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織部唐津 おりべからつ
唐津焼の一つ。古田織部が好む織部焼を模した唐津焼。
桃山時代より唐津と織部の関係は深く、織部が最も深く交流したのは唐津である。
秀吉は、文禄、慶長の役に当って佐賀鎮西町の地に、朝鮮進攻の拠点とする名護屋城を築城する。古田織部は、秀吉の本隊に随行する後備衆となった。唐津は、この地であります。
さらに織部は、美濃の窯大将加藤景延をして、唐津焼の窯を研究させる。景延は、唐津の連房式登り窯を学び、美濃で初めて現在の元屋敷窯跡にみられる登り窯を築窯する。その大量生産方式で美濃は他を圧倒する生産地になり、黄瀬戸、志野で始まった桃山陶器は、美濃黒織部、美濃唐津織部、美濃伊賀など、茶入、香合、向付、鉢、水滴など織部焼は完成に近づくのでありました。
装飾の面でもお互いに影響し合い絵柄など同じものが多く見受けられます。
織部 おりべ
桃山時代に美濃国(岐阜県)で古田織部の指導によって焼かれた陶器。本来、現今いわれている織部焼と志野(白織部ともいう)・瀬戸黒などを包含したものであったことは、『茶碗茶入目利書』に「織部、四通有、志ノ、鳴海、瀬戸、絵之手、惣体厚く出来いふつ形多ク、絵有モ有、絵ハ土必見、志ノ土見ル、黒土見、薬ハ白薬薄柿色有」とあり、織部焼を四通りに分類していたことからでもわかる。異国風のもの、幾何学的文様、写生風のものなど種類が多い。茶碗・向付・皿・鉢などに特徴が見られ、慶長(1596-1615)ごろ元屋敷の唐津風登り窯により著しい発展をみた。織部はその様式から黒織部・青織部・絵織部・鳴海織部・唐津織部などに分類されます。
織部好み(オリベゴノミ)
古田織部の好み物。茶席では、藪内家の燕庵、奈良国立博物館内の八窓庵など、陶芸では織部焼の名を残し、沓茶碗ほか形状・文様・色釉に技巧を凝らした複雑な効果を求め、また餓鬼腹茶入・織部形伊賀水指などがある。漆芸では芽目張柳蒔絵の炉縁や棗、染織では織部紗があり、松屋肩衝茶入に添えられた織部緞子がある。表具にも織部好みといわれるものがのこっている。なお織部の称を冠した料理も多いようです。
御庭焼 おにわやき
江戸時代、将軍家や大名たちが邸内に茶器などを焼かせるために設けた窯のこと。
奥高麗 おくごうらい
桃山時代の古唐津茶碗で、熊川風の古高麗茶碗を写したもの。奥は往古の意味にも、朝鮮の奥の意味にもとれるが明確ではない。
奥高麗は普通の古唐津より細かい土で作られ、砂気が少なく、形も無造作で、北部朝鮮系の茶碗の気宇がのこる。器肌は枇杷色から黄色、青みの出来のものまで種々ある。千家名物「中尾唐津」および「是閑唐津」は、口が外に開き、高台も低い。「深山路」は最も標準的な形で、「安井」(大和文華館蔵)は呉器風の椀形である。中には米量(よねばかり)と呼ばれ米櫃から米を掬う器として使用されたものもある。高台や口造りが欠損して朽ちた姿になったものを根抜と称することがあります。
茶道辞典 淡交社より
奥高麗
茶道筌蹄に「高麗人来たりて唐津にて焼し故高麗の方より奥といふ事なり」とあり、然れども奥は古きといふ意味なり。此種の陶器肥前唐津にて焼しか、或は朝鮮の或る地方にて造りしか、今之を確知するに由なしと雖も、兎に角一手古きを以て奥高麗とは呼ぶなるべし。
『大正名器鑑』
奥高麗茶碗は井戸、熊川、呉器、柿の端などの高麗茶碗を手本とし、最初から抹茶碗として作られた無地茶碗をいっている。点茶が盛んに行われた桃山時代、人々は高麗の茶碗を珍愛したが舶来ものが少なく、そのために高麗茶碗に似たものを焼山、甕屋の谷、藤の川内、市ノ瀬高麗神、川古窯の谷、葦の元、大草野などの諸窯で作られました。
釉薬は長石釉で白、枇杷色、薄い柿色、淡い青磁色に発色し、高台は低い竹の節、高い直立型、八字高台などがあり、見込みには重ね焼した後の目後が残っています。
名称は曖昧だが奥高麗茶碗は高麗茶碗を手本として元々抹茶碗として作られ生れたもので、井戸、熊川、呉器、柿の蔕など高麗茶碗を写しているようで、絵唐津、片口茶碗も含まれ、米量、根抜もその一種。
尾形光琳 おがたこうりん
1658年、京都の呉服商雁金屋 尾形宗謙の次男として生まれる。
尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。30歳の時、父の死去に伴い家督を継ぐが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであったようです。
画業に身を入れ始めたのもこうした経済的困窮が一因であった。大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれています。
弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き友禅の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、幅広くその才能を発揮しています。
尾形乾山 おがたけんざん
乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳です。二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。
野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。
乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。




