東町(東山区)に住んです。
子孫のうち文政・天保(1818-44)頃の吉兵衛は名手でありましたといわれます。
なお仁清の窯跡の一っとして左京区岩倉の地も数亀えられるが、岩倉山の祖先はここから出たのではないかという説があります。
(『観古図説』『日本陶器目録』)

岩国焼 いわくにやき

周防国(山口県)岩国の陶器。
1700年(元禄一三)岩国藩主吉川侯が京都の陶工西村安兵衛を招いて付近の多田村(岩国市)に開窯させたのに始まり、同村の河田清八も安兵衛に陶法を学んで製陶に従りましました。
文政年間(1818-30)に至り白井久兵衛が新たに同地に窯を築いて業を継いだがのち廃窯されました。
一に多田焼ともいわれ、銘の一つに「岩国多田」の扇面印があります。
また楽焼風の軟陶に「岩国山」印のものがありますが、これは1832年(天保三)吉川侯に招かれて岩国町川西(岩国市)に築窯し、1837年(同八)まで製陶して楽焼風の佳品を遺した吉向行阿の作に「岩国山」銘のものがある点から、吉向の影響を受けて前記川西の窯で焼かれたものかとみられます。
岩国吉向焼では主に「十三軒」印が使われています。
※きっこうやき

磐城焼 いわきやき

『陶器考付録』に磐城焼とあります。相馬焼の別名。
※そうまやき

岩城文琳 いわきぷんりん

中興名物。湊作文琳茶入、一名上天文琳。岩城貞隆が所持していたのでこの名があります。
景色の変化は比類がなく、形状・釉色ともにすぐれて文琳申の秀逸と称されています。
江戸時代初期に伊達侯の所蔵となり、1916年(大正五)の同家の亮立では五万六千円で坂本家に落札し、1921年(同十)の同家の売立では十二万八千円でありましました。
(『古今名物類衆』『麟鳳亀龍』『大正名器鑑』『道具移動史』)

巌焼 いわおやき

モ一スは巌焼の項を設けてその沿革ほ詳かでないと記しているが、これは石見国(島根県) 永見焼のことであります。
(『日本陶器目録』) ※ながみやき

岩尾兼太郎 いわおけんたろう

明治初年の有田焼の陶工。岩尾兼太郎の家は二百数十年前の創業で、特に製品は精巧で値を安くすることに努めたらしい。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

祝部土器 いわいべどき

須恵器の旧称。須恵器は江戸時代以来茶人の間で行基焼と呼ばれ、また木内石亭ほこれを曲玉壷と名付けた。
しかし明治に入って若林勝邦・坪井正五郎らが祝部土器の名称を用い始めるとこれがl般化し、長期にわたって支配的な呼称となりましました。
その後祝部土器の名称が不当であることを指摘しこれに別の名称を与えた人もありましたが、いずれも効果がなかりましました。
やがて昭和に入り、後藤守一は祝部土器の名称を否定し須恵器と呼ぶことを積極的に主張しました。
その主たる理由は、祝部とは祭祀に仕える都民のことで、本来この文字は「はふりぺ」と訓むべきであるという点にありましました。
またこの種の土器が祭祀晶としてだけではなく日常容器としても盛んに用いられていることから、斎宝・厳宝と書いて「いはひぺ」と呼称することも不当であるとしました。
祝部土器の名称は一部で第二次大戦後まで用いられていたが、近年これに代わってようやく須恵器の名称が普遍化しました。
なお須恵器の別称としては前記の名称のほかに、祝轟・朝鮮土器・斎轟土器・陶器・陶質土器などがありましました。

岩 いわ

銘款。
※いわまつへいご

色見 いろみ

窯中の焼き加減をみる試験棟本。
焼成に当たって器物に過不足のない適当な熱度を与えることは最も必要でかつ至難なことで、窯業者が一様に難関とするところであります。
そのため窯内の適当な個所に焼成晶と同質で、鉄棒で容易に取り出せるような小器物を入れて置き、適当な時期に取り出して製品が適当な焼成火度に達しているかどうかをみるが、この試験的小物品を色見といいます。
ドイツのゼ一ゲルとその共同研究者たちによるゼ一ゲル錐はこの一種で、耐火粘土に植え付けて色見孔から見えるところに置いておくと、所定の温度になると軟化して倒れるのでそれによって温度を推定することができる。
各種の原料を混合してつくってあるため、焼成の際の付随条件例えば温度を上げる速さ、窯内ガスの特性、熱効果など同様の効果が錐に与えられるので、これによって器物の焼成状態がよくわかり、最近ではこれを併用するものが多いようです。
※ゼ一ゲルすいいろみあな(色見孔)焼成中の窯円状態を知るための色見を取り出す孔。
位置や個数は窯の状況によって異なります。また色見を用いず単に案内の火色を覗いてその温度を判定することもあり、その孔も色見孔といいます。

色備前 いろぴぜん

→いろえびぜん(色絵備前)

色鍋島 いろなべしま

色絵鍋島ともいいます。肥前国佐賀藩鍋島侯の御用窯である西松浦郡大川内窯(伊万里市大川内町)のいわゆる鍋島焼の色絵物で、鍋島焼の主眼。
古九谷の古拙放胆、柿右衛門の絢爛清酒と並んで江戸時代の磁器申の精華といわれます。
それが特に珍重されたのは、明治維新まで鍋島侯の御用晶として民間に出されず私用を禁じられていたことにもよるが、特に洗辞された技術によって極めて精巧につくられていることによる。
【色鍋島の鑑賞】一定の形式を具えた皿が最も普通で、素地は形状が極めて正確でいささかの狂いもなく、斑点・舵はほとんどないようです。
絵付は非常に精巧で労力を惜しまずに措かれ、御用窯の製品だからこそ可能な結構さを示しています。
図案もまた優秀で色の調和がよく具わり、落ち着いた重みのある上品な気分を遺憾なく現わして、巧妙熟練の極を尽くした描線の美しさと共に他が企及し得ない妙味を誇っています。
皿の形と曲面とには独自の点があり、図案では中国・朝鮮の影響から脱して純日本趣味を現わし、これに比肩し得るものとしてはわずかに仁清があるに過ぎないようです。
そして皿の曲面と模様とはぴりましたり調和していいようのない軟かな優雅さを出しています。
製作には極めて細心の注意を払い数回に及ぶ厳重な検査があります。
まず染付の素地を検査して合格品だけを藩に納め、残りの不合格品は残らず破砕しました。
検査の役人の中には役得としてこれらの不合格品をひそかに着服した者があり、その一部は民間に密売をれたが、それらのなかに極めて優秀なものはなかりましたことはいうまでもないようです。
色鍋島の優秀なものが製作されたのは江戸文化がようやく爛熟した時代で、当時の絢爛豪華しかも高雅を失わない好みはよくその作品に現われ、鍋島の優雅な形状・模様を通じて元禄から享保(1688-1736)の頃の世相風俗を如実に看取することができる。
【特徴】色鍋島の特徴は素地と図案と色紬にあります。
最も一般的な丸皿を対象としてこれを諭ずると、素地は柿右衛門に比べて青味を帯びているのが普通で、伊万里・湖東焼よりも白く、肌は極めて平滑で凹凸は絶対にないようです。
形状と曲面はおそらく木盃に暗示を受けたものらしく、外縁に近いところは曲半径が小さく、底部近くではかなり湾曲が緩やかで曲半径は大きい。
さらに底面を形づくっているところは再びかなり大きい曲半径となりほとんど平面に近いが、全体を通じて平面は一個所もなくことごとく快い援やかな湾曲をなしています。
大きさほ三寸皿・五寸皿・七寸皿・一尺二寸皿の四球にほとんど限られます。
高台ほ他案のものに比べて著しく大きくかつ高い。
高台の直径は皿の直径の半分に等しく、高さは直径のほぼ十分の一であります。
高台の外面周囲には多くは櫛手と呼ばれる特殊な模様があり、染付で描かれ世に櫛手高台または櫛高台と呼ばれた。
これは当時大川内窯だけに許され他窯にはその使用を厳重に禁じ、ひそかにこれを付けたものは発見次第没収されました。
この櫛高台は非常にていねいに措かれ、整然として一糸乱れずはなはだ快い。
はかに七宝繋ぎの高台がありますが、これは櫛高台よりやや初期のものらしい。
裏模様もまた鍋島の特徴で、多くの場合一二〇度の間隔で三個所に対照的に措かれ、七宝繋ぎが最も普通で椿または牡丹の模様、唐草模様を用いたものもあります。
裏模様は染付だけで色絵ははとんど用いないようです。
色鍋島における呉須の色調は地味な青色で非常に鮮明で、常に釉下に用い上絵には絶対に呉須は使われていないようです。
赤は柿右衛門のものに比べて濃くやや紅を帯び、緑および黄釉はややガラスのような光沢があって厚く盛り上がり大変美しい。
(『柿右衛門と色鍋島』『鍋島焼』)

色釉 いろぐすり

着色剤を混合した釉。製法は着色剤を混ぜるという差があるだけで、他は少しも異なることなく普通釉と同じ方法で調製されます。
しかしこれに使用する着色剤の種類により、アルカリ分・棚酸分・鉛の化合物などのいずれかを必ず含有させる必要があります。
着色剤は金属化合物に限られます。
次にその数種を例示します。
【磁器のように強熱する場合】黄色→フエルグソン石・酸化チタ二ウム・酸化ウラ二ウム(酸化煩)。紅色→金化合物。辰砂色→銅化合物。石竹色→錫とクロムの化合物。鼠色→酸化イリジウム・白金化合物・蘭化二ッケル・酸化ウラ二ウムなど。藍色→懐化コバルト。緑色→磯化クロム。紫色→金化合物。青夜色→酸化鉄・蘭化クロム。
【陶器紬焼のように弱熱の場合】黄色→憩化アンチモン・クロム醒鉛・酸化鉄。赤色→酸化鉄。紅色→金化合物。石竹色→錫とクロムの化合物。鼠色→酸化ウラ二ウム・酸化コバルトと酸化鉄の化合物。藍色→酸化コバルト。線色→銅化合物・酸化クロム。紫色→金化合物・酸化マンガン。青磁色l酸化鉄・酸化クロム。いろごうらい(色高麗)1915年(大正四)頃から京都地方において、出石柿谷石を主成分とする中国徳化窯に等しい白高靂、およびこれに酸化金属をもって着色した各種の色高濃が出現し、これらが単独に、あるいは象俵・盛上などにすこぶる精巧なものとなり、和食器では茶器・菓子器などにつくられた。
この種のものは未だ他地方にはみられないようです。磁器質で酸化焔焼成のものとしてはこれらが代表的なものであるでしょう。
(『日本窯業大観』)

色変わり・色替 いろがわり

釉色などが窯変の作用によって本来の色調を変えた自然の結果を指し、全体が均一の呈色よりもむしろ局部的な変色のものが多いようです。
なお普通でない色調または異色の組み合わせなどを指す場合もあります。
前田侯伝来の五器茶碗に色香という銘のものがあります。
内外の青嵐地に紫あるいは葡萄色がさまざまに変わりました模様のあるものであります。
(『大正名器鑑』塩田力蔵)

色絵備前 いろえびぜん

正徳年間(l711-6)に備前藩主池田綱政にょって始められた岡山後楽園焼の作品。
その品は主として置物類で、素焼の上に胡粉で地塗りをし種々の絵具で彩色したものであります。巧妙精緻で木彫風であるのが特徴。
(『日本陶窯史』)

色絵鍋島 いろえなべしま

→いろなべしま(色鍋島)

色絵祥瑞 いろえしょんずい

祥瑞手の器物で色絵を加えたものをいいます。天啓赤絵の上手のものといってもよい。
※しょんずい

色絵 いろえ

軟質色釉の絵具による上絵付で、多彩な釉上着画のこと。陶磁両様にわたる。

入臍 いれべそ

『万宝全書』袖香炉の部に「入臍上手、浮牡丹之手」とあります。

入子 いれこ

匠(箱)・文庫・食器など諸種の器物で、大小数個を組み合わせて小さいものを次第に大きいものへ入れるようにつくりましたものです。
木犀の場合は主に七個を一組とするが、井は主に三個一組、茶碗は二個一組となっています。
イレツケ瀬戸系の窯場で、丸窯における棚積の最初の棚一通りをイレツケといいます。

入谷乾山 いりやけんざん

京都の陶工尾形乾山の江戸入谷(台東区)における作品を指していいます。享保(1716-73)の中頃に江戸に行き製陶しました。
旧入谷村の八番地または三十五番地のあたりにやきもの屋敷の旧称が残っているので、おそらく乾山の死後もその窯は焼き続けられたものらしい。
入谷乾山と称するものは、東京の焼締め土器のような質に唐土釉を掛けた軟陶で、やや大きな釉ひびがあり、時には色釉の給付を施してあります。
(『尾形乾山』『日本陶束史』) ※けんざん

入隅 いりすみ

器形の部分の称。方形の隅が撫で角になり、さらにその中央が入り込んでいます。

入川佐七 いりかわさしち

伊予国(愛媛県)の陶工。ある本には佐吉とでています。伊予郡浜村(双海町)の人。
1865年(慶応元)に下浮穴郡七折村(砥部町七折)の阪本源兵衛の窯を再興したが三年で廃絶しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

入江道仙 いりえどうせん

京都の陶家。寛政年間(1789-1801)、の初代道仙に始まり、三代になって禁裏の御用品を調達しました。
1875年(明治八)からもっぱら理化学用紗磁器の製造に従事、1933年(昭和八)当時は道仙化学製陶所と称し年産額三万円程でありましたといわれます。
(『日本窯業大観』)

伊羅保三島 いらぽみしま

土は赤土、釉立ちは刷毛目のような色合いでざくざくした気味があり、これに三島文様のあるものをいいます。
文様は胴にあることもあるが多くは見込にあります。朝鮮のやきものであります。
(『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)

伊羅保・出胸 いらぽ

古くから高麗茶碗の中に挙げられるが、中国製もまた南蛮物も混じっているといわれます。
横に轆轤目の跡が際立ち、土の中の小石が火に診ぜて釉が荒れ、手触りがいかにもいらいらしたものであります。
真清水蔵六の説は、伊羅保は慶尚南道産である.とします。
近年同地方で発掘した陶器にしばしばその類似品をみるので、この説はほぼ信用できる。
伊羅保は種類が非常に多く、古来茶人の称呼に千種・片身替り・釘彫・黄または黒伊羅保などの区分があります。
後年釜山窯や対馬窯でその作風を模倣したものもこの中に混同したので時代に新旧があり、産地もまた諸方に分在しています。
その作品は粗土の中に雅致があり、最も茶人の間で愛翫されました。
名称については、粗作で見た目にも手触りもいらいらまたはいぼいぼする感覚があるので、通俗に伊羅保と呼び慣したものではないかといわれています。
なおこの茶碗については茶人間に不思議な習慣があって、その素質の粗雑なのにもかかわらず微細な舵をも嫌い、他の井戸茶碗などでは竪樋または舵繕いなど意に介さないのに反して、伊羅保では最も厳重に嫌忌し、舵の有無が価格に関係することが他の茶碗と比べものにならないのは、素質が粗雑であるためことさらその保存に完全を期する意味ではないだろうか。
(『万宝全書』『嬉遊笑覧』『陶器考』『陶寄』『大正名器鑑』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)

伊予焼 いよやき

伊予国伊予郡北山崎村三島(愛媛県伊予市三島町)の陶器。
普通の砥部焼と同じく染付製の磁器でありますが、創始は明治末年から百余年程前、喜多郡新谷(大洲市)の藩士某が巡遊の途中北山崎村で好土を発見したのに始まるといわれています。
のち三島の金岡氏がこれを継ぎ、明治初年には高橋兼五郎・浜松環らが業を起こしたといわれます。
(『日本近世窯業史』)

伊予簾 いよすだれ

中興名物。古瀬戸茶入、尻膨。
轆轤目と釉との錯綜が伊予簾に似ていると小堀遠州が銘じたもので、その証歌は『詞花集』恋下恵魔法師「逢ふことはまばらに編めるいよ簾いよく我を佗びさするかな」。
肩幅の一万が広く他方が狭く口の位置が片寄っているのが著しい特色で、薄紫地の鶉斑と黒筋の景色などがよく瀬戸の特色を出しています。
遠州所持のあと、小堀和泉守、土屋相模守、松倉佐渡守と伝わり、一時土屋家に返りましたがその後上田藩主松平伊賀守の所蔵となり、さらに赤星家を経て後藤家に入りましました。
(『大正名器鑑』)

伊予簾 中興名物 古瀬戸茶入

芋子 いものこ

瀬戸茶入の一手。土釉赤色、大方水釉が掛かっています。薄浅黄土もあり、糸切はよい。口造りの捻り返しもよく、自然の髄のあるものもあります。下釉は濃柿に梨地があります。上釉は薄黒和が腰まであり、これを腰替わりといってひときわ賞翫します。流れは濃黒釉であります。
地釉が薄黒釉で黄流れのあるのもあり、また黄飴色の飛釉の掛かりましたものもあって、釉色は種々あります。大振りの茶入はまれで9センチ前後、芋子は高直であります。また肩の衝いたものが好まれる。
この手の名物で現存しているものには山桜・黄預・雨宿・勢至などがあります。どれも小堀遠州の所蔵でありましました。
所在不明のものに麻衣・京童・木幡・七夕・走井などがあります。また芋頭は芋子と土・釉・作者とも同じであります。
(『茶器弁玉集』『万宝全書』『茶道名物考』)

芋子 瀬戸茶入

妹背山 いもせやま

名物。金華山茶入。生海鼠手。
銘は『新勅選集』雑歌権中納言国信の「浅みどり霞わたれる絶間よりみれどもあかぬ妹背山かな」に因むもので、見所が多い点を賞美しています。
享保(1718-36)の頃島原藩主松平主殿頭が所持、その後松平周防守康福、田沼大和守、朽木近江守昌綱、山田久五郎を転伝して森岡家に入りましました。
(『大正名器鑑』)

芋粟園 いもくりえん

銘。
※そうえん

今渡り いまわたり

享保(1716-36)以後の舶来品。
※こわたりいみずやき(射水焼)→くろだやき(黒田焼)いもがしら(芋頭・魁芋)瀬戸茶入の一手。土・釉・作者が芋子と同じとされています。
(『茶器弁玉集』) ※いものこ

伊万里屋五郎兵衛 いまりやころべえ

江戸の陶商。寛文年間(1661-73)仙台藩主伊達侯の依頼で有田に二年間留まり辻享右衛門に磁器をつくらせ、伊達家からこれを内裏と仙洞御所に献納しました。
辻家はこの時から宮中供御の磁器を調達することとなり、以後鍋島家を経て進献しました。
(『有田磁業史』)

伊万里焼・今利焼 いまりやき

肥前国(佐賀県)伊万里港を経て販売された肥前産磁器の絵称で有田焼を主とします。ただし三川内焼は平戸藩領でありましたため平戸焼と称して別にしました。
有田はわが国における磁器創始の地であるため、他の地方から工人が来てその技術を窺うものが多かりましました。
そこで佐賀藷では他国の陶商が産地に入ることを固く禁じ、販売市場は伊万里の地に限られた。
そのため有田内外山の製品はおおむね伊万里を経て搬出されたので、世に伊万里焼と称せられた。
明治維新後伊万里は単に輸出港であるに止まらず進んで産路地ともなりましました。
1895年(明治二八)の本岡佐吉をその始まりとし、次いで陶器商の合資による磁器窯があり、1903年(同三六)には柳瀬六次が起業しました。
(『有田陶業史』『北村弥一郎窯業全集』) ※ありたやき

伊万里焼

イマリエ いまりえ

ヨ一ロッパ風の描画七宝。

今焼 いまやき

「今焼茶碗」または単に「やき茶碗」とだけ呼ぶ場合もあります。古製の器に対して新しく焼かれたものをいいます。
天正・文禄・慶長1573-1815)頃に用いられた語。また楽焼を「いま焼」ということもありますが、その当時焼かれたためであります。

今村弥次兵衛 いまむらやじべえ

肥前国(長崎県)平戸焼の開祖今村三之丞の子、弥次兵衛正名。号の如猿は1702年(元禄一五)に領主から賜わりましたものです。
1635年(寛永一二)に生まれ、七歳で祖父巨閑の教えを受け、続いて父三之丞のもとで修業。
1658年(万治元)父と別居し、三川内字潜石(佐世保市三川内)で製陶。
1662年(寛文二)従来の磁質が今もって精良でないのを知って、天草に原料を発見して研究を重ね、ついに純白の逸品を製出しました。
また次郎兵衛と変名して天草島に渡り、石場の持主上田某に面会して取引を約束したといわれます。
1664年(同四)その功績により召し出され知行百石、御馬廻格に昇進、さらに1698年(元禄一一)には山林石町歩(100ヘクタ一ル)を拝額、1702年(同一五)に号如猿を賜わりましました。容貌が猿に似ていたためらしく当時の人は太閤の再来と称しました。1717年(享保二)3月9日没、八十三歳。三山を挙げて厚葬したといわれます。
1842年(天保一三)に松浦侯から如猿大明神の称号を追贈され、土地を卜して一両が建てられた。子孫はみな弥次兵衛を襲名。
(『平戸焼沿革一覧』) ※ひらどやき

今村三之丞 いまむらさんのじょう

肥前国(長崎県)平戸焼(三川内焼)の開祖。巨閑の子で1610年(慶長一五)生まれ。
三之丞正一と称し、今村の姓は1841年(寛永一八)に領主から賜わりましました。
1622年(元和八)父と共に折尾瀬村三川内(佐世保市三川内町)に移住し蔑の本村(同市木原町)で試窯、1834年(寛永一一)三ッ岳の白磁鉱を発見し唐津椎ノ峯その他の原料を混合して良好な白磁器を出し、さらに青磁器を発明しました。
1637年(同一四)三川内字丸山に転居して字長葉山に陶窯を築いましました。伝によると、初め三之丞が平戸に出て諸地を探査するうち、有田南川原に巨閑と同郷の熊川の人で竹原道鹿の子の五郎七が筑前国(福岡県)から移住して陶業を営んでいるのを知り、白手焼細工を習得するためにその弟子となりましました。
しかし五郎七は釉法を秘して伝えないため、その妻に用量の差額を窺わせてようやく自得し、難を恐れて逃亡しました。
その後五郎七が病死したので三之丞は大村飯字中尾川内皿山で陶窯を開いましました。しかしのち平戸領主の命があって帰還しここに定住したといいます。
同年三皿山棟梁兼代官に任命され、l641年今村の姓を賜わり、1643年(同二〇)領主の許可を受けて字木原山(佐世保市木原町)および江永山(同市江永町)に分工場を設け、小山田佐平・辰次郎を各担当者とし、1867年(寛文七)には唐津椎ノ峯の陶工福本弥次右衛門を招喝しました。1696年(元禄九)7月9日丸山の隠宅で没1八十七歳。
(『平戸焼沿革一覧』) ※ひらどやき

今村窯 いまむらがま

福岡県八女郡黒木町今の古窯。

今戸焼 いまどやき

江戸の土器。明治になって浅草付近を今戸町と称するが古名は今津であります。
創始ははっきりしないが、天正年間(1573-92)千葉家の一族が土着して瓦や土器をつくりましたことから起こりましたともいわれます。
貞享年間(1684-8)に工人白井半七が初めて士風炉をつくり、享保年間(1716-36)の二代半七が瓦器に粘着癒し楽焼に相当するものをつくってから開業者が数十戸に及び、今戸焼と称されました。以来白井家子孫が継業してこの業も次第に盛んになりましました。のちに伏見人形に似たおもちゃの塑像をつくり出して今戸焼人形といわれた。
寛政年間(1789-1801)に中条某が土器や神供の瓶子を製し御土器師と呼ばれた。
嘉永年間(1848-54)には作根弁次郎が士風炉を巧妙につくって世間で上工とされました。
明治初年六世白井半七が業を継ぎ、二世中条市太郎もまた継業して土器および神供の瓶子をつくり、初めてこれを宮中に献上しました。
当時土器や楽焼塑像を製作した工人の戸数は四十戸に及んだといわれます。
また別に天正年間徳川家康の江戸入城の際に三河国(愛知県)から釆た士風炉師天下一宗四郎、土器師松平新左衛門および土屋という火鉢師などの子孫がこの地に集まり、さらに貞学年間には富田源二、安政年間(1854-60)には塚本民助らも来て諸種の土器類右製出しました。
(『工芸志科』『日本近世窯業史』)

今戸焼

今津屋七郎右衛門 いまずやしちろうえもん

肥前国(長崎県)平戸の人。有田の宮村勘右衛門・嬉野次郎左衛門らと共に有田磁器を密輸出したことが露見して1725年(享保一〇)処刑されました。
※とみむらかんえもん

今春岱 いましゅんたい

安政(1854-60)から慶応(1865-8)の頃加藤梅太郎が用いた銘。
同工は春岱の長男光太郎の没後を継いで尾張家の御窯屋を相続しました。そのため前代の号に今の一字を冠して今春岱と称しました。
(『をはりの花』)

今尾春岱 いまおしゅんたい

銘。
※しゅんたい

今尾窯 いまおがま

岐阜県海津郡平田町今尾にありましました。
1851年(嘉永四)瀬戸赤津の陶工春岱(加藤宗四郎のち仁兵衛)がここに隠居し(当時尾張藩御付家老竹腰山城守の領地)、その作品に主に今尾春岱と印しました。しかし春岱は三年で名古屋城内御深井窯に復帰したといわれます。
一説には同国不破郡赤坂(大垣市赤坂町)の清水平七が春岱のあとを受けてここで製作し、それが魁翠園焼であるといわれています。
(『をはりの花』『瀬戸陶器誌』『岐阜県産業史』)

今枝 いまえだ

名物。楽焼茶碗、黒、加賀ノンコウ七種の一。加賀藩の家老今枝家伝来のもので、楽山とも呼びます。
加賀ノンコウ七種中最も大形で、外部の光沢が特に麗しく、黒釉申に黄和が縦に現われ亀甲斑のようであります。
高台内の楽印は見事。
(『大正名器鑑』)

今井宗久 いまいそうきゅう

和泉国(大阪府)堺の茶人、政商。1520年(永正一七)生まれ。紹鴎の女婿。宗及・利休と共に天下三宗匠と呼ばれた。初名久秀、のち兼貞。彦八郎・彦右衛門と称し、昨夢斎と号しました。もと近江源氏佐々木氏の後商。
大和国今井庄(奈良県橿原市)を根拠としていたがのち堺に移り納屋衆の一人となり、鉄砲鋳造、生野銀山経営にも当たりましました。
すでに足利義昭に近づきまた松永久秀とも関係を保持していたが、1568年(永禄一一)信長が京都に入るやただちにこれに参じて名物松島の茶壷を献じ、のち信長と堺の和議成立と共に堺五カ庄の代官となり、1570年(元亀元)松井友閑が堺政所に入部するやこれと特に親交を結んです。
1582年(天正一〇)以後は秀吉政権に近づき田地二千二百石の安堵を得、また茶頭の一人として重用されました。
早くから茶を紹鴎に学び、望まれてその女婿となり、紹鴎の没後は嫡子宗瓦の後見人となりましたが、遺産のことで宗瓦と訴訟事件を起こしました。
玉欄波の絵・珠徳茶杓・手灯篭花入・定家色紙・紹鴎茄子茶入・勢高茶入・開山五徳・シメキリ水指・紹鴎火箸などを所持していましました。1593年(文禄二)8月5日没、七十四歳。
【今井宗久茶湯書抜】今井宗久の茶会記。二巻。もと十巻ありましたものを1820年.(文政三)竹浪休里が抜粋して二巻としたものであります。上巻は1554年(天文二三)から一五入九年(天正一七)に至る自会二十回・他会六十三回が記録され、下巻は1599年(慶長四)から1814年(同一九)の記録。
ほかに天正十二年1584)大阪城円山里席秀吉様御茶湯次第、天正十三年3月8日於京北野秀吉様御飾次第、8月12日付大主局宛古田織部茶湯相伝書、天正十三年9月13日寿命院宛拗笠斎宗易茶湯相伝書などを収めています。この下巻は宗久の子宗薫が記録したものかといわれます。『茶道古典全集』第十巻収録。
【今井宗薫・宗春】宗薫は宗久の子。単丁斎と号しました。秀吉の御伽衆・茶頭。関ケ原役ののちは徳川家康・秀忠・家光に歴仕しました。
1827年(寛永四)4月10日没、七十六歳。宗春は宗薫の子。不尽・茅小斎と号し、父に茶を学んです。
1623年(元和九)4月13日没。

今泉雄作 いまいずみゆうさく

実名は彰、字は有当、初め文峯と号し切ち也軒また常真居士と称しました。
1850年(嘉永三)生まれ。1877年(明治一〇)パリに行き東洋美術博物館館主ギメ一に知られてそこの客員となりましました。
1883年(同一六)に帰朝して文部省学務局に出仕、岡倉覚三らと美術学校の創立に尽力し開校後そこの教授に任ぜられた。この間無碍道人の名で『美術叢話』などに執筆、また『国華』に「本邦陶説」「君台観左右帳記考証」などを連載。
1895-六年(明治二八、九)頃京都市美術工芸学校(現京都市立芸術大学)校長、1900、一年(同三三、四)頃東京国立博物館美術部長を歴任し、再び美術学校でも教授。
1916年(大正五)東京の大倉集古館館長となりましました。なおその間内務省古社寺保存会要員を長く勤め、従三位勲三等に叙せられた。書画骨董の鑑識に通じ世間では鑑定家として認め、趣味として・坂田鴎客から南画を学び、また石州流・悟渓流の茶も巧みにしました。1931年(昭和六)8月28日没、八十二歳。
晩年の著作に『茶器の見方』『日本陶哀史』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』などがあります。
(塩田力蔵)

今泉焼 いまいずみやき

越中国東砺波郡般若野村(富山県高岡市)の産。伊助焼ともいいます。
天保年間(1830-44)に林陶斎が創窯し、土は近くの三合村八石島(砺波市三合)から採りましました。
京都の画家浦上春琴がこの窯に来て着画をしたと伝えられています。間もなく陶斎が守山村(高岡市守山)に移転したため廃絶しました。
(『越中製陶史稿』)

今泉藤太 いまいずみとうた

有田の陶家今泉今右衛門の十代目を継いです。
明治維新前後の人で稲富武平の二男、幼少の頃から今泉家で養われた。高橋道八から陶法を学びまた服部香田に西洋風の上絵付を習りましました。ワグネルが有田にいた時には彼について上絵付窯の引出し色見などを研究工夫しました。
1871年(明治四)大川内御用窯開放後は色鍋島を製作して古人を凌駕するものがありましました。以来青花上絵を兼ね合わせて製出。1927年(昭和二)9月没、八十一歳。
(『肥前陶家伝』)

今泉源内 いまいずみげんない

号を子日庵といいます。尾張藩士で寛政(1789-1801)頃生まれた。茶道に通じその方でも有名でありましました。
嘉永(1848-54)の頃古稀の祝いに自ら俵状の点茶茶碗を数個つくり瀬戸窯で焼かせた。
その他各種の茶器をつくり所掲の款を刻しました。どれも高尚で雅作であります。
(『をはりの花』)

今泉今右衛門 いまいずみいまえもん

肥前有田の窯家。寛文年間(1661-73)に始まりました赤絵屋十六軒のうちの一つで、代々赤絵付を専業とし現在は十二代目。五代今右衛門(覚左衛門)の時初めて鍋島侯から錦付御用の命を受けた。
十代今右衛門(藤太)の時御用窯が廃止になり磁器窯を築いたが失敗。また有田の上絵窯の見透しを上部に付け斯業に貢献したともいわれます。
(今泉雄作)※いまいずみとうた

今井儀右衛門 いまいざえもん

薩摩国(鹿児島県)平佐焼の創始者。薩摩郡平佐郷白和(川内市白和町)の人。
初め出水郡下出水脇元(阿久根市脇本)に磁器製造所を設立したが失敗。
1776年(安永五)平佐郷の領主北郷久陣の後援を得て有田から陶工を招き製作。薩摩で純粋の肥前系統の磁器を製造したのはこれが最初であります。
(『薩摩焼総鑑』)※ひらさやき

伊兵衛 いへえ

もと近江国(滋賀県)の人で京都三条の錦光山の工人でありましたが、のちに尾張国品野(愛知県瀬戸市品野町)に釆て同村の基窯八世丹右衛門重徳(1753、宝暦三年4月没)の一女しげを妻とし、この地に初めて京焼を伝えましました。
(『新編瀬戸窯系統譜考』)

揖宿土 いぶすきつち

薩摩焼素地の主要原料。
帰化朝鮮人の朴平意は薩摩国苗代川村(鹿児島県日置郡伊集院町)に移ってから、1614年(慶長一九)島津義弘の命により陶土を国内に探求し、揖宿郡十二町村(指宿市十二町)の白粘土をはじめ種々の原料を発見しました。
その後同郡山川郷成川村(山川町成川)などの土を使りましたが、それらを使い尽くして明治以後の揖宿土は産地を異にし、したがってその粘璧が古薩摩に及ばないようです。これは指宿温泉の近くの字越山産のバラ土とネマ土であります。

井深捨吉 いぶかすてきち

美濃焼の功労者。1875年(明治八)8月一白岐阜県大垣に生まれた。
1901年(同三四)東京工業学校(現東京工業大学)工業教員養成所窯業科を卒業と同時に、岐阜県土岐郡立陶器工業学校に赴任したが、在職三年にして病のため辞職。
その後十二年間セメント会社・鉄道院総裁官房研究所に勤務し、再び岐阜県工業技師兼岐阜県土岐郡立陶器工業学校長となり、以後1946年(昭和二一) 岐阜県陶磁器試験場長を退職するまで、ひたすら子弟の育成と岐阜県陶業界の発展に尽力しました。
特に美濃焼の原料調査、陶磁器上絵付製品の鉛毒問題、精妬券の創製とその普及、美濃古窯址の発掘調査、戦時中の代用陶磁器の研究、海綿鉄の研究などに業続が多いようです。1961年(同三六)9月10日没、八十六歳。

居瓶 いびん

沖縄の陶器、火酒を貯える大口の填で花瓶にも使用できるものです。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

イピヨック

耳柴を意味する朝鮮語。三角の瓦であります。
『朝鮮陶磁名考』

飯椎高麗 いびつこうらい

大名物。朝鮮茶碗、高麗。
釉色は美鹿、形状は筆書で高麗茶碗の中では女性的部類た属するものといえます。一名を栄忍茶碗といいます。
栄忍は亀屋栄仁のことであるでしょう。
永禄(1558-70)から天正(1573-92)の頃の人であものちに古田織部の所蔵となりその後安芸津主に入りましました。いびつは飯樺と解するよりいびつな形の茶碗とする方が妥当であるでしょう。
(『玩貨名物記』『古今名物類衆』『吉名物記』『大正名器鑑』)

茨木焼 いばらきやき

常陸国(茨城県)の産。1861年(寛文元)真壁郡塙世村(真壁町塙世)の土器師塚原政重が始め、その後同国各地に伝習開業されました。
(『大成陶誌』)

伊八乾山 いはちけんざん

二代乾山と伝えられます。初代尾形乾山に子がなかりましたので、その死後伊八がこれを継いです。
伊八は京都の名工野々村仁清の子で、家を出て画家立林何吊の養子となりましました。何吊ほ乾山と親交があり、そのため伊八を二代乾山としました。
伊八は江戸で武家に仕えて陶器を焼いていましました。因みに仁清は1666年(寛文六)に死んだといわれます。
それなら伊八の出生を仮に仁清の死んだ年だとしても、乾山が死んだ1743年(寛保三)にほすでに七十八歳であり、この老人が伝えられるように乾山の没する間際に何吊の養子となり、さらに乾山のあとを継ぐことなどは疑わしい。
伊八はあるいほ二、三代目の仁清の子であろうか。伊八の死んだ年は伝えられていないようです。
(『日本陶糞史』)

井ノロ窯 いのくちがま

土佐国安芸郡井ノロ村原野(高知県安芸市井ノロ)の陶窯。
文政年間(1818-30)の末五藤家(土佐藩家老)からの要請があって始めたともいわれます。1885年(明治一八)当時、三窯ありましたといいます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

井上良斎 いのうえりょうさい

東京の陶工。本名良書、1828年(文政一こ尾張国(愛知県)瀬戸に生まれた。
嘉永年間(1848-54)同国犬山に移りました壌仙堂川本治兵衛の窯で従業し、その後江戸四谷(新宿区)の松平摂津守の邸に入り同所の陶工として数年を過ごしました。
文久年間(1861-4)に下谷新町(台東区)の石川邸で楽焼に従事し、1866年(慶応二)から浅草橋場町(台東区)で閲窯して東玉園良斎と号し、瀬戸原料でもっばら美術品や輸出品をつくりましました。
島田惣兵衛・太田万苦・起立工商会社・精工社などがこれを取り扱い、明治期の東京磁器の有力者として世に知られています。
二代目は横浜に移って遺業を継いです。三代目良斎は1888年(明治二こ横浜で生まれ彼もまた遺業を継いです。1971年(昭和四六)2月6日没、八十二歳。晩年に日本芸術院会員となりましました。
(『日本近世窯業史』)

井上楊南 いのうえようなん

本名井上房太郎、1869年(明治二)現在の愛知県常滑市多屋に生まれた。
常滑陶器学校数負となり、1900年(同三三)日本美術院国画講習会にて伝習を受け技術優等賞を受け、大正年間より作陶を始め、1918年(大正五)農商務省第四国工芸展に入選、1925年(大正一四)パリ万国美術工芸博覧会に農商務省指定出品名誉賞受賞、大正時代の代表作家となりましました。
1928年(昭和三)3月以来陶芸生活に専心。1956年(昭和三一)没、八十八歳。

井上素三郎 いのうえもとさぶろう

尾張常滑の陶工。1866年(慶応二)生まれ。不識庵素三と称し茶器類を焼いましました。1922年(大正一一)10月没、五十七歳。
(『常滑地方陶製晶製造工業調査』)

井上房太郎 いのうえふさたろう

→いのうえようなん(井上楊南)

井上退甫 いのうえたいほ

尾張藩士、名は豊次郎、寛政年間1789-1801)の人。千村白就の実弟で茶事の心得がありましました。
勤仕の余噸に自分自身で陶器をつくって楽しみとしたが、作振りは白就に似ているといわれます。所掲の印を用いましました。
(『をはりの花』)

井上千吉 いのうえせんきち

幕末の京都の陶工。美作国久米郡宮部下村(岡山県久米郡久米町)大森実蔵の陶工場に来て京陶の製法を伝授、安芸国賀茂郡原村(広島県加茂部八本松町原)の石丸晶蔵らほその教えを受けた。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

井上世外 いのうえせがい

本名馨。明治の財政政治家・外交家。世外はその号。
1835年(天保六)長門国(山口県)に生まれ、近代日本資本主義の育成に貢献し、また文化財の保全に努めました。世外はまた1895年(明治二八)の還暦の頃から東京でしばしば茶会を催し、晩年の1910年(同四三)に内田山部の八窓庵が晃成してからは、しきりにここで茶会を催しています。
また興津や鎌倉の別荘でも常に茶会を行なりましました。
その招きに応じて集まる同好の士をみると、益田孝(鈍翁)・加藤正義・原富太郎(三漠)二二井八郎右衛門二二井高保・三井八郎次郎・朝吹英二(柴庵)・近藤廉平・根津嘉一郎(青山)・安田善次郎・石黒思慮・高橋是清・大倉善八郎・高橋義雄(専属)・山本条太郎・鳥越恭平など財界の巨頭を中心とする顔ぶれであります。そして世外が老休のため高橋帯魔と益田鈍翁がしばしば代点を託されました。
世外は美術品への噂好が強くまた鑑賞眼にも富んでいたらしく、徽宗皇帝筆の桃鳩図・周文筆山水図・雪舟筆藩布図・十一面観音幅・孔雀明暗王などの国宝級のものをはじめ、古筆物・古画・仏画・彫刻・陶磁器など天下の奇什珍品を蒐集しました。
茶道具としては、松島真壷・道仁作田口釜などのほか、古川家から利休以来世の名物とされている長次郎作雁取茶碗などを入手したことなどが有名。
(『近代数奇者太平記』)

井上清二 いのうえせいじ

京都の陶工。名を庄介といい尾張国(愛知県)の人。
初め丸窯師・彫物師として彦根藩窯湖東焼にいたが、そこの廃止後京都の幹山伝七の工場に入りましました。
また清水の井上清二の養子となりその死後名を継いで清二と改めました。
挽きものが巧みでまた捻りものにも妙味があり、幹山の工場廃業後は自宅で磁器の製作に従事し、もっぱら交址風の楽焼をつくりましました。銘にほ清二の刻印があります。1890年(明治二三)1月4日没、六十二歳。
(『湖東焼之研究』)

井上士朗 いのうえしろう

名古屋の人。尾張国(愛知県)犬山の城主成瀬家の臣久保田其の子で、安永年間(1772-81)の人。
訳があって井上家を相続し専庵と号しました。俳譜の心得があり中古芭蕉の称があります。まれに陶器をつくり所掲の款を押し、また発句などを書いましました。みな雅作で気品高い。
一説に医を業とし産科が主でありましたといわれます。1826年(文政九)5月16日没、七十一歳。
(『をはりの花』『名古屋市史』)

井上松坪 いのうえしょうへい

.陶工。尾張瀬戸の人で、初名を辰次、のちに松兵衛といい、松坪と号しました。
1856年(安政三)彦根濯窯湖東焼に招かれ、染付・赤絵ともに良工の作品に絵付をしました。
1860年(万延l空いりましたん郷里に帰りましたのち京都に移り、磁器を焼成して自分自身で絵画模様を描いましました。
1877年(明治一〇)前後から時流に応じ盛んに海外葡出品を製作し、銘に松坪・於西京松坪製・大日本松坪製・玉松園松坪などと記しました。のちに初代京都陶磁器組合長に挙げられた。交友には文人墨客が多いようです。1895年(明治二八)7月6日没、六十五歳。
甥井上伯山があとを継いです。
(『湖東焼之研究』)

井上延年 いのうええんねん

京都の陶工。1842年(天保一三)10月尾張国(愛知県)瀬戸に生まれた。本名園七、代々製陶業。
1887年(明治二〇)頃京都陶器会社に招かれたが】、二年で会社の事業が中止になり、その後清水坂下の市橋邸内で製作しました。茶器類が主であるがまた中国名器の模造が巧みでありましました。
1900年(明治三三)東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に模範職工として招かれ、翌年辞めて京都に帰りましました。1914年(大正三)8月没、七十三歳。三代松風嘉定は長男。
(『日本窯業大観』)

犬山焼 いぬやまやき

尾張国丹羽郡の犬山城に近い丸山(愛知県犬山市丸山)の陶窯のもので、丸山焼の別称があります。
宝暦年間(1751-64)の創始で、初め犬山の東四キロの同郡今井村(犬山市)で焼き出しました。
1810年(文化七)犬山城の東の丸山に移り御庭焼と称して茶器類を焼き、のちに栗田風の陶器をも焼いたが、天保(1830-44)初年には犬山城主成瀬正寿が奨励保護して春日井郡志段味村(名古屋市守山区上志段味)から陶工を招き、また名古屋から陶画工道平を招いて赤絵呉須風のものを描かせた。
京都の尾形乾山の風に倣い俗に犬山乾山の名があります。
1836年(天保七)正寿の意匠により花紅葉を描かせ、雲錦模様と称して売出したものが世間で賞賛されました。
明治維新後尾閑作十郎がわずかに販路を開き、1879年(明治一二)には士族就産金で犬山陶器会社を起こしたが振わなかりましました。
(『工芸志料』『写本日本陶工伝』『陶器類集』『日本陶器目録』『日本工業史』)

犬山焼

犬鷹桃香合 いぬたかももこうこう

桃の上に犬と鷹を向い合わせた青磁の香合。
(『茶道笠蹄』)

犬塚民蔵 いぬずかたみぞう

肥前有田白川の轆轤工。1867年(慶応三)フランスのパリで大博覧会が開かれると、鍋島藩は磁器による国産振興を図り、特に大器の製造を奨励しました。
民蔵は小山直次郎らと共に大器の底を塊き固めて従来の底切れを改良し、棍櫨の名人といわれた。1885年(明治一八)7月没、五十七歳。
(寺内信一)

稲荷山焼 いなりやまやき

讃岐国(香川県)高松の陶器。慶安(1648-52)以来紀大理平の累代が焼いているものです。
窯が稲荷社の近くにあるので稲荷山焼というが、理平焼・高松焼とも呼ばれる。
※りへいやきいぬずかこじゅうろう(犬塚小十郎)対馬国の陶器山の支配人。
対馬産の磁器の品質が粗悪なため、指導者として1827年(文政一〇)平戸領三川内(長崎県佐世保市三川内町)の陶工を雇い入れた際、小十郎はその統御看でありましました。
三川内の磁業者はこれを好機として製品の朝鮮輸出を計画し(当時朝鮮輸出は北島家の手を経た有田磁器に限られていた)、小十郎が斡旋の衝に当たって、三川内磁器を対馬へ密送し対州磁器のように粧いさらに朝鮮へ輸出しました。ところが対馬藩特派の釜請役人から製品は脆弱で使用に耐えないと返還されたため企画は水の泡となりましました。
(『日本陶磁器史論』)

伊部焼 いなやき

赤羽焼ともいいます。長野県上伊都郡辰野町赤羽の産。糸取鍋が主製品。
1912年(大正元)当時の製造家は四戸(このうち有賀春太郎を最大とする)、産額三万円。
ここの糸取鍋は信楽よりも早く起こりましたといわれます。
(『北村弥一郎窯業全集』)

伊奈三島 いなみしま

朝鮮産三島手の一種で形状は種々あります。古三島のようにみえるもののはかは茶色・黒色の無地で自然の刷毛目があります。
高台はいりましたいに下品であり、土は赤色のものが多く、内刷毛目のようになっているのを良品とします。
(『日本陶器全書』)

因幡焼 いなばやき

因久山焼の別名。
※いんきゅうざんやき

稲葉瓢箪 いなばひょうたん

大名物。唐物瓢箪茶入。稲葉美濃守正則が所持したのでこの名があります。
いわゆる天下六瓢箪のうち最も景色に富んだ茶入で、無舵で釉色が極めて美麗であります。
代々稲葉家に伝わりましたが1897年(明治三〇)に岩崎弥之助の所蔵となりましました。
(『吉名物記』『暢園秘録』『大正名器鑑』)

稲葉瓢箪 大名物 唐物瓢箪茶入

因幡堂 いなばどう

名物。後窯茶入、利休窯。京都の名刹因幡堂にありましたところから名付けられた。
屈指の大茶入で、丈が高く心持ち一方に傾いて不安なおもしろみをみせています。のちに西本願寺の所蔵となりましました。
(牒大正名器鑑』)

稲葉庄右衛門 いなばしょうえもん

子に庄三郎がおり、父子ともに高道と称しました。
※こうどういなはちろう(伊奈八郎)尾張常滑の陶工。陶号も八郎といりましました。
1797年(寛政九)11月生まれ、1868年(慶応四)7月没、七十五歳。陶彫にすぐれ茶陶を製作したといわれています。
(『常滑名工表』)

伊奈刷毛目・稲刷毛目 いなはけめ

朝鮮産刷毛目茶碗の一つ。白釉の刷毛目に勢いがなく地釉の浅葱色も見分けがつかない程に濃いものです。
名称の由来には二説あり、一説は刷毛目に勢いがないのが藁で描いたように思えるためだとし、他は「いな」は「厭な」の転託したものでいやな刷毛目の意味で、これに稲の字を当てたとしています。
(『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)

稲葉口広 いなばくちひろ

中興名物。破風窯茶入、口広手。稲葉丹後守がこれを所持したのでこの名があります。
総体が黄色勝ちで光沢は極めて美麗であります。稲葉家に伝来し、後年大阪の上野家に入りましました。
(『古今名物類衆』『名物記』『大正名器鑑』)

伊奈長四郎 いなちょうしろう

尾張常滑焼の陶工。長二と号しもっぱら襲類の製作に従事したといわれるが、没年などは不詳。
(『常滑名工表』)

伊奈長三郎 いなちょうざぶろう

→ちょうざ(長三)

伊奈製陶株式会社 いなせいとうかぶしきがいしゃ

伊奈製陶株式会社は愛知県常滑市字扇面新田に本社と本社工場、各地に分工場を有する建築陶器の総合メ一カ一。資本金25億円、森村系グル一プの企業集団の一員。
1887年(明治二〇)頃から伊奈初之丞が陶管の製造を開始し、1921年(大正一〇)匿名組合伊奈製陶所を創設して伊奈長三郎が経営に当たり、1924年(同一三)正式に伊奈製陶株式会社として発足しました。
現在建築タイル類・衛生陶器のトップメ一カ一に発展しているが、合成樹脂製品の生産も盛大を極め、その生産品の売上げも毎月20億円に近い。
製品の変遷をみると、大正から昭和初期には陶管電績管類・タイル類(第一期)、昭和初期から第二次世界大戦にかけてはタイルテラコッタ類∵耐酸拓器類(第二期)、戦後はタイル類・衛生陶器・合成樹脂寮(第三期)を製造しています。
また伊奈長三郎家は、江戸時代からの名工長三の名家であり、伊奈初之丞(五代)・伊奈長三郎(六代)は工業的な陶磁器生産に従事しているが、名工長三の名は、伊奈家の中から伊奈伍助(日本陶業社長)が五代長三を襲名しています。

稲津焼 いなずやき

美濃国土岐部将津村大字小里(岐阜県瑞浪市稲津町小里)の産。
元禄年間(1888-1704)岩島角兵衛が始め子孫が継業したといわれているが詳細は不明で、いつの頃からか中絶しました。
その後弘化(1844-8)の頃この地の和田亀右衛門が閲窯しこの業の発展に尽くしました。
明治初年同地でこれを営んだものは多数ありましたが、いずれも前後して途絶えましました。

稲妻 いなずま

名物。楽焼茶碗、ノンコウ七種の一つ。赤釉が多く秋の稲光の風情があるところから名付けられた。江琴銘。
表千家が代々秘蔵しており、当主の代替わり茶事以外にはみだりに出さなかりましました。
(『本朝陶器致証』『大正名器鑑』)

稲妻 名物 楽焼茶碗

稲津肩衝 いなずかたつき

大名物茶入山の井肩衝の旧名であります。
※やまのいかたつき

稲佐焼 いなさやき

長崎県鵬ケ崎焼の別称ではないだろうか。
『長崎風土記』に「右稲佐村二テ焼出シ侯梅本ハ意気れすノ写シ二ハ御座候其形チヲ取り焼出シ茶出シツカヒ侯妙二ハ石ヤキナド唱石二打ツケ侯テモ砕ケズ火二モ強ヨク尤モ値段ソンジルヨリ高シ只今ハ御上ヨリ御差留二相成市中二モ少ナシ云々」とあります。
稲佐村(長崎市稲佐町)は切支丹宗徒の特許地でありましたらしい。
※ぼうがさきやきいなさやき(稲佐焼) 出雲国杵築郡稲佐(島根県簸川郡大社町杵築北)の産。創始年代は天保(1830-44)頃で杵築の諸窯中最も古いものらしい。その後廃絶、継続年限は不明。大正の初めに新窯をここに設け同様に稲佐焼と称しました。
「きづき」の銘があるといわれます。
(『出雲陶窯』)

伊奈織部 いなおりべ

織部焼の一種。慶長(1596-1615)中期伊奈備前守忠次が瀬戸系陶窯で焼かせたものです。
多くは赤織部風のもので茶碗・香合のはかは型物が多いようです。

井戸脇 いどわき

井戸茶碗の一手。朝鮮産。井戸脇は青井戸の脇、すなわち青井戸よりも粗品であるとされます。
『茶器日刊聞書』に「後渡りを井戸脇といふ」とあり、『名物日利聞書』には、「井戸脇といふもの井戸に似て夫に及ばぬものなり、されども目のある様数々これあり、いやしき処有之、木地も井戸よりかしましき心有之、井戸脇と申名聞、何の申伝ふるにや」とあります。
『高麗茶碗と瀬戸の茶入』によれば「釉だち鼠色がかれる黄色みのある青き色合にして堅く滑らかなる趣あり、しかして中位のひゞあり、尤も滑らか過ぎてひゞなきものもあり」とあります。
『大正名器鑑』には毛利侯の旧蔵で楽善が拝領したもの、薮内家伝釆のものの二碗を載せています。

糸目藤四郎 いとめとうしろう

真中古茶入の一種。藤四郎の作で糸目のある茶入であります。
土は薄浅黄色、下釉は柿色が多く葉色釉もあります。上釉ほ黒釉がむらむらと黒雲のようにむらだって掛かっています。
地釉は蒋柿で上に薄黒釉の刷毛目のあるものもあり、黄釉・飴釉・胡麻釉など茶入によって釉組はさまざまあります。姿はぶりぶり成り、多くは薄手で細工がよく格好もよい。
土屋相模守所持の名物糸目藤四郎は、朽木侯、松平日向守を経て文政(1818-30)頃松平不味に入り以来同家に伝わりましました。
(『茶器弁玉集』『大正名器鑑』)

糸目藤四郎 真中古茶入

井戸吹墨 いどふきすみ

井戸茶碗小貫入の一手。朝鮮産。火加減で墨色が見事に吹き出て思いがけない景色を呈したものであります。
(『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)

井戸八蔵 いどはちぞう

筑前国(福岡県)高取焼の創始者。
もとは朝鮮葦萱の人で、文禄・慶長の役(1592-8)のあと黒田長政に従って渡来。
同じく葺萱の人で八蔵の姻戚の新九郎もまた加藤清正に従って来た。
長政はこの二人に命じてその横地筑前で製陶させました。
※たかとりやき

糸取鍋 いととりなべ

明治年間綿糸工場で繭を煮るのに蒸気を用いるようになって採用された陶磁器製の糸取鍋。
磁器製のものは冬季には急熱のため割れやすいので、かえって陶質のものが好まれ主に会津または信楽産でありましたらしい。
(塩田力蔵)

井戸茶碗 いどちゃわん

井戸茶碗は朝鮮茶碗の王者といわれ古くから茶人間で最も珍重され、「一井戸二楽三唐津」などと唱えて賞翫されました。
井戸は最も名品が多いというだけでなく数量も種類も他の茶碗の数倍もあるのは、おそらく朝鮮で最も広く民間に普及し窯数も多く名工も豊富にいたためなのであるでしょう。井戸茶碗を焼成した時代は一般に大体六、七百年前とされています。
東山時代から唐物茶入と共に高麗茶碗が珍重され、珠光青磁に次いで井戸茶碗が第一に推されました。高麗茶碗といわれているものの多くは李朝時代の製作でありますが、ただ一つ井戸茶碗だけは高麗時代の旧製と見なされ、時代が古いのと鑑賞的条件を具えていることによって注目されました。
天正年間(1573-92)にはこの茶碗一個が米一万石から五万石と交換されたといわれ、現在でも数百万円から数千万円の値の付くものもあります。産地についてはかつて本手井戸は慶尚南道彦陽の産、青井戸は慶尚南道梁山部東部の産であるという提言がありましたが、現地を発掘した結果でほ遺憾ながらこれを裏書きできなかりましたといわれます。種類が極めて多いところから、多分生産地の区域も広く窯数も多かりましたのであるでしょう。
【種類】井戸は種類が非常に多く茶碗以外の佳品も少なくなく、時代の新旧もまたまちまちではありますが、以前から茶人間の種類別は名物手(大井戸)・古井戸(小井戸)・青井戸・小貫入・井戸脇とし、小貫入は古井戸の脇(準ずるもの)で、井戸脇は青井戸の脇であるという説が最も当を得ているようであります。
すなわち小貫入は古井戸よりも下手であり井戸脇は青井戸よりも粗品であります。ただしその下手粗品の中にまた別な特徴を具えて、かえって見所のあるものもあります。各項参照。
【名称の由来】井戸茶碗の名称の由来については諸説があり、朝鮮の地名説が最も有力であるがまだ定説はないとみるのが妥当。以下二、三の説を参考に掲げる。
井戸茶碗は井戸若狭守覚弘が朝鮮出征の時に向こうでこれを手に入れ持ち帰りましたのでこの名が付いたという説があります。
『寛政重修諸家譜』には「井戸覚弘は朝鮮陣の時筒井定次に従ひて肥前国名護屋に至り岐阜宰相秀信の手に属して朝鮮に渡海し武功を顕わし、かの地に於いて鞍及び高麗焼の茶碗十箇を得たりしを凱旋の後数年を経てかの茶碗五箇を徳川家康に献じ五箇を豊臣秀頼に参らするの処家康その一を返し覚弘が得たるところのものなればとて井戸と命じて之を賜ふ」とあります。
新井白石の『紳書』には「井戸手の茶碗は井戸三十郎の朝鮮より取って来りて太閤に進ぜしを秘蔵ありて常に井戸の茶碗と召されし故北その形なるを井戸手と申すなり」とあります。
井戸の名称の起原としてはこの説が最も広くいわれているが、天正年間(1573-92)の茶書に時時井戸茶碗というものがあるところをみればこの説もまた疑わざるを得ないようです。
すなわち『津田宗及日記』『古織茶会記』『宗湛日記』など井戸若狭守以前の記録にすでに井戸の名称があります。
また『結耗録』には「井戸茶碗の事、或人云く印度より出づ、故に名づく、印度は天竺の異名なり、古来井戸と書くは非也と、稲子話にこの説非也、この茶碗、昔京都将軍時代か、井の申に埋もれて多く有りしを掘り出せしより井戸茶碗と云ふ、本高麗茶碗なり、又説に形ち井戸に似たる故井戸と云ふは大に誤なりと」とあります。
『嬉遊笑覧』には「太閤の時井戸若狭守朝鮮より茶碗を取りて献ぜしを井戸手焼といふ、井戸は掘りぬくものなれば是根抜にて古波長上の意にいふなり、井戸を家苗のことにいふ説は非なるべし」とあります。
また井戸は葦萱のことで慶尚道の地名であるとの説が多いようです。
萩焼の創始者高麓左衛門、高取焼の創始者八蔵や新九郎は共に葺登の出身と伝えられているから、同地に陶業がありましたのであるでしょう。井萱は葦筆を通俗的に書き改めたものであるでしょう。
しかし葦戸の地が果してどこにあるのか明らかでないようです。また朝鮮語で撤薬を衣土というので、井戸はそれの転靴であろうという説もあるが定説はまだないといえます。

井戸茶碗

井戸蕎麦粉 いどそばかす

井戸茶碗の一手。朝鮮産。紬立ちはぬんめりした鼠色であります。
古くから井戸蕎麦泊と書き慣わしているが本来の意味は井戸の例のことで、井戸茶碗ではないがとにかく井戸のそばへ寄り付ける程のものということであります。
(『高津茶碗と瀬戸の茶入』) ※いどわき

糸底 いとぞこ

糸尻ともいいます。やきものの底。「糸切」の項で述べているように、器物を糸で轆轤上から切り取るために糸切底または糸底と呼ばれる。
本来は糸切のある底だけをいりましたが、削り出して糸切の見えないものも糸底と通称し、さらに一般のやきものの底・座もまた糸底といいます。

糸尻 いとじり

→いとぞこ(糸底)

糸切 いときり

水挽きの時轆轤から製品を離すのに撚糸で切りました痕が、渦状の細い線で残りましたものをいいます。
藁みごを用いるのを古風とし、水指・花器などの大器には馬尾を用いることもあります。
糸切は茶入の場合には特に一種の注目点となり、廃墟の種類とその運用の仕方によって各特徴を現わす。
廃墟の挽づくりの時、手按櫨は右廻り(噸廻り)で時計の針と同方向に回転するため、その糸切の痕を右糸切といいます。
蹴轆轤も普通の場合は同様に右廻りの挽づくりであるから、その糸切も手培櫨の場合と同じになります。しかし特殊な地方では蹴椀櫨を左廻り(逆廻り)で挽づくりをするため、その糸切は左糸切となります。左糸切は日本国内では少数例で、大陶業地には見当たらないようです。
茶入の場合、瀬戸と唐物の茶入を例にとって、日本の廃墟は手車の傾糸切、中国の椀櫨は脚革の逆糸切と見なし、糸切の順逆で日本製と中国製の区別をします。『茶器弁玉集』の「糸切之次第」の条下には所掲の図を示して次のように説明しています。
「丸糸切、此糸切上作物に有能墟目幽に見ゆる也。糸切、是は右廻也瀬戸焼の糸切は如此に造る物也。唐物糸切、是は左廻也唐物の手癖也外の茶入に無事也。箆起底、此通に拓へたる底を箆起とも板起とも云茶入の下地を道立引起手上に置故手筋板目必見る物也。渦糸切、如此通に太くふかく渦に切物也、是の狼手茶入の手癖引掛也外茶入に無之自然手のしれさる茶入有之稀也。束土、国土と云は茶入の底を丸くつくねたるを云り又つまみ底と云有右同通に底を細く挿たるを云り」。
右の単に糸切というのは右糸切で、すなわち日本風の本糸切・噸糸切などと称されるものであります。また唐物糸切は左糸切で外国風の逆糸切であります。その他正式の糸切ではないものを挙げたのは器の底を糸底と称するためらしい。
わが国の須恵器に、糸切痕が認められるのは八世紀からでありますが、中国では竜山文化の黒陶にすでにみられます。なお考古学では、棍撼の回転を停止してから糸で切りましたもの(静止糸切)と、回転を利用して切りましたもの(回転糸切)とを区別しています。
須恵器においてもクレタ島のミノア文明の土器においても、静止糸切は回転糸切の手法に先立ってみられます。
考古学的記載は「須恵器」「土器製作法」の項を参照。

伊藤祐昌 いとうゆうしょう

名古屋の旧家の出で明治の人。常に和歌や茶事を好み、自分自身で種々の茶器をつくって赤津窯で焼かせた。
作品はどれも気高く雅致があり、所掲のような符が彫ってあります。
(『をはりの花』)

意東焼 いとうやき

出雲国意字郡意東村(島根県八束郡東出雲町)にありました磁器窯。
1832年(天保三)または1836年の創始とする説もありますが、遺品の銘から推測すると文化(1804-18)以前の開設であります。
初めから藩窯でありましたかどうかは明らかでないが、天保(1830-44)頃の奉行は宅和三郎兵衛で、下役人の下に組頭石倉又市がいて実際上のすべてを支配しました。中心になる職人は九州から招嘱し、絵師の主任として一時久村窯の木村甚兵衛が来て従業しました。
1842年(天保一三)取締りが乱脈でありましたため事業中止となり、1844年(弘化元)に取潰しとなりましました。銘は長歳山・雲陽長歳山・意東製、または月漠画・月光画などで、中には中国製を模して「大明年製」としたものもあります。なお意東燐閉鎖のあとを受けて金成山焼が始まり、これとは別に同村には鳩峯焼と称するものがあります。
(『日本近世窯業史』『出雲陶窯』)

伊藤富太郎 いとうとみたろう

佐渡無名異焼の陶工。赤水と号し1857年(安政四)に業を起こしたといわれます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

伊東陶山 いとうとうざん

京都の陶工。1846年(弘化三)山城国愛宕郡粟田領(京都市左京区)に生まれた。幼名を重次郎、のち幸右衛門、1895年(明治二八)1月から号の陶山を本名としました。
1863年(文久三)十八歳の時、習画の師小泉東岳の勧めに従って陶事に転向し亀屋旭亭に入門、続いて三代高橋道八・村田亀水・幹山伝七・帯山与兵衛二文字屋忠兵衛・岩倉山募兵衛らの指導を受け、さらに広く各地の窯を見学して1867年(慶応三)頂都の白川畔で開業。1873年(明治六)山城朝日焼の復興に尽力、1884年(同一七)栗田陶磁器組合長に推され、1891年(同二四) かねて研究していた本焼給付の技法を完成し栗田本来の特質を発揮して賞賛され、1896年(同二九)京都陶磁器同業組合の面取となって陶磁器試験場と伝習所を設立させました。1898年(同三一)辞職、翌年6月緑綬褒賞を受け、さらに1912年(同四五)久遷宮邦彦王から「陶翁」の号と共に金銀印を賜わりましました。1917年(大正六)6月帝室技芸員に任命されました。1920年(同九)滋賀県膳所焼を復興。
古稀を過ぎてから洛東鏡山の麓に新窯を起こす決意をし同年9月22日開窯、その2日後の24日に七十六歳で死んです。晩年旧膳所藩の本多久信を養嗣子に迎えましました。二代陶山であります。
(『日本窯業大観』)

以陶世嶋 いとうせいめい

銘。
※こなんやき

伊藤甚兵衛 いとうじんべえ

佐渡雲山焼の創始者で、通称羽甚。弘化年間二844-入)に無名異焼を始めた伊藤甚平、安政年間(1854-60)の伊藤富太郎、明治初年の伊藤無名は子孫に当たるとのこと。
(『本朝陶器故証』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『陶器類集』)

伊藤四郎左衛門 いとうしろうざえもん

尾張瀬戸の窯家。千峰園と号しました。
1878年(明治一)初めて製磁業を起こし非常に熱心でありましました。その製品はみな優良といわれたが、中でも祥瑞模様の捻り形皿などは技巧が特に巧妙で、他の模倣を許さず千峰園作として大いに賞用されました。
(『をはりの花』)

伊藤庄八 いとうしょうはち

万古焼の陶工。三重県4日市の人で1879年(明治一二)窯を起こし、原土を阿倉川村庚申山、羽津村一本松(以上4日市市)小向村・柿村・縄生村(以上三重郡朝日町)などから採りましました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

伊藤鐸次郎 いとうじゅんじろう

→すいうん(翠雲)

伊藤貞文 いとうさだぶみ

→けんこく(乾谷)

伊藤小平太 いとうこへいた

名古屋の人。茶事を好み、1603年(慶長八)頃瀬戸に行って工人に意匠を伝摂し種々の陶器をつくらせた。
一説には瀬戸の領主といわれ、また瀬戸織部の創始者でl603年古田織部の意匠をうけて焼き出したともいわれています。製品に用いた「春古山」の銘は別にスプルスといいます。
(『をはりの花』『瀬戸町誌』)

伊藤久次郎 いとうきゅうじろう

→とうさい(董斎)

伊藤允譲 いとういんじょう

伊予国砥部五本松(愛媛県伊予郡砥部町)の人で五松斎と号しました。
砥部焼が振わないのを嘆いて1877年(明治一〇)肥前有田から職工を招き、自家に貯蔵していた判金を費やして青花や錦欄手を製作したが、失費のため間もなくやめました。1910年(同四三)没、七十九歳。
(『砥部磁業史』)

章登 いと

朝鮮慶尚道の地名といわれているが明らかでないようです。
萩焼の創始者高麗左衛門、高取焼の創始者八蔵および新九郎は帰化朝鮮人で葺登の出生であるというから、同地に陶業がありましたのだろう。井戸茶碗の名称は葺萱から出たという説があります。

凍土 いてつち

凍らせた土。
瀬戸地方では、泥状の原土の余分な水分を除き適度の湿土にするために、原土を板に載せて夜の寒気で凍らせ、そのあと板を立てかけて太陽に当てて凍土を融かして水分を流下させる方法があり、この法を凍土と称しました。

井手 いで

銘。
※さつまやき

一本松窯 いっぽんまつがま

→ぜんもんだにがま(禅門谷窯)

一瓶 いっペい

モ一ス・コレクションの中にこの銘がありますが、年代・出所など不詳。
いっぽうどう(一万堂)京都の名家角倉玄寧の号。天保年間(18301四四) 嵯峨の別荘に窯を築き、仁阿弥道八を招いて雅陶を焼いましました。「一方堂」印を捺したので世にこれを一方堂焼といいます。

厳念・伊都閏 いつべ

祭式に用いる土器。『日本書紀』神武天皇即位前成年年に、天香久山の土で「いつへ」をつくりましたことが載っています。素食と同じ。当初は「はにもの」でありましたらしいが後世は「すえもの」を普通としました。
(『日本書紀』)※いわいぺどき

イッチン いっちん

描用具の一種。
その構造は、柿渋を引いた繊維の嶺い紙で錐状の袋をつくり、これに真飴の囁口を付け、泥菜を袋申に満たし金属の爽搾子で閉じてあります。
袋を指で圧して泥歎を境ロから押し出し高盛りの線などを描く。
イッチンは初め染物で使われていたもので、江戸時代から陶器の文様を描くのにも利用され、明治以来の輸出磁器にも用いられた。
これと似たものに竹筒に注境を付けて白泥楽を入れ、黒素地の上に文字などを走描する方法があり、丹波国(兵庫県)の立杭あたりに筒描きといわれて古くからみられます。
最近では洗眼用のスポイトなどを利用する方法もあります。
これらの装飾手法をイッチン盛り・イッチン掛け・イッチン細工などといいます。
イッチンの語の由来は甲.bかでないが、一説に久隅守景の別号一陳斎から出たといわれます。
守景は古九谷に下絵を付けていたが友禅などにも関係したとのことで、初めてイッチンを用いて染糊線を染め抜いましました。

一勝地窯 いっしょうちがま

肥後国球磨郡一勝地村(熊本県球磨郡球磨村一勝地)の陶窯。
1772年(明和九)に右田某がこれを開き、明治初年には右田忠吾が従業したとのこと。日用雑器であります。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

一志 いっし

伊賀楽の銘。文化・文政年代(1804-30)の藤堂家の家老職藤堂造酒之承は茶事を好み、邸内に窯を築いて楽焼に類する伊賀焼を焼いて楽しみとし人にも配りましました。
これを伊賀楽と称します。伊賀の陶工で楽焼を写したと考えられるのは弥助でありますが、この伊賀楽を焼いたのが弥助であるかどうかは明らかでないようです。ことによると京都の陶工を招いたのかもしれないようです。作品は楽を巧みに写しており雅致があります。器は茶碗・茶入・香合などの小品で、器の底に箆で一志と記してあります。
(『伊賀及信楽』)

一此 いっし

兵庫県 丹波国下立杭の窯から出たものにこの銘があるが不詳。

一斉 いっさい

尾張常滑の陶工浦川竹二郎、一斉と号しました。松下三光の門人でまた寺内半月にも学んです。彫塑が巧みで1887年(明治二〇)県下に天皇の行幸がありました際、御野立所鳳翔閣の手水鉢に竜の彫刻を施す光栄に浴しました。轆轤細工は鉄焼の急須などがすぐれていましました。
晩年会津本郷焼に招かれて指導に当たりましたが病気になって帰郷。1909年(同四二)4月没、五十五歳。
(寺内信一)

一光 いっこう

越中国(富山県)の横萩錦三郎(初め土谷姓)の号。
天保(1830-44)の頃唐津師として富山藩主前田利保に招かれ現在の富山市寺町に仮寓し、彫刻も巧みで一光の号は藩主から賜わりましたものです。
一八五入年(安政五)埴生焼・竹亭焼の製陶に助力し、1861年(文久元)に辞めて同国坂本村に窯を起こし、一年程で加賀藩主前田斉泰の招きに応じ御用唐津師として河北郡木津(七塚町)の藩窯に従事。しかし間もなく廃窯となり金沢鴬谷で製陶を始めました。のち京都に移住。
1882年(明治一五」没、七十五歳。その子徳松は1850年(嘉永三)に生まれ、幼少の頃から父に陶法を受け、父の没後は一光を襲号しました。初め京都で製陶したが1879年(明治一二)金沢に釆て鷺谷で製陶、のち野崎佐吉に窯を譲り、1882、三年(同一五、六)頃越中安居焼の市右衛門窯で陶技を教えましました。数年でまた金沢に帰り製陶の傍ら原呉山に楽焼の製法を習りましました。
1896年(同二九)大洪水のために窯が大破し京都に移りましました。作品は非常に繊密な彫工が施してあります。
1924年(大正一三)没、七十五歳。三男一道もまた一光と号し京都で製陶したといわれています。なお請書には一光として錦三郎と徳松の業績を混同して説明しています。
(『写本日本陶工伝』『九谷陶磁史』『越中製陶史稿』)

一光 いっこう

尾張常滑の陶工柴田和書。1837年(天保八)5月生まれ。轆轤師で朱泥急須をつくりましました。
1911年(明治四四)5月没、七十六歳。姓を片岡とする説もあるが誤りであるでしょう。
(『日本陶器目録』『常滑名工表』)

イッキ灰 イッキぽい

散薬の媒熔剤としてイス灰などと共に地方で応用されています。
北村弥一郎の『窯業全集』第二巻「製陶法」には、釉薬原料のカルシウム化合物中に木灰の一種としてイッキ灰を挙げているが、その樹名は仮名だけであります。
『九谷磁器試験報告』には羊婆如と書いてイッキと傍訓しています。
(塩田力蔵)

一閑人 いっかんじん

名物蓋置の中にこの形があります。
中がからの四角形の一万に人形が一つ付けてありますが、ちょうど閑人が井戸を覗いているのに似ているところからこの名があるのだろう。両方に人形があるのを二閑人といいます。
火入などに唐風の彫塑的人物を付けたものも一閑人と呼ばれる。

一閑人

一観 いっかん

天正(1573-92)頃の瓦工。中国明朝の人といわれます。
1576年(天正四)織田信長が近江国安土(滋賀県蒲生郡安土町)に築城した際、一観を招いて明様の瓦を模造させ屋根を葺かせた。わが国で明様の瓦を用いたのはこの時がほじめといわれます。
(『信長公記』『総見記』『工芸志料』)

一宮 いっかん

帰化朝鮮人で琉球陶業の創始者の一人。1816年(元和二)薩摩国(鹿児島県)から一八・三宮と共に琉球(沖縄県)に渡りましたが、しばらくして薩摩侯に召還されました。
(『北村弥l郎窯業全集』) ※いちろく

一の間 いちのま

連房式の登窯の最初の焼成室をいいます。一の間の下に捨間、その下に胴木間があり、ここから火を焚き付けて一の間に熱を送り、一の間の中がある程度の火度に昇るまで胴木間を焚いて拾間に焚き登り、さらに一の間に昇って焚く。
瀬戸地方で京窯といっているものには拾間はないようです。また現在の瀬戸の丸窯は一の間の名称がなく最初の室を五の間と呼ぶが、これはある時代にいずれの丸窯も一の閏から四の間までを取り除いたためであります。

一之瀬武 いちのせたけし

美濃古窯史の研究者。1905年(明治三八)長野市に生まれた。
郷里の中学を卒業後上京し、いくつかの大学に籍を置いたがいずれも中退、郵便局員・銀行員・探偵社・出版社・通信社・新聞社を転々としながらも一途に文学に励んだといいます。
終戦直前東京を離れて中日新聞岐阜支局へ、さらに濃飛新聞・中部経済新聞多治見支局と移りましました。
ここで1953年(昭和二八)『美濃焼の歴史と現況』を書き、1966年(同四一)前著の誤りを改め、誰も書き残していない美濃焼の詳細と窯の所在を明らかにした『美濃焼の歴史』を著わしました。
なお「古田織部の生涯」を脱稿しながら未刊のまま1968年(同四三)多彩な流転の一生を閉じた。
その他の著に『美濃焼の話』『美濃古陶大観』『濃飛春秋』などがあります。

一ノ瀬窯 いちのせがま

佐賀県伊万里市大川内町にありましました。窯の創始年代は明らかでないが、有田磁器の分派に属し外山の一つに数えられています。
明治中期に大串辰二・竹下勝七・大串茂右衛門・前田鉄蔵・岩崎久兵衛らの工人がいて、井塀を主とした普通染付の雑器を焼いていたといわれます。
(寺内信一)

市之倉窯 いちのくらがま

岐阜県多治見市市之倉町にある窯。
加藤与左衛門常政(1595-1621、瀬戸の初代藤四郎景正の子孫といわれる)を同地の陶祖とし、その曾孫与一郎成光、玄孫長七・忠道らいずれもこの業に貢献するところが多かりましました。
近年は盃の製造で知られています。当地の陶土は道具土ばかりで、磁券の原料はすべて他所から求めなければならないので、少量で生産して収入を高くせんがためであります。ほかに盃台皿・清閑盃・煎茶碗・小深・猪口などを生産し、1970(昭和四五)年度の年産額は3800万円、企業数93、従業員数626。
(『岐阜県産業史』『市之倉村誌』『土岐郡地誌』)

一入 いちにゅう

楽家四代。三代道入の子。1840年(寛永一七)生まれ。初名佐兵衛、のち吉左衛門。一入というのは1691年(元禄四)剃髪隠居後の法名。
1696年(同九)没、五十七歳。
前作にはまだ父ノンコウの影響がみられるが、のちには穏やかな作風となり、高台は丸味を帯び、また黒ぼやや青味を帝びて深味があり、これを特に一入黒と呼びます。黒にはまた美しい赤味の出たものがあり、一入の朱釉といわれて特色になっています。衆楽土は一入以後使っていないようです。
総和の無印が多いので土見在印が珍重されます。藤村庸軒のために数茶碗をつくり、それには用の字の釘彫りがあります。印は楽字の下のハが大きく開いています。

一入

一度釉 いちどぐすり

一度掛け釉のことで、二度掛け釉に対する語。

一介 いちすけ

名物。楽焼茶碗、赤釉、ノンコウ作。
底近くに黒漆で「一介」の文字があり、ノンコウ作の中でも大佗びですぐれたものと評されています。
一介は千宗旦に出入りしていた左官で、ある時賃金の代わりにこの茶碗を一介と箱書して与えられた。
一介はこれが百余金で売れたので驚きその代金を宗旦のもとに持参したが、宗旦はいりましたん与えたものであるからと受け取るのを固く拒んです。
そこで一介はただちにこれを買戻し、一生この一碗で茶事を楽しんだと伝えられます。
大変風雅な逸話なので一介の死後京都の三井八郎右衛門がこれを懇望しそれ以来同家にありましたが、文化(1804-18)頃松平不味が購求しました。
代金は二百三十五両とも三石両ともいわれています。
(『茶事集覧』『大正名器鑑』)

市四郎 いちしろう

陶工。1807年(文化四)尾張国春日井部大森村(愛知県名古屋市守山区大森町)に生まれ、境仙堂治兵衛に入門し名工といわれた。
嘉永(1848-54)初年に彦根藩の湖東焼に従事したが間もなく帰国、1855年(安政二)に井伊直弼が湖東焼振興のために各地から良工を集めた際には真っ先に招かれ、その優秀な技術が認められて翌年12月に三人扶持を給わり職人頭に任命され、さらにその翌年5月には二人扶持増加したうえ苗字を許されて寺尾の姓を名乗りましました。
市四郎は蹴轆轤を用いた大器物の製作が巧みで、また瀬戸時代には四畳半の茶室や六尺(1.8メ一トル)の燈籠などもつくりましたと伝えられています。
湖東焼の作品もまた優秀で絵付は常に一流絵師が行なりましたといわれています。
子に男子がなかりましたので陶工伝七(幹山)を一女の婿養子に迎えましました。
1862年(文久二)閏8月湖東焼の廃窯で職を解かれ、伝七と共に京都に移りましたが訳があって離縁し、尾張に帰って愛知郡川名村(名古屋市昭和区川名町)に窯を築き磁器を焼成して門弟を養成しました。
世間には川名の市四郎として知られていましました。その作品には銅板画を印刷したものがあり、川名焼・五郎焼・市四郎焼ともいいます。
1878年(明治二一)6月10日没、七十七歳。
(『湖東焼之研究』) ※ごろうやき

一条九兵衛 いちじょうくへえ

楽脇窯の作家。
初め楽家四代一入の養子になりましたがのちに不縁となり、その後京都一条通りに住み楽焼を業としました。
製品にはよい晶も少なくなかりましたが、楽家六代左入の時に窯業を禁止されて晩年は江戸へ移住したといわれます。
(『日本陶工伝』)

市左衛門 いちぎえもん

→かとういちぎえもん(加藤市左衛門)

市五 いちご

瀬戸の陶器。モ一スは「市五の銘あるものは陶工の造形に秀でたる作風を示す、その年代は全く不明なるも蟻川氏はこれを瀬戸と鑑定せり」と述べています。
(『日本陶器目録』)

一元 いちげん

楽の脇窯玉水焼の初代、通称玉水弥兵衛。楽家四代一入の妾腹の子で、一入没後母と共にその郷里南山城の玉水(京都府綴喜郡井手町)に移り、楽焼を習って玉水楽を始めました。一元はのちの法名。
稀代の妙手で、長次郎の「太郎坊」や「聖」を写した傑作があり、また光悦写しにも長じていましました。
時に楽印を使い、あるいは一元の彫り銘がありますが、多くは無銘なので紛れているものも少なくないようです。
1722年(享保七)没、六十一歳。
※たまみずやき

一元

市木野焼 いちきのやき

市来焼ともいいます。鹿児島磯海芹にありました窯の陶器。

市来伊太郎 いちきいたろう

鹿児島県の陶工。幼い時に田之浦陶器会社に入り、1907年(明治四〇)御慶焼の陶工となりましました。
1927年(昭和二)7月市来窯を開き、同年12月没。
(『薩摩焼総鑑』)

市江鯉右衛門 いちえりえもん

→いちえはうぞう(市江鳳造)

市江鳳造 いちえほうぞう

尾張藩士。文化・文政(1804-30)頃の人で市江鯉右衛門と称しました。若い時から製陶を好み、勤仕の余暇に陶法を平沢九朗に学んで茶器や雑器をつくりましました。
作風は九朗に似て工人風がなく、みな上品で大変雅致に富み、当時の人々に大いに愛玩されました。世に鳳造焼という(時に風造と誤まられる)。なお嘉永年間(1848-54)に村瀬美香が不二見焼を始めた時に指導をしたともいわれています。
(『陶器類集』『をはりの花』『名古屋市史』)

一雨 いちう

銘。
※にちじゅん

一井戸二楽三唐津 いちいどにらくさんからつ

昔からもっぱら茶人の間で使われる語で、茶の湯茶碗を品定めしてその順位を示したものです。
これよりややあとから出たといわれる語に一楽二萩三唐津というのがあり、これは国内産のものだけを晶評したものでありますが、どちらも茶人の陶器に対する噂好の一端がわかる。

板谷波山 いたやはぎん

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した官展系第一の巨匠。本名は嘉七。
1872年(明治五)茨城県下館町(下館市)に生まれ、1894年(同二七)東京美術学校彫刻科(現東京芸術大学美術学部)を卒業、石川県工業学校・東京高等工業学校(現東京工業大学)で教壇に立りましたあと、1902年(同三五)東京田端(北区)に陶房を設けて製陶に専心しました。
帝室技芸員になりましたのをはじめ、芸術院会員、文化勲賞受賞など斯界最高の栄誉を一身に集めると共に、宮展陶芸部門の今日の隆盛を招く推進力となりましました。
その作品の特色は形姿の端正と胎釉の細密滋潤に加えて、流麗きわまりない薄肉彫りの文様にあり、近代随一と評価されています。
関東の陶芸作家の団体である東陶会の主宰者としてよく後進の指導にも当たり、その門から井上良斎・宮之原謙・安原亭明らを出しています。
1963年(昭和三八)没、九十一歳。

板谷波山

板屋甚三郎 いたやじんざぶろう

文政年間(1818-30)の加賀国(石川県)小野窯の陶画工。

板川内 いたのかわち

佐賀県杵島郡山内町。百間窯のありましたところで、山中の僻地であるため窯跡が永く残っており、朝鮮系の層手・刷毛目などの陶片が出た。このことから推察すると磁器以前に陶器を製造していたらしい。
この窯は正保(1844-8)の頃簡江窯と小樽窯の二派に分かれて移転しました。
(寺内信一)

井田吉六 いだきちろく

江戸の陶工。乾山写しの名手で、乾請または己請と号しました。下総国(千葉県)海上郡布間村の人で、九歳で江戸に行きのちに骨董の売買を業としました。
その後製陶を思い立ち1825年(文政八)浅草蔵前(台東区)で自作の陶器を売りましました。広く古陶器を研究し、これを応用して精巧で非常に小さい玩具類をつくり、1834年(天保五)浅草観音境内に移って店を開いましました。
流行に乗じて名声を得、しばしば将軍家から席焼を命じられた。その後店を閉じ、1854年(安改元)六十三歳の時に甥の三浦乾也と共に長崎亀山窯に赴き、帰路伊勢国(三重県)の竹川竹斎の射和万古窯に助力し、その後武蔵国(埼玉県)飯能窯の復興に力を尽くしました。
1861年(文久元)没、七十歳。橘禄銘も用いましました。

板掛け いたがけ

瀬戸系の陶窯では、成形した素地を並べた板を受けるものを板掛けといい、仕事場・ジモロなどの天井に取り付けたものは吊板掛けといい、戸外のものを千坂掛けといいます。

板起こし いたおこし

轆轤の回転を止めて、器を竹箆で軽櫨の上から起こし取りましたもので、箆起こしともいい糸切の痕がないようです。

磯焼 いそやき

→いそのおにわやき(磯御庭焼)

磯村孝太郎 いそむらこうたろう

→はくさい(白話)

磯御庭焼 いそのおにわやき

薩摩焼殿窯の一つ。その伝系には四度の変遷があります。すなわち斉彬御慶焼(集成館、錦谷窯場)、仙巌焼(忠義-御慶焼研究所)、新御庭焼(忠重)、磯焼(市来窯)であります。
島津斉彬は富国策によって1853年(嘉永六)現在の鹿児島市吉野町の磯別邸内に集成館を創設しあらゆる事業の試験改良を図りました時、陶器の触法などの改善と磁器の創製を計画、1855年(安政二)6月苗代川の錦手方主取朴正官を招いて指揮に当たらせ、同時に自分の発明も加えて各種の陶磁器を製造させました。
さらに斉彬は猫神詞の付近に錦谷窯場を設け自分で土を捏ねて楽しみとしました。
臼砲の弾丸に似せて茶碗をつくり狂歌を箱書したことは有名であります。その間に鍋島藩とイス灰交渉をし、また着々と薩摩陶磁に新計画を盛り込んだが、1859年(安政六)に鶴巻城で没しました。その後忠義の代になって、薩摩焼が粗製に陥りましたのを嘆き1895年(明治二八)7月製陶所を磯邸内に建設、陶工に泊七太郎・市来伊太郎・竪山彦四郎・森尾直太郎、画工に郡山嘉納太・有山長太郎・森彦四郎・迫田幸吉らを招いて古薩摩以来の特色を研究し、毎日工場に行っては調土施釉法などの試験をし自ら指揮経営しました。
この時創始されたものに台(代)砂盛・二重族入手法があります。またここを一般に御庭焼研究所と呼びその作品を仙巌焼といりましました。磯別邸の名称の仙巌園に因んだものであります。
1897年(明治三〇)に忠義が没し、1899年(同三二)9月に大暴風があって窯場が破壊し事業は廃止されました。1907年(同四〇)6月に島津忠重が再び旧集成館内にこれを建設し、陶工の市来伊太郎・市来英吉・末吉依助、陶画工の黒江菊次郎・迫田幸吉・壱岐武熊らを従業させました。
1915年(大正四)元紡績所跡の北隅に窯を移し、その後釉薬・櫓灰などを精選し日を追って良品を製出したが、1927年(昭和二)5月事業が閉鎖され、ここに薩摩焼と島津家とのつながりはまりましたく断絶しました。
しかしその陶工でありました市来伊太郎はこれを残念に患い、子の栄吉と共に島津家の許可を得て同年7月集成館南側の地所で開窯、その12月には伊太郎は死去したが栄吉がこの余流を守って事業に精出したといわれています。
(『薩摩焼絵鑑』)

磯御庭焼

磯庭製 いそにわせい

銘。
※いそのおにわやき

いそくあん(為足庵)

名古屋の日蓮宗法華寺の住職。文化年間(1804-18)の人で日義と称しました。
常に茶事を好み退隠後は名古屋の東南前津の里に魔を設けて為足庵と名付け、楽しみに陶器をつくって所掲のような印を押しました。晩年の作品には啓運老比丘と書いたものもあります。
(『をはりの花』)

伊勢天日 いせてんもく

この名は室町末期から江戸初期にかけての茶会記その他に散見され、伊勢(三重県)産の天日かとみられるが、一説に美濃(岐阜県)産の天日で伊勢山田(伊勢市)の御師に年々需用されたものが呼ばれたともいわれます。下手なものでありましたらしい。

伊勢手春慶 いせでしゅんけい

瀬戸茶入の一種。伊勢国(三重県)と尾張国(愛知県)の填で焼かれたので伊勢手といいます。
春慶の作ではなく、形格好フが似ているので一般に春慶といいます。
土は白色で堅く、丸糸切で、下釉は濃い柿色で銀が強い。上釉は黒色に黄飴色が交じって飛釉が多いようです。
中でも一筋釉流れのあるものを賞翫します。これを千種手といいます。また地釉が黒釉で黄飴色の飛釉があるのは下作とされます。
(『茶器弁玉集』)

伊勢窯 いせがま

尾張(愛知県)と伊勢(三重県)の国境にありました茶入窯。

イスラム陶器 いすらむとうき

イスラム美術の一環としてみられる陶器美術。イスラム教を始めたマホメットの時代すなわち七世紀前半から十七、八世紀頃まで、イスラムの世界に栄えた美術工芸品の一つにイスラム陶器があります。
イスラム美術はサラセン美術とかモ一ル美術などと呼ばれることがありますが、それらはヨ一ロッパからの呼称で狭義のものでしかないようです。そこで次第にイスラム美術の語が用いられるようになってきた。
イスラム圏は東南アジアからアフリカ諸国・スペイン・モロッコにまで及んでいるが、イスラム美術という場合は、パキスタンから西、地中海沿岸のイスラム圏のものをいいます。イスラムは聖典『コ一ラン』によってすべての生活文化を統一したが、諸民族の文化の独自性はその間に発揮されました。
イスラム美術の特徴として、文様におけるアラベスクなど幾何学文の使用と、生物の具体表現の禁止がありますが、イランについては必ずしもあてはまらないようです。イランの陶器にはデザインに人像や動物像を用いたものはいくらもありますが、これらはササン朝文化の影響とみられます。イスラムの聖堂のモスクは美しいタイルで装飾されることが多いか、これらにはイスラム陶器のすぐれた技巧が十分に示されています。
またモスク内部には礼拝する際のメッカの方向を表わすミハラ一ブがありますが、この装飾にもタイルが使われることが多く、コ一ランの聖句を記すことが多いようです。
コ一ランに取材した文字を文様として用いるのはイスラム美術の特色で、陶器にも多くの例がみられます。
イスラム陶器が発展する前提には、東のササン系、西のシリア・ビザンチン系の技法がありましました。
錫を用いた白釉、コバルトや銅の使用による青の発色、ラスタ一釉、青緑のアルカリ釉、金属を混ぜて赤・黄・褐色を発色させること、型押しにしたのち緑紬を掛ける装飾、三彩風の色釉の使用などがそれであります。これらを基礎として華麗なイスラム陶器が生産されました。透明釉の下に絵付する釉下加彩の方法も、イスラム陶器の世界で発見されたとみる考えもあります。
十一世紀頃には中国陶磁との交流も多く、特にモンゴルの西進以後は中国陶磁の影響が強くなりましました。十六世紀末にサファピ一朝のアッバス一世は、中国から多くの工人を招いて製陶に当たらせ、青絵風・赤絵風・染付風の陶器が多くつくられた。その一部はバタビア経由でヨ一ロッパに輸出され、約二十五年間に毎年平均1500個を輸出しました。どれも中国風の文様でありましました。しかし磁器と陶器の差、量的な少数さで、中国風イスラム陶器は中国磁器とヨ一ロッパ市場を争うには至らなかりましました。
一方イスラム陶器のデザインが逆に中国に影響したことも認められます。器物の表面空間を幾何学的に正確に分割し、隙間のない程ぎっしりと文様が埋めた元・明の染付のデザインは、イスラム陶器にみられる感覚に似ています。また奉寿とか万年無窮といりました瑞祥文字を文様とすることも、聖句を文様とするイスラム陶器の影響ともみられます。

伊豆屋弥左衛門 いすややぎえもん

→いずみやじろべえ(泉屋治郎兵衛)

出雲焼 いすもやき

出雲国(島根県)で産出する陶磁器の絵称。楽山焼・布志名燐のはか多数のやきものがあります。各項参照。

出雲陶器会社 いずもとうきがいしゃ

1922年(大正一一)7月30日の創立。社長谷弥l郎、工務長福間善蔵、技術部長船木運市、ろくろ棍埴主任小室万市、描画主任福間定義。窯は布志名窯から二キロ程の山陰本線湯町(玉造温泉)駅前にあり、作品はまりましたくの布志名系統。
使用粘土は潜摩都の奥地や湯町(八束部玉湯町)の報恩寺の土を主とし、製品は花瓶・盛花鉢・植木鉢・床置物・食券・火鉢類。
出雲大社・湊川神社などの土産品などの指定工場として発展しました。
(『出雲陶窯』)

出雲若山 いずもじゃくぎん

出雲国(島根県)布志名焼の銘款。
明治時代に輸出向けのものなどに用いましました。若山は布志名(八東郡玉湯町布志名)の字で陶家が特に多いところであります。
※ふじなやき

出雲肩衝 いすもかたつき

名物。古瀬戸肩衝茶入。金森出雲守可重が所持していたのでこの名があります。
可垂が所領飛騨国(岐阜県)で小壷狩りをして発見したものといわれます。厚づくりで柿釉が冴えて黒の斑が非常に美しく、金気色が見事であります。細川三斎はこれを懇望して譲り受け、途中で一度細川家を離れたが再び同家に返りましました。
(『麟鳳亀龍』『大正名器鑑』)

出雲肩衝 名物 古瀬戸肩衝茶入

泉山 いすみやま

佐賀県西松浦都有田町の東北部にあり磁器の原料を産出します。
地質時代の第三期に噴出して石英粗面岩の丘陵を形成し、鉱泉の硫黄質ガスによって分解作用が促されたものと思われます。
元和・寛永(1815-44)の頃に帰化朝鮮人の陶工金ケ江三兵衛(李参平)によって発見され、それ以来百年余りわが国唯一の磁器原料産出地でありましたが、正徳(1711-6)頃から次第に天草石の使用が著しくなりましました。
当時天草石は遺砿が粗略でありましたため、有田磁器では製品の名声を守るために内山・外山(大外山を除く)はその使用を厳禁していたが、明治中期になって天草石も加味するようになりましました。「有田焼」の項【内山外山の制】の条参照。
(『日本近世窯業史』『有田磁業史』)

泉屋治郎兵衛 いずみやじろべえ

但馬国(兵庫県)の人。姓は長谷。
1764年(明和元)伊豆屋弥左衛門と共に出石郡細見村字桜尾(出石町)に窯を築いたが、試焼中に病死。
これが出石焼の起原であります。ただし後年の出石焼は磁器であるが治郎兵衛の窯は土焼でありましました。
(「出石郡役所調査」)

和泉の陶器荘 いずみのとうきのしょう

→すえむらこようしぐん(陶邑古窯址群)

和泉長九郎 いすみちょうくろう

島根県都賀郡郷田村(江津市郷田)の陶家。
1873年(明治六)岡地で開窯し日用雑器をつくりましました。
また以前因幡国(鳥取県)八頭郡曳田窯の松田和平に陶技を伝授しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

泉新窯 いすみしんがま

佐賀県西松浦郡有田町泉山年木谷の奥にありました窯。『有田沿革史』に安永年間(1772一八こに新窯を築いたとあります。
初めは宗伝直系の深海市郎の経営によりましたと伝えられるが、明治初年には深海幸三がここで製作し、その子垂之助と竹治の代になって少しずつ精巧の域に達しました。幸三が焼成した跡には主に本案彩画物と極真匠鉢の破片があり、宮内省御用晶を焼遺していたと推定されます。
1886年(明治一九)墨之助が没し、竹治も1897年(同三〇)有田徒弟学校の教師になりましたので廃業、窯も中止になりましました。
(寺内借)

泉崎窯 いずみざきがま

沖縄の都覇区泉崎村(都覇市壷屋町)にありました窯。
元禄年代(1888-1704)の末、仲村渠敦元という者がいて壷細工になりましたっのち1748年(寛延元) になって島袋常男が事業を始めました。
器は深緑色もしくは黒褐色のやや軟弱なもの、またほ自称でかすかに黄色を帯びたものであります。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』) ※りゅうきゅうやき

泉窯 いずみがま

肥前有田泉山の古窯。多久系の磁器窯で、「泉」の銘のある器を出土。
(『有田古陶銘款集』)

出水 いずみ

モ一スは著書『日本陶器目録』に「薩摩の北部なる出水村に於て雑器を造り長崎に出す」と記し、1650年(慶安三)から1880年(明治一二)までの各時代の見本を掲げた。
しかし現地調査をしたところ根拠になる事続がなく、また関係請書にも記載されていないようです。
ただ乎佐焼の創始者今井儀右衛門が下出水村脇元(阿久根市脇本) に磁器製造所を設立し失敗したという記録から推測し、これを出水焼と称したのではないだろうか。
(前田幾千代)

厳丑 いずべ

→いつぺ

イスファファン いすふぁふぁん

イランのほぼ中央にある古都。
海抜1500メ一トル程の高原地にあります。
ササン朝時代は軍隊の駐留した町で満りましたが、サファピ一朝時代には首都として栄え、ベルシア文化の集中した代表的な都市となりましました。
市内には1812年から30年にかけてアッバス大帝によって建設された大モスク(シャ一・モスク) があり、全面に美しいタイル装飾が施されています。
その他はば同時期に建てられたロトホラ一モスク、十一世紀のセルジュク朝時代のジョメ・モスク、十七世紀のチャ一ル・バ一ゲ(神学校) などがあって、いずれもすぐれたタイルを中心とした陶芸をみることができる。
またチェヘ一ル・スト一ン(四十柱) 宮殿博物館には、アルデビル収集品の一部である中国渡来の磁器が陳列されています。
ミナイ陶器の名残りともいうべきエナメル七宝は、ミナといわれて今もこの地の特産品となっています。

伊豆原麻谷 いずはらまこく

名古屋の画家。字は大迂、通称構造、初め松谷、のち麻谷と号しました。
三河国(愛知県)の人で十歳の時名古屋禅寺町の某院の小僧となりましたが、画を好みついに還俗して長崎に行き中国画を学んです。三十歳で京都に行き、五十歳で名古屋に帰り花屋町に住んだが、画風が清閑で超然としているため一般には受けなかりましました。また瀬戸に来て磁器(ある本には尾張瀬戸の磁祖加藤民吉の作品としている) に絵付をしたといわれています。1860年(万延元)6月没、八十三歳。
(『汲古草稿』『瀬戸陶業史』『日本陶蛮史』)

イスパノ・モレスク陶器 いすぱの・もれすくとうき

イスラム陶器の技法が西方に伝わり、主としてスペインで開花したものです。
十二世紀頃に始まりその中心はバレンシアでありましました。デザインにはイスラム陶器の痕跡が明らかに認められます。ラスタ一釉を豊かに用い、ほかの色彩も多いようです。また金彩を施したものもあります。
この技法は十八、九世紀にイギリスのスタッフォ一ドシャ一の製品に大きく影響し、ピンク・紫・ルビ一などの鮮かなラスタ一が使われるようになりましました。なおマジョリカ風の陶器も多く製造されました。
バレンシアでは十七世紀以来陶業は極めて盛んで、色は青・緑・黄を主調とし、花や人物で飾りました陶器を多く生産してきた。水壷・ブドウ酒壷は多色をもって飾られることで知られ、タイルは白い錫釉で覆りましたのち多くの色で文様を付けてあります。

イスパノ・モレスク陶器

杵灰釉 いすばいぐすり

イス灰を媒熔剤とした釉薬。わが国在来の磁器は粘薬の媒熔剤としてもっぱらイス灰を使用する傾向がありましました。
イス灰釉は光沢に潤いがありまたかすかに水色を帯びていて、最も染付に適するとされます。

杵灰 イスばい

イスの木の灰。磁器紬薬の媒熔剤として長い間専用されていましました。
イス灰の生産地は宮崎県およびその付近。木灰を粘葵に用いるのはそれが含有する炭酸カルシウムを利用するためであります。
今では木灰.の代わりに石灰が盛んに使われているが、精良な美術品にはもっばらイス灰が賞用されています。

蚊母樹・梼・杵 いすのき

金繚梅科に属する常緑喬木。東日本では「イス」といい西日本では「ユス」といいます。
日本の西南部の暖かい地方の産で九州地方・四国の南端に多く、樹皮を焼いた灰は磁器釉薬の媒熔剤となり主に宮崎県で産します。

イスタリフ いすたりふ

アフガ二スタンの首都カブ一ルの北西にある陶器の産地。人口約三石程の小村。
付近の山から原料土を採取し、クルミまたはポプラでつくりました蹴轆轤で成形します。次いで白い化糀土で全体を覆う。釉は青と緑の低火度釉で、背の発色には銅を用い、緑は酸化釘による。さらに花文・幾何学文が刻されます。
窯は内部を円筒形とし周囲は立方体状に天日干し煉瓦で築いたもので、各辺は二・五~三メ一トル程あり、上部は焼成室、下部は火室となっています。燃料には薪を用い、一回の焼成に約五百から一千個の器物が焼かれる。
温度は800~850度で約九時間で焼成が終わる。陶業は五~10月の間の季節産業で、鉢・皿・土偶などの雑器が中心であるが一般に脆いものであります。
1964年当時には二十五基の窯があり、熟練工1日当たりの成形量は垣径二十五センチほどの鉢で八十個でありましました。西アジアに残存する古風な陶器産地としては代表的な地であります。
(吉田光邦『西アジアの技術』)

イスタリフ

五十鈴川焼 いすずがわやき

三重県宇治山田市字新田(伊勢市)で製出された陶器。
1910年(明治四三)に始められ常滑焼の森下杢二が工人でありましました。のちには「川」を略して五十鈴焼と呼んでいたらしい。
(『日本近世窯業史』)

出石焼 いずしやき

兵庫県出石郡出石町で産出する磁器。
1764年(明和元)に同地の長谷治郎兵衛が伊豆屋弥左衛門と出石郡細見村字桜尾(出石町細見) に土焼窯を築いたのが始まりで、1789年(寛政元)に二八屋珍左衛門が磁器の製作を企てて肥前有田に赴き磁器の製造法を習得して帰郷したが、資金が乏しく開業するまでには至らなかりましました。
その後多くの変遷を経て一時窯は藩侯仙石氏が所有し、1801年(孝和元)には城東谷山村(出石町谷山)に移って肥前風の丸窯を築き磁器を製造するようになりましました。
その後窯元が次第に増加し一時隆盛となりましたが再び衰退していりましました。
1875年(明治八)に同地出身の桜井勉の勧めで肥前大川内(佐賀県伊万里市大川内町) から教師を雇い入れ、各自醸金結社して盈進社と称し、出石町に新窯を開き士族の子弟を数十名集めて技術を習得させたところ成績が良く、磁質を精選して純白の磁器を製造するようになり出石磁半の名は次第に高くなりましたが、1885年(同一八)に盈進社は解散しました。
その後斯業の不振と共に粗製濫造の悪弊が生じたので、1899年(同三二)に挽回の一策として教師友田安清を石川県から招き、出石町に試験所を設置してもっぱら改良に従事させました。
製品には白色の花細工物その他の装飾品があるはか、日用品も製出。
(『日本近世窯業史』『日本窯業大観』)

出石石 いずしいし

兵庫県出石焼の原料で、出石郡出石町谷山字柿谷に産する白石であります。
これに同町細見字飛谷産の粘土を加えるのだが、前者は石英粗面岩中の白石脈に係り、後者もまた同岩の分解したものであります。
※いずしやき

伊助焼 いすけやき

→いまいずみやき(今泉焼)

伊助 いすけ

尾張瀬戸の陶工加藤伊助。作品の神酒壷の底に所掲のような款記があります。
(『をはりの花』)

碓新舎 いしんしゃ

加賀国大聖寺(石川県加賀市大聖寺町)の九谷焼の画工竹内吟秋が設立した塾。
吟秋は古九谷の陶法を研究して用彩私法を修得し、維新舎で画工を養成しました。
1879年(明治一二)に九谷陶器会社が設立されると生徒を率いて入社し陶画工を管理、このため維新舎も自然になくなりましました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

石割松太郎 いしわりまつたろう

祥瑞の研究家。大阪府堺市柳町に生まれ、早稲田大学文学部を卒業後都新聞社・大阪毎日新聞社に勤め、1929年(昭和四)退社して東京に移住し、母校で江戸文学を講じるかたわら人形浄瑠璃・西鶴などの研究を続けた。
わが国の磁祖祥瑞について、従来室町時代の呉祥瑞こと伊藤五郎太夫と伝えられていたが、彼は呉祥瑞とは別人であるとし、祥瑞五郎太夫は江戸時代初期の人であると考証し、また磁祖李参平説を否定し、わが国の磁器は中国伝統であることを明らかにして『東洋美術』『陶磁』に発表しました。
1934年(昭和九)『祥瑞の研究』を刊行。1936年(同一こ7月没、五十六歳。

石渡竹延 いしわたりちくえん

銘。東京薩摩の錦手花生にこの銘があります。画工の名前であるでしょう。明治初期のものであります。
(『日本陶器目録』)

石渡竹次郎 いしわたり七けじろう

東京の陶画工。竹信と称しました。高橋松月に入門し猪口画焼付法を習得して二十二歳で独立。
その後花瓶・置物類の焼付法を自得し、そのすぐれた特徴は紺青画給付で、他の工人では焼付けられない大器をもつくることができたといわれています。
1879年(明治一二)没、三十九歳。
(『東京名工鑑』)

石綿焼 いしわたやき

福島県西白河郡および石川郡で生産され万古焼に似ています。強烈な火熱にも耐え実用に適しているといいます。
(『福島県の産業』)

意春 いしゅん

朝鮮釜山窯の陶工。伝記は不詳でありますが、『朝鮮方日記』によれば1717年(享保二)に釜山に渡りましたとあります。
当時はなんらかの理由で朝鮮の原土が釜山に釆なかりましたので、意春も和館内および牧の島の土を調合して製作したと伝えられます。
土は鉄分が多くまた槻土を欠いていたので、宗家蔵の意春作茶碗は全体に厚作りで赤味を帯び楽焼に近いものであります。
(『釜山窯卜対州窯』)

石焼 いしやき

土焼に対する語で、磁器すなわち石質に焼き上がるものを指す。

石目焼 いしめやき

『本邦陶説』に「山城国で出る陶器」とあるが不詳。

石丸弥一右衛門 いしまるやいちえもん

肥前国(長崎県)の陶工で、金ケ江三兵衛(李参平)の孫。
初め東彼杵郡折尾瀬村吉ノ元(佐世保市)にいたがその後同村木原に移り、樋口頓一らと共に細代石を採掘する仮の許可を得て青花陶器を製出。資金を失って事業は数年と経たないうちに衰えたが、その当時小山田佐兵衛という者がいて弥一右衛門に協力し旧業を回復しました。明治年間の石丸六郎はその子孫に当たる。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

石丸品蔵 いしまるしなぞう

安芸国加茂郡原村(広島県賀茂郡八本松町原)の陶工。
1854年(安改元)同地で陶業を起こしたが、結果が思わしくなかりましたため美作国(岡山県)の大森実蔵について学び、また京都の井上千吉について五年間京焼の陶法を学び、ついで同国岡本保次郎の工場で十年間従業して、1880年(明治一三)に帰村し自家営業を始めました。日用品の粗陶であります。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

石部焼 いしべやき

近江国石部(滋賀県甲賀郡石部町)のやきものです。
草津焼に劣らないもので、時代も大差ないようです。下方の上釉のないところに刻印されています。

石はぜ いしはぜ

素地の中の砂石が焼けはぜて景色となりましたものです。
砂石の周囲に割れ目が生じて砂石が露出し、その砂粒が熔けて膨れ出たり石の角が丸味を帯びたりし、砂石の白色が土釉の地色と反映して奇抜な景色を現わし、しかも水が漏らないところから茶人に珍重されました。
古瀬戸の茶入、唐津焼の茶碗などに有名な石はぜの古製があります。

石はぜ

石野竜山 いしのりゅうざん

九谷焼の陶画家。1861年(文久元)加賀郡八田村(石川県金沢市八田町)に生まれた。初名兵太郎。
若年より絵画を中浜竜淵・垣内雲隣に学び、陶画を八田逸山に習い、1883年(明治一六)より陶画業を自営し、繊細緻密な人物・山水などを描いては群を抜いていましました。
1898年(同三二 松原新助について製陶を研究し、1902年(同三五)より上絵紬をもって釉下彩に等しい黄釉・緑釉・染付藍・茶褐釉・淡緑釉・桜色氷裂釉・真珠釉などを発明し、ますます技術の研究を進めて文様を高尚なものにしました。
1930年(昭和五)帝展推薦に選任。1936年(同一一)3月投、七十五歳。
(『九谷陶磁史』)

石田平蔵 いしだへいぞう

九谷焼の陶画工。加賀国小松(石川県小松市)に生まれ北市屋平吉(のちに石田の姓を名乗る)の養嗣子となりましました。陶号は北玉堂衆精。
明治初年松任町の画家松泰に絵画を学び、1886年(同一九)東京に転居、第七回観古美術会において両陛下の前で炭焼即席絵付を行ない製品を献納、それ以来名声を得て1888年(同二一)郷里に帰り小松町字寺町(小松市寺町)で陶画によって生計を立て、青九谷の名手といわれた。
1892年(同二五)没、四十九歳。その子平蔵は枕石庵雲抱と号し、京都で製陶。
(『九谷陶磁史』)

石田氏 いしだし

銘。
※はとがみねやき

石田嘉三郎 いしだかさぶろう

石見国溺摩郡松代村(島根県大田市久利町松代)の人で1848年(嘉永元)同地に開窯、主として日用雑器を製出。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

石皿 いしぎら

近代まで街道茶屋の煮染皿に用いられ、陶器質または妬器質で多少の地色があり、それに鉄砂または呉須の淡彩で粗画を描いています。多くは尾張・美濃国(愛知・岐阜県)の産で、初期のものは呉須を使わず銅線の斑点または飛釉を施しています。
皿の大きさは直径四〇センチばかりのものが最も多く、のちにはこれを大として大中小三個組込みのものもありましました。食物を盛りました時の持ち運びに便利なように反縁とし、初期のものには反縁の上に溝がありましたがのちには溝がなく平坦になりましました。安定を保つために高台は大きくて低い。
初期の文様には新鮮な感じを与えるため草がよく用いられていたが、その後大津絵のようなおどけた粗画となりましました。
石皿の名は長石を粉砕したものに土灰を混ぜた釉薬を施したためであろうか。石皿は絵瀬戸の最初のもので、李朝鉄砂・絵唐津と類似のものであります。発掘の結果によると美濃笠原窯のものが最も古く、年代は慶長1596-⊥615)の初期と思われます。ここの製品は妬器質で鉛色の地色をしており、装飾に鉄砂や銅線を使っています。
しかし笠原の原土はこれに適していないので間もなくその製造をやめました。のちに瀬戸の洞の窯で多量に焼かれたが、洞の製品は陶器質で地土はやや黄色味を帯び、装飾には鉄砂と呉須とが使われ反縁は平坦となりましました。
幕末になって製造単価の関係から馬の目皿に圧倒されてまりましたく衰え、今日では絵もなく形も崩れて、これまでの石皿よりはるかに粗雑なものが煮染皿として製造されています。
石皿の素朴で単純な意匠のうちに無意識的な美しさがあって、近世の下手物称美運動によって世人に注目されるようになりましたものです。
なお西鶴の『世間胸算用』(1892・元禄五年刊)には湊焼の石皿のことが書かれています。

石皿

石河丸壷 いしこまるつぼ

名物。漢作丸壷茶入。石河宗因が所持していたところからこの銘があります。
総体梨地釉で艶が深い。宗因から加賀前田家に入り以来同家に伝来。
(『大正名器鑑』)

石河丸壷 名物 漢作丸壷茶入

石粉 いしこ

長石または長石を含有する岩石の粉末で、陶磁器原料として重要なものです。石粉は尾張・美濃(愛知・岐阜県)地方の呼称で別に広見ともいいます。
おそらく三河国西加茂郡広見村(愛知県豊田市)から良質のものを産出したことによる。
その品質によって釉粉と地粉の名称があり、粘粉は上質のもので主として和英に使われ、地粉は品質が劣り主として素地に使用されます。その水簸物は漉粉と呼びます。
産地は愛知県および岐阜県が第一で、滋賀県・茨城県・愛媛県などの各地から産出します。石粉を使用する目的はそのアルカリ成分を利用することにあり、そのため純粋の長石に近く含有鉄分の少ないものを良品とします。

石黒宗麿 いしぐろむねまろ

1893年(明治二六)今の富山県新湊市久々湊の藩医の家に生まれた。富山中学中退。
金沢野砲兵第九連隊除隊後、同市立町に戻って楽焼を始めたのが陶芸のはじめでありましました。
1919年(大正八)東京渋谷に移り、石炭窯などを自宅に築いて関東大震災まで焼いたがものにならなかりましました。震災後埼玉県比企郡小川町に住み、ここに石炭窯を築いて約二年間作陶したがこれも失敗に終わり、1925年(同一四)12月から金沢市法島町に移住し、隣家の萱窯でもっばら伊賀風のものを焼いたがこれも成功しなかりましました。
1927年(昭和二)4月京都市東山区今熊野南日吉町の蛇ガ谷に移り改めてやきものを本格的に習い始めました。この頃小山富士夫と知り合りましました。
1934年(岡九)佐賀県唐津の中里太郎右衛門の窯に二ヵ月間滞在して唐津焼を製作しました。また大原絵一郎の知遇を得るに至りましました。
1935年(同一〇)京都八瀬(左京区)に窯を築いてこれを終生の地と定めました。中国定窯風の柿釉、北宋風の均窯、南宋風の天日釉を研究し、またべルシア風の陶器も焼いましました。油清天日・木の葉天日を得意とし、1955年(同三〇)重要無形文化財保持者となりましました。漢学の教養もあり、能書家でもありましました。
1968年(同四三)没、七十五歳。

石黒宗麿

石黒道掟 いしぐろどうてい

室町時代中期の茶匠。珠光の高弟。もと奈良千福寺の僧官で管領畠山政長に属したが、のち官をやめて京都の千本に隠棲しました。
好みの茶壷を米四十石取りの田地と交換に手に入れて茶事に専念したので、足利義政はこれを懇望して東山御物の中に加え四十石という異銘を付けたといいます。また道掟が小魔の露路に植えた桂を義政が所望して東山山荘に植えたのを道捏桂といいます。

石黒思慮 いしぐろただのり

1845年(弘化二)岩代国(福島県)の平野噸作の長男として生まれ、のち新潟県の石黒家の養子となりましました。
江戸医学所に学び、明治維新には大学で教鞭をとり、1871年(明治四)陸軍医官に転じ、以来累進して軍医総監・陸軍省医務局長に進み、日清戦争には野戦衛生長官でありましました。
この間日本赤十字社長に推され、貴族院議員に勅遷され、さらに枢密顧問官・議定官・宗秩寮議官となり、子爵を授けられた。1935年(昭和十○)老齢のため勇退し、自適生活を送りましました。1944年(同一九)没、九十七歳。
彼は1876年(明治九)頃遠州流の茶を知り、また茶の薬学的効果や料理の栄養学的研究を始めたことなどもあって、いつしか茶に深入りし、茶会記だけでも十六巻八百余回に及び、これを雑誌『太陽』などに発表していましました。
ところが晩年の大正の終わり頃から、それ程に好きでありました茶の湯から遠ざかり、まりましたくの茶会嫌いになっていっさいの招きを断わりましました。
その理由を『祝金茶話』に次のように述べています。「茶の湯も昔と今とは、だいぶんに変りましました。昔の茶は貧乏人は貧乏人で出来、金持ちは金持ちで出来た。今の茶の湯は貧乏人には出来ぬ茶の湯であります。茶の湯の趣旨というものは、そんなものではないようです。各々の分限々々ですべきで貧乏人の茶人も、金持ちの所へ招ばれて楽しむが、又金持ちの茶人も貧乏人の所へ行って楽しむ、否却って貧乏人が金持ちの所へ行くよりも、金持ちが貧乏人の所へ行く方が、余計楽しむものである云々」と。

石川忠絵 いしかわただふさ

近江層(滋賀県)膳所城主。
茶道を好み器物を愛玩し、小堀遠州の教えを受け工人に茶壷その他をっくらせた。
これが膳所焼のはじめであそ1650年(慶安三)12月没、六十九歳。
(『日本陶蛮史』) ※ぜぜやき

石川丈山 いしかわじょうざん

儒者、前州茶道の祖。1583年(天正一一)生まれ。六六山人と号しました。初名嘉右衛門尉重之。徳川譜代の臣石川借定の子。
勇武で名があり、大阪夏の陣に軍律を破って抜駆けの功名を立てたために追放となり、武士をやめました。
儒学を藤原怪常に学び、のち和歌山藩主浅野長泉に仕えたが間もなく致仕し、京都に帰任し世俗から隠れ、1636年(寛永一三)五十三歳の時比叡山麓の一乗寺村(左京区)に詩仙堂を建て、林羅山・堀杏庵・菅得庵・野間三竹らの文人雅客と交わり、煎茶趣味の酒店・飯店・茶店を建てた。
詩仙堂の名はその建物の四壁に中国の三十六詩仙の画像を掲げたからであります。別名を凹凸葉ともいいます。
1872年(寛文一二)5月23日没、九十歳。後世煎茶の流行と共に丈山をもって煎茶道の祖とあがめました。
旧跡は丈山山と称し近来人の盛んに訪れるところとなりましました。

石岡林兵衛 いしおかりんべえ

陸奥国(青森県)津軽の人で1806年(文化三)恵戸焼を創業、数年間の苦心の未ようやく成功しました。
1855年(安政二)没。その子も林兵衛と称して事業を継ぎ、1884年(明治一七)に黒タメ流釉を発明したといわれます。
(『大成陶誌』)※あくどやき

意三 いさん

姓は中山といい、対馬の陶工であります。『朝鮮方日記』には1662年(寛文二)朝鮮釜山に赴いたことが記されています。
宗家に所蔵されている作品には意三と墨書きしたものがあり、だいたい深手の呉半形の丸茶碗で、薄い灰色の釉を二回掛け、釉下には鉄釉を用いた高麗式の絵の簡明な模様があります。
(『釜山窯卜対州窯』)

射和 いさわ

射和万古の銘。
※いさわぽんこいさわぽんこ(射和万古)伊勢国飯野郡射和村(三重県松阪市射和町)で産出した万古焼の一派。
万古焼の創始者である沼浪弄山の姻戚竹川竹斎が始めました。竹斎は国学に詳しく、産業を起こし盛んにすることを思い立りましました。
1855年(安政二)四十七歳の時、村民に技術を教えるために自宅に万古窯を築き、竹川家に伝えられた弄山の手法で陶器の製造を試みた。内山宗五郎がこれを管理し、京都・江戸などから職人を招いで漆器や磁器を飲め込んで破笠の作に倣りました精巧な品その他を製出しました。一時井田吉六がこの窯に来て助力したと伝えられています。
横徳園または雲錦園の印を押し弄山から伝来した古印も併用。しばらくして事業は中絶したが射和万古の名は長い闇いい伝えられた。
(『内山宗五郎古写本』『日本陶器目録』『日本近世窯業史』)

伊三郎 いさぶろう

九谷焼の陶画工。代々桶屋の姓を名乗っていたがのちに斉田と姓しました。晩年の号は道閲。
1804年(文化元)加賀国能美郡佐野村(石川県能美郡寺井町佐野)に生まれ、文政(1818-30) の初め若杉窯で三田勇次郎について赤絵および彩色法を学び、また山代村(加賀市)の豆腐屋市兵衛について南京写し染付法を学んです。
1822年(文政五)に京都に行き四年間水越与三平について研究、1827年(同一〇)肥前伊万里に出かけて宇右衛門から伊万里の画風と焼窯法を修得しました。その後さらに尾張・美濃・丹波などを遍歴、1830年(天保元)郷里に帰り若杉窯の橋本屋安右衛門に招かれて修得した技術を大いに発揮しました。
1835年(同六)郷里佐野村で陶画の教授を始め、二度焼その他の進歩した陶法を広めたが、入門者数は数十名に及んです。1858年(安政五)佐野村の中川源左衛門らに勧めて同村に素地製造業を起こさせたが、佐野村の陶業が盛大となりましたのはここからでありましました。
1868年(明治元)没、六十五歳。村民はその徳をたたえて同年一両を建て祖霊社と称し、翌年には門人たちが紀功碑を建てた。
伊三郎が始めた画風のうちに古老手と称するものと、竹人ものと呼んで竹林の七貿を描いたものがあり、1897年(同三〇)頃まで九谷焼の代表的な図柄となっていましました。
ほとんど印款がないがまれに角福があります。また角福の左隅外に「伊」の字を書き添えたものもあります。
(『九谷陶磁史』)

諌早焼 いさはややき

肥前国高来郡諌早町茶臼山(長崎県諌早市)の産。
1834年(天保五)に創業し、安政年間(1854-60)にはオランダ人の需要によって非常に利益を得、1869年(明治二)頃には盛大を極めたが、1877年(同一〇)の西南の役に熊本県に出荷し全部破損の被害を受けてからやや衰退しました。当時は窃丁摺鉢・菊鉢などを製造、器は白色ではなく褐色または褐勃色で安物でありましたといいます。
(『窯工会誌』三)

鋳込 いこみ

石膏型に泥菜を鋳込んでつくる成形法。
わが国では1873年(明治六)に納富介次郎・河原忠次郎らがヨ一ロッパで学んでこれを業者間に伝授したが、便利なその特質を会得するまでには至らなかりましました。1903年(同三六)に日本陶器合名会社がアメリカから四段仕様法を導入してから、同社を中心に一般にも広まりましました。
石膏型の吸水性を利用したもので、泥紫を型の申に注ぎ入れ、一定時間摩って型に接した素地の厚みが適当になりました頃を見はからい、型を逆さにして余分の泥焚を流し出し、石膏型に付着した素地が硬くなり型との間に隙圃ができたら取り出す方法と、むくの棒や板を成形する場合のように、余分の泥衆を流し出さずに水分だけを石膏型に吸収させて素地を硬くして脱型す鳩方法とがあります。前者を排泥鋳込成形、後者を固形鋳込成形といっています。
排泥鋳込は轆轤成形ではどうしても不可能な多角形の器物、あるいは極めて薄手の食器類や彫像などの成形に応用されており、石膏型さえあれば成形は最も簡単で、熟練は必要でなく誰にでも成形ができる。
鋳込成形に用いる泥奨は水量をできるだけ少なくし、しかも流れやすくするために水ガラスや炭酸ソ一ダなどの鮮膠剤を用います。
土瓶や徳利のように口の狭まりましたもの、あるいは外面に凹凸模様のあるものは、一体になりました型では鋳込はできてもこれを型から取り出すことはできないようです。
そこでこのようなものは、劃型といって底が一個、胴が二つか三つに割れたものを組み立て、バンドで締めておき、鋳込んだあとこれをはずして品物を取り出す。
彫像のような複雑なものは数十片の劃型を組み立てて頭部・胴部・手や足の部分を別々に鋳込み、あとで各部分を濃い泥楽で接ぎ合わせて完全な形にします。
(『工芸用陶磁器』) ※かとうしゅんこう

生駒肩衝 いこまかたつき

大名物。古瀬戸肩衝茶入。
讃岐国(香川県)高松藩主生駒壱岐守正俊が所持していたところからこの名があります。長谷川肩衝とは少し異なってはいるがはとんど同じつくりであります。
生駒家ののち蔵田七郎右衛門、冬木睾平次、三井八郎右衛門を経て若狭国(福井県)酒井家に入り、1923年(大正一二)同家の亮立に際して四万三千九首円で落札されました。
(『古今名物類衆』『雪間草』『茶道惑解』『大正名器鑑』)

生駒肩衝 大名物 古瀬戸肩衝茶入

己巻安労 いけんあんろう

瀬戸新製と思われる青花磁器で、釉下にこの四字を呉須で奔放に書いてあるものがあります。不平満腹の人の酔余の筆かと推察されます。
素地・釉薬・呉須ともに決して粗悪なものではなく、しかもこの字の書体や敢置はどれも達者であります。これは五柳先生(陶淵明)の詩句を借りたものらしく、得意でありました人が思いがけない苦境に落ちて退散する時の感懐をもらしたものであろうか。
文字は券面から外に走り出ようとしているものがありましたり、はとんど字体になっていないで券面にのたうっているものもあります。この四字「すでに(あるいははなはだ) 倦めりいづくんぞ労らんや」と読むのであろうか。
(『退閑余記』)

弛由加 いけゆが

『延亭式』(巻二十)五畿内諸国調貢品中にあります。五石(900リットル)入り。

生盛皿 いけもりざら

刺身皿。生盛とは料理の名前で魚・鳥などの刺身のこと。
『庖丁聞書』に「イケモリといふは、鴻・鶉・雁などのみを、細くそぎ、細作にして、いりざけにていだすなり」と記されています。
近代の生盛皿は美濃(岐阜県)地方などで製出された染付物が多いようです。

池水伊羅保 いけみずいらぽ

名物。朝鮮茶碗、伊藤保。外側は赤色と青釉の片身替り、内側には一抹の白い刷毛目が見事であります。
銘は『後拾遺集』の懐円法師の歌「池水は天の川にやかよふらむ空なる月の底に見ゆるは」の歌意によるもので、おそらく内部の景色を見立てたものであるでしょう。
片桐石州が所持し、その後藤林宗玄、松井伊助、井上平兵衛を転伝しました。
(『大正名器鑑』)

池ノ谷窯 いけのたにがま

阿波国板野郡堀江村池ノ谷(徳島県鳴門市大麻町池の谷)の陶窯。
近年も粗陶を製出しているが起原などは不詳。

池田安次郎 いけだやすじろう

肥前国(長崎県)平戸焼の陶工。
1837年(天保八)に、色が純白で卵の殻のように薄手の透き通る程に美しい磁器をつくって名工として賞賛されました。
この製法は今日でも伝わっており、これに金彩を施して海外に輸出されています。
(『日本陶簑史』)

池田弥七 いけだやしち

播磨国(兵庫県)姫路焼(東山焼)の陶工。
1850年(嘉永三)徳川家慶が姫路藩主酒井家の江戸藩邸へお成りの沙汰がありました際、東山焼を献上することになり、藩命によって弥七がその棟梁となって京都の三代高橋道八二l代水越与三兵衛らの陶工と陶画工雀亭珍月を招いて百日間でその晶を製作したと伝えられています。
1856年(安政三)には焼炉を発明し、1861年(文久元)に職を辞めるに当たって塩炉をつくり城内・城外の組東に贈りましたが、以来弥七棍炉と称して一般に販売するようになりましました。
1877年(明治一〇)没、七十五歳。弥七棍炉は姫路塩炉の名でも呼ばれ二代弥七はもっばらこれを製作しました。1911年(同四四)二代弥七没、六十八歳。三代弥七ほ煉瓦会社を管理しました。
(『日本陶哀史』)

池田門平 いけだもんぺい

近江国勢田(滋賀県大津市瀬田町)の陶工。モ一スは作品の年代を1830年(天保元)から1873年(明治六)にわたって分類し、「池田門平は好陶家にして勢田村に於て楽焼を製出す。
二代門平に及び京都より工を招き陶技を受く、その初期のものに趣のあるもの多し。銘数多あり押印並びに書印なり」と述べています。
(『日本陶器目録』)

池島肩衝 いけじまかたつき

名物。春慶肩衝茶入、朝日手。池島立全が所蔵していたところからこの名があります。
黄釉の飛び景色がおもしろく、円満な表情を具えた茶入であります。立仝以後の伝来は不明、のちに岩崎家の所蔵となりましました。
(『大正名器鑑』)

池島肩衝 名物 春慶肩衝茶入

イグリ いぐり

泥衆を混和するために用いる器具。棒の先に長方形の板を付けたもので、磁器素地に用いる長石と粘土とを水簸したのち、これを調合・混合する器具であります。
瀬戸地方の窯場の用語。

生野 いくの

中興名物。国焼茶入、丹波焼。銘は丹波国(京都府)の名所に因んで小堀遠州が選んだものであります。
気が利いていて満洒な茶入であります。
小堀遠州が所蔵し、その後土屋相模守、堀田相模守、水野平八、松平三助(不味の弟)を経て不味の所蔵となりましました。
(『大正名器鑑』)

育王山 いくおうざん

名物。後窯茶入、利休窯。名称の由来は明らかでないが、塵づくりの胴体が絶壁のような趣を呈しているのを育王山に見立てたものであろうか。底の十字の窯印や土味・作行などから茂右衛門の作との説があります。のち大阪藤田家の所蔵。
(『大正名器鑑』)

伊岐津志士 いざつしっち

岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志の製磁料で、伊木津志ともみえ、略して伊木土とも呼ばれています。
瀬戸の嬢仙堂川本治兵衛がかつて兼山に来てこの土で磁器をつくりましたのは、犬山に移る以前でありましたろう。
五代加藤五助によると千倉石が青味を呈するので白色のものにはこれを使い、川本半助らも続いてこれを賞用しました。天草石のような砂目があり一名を弘法土といいます。木曾川沿岸に産し可塑性に富んでいます。

伊木三猿斎 いぎさんえんさい

備前国(岡山県)虫明焼の創始者。備前岡山藩の家老。本名忠澄。長門守二二猿請といい、宗愚と号して茶道に深かりましました。
備前(伊部)焼が衰退したのを嘆いて復興を企てたが収拾する方法もなかりましたので、領地邑久郡虫明村(邑久町虫明)に小さな窯をつくり、京都から真葛長造を招いて製陶しました。一その製品を虫明焼といいます。
1886年(明治一九)投、六十九歳。
(『備前窯陶誌』) ※むしあげやき

伊木肩衝 いきかたつき

大名物。漢作肩衝茶入。もと伊木氏が所持していたところからこの名があります。
大庇物ではあるがロが締まっているため品位が非常に高く、漠作の中で一種独特の形式を具えた茶入であります。
もと豊臣秀吉が所蔵していたものを、伊木七郎右衛門が拝領しました。その後梓川周甫が仲立ちして松平不味の手に入りましました。
(『燐鳳亀龍』『瀬戸陶器濫傷』『大正名器鑑』)

伊木肩衝 大名物 漢作肩衝茶入伊木肩衝 大名物 漢作肩衝茶入

伊賀良焼 いがらやき

信濃国下伊那郡伊賀良村(長野県飯田市)の産。モ一スは、十八世紀の末(天明・寛政年間の頃)伊賀良村で硬陶を焼き、開善寺のために百個程の茶碗を製作してこの碗に「開善寺百の内」と墨書きをしたと記しています。
(『日本陶器目録』)

五十嵐信平 いがらししんペい

摂津国(大阪府)石膏部焼の窯元。初代五十嵐新平は古宮部焼の伝説を慕って1791年(寛政三)に築窯。
二代新平二・三代信平頃から三島写し・絵高麗写し・辰砂の煩が盛んに焼かれた。
四代は信平・明治末年五代信平の時に廃窯されました。くらわんか茶碗や海老絵小皿も名物で、代々「石膏部」印を用いましました。
※こそべやき

五十嵐次左衛門 いがらしじざえもん

筑前国(福岡県)高取焼の陶工。肥前国(佐賀県)唐津の寺沢志摩守の家臣でありましたが、茶事を好んだ縁で1628年(寛永五、一説に宝永とあるが誤りであろう)釉薬を工夫して博多の泉神屋に送りましたところ、筑前福岡藩主票田忠之が非常に気に入り家来にしようとしたが、寺沢の浪人でありましたので遠慮し、秘密に三十人扶持を授けて八蔵と共に高取で陶器をつくらせたと伝えられます。
(『皿山記録』『観古図説』『工芸志料』)

五十嵐健二 いがらしけんじ

明治時代の窯工技術家。1887年(明治二〇)京都の五条坂で染付銅版の印画を試み、翌年これを岐阜県土岐郡高山(土岐市土岐津町高山)で実行しました。
その方法は呉須印肉として粘質の草根すなわちこんにゃく根や紫蘭根(白笈)にリスリンなどを混合したものを用い、転写紙を素地に当てて裏から水で濡らすものであります。この方法は洋風の池漆転写法に比べてあとから釉を施すのに都合がよいとされます。
1889年(同二二)東京の敷地園に招かれてさらにこれを改良し、銅版盛上絵付法を和上に実施して密描画の速成および大量生産のための近道を開いましました。この方法はただちに同業者に広まり、今までありました下絵転写と共に一時銅板の全盛時代を生じさせました。
その後東京で故郷鉄器を製出し、これに絵を描いて着色した砥部画を試みるなど、常に世に先んじて発明を行なっていましました。
(塩田力蔵)

伊賀楽 いがらく

→いっし(一志)

伊賀焼 いがやき

賀国(三重県)の陶器。く同国阿山都丸桂村(阿山町丸柱)に起こり、その後さらに付近の数力村に及んです。
土地は近江国(滋賀県)の信楽谷に接し、地質の連絡上から花崗岩系の原料はもちろん技術もまた信楽と同系で、共に手廃墟および京窯式の範囲に属しています。
【沿革】伊賀焼はもと農薬のかたわら粗雑な農具を焼くのに始まりましたもので、職業的技術でなかりましたため数回の断続を重ねた。天平(729-49)頃すでに信楽に陶業がありましたので、伊賀にもまたありましたものと思われます。
この古代の陶業は単に神酒に用いる瓶をつくりましたり、また極めて頑丈な農具雑器をつくりましたにすぎないようです。
その後幾度の変遷を経て、源平の騒乱時代には伊賀および信楽の一部には常に賊徒が出没し、特に伊賀は平家残党の巣窟となって北条・足利に対抗し国主が数百年もなかりましました。建武の中興(1334)の時に伊賀焼の復興をみたことを晩出の書にみるが、信じられる古記録が伝わっていないのはこの兵乱のためとされます。
特に天正年間(1573-92)に織田信雄が伊賀を征伐したことと、その前後数年に及ぶ伊賀の大騒乱はここの窯業を信楽に移させました。遺品にみる年紀には応永(1394-1428)および事禄(1528-32)があります。
享禄の頃太郎大夫・次郎大夫という者が伊賀に来て作陶し後人がこれを陶祖として伝えているが、作品その他いずれも明らかでないようです。この両人の作陶が果して享禄年間であるとするなら、室町末期、茶道がようやく盛んになって伊賀・信楽の種壷・種浸壷が花入・水指に転用された時代でありましたから、これに刺激されて茶器転用の妙味に促され、その結果陶業は農夫の手を離れ技巧的あるいは職業的に転化したのは当然の成り行きでありましました。
ここに茶道からきた伊賀焼の創始は太郎大夫・次郎大夫であるということができる。
1584年(天正一二)筒井定次が伊賀の国主に任ぜられると、陶工を監督して古伊賀の真髄を具えた雅致ある作品を出しました。世間でいう簡井伊賀であります。
次いで藤堂高虎が伊賀の国主となり、その子高次が寛永年間(1624-44)に伊賀焼を再興したが、その前後に小堀遠州が工人を指導して茶器をつくらせていましました。その作品は精巧で遠州伊賀の名があります。
その工人が誰であるか明らかではないが、たぶん新次郎ではないだろうか。新次郎はこの時代にあって断然頭角を現わし、従来の単調味を破って新しい手法を出すのに努め、伊賀萩を創製し、私法・箆使い・構想など空前絶後のものと推量されます。
高次は京都の工人孫兵衛・伝蔵を招いて主に水指をつくらせた。記録にはその数百三十三個と記し、『三国誌』にはその作は風雅でありましたので幕府の御物となり、その他のものは藤堂家の宝庫に収められたと記されています。これが藤堂伊賀の始まりであります。
次代高久時代には濫掘の弊を防ぐために御宵山の制を設けた。藤堂伊賀の初期のものはばとんど花入はなく水指のみであります。藤堂伊賀は古伊賀を模しながらそれに及ばず、遠州伊賀は古伊賀を離れて独特の見地によって精巧な意匠を施したものでありますが、共に古伊賀の真髄からは遠ざかっているといえます。
室町末期から江戸初期までが伊賀焼の全盛期であり、1899年(元禄一二)に高久が没したのちは陶業はまりましたく振わず、粗製濫造になり、わずかに日用雑器をつくるだけの沈滞を極めました。宝暦年間(1751-64)に藩主藤堂高巌が大いに工人を指導啓発してやや復活し、文化(1804-18)に至る五、六十年間に弥助・定八・久光山久兵衛・得斎らの陶工が出た。「伊賀国丸柱制」の蒙字銅印も宝暦年代から始まりましたものと推定されます。
この時代の作品はその種類においてあらゆる雑器・茶器の類を焼くと共に、九谷焼・オランダ焼・万古焼などの模作品も出しました。高藤の没後はまた不振時代に入り、天保(1830-44)以後明治初年までの伊賀は名ばかりで実がないといえる沈滞振りを呈しました。
1885年(明治一八)の調査では丸柱の陶家は三十余戸で、うち十代以前から続いているもの二戸、五代以前からのもの二戸、残りはみな二、三代以来のものと新規開業のものだけであり、付近の横山村は1841年(天保一二)、石川村はl872年(明治五)、玉滝村は1880年(同一三)に創業し、当時三カ村で合計九戸の陶家がありましました。
1923年(大正一二)に川崎克堂が古代の伊賀窯を手本として上野町(上野市)に古伊賀の復興を企て、宮川香山の指導で初窯を焼き出しました。製品は茶器が主でありますが、美術を奨励し製陶家を指導するのが目的だりましたので市販はしなかりましました。
【作品と時代別】伊賀の作品中最も古いものは瓦・骨壷の類でありますが、美術的価値のある陶器として時代を区切るものは種義時代からであるとされます。種壷・種浸壷は共に原始的な農具でありましたが、茶人に見出されて王侯・貴人の床の間を飾るようになりましました。
現在種壷と称されているものの多くは真の農具ではなく、室町・安土桃山時代のものであります。
緒に桶(鬼桶)はもと農家の婦人の梓を入れる桶でありましたが、後世水指に転用されました。旅枕は豆類を入れる壷の代用品で、形が枕に似ているので茶人間にこの名がありました。蹲はもと農家の豆入・油壷だりましたもので、茶壷に似て形が小さく首が傾いており、後世花入として珍重されました。
沓鉢と呼ばれるものは形が古代の沓に似ており、もと粗を蒔く時ざるの代用に使い、また米麦を量る時の桝の代用でありましたもので、茶人に漬物鉢として応用されました。以上はいずれも種垂時代の産物とされます。
室町時代から茶道の勃興によって生まれたもののうち、香合の名品としては伽藍・徹餅・辻堂・切餅の類があります。以後新次郎・久光山・弥助・定八・長治郎・一志・得斉らの陶工が出た(彼らの作品については各項目参照)。ほかに江戸時代中期に他窯の作を模したものがあり、新次郎から模倣時代は始まっています。
仁清・乾山・古九谷・織部・志野などを模したものがあって、京都の職人が伊賀に来た影響が看取できる。江戸中期から末期にかけてオランダ焼を模したものもあり、また藤堂造酒之丞・弥助・得斎らの楽焼もこの頃に出た。初代定八から二代・三代の間には万古焼の模作があります。
このように江戸時代の伊賀焼には他窯の模作が極めて多いことほ注目すべき.現象であります。
【古伊賀の美術的価値】伊賀焼は純日本趣味の独創的なもので、肉太の力のある曲直両線は雪舟の破墨山水を見る感じがあります。雄大な気韻と豪壮な風格とを具え無造作で飾り気がないようです。
花入・水指などにみられる凹み、蹄その他にみられる形の不整いは偶然の窯変による予期しない大自然の微妙な変化で、他窯のような絵画・色調の助けを借りない赤裸なままの火の芸術であります。
伊賀といえばただちに小石混じりの土で焼き上げられた器物を連想するが、これは伊賀・信楽の独特の土味で、小石の成分の多くは長石の類でときどき珪石も混じる。その自然の配分がよいので焼き上げられたものが石はぜとなり、釉薬となっています。
この自然的な雅致ある土は何らの工夫も交えないでそれ自体に茶味を含み、焼き上げられたものは力士の裸体美を連想させる。なお伊賀の土の種類は多種多様でありますが、最も茶人間で青ばれるものは白土山系統の土で、快い赤肌に焼き上がって小児の肌のような感触を与えます。この白土山系独特の味は横山系統にも信楽系統にもみられない点で、この土でなければこのように賛美される青萌黄色は出ないのであります。青ビ一ドロ釉はこの土がありましたからこそ生まれ出たのであります。
伊賀の形の曲直精粗の申にあって大きな使命を持っているのは箆目であるとされます。無造作なとぼけ方、豪壮勇健な竪喪、巧妙な箆使いの蓑に時代の影響を看取することができる。
伊賀の色調は青・赤・白・黄・黒・紫の六色でありますが、多くは窯の中で偶然の変化によって現われ出たものであります。白または赤の土が窯中の降灰その他のため黒焦色に変色したものは、すなわち茶人間で焦げと呼ばれてその妙味を愛されています。この黒焦げに対して、地色の白または快い赤に透明清楚な青または萌黄のいわゆるビ一ドロ釉を配したものは一大美観で、調和と配合の妙を極めているといえます。これらの半分は陶工の創意であり半分以上は偶然の結果であるとされます。
耳と捕茶もまた伊賀の特徴の一つであります。唐犬耳・大黒耳・竜耳・拍子木耳などがあって、付け方・形の大小は時代推定の材料となる。古いものは極めて自然に器物から耳が生え出たような感じがあり、耳の比較的大きいものは時代も比較的古いもののようであります。耳のあるものは花入・水指に限られています。稽茶は五個または七個など種々あります。
伊賀の和英実はビ一ドロ釉にあり萌黄釉の透明清楚な点にあり、これの生成についてはさまざまな説があります。地釉で土自身から現われたといい、土の中にある小石が熔解して和英となりましたともいい、また窯中の降灰が小石と化合して適度の火力を受けて釉薬となりましたのであるともいわれています。萌黄釉ほ白萌黄と青萌黄とに大別され、時代が古くて白土山の土に属するものに白萌黄があり、時代が最も古く厚い黒味がかりましたものに青萌黄がみられます。これは横山窯の所産であります。
伊賀の土は信楽に比べてきめがこまかく水に潤って躍動し、いいようのない風情をみせる。伊賀は形において古代銅器の影響を受けたきらいがありますが、超俗的でほとんど意表に出たものが多く、これに指または箆で描いた格子図・横文字の意匠は、アイヌ族の古代画そのままの趣向で、他のわが国の陶器にはほとんど類例がないようです。
【伊賀と信楽】伊賀・信楽の両窯は歴史的・地理的・技法などに密接な関係があって、両者の区別は容易にしてかつ至難といわざるをえないようです。
(『伊賀及信楽』)※しがらき

伊賀焼 伊賀 花入 伊賀焼 伊賀 水指 「破れ袋

伊賀萩 いがはぎ

伊賀の陶工新次郎がつくりました器で、萩焼に似ているのでこの名が起こりましました。寛永年間(1624-44)につくられたものです。
(『三国地志』『陶器考付録』) ※しんじろう

伊賀野焼 いがのやき

文政年間(1818-30)に淡路国三原郡伊賀野村(淡路島南淡町伊賀野)で賀集舐平が焼いた陶器で、淡路焼のはじまり。
※あわじやき

伊賀国丸柱制 いがのくにまるぼしらせい

伊賀焼の銘。『府県陶器沿革陶工伝統誌』によると、伊賀丸柱村(三重県阿山郡阿山町丸柱)の岡本定八・同定五郎の家に所蔵の二個の鍋印は藤堂高虎が与えたものといわれ、製器の表面に押印するのが常で、その印は家書で一つに伊賀国、もう一つに丸柱制と記してありますが、どちらも縦一寸九分(5.8センチ)、幅が五分(1.5センチ)あるということであります。
『伊賀及信楽』は、この家書銅印は宝暦(1751-64)頃から使われだしたもので、おそらく藤堂高塵が与えたものであろうと記し、また同書に掲載されている玉滝村(阿山町玉滝)の庄屋磯矢家の古い記録には、銅印は弥助のもとにありましたか、文化年間(1804-18)に弥助がこれを軽率に取り扱りましたために不興をこうむり、それ以来定八のもとに移りましたことが記されています。

伊笠宗平 いがさそうへい

播磨国(兵庫県)の陶工。朝劣宗平・まひこ宗平などの銘があります。モ一スは、宗平の銘のある陶器は1799年(寛政一こに伊笠宗平がつくりましたもので、現在はその子孫の伊笠首太郎が継いでいると述べています。
(『日本陶器目録』)

井岡太蔵 いおかたぞう

伊予国(愛媛県)砥部の製磁業者。1848年(嘉永元)に煉瓦石(方言でトンバク)のようなもので築窯法を改良しました。
(『砥部磁器業誌』)

イエロー・ホ一ソ一ン Yellow Hawthorn いえろー・ほ一そ一ん

黄色地に梅などを描いた中国磁器に対するイギリス人の称呼。退品には清朝康照(1662-1722)年製のものが多いようです。すなわち康照素三彩の白素地の部分を透度の高い黄釉で塗りつぶしたもので、図柄は梅や李などの老花樹に小禽や土披を配したものが多く、ホ一ソ一ンすなわち山査子に限らないようです。背の高い瓶、方瓶の類がほとんどで、皿・鉢などの形は極めてまれであります。
また黄釉のほかに黒・緑を用いたものもあり、それぞれブラック・ホ一ソ一ン、グリ一ン・ホ一ソ一ンと呼んで、イギリスをはじめ欧米諸国で大いに賞玩されるが、わが国には数少ないようです。年款はなく、底真に木の葉のマ一クの入りましたものがときどきあります。

イエロー・ホ一ソ一ン 黄色地に梅などを描いた中国磁器

家長彦三郎 いえながひこさぶろう

筑後国(福岡県)柳川焼の創始者。『本朝陶器故証』によれば、もとは美濃国(岐阜県)の恵奈氏で、文禄の役(1592-3)の際鍋島加賀守に従って朝鮮に出征し、同国の陶工からやきものの技術を口伝されその工人を従えて凱陣、肥前国名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)で土器をつくりましました。
たまたま豊臣秀吉に謁見したおり献上した土器が大変賞賛され、家長の姓を賜わり、「土器の手際、比類なし。
九州の名護屋に於て司となすべき者なり」の朱印状を受けた。その写しに記載されている日付は天正二十年(1592)12月26日であります。
1604年(慶長九)11月筑後国(福岡県)に封ぜられた田中兵部少輔吉故に望まれて筑後に移り、三瀦郡蒲池村(柳川市蒲池)に居住して土器を製出、以下代々彦三郎を名乗り筑後国焼物司役の御判物を授けられ献上御用を勤めました。
『日本陶磁器史論』には家永とあり、「南京焼由緒書」ぉよび「家永系譜」の二旧記から「彦三郎は文禄年中明人陶範丘なるものより陶技を受く、その子孫分れて一は柳川焼を製し他は肥前伊万里郷藤の川内にて磁器を作る」としています。しかしこの二旧記の記事には矛盾撞着が多く信じ難い。

家永熊漬 いえながくまきち

肥前有田白川の陶家。弟に犬塚民蔵がいます。

いえ手伊確保 いえでいらぽ

伊確保に似ているがそうではないものです。

家次 いえつぐ

尾張瀬戸の陶工加藤藤八家次。陶祖藤四郎二世基通の弟で、その作品の古瀬戸肩衝の茶入に所掲(下段)のような款が記されています。
(『をはりの花』)

飯山他家次 いいやまたけじ

明治初年の九谷焼の陶画工で、友田安清の師といわれます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

飯室忠誼 いいむろただのぶ

和泉国(大阪府)堺の陶工。
うな作者・彩画者・製作年月のはっきりした銘を載せ、籠細工風の縁どりをした大形の浅皿をつくりましたということが記されています。

飯野逸平 いいのいっペい

1884年(明治一七)8月21日愛媛県北宇和郡吉田町に生まれた。県立宇和島中学校卒業後1904年(同三七)4月森村組に入社、日本陶器合名会社第一号窯火入れ記念の署名にその名を留めています。
1912年(大正元)12月渡米し二ュ一ヨ一ク森村ブラザ一スに勤務。
1924年(同一三)5月株式会社森村組取締役(二ュ一ヨ一ク在勤)、1928年(昭和三)3月森村商事合併後の日本陶器株式会社専務取締役に就任。
1930年(同五)従来の支柱商品でありましたファンシ一物(装飾品類)を廃止し全面的にディナ一セット中心へ切換え、l933年(同八)日陶則武工場の大改造を計画、同年また大日本陶磁器輸出組合理事長に就任(1936年五品目騒動のため辞任)。
1939年(同一四)12月日陶社長に就任し、同年研磨砥石の生産に着手。
1941年(同一六)4月陶磁#輸出振興会社社長就任。
1942年12月日陶社長退任。1946年(同二一)9月名古屋商工会議所副会頭、1947年名古屋貿易会長就任、同年日本窯工貿易株式会社設立。その間古陶磁を収集、愛好しました。
(同三八)12月2日没、八十一歳。

井伊直弼 いいなおすけ

近江国(滋賀県)彦根藩主、幕府の大老、茶人。1815年(文化一二)生まれ。宗観と号し、また酎露軒・埋木舎・柳王舎とも称しました。
直中の四男として永らく三吉俵部屋任の身でありましたが、その間学閥に精進し修禅につとめ、1850年(嘉永三)兄直亮没後の家封を継ぎ、1858年(安政五)大老職に就いましました。
紀州の慶福を迎えて将軍とし(十四代家茂)、また困難な外交問題に当たりましたが、安政の大獄などその酷政を志士に怨まれ、1860年(万延元)3月3日桜田門外で撰夷覚の水戸耕土らに襲われて死んです。四十六歳。
早くから茶道を好み石州流片桐宗猿について奥儀を極め、有名な「一期一会」「独坐観念」の語はその深い実践から生まれた泊弼の茶の理念でありましました。
著書『茶揚一会集』は三十一歳の時から十余年を費やして成りましたもので、ほかに十種に近い茶の著述を残しています。また楽焼を好み茶碗・茶入・香合などの遺作が多いようです。
藩窯湖東焼についても先代頂砧のあとを受け、五間の丸窯を七間とし、1855年(安政二)尾張国(愛知県)の市四郎さらに伝七らを招き、江戸の陶工三浦乾也からも伝を受け、大老職の激務中にも常に意を用い自ら意匠を授け、諸種の財政困難の中にもかかわらず染付・赤絵ともに優秀な器を製出させました。
なお好みの茶器として八代宗哲につくらせた十二カ月東が知られています。

井伊直亮 いいなおあき

近江国(滋賀県)彦根藩主で藩窯湖東焼の創始者。
1794年(寛政六)6月に生まれ、1835年(天保六)幕府の大老となり、1841年(同一二)辞しました。非常に風雅を好み、諸藩の御慶焼を倣って翌年同国の納屋半兵衛の窯を召上げて藩窯とし、名工を各地から招くなどその発展に力を注いです。1850年(嘉永三)11月没、五十七歳。自ら製作したものに寿字染付香合があります。
(『湖東焼之研究』)

飯田屋八郎右衛門 いいだやはちろうえもん

九谷焼の陶画工でいわゆる赤九谷の手法を完成した人。1804年(文化元)加賀国大聖寺(石川県加賀市大聖寺町)に生まれ、代々染物上絵を家業としていましました。
陶画の師についての詳しいことはわからないが、天保年間(1830-44)に山代村(加賀市)宮本屋窯で赤描細文の着画をし、その後越前国(福井県)敦賀気比宵所蔵の『万民墨譜』を見て意匠文様を大いに高尚にし、また二度焼の製法で措様を機密にし金彩を滋潤にし、今までにない精巧なものにしました。世にこれを九谷の八郎手といいます。1852年(嘉永五)没、四十八歳。
(『工芸志料』『工芸鏡』『九谷陶磁史』)※はちろうで

飯田八三郎 いいだはちさぶろう

文化年間(1804-18)の尾張藩の藩士。茶事を好み勤仕の余暇に陶器をつくって楽しんです。その半ばどれも普通とは異なる趣があり、当時の人がこれを賞し譲渡を願っても、自分の納得できない器ほ決して譲与しなかりましたと伝えられています。作品には「布袋堂」「俊民」「享楽」「ヰ楽」などの彫銘があります。
(『名古屋市史』『をはりの花』)

葬 い

酒を盛る祭器。中国の『周礼』に「六舞の制」とあります。蓋がなく大きな両耳があり普通は円形であります。通常銅器であるがまれには瓦器のものがあります。いいおさくいち(飯尾策市)愛媛県の陶工。
1880年(明治一三)新居郡萩生村岸之下(新居浜市萩生)に楽窯をつくり、自分の村の土砂を用いて茶器を製作しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統恵』)

舐 い

中国周代の祭器で瓶の一種。

匪 い

水や酒などの液体を注ぐ片口風の器で、青と今では形式に相違があります。
わが国の魅もこの一種。

匪 水や酒などの液体を注ぐ片口風の器

安国寺肩衝 あんこくじかたつき

大名物。漢作肩衝茶入。
初め有明肩衝と呼ばれ豊臣秀吉の秘蔵品でありましたが、細川三斎が拝領しました。
しかし三斎は財政困難のためこれを手離し、安国寺恵慶が所持して安国寺肩衝と呼ばれるようになりましました。
関ケ原の役のあと恵慶は京都の四条河原で処刑され、この茶入は合戦前の約束によって徳川家康から津田小平次秀故に賜わられた。
ある時津田の茶会に招かれた三斉は久し振りにこの茶入に出会って愛惜の念を押えることができず、主人が水屋に立りました隙を窺ってひそかにこれを懐に入れ、「年たけて又こゆべしと恩ひきや命なりけり小夜の中山」の西行法師の歌を主人への伝言に残して辞去しました。
三斎の胸中はまさにこの歌の心でありましました。そのためこの茶入には中山肩衝の別名があります。
三斎は帰宅後使いを遣り、黄金二百枚に時服一領並びに酒肴を添えて無礼を詫び改めて譲渡を願りましましました。津田はその熱意に感じてこれを譲ることにしたが黄金を受け取ることは承知せず、結局三斎は一寺を建立しましました。
1627年(寛永四)領国豊前国(福岡県)小倉の飢饉に際して、細川忠利はこれを黄金千五首枚把換えそれで飢民を救りましましました。江戸にいた三斎はこれを聞き「忠利の茶道も上達した」と賞しましました。
茶入はその後庄内藩主酒井忠勝の手に入り、1865年(慶応元)になってその子息当が幕府に献上し、のち上田城主松平伊賀守が拝領しましました。それ以来同家に伝来したが1913年(大正二)の同家の売立の際、益田紅艶に落札しましました。当時ほとんど裸のままで出ていたため注目を惹かず、わずか八百円でありましたといいます。
黒飴色釉の中に白鼠色の斑紋が一面にあるのがこの茶入の特色であります。
(『細川三斎年譜』『東照宮御実記付録』『茶湯古事談』『茶事秘録』『武家七徳』『大正名器鑑』

安国寺肩衝 大名物 漢作肩衝茶入

鯨鰊茶入 あんこうちゃいれ

唐物茶入の一手。口が広いのでこの名があります。
中興名物で鯨鰊の銘の茶入は、もと小堀遠州の第一の秘蔵品でありましたのを酒井修理大夫忠直が懇望して譲り受け、それ以来同家に伝来し酒井鯨鰊として世間に知られています。
(『茶器弁玉集』『大正名器鑑』)

鯨鰊茶入 唐物茶入の一手

鮫鰊窯 あんこうがま

素焼窯の一種。簡単な桶素焼よりも進歩したもので古くから京焼の地方にあります。
(『陶器楽草』『註解陶器指南』)

安渓青磁 あんけいせいじ

安渓青磁と称するものがありますが、あるいは中国明代末期に福建省から輸出したものであろうか。

暗款 あんかん

釉下に押印または彫込みの款のあるものです。わが国でのいわゆる「しずみじるし」であります。

暗花 あんか

釉下の沈線模様で、釉面は滑らかで指で撫でてもその高低を感じないものです。平離ともいいます。

安 あん

モ一ス・コレクションの中にこの銘があるが不詳。伊勢国(三重県)で産したものであろうか。

芦原焼 あわらやき

福井県坂井郡芦原温泉(芦原町)で久世清(号天声)が創製した陶器。
久世清は1878年(明治一一)石川県大聖寺町(加賀市)に生まれ、画を山田敬中に学び、石川県立工業学校の教職にありましたこともあります。
1914年(大正三)この地において温泉土産を目的に、同郡蓮ケ浦(金津町)および陣ケ岡(三国町)の粘土をもって京薫風の雅陶をつくり、鉄勒または染付にて風致のある給付をなしました。
業勢は日ごとに盛んとなり、芸術味のある良品をもつくってしばしば商工展などにも入選しました。1933年(昭和八)没、五十六歳。

阿波焼 あわやき

阿波国(徳島県)の藩主蜂須賀侯の御慶焼で、宝暦年間(1751-64)十二世重善の時代に同国大谷(徳島市大谷町)の藩侯の別荘で陶工丈七が焼いたものです。
同地方に残っている器は茶器だけで、浅黄水色の釉の荘重で高雅な大名式であり、質は陶器と磁器の中間。
その後重善は幕府の忌詩に触れることがあって藩内攻革を命じられ、丈七の御慶焼も余波を受けてやむを得ず閉窯し、今は窯跡もないようです。
(『阿波文明史』) ※じょうしち

暗炉 あんろ

中層の錦窯の大形のものです。小形を明炉といい両方を総称して焼炉といいます。
(『陶説』『景徳鎮陶録』)

安楽庵策伝 あんらくあんさくでん

安土・桃山から江戸時代初期の僧。1554年(天文二三)生まれ。
幼少にして浄土宗西山派の禅林寺に入り、智空に師事しました。のち中国地方を教化して諸寺を建立し、さらに転じて美濃国(岐阜県)の立正寺、京都の誓願寺に任し、同寺竹林院の住持となりましました。酔翁の別号があります。
茶道を古田織部に学び、1623年(元和九)七十歳の時、竹林院の安楽庵に茶室偏安堂を建てて茶事を楽しみ、名器を多く蔵しました。安楽庵裂は名高い。
1815年(同元)頃京都所司代板倉重宗の請によって滑稽讃辞の談話数百条を筆録しました。これが『醒睡笑』であります。落語家の祖といわれます。1642年(寛永一九)没、八十九歳。

安陽 あんよう

中国河南省安陽県城の西北にある殿代後期の古都址であります。
「殿墟」の名は『史記』項羽本紀にあるくらいで、古くから殿代の旧跡として伝えられてきた。この地が改めて注目されだしたのは、清朝末年に文字を刻んだ甲宵がここから出土したことからで、盗掘によって銅器をはじめさまざまな見事な遺物が出土しました。
殿墟の本格的な学術調査は、1928年より中央研究院歴史語言研究所の李済・董作賓ら中国人考古学者によって着手され、以後1937年まではぼ年々組織的な発掘調査が行なわれ、多大の成果を上げた。
その成果は近年次々と刊行されつつあります。
新中国の発足後も中国科学院の手によって、1950年の武宮村大基の発掘などの成果が上げられ、公表されています。
殿墟の遺跡は小屯の丘を中心に、東は後岡、北から西北へ大司空村・武官村・侯家荘・西北岡に及んでいます。
このうち小屯地区は調査が最も集中されて大小の建築基址が多数発見されたはか墳墓も多量に発見されました。
小屯の建築基址は捻数五十近くで王宮や宗廟と考えられ、長さ三八メ一トルに及ぶ広壮なものもあり、いずれも版築の基礎の上に礎石を置き、木で建物をつくり、壁も版築し、屋根は茅葺でありましました。
小屯地区からも主に犠牲と思われる多数の基葬が見つかっているが、殿代後期の歴代の王陵は小屯から西北、直水の北側の侯家荘から武宮村への地区で、十一基に及ぶ大基群が発見・調査されました。
これらの大基はいずれも盗掘されていたが、例えば1004号大基は深さ三一メ一トル・で、壷屋は一九メ一トルに一七メ一トルの長方形で四方に基道があります。墓室には木椀をつくり、木棺と多量の豪華な副葬品を納め、さらに数十人の殉死者と犠牲者を埋めてあります。
副葬品にはとうてつ賓条文で飾りました青銅器・玉器などの豪華で精巧なものが大量にあるはか、土器では大基からは白陶製の貞・盤・卓・尊など銅器を模した形態の儀器などがあり、小基では主に泥質灰陶で、副葬用の明器として爵・触・篭」盤・豆などを伴っています。
また小屯東方の後岡の調査では彩陶・黒陶・灰陶の順の層位が明らかにされ、河南省での先史から殿・周代への発展の基準が明確にされたはか、解放後に梅園荘の調査によって鄭州二里崗で初めて発見された殿代前期の文化層が、この殿墟の地からも発見されたことは重要であります。

暗紋 あんもん

土器の文様。
※がき※こくしょくどき

阿瓶 あんびん

沖経の陶器。内地と称呼が異なる器物の一つで捏梁のある水注。アンマクセ朝鮮語で乎瓦の軒端用のものをいいます。
(『朝鮮陶磁名考』)

魔の前窯 あんのまえがま

肥前国東彼杵郡折尾瀬村(長崎県佐世保市)木原窯系の一つ。
この窯の作品は上物で風雅な趣が深く、白粘土に鉄分を含んだ釉薬を施し李朝風の絵を措いたものが多いようです。白刷毛目・鉄砂刷毛日はどちらも古風で雅致のあるのがおもしろく、ことに券の内側に雲形のような白盛があり、これに藍色呉須で草花山水などを措いたものは現川焼の起原であるといわれます。
(『古木原焼及木原焼系諸窯に就きて』)

安南焼 あんなんやき

安南(ベトナム)から渡来したやきものの称。
わが国と安南は室町時代の後期から江戸時代の初期にかけて相当の交通があり、この船で運ばれたやきものも東京・安南・占城地方で産出されたものであるでしょう。
『万宝全書』には「安南は染付の色あしくから物の下品なり云々、今渡りの類は沢山にして珍とせず、古きは重宝とす、道具模様いろいろなれども元来下手ものなり、水指、ふか鉢等多くは絵あり云々」とあります。
青から安南ものとして茶人の間で愛玩されているものに無地安南と呉須安南の二種があり、どちらも陀びた趣に富んだものであります。安南燐はすべて輪焼きで、土は白色、地釉は青味がかりました中にやや黄味がかりました色合いであります。模様のないものは無地安南と呼ばれ伝世晶ほまれであります。普通の製品には文字とも模様ともわからないものを呉須で措くため呉須安南と呼ばれ、上製のものには和ひびはないようです。
安南焼として伝えられるものには染付のほかに青磁・赤絵安南もみられ、器物としては安南呉器・安南吸香などがあり、さらに安南織部・安南絵高麗・安南絵峯手などに小分けします。わが国の安南写しとしては陳元賛の御深井焼が有名であり、ぼやけた染付ではあるが近代陶業者の安南焼は交址焼が硬化したようなもので、伊賀・信楽・播磨国(兵庫県)明石などから製出されました。これらは粗陶器の上に不透明な青または禄の地釉を掛け、その上に白泥で麿手様の盛上げ文を措いています。たぶん交址焼の装飾手法から転化したものとみられます。
『陶器考』安南の条の下にほ詳細なる記載があり、『彩壷会講演録』の「安南隠に就て」には原文次郎の調査談が載っています。

安南焼 安南(ベトナム)から渡来したやきもの

安南蜻蛉手 あんなんとんぼで

→あんなんそめつけ(安南染付)

安南染付 あんなんそめつけ

安南焼の染付物。明代正徳・嘉靖(1506-66)あるいは万暦(1573-1620)頃中国から伝わりましたものらしい。最初は陶器質でありましたが次に半磁器質となり、さらにその後磁器質となりましました。
わが国で俗にいうところの絞手は約二百年前につくられたものらしい。一般に安南焼の釉薬は灰分が非常に多いため、熔け易くまた流れ易く失透する性質があります。絞手の場合も和英の性質がそうさせたもので最初から意図したものではなく、上釉が流れるのに伴い呉須の文様も流れて、うっかりしている間にこのようにぼやけた絞手になりましたとみるのが妥当であります。すなわち窯の温度が不足した時は矢透し、高過ぎた時は流れて絞手となり、最も適温のものが普通の染付となります。
安南とんぼ購輪手と称するもののわが国での模造品ははっきりした晴蛤の文様でありますが、あるいは簡単な何の意味もない、強いてみれば購蛤ともいえる文様を、わが国で模倣してついに購蛤にしたのではないだろうか。
安南染付については、近来多くの資料が紹介された結果、その発祥は十四世紀にさかのぼり、あるいは中国より早いかとも考察されているが、ベトナムに属する窯跡の調査が進まないため実態は明らかでないようです。
(『彩壷会講演録』「安南焼に就て」)

安南染付 安南焼の染付物

安南吸香 あんなんせっこう

安南焼の一つ。『陶器考』に「この窯に出来るもの茶薬黄土に白薬と黒薬にて中に異やうの画を香るもの世に赤織部と云織部にあらず安南吸香なり俗にすすり呉器といふ」と記されています。

安南青磁 あんなんせいじ

安南焼の青磁。ベトナムのハノイの博物館の説明によれば、約六百年程前に中国の陶工が移住してトンキン釆て東京に窯を築き、本国から持って来た釉薬を用いて焼いた青磁であるらしい。
その特徴は和がはなはだしく結晶性を帯び、また釉色が不揃いで仕上りの惑いのが多く、赤褐色胎土以外のものには鉄足のないことなどが挙げられます。ただし一般に安南青磁と称するものはタイ国窯であるとの説があります。
(『彩壷会講演録』「安南焼に就て」)

安南青磁 安南焼の青磁

安南絞手 あんなんしぼりで

→あんなんそめつけ(安南染付)

安南呉器 あんなんごき

安南焼の呉器。呉器とは飯碗のことであります。『陶器考』にほ「茶薬に処処しゆみ出朱土に背き小石のまぢりたる茶わんの畳付の処所所はげたるあり世人これを古萩と云古萩は土赤黒く白き小石まぢりて此晶とは達へり是は安南の呉器なり後渡りの物は高だい上より土を見黄土にて青石あらしこれを砂御本と云安南呉器の後渡なり」とあります。

安南織部 あんなんおりべ

織部風の安南焼。『陶器考』に安南(ベトナム)に織部形のもののあることが記され、また安南で産出するもののうち茶釉黄土に自称と黒釉で中に風変わりな絵を描いたものを一般に赤織部というが、そうではなくこれは安南吸番であると記しています。

安南絵堅手 あんなんえかたで

『陶器考』に「白薬朱土の厚作なるに藍にて草花虫等を画く壷水指あり安南の絵些手なり」とあります。
※あんなんそめつけ

安東焼 あんとうやき

伊勢国津(三重県津市)の陶器。古くは安濃津焼ともいりましました。
安永・天明(1772-89)頃津の藩主藤堂高豊が、古万古窯沼波弄山の陶工瑞牙を招いて近郊の安東村(同市安東町)で焼かせたのが起こりであります。
窯務には藩士服部十太夫(一に十左衛門)が携わりましました。作風は概して古万古風の色絵でありますが、中に南蛮風の焼締めに一部だけ絵付したものがあり、古安東の一特色をなしています。
古書には南蛮写しを(古)安東の特色としています。片身替り意匠も古安東の方が多いようです。絵付は赤・緑を主とするが黄・青・紫も使っています。「安東」印を捺すが、梅香および草書の両種があります。
一時廃窯後、幕永年間(1848-54)に倉田久八が再興し、信楽の陶工上島弥兵衛を招いて御用窯として製陶しました。これを俗に再興安東といい、これに対して以前のを古安東といいます。やはり楷書の「安東」印であるが古安東とは字体が違う。再興安東は古安東と素地も異なり、黒斑入りの風土で、給付も有節万古風の盛上げであります。のちに「阿漕」印を用いたので阿漕焼と呼ばれるようになりましました。
※あこぎやきあんどうりゅうけん(安東柳軒)一説に安東焼の創始者のように推定されるが不詳。

安藤勝助 あんどうかつすけ

→ひゃっきょくやき(古曲焼)

アンチモン Antimon あんちもん

粘琴の主要な乳濁剤・着色剤であります。乳濁剤として最も効果的なのはS.K1以下の釉であります。ペイント教科に広く使用されているが、釉薬にも使われます。乳濁剤のほか黄色およびオレンジ色を出す釉に使われます。酸化コバルトと硫酸アンチモンを紬に混合して、屋根瓦の線色を出すのに用いられてもいます。
(『釉とその顔料』 )

安昌 あんしょう

肥前有田百聞窯の出土品申にこの銘がありますが、作者・年代など不詳。
(『有田古陶磁銘款集』)

安秋楽 あんしゅうらく

モ一ス・コレクションの中にこの銘があるが不詳。山城国(京都府)で産したものであろうか。
(『日本陶器目録』)

安哉 あんさい

中国漠代の『蘭台令李尤集』に安哉の銘があります。多分素焼の陶器で飲食物を盛るのに使りました鉢であるでしょう。
(『陶説』)

泡盛壷 あわもりつぼ

沖縄で焼酎を入れる粗陶製の大壷。特殊な壷窯で焼かれる。
製法は江戸時代初期に薩摩から伝わったもので、昔朝鮮から伝来した技術であります。

泡盛壷の陶工を壷細工と呼びます。

塩田力蔵 

栗田焼 あわたやき

京都栗田(東山区)付近の陶器の絵称。
近代では清水焼が磁器を主とするのに対し、栗田焼は陶器を主としています。粟田口焼が最も古く、その他岩倉山・錦光山・丹山・宝山・帯山などが著名であります。色絵にすぐれ、多くは茶器であります。
明治以後京薩摩の名で海外で賞美され、一時粟田焼の黄金時代を呈したが、貿易の不振でその後蓑微しました。

栗田焼 京都栗田(東山区)付近の陶器

粟田口焼 あわたぐちやき

京都粟田口の陶器。元和(1815-24)あるいは寛永(1624-44)初年に瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て粟田口三条通り蹴上(東山区)に築窯し、その子庄右衛門・助右衛門および弟子徳右衛門らと共に製陶したのが粟田口焼の起こりといわれ、京焼では最古の窯とされています。しかし記録からみると、その閲窯はおそらく慶長年間(1596-1615)を降らぬものとみてよいだろう。
主に茶入・茶碗などの茶器を焼き、特に唐物茶入や呉器手・伊藤保手などの写しに特色をだしたようであります。
また向付の類には、錆絵や錦絵・染付併用の淡雅なものが多いようです。一見仁清風の信楽手もあり、俗に粟田口仁清といわれています。狭義の粟田口焼は元禄(1688-1704)頃まで続いたようであります。「粟田口」印があるがこれには二種あります。

粟田口善法 あわたぐちぜんぽう

室町時代中期の佗び茶人。善輔ともいいます。珠光の弟子。
京都粟田口(東山区)に住み、一生の間、爛鍋一つで食事をも茶の湯をもして楽しんだので、心の椅寛な茶人であると珠光にほめられた。はかに茄子形の手取り釜を愛用していましました。その写しを豊臣秀吉が利休を通じて伊勢国(三重県)の釜師辻越後につくらせたものが、京都粟田口の良恩寺に伝わっています。彼はもと北面の武士で、田中兵部大輔といりましました。

アワダ あわだ

→カネツケ

泡盛壷 あわもりつぼ

沖縄で焼酎を入れる粗陶製の大壷。特殊な壷窯で焼かれる。
製法は江戸時代初期に薩摩から伝わっ三平が官窯を統轄しました。
1870年(明治三)瑞平が没した時には家に資産がなく陶業上の負債が数千円ありましたといいます。しかし後年には大産業となって海外に大量に輸出され、現平焼の名声は世間に高くなりましました。加集三平(もと賀州、のちに加集と改めた)は1872年(明治五)に官窯を買って独立し、樺田善次郎ほ域平の子力太が多病のために廃業するのを惜しんで、1883年(同一八)7月本窯を買い受けこれを回復しました。
淡陶会社はその後身。同年5月田村久平が津名郡洲本(洲本市)に一窯を起こし、弟田村福平が技術を担当して1897年(同三〇)頃には聴駁虐焼・茶金釉などを出しました。
淡路焼はその後規模を拡大し、また品種を一新して近年はタイルの専門製造地となりましました。環平の作品は土質が柔らかく彩画が鮮研で、京都栗田焼に似ていると評されます。
(『工芸志科』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本近世窯業史』『日本窯業大観』)

栗田焼 あわたやき

京都栗田(東山区)付近の陶器の絵称。
近代では清水焼が磁器を主とするのに対し、栗田焼は陶器を主としています。粟田口焼が最も古く、その他岩倉山・錦光山・丹山・宝山・帯山などが著名であります。色絵にすぐれ、多くは茶器であります。
明治以後京薩摩の名で海外で賞美され、一時粟田焼の黄金時代を呈したが、貿易の不振でその後蓑微しました。

粟田口焼 あわたぐちやき

京都粟田口の陶器。元和(1815-24)あるいは寛永(1624-四四)初年に瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て粟田口三条通り蹴上(東山区)に築窯し、その子庄右衛門・助右衛門および弟子徳右衛門らと共に製陶したのが粟田口焼の起こりといわれ、京焼では最古の窯とされています。しかし記録からみると、その閲窯はおそらく慶長年間(1596-1615)を降らぬものとみてよいだろう。
主に茶入・茶碗などの茶器を焼き、特に唐物茶入や呉器手・伊藤保手などの写しに特色をだしたようであります。
また向付の類には、錆絵や錦絵・染付併用の淡雅なものが多いようです。一見仁清風の信楽手もあり、俗に粟田口仁清といわれています。狭義の粟田口焼は元禄(1688-1704)頃まで続いたようであります。「粟田口」印があるがこれには二種あります。

粟田口焼 京都粟田口の陶器

粟田口善法 あわたぐちぜんぽう

室町時代中期の佗び茶人。善輔ともいいます。珠光の弟子。
京都粟田口(東山区)に住み、一生の間、爛鍋一つで食事をも茶の湯をもして楽しんだので、心の椅寛な茶人であると珠光にほめられた。はかに茄子形の手取り釜を愛用していましました。その写しを豊臣秀吉が利休を通じて伊勢国(三重県)の釜師辻越後につくらせたものが、京都粟田口の良恩寺に伝わっています。彼はもと北面の武士で、田中兵部大輔といりましました。

アワダ あわだ

→カネツケ

淡路焼 あわじやき

淡路国(兵庫県淡路島)の陶器。
文政年間(1818-30)同国三原郡稲田村(南淡町伊賀野)の賀集規平が創業しました。
規平は初名を豊之助といい代々稲田村に住んで醤油醸造を業とし、かたわら図書に通じ茶事の心得もありましました。所有地は一八町(18ヘクタ一ル)。常々「淡路は四方を海に囲まれ土地が狭く人が多い、これが貧困者の多い理由であり、これを救うのは海産を盛んにすることにあります。」といっていましました。そして260~70人の漁夫を使って近海漁業を行なりましたが利益が上がらず、そこで和泉国(大阪府)に行って大綱をつくりますます漁業に努めました。
ここで偶然京都の陶工尾形周平に会い製陶のことを話し合い、のち由良浦(洲本市由良)に行っての帰り池の内村(同市池内)を過ぎ白土山麓に来た時に周平の話を思い出し、試みに白土を持ち帰って楽焼の茶碗を数十個つくりましました。また黄南京を模作しようともしたがうまくいかなかりましました。その後漁業はますます損失が大きくなりましたのでついに廃業を決意したが、楽陶の方はやや里硬な器をつくるようになりましました。
1829年(文政一二)には醸皆の本業もやめ、もっぱら製陶に従事して黄色・青色の紬を発明。そして1834年(天保五)には京都から周平を連れて来て共に陶事を研究したが、二年で周平は去りましました。瑞平はますます熱心となり所有の土地を売って資金に当て、親族の勇左衛門もその志に感じて一六町(16ヘクタ一ル)の土地を買って与えましました。この時現平の弟恒左衛門は村長でありましたか、これもまた家産を売却して資金として助けた。
瑞平は恒左衛門に焼窯を託し自分は工事を監督して大いに奮闘、1838年(同九)茶褐釉・鬱白陶を創製しました。
1842年(同一三)藩主蜂須賀氏はこれを聞いてたびたび視察督励し、資金を出して官窯を築き現平に統轄させました。翌年に中国青花陶・絵高麗および艶黒の諸釉を発明。この頃には初期に製作した黄彩陶が遠近に売れて、一時は売上高が近隣十一力村の収穫した米価に相当したといわれます。
1856年(安政三)恒左衛門没。1862年(文久二)瑛平が発病したので業を恒左衛門の子三平に託し、1867年(慶応三)には三平が官窯を統轄しました。
1870年(明治三)瑞平が没した時には家に資産がなく陶業上の負債が数千円ありましたといいます。しかし後年には大産業となって海外に大量に輸出され、現平焼の名声は世間に高くなりましました。加集三平(もと賀州、のちに加集と改めた)は1872年(明治五)に官窯を買って独立し、樺田善次郎ほ域平の子力太が多病のために廃業するのを惜しんで、1883年(同一八)7月本窯を買い受けこれを回復しました。
淡陶会社はその後身。同年5月田村久平が津名郡洲本(洲本市)に一窯を起こし、弟田村福平が技術を担当して1897年(同三〇)頃には聴駁虐焼・茶金釉などを出しました。
淡路焼はその後規模を拡大し、また品種を一新して近年はタイルの専門製造地となりましました。環平の作品は土質が柔らかく彩画が鮮研で、京都栗田焼に似ていると評されます。
(『工芸志科』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本近世窯業史』『日本窯業大観』)

アルミナ Alumina あるみな

酸化アルミニウム。陶土の主要成分で高温で焼いて得られます。珪酸・アルカリと化合して長石その他の媒熔剤となり、釉の中のものは失透を防ぐ。

あるへいとう耳 あるへいとうみみ

名物水指にこの形があります。

アルデビル収集磁器 Ardebi あるでびるしゅうしゅうじき

イランの西北、タブリズの近くにあるアルデビルのモスクに収集された中国磁器。ポ一プによると元・明の染付が中心で総数618。また白磁は80、青磁は58、黄色釉のものが16、多彩のものが23三、青紺色のもの7、褐色は3で計805点となります。うち320点は皿であります。またその一部は現在テヘランの国立博物館、イスファラァンの四十桂宮博物館に所蔵されています。

アルカリ Alkali あるかり

水に可溶な塩基の称で普通カリとソ一ダとを指す。窯業においては主として熔媒作用をします。
アルカリ土は熔媒としては石灰その他より強い。

有山長太郎 ありやまちょうたろう

薩摩国(鹿児島県)の長太郎焼の創始者。
1893年(明治二六)京都の栗田窯から陶法を学んで仙厳焼の陶画工となり、1900年(同三三)鹿児島市谷山町で開窯。
(『薩摩焼総鑑』)※ちょうたろうやき

有村碗右衛門 ありむらわんえもん

薩摩国(鹿児島県)の竪野焼の陶工。初名を久兵衛といい、初代星山仲次に教えを受け金和(仲次の子弥右衛門)の弟子となり、1648年(慶安元)に藩主光久に召し出されて碗右衛門の名を賜わりましました。
その後京都の御室窯の錦手を研究し帰国後ただちに製作、江戸に赴いて藩主に献上したところ非常に喜ばれて金子を拝領。帰路京都に止まって衆楽焼および唐物茶入などの製法をも修得して帰国。
この時から焼物方主取役を命ぜられ切米八石と屋敷を賜わりましました。子孫には募兵衛・清右衛門・長兵衛・七右衛門・市右衛門らがおり陶業を継いです。星山家と並ぶ名家。
(『薩摩焼総鑑』)

有馬燐 ありまやき

小西平内が1931年(昭和六)に神戸市兵庫区の有馬温泉に開いた太閤窯の陶器。
1948年(岡二三)まで続き以後同県甲山に移りましました。

有馬筆 ありまふで

名物型物香合の一つ。呉須。小さい角形で前後に漁礁、左右に竹の文様があります。
上のつまみには人形があります。兵庫県有馬産の筆で逆さにすると釉から小さな人形のようなものが出てくるものがありますが、香合のつまみがその人形の形に似ているのでこう名付けられた。
(『茶道杢蹄』『茶道名物考』)

有馬筆 名物型物香合

有田焼 ありたやき

肥前国(佐賀県)有田の磁器。
西松浦郡有田町を中心として、文禄・慶長の役(1592-8)後発見された有田泉山の原料によるもので、わが国最初の磁器であります。昔製品の大部分が伊万里港を経て搬出きれたので、伊万里焼とも呼ばれる。
【端緒】佐賀藩の藩祖鍋島直茂ほ豊臣秀吉の朝鮮出征軍の先鋒として出陣し、その凱陣の際に多数の陶工が伴われ帰化しました。そのうち佐賀郡金立村玖摩山(佐賀市金立町)に居住した者は金氏といい、その後松浦郡山形村字藤の川内(伊万里市松浦町山形)に移りましました。また小城郡多久村(多久市)に居住した者は李氏といい、朝鮮忠清南道金江の人でありましました。のち金ケ江三兵衛と改め、のちの人は李参平と称しました。
初め同村字道祖元で起業したが適意の原料が得られず、次第に西の方へ行き、1616年(元和二)松浦郡有田郷字乱橋に来てその後さらに有田字上白川に移りましました。
杵島都武雄村宇内田(武雄市東川萱町大字内田)に居住した者は宗伝といい、深海を姓とし、のち有田字稗苗場に移りましました。
彼らは慶長(1596-1615)から元和・寛永年間(1815-44)にわたってのおよそ二十余年、陶業によって生計を立てていたのであるでしょう。当時は今の有田町を田中村と称し、深林鬱蒼とした深間でわずかに松浦郡平戸(長崎県平戸市)から杵島郡武雄(武雄市)に通ずる道路がありましただけで、乱橋にいた李参平は谷に沿ってさかのぼり有田上白川に移って窯を築き製陶しました。この地が極めて薪水の便がよかりましたからだと思われます。
泉山磁頑は李参平が発見したもので、創業当時にはもとより粗造でありましたので顧みる者もなかりましたが、後世からこれをみるとわが国製陶業大革新の起こりであり、有田陶業が今日あるのは実に参平の功績といえます。
【磁器創業】参平は上白川で窯を起こすと共に杵島郡板野川内(山内町)にも窯を築いたが、これは現在遺跡がある古間窯で、すでに泉山磁砿を検出しこの地で白磁器を創製していたことは、現に廃窯の跡から掘り出された破片が泉山磁質であることでもわかる。しかしこの地が極めて僻地で交通が不便なため、道路に接する字小樽の地に移窯しました。同地に廃窯の形跡を存するのは、1810年(文化七)頃再び築かれたものと伝えられ、これを新窯といって今はこの地の字になっています。
以後窯の存廃が一所不定でありましたととは現に廃窯の跡が所々に散在していることで想像できる。これは帰化朝鮮人だけに限らず、当時は遠近から相携えて有田に来て陶業を企てたからであります。これらの工人はその後各地に散在して部落をつくり山林を伐って陶業を営んです。
【寛永の整理】1637年(寛永一四)藩主鍋島勝茂は家老多久茂辰に命じて大々的に人員を淘汰し(826人中男532人、女294人)、帰化朝鮮人以外は陶業に従うことを禁止し退去させました。
これは地方人が朝鮮人について陶法を修得し、所在の山林を濫伐して燃料に当てる弊害がありましたためであります。
しかし朝鮮人に縁故のある者(当時李参平は子孫および徒弟を合わせて三十余人いたということである) 、あるいは多年この地でこの業を世襲した者らは、特に多久家の符信を得てその後も業に就くことが許されました。この時に有田はか十三カ所を製陶地と定め、また山林伐採税として銭を若干納めさせました。この頃の陶業戸数は首二十戸あってすべてを李参平が統轄しました。
1855年(明暦元、または1652年、承応元年ともいう)参平は有田上白川で没しました。基は報恩寺にあります。
当時は制作描画がやや熟達して白磁に青花を描き、氷裂文を青磁に現わし、模型彫刻を白磁に施して絵文に代えるなどの技法はことごとく具備していたが、彩画着色を施して装飾するような技法はまだ発見されていなかりましました。
【赤絵の成功】1844年(正保元)伊万里の人東島徳右衛門が長崎に釆ていた中国人周辰宮について彩画着色の方法を習得して帰り、これを有田郷南川原の陶工酒井田柿右衛門に伝えましました。柿右衛門は数々実験をしたが成功せず、そのため呉須権兵衛に相談して共に幾多の研究を積みついに成功しました。
こうして初めて柿右衛門所製の磁器に彩面鏡文を施し、長崎で中国清朝の商人などに売り大いに賞賛されました。
有田磁器を外国商人に販売した始まりであります。これが1646年(正保三)のことで、以後清朝商人と貿易して彩面鏡文の精巧な磁器を輸出しました。
【内山外山の制】1847年(正保四)には有田ほか十三カ所の製陶地で陶業を営む者を百五十戸と定め、したがって製陶機械(蹴破埴)を設備する者も百五十戸に限られた。この時山林伐採税を廃止し、蹴廃墟一挺につき車税として若干の銭が課せられた。また内山・外山の区別もこの時に定まりましました。
その個所は有田全部を内山と称し、有田郷外鳥山・黒牢田山・応法山・広瀬山・南川原山、伊万里郷大川内山・一ノ瀬山、杵島郡簡江山・弓野山・小田恵山、藤津郡志田山・吉田山・内野山を外山と称しました。またこの外山の中に大外山の称があります。これによって有田産原料が採れるところと採れないところがありましました。
この制度は後世に成りましたものでありますが、大体領主の領地の区画によって定められた。すなわち松浦郡外尾山・黒牢田山・応法山・広瀬山・南川原山・大川内山・一ノ瀬山は本藩鍋島氏の領地でありましました。
その採る原料に良否の差異はありましたが、みな有田産原料を採って製造するものでありましました。これを外山といいます。
杵島郡簡江山・弓野山・小田志山は家老鍋島氏の領地であり、そのため有田産原料を採ることば許されなかりましました。しかし特に簡江山に限って毎年有田産原料八万五千斤(約50トン)を採ることを許されたのは、もと板野川内古間窯にいた朝鮮人の一部が廃窯の時に同地に移住して陶業を起こした縁故ではないだろうか。今でも杵島郡山内町宮野字簡江にはその遺跡があります。
藤津郁恵田東山は本藩の領地でありましたが創業が遅く、西山は支藩の領地でありましたので共に有田産原料を採ることを許されなかりましました。また内野山は本藩の領地でありましたが製品が粗造であるため有田産原料を採る必要はなかりましました。吉田山だけは本藩・支藩が分類していたので、本藩に属するものに限り1752年(宝暦二)から毎年有田産原料五百苞を採ることを許されました。これら諸山を大外山といいます。
【鍋島焼】単に外山と称するうち大川内山は、佐賀藩主から徳川将軍へ進献するものおよび他の藩主へ贈進するものを製する藩窯のありましたところで、初めは有田岩谷川内にありましたものを寛文年間(1861-73)に南川原山に移し、延宝年間(1673-81)に今の大川内山に移しました。
原料は有田泉山磁砿地内に特に採掘する坑があって、御用坑と称してみだりに採掘するのを許さなかりましました。
工場ほ藩士副田孫三郎を主管とし、代々その職を世襲させました。
製品は盞盤が主でその他精巧な装飾器具をつくらせ、厳密な規定を設けて他の者が模造することを禁じた。
天明年間(1781-9)になって有田代官の所轄になると吏員が駐在して窯匠のすべてを監督しました。
【明麿の改制】1856年(明暦二)再び山林制度を改め、また車税を車運上(今の製造税である)と唱え徴収の法を定めました。この頃になるといよいよ有田製品の声価ほ四万へ伝わり、特に江戸で最も盛んに発売されたと伝えられます。
【御用品進献】寛文年間(1861-73)に江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛が仙台藩の委託を受け有田に来て磁器を求めたが得られず、二年間留まってようやく辻善右衛門所製の良器を得て帰り伊達侯に納めました。侯は大いにその優秀さを賞賛してこれを皇室に献納しました。これにより皇室では古釆使用してきた土器を廃して青花磁器に改め、佐賀藩主に命じて毎年皇室の御器若干を辻善右衛門に調製させ上納させることとなりましました。以後辻家は代々この栄職を世襲し、三代喜平次の時直接調進の恩命を受け官職常陸大橡を受壊しました。1872年(寛文一二)には赤絵町の名が起こりましました。
【密貿易】享保年間(1718-36)有田大樽の宮村勘右衛門は赤絵町の嬉野次郎左衛門と共謀して、幕府の厳禁を犯してしばしば長崎からインド方面に密航し有田製品を販売して巨利を得た。しかし1725年(享保一〇)ついに事実が発覚して次郎左衛門は処刑され、勘右衛門は切腹自決しました。現在ヨ一ロッパで日本古伊万里と称して珍重する古器物中には、当時密売された多数の品類も達存しているとみられます。
【宝暦の改制】寛延年間(1748-51)有田内外山製陶業に関する制度を改正し、窯税を窯運上と改称し、また1751年(宝暦元)には製陶業を営む者の証票(名代札という)数百八十個のところを、さらに火口名札の名称で数個を増加することがあって、安永年間(1772-82)に泉山に新窯を築いて窯の不足を補充しました。
【技法の秘密】安永の頃長崎奉行に肥後国(熊本県)天草の原料で磁業を起こそうという計画があり、佐賀藩では有田陶法の秘密が伝わって模造されるなどのことがあれば有田内外の陶業に影響することを恐れ、特に錦付装飾法などは最も秘密とすることなので、一層厳密な規定を設けた。当時赤絵業者は十六戸ありましたが、その数は現在数十六戸に限定され、特に顔料調合法などは戸主以外には伝授できない盟約を結ばせ、また製造業に対しても一層厳重に警戒してもっぱら秘法の漏洩を防いだにもかかわらず、有田の人で大川内藩窯の名工副島勇七が監督の藩吏と衝突し、ついに遁逃して諸国の製陶地を巡って有田陶法の秘訣を伝授しました。
佐賀藩ではただちに下目付小林伝内を派遣して諸国にその踪跡を捜査させ、数年後にようやく伊予国(愛媛県)砥部で捕えて帰り、国法に処して有田・伊万里の通行路の鼓峠で晒首にし、国法の厳重であることを示したと伝えられます。これより以前の万治年間(1858-61)加賀国(石川県)から後藤才次郎が釆て陶法を探りましたといわれ、1797年(寛政九)には会津(福島県)の佐藤伊兵衛が佐賀高伝寺の下男であると偽って有田に来て、青花白磁の焼成法を習得したことがありましました。また1801年(享和元)尾張瀬戸の加藤民吉が有田・三川内などを歴遊して磁法をことごとく探りましたことがありましました。
このような形勢に鑑みて佐賀藩は他国の陶商が産地に入ることを堅く禁止し、販売市場は伊万里の地に限りましたので、有田内外山の製品はほとんど伊万里を経て諸方に搬出され、世に伊万里焼と称されるようになりましました。
【朝鮮輸出】1790年(寛政二)有田赤絵町の北島源吾は官許を得て対馬に渡航し、藩主宗氏の命で朝鮮需用陶磁器の専売を許され、有田代官の保護の下に対馬で受け渡しの契約を結び以来この事業を世襲したが、1871年(明治四)に制度が改革されて専売契約は廃止されました。
【名工】享和(1801-4)・文化(1804-18)の交に泉山に百田辰十という陶家がいて、窯積の改良を研究して従来の平穏から天秤二段横の便法を工夫し、約二倍の品を焼成するようになり、斯業発展のうえに著しい功績を残しました。文政から天保(1818-44)の間に有田の陶業が大いに発達して、産額が急に増加し、精巧な佳品を産出したのは、当時泉山に深海乙吉、上幸平に辻喜平次、大樽に田代半次郎、白川に南里嘉十のような著名な陶業者が輩出し、また赤絵町に今泉平兵衛がいて各技巧を競りました結果にほかならないようです。特に辻喜平次は極真焼を発明し、瑩潔滋潤な製品をつくって一層有田焼の声価を増しました。この頃が有田磁器の全盛時代であります。
【海外貿易】1842年(天保一三)有田の久富与次兵衛は公許を得て長崎でオランダ貿易を開始し、1860年(万延元)には田代紋左衛門もまたイギリス貿易を名義とした公許を得て長崎で開店しました。1859年(安政六)横浜が開港され、1867年(慶応三)には兵庫港も開かれて磁器の輸出は激増し、深川栄左衛門が長崎・横浜で開店、田代もさらに横浜で開店しました。
1867年鍋島閑叟侯はフランス博覧会を機会に藩士佐野常民を主幹とした商人を派遣して、製品の紹介・需要の調査に当たらせた。これが有田陶商の海外出店の始まりとされています。
【明治維新後】時の藩主閑叟は殖産興業に留意し、特に有田陶業のためには慶応(1865-入)から明治初年にわたって郡令百武兼貞に命じて大いに改良発展を図らせ、1869年(明治二)にはフランス絵具を得て帰朝した東京の瑞穂屋卯三郎を招き、また西山盛太郎・深海竹治・大塚為助・光武彦七の四人を東京へ派遣して服部香田のもとで西洋絵付法を習得させ、翌年にはドイツ人ワグネルを長崎から招帝して陶用絵異および石炭焼などを伝習させました。コバルトおよびクロムの応用などはこの時から全国に普及しました。同年また深川栄左衛門が電借用の碍子を試製しました。
1873年(同六)のオ一ストリア博覧会に際し有田の河原忠次郎はオ一ストリアに行って石膏型および錦付油塗法などを習得し、東京の勧業寮で各地の陶工らに伝授しました。
1875年(同八)深川栄左衛門らほ香蘭社を設立し、1879年(同一二)深見墨之助らは同社から分かれて精磁会社を起こしました。1877年(同一〇)から紙型絵付が行なわれ、.さらに1887年(同二〇)頃美濃風の銅版絵付が採用されました。
1892年(同二五)城島岩太郎が初めて尾張・美濃地方の石炭釉に倣ってこれを試用してからようやく一般にも使われ、旧来のイス灰は古風の製品に限られるようになりましました。明治末期からは石炭焼成と共に一間窯が多く用いられた。1918年(大正五)泉山磁砿発見三石年記念のため磁祖李参平の頒徳稗が建てられた。
【現況】1970(昭和四五)年度における有田の状況をみると、メーカー数117、従業員数7074人、年間生産金額104億4800万円。
(『有田陶業史』『有田沿革史』『日本近世窯業史』『有田磁業史』)

有田焼 色絵瓢徳利

有田焼 色絵瓢徳利

有田焼 染付徳利

有田皿山 ありたさらやま

佐賀県西松浦部有田町の旧称。皿山とは磁器の産地を示す呼び名。
一般の古文書にはときどき有田皿山とみられるが、公文書には単に皿山とだけ記し有田の文字を付けたものはないようです。礫山またほ肥礫山と記したのは皿山を中国風に書いたものです。
明治維新後皿山は有田村と改め外尾村は新村と改めたが、1889年(明治二二)に有田村が町制になりました時新村が有田村と改称。
(『有田町勢概要一覧』寺内信一)

有明肩衝 ありあけかたつき

名物唐物茶入安国寺肩衝の異名。
※あんこくじかたつき

荒焼 あらやき

上絵付工程のうち、骨措きと彩色をして金彩を加えずにいりましたん焼くことをいいます。荒焼ののち金彩を施す。
また沖経では原始的なやきものを荒焼というようであります。

荒練り あらねり

土潜みの終わりました粘土を、使用に先立っ七使用分量だけを練り台の上に置き、両腕に体重をかけて両手で練り上げを行いました。両端を中央へ折込んで練る。
これは粘土の硬軟の完全な混ぜ合わせを行なうのと、粘力を増すための練り上げであります。かなりの重労働で一練りで汗をかき、一棟りに二、三回は息をつがねば練り上げまでには至らないようです。瀬戸では「大押し」といいます。
荒練りされた粘土はさらに巻練りが行なわれます。これを瀬戸では「捻押し」といいます。これでいよいよ成形の運びとなります。

嵐山 あらしやま

名物。後窯茶入、万右衛門作。銘は茶入の景色に患い寄せたものらしく、品位に乏しい感じがするが作行はおもしろい。鳥越家に入りましたが伝来不詳。
(『大正名器鑑』)

嵐山 あらしやま

銘。清水焼風のやきものにこの銘があります。京都の嵐山は桜花・紅葉ともに美しくかつ納涼地として知られた所。
このやきものは嵐山土産として売られたものでありますが、陶窯および作者については未だにはっきりしないようです。遺品はまれであるが作者は熟達した陶工でかつ画家であることを示しています。
(『日本陶器目録』)

嵐胤宗 あらしたねむね

この銘印のあるものについての伝系は不詳。モ一スは筑前国(福岡県)の高取焼の系統に分賛しています。
(『日本陶器目録』)

欝仕子 あらしこ

製陶場の雑役夫の名称で九州および瀬戸地方で用いられた語。荒仕事人の意であろうか。京都では裏師といいます。

荒木和助 あらきわすけ

→じょうはなやき(城端焼)

荒木探令 あらきたんれい

狩野派の画家、陶画に造詣が深い。1858年(安政五)生まれ。
テレビン油描法を江戸川製陶所の納富介次郎に学び、東京工業学校(現東京工業大学)のワグネルの旭焼に絵付しました。
1900年(明治三三)のパリ博覧会の際、佐賀県でテレビン油描法を実施。
1931年(昭和六)1月9日東京で没、七十四歳。
(塩田力蔵)

荒木高麗 あらきごうらい

大名物。朝鮮茶碗、高麗。荒木摂津守村重が所持していたところからこの名があります。
一見安南茶碗のようでありますが、釉が柔らかく特に内部に井戸茶碗のような白釉なだれがあるのは高麗茶碗の特色とみられます。
もと利休が所持し、荒木村重を経て尾張徳川家に入りましました。現在徳川黎明会蔵。
(『玩貸名物記』『古今名物類衆』『名物記』『大正名器鑑』)

荒木高麗  大名物 朝鮮茶碗 高麗

荒籠 あらがき

名物。朝鮮茶碗、本手石彫三島。茶碗に桧垣の文様の彫り残しがあるためこの銘があります。
もと尾張国(愛知県)犬山の竹腰家の所蔵、のち京都の三井家を経て大阪の藤田家に入りましました。
(『大正名器鑑』)

荒尾古窯址群 あらおこようしぐん

熊本県荒尾市の小岱山山麓一帯に分布する須恵器窯跡群。
熊本県の最北部に位置する荒尾市は、西方に有明海を臨み東方には標高五〇一メ一トルの小岱山の山並みを控えています。小岱山麓はなだらかな丘陵性の台地となり、大小無数の谷が複雑に入り組んで窯業生産に好適な条件を形成しています。
荒尾古窯址群は須恵器窯を主体とし一部に瓦窯址を含むが、これまでに数十基の窯が確認されており、その分布は小代窯址支群および袴嶽窯址支群の二つに大別されます。
この古窯址群の存続期間は古墳時代から奈良・平安時代にわたるとされているが、その年代をさらに厳密に限定するには今後の研究に待たねばならないようです。
荒尾古窯址群の最盛期は奈良・平安時代でありますが、平安末期になると生産規模は著しく縮小し、わずかに軟質の瓦器類の生産だけが行なわれるようになりましました。
なお荒尾古窯址群の所在する小岱山麓一帯は中・近世にも窯業が行なわれており、近世初頭に始まる小代焼(竜原焼・五徳焼・松風焼などとも呼ばれる)の存在はよく知られています。
肥後地方にはこの荒尾古窯址群のほかに、熊本古窯址群・下益城古窯址群・八代古窯址群・球磨古窯址群・宇土古窯址群などの比較的小規模な須恵器窯址群がありますが、これらの窯址群の所在地ではいずれも近世になって窯業生産が復活していることば注目されます。

鮎帰窯 あゆかえりがま

佐賀県東松浦郡北波多村稗田字鮎帰に窯跡があります。唐津焼の古窯、岸岳窯の一つ。

綾焼 あややき

石見国(島根県)の陶器で石見藩主の御庭窯といわれます。年代ははっきりしないが、製品は交址焼に倣い、地紋は形押あるいは刻など種々あり、器ととに長方形の中に綾焼の二文字が印されています。
(『陶器類集』)

あやめ手黄瀬戸 あやめできぜと

→きぜと(黄瀬戸)

線松山 あやのまつやま

讃岐国綾歌郡白峰山付近(香川県坂出市)のやきものにこの銘があります。
※しょうざんやき

あやせ

楽焼の梅花絵茶碗にある押銘。
茶碗の外側に「堀切茶寮にて梧堂」の書銘があります。おそらくは東京都葛飾区の堀切菖滞園内にありました楽焼らしく、古くても明治末頃の作であろうか。
『陶磁』七ノ四

綾杉・文杉・文相 あやすぎ

候斜の異なる平行斜線文二つを合わせた形状を、杉の葉に見立てて綾杉または杉綾といいます。
綾杉文ともいいます。彫三島・釘彫三島などにこの文様があります。
わが国の考古学で、傾斜の異なる縄文二帯を羽毛の形状にたとえて羽状縄文と呼んでいるのも同種の表現であります。

阿米夜・飴也 あめや

楽焼の元祖。初代長次郎の父。『和漢諸道異見知砂』(1694、元禄七年編)には「元祖は唐人にて利休時代なり」とありますが、おそらく中国明代の人であるでしょう。
従来の伝では法名を宗慶と称したといわれているが、楽家宗入文書によると、阿米夜と宗慶は別人であります。
阿米夜の遺品については不明でありますが、おそらく初めて加茂黒石を釉料として使い、楽焼の基を開いた功績によって元祖と崇められたものとされています。
※そうけいアメリカのげんだいとうげい(Americaの現代陶芸) アメリカにおける本格的な陶芸運動は、第二次世界大戦以後の1950年代中期からであります。
抽象表現主義運動ともいわれる芸術運動の風潮の申で、造形表現の一手段として陶芸運動が起こりましました。
もちろんアメリカの日本占領が、多くの日本陶芸の実際をアメリカに紹介したことも大きな要因であります。
ロスアンゼルスを中心としたアメリカ西部に作家が多いようです。
代表的作家としては、ピ一タ一・ヴォ一カスをはじめ、ジョン・メイスン、ア一ネスン・ロバ一ト、オット一・ナッラ一、ラルフ・バセラ一などであります。

飴の蓋 あめのふた

名物建水。錆和であります。南蛮物の写しで、大手のものは高さ4.5センチ、直径22センチあります。
(『茶器名形篇』)

飴椋 あめちまき

掛花入の一種で中央部が太く両端の細いものです。

飴釉 あめぐすり

飴色の釉薬。鉄分の蘭化焼成による発色であります。

アムル Amur あむる

イランの北、カスピ海沿岸地方のマザンデランにある一小市。雨が多いので、建築にも他の地方のように天日干しの煉瓦でなく、焼成した煉瓦を使用します。
モスクも煉瓦づくりでなく多くは木造だが、壁は黄と青、または白の軟釉を用いたタイルによって装飾されます。町は市中を流れるハラズ河の洪水によってしばしば滅んだが、住民はそのたびごとに使用されていた煉瓦を集めて建築したといいます。
また女王の宝石が洪水で流されたことがあり、それを求めて市民は宝捜しをしたと伝えられます。
十一、二世紀頃につくられた陶器の形は一般に端正で、文様を刻文で表わし上に線・裾・紫の鉛劫を掛けたり、点描法で装飾したりしています。組紐風の抽象文様もよく用いられています。また鳥文も多く使われたが、多くは鳩に近い形を示し、その前提となる水鳥風のものもあります。
この地はもとは織物の大センタ一でありましたため、織物のパタ一ンを正確にそのまま利用したものがあるのは、他に類例がないようです。

アムキワ あむきわ

仰瓦・牝瓦・砥・甑 平瓦を意味する朝鮮語。
(『朝鮮陶磁名考』)

網場窯 あみばがま

但馬国養父郡相場村(兵庫県養父郡八鹿町網場)にあり、1885年(明治一八)に同郡八鹿村(八鹿町八鹿)の植木清兵衛がここで粗陶を製しました。その創始については不詳。
(『日本近世窯業史』)

網の手 あみのて

綱の文様のあるものをいいます。染付などで網干の模様のあるものなどをもまた網の手と呼びます。

編笠 あみがさ

茶碗の形が歪んで編笠状をしたものです。朝鮮産刷毛目茶碗にこれがあります。本当はできそこないの品であるが茶味があるとして珍重されます。
『大正名器鑑』には編笠の銘のある朝鮮刷毛目茶碗二個を収録しています。

編笠 茶碗

余り手古九谷 あまりでこくたに

古九谷の一種。骨描きを染付で現わし黄・緑・赤の三色で彩りました一見中国の万暦赤絵に近いもの、および骨描きを染付と赤で現わし黄・線・赤を割り込み、色や絵が祥瑞の手法に似通りましたものなどをいいます。
どちらも黄色および緑色が不純で冴えず、おそらく中国から持ってきた絵具の残りを使用したためといわれています。余り手古九谷の名称はここから出た。
(松本佐太郎)

雨宿芋子 あまやどりいものこ

中興名物。古瀬戸芋子茶入。銘の由来は明らかでないようです。
大佗びづくりで小振り、茶味の深い茶入であります。もと小堀遠州が所持し、木屋庄八、舟橋某、京都の三井家を経て、しばらく伝来不明ののち岩崎家の所有となりましました。
(『大正名器鑑』)

雨宿芋子 中興名物 古瀬戸芋子茶入

尼焼釉 あまやきぐすり

『楽焼秘嚢』にみられる方法は次の通り。
(一)玉百目(375グラム)、禄磐三十匁(113グラム)、唐土五十匁(188グラム)、礪砂八匁(30グラム)、日の岡石二十匁(75グラム)、これを粉末にして水と混ぜてふのりを合わせ、器物にむらなく四、五回塗って焼くこと。
(二)唐土三十匁(113グラム)、日の岡石四十匁(150グラム)、鉄ぺんがらを適量、以上を粉末にして薄赤色に混ぜ合わせること。塗り方は前の方法の通り。

尼焼 あまやき

楽焼の元祖阿米夜の妻比丘尼作の茶碗。淡飴釉が特色であります。
『和漢諸道異見知抄』(1894、元禄七年編)に「尼焼、長二郎母也、柿薬茶碗也、黒はなし」とあります。

尼焼 楽焼

雨漏塵手 あまもりかたで

→あまもり(雨漏)

雨漏 あまもり

朝鮮産茶碗の一種。茶碗の内外に雨の漏りましたような浸み模様があるところからこの名称があります。
雨漏には土が柔らかでやや粉引茶碗に似たものがあります。また堅手のつくりで釉質が磁器に類するものがあり、これを雨漏堅手と称します。
浸み模様の多くは鼠色であるが中には紫がかりました色があり、窯の中で最初からできたものもありますが、長年使っている間に自然と浸み模様を生じたものもあるらしい。
この手で現存する名物には水戸徳川家伝来の「無一物」、青地家伝来の「蓑虫」、紀州徳川家の「優曇華」、酒井家伝来の「雨漏」などがあります。
(『大正名器鑑』『茶道名物考』)

雨漏 朝鮮産茶碗

天野金重 あまのかねしげ

明治時代の相馬焼の陶工。モ一スは「純粋の大堀相馬と異る押銘あるものは天野金垂作るところにしてこの人現存す」といっています。
(『日本陶器目録』)

天辰皿山 易またつさらやま

薩摩国平佐村天辰(鹿児島県川内市天辰町)の皿山。
1776年(安永五)に純粋の肥前系統としてここで平佐焼が始まりましました。
※ひらさやきあまつやき(天津焼) 1902年(明治三五)の「新愛知」によれば、千葉県天津町(安房郡天津小湊町天津)に良好な陶土があり、愛知県赤津(瀬戸市)の加藤志都助がここで陶業をするつもりで職工を従えて赴いたとのこと。

天瀬焼 あませやき

岡山県岡山の陶器。同地天瀬町において県勧業課所轄五等属の五代友吉が主任となり1876年(明治九)に開業。翌年鹿児島県苗代川から陶工三名・画工一名・築窯工一名および京都から画工三名を招集して従業させました。
これは士族の授産のために開いたものであるといわれます。
(『大成陶誌』『備前窯陶誌』)

尼子天日 あまこてんもく

名物。瀬戸天目茶碗。存滅不詳。
(『北野大茶会記』『茶道名物考』)

尼呉器 あまごき

朝鮮産呉器茶碗の一種。かつて朝鮮の使節がわが国に釆た時、京都鷹ケ峰(北区)の尼寺薬師院に宿泊した女性たちが朝夕使りました飯茶碗。
大徳寺呉器に比べて小振りで丈が低く、丈に比べて口径が割合に広く、蒼黒味がかりました黄色の和が掛かっています。
(『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)

尼呉器 朝鮮産呉器茶碗

雨雲 あまぐも

重要文化財。名物。楽焼茶碗、黒、光悦作。
釉カセと黒和が複雑に入り交じりました景色から雨雲と呼ばれたものであるでしょう。
薄づくりで飯横形。ロ縁の一方が高く反り一方が低くやや斜めになっているところに無限の妙味があります。
黒釉の光沢が美しく、碁笥底で高台はなく、中央が凹んで梅の花のような五輪形をしています。
京都の三井八郎右衛門家に伝来。
(『大正名器鑑』)

雨雲 重要文化財 名物 楽焼茶碗

天草磁器 あまくさじき

熊本県の天草島は石英粗面岩の産地で、磁器原料として各方面で採用されています。
元禄年間(1688-1704)に高浜村(天草町高浜)の上田氏が同村の鷹ノ巣で発見してもっぱら砥石として売り出し、その六代目の伝兵衛になって平賀源内に教えられて陶磁器原料に適していることを知り、肥前から山路幸右衛門を招き1762年(宝暦一二)から皿山焼を始めました。続いて明和(1764書七二)の頃に長崎奉行柘植大和守の奨励によって五島に在住しているオランダ人と交易し、七代源作以後はもっばら内地向けの製造に力を入れたが、1838年(天保九)になって一旦中止しました。
1869年(明治二)に磁器焼成を再興し1895年(同二八)まで継続したが、以後は原石販売の専業に移りましました。
(塩田力蔵)

天草石 あまくさいし

わが国の陶磁器原料のうちの主要なもので釉および素地のどちらにも使用されます。
熊本県天草郡天草下島の西北端の富岡付近から都呂々・下津深江・小田床・高浜に及ぶ西岸一帯十数キロの間に産し、ほとんど無尽蔵に全国の各陶業地に移出しています。
砥石としては古くから各地に普及していたが、磁器の原料として供されたのは長崎県三川内地方が最初らしく、1712年(正徳二)に木原(佐世保市木原町)の横石藤七兵衛が使りましたのがはじめと伝えられ、宝暦年間(1751-64)には同島高浜でも天草石による磁器が焼成されました。
1771年(明和八)平賀源内はこれに着目して深江村に陶窯の創設を企て、その当時の代官に「陶器工夫書」と超した建白書を差し出しています。
京阪地方で用いられたのは文化年間(1804-18)前後のことらしく、木米が発見したと伝えられます。
天草石を粉砕して不用なものを取り除いたものは、やや粘力に乏しい感じがするが相当の可塑性があり適度のアルカリを含有するので、単味でありながらなおかつ磁器の焼成が可能であり、同時に珪酸分に富んでいるために釉に亀裂が生ずる心配がないようです。
(『日本近世窯業史』『北村弥一郎窯業全集』)

阿嬬港・天川 あまかわ

中国広東省の襖門港(現在ポルトガル領)。昔同港から船で運ばれた陶器を「あまかわ」と呼んだが、同港は陶産地ではなく、主として中国南部方面の雑品を舶来したところであるでしょう。いわゆる南蛮島物などと区別しにくい。

阿北斎 あほくさい

銘。
※かがらくやき

阿部碧海 あべおうみ

明治初期の九谷焼の功労者。もと加賀藩士、馬廻組を勤め千五百石の俸禄を受けた。
1869年(明治二)金沢の古寺町(片町二丁目)にある自邸に錦窯を数基築き、内海吉造(松齢堂陶山)を工長とし住田徳次(旭山)・小寺藤兵衛(椿山)その他民山窯以来の陶画工および徒弟八十余名を従事させ、内外に販路を拡充しました。
製品は主に海外輸出を目的としたものでありましたといいます。
しかし製品は次第に巧妙となりましたが、他商の狩策に付け込まれたり、製器が破損したり、そのうえ商業の不熟練によって利益が得られず、負債ばかりが多額になってついに維持する方策がなくなり、1879年(明治一二)工場を閉鎖、工人も離散し、碧海は家財を合わせて負債を償りましました。
しかし当時の着画工が業を維持して生活できたばかりか、後年金沢に着画窯が起こりましたのは碧海に負)ところが多いようです。碧海は事業に失敗したがなお陶磁への念を断つことができず、店舗を設けて陶磁器を並べ、考案を与えて新器をつくらせ、九谷焼の販路の拡張に専念し、1885年(同一八)農商務卿から功労表彰を受けた。しかし1897年(同三〇)頃ついに九谷焼と別れ、晩年は不遇で石川県商品陳列所の一雇員として1910年(同四三)没しました。六十九歳。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『九谷陶磁史』)

熔り・象り あぶり

陶磁器焼成の際、焚き始めてから摂氏800~900度になるまで窯内温度が均一になるようにゆっくり焚くことをいい、その目的は素地や原料に付着・結合している水分の発散や、原料中の炭素化合物の分解、石英の異状膨脹などによる器物の破損を防止するためで、一般に酸化煩で徐々に加熱してゆく。
(『陶磁器和英』)

油屋太兵衛 あぶらやたへえ

楽焼脇窯の妙手として諸書に書かれているが年代その他不詳。

油屋肩衝 あぶらやかたつき

大名物。漢作肩衝茶入。
古来大名物茶入中の首位として尊重されたもので、堺の町人油屋常言(浄言)およびその子常祐(浄祐) が所持していたのでこの名があります。
同種の肩衝茶入に比べて口径がやや小さく、俄廻りに輪筋が一本あります。
また腰のあたりに沈筋が一本あり、その位置が他の茶入に比べてやや下の方にあるのは口径の小さいことと共にこの茶入の特徴といえます。
総体に柿金気色でその上に黒飴釉の景色があり、置形は肩下からむらむらと一面に広がりました模様の腰紐が、下の万で一筋のなだれとなり盆付際で終わっています。この置形に向かって右手に小さい火間があります。
全体に粘質は見事で金気が多く青・茶その他数々の色彩があり、景色も全部に及んでいてどの面にも見所があります。裾以下は濃い鼠色の土をみせ、底は板起こしであります。
時代・作行・格好・釉質・景色など何一つとして整い備わっていないものはなく、かつ無紅で持ち疲れの跡がないようです。
1587年(天正一五)の北野大茶会の際、豊臣秀吉が常吉に命じて献上させ、代わりに銭三吉貢および北野茄子を授けた。のちに福島正則が拝領し、さらにその子正利になって徳川幕府に献上しました。
1626年(寛永三)に将軍秀忠はこれを土井利勝に与えたが、土井家では財政困難のため河村瑞軒に売り渡し、程なく冬木喜平次に移りましました。そして天明年間(1781-9)に次第に家運の傾いてきた冬木家から松平不味の手に入りましました。
値一万両といわれたこの茶入も、飢饉で冬木家の家運が衰えわずか一千立百両でありましたといわれます。
不味は天下の茶入を歴観してますますこの茶入の優秀さを知り特に愛蔵しました。
もと三つありました袋にさらに太子広東・本能寺板子・下妻継子の三つの名物裂の袋を加え、利休の文を添掛物とし若狭盆をも添えて、不味所持品中最高位の園悟の墨蹟と共に一つの笈植中に納めました。
この笈植は現在もこの肩衝を納めて残っています。参勤交代の時は士人がこれを担って不味の前を行き、本陣到着後もこれが床に据えられない前には不味もまた着座しなかりましました。
家中の士もまたこれを見ることができず、家老ですら一生にただ一度拝覧の栄を得るだけでありましたといわれます。
その秘蔵振りがこれでわかろう。かつて薩摩侯が将軍がこれを所望したらどうするかと不味に冗談でいうと、将軍の命はもとより否むことができないが隠岐一国ほどは貰いたいと答えたということであります。
(『古今名物類衆』『麟鳳亀龍』『諸家名器集』『吉名物記』『利休百会解』『雲州宝物伝来書』『松平不味伝』『大正名器鑑』)

油屋肩衝 大名物 漢作肩衝茶入

油屋肩衝 大名物 漢作肩衝茶入

油虫手 あぶらむしで

金華山茶入の一手で、釉の色が油虫の色に似ているところからこう呼びます。
土・釉ともに金華山手の筋でありますが、つくられた年代は新しくみえ、土も少し悉く釉もぬめり上物でほないようです。
(『茶券弁玉葉』)

油抜 あぶらぬき

陶画法の一種。主として西洋食器などの上絵付に使用。
方法はすでに釉薬を掛けて焼成した磁器にテレビン絵具でだみ、それが乾いて固くなりましたらさらにテレビン油で模様を描き、軟らかくなりましたところを柔らかい布で拭えば期待した模様を白く抜くことができる。

油壷 あぶらつぼ

整髪用・料理用などの油を入れる壷。大小さまざまあります。婦人用の椿油を入れる小形の壷には愛玩用とするに十分なものもあります。

油次 あぶらつぎ

茶の湯の勝手道具の一つ。火皿などに油を入れる器で土器・陶器・磁器の各種があります。
また金属製もあり、必ず把手と口を具えています。なお火皿を油次という地方もあります。

油濃 あぶらだみ

上絵付で広く彩色する時そこに濃淡ができるのを防ぐため、あらかじめテレビン油で啓いた洋薬を刷毛で塗り、綿で叩いて一定の濃度とする手法。加賀(石川県)ではテレビン油をテレメンといっています。
(松本佐太郎)

油皿 あぶらざら

行燈用の油皿。陶製のものは江戸時代の瀬戸焼などに多く、その粗画には捨て難い趣があって近年好事家に愛好されています。

油皿

アブチュンノル あぶちゅんのる

錬士板を意味する朝鮮語。陶房廃墟場の近くに杭を打ち込み、テ一ブルのように上に板を載せて土を練る。
『朝鮮陶磁名考』

阿比留茂山 あひるもさん

→もさん(茂山)

姉手 あねで

→ごけで(後家手)

穴窯 あながま

古窯の一形式。古く朝鮮風を伝えたものらしく、上代の無釉のすえもの期には大体穴窯が用いられ青黒い還元焼成でありましたが、後代の伊部や常滑あたりに残っているものは多少施和製に進み酸化焼成に懐いましました。普通の穴窯は斜面を掘り天井だけを構築したもので、大休は単室で天井の一方に差木孔が開けてあります。
昔は大窯と通称されのちに鉄砲窯などとも呼ばれたが、江戸時代の初期から唐津系の登窯が普及して穴窯式は次第に衰え、近頃は僻地に少し残っているだけであります。
なお常滑の穴窯は地中に掘抜いて窯をつくっています。山裾を掘って天井だけを築いたものは初期の穴窯で、のちには完全な地上大窯になっています。考古学からの説明は「須恵器」・「土器焼成法」を参照。
(『陶磁工芸の研究』『陶磁文明の本質』)

穴窯 古窯の一形式

後焼 あとやけ

燃料の供給を止めたあと、窯の内部が保っている温度のために焼け進むことをいいます。
大きい窯だけにみられる現象であって小さい窯では不可能。

後火 あとび

磁器焼成第三期の焚き方。熔り・責めに次ぐ最後の燐火で、仕上火・焚上げともいいます。この時期では燃料の火力を有効に発揮させ温度を次第に上昇させればよく、煩は中性煩またはわずかに還元焔であるのがよい。
(『北村弥一郎窯業全集』)

後釉 あとぐすり

素地は古いが釉はあとで施したものをいいます。やきものによってはいろいろな条件や約束があって、それが器物の価格に非常に影響を及ぼすことがありますが、そのためその条件にかなうよう完全にでき上がっている器物にあとから必要な釉を施す。したがって釉の景色の変化のあるおもしろみを喜ぶものに多く、茶器関係の寂び物に最も多いようです。

後給付 あとえつけ

本案で焼き上げたのちさらに錦窯で絵付を加えること。すなわち時間的には後給付であるが着画の点からみれば上絵付であります。また焼成の時に給付をしたのではなく、のちになって値を高くするためにした絵付をも後給付といいます。
あとがま(後窯) 上絵付(和上着画)のこと。

後絵 あとえ

→あとえつけ(後絵付)

後絵 あとえ

絵をあとから描き加えたもの、つまり本来はなかりました絵を後世に付けたものについていう言葉。例えば中国漠代の彩画灰陶の彩色がひどく剥落しているのを措き起こしたり、古染付の余白に上絵の彩色を加えたりしたものなどであります。
青花や釉真紅のように釉下に絵があるものはそこに絵を加えるわけにいかないが、上絵を付けることは簡単にできるからこの類が多いようです。
古染付に後絵をした天啓赤絵あるいは色絵祥瑞風のものの申にほ、わが国に渡ちて釆た直後すなわち江戸時代にこれをしたものと、近代になってしたものとの二種があるようであります。
いずれにせよ一種の偽作であることに変わりないようです。

重美半島古窯址群 あつみはんとうこようしぐん

愛知県濠美都(直美半島)の一円に分布している古窯址で、平安時代未から鎌倉時代にかけての古窯址であります。
そのうちの田原町百々古窯址と大アラコ古窯址、壱美町瓦場古窯址は県の史跡指定を受けています。
この古窯址群は田原町・赤羽根町・海美町にわたって大略三吉基の古窯址があり、いずれも丘陵に構えられた害窯であります。
確認されている古窯址には釜穴・清ケ谷二冗藤ケ谷・大池・西ケ谷・背任・大勝・茶畑・嵩山・中原・猪伏・森中・向田・新居・切立・根入・河内・皿焼場・知原・円満寺・富山ABC・神ノ釜・花水・青々・中大尻・市ノ坊・宮前・高尾・高巽・赤松・堀山田AB・富士手・仲・西高尾∵平松・志田AB・惣作こし・宝竜・新美・極楽・黒川・御薗・浅場・東沢・恩中・奥恩中・笹尾・鎌田・桜畑・石取下・大沢下・五軒丁・柳沢・比常輪・竜ケ原・宝珠・篭池・大アラコ・平岩・郷津・蛇・皿山・皿焼・瓦場の各古窯址があります。
そのうち大アラコ古窯址から「正五位下参河守頼長」銘の破片が発見されているが、顕長の階位と三河守在位の年代の計算から1145年(久安元)であることが判明し(的確な資料として重要視され、続いて「従五位下惟宗朝臣遠清」銘の経塚壷も発見されています。
土師部が惟宗の氏を賜わりましたことが氏姓制度にみえ、共に貴重なものに数えられています。
海美古窯の壷には蓮弁文が刻まれているものが多くあり、一つの特徴になっています。
優美古窯の遺品が多く見付けられている遺跡は、和歌山県東牟婁郡部智山・三重県伊勢市朝熊岳金剛証寺・同市小町塚・奈良の再興の東大寺大仏殿瓦・静岡県西部地区の宗教遺跡が主なるものでありますが、その他に瓦経・仏像(残版)・喪・壷・鉢・茶碗・小皿その他が発掘されています。
古常滑と同じように垂に押印のあるものも多いようです。

閼父 あっぽ

中国周代の人、虞氏の子孫であります。周朝の陶正でありましました。陶正はすなわち当時の官窯の長官であります。
(『左氏伝』『陶説』)

アップルグリ一ン Apple-Green あっぷるぐり一ん

中国磁器の一色彩に対する西洋人の呼び方で、中国人は頻果線または葬果青といいます。頻果はいわゆるりんごであります。またこれを緑郎窯ともいうが、郎実の銅紅紬が窯変によって線色に変化したものであるからと考えたためであります。しかし実際はこう.いう窯変によるものは極めてまれで、アップルグリ一ンは氷裂のある白磁器に透明な緑紬を施して二度焼きしたものがはとんどであります。

厚手 あつで

瀬戸茶入の一手。『万宝全書』に「根抜茶入をもきとなり又厚手の薄手と云事口伝あり」とあります。
『本朝陶器故証』には初代藤四郎渡唐以前の作としています。

空足・控足 あっそく

券底の高台をえぐり出すこと。

圧尺 あっせき

鎮紙・卦算ともけう。文鎮の一種。銅・陶磁・玉などがあります。生物の形のものが多いようです。
(『勾雅』)

圧手盃 あっしゅはい

口が外に広がりました盃すなわち端反りの盃で、手にした時盃の上部が手を圧するところから圧手盃といいます。押手盃といい、発というのもみな同じ意味であります。手に持つのに便利であります。
(『欽流斎説束』)

新しい陶芸の茶会 あたらしいとうげいのちゃかい

現代の茶会を再構成しようと1956年(昭和三二年 11月に裏千家と現代陶芸作家五氏が協力して催した新しい陶器による茶会。
茶道が生活工芸の総合的な造形的演出の上に成り立っているとするならば、広い意味での現代工芸運動そのものに対して、指導的な立場に立たなけれはならないはずであります。
ところが茶道界の現実は、家元を中心とした十職という工芸の職方によって伝統的な格式が尊ばれ、現代の工芸運動とはまりましたく無関係な状態にあるといってよい。
これは茶道人側の怠慢にもありますが、新しい工芸運動家側にも責任があるといわねばならないようです。
工芸作家の側から、茶道に対して自らの作品の意味を問い、茶道側からの積極的な反応を聞く必要があります。
このような反省が作家側から起こり、伝統工芸会の主要メンバ一で重要無形文化財の石黒宗麿・荒川重蔵・加藤唐九郎・加藤土師萌・金重陶陽が、裏千家十四世千宗室の協力を得て茶会形式による新しい陶芸の展示を行なりましました。
すなわち裏千家茶道会館並びに各茶室において、前述五氏の作品による道具組の茶会が開かれ、茶道具としての工芸のあり方に対する実験的な問題提起が行なわれた。
この道動は茶道界と工芸界とに大きな問題を投げかけ、1965年(同四〇)まで続けられた。

安達新兵衛 あだちしんべえ

万古焼の創始者沼浪弄山の手代で、江戸小梅窯(江戸万古)の管理をしていましました。そのため茶器箱に安達新兵衛の名前のあるものもあります。一書に安達周平とあり、自ら弄山風の器を焼き角形の中に万古の印を押したといいます。
(『日本陶工伝』『日本陶簑史』『陶磁』七ノ四)※えどぼんこ

足立岩次 あだちいわじ

1818年(文化一三)現在の岐阜県瑞浪市釜戸町荻の島に生まれた。
明治をさかのぼる二十数年前、陶磁器製造においては孤立の状態にありました釜戸地区ですぐれた染付茶器その他を焼達し、荻の島焼を確立しました。その精緻な製品は市之倉(多治見市)の加藤吾輔のそれに匹敵するといわれています。
1858年(安政五)松平岩村藩主の商用で北海道函館に渡り、道内初の瀬戸座を創業し、すぐれた製品をつくるまでになりましたが、収支がつぐなわないのでわずかの期間で廃業しました。帰国後再び荻の島窯で茶器その他を焼造し、輸出陶器にも力を尽くしました。明治の初めには苦心の末電借用碍子の製造をしています。
1889年(明治二二)没、七十二歳。彼が没すると間もなく荻の島窯も廃絶しました。

明日焼 あすやき

→ふなきやまやき(船木山焼)あたく(璽沢)釉の異名。
(『景徳鎮陶録』)

吾妻焼 あずまやき

東京本所(墨田区)吾妻橋の近くで明治初年につくられたものです。楽焼の上にペンキを塗りましたものでありますが、当時海外で歓迎され盛んに輸出されました。
1883年(明治一六)ワグネルの発明した吾妻焼はこれと混同するおそれがあるためのちに旭焼と改称しました。
(『陶磁』七ノ四)

東焼 あずまやき

名古屋の松村八次郎が1896年(明治二九)中区新栄町に松村硬質陶器株式会社(のちに千種区千種町に移転)を設立し、フランス製の純白硬質陶器を模造して東焼と称しました。
これが東洋における硬質陶器の元祖で、地質が重く低温や高温にもよく耐えて容易にこわれないため、陸海軍省をはじめ需要は非常に多かりましたといわれます。
(『名古屋市史』)

東貞吉 あずまさだきち

阿波国麻植郡川島(徳島県麻植郡川島町)の陶工。
1844年(天保一五)に陶業を始め同地桑村の土を使って雑器をつくり、1869年(明治二)以後は鉄製に似せた土瓶をつくり始めたが、佳妙の域には達しえなかりましたといわれます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

東高麗 あずまごうらい

中興名物。朝鮮茶碗、魚屋。別名江戸高麗または江戸魚屋。
江戸で名高い茶碗でありましたのでこの名称があります。
青色と渋茶色の片身替りになっており、底は広い。作行はやや利休魚屋に類し一手変物であります。
もと小堀遠州所持、のち島原藩主松平主殿頭に伝わり、1918年(大正七)同家亮立の時に三万一千円で住友家に入りましました。
(『名物記』『大正名器鑑』)

東高麗 中興名物 朝鮮茶碗 魚屋

アステカ土器 Aztec あすてかどき

普通アステカ土器といわれるのは、トルテカ(850-1250)の時代の都市遺跡ツ一ラなどから得られるものであります。ツ一ラはメキシコシティ一の北80キロぐらいの位置にあります。黄またはオレンジ色の土器で、磨いてないがよく焼かれ、低い三足器もあって、幾何学文様や中心画法的な文様で飾られています。
後期には動物・植物の文様もみられます。器形も曲線状の側面をもりました高杯凰のものがつくられたが、それらは十五世紀以降のものであります。
(Bushnell『Ancient American Pottery』)

アステカ土器 Aztec

あすか山 あすかやま

銘。1911年(明治四四)頃に板谷波山が飛鳥山(東京都北区)の花見用の盃をつくり田端駅上の霜月亭という蕎麦屋で売っていましました。
(『陶磁』七ノ四)

阿須窯 あすがま

対馬国厳原字阿須(長崎県下県郡厳原町)にありましたもので、宗家の御庭焼に属し安政年間(1854-60、一説には弘化または嘉永年間)の創始。
それ以来一進一退、1884年(明治一七)士族授産の事業として陶器伝習所を設けて製出したが、損失多く廃窯。
1896年(同二九)大谷唆によって再興され雅物をつくり、また朝鮮食器をも製出したといいます。
(『朝鮮燻師之覚』)

飛鳥川手 あすかがわで

瀬戸茶入の一手。三代藤四郎の真申古物。金華山窯の産と伝えられます。
一説には二代藤四郎作といい、また別に時代はずっと新しく、土も瀬戸でなく、作振りにも藤四郎の手癖がなく、実は京都の仏師沙弥左七の作であるともいわれます。
薄赤色でかわらけのようなしっとりと柔らかい土でありますが、本歌飛鳥川は白色。地釉は濃い柿色で一面に梨地があります。上釉は濃い黒色が肩を取り巻いています。これを肩黒手といい中でも賞翫されます。
また樽柿色の地釉に黒釉がむらむらと掛かりましたものもあり、銀梨地釉が大分あるものもあります。
(『名器録』『茶器弁玉集』『万宝全書』)

飛鳥川 あすかがわ

中興名物。金華山茶入、飛鳥川手本歌。
小堀遠州がかつて堺で見た時は茶入もまだ新しく見えたが、その後伏見で見たところ半ば過ぎゆく程にも古く見えたので、『古今集』の歌の「昨日といひけふと暮して飛鳥川流れて早き月日なりけり」によって飛鳥川と銘して愛蔵しました。のち遠州が風流数寄のため莫大な負債を生じ役柄にもさわる程になりましたのを酒井侯に救われた際、遠州は深くこれを徳としてこの茶入を侯に贈りましました。以来同家に伝来。
(『大正名器鑑』)

飛鳥川 大名物 漢作肩衝茶入

飛鳥井孝太郎 あすかいこうたろう

明治の窯業界の先覚者で洋式製陶の創始者。清の長男で、1867年(慶応三)加賀国大聖寺(石川県加賀市大聖寺町)に生まれた。
1890年(明治二三)東京工業学校(現東京工業大学)を卒業、1896年(同二九)森村組に入り翌年ドイツに留学、さらに1900年(同三三)大倉孫兵衛と共にヨ一ロッパ各国を視察、帰国後は日本陶器会社の技師長となってわが国最初の洋式工場に成功。
1910年(同四三)別に名古屋製陶所を建てて取締役技師長となりましました。
1927年(昭和二)7月没、六十一歳。温厚・親切・多才な人柄で、趣味を理解し文筆にすぐれ、当代窯業技術家中の逸材でありましました。
(塩田力蔵)

飛鳥井清 あすかいきよし

もと加賀国(石川県)大聖寺藩の家臣。
明治初年には藩の権大参事として早くから諸産業の発展に尽力。
1879年(明治一二)九谷陶器会社を創立し社長に就任、江沼郡の山代窯(加賀市)を継ぎ、大蔵清七・塚谷六三郎・竹内吟秋・浅井一着らを集めて青赤両種の古九谷を試作し大いに業界に貢献しました。
1884年(同一七)没、四十二歳。翌年の全国五品共進会の際に農商務卿より功労を追賞されました。
飛鳥井孝太郎はその長男。
(塩田力蔵)

飛鳥井責 あすかいき

磁器の着色材料。
1892年(明治二五)に理学博士菊池安が岐阜県恵都郡中津川村(中津川市)で発見したもので、フェロガソナイトに類し俗にフルゲソン石・茶金石などといいます。
1896年(同二九)に瀬戸陶器学校の寺内信一がこれを試用して初めて磁器用の黄色の顔料になることを発見し、翌年3月の同校の開校式で発表しました。
しかしそれ以前に強火彩料になろうと認定したのが飛鳥井孝太郎でありましたため、文学博士横井時冬らによって飛鳥井黄と呼ばれるようになりましました。
(塩田力蔵)

脚短杯 あしひきつき

丈の短い杯。一斗二八リットル)入り。
『延亭式』(巻二四)五畿内諸国調責晶中にみられます。

芦原窯 あしはらがま

佐賀県藤津郡芦原村(武雄市橘町芦原)の陶器。
1881年(明治一四)に深川亀造はか二名が相談して久間村(藤津郡塩田町)志田窯の工人右師匠にして陶業についましました。成瀬焼ともいいます。
(『府県陶器沿革陶工伝統鼓』)

樽茶入 あしのちゃいれ

唐物茶入の一手。形が酒器の樽に似ているところからこの名があります。
(『万宝全書』)

阿品焼 あじなやき

周防国(山口県)の陶器。モ一スは「1869年(明治二)岩国川に臨む阿品村にはじまり1882年(同一五)まで陶器を製出す、その品は雄健にして趣に富み唯一の例外を別とし殆んど無銘なり」といっています。
(『日本陶器目録』)

履焼・足駄焼 あしだやき

古信楽の底に凹または凸の下駄の歯のような印のあるものです。信楽の足駄焼、伊賀の下駄起こしははば同時代のものと思われます。
昔伊賀・信楽の廃墟台は極めて不完全で凹凸があり、とりわけその樽を飲め込んだ二本の横は凹凸がはなはだしく、その上で成形したものの底にも凹凸ができた。
その頃は成形後相当乾燥してから器物を台から移し、また箆あるいは糸切で器物を切るなどのことをしなかりましたため、凹凸の歯跡のあるまま焼け上がりましたものであります。
茶道が一般に行なわれるようになってから伊賀・信楽の諸窯ではこれを一つの窯印として使用した時代があり、近代になっては信楽に多くみられます。
(『伊賀及信楽』)

足田 あしだ

伊賀焼の陶工の足田某、名前不明。明応年間(1492-1501)に伊賀国(三重県)と近江国(滋賀県)の境にある三郷山で製陶しました。世にこれを足田の古伊賀といいます。
その後天正(1573-92)の頃に伊賀に争乱が起こりましたので近江信楽に転居し、吉信楽の製陶に従事したと伝えられるが不明確。信楽の履焼や丸柱の下駄起こしに因んでこの足田其の伝説が生まれたの.ではなかろうか。
(『日本陶工伝』)

芦沢与兵衛 あしぎわよへえ

因幡国(鳥取県)久能寺窯の創始者。
※いんきゅうざんやき

芦垣 あしがき

中興名物。破風窯茶入、渋紙手。
茶入の腰廻りの渋紙色の中に上り金気の一帯が連なっている景色を芦垣に見立てた銘であるでしょう。
絵体に上作で、口造りが見事な本糸切の柁びづくりの茶入であります。もと阿部豊後守が所持し、のち田沼侯、条野伝平、吉田丹左衛門と転伝しました。
(『古今名物類衆』『名物記』『麟鳳亀龍』『大正名器鑑』)

足利義政 あしかがよしまさ

足利八代将軍。1435年(永享七)生まれ。六代義教の次男。
兄義勝のあと九歳で家督を継ぎ十五歳で将軍職についたが、幕府の補佐に人を得ず将軍としての政治能力を欠き、飢饉疫病の天災がこれに加わり民力が枯れる中に、有力重職の内争からついに応仁の大乱を引き起こしました。
さらに下剋上の風潮からしきりに一揆が起こり、その在職十六年の間に徳政令を出すこと実に十三回に及んだといわれます。
このように無統制な乱雑にも義政は施すべき策を持たず、1473年(文明五)三十八歳で職を子義尚に譲り、東山山荘銀閣を営み東求堂同仁斎をつくってこれに隠棲し、もっぱら学問・芸術の道に没頭しました。
趣味に広く和歌・連歌・能楽・茶切湯・作庭・書画を好み、書画・座敷飾りには能・芸・相阿弥の三代、作庭には華甲弥、立花には池坊専慶・専噸、聞香には志野宗宿、茶の湯には能阿弥・村田珠光らを登用近侍させたと伝え、文運・芸術・芸能の面においては後世に東山時代の盛名を残すに至りましました。
1490年(延徳二)1月7日没、五十五歳。法号蒜照院。
なお世に東山御物というものは、二代義詮(宝医院・瑞山)二二代義満(鹿苑院・天山)・六代義教(普広院・道山)より義政に至るまでの収集であり、『君台観左右帳記』『御飾書』はその晶類・筆者・飾り様を整理詳説したものでありますが、特に「凡そ茶湯の名貸此時に衆りて文質彬々たり……即ち名物記に載する所の東山名物是也」とあります。
また同仁斎は茶室のもとであるともいわれるように、義政時代能阿弥・珠光らによって茶の湯における道具・茶室・茶法の形がつくられたのであります。

朝焼 あさやき

→ふなきやまやき(船木山焼)

浅見五郎助 あさみごろすけ

京都の陶家。二代目・三代目の清水六兵衛に陶法を学び1852年(嘉永五)五条東で開業。
土石は天革・信楽・京都のものを用い、もっぱら酒器や茶器をつくりましました。自ら祥瑞五郎助と号しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)※しょんずいごろすけ

浅間の香炉 あさまのこうろ

名物。青磁。寄の香炉。稲葉丹後守の所持。後年井上世外に入りましました。
(『名物記』『陶器集解』)

浅間窯 あさまがま

長野県東筑摩郡本郷村浅間にありました窯。1894、五年(明治二七、八)の記録によれば、日用の喪を産し品質が良好なので賞賛され、従来の名古屋産を圧倒する勢いでありましたといいます。
(『大日本窯業協会雑誌』三二)

朝吹柴庵 あさぷきしあん

明治時代の実業家。1849年(嘉永二)豊後国(大分県)に生まれた。名は英二。
村上姑南に漢学を修め、1869年(明治二)大阪に出て、翌年福沢諭吉の開国思想に反感を抱いて暗殺を企てたが、かえって説得されてこれに師事し、上京して慶応義塾を卒業、実業界に入りましました。のち三井財閥に重きをなされ三井合名参事となりましました。晩年茶を好み、道具の鑑識にも長じていたが、奇行も多かりましました。東京高輪(港区)の自邸に茶席柴庵を建て号としました。1918年(大正七)没、七十歳。

朝日山焼 あさひやまやき

京都府宇治市の朝日焼の別名。
※あさひやき

朝日焼 あさひやき

京都府宇治市朝日山の陶器。遠州七窯の一つ。
慶長年間(1596-1615)奥村次郎右衛門(あるいは藤作)が築窯したのが起こりといわれ、主に遠州好みの茶器を焼いたが、慶安(1648-52)頃から一時絶えましました。
この時代の作を古朝日というが、多くは茶碗で御本風が主であります。素地は褐色で、釉肌に黒斑があり、多く刷毛目の櫛描きがあります。
「朝日」印は遠州筆の伝から俗に遠州印といわれ、朝の斉が卓になっているいわゆる卓「朝日」印は小堀権十郎筆で、権十郎印といわれています。箱書に宇治焼とあるのもおそらく朝日焼であるでしょう。
1861年(文久元)に松林長兵衛が再興してから引き続き今日に及んでいます。今の朝日焼は紅斑のいわゆる御本が特色で、御本写し三島・刷毛目・彫三島が得意であります。
(『本朝陶器故証』)※うじやき※うじたわらやき

朝日焼 猪絵茶碗

旭焼 あさひやき

明治の初めに東京大学の御雇教師だりましたドイツ人ワグネルが創製した陶器。1883年(明治一六)講義の余暇に植田豊橋を助手として一ツ橋(千代田区)の東京大学応用化学実験室で研究を始め、翌秋小石川区西江戸川町(文京区)に窯を築き、自費で数々の試験をした結果】個の新製品をつくりあげた。
1887年(同二〇)にワグネルは東京職工学校(現東京工業大学)に転勤、その製作の規模がやや大きくなりましました。
この時に吾妻焼と命名したが、本所(墨田区)に同名のものがありましたので1890年(同二三)に旭焼と改名。製法は新しい意匠によるもので、膠水または鹿を引いた淡卵色の素地の上にテレビン油で溶いた絵具で精精彩色し、空焼窯に入れてテレビン油と膠水を消散させ、最後に薄釉を掛けて焼く。すなわち釉下着画を主眼としたもので、日本画を描くのに最も適しちょうど絹紙に措くのと同じとされます。そのため旭焼の絵画は荒木(のちに狩野)探令・春名錦山に命じて主に土佐派・狩野派などの吉名画を写させました。
(『日本近世窯業史』塩田力蔵)

朝比奈為之丞 あさひなためのじょう

陶工。明治の中頃三重県度会郡山田(伊勢市)に開窯、その製品を旭焼といいます。
※あさひやせあさひやき(旭焼)三重県の陶器。
明治の中頃三重県度会郡山田(伊勢市)に朝比奈為之丞が開窯し、その製品を旭焼といいます。
赤楽紬に似た花瓶・皿などを製出したが、風雅な趣がなく日用にもまた不都合だといわれます。
(『日本近世窯業史』)

朝日手焼 あさひでやき

美濃国(岐阜県)久尻の加藤景延は正親町上皇に自称手の茶碗を毎年献納し、1597年(慶長二)に筑後守に任命され筑後の朝日焼または朝日手焼の名を得た。おそらく陶祖朝日春慶に因んだものであるでしょう。
(『岐阜県産業史』)

朝日手春慶 あさひでしゅんけい

古瀬戸茶入の一手。瀬戸の初代藤四郎の晩年の作品をその法名に因んで春慶といいます。
美濃国(岐阜県)朝日という所に移ってこの手だけを焼き広めたが、類の少ない茶入で土釉・細工・格好ともよく、薄手で、万事に申し分のない茶入であるといわれます。口達りの捻り返しは華菅で、下釉は樽柿色に一面に梨地があります。ただし栗色の釉立ちもあります。上釉は黒紬に薄飴黄がかすかに交じりました飛釉であります。ただし飛粘の数の少ないものが賞翫されます。
(『茶器弁玉葉』『万宝全書』)

朝日噸慶 あさひじゅんけい

尾張瀬戸の陶工加藤藤三郎景慶。陶祖藤四郎の子藤五郎正基の先妻の子で、祖父の家を弟の基通に継がせ、自分は分家して母方の姓の朝日を名乗り名を噸慶と称したが、その後絶家しました。
(『をはりの花』『新編瀬戸窯系統背考』)

朝日軒 あさひけん

三重県の陶器。モ一スは「朝日軒タナ吉1879年(明治一二)山田村で陶器を作る。幾分高田焼に似たり。記号に万古の押印またほ朝日軒造の彫印あり。製品急須茶碗等」といっています。
(『日本陶器目録』)

朝日窯 あさひがま

尾張瀬戸の古窯。瀬戸市の南東部にあります。初代藤四郎の窯跡の一つで、ここで焼かれた茶入を朝日春慶といいます。
その後宝暦年代(1751-64)になって、同地の川本治兵衛はこの窯および夕日窯が長い間途絶えているのを嘆き、川本半助と因ってこれを再興しようとしたが村規に阻まれ、たびたび藩主に訴えたすえ1770年(明和七)4月ついにその両窯を瀬戸村地内字経塚山に再興することができ、長い間途絶えていた海鼠壷を製出しました。
なお朝日古窯のほうの年代は室町時代の末期と推定され、白天目・黄瀬戸小皿・椿事末期のもの・茶人・絵志野初期のものなどを出土しました。
(『尾張名所図会』『をはりの花』『尾濃古窯址案内』)

朝萩 あさはぎ

名物。国焼茶碗、.志野。白地に黒く秋萩が朝露を帯びて垣になびくような模様があるのでこの名があります。舵が少なくしかも佗び味に富んだ茶碗であります。
もと京都の樋口家に伝来し、その後松平不味の手に渡り、1923年(大正一二)頃に松平家から団家に移りましました。
(『大正名器鑑』)

志野茶碗 朝萩

浅野焼 あさのやき

讃岐国香川郡浅野村(香川県香川郡香川町浅野)の豪農向井舟皐が同村の舟岡山に窯を築き、築前国(福岡県)高取の工人を招いて自家用の種々の器をつくりましました。
浅野窯とも呼ばれ、器は無銘、なだれ和が特徴であります。
(『讃岐陶磁器史稿』)

浅野焼 あさのやき

加賀国(石川県)の楽焼。
初代大樋長左衛門の弟子浅野屋五平が金沢の浅野川のほとりでつくりましたものです。黒釉および飴釉のものがあるが作品は非常に少ないといわれます。
(『陶器類集』『日本陶器目録』『日本陶蛮史』『九谷陶磁史』)

浅野肩衝 あさのかたつき

中興名物。古瀬戸肩衝茶入。
もと浅野其の所有でありましたか、のち稲葉正則が得て小堀遠州に銘を求めました。
遠州はもとの所有者の姓に因み『新築集』恋二、入道前右大臣の歌「いかにせむしのぶとすれどねにたてて浅野の雉子かくれなき身を」によって命名したといいます。
地は柿金気に鶉斑があり、黒置形なだれがあり、肩廻りは薄い飴釉、盆付は板起こし、砂目土。落ち着いた寂び味に富んだ茶入であります。
淀侯稲葉家の重器として秘蔵されていたが、1901年、二年(明治三四、五)頃に縁戚松浦家に移りましました。
(『古今名物類衆』『名物茶器図』)

浅野肩衝 中興名物

浅野肩衝 名物 藤四郎肩衝茶入

浅野井戸 あさのいど

名物。朝鮮茶碗、名物手井戸。
仙石越前守が所有していたが、浅野侯の所蔵となってからこの名で呼ばれるようになりましました。
(『大正名器鑑』)

朝寝髪 あさねがみ

名物。古瀬戸肩衝茶入。
銘は置形が黒髪の乱れたような景観であるのになぞらえて、『万葉集』巻第十一、柿本人麻呂の「朝寝髪われは椀らじ愛しき君が手枕触れてしものを」に因んだものです。
伝来のすべてについては明確ではないが、笹屋宗甫、京都の三井家、牧野家と転伝しました。
(『大正名器鑑』)

朝田窯 あさだがま

福岡県浮羽郡浮羽町朝田の近く楯の古窯。

朝葦原 あさずまやき

筑後国(福岡県)の朝妻窯は、伝説によると1618年(元和二)に祥瑞五良大夫が中国明から帰来し磁器の創製をした旧地といわれるが、発掘した結果によるとその痕跡は認め難い。

浅茅肩衝 あさじかたつき

大名物。古瀬戸肩衝茶入。
銘は小堀遠州の命名にょるもので、『新後撰集』の中納言俊定の歌「色かはる野辺の浅茅におく露を末葉にかけて秋風ぞ吹く」の意をとり、その景色をもの寂しく吹く秋風になびて野路の浅茅の姿に思い寄せたものです。
古瀬戸茶入中で粘色の変態が最も目覚ましいもので、半面は沈着な古瀬戸釉であるのに他の半面は織部焼にみるような紬色で、陰陽表裏をみせています。色が変わる野辺の浅茅の光景のようでおもしろい。
もと豊臣秀次の臣猪子内匠が所持していたが、内匠はその主家が没落ののち加賀前田侯に身を寄せ、その際その庇護に感じてこれを前田利常に献じ、以来同家に伝来。
かつて小堀宗申がこの茶入を一見したいと金沢に来て三年間滞在し、八方奔走して苦心したが願いは叶えられず、わずかに絵図を得て面影を偲んだだけで帰国したと伝えられます。
(『古今名物類衆』『名物記』『大正名器鑑』)

浅茅肩衝 大名物 古瀬戸肩衝茶入

麻地 あさじ

名物。藤四郎肩衝茶入。一名鍋島肩衝。
総体に黒ずんだ柿色あるいは栗色を地色とし黒和が掛かっており、景色はやや不鮮明であるが重厚な感じのする茶入であります。鍋島侯に伝わっていたが維新後は松浦家に入りましました。
(『大正名器鑑』)

麻地 藤四郎肩衝茶入

朝倉山桝 あさくらさんしょう

丹波(兵庫県)名産の朝倉山椒を入れ、胴の上部に朝倉山桝と印した六角または肩衝の壷。
江戸時代初期から丹波焼の小野原窯で焼かれたもので、江戸時代中期に立杭に移窯する以前の作と推定されます。
釉は黒・飴など、土はぎんぐりして信楽に似た石はぜがあります。今日では花入などに転用されています。あさくらぷんりん(朝倉文琳)大名物本能寺文琳の異名。
※ほんのうじぶんりん

朝倉山椒

朝倉 あさくら

山城国(京都府)の産。モ一スは「朝倉一名道味、素人陶工にして第十七世紀初め織部風の茶器を作る。
その銘三角形にして作品頗る稀なり」と述べています。
(『日本陶器目録』)

浅草焼 あさくさやき

江戸の浅草本願寺前高原町(台東区)でつくられた高原焼を別名浅草焼と称します。
※えどたかはら

朝霧焼 あさぎりやき

播磨国(兵庫県)明石の陶器。明石焼の一種。
元和・寛永年間(1615-四四)に戸田織部之助が焼いたのが起こりとされ、二代太右衛門東野(1675、延宝三年没)、三代与兵衛連山(1662、寛文二年没)、四代多平蒼山(1729、享保一四年没)、五代織之助声外(1788、天明八年没)、六代朝三陶斎(1798、寛政一〇年没)、七代織之助野坂(1852、嘉永四年没)、八代芳太郎酒堂(1881、明治一四年没)、九代清太郎秋嶺(l942、昭和一七年没)の代々があります。「朝寮」印。
(『明石焼陶火』)※あかしやき

朝霧宗平 あさぎりそうへい

播磨国(兵庫県)の陶工伊笠宗平の銘。
※いがさそうへい

浅川伯教 あさかわのりたか

1884年(明治一七)生まれ。朝鮮陶磁研究家。
久しく朝鮮にいて古窯址の発掘調査に従い、朝鮮陶磁の研究において偉大な功境がありましました。著書に『釜山窯卜対州窯』があります。
戦後帰国したが、一時愛媛県砥部窯で作陶したことがあります。
1964年(昭和三九)没、八十歳。

浅川巧 あさかわたくみ

1890年(明治二三)11月24日生まれ。朝鮮陶磁研究家。
浅川伯教の弟で、久しく朝鮮におり、その著『朝鮮陶磁名故』は名著であります。
1931年(昭和六)4月2日没、四十一歳。

朝鶉 あさがらす

名物楽焼茶碗貧僧の異名。
※ひんそう

朝顔手・桂手 あさがおで

青磁の一手。『銘器秘録』には「ふちそり形、あさがほの花の如し、多く蝶足にて腰にギリのごとくなる筋あり。形立ちのびて、かんにふあるは稀なり」とあります。

アサエ

朝敵 あさがお ---------------------------------------- 和風の小便所に使用される漏斗形の陶製便器。上質のものは磁器製。
明治以来瀬戸産のものが多く、染付および青磁製のものが普通でありますが、申には半磁製といって染付素地に綽釉の掛かりましたものがあります。

朝比奈 あさいな

名物。瀬戸茶碗、黄瀬戸。
作行が手強いので武勇で名高い朝比奈三郎義秀になぞらえての銘であるでしょう。
見込の渦巻中ぐるりと片落ちした作行がおもしろく、はとんど志野茶碗をみるような趣があります。
京都三井八郎右衛門家伝釆。
(『大正名器鑑』)

朝比奈 名物 瀬戸茶碗 黄瀬戸

浅井竹五郎 あさいたけころう

1890年(明治二三)大阪市に生まれた。
府立北野中学校卒業後家業を継ぎ名古屋市東区東芳野町に浅井産業合名会社を設立、陶磁器輸出業を営んです。
中国の天津・奉天(清勝)そしてハノイ・サイゴンなどに支店を設け、広く中国・東南アジア・インド・オ一ストラリア・アフリカ・南北アメリカなど全世界に陶磁器を輸出し、第二次世界大戦当時取扱い高全国第一位を占めました。
1940年(昭和一五)愛知県東春日井郡霞ヶ丘(名古屋市守山区)に飛騨の民家を移築し玄々荘と名付け、趣味人として高松定一・日章田半泥子・小林一三らと交わり、瀬戸・美濃の若き陶芸家を後援し、加藤土師萌・加藤唐九郎・荒川豊蔵らが後年名を成しました。
また国庫コレクションの宋代青磁を所蔵し、修内司窯・郊壇窯などの研究に力を注ぎ、芳野町人の筆名で『茶碗屋茶話』『呂宋の垂』『砧青磁』などの随筆集を出版。

浅井周斎 あさいしゅうさい

名前は矩贅、鳳剛園と号しました。
もとは難波(大阪市)の豪商でありましたが、俗世間を嫌い山城国八幡(京都府綴享郡八幡町)の鳩ガ峯の南山に閑居しました。
陶器をつくることを好んで各地の土を取り寄せそこの名器を模作し、世間では八幡南山焼としてもてはやしました。
1800年(寛政一二)3月21日没、八十余歳。
(『工芸鏡』)

浅井産業合名会社 あさいさんざょうごうめいがいしゃ

→あさいたけどろう(浅井竹五郎)

浅井肩衝 あさいかたつき

名物。古瀬戸肩衝茶入。
加賀国(石川県)の浅井家の所蔵だりましたところからこの名があります。のちに同家から藩主に献上しそれ以来前田家に伝来。土は白、下釉が柿、上釉が黒。
おしなべて乾いたような出来で壊櫨目があり、胴紐が一筋入っています。
一般に初代藤四郎の作ではなかろうかといわれます。
(『大正名器鑑』)

浅井肩衝 名物 古瀬戸肩衝茶入

浅井一毒 あさいいちこう

加賀国(石川県)大聖寺藩の家臣、初名は幸八。
若い時から兄の源三郎(のちの竹内吟秋)と共に堀文錦・小島春鬼について絵画を学び、1849年(嘉永二)から山代(加賀市)の宮本屋窯で赤絵を習い、のちに飯田屋八郎右衛門が所有していた『万民墨譜』写本を譲り受け赤絵細措の名人となりましました。
1866年(慶応二)に二条公から相鮮亭一毒の号を受けた。
1868年(明治元)大聖寺藩の商法届書記として大阪に赴き、翌年藩に帰り永楽和全と共に山代窯の改良に尽力。
1877年(同一〇)には京都の池田清助と提携して海外輸出晶をつくり、1879年(同二一)に九谷陶器会社が設立された時そこの画工部長となりましました。
1918年(大正五)没、八十一歳。
(『九谷陶磁史』)

南瓜 あこだ

かぼちゃのような湾曲線が並列した形のものです。
花瓶・香炉・水指・茶入・鉢・向付などにこの形があります。

阿漕焼 あこぎやき

伊勢国(三重県)津の安東焼を復興したもので、再興安東焼とも呼ばれ倉田久八の開窯。
久八は宝山藤樹に陶法を学び、初め安東焼の窯跡のある愛宕山の下で窯を始めたが失敗。
そこで京都の松風亭に入門し、1853年(嘉永六)前業を継ぎ、文久年間(1861-四)に津の船頭町に移りましました。
銘印は古安東の破片にありました「安東」の文字を用い、また藩侯から賞賜された「再興安東焼」の印を使りましたとも伝えられます。
久八はこの事業で家産を傾け、また廃藩置県後藩の保護を失りましたため1875、六年(明治八、九) 頃製品の中国輸出を企てたが失敗。この頃から安東焼とはいわず阿漕焼というようになりましました。おそらく船頭町が阿漕ガ浦に近いことから出たものであるでしょう。しかし次第に経営が困難になり1887年(明治二〇)頃窯をもと工場の職工長でありました市川岩音に譲り、久八は山田(伊勢市)に赴きのち京都の清水で没しました。
その後市川岩音の窯は岩田川の北岸に移りましたが、由緒を惜しんだ同地の有志によって1900年(同三三) に株式会社組織となり、大量生産を企てたがたちまち失敗し解散となりましました。
市川の弟子の小島弥吉があとを受け継いで大師山に窯を築き土産品をつくりましました。
田中治郎左衛門はこの衰滅を嘆き京都から技師を招いて再興を企てたが思うようにならず、1925年(大正一四)廃絶しました。その製品は酒器・煎茶器・花瓶・皿などで古万古風を模したといわれるが、また別に久八の工夫で真録線の象眼を施した象眼焼と呼ばれるものも製出しました。
明治時代には拓器質の器に上絵を施した雅陶を製出しました。その後1931年(昭和六)伊賀丸柱の陶工福森円二によって復興され現在に至っています。
(『陶器類集』『日本陶器目録』『彩壷会講演録』)※くらたきゅうはち

赤穂焼 あこうやき

播磨国(兵庫県)赤穂の陶器。
鋳物師大島責谷(宗舟とも号す)が嘉永(1848-五四)初年に江戸今戸焼の風炉師作根弁次郎に陶法を習って始めたもので、雲華焼を得意としたが、そのほか楽コ一チ焼・交址写しなどにも佳作があります。
「黄谷」の各種印や「赤城」印を使っています。
1904年(明治三七)没、八十四歳。その没後は門人前賀蓼城があとを継いです。

曙茄子 あけぼのなすび

名物。漢作茄子茶入。銘はその景色に因んだものであるでしょう。つくられた年代は新しく、品位も乏しい感じがしないでもないようです。加賀前田侯伝来。
(『一玄属名り一覧』『大正名器鑑』)

曙茄子 名物 漢作茄子茶入

曙 あけぼの

虫明焼の銘印。
伊木三猿斉が1847年(弘化四)初代清風与平を招いて築窯させました間口窯で使用されました。
※むしあげやき

朱衣肩衝 あけのころもかたつき

大名物。漢作肩衝茶入。
伝相阿弥著『東山殿酷之記』に「あけの衣いやしくそぎう也、あけの衣は五位のしやう也、五位のくらゐほどのつばなり」とありますが、総休が飴色の中に赤味を帯びた黄釉のなだれが幕状をなして、僧侶の着る朱衣の裾に似た趣があり、銘もこの景色に因んだものであろうといわれます。
漢作肩衝としてほやや小形で黄釉の景色がおもしろく、朱の衣という銘と共に最も興味多い茶入と評されています。
もと武野紹鴎が所持し、のち徳川家康の蔵となり一時紀州侯に移りましたが、同家から再び幕府に献上されました。
1850年(嘉永三)に琉球入貢の功によって薩摩国(鹿児島県)の島津侯に与えられた。1928年(昭和三)の同家亮立では二万七千三百円で落札されました。
(『古今名物類衆』『麟鳳亀龍』『大正名器鑑』)

朱衣肩衝 大名物 漢作肩衝茶入

上底手 あげぞこで

瀬戸焼茶入の一手。底を桶のように上げたものであります。桶底ともいいます。
大振りなものはまれであります。口造りの捻り返しは華香であります。下釉は濃柿色、上釉は薄墨色で流れは濃い黒釉であります。
腰巻の釉は薄黒釉に少し黄飴釉が交じって、地釉より少し高くみえて腰を取り巻いています。また薄赤色の堅い土に濃釉一色の上底茶入がありますが、これは時代が新しく土和も惑い。
(『茶入之次第』『茶器弁玉集』)

吾笥 あけ

吾笥は天穂日命の十六世孫意曾婆連の後商。
雄略天皇の十七年春3月1日、土師連らに朝夕の御膳を盛る清器をつくらせた時、土師連の祖である書笥が摂津国釆狭々村、山背(山城)国内村並びに僻見村、伊勢国藤形村、および丹波・但馬・因幡の私民部を進め、名付けて賛土師部といりましました。
(『日本書紀』『新撰姓氏録』)

阿倉川村窯 あくらかわむらがま

→よっかいちやき(4日市焼)

恵戸焼 あくどやき

青森県中津軽郡相馬村湯口の陶器。
1806年(文化三)に湯口村の石岡林兵衛が羽後国十二所村(秋田県大館市十二所)から陶工源七を招き扇田に窯を築いて製陶を試みたが不成功に終わり、その後再び羽後国から陶工清兵衛、永之松を招いてようやく成功したといわれます。
二年樫で経営難に陥りましたが津軽藩主に認められその庇護を受けて製陶を続け、用命の茶器を焼成するかたわら民窯の雑器を焼いましました。
文化・文政年間(1804-30)は扇田に、のち野木屋に移り明治に入って青柳に窯を移したところから、扇田焼・青柳焼の名称があります。
1919年(大正八)頃廃窯。
製品は焼成の温度の低い不用意な焼き方でありますが、雑器の中には愛すべきものがあります。
鉄の黒釉がよく用いられ、銅を帯びた青色の無地またはそれにイッテン掛けのもの、窓絵が少しばかりある染付なども多いようです。津軽焼ともいいます。
(『工芸』二)

灰汁 あく

灰汁。木灰・竜突灰などを水に浸して取りました上澄みで、要するに可溶性アルカリ塩類であります。
陶磁器の釉料に木灰・土灰を用いるのは、それらの含有する炭酸石灰分を利用することにあります。
可溶性アルカリ塩類は釉に有害であるためこれを除去しなければならず、熱湯で洗源していわゆるあく抜きを行いました。
慶応年間(1865-八)の陶法事の五条坂と栗田の釉の調合のうちに「悪」とあるのは、すなわちあく抜きをした土灰で、これに恵の字を当てるのはおそらく五条坂と栗田との専用でありましたろう。

璽 あく

→あ(聖)

明世窯 あきよがま

岐阜県瑞浪市明世町月吉および土岐市泉町河合にありました窯。
月吉では1884年(明治一七)頃山内寿太郎という者が約三年間製陶を続けたが失敗、河合の窯は1887年(同二〇)頃林栄吉らが三、四年間従事したが同じく失敗に終わり、1907年(同四〇)から沢田作治が再建を図りましたがこれもまた不成功に終わりましました。
(『岐阜県産業史』)

秋葉天日 あきばてんもく

名物。天目茶碗、灰被。伊達正宗以来仙台侯伝来のものです。
1916年(大正五)同家の亮立の際七千八百八十円で落札。
(『大正名器鑑』)

秋の夜 あきのよ

中興名物。高取焼茶入。
『伊勢物語』の歌「秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千代し寝ぼや飽く時のあらむ」の意味をとり、尽きることのない妙味を讃えた銘であります。
相対する遠山形の双耳の一方から黒ずんだ和がなだれ掛かり、そのかたわらに飴色釉の一なだれがあり、胴体は全部梨皮色の和が掛かり非常に落ち着いた趣があります。
もと小笠原佐渡守が所有し、のち黒田家に伝わり、さらに大阪の藤田伝三郎を経て井上世外に伝わり、1925年(大正一四)の同家の売立の際に同じ手の染川と共に二万一千円でありましました。
(『古今名物類衆』『大正名器鑑』)

秋の夜

秋の山伊羅保 あきのやまいらぽ

名物。
朝鮮茶碗、釘彫伊羅保。
口造りは山道になってベベラがあり、厚く、外側は赤青が入り交じって鹿子模様をなし、棍櫨が三つ切廻され、内側は茶溜まりのほかは青味ができ、茶溜まりは深く赤味が出ています。
紅綬釉の色が錦を織りなす秋の山を連想させるのでこの名があります。
江戸時代中期に冬木喜平治の所蔵でありましたが、寛政(1789-一八〇この頃薩摩屋素朴の手に移り、さらに京都三井家、大阪平瀬家、名古屋田中家と転伝しました。
(『つれづれの友』『大正名器鑑』)

秋の山 伊羅保茶碗

秋野 あきの

名物。朝鮮茶碗、青井戸。
古びて底のあたりのかいらざが剥落したのが秋の野のものさびしい景色を偲はせるための銘なのであるでしょう。
大阪の加賀字之助が所有し、次いで松平不味が購求しました。
1871年(明治四)の廃藩に際し島根県の田部家のものとなりましました。
(『名物茶碗図会』『大正名器鑑』)

飽津 あきつ

尾張国赤津(愛知県瀬戸市赤津町)の旧称。

秋田焼 あきたやき

秋田県南秋田郡保戸野愛宕町(秋田市保戸野)のやきものです。
佐伯孫三郎が県下に陶産の少ないのを嘆いて各地の土石を試験し、ついに同郡寺内村(秋田市寺内)山中の赤土、新藤田村(同市新藤田)の粘土および河辺郡牛島村(同市牛島)の青色粘土を使って、同郡泉村(同市泉)に築窯して万古焼に似た瓦器を創製。
1872年(明治五)福島県二本松の陶工村田鉄之助を三重県桑名に派遣して万古焼の製法を習得させ、帰来後士族の子弟五十余名を就業させました。
1882年(同一五)に窯を自宅に移し、同年磁器を試み各地の原石を使い会津や多治見の工人を使用したが好果を得ず、子の貞治が業を継いで改善に努めたが他の事業にも失敗してついに途絶えましました。
大正初年に秋田市大工町の金子重信堂が別に秋田焼と称して茶器・酒器などを製造。またこれらとは別に秋田焼が秋田市にあり、1893年(明治二六)の創業といいます。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本近世窯業史』)

安芸善吉 あきぜんきち

1875年(明治八)京都の清水で開業し乾山様の陶器を製作していたといいます。
一本には安芸美吉と出ています。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『大成陶誌』)

秋草 あきくさ

名物茶碗市原の異名。
※いちはら

秋風 あきかぜ

名物。朝鮮茶碗、玉子手。
堅手で卵色の光沢が深いので玉子手といわれ、銘は玉に因んで玉鏡、玉兎など月に縁のあるものが多く、この秋風の銘もまた月に思いを寄せたゆかりの銘であるでしょう。
卵色と青白色の片身替りで、茶溜まりの鏡落ちが小輪の段になっているところなど熊川茶碗の作行に似ています。目なし、外にむらむらと赤しゆみが出ています。
天明(1781-九)の頃に松平不味の所蔵となり以来同家に伝来しました。
(『名物茶碗図会』『大正名器鑑』)

赤楽 あからく

愛知県瀬戸市の赤津と品野の間の山から産出される彩料。分析すると鉄だけが出てきます。
楽焼の赤とは火度も違いその和も別ではありますが、品野の土焼の中皿などで多くは梅の花などに点じています。
やはり鉄の呈色で、土焼の低い火度に使われるすこぶる便利な材料であります。
なお瀬戸の赤絵釉というのは南山産の鬼板の類で、織部その他の黒色料でありますが、火度が弱い時は赤色となります。
あからく(赤楽) 楽焼の中で最も一般的なものの一種で、まずその素地に酸化鉄の粘土を塗って赤く着色し、その後無色透明の釉を掛けたものです。
黒楽は不透明の黒釉を施したもので赤楽とは成立過程が異なります。

赤楽 得入作 赤楽茶碗

アカミソ

赤焼物 あかやけもの ---------------------------------------- 尾張常滑の鉄砲窯で焼いた赤色の吸水性に富む陶器の名称、略して赤物ともいいます。
器は甕・壷の類。赤焼の製作は起原が最も古く、常滑焼本来の製品で古くから製出し、以来多少改良されたがただ形態が巧妙になりましたくらいで変化は少ないようです。
(『常滑地方陶製晶製造工業調査』)

赤丸雪山 あかまるせつざん

高山青山と計画して工場を設け、能美郡の陶画工を募集して共に赤絵器を製出しました。
1872年(明治五)に分離して自家に工場を開き、雪山堂と称し陶画工四十余名を養成しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

赤松光信 あかまつみつのぶ

志度焼の陶工。讃岐国三木郡志度浦(香川県大川郡志度町)の人。字は田夫、号は松山、通称五番屋伊助。
1755年(宝暦五)平賀源内に釉法を学び交址焼を模して製陶。
1781年(天明元)富田金山の麓に窯を移して南京染付をもつくりましたが、これを弟子の藤蔵に譲って1788年(同八)再び志度に帰り窯をつくりましました。そこから世間ではこれを志度焼といいます。
1796年(寛政八)高松城下に移り、その後また香川郡宮脇村(高松市宮脇町)に移りましました。
1821年(文政四)7月10日没、八十四歳。銘は楕円内に楷書で松山としたものを用いたので松山焼の名もあります。赤松真・赤松清助はその子であります。
(『本朝陶器致証』『讃岐案内』『讃岐陶磁器史稿』)

赤松真 あかまつまこと

讃岐国(香川県)の志度焼の陶工。字は右橘、号は魯仙、別号湘江斎。赤松光信の長男。
父の技を受け継いで種々の陶器をつくり、のち香川郡宮脇村(高松市宮脇町)に移り、ときどき高松藩主の命を受けて諸侯への贈呈晶をつくりましました。陶浜はその子であります。
(『本朝陶器故証』『讃岐陶磁器史稿』「讃岐日日」)

赤松平右衛門 あかまつへいえもん

播磨国東山田村(兵庫県姫路市山田町)の陶工、幕末の人。
備前国(岡山県)虫明窯の陶工森彦一郎の師匠。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

赤松清助 あかまつせいすけ

讃岐国(香川県)の陶工。赤松光信の三男。若松屋と称し清山と号しました。
兄の真と共にやきものを業としていたが、その後高松に移って清山焼を始めました。兼高または清山の銘を用い、父の松山風の陶器をつくりましました。1868年(慶応四)4月5日没。
(『讃岐個磁器史稿』)

赤松猪太郎 あかまついたろう

→とうひんやき(陶浜焼)

赤彦 あかひこ

銘。モ一スはこれを肥前国三川内(長崎県佐世保市三川内町)の製品であるとして「三河赤彦と記したる陶器はその土及び釉は鶴崎に酷似したり、然れどもその外観晴々しく文一層特色を有せり、特に鵬崎と異る点は釉申に白色の斑点あることにして、署名あるもの稀なり製作もまた少なし」といっています。
(『日本陶器目録』)

赤羽焼 あかばねやき

長野県上伊都郡辰野町の産。明治時代中頃の創始、のち林工業株式会社が経営。
種類は糸繰釜・煮鍋など。
(『日本近世窯業史』「朝日村役場通報」)

赤膚山焼 あかはだやまやき

→あかはだやき(赤膚焼)

赤膚焼 あかはだやき

奈良市五条町の陶器。遠州七窯の一つ。
五条山では室町時代から士風炉(奈良風炉)などがつくられたが、伝説では天正年間(1573一九二)郡山の城主大和大納言秀長が尾張常滑の陶工与九郎を招いて閲窯させましたのが起こりであるともいわれています。
江戸中期までは不明でありますが、天明(1781-九)頃に京都の陶工治兵衛らが五条山に移って築窯、寛政年間(1789-1801)には柳沢亮山侯の後援を得るようになりましました。
勾玉形の「赤ハタ」印(凹印)は勇山侯から拝領したものだが、「赤膚山」印は以前から使われていたともいいます。
赤膚山は窯のある丘の名であります。尭山侯没後一時不振でありましたが、三代治兵衛の時代である天保(1830-四四)頃から郡山の数寄者奥田木白(1871、明治四年没、七十二歳)が治兵衛の窯で作陶を始め、仁清写しなど各種の写し物に巧みで、特に能人形は独壇場で赤膚焼の名を天下に挙げた。
作品には「赤膚山」印と「木白」印を捺しています。現在赤膚焼の特色になっている萩和も、木白からであります。今日でも赤膚焼は五条山の古瀬(治兵衛)窯はじめ諸窯があって、盛んに活動しています。
(『五条山治兵衛陶窯誌抄』)

赤膚焼 杓立

上野焼 あがのやき

福岡県田川郡赤池町上野の陶器。遠州七窯の一つ。
陶祖尊稗(上野毒蔵)は文禄・慶長の役(1592-8) に帰化した朝鮮陶工で、1602年(慶長七)細川忠興(三斎)が丹後国田辺(京都府舞鶴市)から豊前国小倉(福岡県北九州市小倉区)に転封された時招かれて小倉に移り、最初は城下の菜園場村に築窯しました。
1605年(同一〇)頃尊楷は上野に移り開窯したが、釜ノロ・皿山本窯・岩谷などの窯跡があり、皿山本窯は明治年間まで続いましました。尊楷は1832年(寛永九)細川家の肥後熊本城転封と共に、長男・次男を連れて八代に移りましたが、三男孫左衛門(十時)と娘婿久左衛門(渡)は母と共に残り次の藩主小笠原家に仕えましました。
初期の作品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っており、唐津や古高取によく似ています。後代には白和地に上野青釉(銅線釉)や三彩を掛けた作風を特色とし、この伝統が現在の窯でも行なわれています。
古作は無印で、巴印は幕末頃から使われた。紫蘇手・玉子手・柚肌手なども後代のものだが、趣味家には喜ばれています。
(『陶器全集』二一)

上野焼 色替 耳付水指

上野藤四郎 あがのとうしろう

肥後国(熊本県)高田焼の陶工。初代藤四郎は善蔵の次男。
1632年(寛永九)父兄と共に豊前国(福岡県)から移って来た。
藤四郎には二子があり、次男の太郎助は分家して一家をなし、忠兵衛の家と共にみな俸禄を世襲し士籍に入って三家とも盛んに業を営んです。
四代藤四郎の時に窯の構造を改良し黒白験土の方法を案出、この時には釉法もまた紫色に改まりましたようであります。
1885年(明治一八)には次郎吉の代で、その父は東四郎といって非常な巧手でありましました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

上野忠兵衛 あがのちゅうべえ

肥後国(熊本県)高田焼の陶工。喜蔵の長男。
1632年(寛永九)に父と共に細川三斎に従って豊前国(福岡県)より肥後国八代郡高田郷下豊原村(熊本県八代市豊原下町)に移りましました。
毒蔵を初代として二代目忠兵衛は宝毒せ称し、三代目忠兵衛は一風と号し、四代目を忠兵衛、五代目を忠蔵、六代目を忠兵衛といい、七代目の才兵衛はのち洲三と改め、隠退後は二代目の号を用いて宝選と称しました。八代目の庭三はその子で明治年間家業に従事しました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

上野太郎助 あがのたろすけ

肥後国(熊本県)の高田焼の陶工。藤四郎の次男。
1718年(正徳六)に分家して士族の籍に入り俸禄を世襲。初代の太郎助は一種の白陶を創製し、二代目太郎助は国主に従って江戸に出て楽焼を習得したといわれます。
明治の初めの上野弥一郎はその子孫。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

上野釉 あがのぐすり

瀬戸地方の陶器釉の一種。白色の釉肌に青黒色の斑点があります。
九州の上野焼の釉色が、白地に青のなだれ和が特色であるところからこの名が出たものであるでしょう。
春丹の創始以来すなわち天保(1830-四四)から明治の初め頃まで、主として瀬戸の北谷窯において水鉢・茶壷・便器などに使用されたが、今日ではこの調合はほとんど伝わっていないようです。

上野善蔵 あがのきぞう

豊前国(福岡県)の上野焼、肥後国(熊本県)の高田焼(八代焼)の創始者。
もと朝鮮釜山の城主尊益の子で尊階(一説に尊楷)と称しました。文禄の役(1592-3)後加藤清正に従って来朝帰化し、肥前国(佐賀県)唐津に住んで陶器を製しました。その後朝鮮に帰り高麗の陶法を研究して再び帰来。
1602年(慶長七)細川三斎忠興は尊階を豊前国に招いて上野郷(田川郡赤池町)に地を与え陶窯を築かせ、また郷名に因んで上野蓄蔵高国と名乗らせた。また善蔵は小堀遠州について茶事を習い、その意匠を受けてつくりました茶器が少なくなかりましたといいます。
1832年(寛永九)三斎の子息利が封を移された時、三斎に従って長子忠兵衛・次子藤四郎と共に肥後に入り、三子孫左衛門と娘婿久左衛門は豊前に留めました。初めは八代都奈良木村(八代市奈良木町)で作陶、これが高田焼の創始であります。のちにこの地を壷焼谷といりましました。三斎は八代城にいてときどきその陶場を見分したといいます。蓄蔵の没年は不詳。
(『本朝陶器故証』『八代陶器伝記』『観古図説』『工芸志料』)

赤野窯 あかのがま

高知県安芸郡赤野村(安芸市赤野)の窯。1882年(明治一五)に同村の田村久太郎が開業し、自村の赤土を使って日常品の陶器をつくりましました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

上野梶右衛門 あがのかじえもん

肥後国(熊本県)松尾焼の創始者。八代の高田焼の上野家の一門で、1778年(安永七)に託摩郡上松尾村字甲塚(熊本市松尾町上松尾)に移り飲食券などの製陶業を始めました。
(『日本近世窯業史』)※まつおやき

茜屋茄子 あかねやなすび

大名物。唐物茄子茶入。堺の茜屋吉松が所有していたところからこの名があります。
全体が無舵で普通の茄子茶入より非常に大振りであります。見たところ円満豊麗の感があると評されています。釉は栗色で光沢があり、胴に一線の筋があります。茜屋吉松ののち徳川家康が所蔵、次いで尾張家の祖義直が拝領し以来同家に伝来しました。
(『古今名物類衆』『尾州徳川家蔵晶台帳』『大正名器鑑』)

茜屋茄子 茶入

茜屋茄子

茜屋柿 あかねやかき

大名物。漢作茶入。堺の茜屋宗佐が所有していた柿形茶入であるところからこの名があります。
全体が柿色または紫色の上に果敢で景色がむらむらと現われ、無舵で格好もよく釉質の極めて見事な茶入であります。
初め武野紹鴎が所持し、のち堺の小島屋宗活を経て茜屋宗佐に伝わり、さらに千家に入り同家から大阪の藤田家に譲られた。
(『大正名器鑑』)

茜屋柿 大名物 漢作茶入

あか簡 あかつつ

名物水指にあか簡と称する形があり、古風な形といわれます。名称の由来は明らかではないが闘伽(梵語argha) の簡の意味か。

赤玉手 あかだまで

呉須赤絵のうち、白磁の素地に赤の綱目などの簡単な幾何学模様や、赤と緑との草体の花模様があり、その中に美しい日の丸様の赤丸を描いたものです。
半ば香合・皿・鉢など各種ありますが、中でも香合は江戸時代中期以後茶道で特に賞翫され、中には一器が数万円の高値を呼ぶものもありましました。香合は窯の色見として、異なりました器物と器物との境界を記憶するために置いた小雑器であるという説もあります。いずれにしろ中国の明末清初に福建省石礪で焼かれたものであります。

赤玉手 香合

赤津三郎右衛門 あかずさぶろうえもん

天文年間(1532-55)の人。『別所吉兵衛一子相伝書』に「信濃竃にて義元御好尾州赤津三郎右衛門追覆を焼く今思川と名付」と記されています。
義元は今川義元、信濃竃は赤津の隣地品野窯であるでしょう。

赤津瓦 あかずがわら

江戸時代に尾張国(愛知県)の赤津で焼いた本焼の赤瓦。

赤津窯 あかずがま

尾張国(愛知県)の陶窯。赤津は今は瀬戸市の一部となりその東部を占めています。青ば飽津と書き、1464年(寛正五)の文書にそう記されているのが初見とされるが、1595年(文禄四)の文書には赤津の字がみられます。
鎌倉時代には加藤四郎左衛門景正(陶祖藤四郎)がこの地に住んで宋風の窯器をつくりましたと伝えられ、また室町時代には松原氏がこの地で作陶したといわれます。天文年間(1532-55)赤津三郎右衛門が追覆手の茶入を焼いた記録があり、美濃国(岐阜県)久尻窯の開祖といわれる加藤景光も赤津から瀬戸に移り、のち1583年(天正一こ美濃に赴いたといわれます。
江戸時代初期に加藤仁兵衛・太兵衛・唐三郎の三家は尾張藩御用焼を命ぜられて御窯屋三軒といわれた。江戸時代中期以降で著名な者は、 ・月窓(山口孫三郎、寛政・文化) ・四郎(加藤大兵衛景呼、文化・天保) ・春竜(加藤唐三郎景久、文化・嘉永) ・春岱(加藤宗四郎、のち仁兵衛、天保・明治) ・春悦(加藤忠吉、同) ・春位(山口佐十、同) ・春仙(加藤作助、明治・大正) らがいます。
瀬戸市大字瀬戸が磁器を多く焼くのに反して、赤津は風雅な陶器を主として経済的には発達しない感があります。

赤津織部 あかずおりべ

赤津窯で産出する織部焼。主として春岱の作。

明石屋初太郎 あかしやはつたろう

明治初年の滋賀県湖東焼の陶工。もと播磨国(兵庫県)明石の人で明山と号していましました。
京都に住んでいたが1869年(明治二)円山湖東焼に迎えられて主工となりましました。妻も製陶に従い共に職工を督励したといわれます。
1871年(同四)廃窯と共に京都に帰り幹山伝七の工場に入りましました。京都での作品は明らかでないが、彦根時代の作は細工・絵画ともに優秀な技術を示す。1872年(同五)明山を姓としました。1875年(同八)9月7日没。
(『湖東焼之研究』)

明石焼 あかしやき

播磨国(兵庫県)明石の陶器。
元和年間(1615-24)戸田織部之助(号柳枝、1634、寛永一二年没)が同国赤浦で作陶、大和生駒山の湛海阿閣梨から明石の号を贈られたのが、すなわち古明石焼であるといいます。
また元和年間に明石城主小笠原忠政の御用窯が築かれ、1625年(寛永二)豊前国小倉(福岡県北九州市小倉区)へ転封になるまで戸田織部之助はこの窯で作陶、その後は明石中谷山に移窯したが、これを明石焼の由来ともいいます。
遺品では行書「明石」大印のものが古作のようで、備前火簿・三島などを写した茶陶があります。
明石焼の特色とされる古清水風の色絵は、前記よりやや遅れて生まれたようで、その明石印には数種類がみられます。
明治年間には交址風の陶器が焼かれ一時は海外にまで輸出されたが、大正年間にはこれも衰え、その後は雑器がつくられて近年まで続いましました。
(『明石焼陶火』)※あさぎりやき

明石焼 瓢瓶

明石湊 あかしみなと

明石焼の銘。
※あかしやき

赤志野 あかしの

素地の一部が淡赤色を呈した志野焼を赤志野と近年呼んでいます。

赤志野

明石浦 あかしうら

明石焼の銘。
※あかしやき

赤石市平 あかしいちへい

播磨国(兵庫県)の陶工市平の銘。
※いちへい

明石 あかし

明石燐の銘。
※あかしやき

赤坂焼 あかさかやき

筑後国八女郡羽犬塚村大字蔵敷字赤坂(福岡県筑後市羽犬塚)の産。同地の次郎吉という者が閲窯したと伝えられるが年代不詳。一時途絶えたがのち津の命令により三原富次がこれを再興、その後は当時の陶工緒方次助の子孫が経営。
(『茶わん』五六) あかさかやき(赤坂焼) →おんこやき(温故焼)

赤坂 あかさか

美濃国(岐阜県)赤坂焼(温故焼の別称)の銘。
「近年赤坂において日常器具として持ちのよい光沢のある釉を施した陶器を作成し産地の名を取って銘としたもの」とモースはいっています。
(『日本陶器目録』)※おんこやき

赤九谷 あかくたに

九谷焼のうち赤絵金彩のものを伝統的な青九谷に対していう名称。赤九谷は九谷固有の一特色ともいえるが、これを大成したのは天保年間(1830-44)に宮本屋窯にあって早くから小野窯風の赤絵にすぐれていた飯田屋八郎右衛門でありましました。しかしこれを伝統的にみたならば後藤才次郎の古九谷の当時にすでにその端を発しています。文化年間1804-18)の武田秀平の民山窯、文政年間(1818-30)の小野窯の作品は素地・給付の技巧ともにまだ不十分でありましたが、八郎右衛門に克って描法が著しく進歩し素地もまた白磁に近くなり、さらに後年には完全な白磁が完成して、赤彩は一層精製され金色もまた潤沢となりました。特に彼が天保(1830-44)の末期に、越前国(福井県)気比神宮に所蔵されている『方氏墨譜』から甚大な影響を受けた後は、画風が一段と高尚となり、世人はこれを八郎手といって賞賛しました。
(『九谷陶磁史』)※いいだやはちろうえもん

赤絵町 あかえまち

肥前有田皿山の上絵付業者の集合地区。有田では上絵付業者は本燐業者とは分業で、技法の漏れるのを防ぐ方法として寛文年間(1861-73)に赤絵町の一カ所に集合しました。宝暦年間(1751-64)まで十一戸でありましたが1770年(明和七)に五戸増して十六戸となり、明治維新までは増減がなかった。当時の赤絵町は袋地で通行路ではなかったようであります。1779年(安永八)皿山会所から赤絵町十六戸の業者に諮問ののち、秘密漏洩防止策として赤絵業者の相続および使用人の移動などの規定を厳重にし、原料調合法などは主人および相続人以外の取り扱いを禁じ、転居・結婚なども大いに警戒するようになりました。これまで有田で使用した他国人または他に転居した者によって、陶法が他国に伝わったことが少なくなかった。当時他の陶業地では青花磁器はともかく赤絵付はまだ有田を凌ぐ技術がなかったので、一層技法の秘密を厳守することになったものであります。
(『有田磁業史』)

赤絵南京 あかえなんきん

中国製赤絵磁器のことで、南京は中国のことを漠然と称したものらしい。しかし明代の赤絵のうち下手物には古赤絵の名があります。また別に呉須赤絵というものもあります。赤絵南京と呼ばれるものは普通清朝の康配州・薙正(1662ー1735)頃輸出用につくられた赤絵磁器の称で、照りの多い乳白の薄胎に繊細な赤絵を付けており、皿の類には口縁に鉄砂をひいたいわゆる口紅のものが多いようです。
※なんきんあかえ

赤絵南京 柘榴文皿

赤絵古九谷 あかえこくたに

古九谷の一種。赤だけで全面に文様を描きこれに少しの金や銀を加えたものです。この種の胎は精緻な磁器で、時代も三彩・二彩の古九谷よりも古く明様五彩古九谷の時期と大差がないようであります。
(松本佐太郎)

赤絵九谷 あかえくたに

一名新九谷。1877年(明治一〇)頃松本佐平らの工夫によって起こった赤絵の一種で、いわゆる八郎手の様式とは異なる手法のものです。明治に入ると九谷焼の陶画ははとんど西洋風顔料を使用し、従来の青九谷絵具は顧みずことごとくこの新しい給付法を用いましました。その名称は従前の青九谷に比べて西洋顔料のものは全体が赤味がかってみえるところから出た。その陶画工を特に赤絵師と呼びます。
また当時西洋顔料を俗に「洋薬」と称し従来の青九谷風彩勒を「和英」といきました。洋薬は和英に比べ使用法が簡単なうえ繊細で緻密な技巧が発揮できるため、現在は大衆的な美しいものに洋薬を用い鑑賞的芸術品には和英を多く用います。
(『九谷陶磁史』)

赤絵安南 あかえあんなん

享保(1716-36)頃までの陶事を書き集めた『陶器録』という写本に「赤絵安南絵赤く染付たる也」とみえます。
※あんなんやき

赤絵 あかえ

赤色を主調とする多彩の上絵付。紬の上に赤・禄あるいは黄・紫・青などのガラス質透明性の上絵具で文様などを少し盛り上げて彩色します。ただし赤色だけは通常他の絵具と異なり、ガラス状ではなくまた不透明で絵具層が薄い。一般に赤を主調として一、二の他の色を加え、どちらかといえば簡素で大胆な文様のものを赤絵といい、各絵具をさまざまに施し概して複雑華麗に彩画したものを錦と呼ぶが、これらを総称して赤絵という場合もあります。赤は酸化第二鉄(紅殻)、緑は主に酸化銅でこれに酸化クロムを配合します。黄ば酸化鉄と鉛丹と白玉とを混合して得、紫には酸化マンガンを、藍には硬化コバルトを用います。
【中国】赤絵はまず中国で発達しました。中国河北省噸徳府にある鋲鹿の地から出土した陶器類の中に泰和元年と墨書きした赤絵の皿がありますが、泰和元年は金の年号で南宋の寧宗の嘉泰元年すなわち西暦1201年に当たる。皿にはごく簡単ではあるが非常に達筆に牡丹その他の草花・鳥などが措かれており、牡丹の花を赤、葉を緑で描き、皿の縁には黄和が塗ってあり、宋の時代にすでに赤絵のありましたことがわかる。明の時代になると次第に発達し万暦赤絵・天啓赤絵などが現われた。いわゆる南京赤絵・呉須赤絵は明の終わりから清の初めにつくられたものであります。清朝の康累年代(1862-1722)には非常に上品な赤色が発明され康緊赤と一般にいわれているが、赤はもはや文様の主調ではなくなり、他の色彩を多く加え赤の色彩は少なくなりました。薙正・乾隆年代(1723-九五)にはむしろ他の色が主調となって五彩あるいは錦手と称するものとなりました。
【朝鮮】高麗朝には赤絵はなく、ようやく李朝の中期になって初めてこれがみられるが、現在残っているものは非常に少ないようです。あるいは中国明の工人が来てつくったもので、その工人が去ったのちは赤絵の製陶が途絶えたのではないかと考えられます。
【日本】わが国の赤絵は正保(1644-8)の頃の肥前国(佐賀県)南川原の柿右衛門の赤絵が最初とされ、ほとんど同じ頃古九谷に明様の赤絵がありましました。肥前の赤絵の製法は十年とたたない間に京都の仁清に伝わり、享和・文化(1801-18)の頃京都の奥田頴川が呉須赤絵を模作して知られていましました。呉須赤絵は京都を中心として永楽保全・和全・道八その他の陶工によって模倣され、尾張国(愛知県)に移って瀬戸の頴渓、また犬山でも盛んに製陶されました。その他赤絵を産出したものに古万古・薩摩・湖東・安東・九谷飯田屋などがあります。
(『陶磁工芸の研究』『染付と赤絵』)

赤絵 安南赤絵花鳥文皿

赤井窯 あかいがま

磐城国磐前部赤井村(福島県いわき市平赤井)の窯。慶応年間(1865-八)から大堀村(双葉郡浪江町大堀)の製陶を模して粗陶をつくりましました。
なお同村字小滝・嘉納から木節粘土が産出し会津焼はじめ同地方の重要な窯業原料となりました。
(『日本近世窯業史』)

青楽 あおらく

楽焼に使用する緑釉。あか(赤)窯業晶の赤の呈色は鉄・クロム・銅・セレニウム・テルリウム・ウラニウム・金などによる。鉄化合物は酸化煩焼成で赤色を呈するが、その色調は鉄の化合状態、鉄化合物の割合、酸化第二鉄微分子の細分状態、焼成状態、共存する他の鉱物の効果などの条件に支配されます。赤色酸化鉄は摂氏千度以下であれば上絵具・下絵具として使用できるが、千度以上では磁鉄鉱に変化するため絵具として使用することができないようです。クロム酸化物はアルカリ性含鉛の釉の中でよい赤を生ずる。アルカリ釉中の酸化銅は還元煩で上質の赤を生ずる。中国磁器の年血紅・火焔紅は共に銅赤であります。種々の金化合物はある条件のもとにおいては赤を生ずる。セレニウムと硫化カドミウムとを混ぜて加熱すれば赤色が得られます。

青山丸壷 あおやままるつぼ

名物。唐物の丸壷茶入。青山播磨守忠成が所有していたのでこの名があります。つくられた年代は古く、縁がlヵ所補修してあるほかは無舵で、全体が光沢のある飴色釉の上に青瑠璃色が美しく見事に現われています。徳川秀忠がこれを青山忠成に授け青山家の秘宝でありましたが、のちに水戸家に移りさらに再び徳川幕府の所有となり、八代将軍吉宗の第三子宗武が田安家を起こした時に同家に入った。
(『大正名器鑑』)

青山丸壷 名物 唐物 丸壷茶入

青山幸右衛門 あおやまこうえもん

肥前有田の陶商。明暦・寛文(1855-73)の頃常に京阪に往復して伊万里焼を売った。当時は肥前磁器赤絵付の初期でありましたが、赤絵技法の秘密を京都の茶碗屋久兵衛に漏らし、久兵衛はそれを仁清に伝え、仁清は間もなく彩画錦紋の技巧を表現するようになりましました。この事実がのちに発覚して幸右衛門は秘法を他国に漏らした罪により国法によって厳刑に処せられた。久兵衛はこれを聞いて発狂したといいます。これには少し異説もあります。『椀久物語』はこの伝説によったものです。
(『陶器考』『観古図説』『有田陶業史』)

青山 あおやま

名物。楽焼茶碗。黒、加賀ノンコウ七種の一。加賀藩の家老青山将監が所有していたのでこの名があります。黒釉の光沢が美しく外面に白い賀意のような模様があります。青山家ののち亀田伊右衛門、吉倉惣左を経て1896年(明治二九)横山家に入った。
(『大正名器鑑』)

粟生屋源兵衛 あおやげんべえ

加賀国(石川県)の陶工。製陶技術を京都で身に付け、1798年(寛政一〇)から小松(小松市)で楽焼を始め、茶器・雑炉縁・机・長坂・箪笥・組重などで、これらはちょうど木工品のような趣があります。
この種の作品のほとんどは銘がないが、まれに父の陶号である「東郊」の押印を用いたものもあります。また物理を応用した自動噴水器・水時計などの作品があります。1863年(文久三)没、七十三歳。門下から松屋菊三郎・北市屋平吉・板屋甚三郎・九谷庄三らが出て近代九谷第一の名工といわれた。その子栄五郎は青木の姓を名乗り、父の様式を学んで楽焼を巧みにしましました。なお源右衛門の生まれた年を1789年(寛政元)、没年を1858年(安政五)とする説も器において巧手の名声を得た。東郊と号し作品にその銘があります。二世源右衛門、三世栄五郎(青木と姓した)。
(松本佐太郎)

粟生屋源右衛門 あおやげんえもん

九谷焼の陶工。加賀国小松(石川県小松市)の陶工粟生屋源兵衛の子。陶法を若杉窯の本多貞吉に学び、1822年(文政五)に小松で製陶を始めましました。また江沼郡吉田屋窯および松山窯の主工でありましました。天保(1830-四四)の未、能美郡蓮代寺(小松市蓮代寺町)および苦竹村(同書竹町)に窯を開いきしましました。また別に一種の楽陶をつくりその巧妙な技術は独特でありましました。作品の種類は硯箱・あります。
(『大成陶誌』『九谷陶磁史』)

青柳 あおやぎ

中興名物。真申古茶入、藤四郎作。飽際からなだれた青和が細雨にけぶっている青柳の趣があるので名付けられたものらしい。地は黒金気紬で糸切は箆起こし、景色の豊かな茶入であります。もと細川越中守が所持し、土屋左門、朽木隠岐守、板倉伊勢守らを転伝し、しばらく消息を絶ったが、維新後岩崎家に納まった。
(『古今名物類衆』『名物日利聞書』『名物茶入記』『茶器名物図彙』『大正名器鑑』)あおやぎまるつぼ(青柳丸壷)名物。古瀬戸(瓶子窯)丸壷茶入。存滅不明。
(『茶道名物考』)

<p><a href="http://turuta.jp/story/images/st_ts_aoyagiw.jpg" rel="shadowbox"><img alt="青柳 中興名物 真申古茶入 四郎作" src="http://turuta.jp/story/images/st_ts_aoyagis.jpg" width="350" height="350" class="mt-image-none" style="" border="0" /></a></p>

青備前 あおびぜん

備前焼の一種で上品な青灰色をしたもの。青焼または青伊部ともいいます。明和(1764-72)から寛政年間(1789-1801)にかけて最も逸品を産出し、風流な趣のあるものが多いようです。伊部窯の旧式大害窯時代につくり出されたもので、原料は普通の伊部焼と変わらないが、その含有鉄分が窯の中で適度に局部的な環元作用を受けたために出る色であります。近代になってその大窯が廃止され普通の登窯式となってからは、青備前の珍種もできにくくなりました。
(塩田力蔵)

青備前 徳利

青傾れ釉 あおなだれぐすり

『楽焼秘嚢』に「その方法は唐土三十匁、白線青一匁、玉二十匁を粉末にし壁めに解いて地薬を塗った上に掛ける」と記載されています。

青手古九谷 あおでこくたに

古九谷の一種。黒描きの上に緑・黄・紫の三色で彩色した三彩古九谷、および緑・黄の二色で彩色した二彩古九谷を青手古九谷といいます。また色調が類似しているところから交址古九谷、手法が似ているところからベルシア手古九谷などとも呼ばれます。
(松本佐太郎)

青手古九谷 花文皿

青粒 あおチプ

大正時代約十カ年にわたって盛んに流行した九谷焼給付の名称で、洋絵具の緑色の上に暗緑色の盛絵具でこまかい点を密集した手法。
(松本佐太郎)

青田久米蔵 あおだくめぞう

肥後国球磨郡大村(熊本県人吉市)の陶工。十五、六歳の頃末平という者から陶技を伝授されたが、その者が死んだので中止。1863年(文久三)に再び製陶を始め、同村の土に初め河砂を混ぜのち白砂を加えるようになって次第に良器となりました。製器はすべて日用厨房の雑器であります。なおある本に青田を青木としているのは誤りであります。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『人吉町役場通報』)

青蕎麦 あおそば

中国磁器の釉色、茶葉末児に対するわが国の呼称。鉄質珪酸塩の結晶作用により渋味の緑色を帯びています。

青宝 あおじ

平安時代初期から貴族の間で珍重された青色有釉のやきもの。『源氏物語』『宇治拾遺物語』などに「あをし」の語がみられます。初めは中国から渡来したもので越州窯の産であるかとも推定されます。
わが国では弘仁年間(810-24)から尾張国(愛知県)で宝器を製作したことが『日本後紀』に記されています。これは『江家次第』によると御歯固式(歯を固めるといって正月三ガ日間に鏡餅・猪・鹿・鮎・大根・瓜などを食べた。歯は齢の意で長命を願う心)に用いられた青宝であることがわかる。今日では越州窯および尾張育毛の遺品と確定されたものはなく、どのようなものであったか明らかではないが、後世の砧・天竜寺手などのような磁器の青磁ではなく、幼稚な薄青釉をかぶせた堅緻な「すえもの」ではなかったかと想像されます。

青九谷 あおくたに

九谷焼の一種。文久年間(1861-4)加賀国小松(石川県小松市)の松屋菊三郎は、古九谷の特色が長い間廃れ絵付がすべて赤や金となっているのを嘆き、苦心研究の結果古九谷風の彩料を使って白磁五彩の着画を完成、ここに初めて青九谷の名称が起こった。明治以後の輸入顔料を使ったいわゆる赤絵九谷に対し、古来の彩料を用いたものをこう呼ぶこととなりました。なお古九谷中の青手古九谷や吉田屋窯の製品、さらに青チプおよび九谷の染付物をも青九谷と称することがあるが誤りであります。
(『九谷陶磁史』)※あおでこくたに※あおチブ あおこくたに(青苗九谷) →あおでこくたに(青手古九谷)

青九谷

青木寅吉 あおきとらせち

東京の陶画工。青雲亭虎勢と称しました。青雲亭彦丸について技術を習得し1861年(文久元)に開業、もっぱら九谷風の盃類の焼付画を措いていたが数年後に花瓶類に移り、さらに薩摩風の草花の密画を描くことに従事していたようであります。1879年(明治一二)当時四十二歳。
(『東京名工鑑』)

青木宗兵衛 あおきそうべえ

京都の陶工。金花山と号し代々宮中の調度をつくりました。三代金花山は1869年(明治二)6月鹿児島に赴き竪野および田ノ浦窯に従業、廃藩後も田ノ浦に留まっていたが、1875年(同八)奄美大島に渡り窯を大和浜に築いて製作、値が安いところから大いに歓迎されました。一年で鹿児島に戻り竜門司焼の改良を志しました。のち小山田村(姶良郡加治木町小山田)に転籍。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

青木宗平 あおきそうへい

大和国(奈良県)郡山藩の御殿医。号は木兎。茶道に造詣が深くまた楽焼が巧みで、赤膚山の窯で製陶したといわれます。その年代は、赤膚焼が一時中絶したのち事和(1801-4)の頃に柳沢勇山が再興した時代から安政(1854-六〇)にかけてと推定されます。1859年(安政六)没、八十二歳。
(『日本陶工伝』)

青木善右衛門 あおきぜんえもん

釜山窯の陶工。対馬の『朝鮮方日記』によれば、1669年(寛文九)および1678年(延宝六)の二度爆師を命じられ朝鮮の釜山窯に渡った。
(『釜山窯卜対州窯』)

青木周吉 あおきしゅうきち

京都の陶工木米の長男。1835年(天保六)周吉の名義で木米版『陶説』が公刊。小雲と号したともいい、また文山を師として栗田窯で贋物だけをつくっていたとも伝えられます。1843年(同一四)10月22日没、十八歳。
(『平安名陶伝』)

青木肩衝 あおきかたつき

大名物。漢作肩衝茶入。青木刑部法印浄憲が所持していたのでこの名があります。ロ造りの歪みの妙味、総体の育粘に少し赤味を帯びた飛模様の現われた景色のおもしろさなど、漠作としての特色があるので知られています。青木民部から明智光秀、徳川家康と伝わり、一度森美作守忠政が拝領したが再び徳川幕府に納まりました。
1657年(明暦三)の江戸の大火災に遭ったが幸いに大した損傷もなく漆で繕って使用され、のち後藤庄三郎が拝領したがさらに姫路酒井家に伝わりました。
(『大正名器鑑』)

青木肩衝 大名物

青木栄五郎 あおきえいごろう

加賀国(石川県)の陶工。東郊・栄宇などの号があります。粟生屋源右衛門の子で父の様式を学び楽焼にすぐれていましました。1862年(文久二)前田家に招かれ能美郡小松(小松市)から金沢に移った。1906年(明治三九)没、六十二歳。養嗣子二三郎は中村と姓し東洗と号し、京都に移り陶業に従尊しました。
(『九谷陶磁史』)

青江手 あおえで

金華山茶入の一手。初め小堀遠州の臣勝田氏が手に入れて遠州に献じたところ、遠州は大いに幸び銘を滝浪と付け、その後青江の脇差を賜ったので俗にこの事を青江手というようになりました。土は薄赤色または緋で、底は常の通りだが、また小刀目跡のみえる底もあります。口造りの捻り返しは丸く玉縁を見るようでよい。下釉は濃柿色、ところどころに銀梨地釉があり、上釉は濃い黒釉のなだれであります。釉組はいろいろあり、姿は裾で少し張り胴で締まるのを青江手の約束としています。
(『茶器弁玉集』『万宝全書』)

青江 あおえ

中興名物。金華山茶入、滝浪手。絵体無死で置形は黒釉が蒔くあっさりとして、ことさらに景色のないところにかえって気品があります。もと小堀家蔵で、のちに阿部豊後守、津軽土佐守を経て旧西条藩主松平家に移り、さらに名古屋の富田家に入った。
(『大正名器鑑』)

青井戸 あおいど

朝鮮産井戸茶碗の一種。全体に美しい青味を帯びているのでこの名があります。ただし時に火色の出たもの、青色と赤味との片身替りのものなどがあります。色合いが美しいのと数が少ないことによって茶人間で珍重されます。普通朝鮮産と思われており、インドの青磁であるとか、中国南部の青磁のうちの粗物であるとする説もあるが当たらないようです。
土は鉄分を多分に含み、釉はやや蒼黒く、概して買入がないようです。形は平茶碗が最も多く、口径の寸法は大略一五センチ位。高台は片薄で内に兜巾があります。青井戸の見所は開いた姿・かいらざ・轆轤目にあり、見込の目跡・火変りなどもそれぞれ喜ばれる景色であります。この手の名物では雲井・宝樹庵・こだま・涼及などが著名で、なお八文字屋・竹屋・升屋・柴田・蓬壷・松本・沢潟・四もと・義村・久田・藤屋・秋野・古今・隼・蓬莱・初霞・鳴声・金鳳などがあります。
(『和漢茶誌』『陶器考』『高寛茶碗と瀬戸の茶入』『茶道名物考』)

青井戸茶碗 銘 緑毛

青井宗十郎 あおいそうじゅうろう

肥前国八幡(長崎県佐世保市八幡町)の陶画工。1865年(慶応元)薩摩国(鹿児島県)の平佐焼に招かれ画法を教えましました。平佐亀甲斑は宗十郎の伝授したものか。
(『薩摩焼絵鑑』)

青 あお

窯業晶の青の呈色はコバルト・鉄・銅などによる。染付の青(釉下着画の青)はコバルト青であって呉須で描く。呉須はコバルト分を含む鉱物であります。染付はおそらくほかの色の総和よりも多く用いられています。鉄は還元焼成によって青色を出す。瀬戸茶入の青釉、御深井釉、伊賀の青なだれ釉はこれであります。酸化焔中で焼いたアルカリ釉では銅化合物は美しい紺青色・トルコ青を生ずる。
青の語は東洋では藍色から緑色までに通用し、上絵付で青色といわれているのはむしろ緑色というのが正しく、膏というべき色は紺青といい慣わしていましました。

亜鉛 あえん

酸化亜鉛は素地および釉の媒熔剤として用い、また釉の乳濁剤や結晶釉の製造に用いられます。珪酸亜鉛は艶消釉および結晶釉に供用します。

垂杯 あえつき

野菜を盛る杯。『延善式』(巻二四)五畿内諸国からの調貢晶中にあります。二合(0.36リットル)以上入るとあります。蓋のあるものとないものがあります。

敢氏 あえうじ

祭式用土器の製造を専業としてきた氏族。あるいは阿関ともいいます。孝元天皇の皇子大彦命の後南とされます。垂仁天皇二十五年に天照大神廟を大和国笠縫(奈良県桜井市)から現在の伊勢に移された時、御器長の職にあった敢氏が宇爾(三重県多気郡明和町)の埴土で天平宝をつくって奉進したといいます。
(『日本書紀』『神宮雑例集』『姓氏録』)

AventurinGlaze アヴェンチュリン・グレイズ

天然のアヴュンチュリン(砂金石)に似た軟らかい結晶釉。釉層中に黄金色の雲母鱗片のようなものが現われ、光線の反射によって非常に華麗であります。普通の結晶釉では晶紋は表面に析出しているため手触りでわかるが、アヴュンチュリン釉の金光点は釉層申にあるため釉の表面は滑らかであります。1896年(明治二九)頃の淡路焼には砂金釉の特許があった。
(塩田力蔵)

会見焼 あいみやき

伯膏国会見郡落合村・徳長村(鳥取県西伯郡西伯町落合・徳長)において製陶した陶器の称。
※おちあいがま※とくなががま

lvory陶器 アイボリーとうき

象牙色に似せるために普通ボールクレーで着色したバリアン磁器の一種をいいます。また象牙色をしたやきもののすべてを称してもいます。

あい日 あいひ

モース・コレクションの中にこの銘のものがあります。モースはこれを寡永年間(1848-54)に京都で製作したものと推定しています。

相原源吾 あいはらげんきち

肥前有田の彫刻家。精磁会社より中村亀一の工場に移り晩年香蘭社に入った。1920年(大正九)没、五十八歳。
(『肥前陶家伝』)

間杯 あいつき

すえものの一種。『延書式』(巻二四)五畿内調責晶中にあります。五合(0.9リットル)入り。

会津焼 あいずやき

福島県大沼郡本郷町(会津若松市の近く)を中心として産し、本郷焼ともいわれ、陶器から起こって磁器に進んだもの。
【陶器】美濃国(岐阜県)の水野源左衛門成治が岩代国長沼(福島県岩瀬郡長沼町)に釆てやきものをつくり、のち本郷村(本郷町)に移住したが、1847年(正保四)2月藩主松平(保科家)正之より三人扶持を給せられて焼物御用を命ぜられた。これが本郷村における陶器製造のはじめでありまた会津焼の端緒であります。製品は茶器を主としてわずかに実用品を交じえています。同年11月29日源左衛門没。翌年(慶安元)その実弟長兵衛成長が長沼にいたのを招いて兄の跡を相続させた。長兵衛は石灰焼成・耐寒赤瓦焼成などの功によって扶持を加増され、石灰役を本職とし瀬戸方を兼ね、代々瀬戸右衛門を称する恩命を蒙った。作品のうち最も有名なものは、青茶に薄墨少々を引いた色の釉を施した丸形の濃茶碗に巴紋を染付けたもので、巴茶碗の称を得て珍賞され藩主から他家への贈進物となりましました。1660年(万治三)3月3日没。三代目瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝七)江戸の高原平兵衛の工場すなわち将軍家御用の高原焼で技術を伝習しましました。1692年(元禄五)7月20日没。四代目瀬戸右衛門は1747年(延享四)4月18日没、七十八歳。五代目瀬戸右衛門成房は1770年(明和七)2月16日没。五代目までの作は世間に古本郷の名で知られています。六代目板戸右衛門成正は1826年(文政九)8月20日没、七十七歳。会津焼磁器の端緒はこの代に当たる。七代目瀬戸右衛門成栄は1870年(明治三)帰農して隠居し名を瀬戸一と改めましました。1877年(同一〇)旧7月12日没、七十六歳。八代日成時は、廃藩と共に瀬戸右衛門の通称を一旦中絶されて瀬戸次と改めたが、1878年(同一一)県庁に請い改めて瀬戸右衛門の旧称に復しましました。1893年(同二六)旧3月10日没、七十二歳。九代目はその子多門。以上を陶器の本系とします。【磁器】寛政年間(1789-1800)新たに磁器の一派が起こった。創業者佐藤伊兵衛は安永年間(1772~八一)より白磁の製造を思い立ち、1797年(寛政九)9月11日故郷を発し志戸呂・常滑・瀬戸・信楽・清水・栗田・志度・有田・萩・伊部などの諸窯を遍歴して技法を探ること満一年、翌年8月会津に帰った。そして1800年(同一二)4月肥前皿山風の窯を築き同10月初めで白磁を製出、すなわち白磁を志して二十三年後に成功をみた。門弟は数十人に達し川南村(北会津郡北会津村)にも磁法が伝わった。1842年(天保;一)10月14日没、八十一歳。二代目陶吾は号を陶一といい1871年(明治四)旧正月16日没、七十二歳。三代目陶一は号家一、1878年(同一二10月24日没、五十五歳。四代目はその子唯七。なお伊兵衛門下の手代木幸右衛門は責焚きの工夫を見出して磁器の焼成法を完成。1863年(文久三)には若松藩士斎藤伊織が本郷に来て会津焼の画風を一変しましました。
会津焼の製品は明治以後は急須・土瓶などの袋物が発達し肥前三川内風を伝えた精晶を出したが、その中頃から電気用碍子類に転じ一般に工業的生産に傾いましましました。会津磁器の原料は石英粗面岩質のものが多く、その窯式や窯話法は尾張(愛知県)および肥前(佐賀・長崎県)の諸法を折衷した特殊な会津式であります。また焼成はすべて素焼を施さないのがその特色。
(『福島県之窯業』『日本近世窯業史』)

会津焼 大甕

藍古九谷 あいこくたに

古九谷の一種。白磁染付の単彩で、素焼をせず、形状・絵付ともに精巧。中に浮文・沈文・繍花文などの彫技を加え、あるいは染渡に白線を現わし文様としたものもあります。
(『九谷陶磁史』)

藍九谷 染付花鳥文皿

愛岐陶業同盟会 あいざとうぎょうどうめいかい

愛知・岐阜両県下の陶磁器業者が、粗製濫造を防止するため1906年(明治三九)に組織したもので、1915年(大正四)頃には輸出品のためにまず素地土の統一が計画され、飛鳥井孝太郎らが中心にその運動の実現に努めましました。明治の晩年からは各地に杯土調製の専業者も現われたが、昭和に入って経営上の統制もさらに拡大強化されるようになりましました。

藍瓶 あいかめ

染物屋が用いる水に藍を溶かした液を貯蔵する瓶。常滑焼の赤瓶が最も多く用いられ、藍壷ともいいます。
(塩田力蔵)

藍甕

娃娃瞼 ああけん

中国清代康県(一六六ニ~1722)年製の磁器彩色に流行した紅色系統の一色の形容。姓姓は子供のことで、険は目の下・頬の上の意、また俗に顔面をいいます。すなわち子供の頬のあたりのように美しい薄赤色の形容。鮮紅の一派で銅の呈色であります。
(『飲流斎説束』『支部陶磁源流図考』)

アトレンス商社 アーレンスしょうしゃ

明治初期東京にあったドイツ系の商社。1875年(明治八)七宝の製造を企て、愛知県海東郡遠島村(海部郡七宝町遠島)の塚本見助およびその門人林八左衛門・桃井英升ら十余人を招き亀戸村(江東区)の仮工場に従業させた。当時ワグネルも同社の事業に協力し、その化学的研究によりホウロウ質を改良し大いに七宝の面目を向上させた。1877年(同一〇)工場を涛川惣助に譲渡。
(『東京名工鑑』塩田力蔵)

Earthenware アーセンウェア

陶器を意味する英語。ドイツ語のシュタイングート(Steingut)・フランス語のファイアンス(Fai-ence)と同義語。

堊 あ

微細な泥土、転じて泥土で塗飾する意味にも使用します。特に黒・青・黄などの字を用いないで単に堊の一字を用いると、白堊すなわち白土の意となります。別名白善土。堊の音を日本人はアとするが正音はアクであります。

赤呉須 あかこす

赤絵呉須の略称。
※ごすあかえ

赤織部 あかおりべ

赤味を帯びた織部焼。
※おりぺやき

赤絵三彩 あかえさんさい

赤・責・緑の古風な色絵物をこう呼ぶことがあります。

赤絵呉須 あかえごす

→ごすあかえ(呉須赤絵)

赤絵窯 あかえがま

→きんがま(錦窯)

赤浦 あかうら

明石焼の銘。
※あかしやき

赤井新六 あかいしんろく

→とうねん(陶然)

赤石窯 あかいしがま

土佐国土佐郡赤石(高知県高知市赤石町)の窯。伝統の詳細は不明。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』)

青柳焼 あおやぎやき

→あくどやき(悪声焼)

青焼 あおやき

→あおびぜん(青備前)

青呉須 あおごす

クロム緑を指し、また青絵付の呉須手も同じく青呉須と呼びます。

青木八十八 あおきやそはち

→もくべい(木米)

青木木米 あおきもくべい

→もくべい(木米)

青木佐太郎 あおきさたろう

→しょうぺい(小米)

青木窯 あおきがま

福岡県久留米市通外町上口屋の古窯。

青織部 あおおりべ

織部焼のうち銅線紬の特に著しいものを指していいます。織部焼の代表的なものとされます。
※おりぺやき

青織部 獅子の香炉

青伊部 あおいんべ

→あおびぜん(青備前)

愛山 あいざん

伊予国砥部(愛媛県伊予郡砥部町)の窯家向井和平の号。
※むかいわへい

相川焼 あいかわやき

→さどやき(佐渡焼)

藍絵鍋島 あいえなべしま

肥前国(佐賀県)大川内窯の染付をいいます。

織部唐津 おりべからつ

唐津焼の一つ。古田織部が好む織部焼を模した唐津焼。
桃山時代より唐津と織部の関係は深く、織部が最も深く交流したのは唐津である。
秀吉は、文禄、慶長の役に当って佐賀鎮西町の地に、朝鮮進攻の拠点とする名護屋城を築城する。古田織部は、秀吉の本隊に随行する後備衆となった。唐津は、この地であります。
さらに織部は、美濃の窯大将加藤景延をして、唐津焼の窯を研究させる。景延は、唐津の連房式登り窯を学び、美濃で初めて現在の元屋敷窯跡にみられる登り窯を築窯する。その大量生産方式で美濃は他を圧倒する生産地になり、黄瀬戸、志野で始まった桃山陶器は、美濃黒織部、美濃唐津織部、美濃伊賀など、茶入、香合、向付、鉢、水滴など織部焼は完成に近づくのでありました。
装飾の面でもお互いに影響し合い絵柄など同じものが多く見受けられます。

織部 おりべ

桃山時代に美濃国(岐阜県)で古田織部の指導によって焼かれた陶器。本来、現今いわれている織部焼と志野(白織部ともいう)・瀬戸黒などを包含したものであったことは、『茶碗茶入目利書』に「織部、四通有、志ノ、鳴海、瀬戸、絵之手、惣体厚く出来いふつ形多ク、絵有モ有、絵ハ土必見、志ノ土見ル、黒土見、薬ハ白薬薄柿色有」とあり、織部焼を四通りに分類していたことからでもわかる。異国風のもの、幾何学的文様、写生風のものなど種類が多い。茶碗・向付・皿・鉢などに特徴が見られ、慶長(1596-1615)ごろ元屋敷の唐津風登り窯により著しい発展をみた。織部はその様式から黒織部・青織部・絵織部・鳴海織部・唐津織部などに分類されます。

織部好み(オリベゴノミ)

古田織部の好み物。茶席では、藪内家の燕庵、奈良国立博物館内の八窓庵など、陶芸では織部焼の名を残し、沓茶碗ほか形状・文様・色釉に技巧を凝らした複雑な効果を求め、また餓鬼腹茶入・織部形伊賀水指などがある。漆芸では芽目張柳蒔絵の炉縁や棗、染織では織部紗があり、松屋肩衝茶入に添えられた織部緞子がある。表具にも織部好みといわれるものがのこっている。なお織部の称を冠した料理も多いようです。

織部 おりべ

御庭焼 おにわやき

江戸時代、将軍家や大名たちが邸内に茶器などを焼かせるために設けた窯のこと。

鬼板 おにいた

褐鉄鉱の一種、第二酸化鉄が主成分で土の鉄分が流れて固まったものなどをいう。水で溶かしたものが、志野や織部・唐津などの鉄絵として用いられるます。

鬼板 おにいた

奥高麗 おくごうらい

桃山時代の古唐津茶碗で、熊川風の古高麗茶碗を写したもの。奥は往古の意味にも、朝鮮の奥の意味にもとれるが明確ではない。
奥高麗は普通の古唐津より細かい土で作られ、砂気が少なく、形も無造作で、北部朝鮮系の茶碗の気宇がのこる。器肌は枇杷色から黄色、青みの出来のものまで種々ある。千家名物「中尾唐津」および「是閑唐津」は、口が外に開き、高台も低い。「深山路」は最も標準的な形で、「安井」(大和文華館蔵)は呉器風の椀形である。中には米量(よねばかり)と呼ばれ米櫃から米を掬う器として使用されたものもある。高台や口造りが欠損して朽ちた姿になったものを根抜と称することがあります。

茶道辞典 淡交社より

奥高麗
茶道筌蹄に「高麗人来たりて唐津にて焼し故高麗の方より奥といふ事なり」とあり、然れども奥は古きといふ意味なり。此種の陶器肥前唐津にて焼しか、或は朝鮮の或る地方にて造りしか、今之を確知するに由なしと雖も、兎に角一手古きを以て奥高麗とは呼ぶなるべし。
『大正名器鑑』

奥高麗茶碗は井戸、熊川、呉器、柿の端などの高麗茶碗を手本とし、最初から抹茶碗として作られた無地茶碗をいっている。点茶が盛んに行われた桃山時代、人々は高麗の茶碗を珍愛したが舶来ものが少なく、そのために高麗茶碗に似たものを焼山、甕屋の谷、藤の川内、市ノ瀬高麗神、川古窯の谷、葦の元、大草野などの諸窯で作られました。
釉薬は長石釉で白、枇杷色、薄い柿色、淡い青磁色に発色し、高台は低い竹の節、高い直立型、八字高台などがあり、見込みには重ね焼した後の目後が残っています。

名称は曖昧だが奥高麗茶碗は高麗茶碗を手本として元々抹茶碗として作られ生れたもので、井戸、熊川、呉器、柿の蔕など高麗茶碗を写しているようで、絵唐津、片口茶碗も含まれ、米量、根抜もその一種。

尾形光琳 おがたこうりん

1658年、京都の呉服商雁金屋 尾形宗謙の次男として生まれる。
尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。30歳の時、父の死去に伴い家督を継ぐが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであったようです。
画業に身を入れ始めたのもこうした経済的困窮が一因であった。大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれています。
弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き友禅の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、幅広くその才能を発揮しています。

尾形光琳 おがたこうりん  尾形光琳 おがたこうりん

尾形乾山 おがたけんざん

乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳です。二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。
  野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
  享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。
  乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。

尾形乾山 おがたけんざん  尾形乾山 おがたけんざん

大名物 おおめいぶつ

茶の湯の名物道具のなかで、千利休以前のものをいいます。
江戸時代後期、大名茶人の松平不昧によって、「大名物」(千利休以前のもの)と「中興名物」(小堀遠州の時代に選定されたもの)に分類されました。
現在では、松平不昧の分類に「名物」(千利休時代のもの)を加え、いわゆる「大名物」「名物」「中興名物」に分類する見方もあるようです。

大名物 おおめいぶつ

大樋焼 おおひやき

石川県金沢市の楽焼の脇窯。加賀藩主・前田綱紀が、茶道奉行として裏千家始祖の仙叟宗室を寛文六年(1666)に金沢へ招いたことに始まった。そのとき同道した、樂四代・一入の高弟であった長左衛門が初代となった。
大樋焼は楽焼の脇窯として金沢化されたものです。ロクロを一切使わず全くの手作りによるもので日本独自の創作的な焼き物であり、「茶の湯」のためだけに生まれたことから大衆性、社会性は初めからありませんでした。従って、大樋焼は量産されず個人の作家としての表徴として、一つ一つ作られてきたものです。

大樋焼 おおひやき

大川内山 おおかわちやま

日本で最初に磁器を完成させた鍋島藩は、より高い品質と技法の維持に努め 「藩窯」 を組織し、1675年には有田から大川内山に藩窯を移して、その技法が他に漏れないようにしました。
この藩窯では大名や将軍家、朝廷に献上するための高級位な焼物を、明治4年まで焼き続けました。この焼物が鍋島を呼ばれています。

大川内山 おおかわちやま

大井戸 おおいど

井戸茶碗の一種。井戸の特徴を備えたなかでも、「喜左衛門井戸」や「筒井筒」など大ぶりなものを指します。

大井戸 おおいど

塩釉 えんゆう

塩を釉としたもの。焼成中の窯のなかに岩塩を投げ入れ、器体に自然釉が掛かったような効果をつくり出す。

遠州七窯 えんしゅうなながま

江戸時代初期の茶人・小堀遠州が好み茶入や茶碗などの茶器をつらせた七カ所の窯。志戸呂焼(静岡県)、膳所焼(滋賀県)、上野焼(福岡県)、高取焼(福岡県)、朝日焼(京都府)、古曾部焼(大阪府)、赤膚焼(奈良県)のこと。

遠州 えんしゅう

茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう) 小堀正一(まさかず)

近江小室藩主(1万2千石)で江戸初期の大名茶人。近江の国に生まれる。幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となる。慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれる。
生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、延べ人数は2000人に及ぶ。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。
遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園であります。
美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残している。また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注ぎました。
豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえます。

遠州 えんしゅう

絵唐津 えからつ

唐津焼のうち鉄絵のあるものをいう。胎土は鉄分の多い砂土で、灰釉が施され、鉄砂による草花文様や橋の上人物など瀟洒な絵のものが多く、茶碗・皿・鉢・火入など種類も多い。
絵唐津菊桐茶碗(燕庵名物)は秀吉が文禄の役の名護屋在陣中に焼かせたと伝えられ、帰洛後敷内剣仲に授けた。また「あやめ」の茶碗はその作風から寛永(1624-44)ごろのものと思われる。

絵唐津 えからつ  絵唐津 えからつ


唐津では黒錆ともいい、瀬戸地方では鬼板と呼ばれる鉄を多く含んだ岩石を砕き、擂り潰して水で溶かしたものを絵の具として使い、草や木などを燃やし灰を作り、それを主成分とした釉薬の下や上などに、草や木・鳥・花・山水・川縁の小動物等のような具象紋や点や〇などの抽象紋を一筆書きのように描き、焼いたもの。
肌の色具合も青・白・赤・黒くなったりそれでも中間色ではあるがその時の窯具合により色々である。一般に唐津焼に絵を描いたものを絵唐津と称します。珍しい例として藁灰釉をかけた斑唐津に絵を書いたものもある。
初期の頃の唐津には草花の単純に素朴な絵柄(今の我々には何の絵柄か理解できないのが多い)が多かったようですが、織部好みの影響が入ってきた頃よりデザイン的で画材も豊富になり、筆使いも繊細になって陰と陽の使い方が出てきて、より図案的なってきたように見受けられます。志野、織部とよく似ているものが多いようです。

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釉薬 ゆうやく うわぐすり

土石類・植物の灰類・酸化金属・天然または自然の鉱物を細かく粉砕し、水と合わせた物で、高温になるとガラス化し光沢が出る。
陶磁器の表面に融着した、薄いガラス状の皮膜のこと。もしくは、上釉とも書いて、一度施釉したのちに、さらに変化をつけるために重ねて掛けるものをいいます。

馬の目皿 うまのめざら

馬の目の文様が描かれた大皿や大鉢。
瀬戸で18世紀中頃から明治時代初期までつくられた庶民の日用雑器。渦巻状の文様のある大皿で創始は明らかでない。瀬戸地方で日用品として盛んに焼かれたが、明治のはじめにほとんど絶えた。大正以来、民芸愛好家の目にとまり広く紹介された。

馬の目皿 うまのめざら

卯の斑 うのふ

兎の斑とも書く。主に瀬戸地方で使用される白色不透明の頽釉(なだれぐすり)。土灰釉にイネ科植物の灰を混ぜたもので斑唐津や朝鮮唐津に見られる釉薬と同系統。

卯の斑 うのふ

現川焼 うつつがわやき

長崎市現川名で焼かれた陶器。
元禄5年(1692年)に田中五兵衛が子の甚内と創業したが、寛保(1741-1744年)頃に廃窯。その作品は、非常に上作薄手で一見京焼風である。刷毛目 を効果的に利用し、絵付には白土、鉄、たんばん、呉須などをつかっている。
現在、佐世保市の横石臥牛窯で復興されています。

現川焼 うつつがわやき  現川焼 うつつがわやき

蹲 うずくまる

伊賀や信楽で壺の背の低い背丈からむっくりした形の小壺のこと。その形がさながら人がうずくまっているような形なのでこの名称がつけられました。
本来、農家の雑器で種壷または油壷であったが、茶人が花入などに用いて珍賞されていました。

蹲 うずくまる

印花 いんか

装飾技法の一つ。成形のあと乾燥前の素地に印刻などで模様を施す。

印花 いんか

石はぜ いしはぜ

土の中に入っていた石が焼成の時に表面に出てきてはぜたようになる様。
茶の湯の世界では珍重されてきた。

井戸脇 いどわき

井戸茶碗に近いもの(即ち井戸脇)。
井戸の中でも青井戸の脇とされ、井戸茶碗とはかなり趣が異なり、素地は白っぽいもの、黒っぽいもの等。井戸の薄手で轆轤目も目立たない梅花皮も少なく浅い平茶碗が多いようです。
釉も素地も違い井戸風であるが、井戸のどの手にも該当しない様なものを一括して入れる、堅手風なものも井戸脇とされています。
朝鮮産井戸茶碗のうちの一種。井戸脇とは井戸のわきであるというほどの字義どおりの名称であり、ランク付けをあらわす名称で、青井戸よりも粗品であるとされているようです。

井戸脇 いどわき

井戸茶碗 いどちゃわん

侘び茶の世界で最も愛玩されてきた高麗茶碗。制作時期は16世紀といわれる。胴は枇杷色を帯び、梅花皮(かいらぎ)に覆われた竹節高台(たけのふしこうだい)が特徴。
井戸は古来高麗茶碗の王といわれ格別貴ばれていますが、俗に一井戸二楽三唐津というように、茶碗を通じての最上とされ、その名は講談やこの噺の落語にまで取り上げられて、茶碗といえば井戸の名を連想するほどに有名になっています。

井戸茶碗  いどちゃわん  井戸茶碗  いどちゃわん

板起こし いたおこし

技法の称。叩技法とほぼ同じだが、最後の工程で叩きをせずに水引きによる整形が特徴で、内側の青海波状紋の有無で判断しないと解らないくらい似ている。唐津以外の窯での甕・壺等の制作はこの技法でなされてるようです。

 

イスラーム陶器 いすらーま

イスラーム世界で製作された陶器は、技術や意匠の面で相互に影響を与えつつ、地域の特色も表しています。
フスタートのイスラーム陶器は、時代を追って、ピンク陶土に鉛釉、白い複合陶土にアルカリ釉、赤茶色の粗悪陶土に鉛釉という、大きく三つのグループに区分ができる。装飾技法は、多彩釉、釉下彩画、ラスター彩、刻線、削り落とし、貼付など、様々な技法が使用されます。一方で、実用面のみを重視した単色の黄釉陶器や淡緑釉陶器なども出現しています。
ファーティマ朝(909-1171)期になると、東西交易の活発化によって、中国から良質の陶磁が輸入されるようになり、これに触発されて白磁や青磁などの中国製品を模倣した陶器も中近東地域で製作されるようになったようです。
マムルーク朝(1250-1517)期には、マムルーク陶器と総称される多彩釉刻線陶器が流行し、他の遺物と同様、市民生活の拡充に伴い、大量生産された製品が行き渡るようになったようです。
イスラーム陶器 いすらーま

泉山陶石 いずみやまとうせき

有田焼の歴史は1616年の李参平(または三平。日本名は金ヶ江三兵衛)による泉山陶石の発見に始まるといわれています。李参平は1597~1598年の慶長の役で、鍋島軍が朝鮮からの引き上げの際に日本に連れ帰った陶工です。初期の頃は多久安順の保護の下、現在の多久に住み、陶器を焼いていましたが、それでは満足できず、やがて磁器の原料を探す旅に出かけました。そして有田の泉山で理想的な陶石を発見して磁器の製造を始めたというのが、磁器の始まりに関する最も有力な説になっています。

有田 泉山陶石採掘場  有田 泉山陶石採掘場

柞灰 いすばい

静岡県以西に生える柞(いすのき)を燃やしてつくった灰。ユス灰とも呼ばれた。磁器釉の媒溶剤に適し、古くから有田焼などに使用。大隅、日向地方が主産地。

石叩き いしたたき

唐津の叩き技法では、木を使った物と石を使ってたたいた物とがあり、後者は制作の時に土が硬くなりすぎたときに行ったのではないだろうか。

又、現代作家、北大路魯山人が得意とする陶板の作り方で、土を板状にして岩か石の上に乗せ叩き石で叩きしめた作品がのこっている。

石叩き いしたたき  石叩き いしたたき

伊賀 いが

三重県伊賀地方丸柱付近でつくられる陶器。
古くから雑器類が生産されていたことが知られており、丸柱窯は天平宝字年間(757~764)に興るとする説もある。
茶陶としての伊賀焼は、宝暦13年(1763)藤堂家家老の藤堂元甫の『三国地誌』に「瓷器、丸柱村製、按ずるに伊賀焼云是なり。古へ本邑と槙山村より出ず。茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶の類なり。茶道を嗜む者愛玩す。又槙山釜と称する者あり。又山手道と云ものあり。筒井定次の時焼、又あした焼と云ものあり。是等を皆古伊賀と称す。大抵江州信楽焼に類す。云々」とあり、天正12年(1584)古田織部の弟子であった筒井定次(つつい さだつぐ)が伊賀領主となったとき、槙山窯と丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、これを「筒井伊賀」と呼ぶ。慶長13 年(1608)筒井定次が改易となり、藤堂高虎が伊賀国主となる。二代藤堂高次のとき「大通院(高次)様御代、寛永十二年乙亥の春、伊州丸柱村の水指、御物好にて焼せられ、京三条の陶工孫兵衛伝蔵、両人雇ひ呼寄、所の者火加減を習ひ候由、其節凡百三十三出来して東府へ送る」とあり、寛永12年(1635)京都から陶工を招き茶陶を焼かせ、これを「藤堂伊賀」と呼ぶ。今日「古伊賀」は筒井伊賀と藤堂伊賀を称する。なお、寛永年間(1624~1644)藤堂高虎の娘婿の小堀遠州が指導して製作したものを「遠州伊賀」といい「筒井伊賀」とは対称的に瀟洒な茶器である。
古伊賀は、俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれるように、耳が付き、箆目が立ち、また一旦整った形を崩した破調の美が特徴とされる。無釉で耐火度が高い長石の混じった土を高温で焼成するため、土の成分が融け出た所に松の灰がかかり自然釉(ビロード釉)や、強く艶(つや)のある「火色」、灰が積もり燻(くすぶ)って褐色になった「焦げ」が出現する。
しかし「寛文九己酉年七月十二日伊 賀国丸柱白土山・・・丸柱古窯の土を以て水指等御焼せ遊ばされ、御蔵に右の土をも御貯蔵され候て、右の山、留山に仰付けられ候」と、寛文9年(1669)「御留山の制」が設けられ、このため陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退した。その後七代高豊の宝暦年間(1751~1764)に丸柱窯が再興され、これを「再興伊賀」と呼ぶ。「再興伊賀」以降は茶陶は殆(ほとん)ど焼かれなくなり、古伊賀と異なり殆(ほとん)どが施釉で日用食器が中心となっているようです。

伊賀 いが  伊賀 いが

有田 ありた

 有田(ありた)焼は焼き物の中で磁器の分野に入ります。いわゆる焼き物のうちで最も高貴で,陶芸では到達しうる最高級品であるといわれている磁器であります。そのままで磁器となる陶石、泉山石の発見により、日本磁器発祥の地である有田では、伝統的な手法で無数の名品をつくってきました。現在では、伝統の美術工芸品や食器は勿論(もちろん)のこと、磁器の特性を生かした新しい分野の建築用タイル、化学工業用磁器、高圧碍子(がいし)などをつくられています。最近では、工学的に分類された、いわゆる天然原料を全く使わないニューセラミックスも開発されています。

有田 泉山陶石採掘場

菖蒲手 あやめで

室町時代末から桃山時代にかけて美濃で焼かれた黄瀬戸の優品をいいます。箆描き(へらがき)で花文(かもん)、特にあやめ文を描き、緑釉(りょくゆう)丹礬(たんぱん)や鉄絵の具が施されています。多くは半筒型でもとは向付など食器として作られたものを転用した茶碗(ちゃわん)が主ですが、鉦鉢(どらばち)にも見られます。釉調が油揚げのような肌合いをしているところから、油揚げ手(あぶらげで)ともいい、肌のなめらかな黄瀬戸はぐい呑手といいます。

菖蒲手 あやめで

飴釉 あめゆう

鉄釉の一種で、黒・茶褐色の釉。鉄分が多く含まれた土石と灰を混合したもの。
やや透明性があり、朝鮮唐津の黒の方や黒唐津の釉薬に使います。

飴釉 あめゆう

雨漏 あまもり

朝鮮の茶碗で、永年の使用により、各所に浸みができ、それがさながら天井や璧に雨漏の浸みのように見えるので、このように茶人が 呼びならわしたものでしょう。

雨漏 あまもり  雨漏 あまもり

天草陶石 あまくさとうせき

 焼き物と聞いてまず思い浮かぶのは有田(ありた)焼、瀬戸焼、清水焼などでしょう。歴史的にも1616年、李参平が有田で窯を開いたのが我が国の磁器の始まりとされています。では、2番目はどこでしょう。それは瀬戸でも清水でもなく、天草なのです。このことは焼き物の"通説"に反することであったらしく相当な物議をかもしました。しかし、最近の調査で江戸初期の1650年頃、陶磁器の製造が行われていたことが史料からも裏付けられました。天草に産出する世界的な陶磁器原料の天草陶石。その陶石を砕きその粉を練り合わせ焼いた物が磁器です。砕きやすく形成可能な上、単独で焼き物になります。高い強度で製品は硬く、仕上がりの色は濁りがなくて美しいのが特徴です。
  こうした高品位の陶石の発見は、17世紀中頃(ごろ)から18世紀初頭のことと言われています。1762年には、高浜焼が焼かれ、その製品は海外輸出されました。71年には時の平賀源内に輸出振興に役立つ「天下無双品」と言わしめました。年間の出荷量は3万トン(2003年度)で、全国の陶石生産量の8割を占めています。

陶石(とうせき)

磁器原料になる石。熱水作用によって石英粗面岩のなかの長石などが粘土化。同時に鉄化合物が洗い流されたもの。石英と絹雲母によって構成されています。

天草陶石 あまくさとうせき

あてぎ

「ときや」とも言う、叩きのとき内側に当て外側には叩き板で叩くという使い方をします。
「青海波状紋」の模様になる年輪はこの凹凸で刻まれます。

あてぎ  あてぎ

安宅コレクション あたかこれくしょん

昭和50年(1975年)、旧安宅産業株式会社が経営危機・信用不安に陥り、同社が収集したいわゆる「安宅コレクション」の行方に大きな関心が集まりました。
国宝・重要文化財を含む965件の東洋陶磁を中心とするコレクションは、世界第一級のもので、散逸したり、海外に流失したりすることのないよう、文化庁からもこれに対応していた住友銀行に異例の要望が出されました。
住友グループ(当時21社)では、昭和55年(1980年)文化貢献事業として、大阪市にこのコレクションの一括寄贈を申し入れました。
これを受けて、大阪市では中之島公園に美術館を建設。昭和52年(1977年)に、世界でも数少ない東洋陶磁の専門美術館が誕生しました。
行方が心配された文化遺産は、こうして公共の文化財として理想的なかたちに生まれ変わったのです。

安宅コレクション あたかこれくしょん

足利義政 あしかがよしまさ

足利八代将軍。一四三五年(永享七)生まれ。六代義教の次男。
兄義勝のあと九歳で家督を継ぎ十五歳で将軍職についたが、幕府の補佐に人を得ず将軍としての政治能力を欠き、飢饉(ききん)疫病の天災がこれに加わり民力が枯れる中に、有力重職の内争からついに応仁(おうにん)の大乱を引き起こしました。
更に下剋上(げこくじょう)の風潮からしきりに一揆(いっき)が起こり、その在職十六年の間に徳政令を出すこと実に十三回に及んだといわれています。
このように無統制な乱雑にも義政は施すべき策を持たず、一四七三年(文明五) 三十八歳で職を子義尚に譲り、東山山荘銀閣を営み東求堂(とうぐどう)同仁斎をつくってこれに隠棲(いんせい)し、専ら学問・芸術の道に没いたしました。
趣味に広く和歌・連歌・能楽・茶の湯・作庭・書画を好み、書画・座敷飾りには能・芸・相阿弥の三代、作庭には善阿弥、立花には池坊専慶・専傾、聞香には志野宗信、茶の湯には能阿弥・村田珠光らを登用近侍させたと伝え、文運・芸術・芸能の面においては後世に東山時代の盛名を残すに至たりました。
一四九〇年(延徳二)一月七日没、五十五歳。法号慈照院。なお世に東山御物というものは、二代義詮(宝医院・瑞山)・三代義満(鹿苑院・天山)・六代義教(普広院・道山)より義政に至るまでの収集であり、『君台観左右帳記』『御飾書』はその品類・筆者・飾り様を整理詳説したものであるが、特に「凡そ茶湯の名貸此時に乗りて文質彬々たり......即ち名物記に載する所の東山名物定也」とあります。
また同仁斎は茶室のもとであるともいわれるように、義政時代能阿弥・珠光らによって茶の湯における道具・茶室・茶法の形がつくられたのでしょう。

足利義政 あしかがよしまさ

赤楽 あからく

楽焼きの一。素地(きじ)に酸化鉄を含む黄土を塗って赤く着色し、透明釉(ゆう)をかけて、低火度で焼いたもので茶碗が多いようです。

  赤楽  光悦茶碗

上野 あがの

上野焼は福岡県田川郡福智町上野で焼かれる陶器。文禄(ぶんろく)、慶長の役(1592-1598)に帰化した朝鮮陶工韓人尊楷(和名 上野喜蔵高国)を陶祖とする。初期 は土灰釉、藁灰釉、鉄釉が使われ、唐津や高取に似ている。後代の上野青釉(銅緑釉)や灰釉を使ったものは、現在でも受け継がれている。遠州七窯の一つ。高田焼、八代焼とも呼ぶようです。

上野 あがの

赤絵 あかえ

赤を主とした上絵付けを施したもの。他(ほか)に、緑、黄、紫などの色も使われる
釉薬(ゆうやく)の上にガラ質透明な絵の具で彩色をする。
ただし赤だけは他(ほか)の釉薬(ゆうやく)と異なり不透明で層が薄い。色絵とも言います。
白磁のまま、若しくは磁体に染付などほどこし透明釉薬(ゆうやく)を掛けて焼成させた後、上絵具の赤色を主体に二・三色で模様を描かれたものを赤絵と呼ぶ。顔料は青、緑、黄、紫といったガラス質の絵具がある。8~900で逞色する。色の数多くなると五彩、金、銀を用いれば金襴手、銀欄手とも呼ぶ。釉下に染付、全面に極彩色の模様を配した物を染錦等と呼ぶ。中国では、初期の宋赤絵、淡い上品な成化の豆彩、配色の妖艶な萬暦赤絵、雅味のある天啓赤絵、清代全盛の五彩が有名である。雑な呉須赤絵等々ある。南京染付、南京赤絵とあるのは貿易、荷出港の総称で、我が国の有田焼を伊万里の荷出し地区を呼んだ錯覚した名称である。我が国では有田、九谷、京焼が有名であります。

赤絵 あかえ  柿右エ門

青唐津 アオカラツ

木灰釉をかけて焼いたものであるが、釉の中に含まれている鉄分および胎土に含まれている鉄分が、還元炎では青く発色し青唐津となり、酸化炎では淡黄褐色に発色して黄唐津となる。茶碗、皿、鉢、向付、徳利などがある。肥前の諸窯で焼成されているが、飯洞甕下窯、飯洞甕上窯で焼かれたものが最も優れたものとされています。

青唐津 アオカラツ  青唐津 アオカラツ

青織部 あおおりべ

織部焼のうち銅緑釉の特に著しいものを指していう。織部焼の代表的なものとされています。

青織部 あおおりべ

青井戸 あおいど

井戸茶碗の一種。小振りで背も低く、やや開きかげんの茶碗。釉色が、青みを帯びていることからこの名がある。

あまり青味のある釉色ではないが青井戸といわれているのは、高台からほぼ直線的に開いた浅めの姿が、青井戸といわれる碗のそれであるためである。胴には轆轤目が目立ち、高台際には深い削り目がまわっています。

青井戸 あおいど  青井戸 あおいど

青井宗十郎 あおいそうじゅうろう

肥前国八幡(長崎県佐世保市八幡町)の陶画工。1865年(慶応元年)薩摩国(鹿児島県)の平佐焼に招かれ画法を教えた。平佐亀甲斑は宗十郎の伝授したものと思われる。(『薩摩焼総監』)

藍鍋島 あいなべしま

肥前陶磁器で鍋島様式の染め付けだけで絵付けされたものをいう。

藍鍋島(あいなべしま)

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