> お話 > か行 Archive
か行 Archive
離駒 はなれこま 「繋駒」
奥高麗片口
「つれつれの友」の著者松山靑柯氏の舊蔵に、片口を取りて、其あとを繕ひたる唐津茶碗銘繋駒あり、蓋し茶碗を馬に喩へて、片口の儘なるを離駒といい、取りたるを繋駒といふ由。此茶碗は即ち片口の儘なる故、本来離駒の名ありしが、天保七年毛利侯之を獲て愛玩措かず「難波江に放ちし駒をひきかへしつなく手綱は江戸のむらさき」と口吟みて、是より名を繋駒と改めたりと云ふ。『大正名器鑑』
古唐津奥高麗茶碗に離駒という茶碗があります。
大正名器鑑に、直した茶碗を馬に喩え、注ぎ口の孔を閉じて片口をそのまま残したものを離れ駒といい、片口を取ったものを繋ぎ駒というとあります。意味がいまいち反対のように伺えるが、孔を閉じて口の役割を無くしたので離駒と解釈しよう。
昔より有名な話で、片口を茶碗に見立てて使えるのは唐津の茶碗で、他の焼では茶碗として認められなかったといいます。それくらい唐津の片口とは有名だったようです。
熊川 こもがい
高麗茶碗の一種。熊川の名は、慶尚南道の熊川という港から出たもので、その近くの窯で出来たものが熊川から積み出されたためといいます。
「熊川なり」という形に特徴があり、深めで、口べりが端反り、胴は丸く張り、高台は竹の節で比較的大きめ、高台内は丸削りで、すそから下に釉薬がかからない土見せが多いようです。
見込みの中心には「鏡」「鏡落ち」または「輪(わ)」と呼ぶ小さな茶溜りがつくのが一般的。また釉肌に「雨漏り」が出たものもあります。「真熊川(まこもがい)」「鬼熊川(おにこもがい)」「紫熊川(むらさきこもがい)」などの種類があります。
「真熊川」は、作風は端正でやや深め、高台も高く、素地が白めのこまかい土で、釉は薄い枇杷色、柔らかく滑らかで細かい貫入があります。古人は咸鏡道(かんきょうどう)の熊川の産と伝えて、真熊川のなかで特に上手のものを、その和音を訛って「かがんどう(河澗道・咸鏡道)」とか「かがんと手」と呼びます。
「鬼熊川」は、真熊川にくらべ下手で、荒い感じがあるのでこの名があります。形はやや浅めで高台が低く、見込みは広いものが多く、鏡が無いものもあります。時代は真熊川より下るとされます。「紫熊川」は、素地が赤土で釉肌が紫がかって見えるもの。
粉引 こひき
鉄分の多い土であるため、白尼を一面に化粧掛けしているが、その白尼の粒子がやや荒いため、さながら粉をまぶしたような肌に見えるのでこの名が出たようです。
元来は、鉄分の多い土は焼くと黒くなるが、白く見せるために胎土の上に白土を使って化粧する技術であるが、粉引の場合は全体にかける為に化粧土を水に溶かした溶液の中に漬け込む方法か、柄杓で流し掛けする方法があります。上の画は流しかけし正面に窓見せ(化粧土か釉薬がかかっていない部分)を作ります
化粧土の成分
鉄や他の参加金属類の含有量がないカオリン系を主成分とした粘土を水に溶かした泥状にした状態。
古染付 こそめつけ
古染付とは必ずしも古渡りであることを要せず、今日では明末期に景徳鎮の民窯で特に日本向けに作られたと思われる独特の風趣のある器形や文様をさし、口縁部や稜線部などに「虫喰い」とよぶ釉はげが見られ、茶人には大いに好まれ日本に多く残存しています。
この水指の口はまっすぐ立ち上がり肩から胴の上部にかけてゆるやかにふくらみ、底部は口とほぼ同径の高台に支えられています。胴は五面に線割され、各面には理想郷にたたずむ仙人が軽妙に描かれています。呉須(コバルト)はやや黒味がかるものの鮮やかな発色となっています。蓋は丸枠の中に桃が描かれ丸枠との間にはさや形の文様で埋められており、日本からの注文品として作られた祥瑞の意匠を意識したのかもしれないようです。また、つまみは前足を立てて座る獅子の姿となっており、民窯ならではの大らかさと独特の風雅な趣が見られます。
古瀬戸 こせと
瀬戸で生産された陶器のうち,鎌倉時代の初めから室町時代の中頃までの施釉陶器(せゆうとうき)を古瀬戸と呼ぶ。従来、その起源は陶祖加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)による中国製陶法の招来とされています。道元禅師が貞応2年(1222)、明全に従って宋に渡ったとき藤四郎が道元の従者として渡宋し、禅修業の傍ら逝江省の瓶窯鎮で製陶の修業をし、安貞2年(1228)帰国後、尾張の瀬戸に窯を築き、中国風の陶器を焼いたのが始まりと伝えられています。近来は桃山時代以前の瀬戸陶磁器を古瀬戸と概称する場合が多いようです。
「灰釉(かいゆう)」のみが使用された前期(12世紀末~13世紀後葉)、「鉄釉(てつゆう)」が開発され、素地土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す「印花(いんか)」、文様をヘラや釘、クシ等で彫り付ける「画花(かっか)」、粘土を器体に貼り付けて飾りにする「貼花(ちょうか)」など文様の最盛期である中期(13世紀末~14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉~15世紀後葉)の三時期に区分されています。
前期の「灰釉(はいぐすり)」は、朽葉色の釉薬で戦前一般には「椿手(ちんしゅ)」と呼ばれた。鎌倉後期以降の「鉄釉」は鬼板という天然の酸化鉄を釉薬に混ぜたもので、黒若しくは黒褐色に発色します。今日、この黄釉若しくは黒釉の掛かったものも古瀬戸と称することがあります。
呉須 ごす
酸化コバルトを主成分とする染付(青花)に用いられる顔料。中国では青料といいます。還元焔により藍色を呈し、酸化させると黒味を帯びる。コバルト鉱が風化して水に溶けて沈殿し、鉄、マンガン、ニッケルなどの化合物が自然混合した天然のコバルト混合土。これらの化合物が多いほど黒くなります。日本では産地の浙江省紹興地方が古くは呉の国と呼ばれたため呉州(ごす)と呼び呉須と書いたとされます。
元朝(1279~1368)末に、西域よりスマルト(酸化コバルトを4~6%溶かし込んだ濃紺色のガラス)、中国で「蘇麻離青(そまりせい)」と呼ばれる鮮やかな青藍色を発する青料が招来し、景徳鎮で使われたが、明朝成化年間(1465~87)に輸入が途絶え「土青(どせい)」といわれる中国産の黒ずんだ青料が使われるようになります。明朝正徳年間(1506~21)からは、西アジアより「回青(かいせい)」と呼ばれる、明るい青藍色のものが輸入され、嘉靖(1522~66)、隆慶(1567~72)、萬暦(1573~1619)の青花に主として使われます。
御所丸 ごしょまる
高麗茶碗の一種。御所丸の名は、朝鮮との交易に使われた御用船を御所丸船といい、文禄・慶長の役のとき、島津義弘がこの手の茶碗を朝鮮で焼かせ御所丸船に託して秀吉に献上したことからきたといいます。桃山より江戸期にかけ日本から朝鮮に御手本(切形)を送って焼かせたものを御本といい、古田織部の御本で金海の窯で焼かせたもので「古田高麗」ともいい、御本としては最も古いもの。堅手の一種で「金海御所丸」ともいいます。形は織部好みの沓形で、厚手。腰には亀甲箆という箆削りがあり、高台は大きく、箆で五角ないし六角に切られている。高台は釉がかからず土見せ。白無地の「本手」(白手)と、黒い鉄釉を片身替わりに刷毛で塗った「黒刷毛」と呼ばれるものがあります。
呉器 ごき
高麗茶碗の一種。御器・五器とも書く。呉器の名は、形が椀形で禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ているためといわれます。
一般に大振りで丈が高く見込みが深く、高台は外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされます。素地は堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかります。
「大徳寺(だいとくじ)呉器」「紅葉(もみじ)呉器」「錐(きり)呉器」「番匠(ばんしょう)呉器」「尼(あま)呉器」などがあり、「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎とし帰国の折置いていったものを本歌とし、その同類を言います。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くないが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていないようです。
高台
唐津焼の高台には作為の有る・無しに問わずいろんな種類があるが
そんな高台を先人たちは色々な名称で楽しみ鑑賞してきた
竹節高台(たけふしこうだい)
二重高台(ニジュウコウダイ)
三日月高台(ミカヅキコウダイ)
藁敷き高台(ワラシキコウダイ)
貝高台(カイコウダイ)貝殻高台(カイガラコウダイ)
光悦 こうえつ 本阿弥 光悦
京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。
生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育(はぐく)んでいました。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになりました。
古伊万里 こいまり
「古伊万里」(こいまり)とはその名のとおり古い伊万里焼のことをさし、通常は江戸時代の伊万里焼を称しています。
染付(そめつけ)の藍(あい)色の下絵に、上絵の金、赤、緑、黄色などで装飾した作品を「古伊万里様式」と呼んでいますが、藍色と金、赤の組み合わせが基本で、金欄手(きんらんで)の古伊万里と呼ばれることもあります。
「古伊万里様式」は、それまで流行していた「柿右衛門様式」に替わり、元禄期(1688~1704)に生まれています。「柿右衛門様式」同様にヨーロッパで好まれ、元禄から享保(1716~1736)にかけて大量に輸出されました。余白がないほど文様が描きこまれた絢爛豪華な作品もあり、豊かな時代の元禄時代を反映しています。構図の特徴は、器を放射状の直線や唐花(からはな)状の曲線で区別し、窓絵(まどえ)と地文様(ぢもんよう)を交互に描くこと。文様には唐花文(からはなもん)、獅子牡丹文(ししぼたんもん)などがあります。
献上唐津 けんじょうからつ
肥前唐津城主より徳川将軍家に献上した唐津焼の茶碗。唐津城主詩寺沢志摩の守広高が、寛永年間(1854-44)椎(しい)の峰の工人に命じてつくらせたのにはじまり、歴代の唐津城主が献上した。中でも安政年間(1854-60)小笹原候により献上された雲鶴象嵌の茶碗が有名。
茶道辞典 淡交社より
幕府に献上した唐津焼のことで、寛永年間唐津城主寺沢志摩守広高が椎の峰の工人に命じて作らせたのに始まり、以後大久保・松平・土井・水野の代々の唐津城主のときに作らせた。宝永4年から坊主町・唐人町で作られるようになった。この種は大正期まで焼成されていた。
絵付けは御用絵師によって成され、胎土はきめ細かく、雲鶴文の象嵌(ぞうがん)がよく知られています。
化粧掛け けしょうがけ
化粧掛けは、素地が黒っぽいものや肌が美しくないものをカバーするために行われる。表面に白い土の層をつくることによって、素地は白く滑らかになり、またその上に文様を描くにしても色がきれいに見える。
こうした化粧掛けの技法は古くからあり、例えば中国においては、唐代の三彩、宋代の磁州窯の製品等によく見られる。磁州窯の場合は、化粧掛けされたものの上に文様を描くほか、文様の部分だけ表面の化粧土を掻(か)き落とし、素地そのものの灰地を文様として表出させている。
朝鮮では化粧土を用いた装飾は多く、象嵌や刷毛目とともに、化粧掛けによる「粉引き(こひきまたは粉吹き)」の茶碗が名品として残されている。粉引きの場合は、泥漿に浸す方の化粧掛けでありあます。
日本では九州各地の陶器窯でみられる他、美濃の織部や京都の乾山にもみとめられる。乾山は化粧土を絵具として用いたところに特色がある。写真の碗は白化粧掛後透明釉をかけて本焼きし、更に上絵付けをしています。
景色 けしき
高麗茶碗などの磁肌に現れてくる景色は、使い込むのしたがって出てくる味わいであり、 自然釉は窯の中でつくられる景色であります。
鶏龍山 けいりゅうざん
朝鮮・李朝時代初期の15、六世紀の窯。忠清南道に位置し、三島、刷毛目、白磁などを焼いていました。
この手の鉄絵粉青を俗に鶏龍山(けいりゅうざん)と呼ぶが、これは窯が忠清南道公州郡反浦面の鶏龍山山麓、鶴峰里に位置するためである。高台裏には白化粧がなく、畳付を除いて全面に黄色味をおびた透明釉がかかっている。この手の瓶は、小さく引き締まった高台に特徴があり、本器もその例にもれない。器の表には何本かの圏線が廻らされ、胴の中央には如意頭文と蔓草と想われる文様が手慣れた速い筆致で描かれ、速度感と軽快さを魅力とされてます。
鶏龍山窯址は、韓国では初めて発掘調査が行われた窯としても有名です。その成果は1929年、神田惣蔵・野守健編『鶏龍山麓陶窯址調査報告』(朝鮮総督府)にまとめられました。発掘調査の結果、6箇所の窯が確認されたほか、数多くの印花や粉青鉄絵の陶片が出土しました。また、「成化(せいか)二十三年」(1487年)や「嘉靖(かせい)十五年」(1536年)銘の墓誌などが出土し、粉青の年代を考える上で貴重な資料となりました。この鶏龍山発掘の結果は広く受け入れられ、新たな高麗茶碗のひとつとして、あるいは唐津の源流説ともなり、当時大きなブームを起こしましたようです。
沓形 くつがた
口作りは玉縁で不規則な楕円(だえん)形をなし、下部にくびれがある鉢や茶碗などをいう。名称はその姿によるもの。御所丸・織部・志野の沓(くつ)茶碗や唐津の沓(くつ)鉢はその典型。
うつわの口辺を成形後に押さえ、日本古来の木沓(ぐつ)を連想させる形にした、切立よりも上部が狭まった形で、口は不規則な楕円(だえん)形をなすものが多く茶碗・鉢・向付などに多いようです。
御所丸・織部・志野の沓(くつ)茶碗等は人工的な歪(ひず)みが主だが、唐津の場合元々は真円の器が多く、それが焼く時の高温などで楕円(だえん)にひずんだ自然的な沓形が多かったが、美濃地方の織部の影響を受けた後の沓形は楕円(だえん)や歪(ひず)んだのを重要視して、その目的で作ったのが多くなるようです。
その時代、織部より影響を受けた唐津地区でも数多く沓形を生産していたようです。
黄瀬戸 きせと
安土桃山時代に美濃で焼かれた瀬戸系の陶器。淡黄色の釉(うわぐすり)をかけたもの。黄瀬戸は大別して二つに分けることができます。
ひとつは、釉肌が、ざらっとした手触りの柚子肌で一見油揚げを思わせる色のものを「油揚げ手」と呼び、光沢が鈍く釉薬が素地に浸透しているのが特徴。多くの場合、菊や桜や桐の印花が押されていたり、菖蒲、梅、秋草、大根などの線彫り文様が施されており、この作風の代表的な作品「菖蒲文輪花鉢」にちなんで「あやめ手」とも呼ばれる。胆礬(タンパン;硫酸銅の釉で、緑色になる)、鉄釉の焦げ色のあるものが理想的とされ、とりわけ肉薄のためにタンパンの緑色が裏に抜けたものは「抜けタンパン」と呼ばれて珍重されています。
もうひとつが、明るい光沢のある黄釉で文様がないもので、「油揚げ手」に比べると、肉厚で文様のないものが多く、菊型や菊花文の小皿に優れたものが多かったことから「菊皿手」、六角形のぐい呑みが茶人に好まれたことから「ぐい呑み手」などと呼ばれる。この手の釉には細かい貫入(釉に出る網目のようなひび)が入っています。
桃山期の黄瀬戸は、当時珍重されていた交趾(ベトナム北部や中国南部の古称)のやきものの影響が大きいと言われている。16世紀後半から17世紀初期(天正期から慶長期初期)にかけて、大萱(現在の可児市)の窯下窯で優れた黄瀬戸が作られていたといわれ、利休好みとされている黄瀬戸の多くはここで焼かれたのではないかと考えられています。
岸岳唐津 きしだけからつ
喜左衛門井戸 きざえもんいど
「喜左衛門井戸」 一名「本多井戸」
朝鮮・李朝時代(16世紀)
大井戸茶碗・喜左衛門(きざえもん)(国宝)
京都・孤蓬(こほう)庵 口径 15.5cm
慶長の頃大阪の町人竹田喜左衛門といふ者所持しが故に名あり。又本多能登守忠義に傳りて、本多井戸とも云ふ。
大正名器鑑
高麗茶碗の良さというか,味わいというものは井戸茶碗に尽きるといわれています。ということは,茶人たちが高麗茶碗に求めた美しさは,井戸茶碗のような作振りのもの,即(すなわ)ち飾り気のない素朴な姿,全く華美でない渋い落ち着きのある釉色,そして一つの姿として茶碗を観(み)るとき,茫洋(ぼうよう)とした大きさと,捉(とら)えどころのない風格が感じられる茶碗ということになります。 それは正に大井戸茶碗の姿であり,「喜左衛門」はその全(すべ)てを備えた茶碗といえます。
伸び伸びとしたこだわりのない姿,中央が竹の節のような高台がしっかりと受けているのが印象的ですが,その伸び伸びとしたロクロ目は,井戸茶碗の最大の特色であり,竹節状に削り出された高台も,節立っているがために,全体の姿を引き締まったものにしていることから,やはり大きな見所の一つに挙げられています。釉は灰褐色のいわゆる井戸の枇杷(びわ)色釉と呼ばれる釉薬(ゆうやく)が厚く掛かり,高台回りは梅花皮(かいらぎ)状に縮れています。このかいらぎはそれこそ見方によっては不潔な感じをもたせますが,全体の渋く静かな色感の中に,唯一つの激しい景色であるといえ,茶人はそうした変化に目を着けたのでしょう。
貫入 かんにゅう
貫乳とも書く。釉のひびをいう。中国では開片と呼び、元来、宋代の官窯青磁には釉にひびの入ったものが焼成され、そのひびの入り具合を文様に見立てて、魚子紋・牛毛紋・柳葉紋・蟹爪紋・梅花片紋などと呼び、鑑賞上重要なポイントになっている。官窯系の青磁器にひびの入っているものが多かったところから「くわんよう」(官窯)、転訛して「くわんにゅう」となり、貫入・貫乳などの宛字が通用した。清朝の寧窯などでは窯出し直後、墨汁・紅柄汁などに浸して放置するが、釉のひびは文様となって消えなくなる。官窯写しの青磁器はこの方法によるものが多いようです。
貫入が入る原因とは、焼成時のとき収縮する割合が生地(土)と釉薬(表面のガラス質)が違うので、窯の中で高温度から常温に温度が下がるとき貫入が入っているようです。特に陶器に多く見られ、磁器の場合は生地と釉薬の成分が似ていて収縮率は少ししか違わない為あまり貫入は入らないようです。
皮鯨 かわくじら
茶碗や皿の縁に鉄釉をかけて焼くと茶褐色の発色を見るが、それが鯨の皮身のところを連想させるところから名づけられたもので、九州地方の陶器に多く用いられる。特に瀬戸唐津の茶碗の口縁は鉄釉で周囲を巻いているため皮鯨茶碗の別名があります。
口縁の部分に鉄絵の具や鉄釉で縁取りしたものを言う。又、絵の入った絵唐津でも同じように縁取りしたものもあるが、絵が入っていないものを一般に呼ぶようようです。
鯨の肉を切ったとき、鯨の皮の黒い部分に類似しているためこの名称がついたようです。
鉄絵の具
鬼板や黒浜・鉄錆、鉄の含有量が多い鉱物や土などを使う。絵の具の色というのは焼き物の場合酸化金属類が釉中でそれぞれの色に発色することで、絵唐津は鉄、磁器の呉須はコバルトが主成分。
私の絵の具は、鬼板を主成分とし鉄錆・黒浜などを微量に混ぜている。
唐津焼 からつやき
肥前国(佐賀・長崎県)の窯場で焼成された陶器。起源は平安時代まで溯(さかのぼ)るとされるが、元亨年間(1321-4)鬼子嶽四方の山中に北朝鮮系の透明灰釉を施した飯洞甕窯が創始され、次いで不透明の海鼠(なまこ)白釉を施した帆柱窯が開かれ、漸次、皿屋窯・道納屋谷窯・平松窯・大谷窯・小十官者窯も開業、茶碗・茶器類が雑器とともに焼成されるようになったという。文禄・慶長の役ののち渡来した朝鮮の陶工によって更に多くの窯が築かれ、元和(1615-24)ごろに最盛期を迎えた。唐津焼の種類は多く、米量・根抜・瀬戸唐津・朝鮮唐津・奥高麗・絵唐津・献上唐津・火計・彫出唐津などがある。朝鮮陶器の影響を強く受け、素朴で豪放な作品が多い。
唐津焼の名称は、元々肥前の国(佐賀県・長崎県)で焼かれ生産されていた焼き物を、唐津の港から舟で全国に出荷されてたことによる名称で、有田焼が伊万里より出荷されていたことにより伊万里と称され いたことと類似しています。実際に唐津市街地には古唐津の窯跡は少なく、伊万里・武雄・多久・有田・三川内など広範囲に点在していて、それぞれ地方の名にちなみ、松浦唐津・武雄唐津・平戸唐津など他にもありますが、そういった名称でも伝わっています。有田焼の有田でも唐津は焼かれており、同じ窯で唐津焼と有田焼が同時に焼かれていた痕跡(こんせき)が残っております。
中でも十六世紀から十七世紀ごろまでの唐津焼を「古唐津」と称している。
元和二年(1616)佐賀県西松浦郡有田町で白磁の焼成が完成した。有田付近の古唐津陶工のほとんどは磁器焼成に変わり、その他の陶工は李朝三島の技法を日本風に変え、以前にない装飾方で、農漁村で使う雑器を焼くようになった。有田、西有田と境を接する長崎県の三河内、波佐見地方でも同じ現象が起こった。これら土物作品は「唐津民窯」といい明治末期まで細々と続いていたが、二十世紀に入るとほとんど絶えてしまった。終戦後一九六〇年代頃より陶芸ブームが起こると、また盛んになったようです。
唐津焼の紀元と岸岳古唐津
摂氏1230度以上の高温で焼く施釉焼き物の歴史では、中国、朝鮮、安南など、東洋の他の国々と比べると日本は新しく、瀬戸、美濃、唐津地方以外の日本の各地で、高温度施釉の焼き物が作られるようになったのは、十六世紀末の豊臣秀吉の文禄、慶長の役以後とみてよい。そのわずかな例の中に唐津は入る。では高温度施釉の唐津焼はいつ、どこから伝えられてはじまったのか不明であるが、今日考えられるルートとして、想像の域であるが朝鮮半島の咸鏡北道説と、中国の江南説の二つがあります。
唐津市の南郊約11キロのところに佐賀県唐津市がある。同村に十二世紀中期に波多持が築城し、十六世紀末まで四百余年間、波多氏の居城であった岸岳(鬼子嶽)城跡がある。この岸岳城山麓(さんろく)に飯洞甕下、飯洞甕上、帆柱、岸岳皿屋、道納屋谷、平松、大谷の七窯が発見されている。これらを「岸岳古唐津」と称する。飯洞甕下窯には窯床と窯壁の一箇所だけが残存していて、現存するものとしては日本最古の割竹式登窯である。また飯洞甕窯の南西約千五百メートルにある帆柱窯は、唐津焼の中でも最古のものとされている窯であるようです。
唐津焼が秀吉の朝鮮出兵(1592)以前に始まったことは、幾つかの証拠で説明できる。ひとつは岸岳城山麓(さんろく)以外にも、室町時代に開かれたと思われる古窯がある。帆柱窯系の山瀬上、山瀬下(絵唐津に藁灰釉をかけた斑(まだら)絵唐津を焼いている)の両窯と飯洞甕系の小十(小次郎)窯である。昭和六十年に唐津市枝去木大字後田にある名場越後田遺跡で松浦党の将校クラスの屋敷が発掘された。中国、朝鮮の古陶磁に混ざって付近にあった小十窯の皿、茶碗などが出土した。屋敷の年代は十六世紀初期から中期と推測される。すると小十窯は1550年代には稼動していたことになる。小十窯より更に古いといわれる岸岳古唐津は1550年代以前に開窯していたようです。二つ目は、天正元年(1573)、織田信長に滅ぼされた福井市一乗谷の朝倉屋敷の焼土層下から古唐津陶片が出土している。その中に飯洞甕窯産と思われる叩(たた)き釉の上に飴(あめ)釉をかけた叩(たた)き耳付花生けの陶片がある。三つ目は、堺市の環濠都市遺跡から古唐津陶片が出土しているが、その中の天正十三年(1585)木簡と搬出した絵唐津小鉢は岸岳の道納屋谷窯のものと思われる。四つ目に、天正十九年(1591)に自刃した千利休(1522~91)所持の三筒の一つに奥高麗茶碗の「子のこ餅」がある。胎土、釉の調子から飯洞甕窯か帆柱窯で焼かれたものと思われる。五つ目は、昭和四十六年に行った熱残留磁気測定によれば、飯洞甕下窯の終わりは十六世紀末とのことのようです。
その他、昭和四十八年、岸岳皿屋の堤から叩(たた)き専門の窯が発見された。壺(つぼ)、甕などをつくっているが、叩(たた)きが上手で、非常に薄くつくられている。 この岸岳古唐津では、ほとんど日用雑器がつくられ、一部の例以外、茶陶はつくられていない。また十五世紀初期、波多氏を始め九州、中国地方の豪族は、李王朝と契約して歳遣船貿易を行っていた。歳遣船貿易は、李朝の四代世宗(在位1419~1450)が対馬の宗氏を介して始めたもので、一年間に一ないし三艘の交易を行った。貿易港として朝鮮南部の塩浦(蔚山の郊外)、釜山浦(釜山港)、せい浦(熊川港)の三港が開かれた。三港の近くには多数の窯があり、李朝三島技法が使われていたにもかかわらず、岸岳古唐津に三島技法が皆無なのは不思議なことです。
唐津物 (からつもの)
近世、陶磁器の主産地が唐津と瀬戸であったところから、陶磁器を主に東日本では瀬戸物、西日本では唐津物と呼びならわしてきたようです。
茶道辞典 淡交社より
今日でも瀬戸内海沿岸、山陰、北陸から新潟県までの日本海沿岸では,焼き物のことを「唐津」又は「唐津物」と称していたようです。
古唐津(こからつ)
江戸中期以前の唐津焼を総称して言います。
片口 かたくち
注ぎ口の付いた鉢。本来は油・酒・醤油(しょうゆ)などを入れて用いた雑器であるが、懐石で香物鉢に用い、小振りのものは茶碗に用いる。一般に瀬戸系のものは注ぎ口の上に縁がなく、唐津系のものには縁がある。注ぎ口を欠き共繕いしたものを「繋ぎ駒」、穴の残ったままのものを「放れ駒」ということがある。
台所用具の一つ。鉢の一方に注ぎ口があるもの。油・酒・醤油(しょうゆ)などの液体を口の小さい容器に移すときに、液が器外に漏れないように直接に容器にいれずに、まずこの片口にとり出してから徳利などに注ぎ分ける為(ため)の容器でした。そのような用途の台所用品だった片口を、正式の懐石の場に取り上げた昔の茶人の粋(いき)を感じます。
一般に尾張地方(愛知県)及びその系統の片口は縁を曲げて片口造りをしていますが、唐津の片口は新た な土で片口を造り穴を開け接着する作り方をしています。この片口の造り方は唐津が日本では最初のようで片口と唐津とが代名詞ともいえるでしょう。
片口の口は、昔は用途として作っていたのですが、今日ではほとんど装飾的な意味合いで作っているのが多いようです。
なお、茶道において片口を侘びの茶碗に用いることがありますが、これはほとんど唐津の茶碗に限られているようです。
花押 かおう
記号若しくは符号風の略式の自署(サイン)で,判(はん),書き判(かきはん),判形(はんぎょう),押字(おうじ)などともいった。花押の起源は自署の草書体にある。これを草名(そうみょう)とよび,草名の筆順,形状が到底普通の文字とはみなしえないまでに特殊形様化したものを花押といいます。
花押の発生は中国にあって,その時期は遅くも唐代中期と見られている。日本の花押も中国にならって用い始めたと考えられ,その時期は遺存史料の限りでは10世紀前半期ころのようである(933年の坂上経行の花押が初見)。 花押には、(1) 自署,草名から起こった草名体(例えば三蹟(さんせき)の一人藤原行成)のほかに,(2) 諱(いみな)(実名)の偏,旁(つくり),冠などを組み合わせて作る二合(にごう)体(例えば源頼親,源頼朝),(3) 諱(いみな)の一字又は他の特定の文字を形様化した一字体(例えば平忠盛の〈忠〉,足利義満の〈義〉,足利義政の〈慈〉,豊臣秀吉の〈悉〉),(4) 動物(鳥がよく用いられる),天象等を図形化した別用体(例えば三好政康の水鳥,伊達政宗のセキレイ,大陽義冲の大陽)などがある。平安時代には草名体,二合体が多く一字体も間々用いられたが,鎌倉時代以降はほとんど二合体と一字体が用いられ,別用体はごく一部の武士,僧侶(そうりょ),文人の間に用いられたにとどまります。
蛙目 がいろめ
風化花崗岩が淘汰されることなく湖沼に堆積したカオリン質粘土層より、カオリナイトを主成分とする粘土を水簸(珪砂と粘土の分離)し、精製した可塑性粘土です。
蛙目粘土は、比較的大きな珪石粒(せきえいりゅう)(珪砂(けいしゃ))を含んだ堆積粘土で、雨が降って粘土が流れた後に、珪石粒が蛙の目のように残っている姿から蛙目粘土と呼ばれるようになりました。粘土と珪砂は約半分ずつ含まれており、水簸(すいひ)して粘土と珪砂を分離して、珪砂はガラス原料などに使用されます。蛙目粘土は可塑性が高く比較的豊富に産出したため全国に出荷されています。蛙目粘土も木節粘土と同様に炭化した木を含むためネズミ色に着色された粘土です。
梅花皮 かいらぎ
カイラギ 梅花皮・鰄とも書き、カエラギ・カエラゲとも言う。本来、「東南アジア原産の鮫類の皮で、アカエイに似た魚の背皮」を意味するようである。その皮で、刀剣の柄や鞘や、装飾品に用いられたという。釉が縮れて粒状になった部分を言う。カイラギは本来刀剣の柄などを飾る蝶鮫の皮のことで、その白いざらめき肌が釉縮れに似ていることから、転用されたともいう。高台も削り出しが荒くなされた後釉をかけると、窯の中でその縮れた土皺の間に釉が結粒し、カイラギを生じる。茶湯では景色として喜ばれる。
淡交社 茶道辞典より
このカイラギとは、釉薬の特質での温度が上がるにつれ、まず収縮しその後、水飴のように熔けて広がりガラス化するのですが、このガラス化になる過程で、微妙な温度と土の状態とタイミングで、縮れて広がる手前で冷却されて いるものですから、きれいに梅の花が散った様に釉薬が固まってできた模様のことをいいます。
そのように焼き上げられた器の部分を、昔の茶人・数寄者等がそれを見いだし珍重し「カイラギ」と見立てて、その名称で今日にまで伝えられたのだと思います。それらは現在まで唐津焼、萩焼のルーツとして現在まで受け継がれています。そのほかにも志野焼の中にも同じ様な模様をした陶器も見られます。特に有名なものとして古陶器の井戸茶碗など李朝系(朝鮮半島)の陶器が挙げられます。
焼き物を作る上で、はっきり言って釉薬では不良品だと思いますが、そういった不良品を日本人特有の美的感覚から美術工芸品として、またこの出来損ないの名前に梅花皮(カイラギと読ませる)ところにも昔の茶人の粋を感じます。
釉薬
梅花皮の釉薬とは、釉薬の縮れが轆轤成形時に土の泥状がついた所にはあまり出来ず、それを削り取った所に出やすいという性質の釉薬。長石の割合が多い長石釉。萩焼きでも同じような釉が使われています。
貝高台 かいこうだい
古くは、器物を重ね焼きするとき、熔着を防ぎ、また器の座りをよくし製品の歪を避けるため、器物の間に貝を置いて窯詰を行ったが、そのため高台に貝殻が付着したり、貝殻の形紋が付いたものをいう。朝鮮茶碗、唐津・上野・高取焼などに多く見られます。
昔、現代のように優れた窯道具が無かった時代、工夫を重ね、常々食していた貝の殻を使ってみて、貝殻の主成分である石灰は単独では高温(陶磁器を焼く温度)では熔けず形も崩れにくい性質であること、又これが焼きあがった後の処理がとても簡単で土や他の物では形は崩れないが硬く焼きしまっていて削り取りが大変だが、貝殻だと焼き上がった時は硬かったのが水に浸けると ずぶずぶと崩れ落ち後は器物との接着部分の鋭利な所を削るだけの手軽さを知り、左①図のように土で作ったハマ(器物を乗せて焼く窯道具)の上に貝殻を敷き、その上に器物を乗せたやり方で窯詰をやっていたようです。またそのハマは器物とくっつき崩れない限り何度でも使える特典も生まれてきます。
私が所蔵しています唐津 叩きの船徳利、その底の部分(左②図)には釉薬も掛かっており9個もの蜆の貝殻の後が残っていて、その敷かれてある蜆の貝(左③図)の大きさに驚かされます。(古唐津の窯後は海より遠い山麓に多いので、赤貝(海の貝)もたまに見かけますが蜆の貝殻が一般に多く使われているようです左④図。)
そんな昔の生活の一部を垣間見るような貝殻高台を今でも賞味がられ、現代の唐津焼の水指や花入等を焼く時よく使う技法の一つになっています。
遠州 えんしゅう
茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう) 小堀正一(まさかず)
近江小室藩主(1万2千石)で江戸初期の大名茶人。近江の国に生まれる。幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となる。慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれる。
生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、延べ人数は2000人に及ぶ。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。
遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園であります。
美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残している。また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注ぎました。
豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえます。
> お話 > か行 Archive




