伊賀 iga 解説

伊賀とは

 桃山初期以前の伊賀焼きは、信楽とはほとんど類似しがたいように思われる。しかし桃山時代以後に焼かれた純然とした茶陶伊賀は、その頃の信楽とはかなり作風が異なる。それらは三重県阿山郡阿山町大字槇山小字門出の槇山窯、同町の丸柱窯、さらに伊賀上野城内にあった窯で焼かれたと推定され、その間の消息を藤堂元甫の『三国地誌』(宝暦十三年刊)は次のように述べています。
姿器、丸柱村製、按ズルニ伊賀焼ト云是ナリ。古へ本邑ト槇山村ヨリ出ヅ。茶壷、水指、茶人、茶碗、花瓶、酒瓶ノ類ナリ。茶道ヲ嗜ム者愛翫ス。又棋山釜ト称スル者アリ。又山道手ト云モノアリ。筒井定次ノ時焼、又アシタ焼ト云モノアリ。是等ヲ皆古伊賀卜称ス。大抵江州信楽焼二類ス。云々
 これによると、伊賀焼は主として丸柱で焼造され、筒井定次の時代には槇山窯でも焼かれ、さらにアシタ焼と称されるものもあって、これらをみな古伊賀と称すと記し。藤堂時代に主体をなしたのは丸柱窯で、筒井時代は槇山窯であったようにも読めるが、筒井氏が行なったと推測される伊賀上野城内の古窯については記していないのは、おそらく城内の古窯跡は宝暦年間(1751-64)にはすでに地下に埋没していて記録もなく、藤堂元甫の時代には判然としていなかったのでしょう。
 いまも述べたように、同地誌に「筒井定次ノ時焼」と記されていますが、純然とした花入や水指など茶陶伊賀焼は、その作風から推して天正十三年(1585)に筒井順慶の子定次が伊賀の領主となった後に焼かれるようになったと思われ、室町時代に古信楽と似たアシタ焼と称された古格の壷などがそれ以前に焼かれていたのでしょう。そして確かなことはわからないが、おそらく当初は槙山窯で主として焼造され、その後定次の居城であった伊賀上野城内にも窯が築かれて、焼造されたのでしょう。そして筒井定次が慶長十三年(1608)六月に改易されるまでの二十四年間、ことに天正末期から文禄、慶長にかけて茶陶伊賀焼の多くが槇山・城内さらに丸柱で焼造されたと推測されるのであります。
 その間に千利休や古田織部が作陶に関係をもち、ことに古田織部と密接なつながりがあったことは、大野主馬に宛てた織部の消息(藤堂家伝来の伊賀水指「破袋」に添えられていた織部の手紙で、かねて約束の伊賀水指をさし上げるが、ひびわれがあるのは堪忍なさいという内容)によって明らかであります。さらに古田織部の茶会記によれば、慶長六年(1601)から八年にいたる間に七回使用している伊賀焼の水指や花人は、年代的にもすべて筒井伊賀であったといえる。上野城内古窯跡は昭和十乍力水道工事に際し、陶片や窯道具が出土して窯跡であることが明べかと々り、矢筈日水指、重餅形水指、花人などが出土したが、おそらく純然とした茶器焼造を目的とした藩主の御l庭焼であった推測される。槇山窯跡を発見したのは上野巾在住の故菊山当年胡氏で、そこからも山路文様の箆目のある矢筈[I水指や耳付花人の陶片が出十。している、作風から推して、両者とも天正後期以後のものと思われる。
 筒井定次改易後、伊賀一国と伊勢八郡の領主となったのは藤堂高虎でありました。居城を津におき、伊賀上野城も改修したと伝えられます。
私は上野城内の古窯跡は筒井時代のものと推測していますが、藤堂時代とする説もあります。しかし筒井氏は改易後断絶しているので記録が残されていないのは止むを得ないが、藤堂氏にはなんらかの記録があってしかるべきであるのに、その消息は全く不詳であり、作風からは筒井時代と見るほうが妥当なように思われる。城内の窯だけではなく、高虎在世の慶長十三年(1608)から寛永七年(1630)にいたる間の伊賀焼そのものの消息は判然としていません。元和九年(1623)銘の沓茶碗が現存していますので、高虎在世中に丸柱で茶陶が焼かれていたことは確かであるが、しかしそれはすでに灰釉を施柚した沓形茶碗であるので、やはり筒井氏改易以後、高虎時代に古伊賀と同類のものを焼造しつつ、作風が変化していったと考えるほうが妥当でしょう。高虎と古田織部は因縁浅からぬものがあったのか、元和元年(1615)に織部が幕府から切腹を命じられたときに、高虎は命:こよって京都堀川三条南の織部邸に赴いて茶器一切を没収し、のちにその邸宅を彼自身が譲り受けているし、さらにそれを女婿の小堀遠州に与えていますので、織部・遠州に近い存在であったことを思うと、いっそうその感が深まる。
 以上のように、高虎時代の記録は全く残つていないが、二代藩主高次時代の伊賀焼については、藤堂家に残る古文書によって明確に伝えられています。すなわち、「大通院(高次)様御代、寛永十二年乙亥の春、伊州丸柱村の水指、御物好にて焼せられ、京三条の陶工、孫兵衛、伝蔵、両人雇ひ呼寄、所の者火加減を習ひ候由、其節凡百三十三出来して東府へ送る由、右の者永蔵の古書の内に之れ在り、また「翌寛永十三子年正月、大通院様伊州へ御越し遊され候節、右丸柱村の焼物の仕様御遊覧され候儀、之れ有り。此一条は加納義左衛門、延堂の由緒書に之れ在り」(いずれも喜田村道蔵の書より。川崎克著「伊賀及信楽」による)とあり、興味深いのは京都の陶工孫兵衛、伝蔵を招いて焼造させたことで、当然その作風は、京焼風の作為が加わったものと考えられ、遠州好みと推測されている水指や、それに類する作振りのものが、高次時代の作風の一端を示すものかもしれないが、これもまたその全貌はつかめません。しかし時代の好みを考察すれば、慶長以前の古伊賀とはかなり異なったものであったことは確かでしょう。この間、丸柱では茶陶のみを焼造していたとは考えられず、やはり”三国地誌”に″……先君大通廟(高次)ノ時、命ジテ水指ヲ造ラシム。其製閑雅+ルヲ以テ。柳営ノ御物トナル。自余皆君家ノ宝庫二蔵ム。是ヲ御家竃トモ、亦千人徳利トモ云フ」とあって、藩の御刷品を御家窯として一般製品と区別したものと考えられます。
 この高次時代以後の藤堂伊賀が、いつ頃まで続いたかは判然としないが、藤堂家に伝わる同じく喜田村道蔵の記録に、「寛文九巳西年七月十二日、伊賀国丸柱白土山、右上包に、御武具方よりの書付と之れ有り、御状拝見致し候処、丸柱古窯の土を以て水指等御焼かせ遊ばされ、御蔵に右の土をも御貯蔵成され候て。右の山、留山に仰付けられ候」とあって、寛文九年(1669)以前に留山となったことが記されています。さらに土佐の国尾戸焼の陶工森田久右衛門が諸国の窯場を巡遊して記した記録中に、延宝六年(1678)九月信楽の地を訪れた際、同地方長野の庄屋善右兵衛から「丸柱と申所にてやき申由、四十ヶ年以前迄やき申候、此頃はやき不申由」と聞いたことを書きとめていますので、丸柱の窯は寛永十五年(1638)頃に終わっていたかのように推測されるが、御留山になった正確な年代は判然としません。
 以上、現存する作品や断片的な資料によって、桃山を中心とする伊賀焼について述べたが、現存する作品を通覧すると、作振りや土の焼締り状態から三種に類別することができるようであり、また信楽と共通の三郷山の木節だちの陶土を使ったと思われるものが、桃山期の様式を持つ作品のなかにもあり、すべてが桃山の伊賀の特色とされる白土山系の土を用いて作られたものでなかったことがうかがわれる。作風の上でも微妙な変化がうかがわれるが、それが時代差によるものか、槇山窯と丸柱窯との違いなのか判然としません。しかし私は、桃山様式の力強い作振りの花入や水指の多くは、筒井時代といえる天正年間後期の天正十三年(1585)から慶長後期の慶長十三年(1608)の間に焼かれたものではないかと考えています。

 天正年間後期から江戸時代初期にかけて焼造された伊賀焼の主体をなしたものは花入で、それらは桃山時代の茶陶のなかでも重要な作品の一つであり、おそらく茶陶として焼かれた花入のなかでもっとも傑出したものでしょう。草の小座敷に用いたとき、他にない荘重な雰囲気がかもし出されることから、今日でも数奇者の間での声価は極めて高い。基本的な作為は共通していますが、一作一作それぞれに異なった作振りで、一つとして同形のものはなく、そうしたところに伊賀焼の性格の一端がうかがわれる。すなわち量産品ではなく、特別注文品として、純然とした茶陶を焼造すべく生産されていたことを物語るものではないだろうか。しかも窯中で徹底して焼きかためたその意欲は、他の窯ではなし得なかったところであり、そこに藩主の御用窯的な性格がうかがわれるのであります。
 伊賀焼の花入が茶会記に初めて登場するのは慶長七年(1602)正月九日で、古田織部の自会記に記されています。しかし「南方録」巻七の「滅後之巻」に「伊賀焼ノ置花入二 水仙ノ初咲ヲ入タル斗ニテ云々」と、武野紹鴎を招いての茶会に、千利休が伊賀焼の花入を用いたことが記されています。とすれば紹鴎の歿した弘治元年(1555)以前のことになるが、「南方録」は第一資料としては認め難いものであり、他の主要な茶会記にはまったく伊賀焼花入の記載がうかがわれないので、初咲の水仙を挿した伊賀花入という情景は美しいが、その記述をそのまま認めるわけにはいかません。とすれば。慶長七年正月九日に古田織部が用いた「伊賀三角筒花入」がもっとも早い記録であります。慶長七年といえば筒井定次(順慶の子)が伊賀の領主であった時代で、その頃すでに織部が伊賀焼と関係して、三角という作為的な花入を作らせていたかとも推測される。しかし筒井定次は天正十三年(1585)に領主になっていますので、天正年間にすでに茶陶伊賀焼の焼造が始まっていたと考えられ、それを裏付けるように天正十九年(1591)に歿した千利休が所持した花入が伝わっています。その器形は、織部好みと伝えられている一連の花入のように作為的ではなく単純な筒形で、あるいは利休好みかと推察させる形姿であり、ここに図示した作品に類例を求めると、織部所持と伝える「生爪」、「羅生門」のような器形であります。「生爪」は古田織部が所持していたことから、これまで一般に織部好みと推測されていますが、古田織部がこの花入を人に譲るにあたって「花筒つめをはかし候やうに存候」と言って惜しんでいるのは、あるいは利休伝来であったからではなかったかとも思われる。そして私は、この種の器形は桃山の伊賀花入としては初期的な作風のものと推考していますが、それについてはさらに今後の考究を待つことにしたい。

 しかし、現存する作品の多くは慶長年間に入ってから焼造されたように思われ。「古織茶会記」に伊賀焼の花入や水指が記されるようになった慶長六、七年頃が盛期であったように思われる。茶人としての古田織部重然の最盛期にあたり、織部好みの歪みの強い沓茶碗が美濃で焼かれるようになるのも慶長四、五年頃からであったように推測され、伊賀の花入や水指と風格の似かよっている備前のそれらも、この頃から大いに焼かれるようになったのではないだろうか。
 豪快な作振りの伊賀焼は、花入がもっとも多く現存していますが、それは製品の主体がそこに置かれていたことを示しています。たしかに、激しく自然釉の降りかかった伊賀焼にもっともふさわしい器が花入と水指であることは、俺びの茶室でそれらを使ったものならば理解しているところでしょう。
 水指も花入とともに伊賀焼を代表する器であります。やはり天正年間後期から文禄、慶長、さらに元和、寛永時代にかけて焼造されたようで、その器形も、いわゆる織部好みのものが多いようです。水指も作風は一つの共通性を示し、袋形、瓢形、重餅形を基準として、それぞれに変化を持たせています。しかし藤堂氏が領主となってからは、ことに江戸時代初期には、遠州好み風のものを焼造するようになり、前期の織部好み風のものと比べるとかなり変化しています。だが藤堂領下になっても、慶長年間には織部風のものを継続して焼造していたと考えられ、筒井伊賀と藤堂伊賀という呼称はあるが、その判然とした区別は今日では困難であります。

 さらに天正年間以前の伊賀焼の壷は信楽とほとんど変わらない作品が焼かれていたようで、伊賀焼と信楽焼との判断は極めてむずかしい。しかし天正後期からは。伊賀で厚手の独特の作振りのものを焼くようになったらしく、信楽とは違った作行きの壷がかなり残っています。おそらく茶壷として焼造されたのではないかと考えられます。
 花入、水指、壷に比して茶入や香合、茶碗、鉢の遺品は少なく、また作振りも前者より魅力に乏しいようであります。なかでは伽藍石形香合が数奇者の間で著名であるが、それも作振りの優れたものは少ません。また沓形の茶碗や鉢も珍重されるが、これとても花入や水指と比べて、それほど魅力のあるものではません。沓形茶碗に元和九年銘のものが出ていますので、江戸時代初期に流行したものでしょう。
 伊賀と同様の作振りのものが、美濃の元屋敷などの窯で焼かれていますが、いわゆる美濃伊賀と称されるものであります。美濃も伊賀も織部好みの茶陶を焼いた窯として代表的な窯であるから、同様の作振りのものが両者で焼かれていることは不思議ではません。しかし美濃伊賀は登窯で焼かれているために、害窯の伊賀焼のような豪快な釉景色に乏しく、やはり美濃ものらしくおもしろく釉がけをしていますが、焼締めの膚に長石釉や鉄釉を流しがけしているのが特色であります。

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