唐津焼とは其の四 桃山後期から江戸前期にかけて

鶴田 純久
鶴田 純久

唐津焼とは其の四 桃山後期から江戸前期にかけて

 桃山後期から江戸前期にかけての唐津焼の発展は美濃陶芸と同じく侘茶の盛行にともなって刺激された国産陶芸に対する需要の高まりが、その量産に拍車をかけた結果によると思われます。その機運をもたらしたのが文禄・慶長役で、文禄元年の豊臣秀吉の名護屋城滞陣に際して、前述の古田織部重然の滞在が、彼の新作茶陶に対する意欲の激しさから推して、唐津における茶陶焼造にかなり大きな影響を与えたことは十分に察知しうるのである。しかも、岸岳城主波多三河守親が文禄二年に改易滅亡した後、唐津藩主となったのが寺沢志摩守広高であったことも、美濃や備前で焼造されていたようないわゆる織部好みの茶陶を量産させる上で大きな働きがあったと考えられます。寺沢志摩守は美濃の出身で、利休門下の一人であり古田織部とは同門ともいえる人でした。しかも、天正十九年秋から名護屋城の普請奉行をつとめたあげくの唐津藩主ですから、すでに一般に認識されつつあった唐津焼の育成と発展に意を注いだものと思われます。いわゆる織部好みの作陶は美濃の窯で最も顕著でしたが、唐津焼が他の信楽・伊賀・備前などの焼締陶と異なって美濃と同じ施釉陶であり、鉄絵具による下絵付を装飾技法としていたことから、おのずから美濃の志野や織部と似た作風のものが焼かれる条件下にありました。
 文禄以前にすでに開窯されていた岸岳諸窯では、一部の例外を除いては、茶陶は焼造されず、ほとんどが日用雑器であると推定されていますが、ここでは、あるいは天正年間には茶湯の茶碗が焼かれていたのではないかと思われます。というのは、波多氏ら松浦党の領袖たちが、十五世紀から十六世紀にかけて、朝鮮との間に歳遣船貿易を行っていたことは明らかです。十六世紀の中葉頃から、堺や京都の町衆たちの間での侘茶に高麗茶碗が用いられるようになり、しだいに賞翫を高めつつありましたが、その高麗茶碗が朝鮮との交易によって請来されたものでしたからには、おそらく波多氏といえども高麗茶碗の声価の高まりは知っていたでしょうし、あるいは彼ら自身、高麗茶碗をわが国に運んでいたかもしれません。したがって、もし岸岳古窯が十六世紀の中葉にすでに開かれていたとすれば、高麗茶碗風のものはすでに唐津で焼かれ出していたと考えられます。というよりも、朝鮮から渡来した陶工が従事している唐津の窯ほど、高麗茶碗の倣造に適した窯は他になく、そういう面からの唐津焼に対する認識は、天正年間後期にはすでにあったのではないでしょうか。そして文禄・慶長役後、織部好みの陶器が焼造される一方で、井戸や熊川と似た、いわゆる奥高麗または類似した形式の茶碗が大いに焼造されたことは、今日伝世する数多くの茶碗によってうかがわれるのです。

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水の浸透実験

土がどのように焼締まっているか(土の成分のガラス化)を目に見える実験をしてみました。10分程度の動画ですが、10分たっても水玉はなくなりませんでした。土の中に水は浸透せず、土自体がガラス化して焼締まっているということです

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