灰器 101

高さ8.6cm 口径19.4cm 丸底 この灰器はノンコウの作で、内箱蓋裏に「のんかう 灰ほう路く左(花押)」

灰器 100

高さ9.3cm 口径18.1×21.8cm 丸底湯木美術館 長次郎焼と伝えられる素焼の灰器がかなり数多く伝世し

獅子瓦 090

高さ35.5cm楽美術館 磯野(現大河内)氏の『楽茶碗』によると、留蓋瓦に作られたものらしいです。長次郎焼を考

長次郎 chojiro

長次郎の茶碗 黒茶碗 銘大クロ

 長次郎の茶碗は、いずれも手捏ねで、一つ一つ丹念に作られたものであったといえますが、それでも、本当に力のこもった優れた茶碗となると数は少ないです。しかし興味深いのは、長次郎の茶碗はおしなべてそれぞれ一風ある格をそなえていることで、同じころ美濃で焼かれた瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部などの茶碗には、際立って作行きの優れた名碗がある反面、まったく格のない平凡なものなど、名人芸から職人芸に至るまでさまざまであるのに比して、長次郎の茶碗は個々の作行きに優劣はありますが、いずれも一つの骨格をもっています。それは、美濃の場合は各地に散在する窯でさまざまの陶工たちが作ったのに対して、長次郎の場合は家族的単位の一工房で作られたことと、形の基本を千利休(1522-91)の好みにおいていたからではないかと思われます。だが観点を変えますと、美濃の場合は陶工の数も多く、広がりも大きいですので、なかには優れた陶工がいて自由闊達に仕事をしたようであり、凡作もあるが破格の名作も残っています。
 長次郎の工房は規模も小さく、そして利休好みを基本にしていましたので、志野の名碗のような作為豊かな面白く楽しい茶碗は少ないです。おそらく作者は自らの個性をあらわさず、利休の好みにしたがうことを心がけたのであり、だからこそ共通した骨格をもつ作品を作り得たと考えられます。
  現存する長次郎の茶碗のなかで、私がもっとも心ひかれるのは「無一物」「一文字」「大クロ」の三碗ですが、「大クロ」と「一文字」はいずれも利休ゆかりの茶碗で、「大クロ」は利休から少庵・宗旦さらに江岑宗左と伝わり、「一文字」には茶碗の見込に利休が「一」の文字と判(花押)を漆書きした跡が残っていて、おそらく二碗とも利休自身が茶を飲んだにちがいない茶碗です。「無一物」は利休所持であったか否かはわかりませんが、やはり同様の作振りであり、いずれも利休好みの典型作であったと思われます。
  幸いにそれらの茶碗は、すでに展覧会や書物にたびたび紹介されていますので、茶碗に興味をもっている人ならば、どれかは目にしているでしょう。そして一度でも作品を目にした人ならば、きっと深い感銘を受けているにちがいありません。名器といわれるほどのものならば、いずれも人に感動を与えるものですが、「大クロ」や「無一物」から受ける感銘は、志野茶碗の「卯花垣」や光悦茶碗の「不二山」(図102)とはまた質の違ったもので、作為の面白さや見事さが直接うったえてくるのではなく、茶碗の周辺にしんと静まりかえった雰囲気がかもしだされ、そこに独り端然と位置しているといった趣です。
 そして私の経験では、やや距離をおいて眺めたときにその印象はより強いです。ところが手に取ってみますと、一見平凡な、茶碗としての機能を第一義にして手捏ねされた素直な作振りの茶碗にすぎません。そして手から離して畳の上に返しますと、ふたたび静かに位置して、安易な妥協を許さぬような趣の茶碗に化するのです。
  「大クロ」や「一文字」を頂点とする長次郎茶碗独特の造形性については、しばしば論じられてきましたが、結論は千利休晩年の詫び茶に対する理念と結びつけるしかないようです。天正年間中期(1582年前後)に「草ノ小座敷」を完成させた利休が、詫び茶のための茶碗として好みを示して作らせたもの、したがって、それは長次郎という一介の陶工が独りなしたものではなく、利休の佗びの茶に対する想いが、茶碗という器に具象化されたものではありませんでしたか。そしてその姿は、一見無作為で平凡ですが、決して単なる平凡ではなく、すべての虚構を捨て去ったあとの真なる姿として受けとめずにはいられないものを感じさせるのです。さらに言葉を重ねれば、単なる器ではなく、利休の詫び茶の「道具」、古い表現を借りれば、具足として作られたもの、器は作者が作りますが、使う人を得たときそれは「道具」となり、長次郎の茶碗は使う人である利休が主導して作らせた「道具」であったといえます。したがって利休好みの長次郎の茶碗が茶会に登場したときに、人々はそれを「宗易形」の茶碗と呼び、その後多くの茶会で使われるようになりましたが、おそらく時代の人々も、茶碗の姿にただものでない風格を感じ、さすが利休という思いを抱いたにちがいありません。
  桃山時代の茶会記に長次郎焼と推定される茶碗がはじめて記録されるのは天正十四年(1586)で、『松屋会記』に誌された奈良中坊の井上源吾という人の用いた「宗易形ノ茶碗」がそれにあたるようです。その「宗易形」すなわち利休好みの茶碗は、時代の茶の世界で詫数奇の茶碗として高く評価されたようであり、利休の高弟であった山上宗二が天正十六年に著した茶書に「惣別茶破之事唐茶硯ハ捨リタル也 当世ハ高麗茶碗今焼茶碗瀬戸茶碗以下迄ナリ頃サヘ能ク候ヘハ 数奇道具二作也」(表千家本『山上宗二記』)と書き留めていて、そこにいう「今焼茶硯」は長次郎焼の茶碗に対して天正年間(1573-92)の茶の世界が与えた呼称であったのであり、同十四年に「宗易形ノ茶碗」として誌されてからは「今焼茶碗」としてしばしば茶会記に登場し、大いに脚光を浴びていったことがうかがわれます。しかし長次郎焼の茶碗は、あくまで利休好みの茶碗として声価を得たのでした。
  長次郎の茶碗が「宗易形」として天正十四年にはじめて茶の世界に登場したものか、もっと早くから利休やその周辺の人々と関りをもって茶碗を焼くようになっていたのかは判然としませんが、しかし推測をたくましくして桃山時代の茶会記を注目しますと、あるいは長次郎作ではなかったかと考えられる茶碗が津田宗及の『天王寺屋会記』に三回ほど誌されています。
  それは天正七年十月十七日の条、山上宗二の茶会に見える「赤色之茶碗」、天正八年十二月九日に千宗易会に用いられた「ハタノソリタル茶碗」、天正十一年二月十三日にやはり山上宗二が用いた「そり茶碗」などで、なかでも特に注目されるのは「赤色之茶碗」です。
 当時用いられていた茶碗のなかで「赤色」のものといえば唐物の天目に赤褐色の釉色のものがありますが、それならば唐物天目としての意味をもつ表示が誌されるはずです。ところがここでは、当時の茶会記の慣例の上では珍しく唐突に、「赤色之茶碗」とのみ誌されているだけであり、それ故私はその記載になにか従来とは異なったものの出現をうかがうのです。そして長次郎の工房でその頃赤茶碗が焼造される可能性があったことは、「天正二春 依命 長次良 造之」の刻銘をもつ唐獅子の瓦(楽美術館蔵)が伝わっており、それに用いられている胎土や釉が「白鷺」、「無一物」、「一文字」や、あるいは「道成寺」などの赤茶碗とまったく同様であることから、技術的には天正二年(1574)以降に赤茶碗の製作は可能であったと推定できるのです。
  また「ハタノソリタル茶碗」と「そり茶碗」については、端反りの茶碗は高麗茶碗に数多く見出すことはできますが、しかしその場合はやはり当時の茶会記の慣例として「高麗茶碗」と表示されます。ところがここでは、ただ「ハタノソリタル」と形状を誌すのみで、やはりなにか異なったものが用いられたのではなかったかと思われ、それはあるいは「道成寺」のような茶碗ではなかったのか、しかも「道成寺」の形は高麗茶碗の熊川と類似していることを考えますと、利休好みの形が確立するまでに、長次郎焼では高麗茶碗に似たものを造ることもあったことを物語っています。さらにそれらを用いたのが千利休と山上宗二であったことは、そうした仮説をたてる上で極めて興味深く、利休や宗二と長次郎との関係は天正年間前期から始まり、その後しだいに深まって天正十四年に「宗易形ノ茶碗」が造られるに至ったのではないでしょうか。
  ところで長次郎の茶碗が「宗易形」と茶会記に書きとめられたのは天正十四年(1586)十月十三日に催された奈良中坊の井上源吾の茶会一回だけで、その後長次郎茶碗は「今焼茶碗」または「焼茶碗」と呼ばれたことはすでに触れましたが、しかし「宗易形」の茶碗が登場してから利休が切腹した天正十九年(1591)二月までの五年間に、津だそうぎゅう そうぽん かみやそうたん まつやひさまさ ひさよし田宗及・宗凡・神谷宗湛・松屋久政・久好等の残した茶会記によると「今焼茶碗」はおよそ五十回用いられ、使用した人は利休やその子紹安(道安)嗣子少庵を始め四十人におよび、しかも町衆階層の人たちが盛んに用いていて、その多くは利休の佗びの茶風を慕う人々であったように推測されます。その間天正十七年(1589)に初代長次郎は歿したらしく、その工房の後継者となる宗慶・宗味・常慶等によって作られた茶碗もまた「今焼茶碗」と称されて用いられていました。
 ところが、慶長十三年(1608)の二月二十五日に京都の千宗旦の茶会で用いられた茶碗は、松屋久重の茶会記に「今ヤキ茶碗」とは誌されずに「シュ楽茶ワン」と誌されています。「シュ楽」は「聚楽」と判読でき、そのころすでに聚楽第は取り毀されていたにもかかわらず「聚楽茶碗」と呼ばれたのは、「今焼」が一部の人々の間では「聚楽焼」と称されていたことを物語っています。さらに推測を深めますと、他の「今焼茶碗」の多くは無印でしたが、宗旦が使った「聚楽黒茶ワン」には「楽」の印が捺されていたために特に「聚楽黒茶ワン」と書きとどめたのかもしれません。その後も「今焼茶碗」という名称は『隔莫記』に見られるように寛文年間(1661-73)まで続いて使われていますが、「シュ楽茶碗」という呼称でも呼ばれています。また吉左衛門常慶以後は代々茶碗に独自の「楽」字の印を捺したので「聚楽焼」がさらに簡略化されて「楽焼」と呼ばれたようであり、また元和七年(1621)に七十九歳で歿した織田有楽斎の手紙(楽家に現存)の宛名に、「楽長二郎との」にの長次郎が天正十七年に歿した人かあるいは二代目かは判然としない)と記していることから、元和年間初期頃には「楽」を姓のごとく称えていたようにも推測されるのです。
 そしてさらに吉左衛門常慶やその子吉兵衛(道入=ノンコウ)と親交のあった光悦(1637年歿)は、楽家の家格を示す五幅の暖簾に「楽焼御ちやわん屋」の文字を揮毫したらしく、そこには「楽焼」と明確に書されているのであり、たぶん元和・寛永ごろ(1615-43)から一部の人々の間では楽焼、より親しい人たちは光悦や宗旦のように「茶わん屋」と呼んでいたのでした。
  長次郎の始めた手捏ね茶碗は以上に述べたように、当世の茶碗としての評価を受け、また「今焼」「聚楽焼」などと呼ばれ、江戸時代に入るとその工房は「楽焼御ちやわん屋」として家業体を確立して今日に至ったのですが、すべに述べたように、長次郎工房の茶碗が美濃で焼かれた志野・黄瀬戸・織部などの瀬戸茶碗とともに時代の茶碗として盛んに用いられたのは、それらが利休の直接的な指導を受けて作られたものであったればこそと考えられます。したがって茶会記に記された「今焼茶碗」のなかには、利休伝来として今日まで伝るものがかなりあるにちがいありませんが、ほとんどが単に「今焼茶碗」とあるだけで、後世の茶会記のように固有の銘が記されていないためまったくわかりません。わずかに津田宗及の『天王寺屋会記』に誌された、利休が最晩年まで愛蔵した「木守」銘の赤茶碗一碗にれは関東大震災で焼滅し、現在残片から復元されたものがある)と、天正十八年(1590)八月七日に千少庵が用いた「クロヤキノ茶ワン」があるいは利休伝来の「大クロ」にあたるのではないかと推測されます。
 しかし、おそらく利休存命中は長次郎の茶碗の多くは利休を経て人の手に渡ることが常であったように思われ、人々も利休を通じて得ることに喜びをもったでしょう。ところが、そのことが後に「近年新義ノ道具共用意シテ高直(値)ニ売ルマイス(売僧)ノ頂上トテ欺」(『多聞院日記』( )内は筆者)というように悪く評価され、利休切腹の罪状の一因になろうとは誰もが思いもしなかったでしょう。
  私は長い間、半筒形の茶碗は桃山様式として天正年間(1573-92)に至ってから始まったものと考えていました。確かに、伝世した瀬戸黒や志野・黄瀬戸・長次郎などの茶碗のほとんどは、天正年間以後の作と推定され、半筒形の茶碗は桃山時代が全盛期であったことは明らかであり、その発生期についても的確な資料がないままに天正年間ではないかとされていました。ところが近年の美濃古窯の発掘調査によって、美濃の窯で早ければ天文(1532-55)頃、遅くとも永禄(1558-70)頃から、腰にまるみをつけた半筒形の瀬戸黒茶碗や黄瀬戸茶碗が焼かれていたという推定がなされるようになり、天文年間以来の詫び茶の流行と期をほぼ同じくして、天目とは違った前桃山様式といえる形態の茶碗が一部の需要に応じて美濃の窯で焼かれていたことが判然としてきました。そして半筒形の茶碗が詫び茶の最盛期であった天正年間に時代の茶碗として脚光を受けたことから推して、天文・永禄頃に始まった初期の半筒形茶碗もやはりイ宅び茶の世界の需要に応じて作られるようになったと考えられるのであり、管見の黄瀬戸茶碗(原色愛蔵版「日本の陶磁」3 黄瀬戸・瀬戸黒 参照)のなかに、その間の消息を伝える極めて注目すべきものが一つありました。
  それは胴がわずかに張り、腰にまるみをつけ、高台を削り出した茶碗で、初めてその茶碗を見たとき、形態があまりに長次郎の「大クロ」と似ているので驚いたのでしたが、茶碗の収まった箱の蓋表に、筆者不詳であるが「北向道陳お好」という書付があり、しかも高台内に朱漆書で利休の判(俗にオケラ判と称されている花押)が書されていました。その当時は、このような形式の茶碗が室町時代に焼かれているはずはないという概念をもっていましたので、永禄五年(1562)に歿した北向道陳の好みという伝承はさして問題にせず、利休の判があることと長次郎の「大クロ」と形が似ていることから、やはり「大クロ」が焼かれたのと同じ頃、すなわち天正十四、五年(1586、7)頃に利休好みとして美濃のどこかの窯で焼かれたものと推定していた。ところがその後、美濃古窯跡から類似品が出土していることが判明したため、「北向道陳お好」という伝承が重要な意味をもつようになってきました。すなわち、従来私たちが利休好みと考えていた形態の茶碗は、利休一個人の好みというよりも、室町時代末期から桃山前期にかけての詫び茶の好みを受けて発生していたもので、それらのなかに利休と極めて密接につながるものが存在したと観るのが妥当なようです。
  そしてさらに、そうした作品をふまえて当時の茶会記を見ますと、永禄七年(1564)三月二十二日や永禄十二年(1569)五月十三日、同九月十四日さらに元亀三年(1572)十二月十三日、天正元年(1573)三月十二日(いずれも『津田宗及茶湯日記』)に使われている「瀬戸茶碗」が、あるいは初期の瀬戸黒や黄瀬戸の茶碗ではなかったかと推測されるのであり、さらに天正十三、四年頃からいちだんと数多く使われるようになる「瀬戸茶碗」は、すでに完成した純然とした桃山様式の茶碗、すなわち大萱の窯下窯、牟田洞その他の窯で焼かれた瀬戸黒・志野・黄瀬戸などの茶碗であり、さらに文禄から慶長(1592-1615)にかけて織部黒・黒織部なども加わっていったと考えられるのです。
  一方、長次郎によって「宗易形」として作られた茶碗が茶会記に登場するのは天正十四年(1586)のことで、「大クロ」や「一文字」のような形態の茶碗がそれにあたるようです。そして長次郎によって作られた宗易形が、利休が所持していた北向道陳好みの黄瀬戸茶碗と極めて器形が類似していることは、宗易形そのものが様式的には利休の独創になるものであったとはいえないかもしれません。しかし天正十年(1582)をすぎた頃「待庵」のような形式の「草ノ小座敷」を完成し、後に『南方録』の筆者が記すように「草ノ小座敷、露路ノー風ハ、本式ノカネヲモトヽスルトイヘドモ、終ニカネヲハナレ、ワザヲ忘レ、心味ノ無味二帰スル出世間法ナリ」とする詫びの茶を実践しつつあった晩年の利休がもっとも深い共感を抱いていた茶碗の姿が、道陳好みの黄瀬戸茶碗のような腰にまるみをつけた半筒形であったと観ることができます。そして利休は、手捏ねという瀬戸茶碗にはなかった成形法をもつ長次郎に、詫び茶のための茶碗として黄瀬戸よりいちだんと茶味の深い「大クロ」のような茶碗を作らせたのであり、当代の人々はそれを「宗易形」として受けとめたのでしょう。黄瀬戸の茶碗は饒轍作りでしたが、長次郎のそれは手捏ねという彫塑的な成形法で、一つ一つより丹念に作られたものであっただけに、心のこもりようは黄瀬戸や瀬戸黒よりいちだんと深く、利休の子紹安が「宗易このみの黒茶碗 数奇に入りますなり」といったと伝えられているように、美濃で焼かれていた茶碗と同じような形式ではあるが長次郎に作らせた利休好みの茶碗は、「数奇に入る」茶碗であったのであり、私たちがいま観ても、長次郎の「大クロ」や「一文字」「無一物」などのほうが詫びの茶碗としてより深い味わいと、端然とした風格を感じさせる佗数奇の道具です。
  長次郎焼茶碗のやきものとしての最大の特色は、まったく轆轤を用いず手挫ねで成形すること、焼成には瀬戸黒や志野を焼いた美濃の大窯(半地上式の穴窯)のようないわゆる本窯を用いず、基本的には低火度焼成の規模の小さい窯、後に俗に内窯と呼ばれた窯で焼造されたことです。器を作るのに轆轤を用いずに成形する技法は、古く縄文式土器や弥生式土器、さらに古墳時代以後日常の器として多量に生産された土師器などかなり長い歴史をもっていて、おそらく桃山時代でも京都の北郊幡枝などで作られていた土器などもその類であったと思われます。しかし土師器やかわらけはすべて釉のかからない土器質の器でしたが、長次郎の窯で作られたやきものには釉がかけられ、かわらけよりも高い火度で焼き上げたいわゆる軟質陶器で、それは古く奈良時代から平安時代にかけての一時期に生産された三彩・緑釉陶(一般に奈良三彩と呼ばれている)に近い性質のものでした。このような低火度焼成- 800度前後-の施釉陶は、いままでにわかっているかぎりでは、平安時代に衰微して絶えてしまい、土師器の延長線上にあるかわらけだけが長く生産されました。したがって長次郎が焼いた低火度焼成の施釉陶は、日本での長い伝統の上に生まれたものではなく、かつて奈良時代の三彩陶が中国から直接的に技術を摂取して行われたと同じように、室町時代の後期にふたたび請来された外来の技術によるものであったと推定され、それを裏づけるように、長次郎焼の元祖は「あめや」(阿米也とも書く)と称した唐人であったと伝えられています。
  ところで、この唐人の「あめや」はどこから渡ってきた人であったのでしょう。江戸時代には中国人・朝鮮人ともに唐人と称したのでどちらか判然としませんが、楽家の先祖である吉左衛門常慶や吉兵衛道入と親交のあった本阿弥光悦の言行を聞書きした『本阿弥行状記』には「中華の人」と記されています。しかし他の茶書やいい伝えでは朝鮮人説を記したものが多いです。だが、かつて田中作太郎氏は、「あめや」という称が南中国系のものらしいという推定から中国人説を提起され、私もまた「二彩瓜図平鉢」や宗慶銘の「三彩獅子香炉」の作風から推して、長次郎の低火度焼成の陶法が交趾焼系と考えられることから南中国系の人と推定していたところ、近年九州の福岡県や熊本県の中世の遺跡から、直接関係はないが長次郎焼の周辺を考察する上で興味深い交趾焼系の資料が出土し。わが国では中世から南中国請来の交趾焼に対する賞翫があり、その流れの上に南中国からの陶工の渡来を促すことになり、例えば『信長公記』に「瓦焼 唐人一観被二相恭一 唐様に被二仰付一」と記されている唐人の一観や、長次郎焼の元祖「あめや」のような人たちが渡って来たのではなかったかと思い至るのです。そしてさらに推測を深めますと、美濃の窯で焼かれるようになった緑釉のかかった織部焼もまた交趾焼に対する賞翫に触発されて始まったかと考えられます。
  元祖あめやに始まる長次郎の陶法が南中国から交趾支那(現在のベトナム)方面で焼造されていたいわゆる交趾焼の流れを汲むものではなかったかという考察を以上に述べました。また長次郎の工房の主な生業が瓦焼ではなかったかという先学の推定がありますが、しかし果たして純然とした瓦専一の工人であったか否かはいまのところ判然としません。
  天正二年銘の「獅子瓦」が存在していますので、その初期においては特種な瓦の制作などに従事し、あるいは聚楽第の造営時にも装飾的な瓦などの注文に応じていたかもしれません。しかし「宗易形」の茶碗を焼くようになった天正十四、五年(1586、87)以後でも、瓦焼が主たる生業であったか否かは判然とせず、私は天正十四年以後の長次郎の工房は、宗易形の茶碗を主体に香炉・香合、さらに食器や灰器も含めた茶陶の焼造によって生業をたてていたものと推測しています。ちなみに文禄二年(1593)頃に利休七哲の一人蒲生氏郷(1556-1592信長、秀吉に仕えた武将であり、茶人)の宿将で白川城主であった町野長門守幸和がしたためた書状に「天下-ちやわんやき吉左衛門云云」と記されているものがあり、この吉左衛門はおそらく当時の長次郎工房の一人であった宗味か常慶のことらしいですが、これによって長次郎の工房が天下一の称号を豊臣秀吉から許されたのは、茶碗焼師としてのものであったことは明らかです。天正十四年から同十九年に至る間に、主要な茶会記に記されただけでも四十人におよぶ人々が長次郎工房で焼かれた「今焼茶碗」を所持し、天正十六年に山上宗二によって「今焼茶碗」が当世の茶碗として高く評価されていることから推しても当然のことであり、茶会記はその需要の極く一端を示しているにすぎないでしょう。このように茶碗師という主要な仕事があるのに何故に瓦を作らねばならなかったでしょうか。
 おそらく経済的にも今焼茶碗を焼くほうがはるかに効率は高かったにちがいなく、そしてまた、あれほど心のこもった作行きの茶碗を作ることと、瓦の生産とを並行してなすことが果たして可能であったでしょうか。当時美濃の窯でもそうした生業はまったくなく、皿や鉢などの高級食器の生産を基盤にしつつ茶碗や水指など純然とした茶道具が特別注文によって作られていました。それから類推しても長次郎の工房が瓦と茶碗作りとを並立させていたとはとうてい考えられないのであり、茶碗作りという特異な生業の職方であったればこそ「天下一」の称号を許されたのではないでしょうか。
  ここで私はしばしば長次郎工房という表現をしましたが、古い記録に長次郎工房などという現代的な表現が記されているわけではありません。
 しかし多くの人々は工房という言葉を用いたことによって、長次郎というやきものの性格をすでに了解して下さっているでしょう。すなわち長次郎の工房には、後に宗入が書きとどめた文書によれば(初代長次郎が天正十七年(1589)に歿する以前からそうであったか否かは判然としませんが)、天正から慶長・元和にかけて少なくとも五、六人の人たちが茶碗作りに従事し、それらの人々によって作られた茶碗が今焼と呼ばれ、さらにその後長次郎焼として伝えられたことは明らかであり、長次郎について語るには長次郎工房、あるいは長次郎焼と表現するほうが妥当なように思ったからです。
  また長次郎作として伝えられた茶碗にはかなり作振りの違うものがあって、果たしてそれらが一人の作者によって作られたものであろうかという疑問は、少なくとも二、三十碗の作品を細かく見た人ならば必ず抱くに違いなく、そうした作振りの違いについてはすでに知られていますので、いまでは長次郎の茶碗が一人の作と思っている人はほとんどいないでありましょう。そして多くの人々にとっては、目前の茶碗が長次郎の茶碗としてどのようなレベルのものであろうかということにより深い関心があるのではないでしょうか。
  長次郎の茶碗といっても、本当に長次郎が作った茶碗は数少ないものらしいという疑いをもったのはいまに始まったことではなく、すでに享保頃(江戸中期)に不審を抱いた人がいました。それは大阪の豪商鴻池家の先祖であった山中道億(1655-1736)で、彼が親交のあった住友吉左衛門友昌に宛てた手紙に長次郎の茶碗についての記述が再三あり、まことに興味深いのでその一部を意釈すると。
  「本長次郎(本当の長次郎すなわち初代長次郎を指すのでしょうが、本当に優れた茶碗という意もあろう=筆者)の茶碗というものは七つか八つしかないもののようで、多くの人々が長次郎と極め書しているものは皆光悦です。光悦は名人で、その次は光瑳作といわれています。そしてそれらを宗旦までが長二郎と極め書しています」といい、また別の一通では。
  「本当の長次郎はめったにないものです。私は数年京都で、方々にある良いという茶碗をすべて一見しましたが、取り違いが多いようでした」と述べ、さらに宗旦があまりにもいろいろの作品に7様に「長次郎」と書付していることから、ついには、 「宗且翁は不目利でずいぶん取り違えをしています」と宗旦の鑑識を厳しく非難しています。道億には長次郎工房の作などという気のきいた解釈はできなかったようであり、また滑稽ですの]i長次郎でないと思ったものを光悦または光瑳(光悦の嗣子)の作と見ていることで、これは道億が光悦茶碗の実体をまったく知らなかったことを物語っています。私は宗旦やその周辺の人々が長次郎と書付した茶碗をかなり見てきましたが、なかに光悦作といえるものはまったくなく、やはりそのほとんどは常慶以前の初期の楽茶碗すなわち長次郎工房の作品と推測されるものばかりでした。しかし本長次郎として納得のゆく作品は七つ八つとしているのはさすがで、数多くの作品を見たからこそそのような結論に達し得たのであり、今日でも初代長次郎の作というものは厳密には判然としませんが、しかし誰もがさすが長次郎と深い感銘を抱く茶碗は数少なく、利休と関係があったという伝えの茶碗のなかでも、古格のある本長次郎といわせるほどの名碗は少ないです。
  山中道億は利休の孫千宗旦のことを「宗旦翁不目利にて取違の事大分御座候」と責めていますが、確かに宗且は長次郎に関しては後世の人々に責められて当然の行ないをしている。というのは、利休が切腹をしたとき孫の宗旦はすでにかぞえ年十四歳であり、彼が松屋久重を京都の屋敷に招き「シュ楽黒茶ワン」を使って茶会をした慶長十三年(1608)には三十一歳になっていました。また利休好みの「宗易形」の茶碗が世に出た天正十四年(1586)頃すでに九歳であり、利休の側近くに幼少の頃からいたならば、彼こそ天正年間後期以後の千家とそめ周辺の出来事を目のあたりにした人であり、利休以来千家と密接な関係にあった長次郎工房の内情も詳細に知っていた唯一の証人たり得る人でした。だが彼はいままでに判明しているかぎりでは、かなり筆まめな人であったのに自分の家の過去の出来事も、長次郎工房のことについての記録もまったく書き残さなかったようであり、長次郎の茶碗についてもただ「長次郎 赤茶碗」(太郎坊)、「長次郎あか茶碗」(二郎坊)、「長次郎焼 茶碗」(俊寛)、あるいはただ単に茶碗の銘と自分の花押を箱の蓋裏に書付しているのみで、作者について手がかりになるようなことは一切したためていません。彼の十四歳から五十歳ぐらいの間は、周辺には目まぐるしいほど次々と大きな出来事が起り、長次郎の工房も吉左衛門常慶が家長として確立するまでにさまざまの曲折があったことは確かで、宗旦はそのすべてを知っていたにもかかわらず何も語らなかったのであり、息子の江岑宗左、仙叟宗室、一翁宗守等も長次郎工房の作品と作者との関係についてその実体を語る手がかりとなるものは何も書き残しませんでした。彼等千家の人の間で、初代長次郎から吉左衛門常慶に至る間の作品は「長次郎」または「長次郎焼」と極め書することと了解されていたのでしょうが、何か肺に落ちないものが残るのです。
  しかし慶長十三年(1608)に宗旦の茶会に招かれた松屋久重が、そこで使われた長次郎工房の茶碗を、従来のように「今焼茶碗」と記さずに「シュ(聚=筆者)楽黒茶ワン」とその茶会記に書きとめたことは、それが長次郎工房と密接な関係にあった千宗旦の茶会に使われた茶碗であっただけに何かを暗示しているようで、おそらくこの頃から長次郎の工房の作品を「聚楽焼」すなわち「楽焼」という呼称で世間の人々に認識させようとする必然性が起こったのかもしれず、この年より三年前に、後にその霊前に吉左衛門常慶が白楽の香炉を献じた徳川秀忠が二代将軍になっており、常慶常用の「楽」字の印が秀忠よりの拝領ではなかったかと推測されているのとあわせて、慶長年間の豊臣から徳川への政権交替期は、千家や楽家にとってはなかなか難しい時期であったように推測されるのです。
  今日なお一般には、楽焼の系図は初代長次郎、二代常慶、三代道入ノンコウとして流布していますが、楽家に伝わった宗入筆録の次の三通の古文書により、一入以前の家系について新しい事実が判明しました。文書は楽家の系譜とその間の消息を伝えた『覚』一通と、それに従った『楽焼系図』一通、さらに法名を年次順に記したらしい『覚』一通の計三通で、それは次のような文面です。
 覚
一、あめや女方 ひくに也
一、長次郎但し戊辰年迄二百年計成
長次郎かためにしうと
庄左衛門但宗味とも申候
  辰年迄二
      七拾年
但此宗味の孫そうりん寺二有
又たいかう様よりはいりやう之楽之
判そうりん寺二有
一、宗花(慶)悴吉左衛門と申候
            吉左衛門
但与次とも申候但かい名浄花(慶)
と申候浄花(慶)と庄左衛門きやうたい
にて御座候名日廿九臼
一、吉兵衛  かい名道入廿三日
吉左衛門親
外二道楽とて有此印ハ楽
之印ひたりしにて御座候
元禄元年
戊辰極月十七日書之

楽焼系図
一、元祖飴也(註1)
一、あめや 比丘尼あめや悴
一、比丘尼但あめや妻 長次郎辰の年まで百年二成
  従是   但長次郎しうと
通り名吉左衛門 庄左衛門吉左衛門 庄左衛門法名宗味也
戊辰年七十年
     東山
但宗味孫子素林寺二有候
太閤様より拝領の印
即素林寺二有候
   宗桂悴
吉左衛門  但此吉左衛門印暖簾
      頂戴但此吉左衛門を
      与次と申候
      法名浄花(慶)と申候
      前ノ庄左衛門とハ兄弟也 両人之中に此印判有
      但此吉左衛門兄
 舅
吉左衛門是を吉兵衛と申候法名道入
此時宗旦の花入ニのんかうと云銘有是以此
吉左衛門のんかうと云七
吉左衛門 此前名左兵衛ト云 後法体名一入卜云八
吉左衛門  右之外二道楽とて有り此印判左字二押申候
      註1 別筆で書してある。
       註2 比丘尼を消してある。
       註3 桂の字を消し、慶をその右脇に書きそえてある。
       註4 此吉左衛門兄を消してある。
       註5 この下に略字の舅という字が書されている。
 


一、あめや 紹味
一、ひくに 妙咸
一、長次郎 宗入
一、宗慶  七日
一、長祐  廿九日
一、常慶  五月二十四日
一、妙常  二月二拾三日
一、道入  一、妙春   六月二拾三日
一、常祐   廿九日
一、妙入
一、男四人玄得
了沢
空真
宗蓮
(以下略)
 以上の文書が宗入筆であることは、「覚」の末尾に「元禄元年 吉左衛門 戊辰極月十七日書之」とあり、一入のことを「吉左衛門親」と記していることで明らかです。しかも元禄元年(1688)には一入はまだ剃髪せずに吉左衛門を名のっていましたので、一入のことは「吉左衛門親」としか記されていないのです。したがって、この文書は、宗入がやがて吉左衛門を名のることを想定して「吉左衛門」と記入したものであったと考えられます。ところが「楽焼系図」になりますと、すでに一入は「後法体名一入ト云」と記されていますので、一入が剃髪した元禄四年(1691)より後に宗入によって記されたものです。したがって系図は『覚』をもとにして記されたものであることは明らかで、大略は変わらないが少し詳しくなっています。何故に元禄元年(1688)に一入と宗入によってこのような文書が記されたかは判然としませんが、おそらく一入の庶子一元(後に玉水焼を興した)と養子宗入との間での家督争いに起因しているのではないかと推測されます。
  この文書によって、従来まったく記録の上からは抹消されていた宗慶が、庄左衛門宗味と吉左衛門常慶の父であったこと、宗味も吉左衛門を名のったことがあり、彼と吉左衛門常慶が兄弟であったことが明らかになりました。しかも宗味の娘が長次郎の妻であったこともわかりました。そしてさらに梅沢記念館に蔵されている「三彩獅子香炉」の腹部に「とし六十 田中天下一宗慶(花押)文禄三年(四年)九月吉日」の彫銘があって、それが系図の宗慶の作であることが判然とし、さらに表千家伝来の長谷川等伯筆と伝えられる利休の画像の賛に、大徳寺の春屋宗園が「常随 信男宗慶照之請賛」と記しており、宗慶がいつも利休に随っていた人物であること、そして彼の需めによって賛をしたためたことを記していますので、宗慶が楽家の系譜にとってまことに重要な人物であったことも判明したのです。
  以上のように常慶以前の楽家の系譜が判明したことはまことに画期的ではありましたが、その家系の上で一つの問題が蔵されていました。すなわち、『覚』は宗味の娘が長次郎の妻であったと伝えていますが、文禄四年(1595)に六十歳であった宗慶の孫娘が天正十七年(1589)に歿した長次郎の妻であったとするところで、その年齢差は決してありえないことではないがいささか不自然であることから、あるいは長次郎に初代と二代があったのではないかという推定がなされたのです。しかも法名を列記した『覚』のなかに、長次郎・宗慶・宗味の間に「長祐」という人物が記入されていて、あるいはこの長祐こそ、宗味の女婿にあたる人物で、それはもしかすると二代目の長次郎ではなかったかと推測されるのであり、その長祐は早世したため『楽焼系図』には記入されていませんが、過去帳の『覚』に法名が誌されたものと考えられます。しかし楽家では長次郎二代説をとらず、いつ頃からか長祐を初代長次郎の法名としてきたのですが、その解釈は便宜的なものであったように思われます。
  以上のように、常慶以前の楽焼には、二代目長次郎やその妻であった宗味の娘も作陶したとすれば、六人の人々が茶碗などを作っていたことになり、それはまさに長次郎工房であったといえます。ところが、こうした楽家の消息をすべて知っていたと思われる千宗旦が、その箱書などにも、また手紙でもその間の情況にはいっさいふれず、また江岑や仙叟も箱書には単に「長次郎」または「長次郎焼」と書しているのみです。楽家とはあれほど密接であった宗旦やその子供たちが、常慶以前の楽焼をすべて「長次郎」としているのはおそらく単なる無頓着ではなく、なんらかの理由があってのことであったのでしょう。
  それはまた後世京都所司代に差し出した楽焼の系図を長次郎・常慶・道入としてしまうことと無関係とはいえないようであり、おそらく慶長年間に楽家を取りまく社会情勢に大きな変動があって、宗慶や宗味を系図の上から後退させざるを得ない現象が起きたものと推測されるのです。そして『宗入文書』にふたたぴ目を移しますと、庄左衛門宗味のところに「但宗味孫子素林寺二有候 太閤様より拝領の印 即素林寺二有候」と記されていることが注目されます。文禄四年(1595)には「天下一宗慶」として香炉を作り、利休画像の賛を春屋和尚に依頼したりして、おそらく工房の中心人物であった宗慶とその長男である宗味が系図の上から消えていった原因を暗示しているようです。すなわち宗味の孫子という、楽家としては嫡出の系統が家業を捨てて、太閤拝領の金印を持って寺に入ったということ、そして後にその先祖の宗味や宗慶が系図から消されるのは、あるいは豊臣家と徳川家との政権交替が反映していると見るのはうがち過ぎるでしょうか。豊公存命中に天下一を許されて活躍した人々が消えていったのは、楽家存立のために図られた悲しい運命であったように思われます。そして、通り名の吉左衛門を名のっていた宗味に替わって弟の常慶が吉左衛門を襲名して表面に出、おそらく本阿弥光悦や古田織部などの取りなしで慶長年間中期ごろに徳川家に近づき、楽字の印と暖簾を拝領するようになり、後に秀忠の墓所に常慶作と推測される香炉が置かれるほどになったのでした。しかし、宗味の孫子が素林寺にあることをしたためていることから推しますと、一入・宗入の代まで双方の往来があったのではないでしょうか。
  長次郎から常慶に至るその工房の楽茶碗は、俗に聚楽土と呼ばれている赤土を黒・赤茶碗ともに用いていますが、黒にはやや荒い土、赤には細かい漉土を使っています。黒は1.100度以上の火度で焼くので高い耐火度を要求されるからです。黒楽釉には加茂川石と呼ばれる天然の褐鉄鉱が用いられ、釉が溶けたころを見はからって窯中から鉄鋏で引き出しますと、外気の中で急に冷えて黒い釉膚になるのであり、美濃の瀬戸黒などと同様の技法です。また長次郎工房の黒茶碗には、俗にかせ膚といって、黒褐色の釉膚に焼き上がったものが多いですが、それは釉薬の調合と窯の火度によるものらしく、後に道入・光悦時代には改良されて漆黒の釉になっています。赤楽は聚楽土の上に透明性の白釉をかけたもので、初期のものは火度が低かったのか釉調が不安定でかせたものが多いですが、常慶時代には厚くかかりよく溶けた赤楽が焼かれ、その釉が光悦の赤楽にも用いられているようです。さらに志野の影響を受けた白楽も常慶の得意とした釉であったようで、楽家ではそれを香炉釉と呼びならわしたのでした。
  また長次郎と伝えられた黒茶碗の一部には、宗慶作の「三彩獅子香炉」に捺された楽字印と同じ印が捺され、また常慶作の茶碗や香炉の一部にその印とは別の楽字印が捺されていて、それは常慶印として伝えられています。おそらく前者が宗味の孫子が保持した太閤印にあたり、常慶印は徳川家から拝領のものであったのでしょう。