加藤春光 かとうしゅんこう

marusankakusikaku
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鶴田 純久

1881年(明治一四)12月今の愛知県瀬戸市南本町の窯家に生まれた。
高等小学校卒業後東京芝区(港区)の白金中学に一年間在学。
十八歳の時家を無断で出て、横浜商業学校教師のオ一ストリア人パクストン家のボ一イとなり英語を学ぼうとしましたが、半年後家に知られて呼び戻されました。
のち名古屋市東片端(東区)のメソジスト教会宣教師ウインビッシュ女史について英語を学んでいます。
ドイツ語・スペイン語・ロシア語は独学。
明治の瀬戸地方には珍しく外国語に通じていましたので、西洋の原書によって窯業上の諸改革を行なりましました。
その中でも石炭窯の改良・実用化と踏み琥櫨の改良、特に成型鋳込に珪酸ソ一ダを使用することを原書によって知りこれを実用化した功績は大きいです。
これは日本陶器合名会社がアメリカから鋳込の技術を取り入れて実用化する数年以前のことであります。
この鋳込の技術は同地の加藤仲次郎に伝えられ、これがさらに山城柳平に伝わり、瀬戸が今日ノベルティの輸出生産技術において他の陶業地を抜きんじて盛大を極めている基礎を築いました。
彼は輸出生産工場を拡大して当時瀬戸第一の大工場としましたが、あまりに学者的で先が見透されて、ついに永続しませんでした。
晩年東春日井郡守山町(名古屋市守山区)に隠栖閑居して彼独特の学を楽しんです。
1958年(昭和三三)5月没、七十七歳。

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