備前とは其の四 地理

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鶴田 純久
備前 耳付 扁壺 019

 ところで備前焼は、鎌倉時代には熊山の山頂付近で、室町時代に入ると伊部付近の山ふところに穴窯を築いて焼成していましたが、室町後期から共同の大窯を築いて量産体制に入っていきました。すなわち西大窯(伊部の西、医王山の東山麓)、北大窯(伊部の北、不老山の南山麓)、南大窯(伊部の南、柩原山の北山麓)を築き、陶工たちは三つの大きな集団をなして、座を組織して経営にあたったものと推測されています。その窯大将として、備前では古来窯元六姓の称があり、木村、森、頓宮、寺見、大饗、金重などの名が伝わり、その共同窯の組織は明治維新まで続きました。共同窯になりますと、各々その作品を区別する必要から窯印を彫りつけるようになりましたが、窯印には、美濃にも見られたように陶工の手印だけではなく、注文主の印もつけられているのではないかと推測されます。また、窯印は個人作家の記号もありましょうが、大部分のものは家号に代わるものであったのか、同一の窯印を代々使用している例が多く、同じ窯印のものでも製作年代にかなり差異があるようであります。桂又三郎氏によると、昭和二十六年に南大窯跡が発掘されたとき、江戸時代の大窯跡の右手にあらわれた桃山時代の窯は長さ31.6メートル強、幅2.3メートル、傾配1メートルにつき0.66メートルないし0.858メートルでありました。そして、出土した陶片から推測しますと、室町末期から江戸初期にかけて窯の煙をあげていたらしく、ここから出土した陶片の窯印を調べた結果は、彫印85種、押印36種であったといいます。これによってもわかるように、桃山時代の窯のなかでは、備前焼が窯印の種類が最も多く、他に南大窯と同様の窯が非と西にあったといいますから、その経営の盛大なさまは他の窯では見られないものであったといえます。

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