備前とは其の壱 生い立ち

備前 種壺 水指 068

 備前は、丹波、伊賀、信楽、珠洲などとともに須恵系の窯として中世期以来続いた代表的な古窯である。酸化焔焼成を基本とし、室町時代後期までは、特殊な作例を除いて主として甕、壷、擂鉢などを焼造し、成形は輪積轆轤仕上げでありました。ところが、室町時代後期に至ると、 侘茶の世界で用いられるようになり、さらに都会文化と接触してその作風は大きく変化した。もちろん、侘茶の世界が認めたのは、焼締めによる素朴で寂びた味わいのある質感であったから、基本的な焼成技術は変わらなかったが、純然とした茶道具が焼かれるようになったのである。茶壷、花生、水指、茶入、茶碗、建水、さらに皿や鉢、徳利などを焼くようになった。室町後期以後も民具を生産してはいるが、桃山という時代的特色を明確に示した代表的な作品は、やはり茶陶であったといえます。茶陶として使われているもののなかには、民具として生まれたものもかなり含まれていると思われるが、桃山の作品は、民具といえども中世のものとは違って、洗練され、器形も多様である。

備前とは其の弐 茶の関わり

備前 矢筈口 耳付 水指 010

 備前、丹波、伊賀、信楽のなかで、最も早く茶の世界に登場するのは信楽と備前で、村田珠光が語った言葉や残した消息のなかに「伊勢物 ひぜん物(備前物)なりとも 面白くたくみ候はば まさり候べく候」(『申楽談儀』)、「または当時ひえかるると申じて 初心の人体が備前信楽物を持て 云々」(古市播磨宛消息)とあり、備前や信楽ものが、珠光が活躍した文明年間から文亀頃にかけて使われていたことがうかがわれる。珠光が用いた作品がどのようなものであったかは判然としないが、「山科言教卿記」の応永十三年(1406)四月八日の記載のなかに「備前茶壷」とあるので、茶壷はすでに焼かれていたことがうかがわれ、他に雑具として生まれた壷や擂鉢、または苧桶が用いられるようになったものと推測されています。
 侘茶の茶道具とはいえないかもしれないが、茶の湯に関係のある器として最も早くから焼かれたのは茶壷で、備前焼に貞治二年(1363)の年紀を刻した壷があり、前述の『山科言教卿記』の記述、さらに『桂川地蔵記』の弘治四年(1558)に「香々登(備前の古い呼称)信楽瀬戸壷には 伊賀 大和 松本 粟津の木前 簸等を入れる」と記されていることが、その間の消息を物語っています。また、『津田宗達茶湯日記』には、天文十八年十二月十二日の宗理会に「一、水さし 水こほし ひせん物」とあり、さらに紹鴎所持の「備前水指 青海」(第36図)が現存し、天正十六年記述のr山上宗二記』に「紹鴎備前筒」、「紹鴎備前物ノ面桶」と紹扁所持の備前物が記されているので、天文年間以後侘道具としてかなり用いられていたことは確かである。しかも、「備前水指 青海」など天文以後の茶具は、その口作りや器形などから推して、純然たる茶道具として作られたもののように思われる。したがって、侘茶が堺衆など町衆茶人の間で大いに高まりつつあった天文年間頃には、すでに茶陶が焼かれていたと考えられるのである。しかし、一方では雑具をとりあげることも当然行なわれていたであろう。

備前とは其の参 茶陶

備前 桶形 水指 銘 破桶 013

 永禄年間に至ると備前物の水指、建水がしばしば茶会記に登場し、ことに建水に「棒の先」「甕のふた」などと称されるものが大いに用いられ、侘茶の建水として備前物は圧倒的に人気があったようであります。さらに、天正年間に入ると花生も加わり、伝世している茶陶のほとんどが出揃ってくるが、桃山風の作為的な作品はやはり天正年間に至って焼造されるようになったと考えられます。
 天正年間から文禄、慶長さらに江戸前期にかけての茶陶ほ、美濃や伊賀、信楽の窯もそうであっこたように、やはり千利休や古田織部、小堀遠州等を先達とする時代好みを受けているように思われる。室町後期から桃山にかけての水指や花生を概観すると、そこに明確な作風の変遷をうかがうことができる。作行きがやや大振りで歪みがあまりなく、力強く素直なものから、力感を誇示するがごとく歪みと箆使いの激しいものになり、そしていわゆる伊部手風のものへと変っていったようで、最初の作風は利休が活躍した天正年間頃に多いようであり、次いで古田織部の全盛期といえる慶長年間に歪みの強いものが多く焼造されたように思われるのである。しかも、天文から天正にいたる間は、備前焼の方が美濃よりも積極的に侘の茶陶の注文を受けていたのではないかと思われるところがある。例えば、桃山の茶陶を象徴する矢筈口形式の水指や花生など、備前ではほぼその作風の変遷がたどれるようであり、おそらく最初にあのような形式のものが備前で焼かれ、それが時代の流行となって美濃や伊賀、信楽、さらに唐津にまで影響を及ぼしていったように考えられるのである。
 だが茶陶は何といっても特別注文品であり、ために窯跡の調査などによっても、その実体を観察することは極めて困難である。しかし天正から慶長にかけて、備前には美濃に比肩しうる優れた陶工達がいて、大いに活躍したことは確かで、そこに示された大胆でしかもきめ細やかな作為が容易ならざる境地に至っていたことは、伝世の茶陶をつぶさに見れば一目瞭然である。

備前とは其の四 地理

備前 耳付 扁壺 019

 ところで備前焼は、鎌倉時代には熊山の山頂付近で、室町時代に入ると伊部付近の山ふところに穴窯を築いて焼造していたが、室町後期から共同の大窯を築いて量産体制に入っていきました。すなわち西大窯(伊部の西、医王山の東山麓)、北大窯(伊部の北、不老山の南山麓)、南大窯(伊部の南、柩原山の北山麓)を築き、陶工たちは三つの大きな集団をなして、座を組織して経営にあたったものと推測されています。その窯大将として、備前では古来窯元六姓の称があり、木村、森、頓宮、寺見、大饗、金重などの名が伝わり、その共同窯の組織は明治維新まで続いた。共同窯になると、各々その作品を区別する必要から窯印を彫りつけるようになったが、窯印には、美濃にも見られたように陶工の手印だけではなく、注文主の印もつけられているのではないかと推測されます。また、窯印は個人作家の記号もあろうが、大部分のものは家号に代わるものであったのか、同一の窯印を代々使用している例が多く、同じ窯印のものでも製作年代にかなり差異があるようであります。桂又三郎氏によると、昭和二十六年に南大窯跡が発掘されたとき、江戸時代の大窯跡の右手にあらわれた桃山時代の窯は長さ31.6メートル強、幅2.3メートル、傾配1メートルにつき0.66メートルないし0.858メートルでありました。そして、出土した陶片から推測すると、室町末期から江戸初期にかけて窯煙をあげていたらしく、ここから出土した陶片の窯印を調べた結果は、彫印85種、押印36種であったという。これによってもわかるように、桃山時代の窯のなかでは、備前焼が窯印の種類が最も多く、他に南大窯と同様の窯が非と西にあったというから、その経営の盛大なさまは他の窯では見られないものであったといえます。

備前とは其の五 製法

備前 半月形 手鉢 206

 鎌倉時代から室町中期にかけては山土を使用し、大窯時代に入ってからは主として田土を用いたので、土味はかなり異なっています。田土を用いた桃山時代の茶陶のなかでも、やや粗い土から極めて細かい土にいたるまで、作品に応じてそれぞれに土を調製したものと思われる。また、俗に塗土とよばれている技術も室町後期から始まっているが、これは鉄分の多い共土を泥漿にしてずぶ掛けしたり、刷毛で上塗りしたりしたもので、これが後に伊部手となって、備前焼独特の作品に発展していきました。
 成形は古くは紐造り轆轤仕上げであったが、その後轆轤びきに変化しています。ただし、轆轤は美濃のような手轆轤でも唐津のような蹴轆轤でもなく、別に助手がいて轆轤を回し、作者は轆轤上の土を成形するのみでありました。さらに美濃や唐津のように、轆轤の上に置かれた一つの土塊からいくつもの作品を作るのではなく、器の大小にかかわらず、一つ分ずつの土を置いて作る、いわゆる「一つびき」の式法を原則としていたらしい。したがって、糸切高台のものは、茶入のような特殊な作品、を除いてまったく見られず、いずれもペタ高台で、小さいものは箆で高台を平らにしています。。水指や花生など大作の場合は、轆轤の上から容易に取りはずすために乾燥させた細かい土をまき、その上に器の底土を置き、さらに土を置いて成形する技法をとり、成形後、裾の土を箆で切り落として乾燥板の上に移す、いわゆる板起しの技術を通例としています。

備前とは其の六 焼成

備前 陶板 205

 備前には、土膚に直接焔や灰がかぶって焼き締まったものと、大きな甕の中に作品を入れ子にして上に蓋をのせ、あたかも匣入れしたのと同じ状態で焼いたものとがあり、前者を古備前または窯変ものと称し、後者は入れ子にするとき作品と作品のくっつきを防ぐため、それぞれの器に藁を巻いて焼造するので、土膚は窯変ものよりも白く焼き上がり、藁が土膚に作用して赤く筰掛けしたように焼き上がるため、それを緋襷と称しています。しかし、多くの場合は匣鉢を用いなかったようであるが、桃山以後は、ものによっては匣鉢に入れたらしく、窯跡から慶長元年銘のある匣鉢の破片などが出土しています。
 古備前、緋襷の他に伊部手とよばれているものがある。従来、伊部手は慶長以後の作といわれていたが、初期伊部手といえる作品がすでに室町後期から始まっています。伊部手は塗土をして焼成したもので、器表が滑らかであり、上に俗に胡麻釉とよばれる朽葉色の自然釉がかかっているのが特色であり、江戸時代に入ると、胡麻釉を人為的にぶりかけたものも焼かれています。窯変や緋襷ものが江戸初期以後衰微していったのに反して、伊部手は以後の備前焼の主流をなしました。
 焼成は、伝えによると三十~四十日間焚き続けたといわれ、いうまでもなく燃料は松の割木を用いています。長さ31メートルに及ぶ長大な窯であったから、三十~四十日の焼成は当然のことであり、座組織の共同窯でなければこれによる焼成は成立しないものであったといえます。そこに、桃山を中心とした大窯時代の作品の特色があるともいえます。
 桃山時代の備前焼を概観すると、陶工たちの手腕は、丹波や信楽、伊賀と比較して最も優れた技量を持っていたようで、その力強く、しかもきめ細やかな作為は到底他の窯の及ばぬものがあり、よほど優れた陶工が存在したものと推測されます。また、江戸初期以前に年紀銘をもつ作品が多く現存しているのも備前焼の特色で、作風の変遷を考察する上に重要な役割を果たしています。

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