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鶴田 純久の章 お話

大名物
所蔵:藤田美術館
高さ:6.3~6.6cm
口径:13.8~14.0cm
高台外径:5.7cm
同高さ:0.8cm

 献織伝来も古く、世にととやの本歌とされている茶碗ですが、普通いうととやとは、ことに作ふうにおいて、大いにさまを異にしています。戸田露吟もこれについて『雪間草』の中で、「世上に唱ふる斗々屋といふと更に違ひだるもの、古高麗にて今云ふとゝやより上手にて、時代違ひ古き故又結構なり」と述べているのは、首肯されるもっともな意見です。露吟は古高麗という語で、時代の古さだけでなく作ふうの違い、いわゆるととやの作意的なのに対して、朝鮮本来のうぶな趣を示唆したものと解されますが、まさにこの利休ととやはそういった作ふうの、紹鴎、利休伝来の由緒にふさわしい、大らかな静けさをたたえたすぐれた名碗です。これにまつわる逸話として『宗友記』に、「(佐久間)将監殿申され候は、日本国の茶碗を集め候ても片手にも足り不申と誉られ候、喜多見久左物語」と伝えているのは、必ずしも過褒とは思われません。紹鴎、利休時代のうぶな高麗茶碗に対する好みの、まざまざとしのばれる茶碗です。
 ところで世上いうところのととや、ことに本手ととやの類は、明らかに形物茶碗とみるべきもので、御本手の一種、いわば遠州御本ともいうべきものですが、利休ととやとこれらの関係は、どう見るべきものでしょうか。上元禄七年編の一般手引書たる『見知紗』には、まだととや(平)の名は見えず、その代わりに古称のざらめきがあがっているのは、ととや{手}の称がすでにあったにしても、まだ世上にはよく知れわたっていなかった事情によるものと思われますが、これはおそらく(利休)ととやは当初、堺の茶人魚屋所持によって名づけられた、特定の茶碗として一部に知られていたものが(万治三年刊『玩貨名物記』には、遠州所持として「とゝや」の名が見えますが、これは利休ととやである}、のちに何らかの事情でざらめき手と相関されて、これにととやの称が代わって使われるようになったものではないでしょうか。利休ととやは、『遠州蔵帳』では茶碗の部の筆頭にあがり、小堀家として第一の秘蔵茶碗とされていました。小堀家極秘の口伝によれば、大阪陣の当時にはこの茶碗は、紹鴎、利休を経て織部の所持になっていましたが、大阪落城の前夜、織部は遠州の陣所を訪ねて、自分の形見として長く秘蔵してほしいですと、この茶碗を袋ごと贈った由緒ある一碗とて、格別に秘蔵され、遠州も世をはばかって、ただ「とゝや」どだけ書き付けましたが、まことこれは、茶道における相伝の神器ともいうべき重宝でした。ざらめきからととやへの名の推移については、右の由緒が大いにからむのではないかと想像されます。遠州の「とゝや」書き付けはこの一碗のみで、江戸ととやの旧箱には、遠州書ぎ付けで「高麗はだか手茶碗」とあったが(はだか手の語は時に散見する)、そうすれば遠州時代には利休ととや以外には、まだととやの名は使われていなかったとみてよいでしょう。
 利休ととやは薄手のおとなしい作りで、淡茶色の細かな素地に半透明の釉が薄くかかり、釉膚は淡椎色を呈し、正面には白い釉むらやなたかが景をなし、いったいに生焼けぎみに加寸ています。高台は土見で片薄、内はゆ&く丸削りで脇取り高台ぎわをえぐって竹の節になり、畳つきは二~三ヵ所欠けています。見込みは広くゆったりして段がつき、茶だまりには目跡が四つあります。総体、穏やかな作柄でい無味のごとく尽きせぬ味わいがあります。
(満岡忠成)

利休ととや りきゅうととや

利休ととや りきゅうととや
利休ととや りきゅうととや

大名物。朝鮮茶碗、魚屋の本歌。
千利休所持。
ととは魚の俗語でととやは魚屋のこと。
また斗々屋とも書きます。
『従好録』に「世にととやといふ陶器あり或時魚屋の店に伏せあるを利休見出し秘蔵して遺ふ云々」、『宗友記』に「ととや此茶碗利休所持、根元魚屋より求め候に付ととやと称せられ候由」とあります。
すなわち利休が魚屋の棚に伏せてあったこの茶碗を発見してからこの手の茶碗をととやというようになりました。
ただし異説もあります。
『茶碗目利書』に「堺にととやと云ふ町人所持、宗甫初一覧所望有レ之、世上にてととやと云ふ」、『茶器便覧』に「ととやは渡唐屋と書くよし、堺の町人入唐して持来るによりて渡唐屋茶碗といふ形始る、堺の町人市兵衛と云ふ者なり」、『閑窓雑記』に「ととやは泉南の港斗々屋何某方へ着船の船に積来りて其名があるべし」というような諸説があります。
この茶碗は薄づくりで口縁は端反り、外部の轆轤目が段をなして巡っている中に刷毛のようなこまかな筋があります。
腰廻りは切り箆で面を取り、高台は竹の節で大きく頑丈なつくりで、その縁は片薄で、一部に釉が掛かり一部は鼠色の土を見せ、底の中央が少し高く、その廻りは凹んでいます。
底縁に土の欠け落ちたところが六ヵ所あるようで、高台の廻りは半面に釉が掛かり半面に土を見せて、このあたりの作行は最も特色がありすぐれています。
総体の淡紅色の上に白釉が口縁より斜めに裾までなだれ掛かったところがあるようで、また叢雲のようにむらむらと全体に散乱して景色を成すところがあるようで、口縁より裾に達する竪樋二本があるほか、内部の口縁には小さい繕いが数ヵ所あるようで、また小さい浸み模様もあるようで、見込みの鏡落ちは極めて大きく、これにかけて一部鼠色の浸みがあります。
見込み一面に浅い轆轤目が巡り、中央は片凹みで巴状を成し、また白釉が見込みにかけて掛かっているところがあるようで、そのほか雪輪のような小さい白釉のぬけがところどころに散乱しておもしろい景色を成しています。
魚屋茶碗のうちでもこのような作行および釉味のあるものは、他にほとんど比類を見ないようです。
古来大茶人の間で珍重されたのもけっして偶然ではないようです。
初め利休が堺の魚屋でこの茶碗を見出し秘蔵したが、のちこれを古田織部に与えました。
織部は文禄・慶長の朝鮮の役に従う前にこれを売却したが、それを小堀遠州が購求し、織部は朝鮮の役から帰陣してのち遠州の茶会に赴き、前に残しておいた袋を出して遠州に与えたといいます。
大阪落城の前夜織部が袋と共に宗甫に送ったとの記事は後人の付会説であるでしょう。
久しく小堀家に伝え明治初年渡辺騏の所有となり、1904年(明治三七)大阪藤田平太郎家に入ってす。
現在は藤田美術館蔵。
(『古名物記』『玩貨名物記』『名物記』『古今名物類聚』『桜山一有筆記』『従好記』『宗友記』『閑居偶筆』『雪間草』『茶碗目利書』『閑窓雑記』『茶器便覧』『名物茶碗集』『大正名器鑑』)

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