織部とは其の壱 名称

織部 角形 鉢 166

 織部焼という呼称は、今さら言うまでもなく、千利休の歿後天下第一の茶人として活躍した古田織部重然に因んでのもので、古田織部の好みという言い伝えによっています。
しかし、織部焼と古田織部とが実際にどのようなつながりを持ち、彼が作風を指導したとすれば如何ように行なわれたものか、その間の消息を伝える確かな資料は今までのところ見聞していません。
古田織部が茶人として活躍したのは、天正年間後期から元和元年(1615)に歿するまでがおよそ三十年間であったが、当時の主要な茶会記に織部焼という言葉は見あたらないので、おそらく江戸時代に入ってから織部殿のお好みという伝えによって、次第に人々の間に広まっていったものと思われます。
江戸時代のいつ頃から織部と称されるようになったかも判然としないが、延宝元年(1673)に歿した片桐石州が「おりへ(べ)」と箱書付した香合、また「織部焼 手鉢 貞享伍年戊辰九月」(貞享伍年は1688年)の書付のある箱に収まった手鉢などが残っているので、その頃にはすでに織部焼という呼称は数寄者の間で一般的になっていたことがうかがわれます。

織部とは其の弐 生い立ち

織部 大徳利 031

 桃山時代後期から江戸初期にかけて、古田織部好みの茶陶は、美濃だけではなく、伊賀や信楽、備前、唐津などでも焼かれていたのに、美濃のやきもののみが織部と呼ばれるようになった由来も判然としないが、おそらく美濃の窯場とは特に密接な関係があったことを人々が知っていたからと思われます。
すでに述べたように、古田織部がいつ頃からどのような形で美濃の窯場で好みの作品を焼かせるようになったかは判然としません。
古田織部が茶の世界に登場するようになるのは天正十年(1582)頃からでありますが、茶人としての活躍は、従五位下織部助に任ぜられたと推測され、山城国西岡の城主となった天正十三年頃からではないかと思われます。
桃山の主要な茶会記によると、会主として初めて登場するのもこの年の二月十三日で(『津田宗及茶之湯日記』)、この茶会に「セト茶碗 セト水指」などを用いていますが、この場合の瀬戸とは美濃のことであり、おそらく千利休などとともに、美濃の窯と関係が深まってゆくのもこの頃からではないでしょうか。
しかも桃山の茶会記を通読すると、天正十四年頃から「セト」のものが急激に使われるようになってくるが、茶の世界の注文が急増したことを物語り、その先途として千利休や古田織部が好みを示して焼かせたのではないでしょうか。
しかし古田織部が時代の好みに大きな影響を与えるようになるのは、慶長年間(1596~1615)に入ってからであったと思われます。もちろんそれとても確かな資料があっての推測ではありません。
しかし後世織部焼と呼ばれた茶陶のほとんどは慶長年間に入ってからの作であり、織部好みを象徴する沓形茶碗も、慶長年間に入ってから流行するようになったことは、古窯趾から出土する陶片や茶会記の上からも明らかであります。
織部好みの沓形茶碗を語る時必ず引用されるのが、慶長四年二月二十八日に古田織部が自会に用いた茶碗で、招かれた神谷宗湛は『宗湛日記』に次のように記しています。
「セト茶碗ヒツミ候ヘウケモノ也」。
歪みのあるひょうげものの茶碗、志野か織部黒か黒織部であったかは判然としないが、歪んだ茶碗でひょうげたものということは、その後に元屋敷などの窯で量産される沓茶碗を連想させるのであります。
宗湛がことさらに「ヘウケモノ也」と印象を記しているのは、あるいはそうしたものの初見であったからかもしれず、その茶碗を古田織部が用いているのは興味深い。
そして古田織部が歿した元和元年に著わされた『草人木』 に「茶碗八年々瀬戸よりのぼりたる今焼のひつミたる也」と記されているほどに流行したのでありますが、確かに古窯趾出土の陶片からもその情況を推察することができるのであり、そして後世の人々は、それらの作品を織部好みとみなしたのでありました。
しかし古田織部がどのような形で好みの作品を製作過程に乗せたかはわかりません。

織部とは其の参 様式

織部 菊文 茶碗 001

 慶長から元和にかけて美濃の窯で焼造された織部焼は莫大なものであり、種類もここに図示したように織部黒、黒織部、織部など、花入、茶人、香合、茶碗、燭台、大小の皿、鉢、向付など、器形、文様といこまことに多種多様で、到底一個人の好みとしてとらえられるような性質のものではありません。
集団的な陶工群によって、産業的な基盤の上で生産されたものであります。
しかし、表現の上ではさまざまに変化してはいますが、一つの共通性を持っています。
黒織部と織部は黒釉と緑釉という違いはありますが、釉をかけ分けて空間に絵文様をあらわすという文様構成は共通しています。
一地方の窯場全体が、共通したテーマによって製作しているところに特色がある。
このような現象は、おそらく有力な窯大将が作風を統制していたからであり、その窯大将が需要者の注文を受けていたのでしょうが、その需要者側の頂点には古田織部が存在していたものと推測される。
いわば織部好みというテーマがあり、そのテーマに因って個々の陶工がそれぞれに工夫して作陶したのでしょう。
古田織部が好んだ個性的な様式を、集団的な陶工群が受けて生産したのが織部焼であったといえるのではないでしょうか。
したがって一つの作品に古田織部個人の好みを見出すことは不可能であり、後世、あえてその様式に名を与えるならば、総括して織部焼と称する他はなかったでしょう。

織部とは其の四 作風

黒織部 葦鶴文 沓茶碗 002

 古田織部が美濃の窯場と関係を持つようになったのは天正年間後期ではなかったかと推測される。
したがってその頃に焼造されていた志野、黄瀬戸、瀬戸黒にも彼はその好みを示し得たはずであります。
彼の好みを象徴するものが、作為を強調したーゆがみーにあったとするならば、志野の上にもそれを認めることができ, 事実瀬戸黒にゆがみの加わった織部黒には、志野と同じ窯で焼かれているものがあり、そこに示された作為も同様のものであります。
しかし一般に織部と呼ばれているものは、穴窯で焼かれた志野や黄瀬戸、瀬戸黒にかわって、唐津風の連房式登窯が、久尻の窯大将加藤景延によって元屋敷の地に築窯されてから焼造されたものが圧倒的に多い。
茶人古田織部の全盛期にあたる時期に、そうした転換が窯場でも行なわれ、窯の形式の変化が志野、黄瀬戸にかわって青い織部の生産を促したのでありますが、新しく茶会に登場してきた青い釉のかかったやきものが極めて目に鮮かであったため、古田緻部の好みによって行なわれたという印象を強く与えたのではないでしょうか。
登窯は穴窯に比べるとはるかに大きく、一度に多量の作品が作れるので、都会には急激にいわゆる織部焼が充満じたことでしょう。
そして明かるく変化に富んだ装飾的な作風は、時代の人々に大いに好まれ、二、三十年間大いに焼造されたのでありました。

織部とは其の五 種類

織部 亀甲繋文 水注 030

 織都黒 作品のほとんどは茶碗であり、黒釉を施した無文の茶碗で,瀬戸黒に歪みを加え、沓形に作られたものが多い。
なかには黒釉の上に長石釉をかけたものもある。
稀に茶入を見る。
黒織都 織部黒に文様を加え、より強く装飾性の加わったもの。
これも主として茶碗が多い。
黒釉を一部かけはずして白く抜き、そこに鉄絵具で文様を描き、上に長石土灰釉をかけ、黒釉の上には長石釉をかけた二重がけのものが多い。
そのほとんどは、多く登窯で焼かれた。
織都(青織都)一般にいう織部は、白い胎土に鉄絵具で文様を描き、上に土灰を含んだ長石釉をかけ、さらに要所に銅を含んだ緑釉を施したやきものをさしています。
作品は多種多様で、窯により作調は異なる。
手鉢、叢物、皿、向付、徳利、香炉、香合などが最も多く伝世しています。
元屋敷の作品が優れています。
鳴海織部 いわゆる織部のなかでも、白土と赤土と継ぎ合わせて成形し、白土の上には緑釉、赤土の上には白泥や鉄絵具の線描きで文様を描いて長石土灰釉をかけたものを俗に鳴海織部と呼んでいます。
手鉢、角鉢などに多く、轆轤びきされた沓茶碗や瓶形の水指も作っています。
鮮やかな緑釉と、淡い赤色の対象が美しい。
鳴海織部の語源は詳らかではないが、あるいは鳴海絞りと色調が似ていることによったものかもしれありません。
赤織都織部の一手で、赤土を用いて成形し、白泥と鉄絵具の線描きで文様を施し、一部に緑釉をかけたものであります。
向付、香合、茶碗などに多い。
総織都器全体に緑釉をかけたものをいう。
釉下には線刻や印花によって文様が施され、なかには釉を白くかけはずして文様をあらわしたものも見られます。
皿、鉢、香炉、香合、猪口が焼造されていますが、茶碗はほとんど作られていません。
志野織都志野と同じ技法で作られていますが、登窯による量産態勢に入ってからのもので、穴窯の志野のような柔らかい質感と雅味がなく, 釉がよく溶けて膚に赤みがありません。
鉢や向付などに多く見られます。
享保年間Kはすでに「シノオリベ」と称されていた。
唐津織都 元屋敷や高根などで唐津と似かよったものぷ焼かれています。
それを唐津風の織部焼という意味から唐津織部と呼んでいますが、作品は極めて少くありません。
美濃伊賀伊賀焼と似た作振りのものが美濃の元屋敷や大平の窯などで焼かれていますが、それを美濃伊賀と呼んでいます。
器表の一部に白濁色の長石釉をかけたり、一部に鉄釉を点ずるなど、かなり細かい技法を示しています。

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