茶碗 解説 日本 JAPAN 壱

長次郎・道入・光悦・唐津・萩・高取・薩摩・信楽・朝日・仁清・乾山

長次郎

桃山時代は、わが陶芸史の上でも、大きな変革を示した時期でした。瀬戸地方に従来の伝統とは全く異なった、「志野」や「織部」などの窯芸が生まれ、九州に唐津陶が新しく興ったことなどがその例にあげられます。楽焼きもまた、当代に始まった新興窯芸ですが、のちのわが窯芸全般に与えた影響が大きな点で、特筆されてよいです。
 この楽焼きについて、従来は長次郎によって始められ、ついで常慶・道入と受け継がれて展開したと説かれていました。が、近年公表された楽家伝来の古文書や、新しく発見された陶芸品などから研究が進められた結果、これまでの通説には、いろいろな誤りがあることが知らされました。
 この楽焼きの家元である楽家の古文書は、これまでの同家の系譜では、四代に当たる宗入の自筆であって、元禄元年十二月十七日の奥書きを伴っていますが、それによると、宗慶と呼ぶ人物が、長次郎と並んで大きくクローズアップされます。
 覚
一 あめや女方 ひくに也
一 長次郎 但戊辰年辿二百年計成
一 長次郎かためしうと
  四庄左衛門但宗味とも申候 辰年迪二七拾年
  但此宗昧孫そう力ん寺二有
  又です.いかう様よりぱいりやう之
  楽之判そうりん寺二有
一 宗花伜吉左衛門と申候
          吉左衛門
  但与次とも申候但かい名浄花
  と申候浄花と庄左衛門きやうたい
  にて御座候名日廿九日
一 吉兵衛かい名道入廿三日
一 吉左衛門親
  外二道楽とて有此印ハ楽
  之印ひたりじにて御座候
    元禄元年吉左衛門
    戊辰極月十七日書之

  楽焼系図
一 元祖飴也
一 あめや(比丘尼)あめや伜
一 比丘尼但あめや妻 長次郎 辰の年まで百年二成
  従是 但長次郎しうと
  通り名吉左衛門 庄左衛門 庄左衛門法名宗昧也
                  戊辰年七十年
                  但宗味孫子素林寺二有候
                  太閤様より拝領の印
                  即素林寺二有候
  宗桂〔慶〕伜
  五吉左衛門 但此吉左衛門印暖簾
  頂戴但此吉左衛門を
  与次と申候
  法名浄花と申候
  前ノ庄左衛門とハ兄弟也 両人の中に此印判有
  但〔此吉左衛門兄〕
  舅
  吉左衛門 是を吉兵衛と申候法名道入
        此時宗旦の花入干のんかうと云銘有是以此
        吉左衛門のんかうと云
  吉左衛門 此前名左兵衛ト云 後法体名一人ト云
  吉左衛門 右之外二道楽とて有り此印判左字二押申候
以上が、三通ある「宗入文書」の中の二通の大略であって、系図の宗桂が宗慶であることは、桂の字を抹消して、慶としていることからわかります。
 この宗慶は、表千家に伝わった長谷川等伯が描いたといわれる、利休肖像画の上にある賛の中の、宗慶と同じ人物であるとされています。賛の筆者は、大徳寺の第百十一世を継いだ春屋宗園であって、「利休常随の信男宗慶」の委嘱で、文禄第四乙未歳舎季穐念四日に、筆をとったとしるしています。
 さらに宗慶の名がみられる例に、黄・緑釉で色どった向獅子形の楽焼き香炉があって、その腹部に「とし六十天下一田中宗慶(花押)文禄二年九月吉日」と彫りしるされています。この年紀が、前記の利休の画像のそれと、年も月も同じであること、及び姓が利休と同じ田中姓であることから、この香炉と画像とは深いつながりがあると想像され、あるいは利休の供養のときに用いられる目的で、作られたものであろうともいわれています。
 これらの資料から、長次郎時代の楽焼きの系列を組み立てますと、つぎのようになることが認められています。
長次郎─────────長二郎
│ 長二郎妻
宗慶──庄左衛門宗昧──娘
└吉左衛門常慶──吉兵衛道入
└道楽
このように、長次郎の直系は次代に絶えますが、宗慶の系統が続きますので、楽焼きは宗慶の子孫によって展開したことがわかるとともに、いま長次郎といわれている茶碗には、初代・二代長次郎と宗慶や宗昧・常慶などの作が含まれていることが、この系列から容易に想像され、したがって、長次郎焼は、それらの汎称であるといえます。
 さて、この初代長次郎の作例として認められる楽焼きに、鈍い黄釉が淡くかかった獅子像があります。この獅子が逆立ちしたような形から、屋根の下り棟を飾る、留蓋瓦の模型であったろうといわれますが、気宇の壮大な作調に非凡な造形力がうかがえます。腹部に「天正二春 依命 長次良造之」とあって、その製作期を明示していますが、このような留蓋瓦の模型があることから、長次郎はもとは瓦焼きに関係のある工人であったろうと、推定されて長次郎は帰化人「あめや」の子であったといわれますが、その故国は中国であるとも、朝鮮であるともいわれて、一定していません。楽家に深い関係があったと思われる、本阿弥光悦の行状記には、唐人であるとしていますが、この獅子形瓦に施された釉薬が、いわゆる鉛釉であって、しかも黄色であることは、長次郎の故国が中国であったと説く、光悦の説を裏書きしているといえましょう。
 朝鮮で鉛質の着彩釉が使われたのは、新羅時代から高麗期の早いころまでであって、桃山時代に相当する李朝期には、用いられませんでした。しかも釉色は、銅質の緑一色に限られていました。中国でも古く漢時代から、鉛釉が使われているとともに、その流れは、絶えずに近世の清朝まで続きました。この清朝の鉛釉陶器が、いわゆる交趾焼であって、釉色は韓国とちがい、黄かっ色、紫色などが緑とともに使われています。周知のように、楽焼きは黒、赤の二色が大部分ですが、赤楽釉は交趾焼の黄色と同質であって、したがって、楽焼きの源は、中国にあったと考えられるとともに、その最も初歩的な釉彩を行った例が、前記の留蓋瓦の模型にみられるのは、長次郎が中国系の人であったことを、暗示しているといえましょう。
 さて、この留蓋瓦に刻記された天正二年は、織田信長が、安土に築城を完成した二年前になります。『信長公記』には、この築城用の屋根瓦の作製は、唐人一観に監督させたとあります。長次郎の国籍が一観と同じであったことや、職業が瓦工であったことなどが、安土築城を機に、一観との結び付きとなり、この留蓋瓦の製作となったような想像も生まれます。
 長次郎によって代表される、初期楽焼きの遺例には、前記の獅子形の留蓋瓦や香炉のほか、聞香に用いられる焚き穀入れ、皿などもありますが、例ばまれであって、茶碗が大多数を占めています。
 それらは「今焼茶碗」「黒焼茶碗」「黒茶碗」、あるいは「焼茶碗」などと称えられていましたが、これらがすべて楽茶碗であったとはいえません。松屋久政の茶会記をみますと、天正十六年九月十四日には「今ヤキ茶碗」があり、同十八日には「今焼黒茶碗」、十月十六日には「焼茶碗」、十一月十四日には「クロヤキ茶碗」と載せ、また「島スシ黒茶碗」の呼称が、『南方録』に散見されます。このように、わずかしか隔たらない日の茶会に使われた茶碗を、こうした異なった名であげていることは、それらが同一のものでなかったとも考えられます。しかし「焼茶碗」以外の大部分は、楽焼きであったとみて大きなあやまちはありますまい。
 この「今焼茶碗」の名は、『松屋会記』には天正十四年の終わりごろにみられ、天正十六年の中ごろまでの間にしばしば現われ、「今焼クロ茶碗」は、同年の九月になって初めて載せられています。楽茶碗には、周知のように赤と黒がありますが、この『松屋会記』に初めて現われた今焼茶碗が、赤・黒のどちらであったかは、記録には示されていません。しかし『津田宗及日記』には、天正九年二月一日を初見にして、同十一年までの間に十数回「赤茶碗」の名が留められ、また今井宗久の日記には、天正十一年に「茶碗木守」が載せられています。最も古い楽焼きの例である前記の留蓋瓦の釉が、赤系であることを考えますと、この天正九年からあらわれた赤茶碗は、今焼の楽茶碗であったろうと推定されます。したがって、赤楽茶碗は黒に先行して生まれたといえましょう。
 この赤茶碗は。宗及と特に親しかったと思われる利休や山上宗二、万代屋宗安などを呼んだ会に、はじめは使われています。また、天正十年十一月二十五日、大徳寺の春屋宗園を招いた宗及の会では、主客の宗園には灰被天目を用いていますが、相伴の人たちには赤茶碗と撒茶碗で喫茶させています。このような使用例から推測しますと、赤茶碗は格式ばった会に使うことは少なかったといえます。天正十八年九月十日、聚楽第で行われた利休の茶会に招かれた神谷宗湛が、「黒キニ茶タテ候事 上様御キライ候ホドニ……」と利休が述べたことを、『宗湛日記』に載せています。秀吉は派手好みでしたから、それを見習って、当時の茶会は、はなやかであった、と光悦はいっています。したがって、天正九年すでに始まった派手な赤茶碗は、その後の茶会に多くみられねばなりません。が、その例がきわめてまれにしかみられないのは、赤茶碗が、茶の用にふさわしい出来ばえでなかったためであったろう。
 しかし、赤茶碗には、蒲生氏郷と細川忠興が、奪い合ったとの伝えがある、「早舟」銘のような、すぐれた茶碗も生まれています。大和大納言秀長にあてだ利休の書状中に、「御茶碗二ヶ唯今出来候 又あかく御座候を可仕候や申付候…」と問い合わせている例や、利休門下の七哲の一人、瀬田掃部に「…赤茶碗之事長次二内々焼せ申候者殊二見事候也特進之候…」と消息しているのをみますと、当時の著名な数寄者の間に、赤茶碗への関心は相当に深かったことが推測されます。会記に黒茶碗が多く登場しているのは、佗びを旨とした「茶」が、黒を好んだことにもよるでしょうが、また赤茶碗の焼成が未熟なため、茶に適した佳品が得られなかった結果とも考えられます。
 天正期の茶人として知られる山上宗二は、「惣而茶碗は唐茶碗スタリ当世は高麗茶碗瀬戸茶碗今焼ノ茶碗迪也…」と、天正十六年ごろの茶碗の好みをあげています。当時高麗茶碗と呼んだものには、井戸茶碗をはじめとして、「平タキ高麗茶碗」「白キ高麗茶碗」「黒キ高麗茶碗」「今高麗茶碗」などがあげられます。この「白キ」「黒キ」「今」と呼んだ高麗茶碗についてはつまびらかでありませんが、井戸茶碗は現在に伝わったものが多いですので、はっきりしています。また「平タキ高麗茶碗」も、おおよその形を想定することが可能です。今焼の茶碗に、この当時流行した高麗茶碗の姿なり、釉色なりが、模されたであろうとの想像は、ぎわめて容易であって、「勾当」や「道成寺」銘の赤茶碗は、それに相当するものであろうと考えられます。
 また『松屋会記』には、天正十四年十月十三日の、中坊源吾~奈良の代官井上高清~が設けた朝の茶事に使われた茶碗が、「宗易形の茶碗」でしたと、しるされています。
 長次郎と呼ばれる楽茶碗は、前に述べたように、数人の人たちによって作られているとともに、その一人である宗慶が、利休と特別な関係にあったことは、利休は己れの好む形の茶碗、あるいは他所から依頼された茶碗の焼成を、長次郎一族に注文したでしょう。この宗易好みはつまびらかでありませんが、それがわずかにうかがえる例に、
此暁三人御出きとくにて候 とかく思案候二 色々申被下候而も不聞候 我等物を切々大黒を紹安にとらせ可申候 はや舟をハ松賀嶋殿へ参度候 又々とかく越中サマ御心へ行候ハてハいやに存候 此理を古織と御談合候て 今日中に御済み候(有)へく候 明日松殿御(ハ)下向致(にて)候 何にても早舟事ぞうさなく候いても むつかしく候(て)越中殿へ無(も)心申候て 右如申候 はや舟をハ飛もて(ハし)参候 大くろを紹安に可致(被)遣候事 御(乍)迷惑其分ニすまし可申候 以上かしく 十九日
両三人まいります
とある、早舟に付属した利休の書簡です。
 この「早舟」と「大黒」銘の茶碗は、右の書簡の文意から、利休が最も愛惜した茶碗であったことが汲みとられますので、利休好みの形であり、釉色であったと思われます。したがって、この早舟に似た作調を示す「東陽坊」「あやめ」「無一物」「木守」などが、利休好みの一つの型であったといえます。また「大黒」に近い作ふうの茶碗である「北野」「黒茶碗」「太郎坊」「二郎坊」も、利休好みの、いわゆる宗易形茶碗であったといえます。
 このほか、異色な利休好みであった例に、「ムキ栗」と命名された茶碗があげられます。この枡形の茶碗は、利休が愛用したと伝える古浄味作の、四方釜の姿を倣ったのだろうといわれますが、他に類例を知らない、利休好みとしては唯一の形です。

道入

 「長次郎」によって代表される初期の楽焼茶碗は、素朴な姿の、いわゆる侘びた趣に富んだものです。が、江戸初期の楽茶碗になりますと、この内包的な美しさといえる佗びの影は薄らいで、はなやかさが著しいものとなり、美しさを外表に示すようになりました。したがって、この期の楽茶碗を代表する道入の作品は、長次郎焼の茶碗の作調とは、すこぶる対照的であるといえます。
 道入は、本阿弥光悦が、「今の吉兵衛は至て楽の妙手なり、……後代吉兵衛が作は重宝すべし……」と褒めているように、楽家各代の中では、最も上手であったとされている吉左衛門常慶の男であって、明暦二年二月二十三日、五十八歳で没したといわれます。この享年を八十三歳との異説もありますが、祖父の年齢を考えますと、この説は妥当性が薄いです。楽家の系譜によると、道入が三代にあげられていますが、楽焼きが始まってからの系統を、長次郎~二代長二郎~宗昧~宗慶とたどりますと、五代になります。『万宝全書』が、道入を五代としているのは、このような楽焼史の上からでしょう。
 道入が活躍した時期とみられる、元和末から正保ごろへかけての、京都の陶芸界は、軟質の陶器の焼成が主であったらしく、その窯地に、八坂や粟田口、押小路などがあげられています。
 鹿苑寺の鳳林和尚~寛文八年八月二十八日没、七十六歳~の日記の、正保元年の項に、河内国の代官北条久太夫の家老、舟越外記が離京するに際し、藤実形の香合一個を賤けしていることが載せられていますが、この香合は、八坂の焼き物師清兵衛が焼いた、青・紫二色が入りまじったものであると述べています。また、そのころ鳳林は、彼のところへしばしば出入りしている道具商、大平五兵衛の案内で、八坂にあった清兵衛の工房を訪ね、茶入れをはじめ、香炉や香合を轆轤(ろくろ)作りする様子を見学したの反清兵衛から「今焼」の青堀鉢の寄贈を受以ています。この例から、そのころの京都の焼き物は、八坂でも焼成されていたことが知られるとともに、清兵衛窯の作品で藤実形香合の釉彩が、交趾陶に近いものであったことが想像されますので、鳳林に贈った青釉鉢も、清兵衛の窯で焼いた、軟質のものではなかったかと、一応、考えられますが、それを特に「今焼」と注していることは、注意がひかれましょう。また、正保五年の正月に、賀詞を述べに鳳林を訪問した、前出の大平五兵衛が、八坂焼の五徳形蓋置とともに贈った、梅絵鉢も「今焼」ですと、蓋置と区別しています。このような例から、鳳林に贈与された青釉鉢や梅絵鉢は、清兵衛窯で焼かれたものではなく、そのころ「今焼」と呼ばれていた、楽焼きであったろうと推定されます。
 なお、寛永十四年の松屋久重の茶会記には、「シュラク焼の赤茶碗」とみられますので、一部の人々の間では、楽焼きを聚楽焼とも称えたようです。が、一般に楽焼きは、「今焼」の名で親しまれていました。
 長次郎焼には、利休の指導が大きいといわれるのと同じように、道入も千宗旦から指導を受けたらしいです。が、道入の作品には、いわゆる宗易形といわれるような、姿についての言葉は用いられていませんでした。道入の異名を「ノンコウ」と呼ぶことは、よく知られています。
 この異名の由来は、千宗旦が、伊勢鈴鹿郡神辺村野尻~いまの亀山市布気町野尻~の能古茶屋に遊んだとき、二重切りの竹花いけを作り、これに「ノンコウ」と土地名を付して、道入に贈りました。その後、宗旦が道入を訪れたとき、「ノンコウの所へ行く」といったことが、「ノンコウ」の道入の異名になりましたと、小田栄作氏が説いています。この伝えがあることからも、道入は宗旦の恩顧を受けていたことが、察せられます。また「鳳林」と名づけられた、道入作の赤茶碗 ─千家の重宝であったといわれ、のち出雲松江藩松平家に伝来した─ は、当時の公家社会の、数寄者の一方の雄であった、鹿苑寺鳳林和尚に、宗旦の口添えで贈られていることも、宗旦と道入の関係を、裏書きしているといえましょう。この鳳林和尚と宗旦とは、宗旦が、鳳林から金子を借りている例からみて、きわめて親しい間柄でしたが、また、宗旦が借銭をしていることは、宗旦の経済が、豊かでなかったことをうかがえます。したがって、道入への宗旦の援助も、経済的には大きくなかったでしょう。光悦が、「名人はとかく貧なるものぞかし」と述べているのは、この間の事情の、一端を示しているといえます。
 道入は、また光悦からも、多く指導されています。道入の異名「ノンコウ」は、本来の意味は、木の芽生えの厳木のことであって、裏日本で用いられていた古語の、なまった言葉ですので、道入を可愛がった光悦が、いい始めたという菊岡氏の説があるのも、光悦と道入の親密な関係からでしょう。
 さて、光悦が、「……われらは吉兵衛に薬などの伝も譲り得て慰に焼くことなり……」といっていることからも察せられるように、道入と光悦の茶碗には、似たところが多いです。特にそれの著しいのは、釉色に、すこぶる艶があることでしょう。この原因は、そのころになって、楽家の窯の構造が変わり、非常に高い火力が、使われるようになったためであると説かれています。光悦茶碗に、窯割れが多いのもそのためといわれます。しかし道入の茶碗には窯割れはみられません。これは、胎土の練りの精粗の違いから生まれた、いわば玄人と素人との作陶の相違を示していると考えられます。一方、そのような、いわば焼き損じとみられる茶碗を、玄人である道入が、世に出すことは、許されなかったであろうとも思われます。道入の遺例に、窯割れのある茶碗がみられないのは、そうしたことが原因していましょう。
 道入の茶碗にも、長次郎や光悦のそれと同じように、七個の名碗があげられ、ノンコウ七種といわれています。それらには「升」「千鳥」「稲妻」「獅子」銘の黒茶碗と、「鳳林」「若山」「鶴」と名づけられた赤茶碗が、あげられています。この中には、「升」銘の茶碗のように、それまでの楽茶碗にはみられなかった、胴部が撫で角状になる、異色な形のものもありますが、一般の姿は、割合に温和であって、後世の楽茶碗のような、奇矯に過ぎたものはみられません。したがって、光悦茶碗の姿に比べますと、自由さや奔放さが乏しい感があります。これもまた窯割れと同じように、玄人の茶碗作りとしての、立場上からであったろう。が、胎作りが薄く、胴の曲面に緊張感がみなぎり、また内面が広間な、いわゆる、ふところの広い作りなどに、道入の非凡な造形力がうかがえます。
 このように道入の茶碗は、造形上では、光悦茶碗のような変化はみられませんが、釉彩では光悦のそれより、すこぶる多様になっています。その一つに、口端から胴側へとかかった釉調が、垂れ幕状になったいわゆる幕釉の使用があげられます。この釉調は、道入以前の楽茶碗にみられない、技法の現われで、道入の新発明といえます。また、光沢のある黒釉の中に、諸色が点在する朱釉も、道入茶碗からであり、さらに黒釉の釉表が、玉虫の羽のような光を放つのも、道入茶碗からであって、したがって、これらの朱釉や玉虫光沢もまた、道入の新しい発見といえます。なお、この玉虫羽に似た光沢は、幕釉と同じように、釉層が厚いために現れるといいます。さらにまた、道入茶碗で特筆されるのは、ノンコウ七種の一つである、「獅子」銘の茶碗に示されたような、白釉の使用である。白釉は、「獅子」銘の茶碗のように、いわゆる片身替わり式に施されているものや、「残雪」の銘ある茶碗にみられるように、抽象的な模様になって掛かったもの、あるいは刷毛目状としたものもあります。
 前記の「今焼」茶碗に、梅の絵があるとしるされていますが、これは白絵で表わされたものでしょう。二代将軍徳川秀忠の墓所から、香道用の、あこだ形の焚き穀入れが発見されていますが、それの釉彩が白であることと、その印が常慶印であることから、楽焼きに白釉が用いられたのは、常慶のころがらでした。が、その使用は、白で器表を包むのみであって、道入茶碗にみられるような、絵模様用には使われませんでした。したがって、これもまた、道入の新着想であったといえます。これは、当時の焼き物への関心が、いわゆる絵付けものへ傾いていたことの、影響の現われとも考えられましょう。なお、道入茶碗には、釉表が素地土のように、ざらざらした粗い趣のある、いわゆる砂ぐすりをかけた新機軸のものもあります。
 印銘は、「楽」の字の、「糸」の間にはさまれた「白」が「自」になった、いわゆる自楽印を、茶碗の高台裏に、謹厳に押しているのが例です。が、「三光」銘の黒茶碗のように、胴と腰との境辺に押して、印を一種の装飾としたような、異例もあります。この「白」が「自」になる書体の印は、宗慶・常慶・九代了人の作品にも使われているが、道入のそれは、左の「糸」が、「ノム」となっているような、違いがみられます。道入に「ノンコウ」の異名があるのは、この「ノム」からと、古くはいわれていました。

光悦

 桃山期の初め、長次郎によって創まった楽焼きは、二代目長二郎の妻の生家であった田中宗慶の子孫が継承して、茶器の焼成をもっぱらとしました。一方、茶の盛行に伴い、玉水弥兵衛のような楽家に血縁ある人や、また楽家にゆかりのない人々が、生業あるいは余技に楽焼きの焼成を多く試みました。その結果、楽家の製を本窯、それ以外の製を、脇窯と唱えて区別するようになりました。この数多い脇窯の中で、刀剣の研磨を家職とした、本阿弥光悦が作った楽茶碗は、早くから世上に喧伝されて、評価が高かったです。
 光悦は後水尾院、松花堂昭乗とともに、寛永の三筆と謳われた書道の名手でした。ある人が寛永三筆の筆頭は、と光悦に尋ねたとき、「まず……」と指を屈して、己れをあげたという伝えがあるように、書には自信があったようですが、また「陶器を作る事は、余は惺々翁(松花堂)にまされり……」と述べているのをみますと、楽焼き作りにも誇りが高かったらしいです。
 光悦は、「鷹が峰のよき土を見立て、折々拵え侍る計り……」と述べていますので、隠棲地であった洛北鷹が峰の土を、主に使って焼き物を焼いたことが想像されます。が、また、「ちやわん四分ほど白土、赤土御持候ていそぎ御出可有候……」としるした、吉左衛門あての書簡もありますので、鷹が峰以外の土も用いたことが考えられます。さらに吉左衛門に、「茶碗出来候哉……」と尋ねだり、「此茶わんくすりをあわせ可給候……」と、釉がけを依頼している書簡から、胎作りは、工芸村であった鷹が峰の居宅で行ない、釉がけと焼成は、楽焼きの窯元の吉左衛門に、もっぱら委嘱していたことが推測されます。また光悦は、「今の吉兵衛は至て楽の妙手なり……」といって、楽道入を宣揚しているのをみますと、これらの消息にある、あて名の吉左衛門は、常慶であったといえましょう.
したがって、光悦と常慶とは「いそき御出可有」といえるような、きわめて親しい間柄であったことがうかがえます。常慶は寛永十二年に、光悦はそれよりおくれて十四年に死没していますので、両者の関係は、早くからであったろう。光悦は元和元年、鷹が峰を家康から賜っているように、徳川氏には親任が厚かったです。二代将軍秀忠の墓所から、常慶が作った香道具の焚き穀入れが発見されているのも、光悦を中心に徳川家、及び常慶との関係を考えますと、奇異とはいえません。
 このように、楽家の吉左衛門常慶や、吉兵衛道入の助力のもとに作られた光悦茶碗は、当時から世上の関心が深く、したがって、数寄に心をよせる権門、貴顕から、作陶が多く依頼されたらしいです。伊予松山の城主であった、加藤式部少輔明成にあてだ書簡に、「…左馬介様被仰候茶碗 大かた出来仕候間先日御上被成候…」としるしているのは、この間の消息を物語っているといえます。が、光悦は、「陶器にて名をあぐる心露いささかなし」とか、「家業体にするにはあらず」といって、高い襟度をもち、茶碗作りは、いわゆる手すさびでしたので、作られた茶碗は、数が少なかったろうと思われ、したがって、現在に伝わるものは、きわめてまれです。
 いま光悦作といわれて伝世する茶碗には、光悦の自筆と印を箱に伴う、「不二山」銘の白黒片身替わりの茶碗をはじめとして、「雨雲」「時雨」「喰違」などの黒茶碗や、「加賀」「毘沙門堂」「障子」「雪峰」銘の赤茶碗などがよく知られています。また、釉彩の異色な茶碗には、白釉の「有明」も名高いです。
 さて、これらの光悦茶碗に共通して見いだされる美しさは、筆舌のよくするところでありません。
 が、特にあげれば、気宇が広大で気品が高く、さらに実物の大きさより、大きく感ぜられる姿の凱離さ、また単純で、しかも複雑な色調などでしょう。これらの特色は、長次郎焼の茶碗にも、すでにうかがえますので、一つの時代調であったともいえます。が、長次郎焼に比べて、特にそれが顕著なのは、光悦が、資産の豊かな本阿弥家でありながら、「光悦が身上に奇特なること多けれども、学びかたきことは、二十許りより八十歳にて相果て候までは小者一人、飯たき一人にてくらし申事なり」から、うかがえるように、光悦の生活はきわめてつつましかったです。また松平信綱へ具申した意見書には、「天下の政は重箱を摺子木にて洗ひ候がよし」といって、寛容さを求めています。このような光悦の人となりが、前記のような趣となって、茶碗に現れたといえましょう。
 この光悦茶碗を作ふうの上からみますと、三様に大別できます。これは書道における、真・行・草の書法の相違にたとえられますが、「不二山」「加賀」などは「真」に入れられる類で、「時雨」「毘沙門堂」「雨雲」の類は「行」に、また「雪峰」「乙御前」などが「草」の部としてあげられます。
 この「真」の部にあげた茶碗は、胴側が切り立った岩のように直立形であって、胴と腰との境が角張って、画然と区別され、腰から高台に至る面が扁平となる作ふうです。高台はきわめて低く、かつ小型であって、しかもゆがんでいますので、不正多角形に近く、その趣は薄く輪切りにした竹輪を想わせます。このような高台つくりは、長次郎焼の茶碗には例が少ないですが、赤茶碗の「勾当」や、黒茶碗の「東陽坊」に、その片鱗がうかがえますので、光悦茶碗には、長次郎焼の影響があったことが考えられます。元禄から享保ごろの人で、茶人でもあり、鑑識家でもあった鴻池道億が、長次郎焼といわれる茶碗には、光悦や光瑳が作った茶碗が多く混じるといっているのは、このような高台つくりのふうからであったろう。
 この「真」の部類に入る「不二山」「加賀」「七里」には、箆目跡の多いことが特徴とされていますが、特に側面にそれが著しいです。このような作ふうは、長次郎焼には、全くみられませんので、光悦茶碗独特のものといえましょう。
 つぎに「行」の部類としてあげた光悦茶碗も、胴側が直立していることは、「不二山」などと同じです。が、面取り式の箆目は、ほとんどみられません。また胴から腰へ移る面が、ゆるく湾曲していますので、胴と腰との境は、はっきり区別しがたいです。この胴、腰の作ふうは、長次郎焼の「大黒」のそれによく似ていますので、「大黒」式の作ふうの、流れを汲んでいるとみてよいでしょう。この類の茶碗の、高台もまた低くて小型であり、中央に兜巾状の凸起がないことなども、「真」の茶碗の高台と同じです。さらに、中には高台と高台裏との境がなく、碁笥底に似た作調となっている、「雨雲」茶碗のような例もあります。
 つぎの「草」にあげられる類は、「雪峰」をはじめ、「乙御前」「紙屋」などの、赤茶碗にみられる作ふうです。これらは、光悦茶碗の中で最も雅趣に富む、野性みの溢れた作ふうを示したものであって、「真」の類を、衿をつけて威儀を整えた姿とすれば、これは浴衣でくつろいだ形といえます。したがって、この類の茶碗の姿には、親近な趣が深いといえます。
 「乙御前」の高台が腰の面より低いため、一見高台がないような、いわゆる突き上げ底になった作りに、その感が強いです。また楽茶碗が、喫茶に適した特徴の一つといわれる触感も、この類の光悦茶碗が最もまさっているとされています。
 このような奇矯に近い姿は、織部陶に多くみられる形です。加藤式部少輔にあてだ光悦の書簡に、「昨日貴札拝見…御茶上度存候へ共織部殿御下定ハ無之候……」と古田織部の名がみえることや、また光悦と親しかった灰屋紹益が、「本阿弥の中の持徳斎と云しもの、若年の頃より此道にすきて見覚え、ききならはんと心をはげまし、両家(古田織部、織田有楽)之年をへて足しげく、常にあゆみをなしけるほどに、両所ともにいと心よくせられける…」としるしていることなどから、光悦は織部から茶を習ったのでしょう。したがって、このゆがんだ姿の茶碗類は、その影響から生まれたと推測されます。前に掲げた、「不二山」形茶碗の面取り式作ふうについても、「古田高麗」と呼ばれた御所丸茶碗が、織部の所有であったことを思いますと、偶然に生まれたものでなかったことが了解されます。
 さて、これらの光悦茶碗の釉色は、発色が鮮明で、艶のあることが共通しています。前に掲げたように、光悦は自作の茶碗の焼成を、吉左衛門に依頼していますので、光悦茶碗にこのような釉色のものが多いことは、楽家の楽焼き焼成法が、このころに至って、大きな変革があったと想像されます。「雨雲」や「障子」「雪峰」などの茶碗の、素地土に焼き割れが多く示されていることは、その焼成が高火度になったことを示していますが、釉色の艶もまた同じく火力が高い結果から生まれたのでしょう。
 このように光悦茶碗には、長次郎焼にみられなかった、特色を多く示していますが、その趣を約言しますと、個性的あらわれが著しいことです。前に述べたように、長次郎焼は、長次郎と宗慶一派の数人によって作られた、いわば、小さな家内工業から生まれたものでした。したがって、それらの長次郎焼には、個性が盛られていない、没個性的なものを、焼成する結果となりました。が、光悦のような芸術的才能に恵まれた人によって、楽茶碗が作られた場合、楽焼きの持つ造形上の特性が、最もよく発揮されるのは当然であって、光悦茶碗の評価が高いのは、そうした点からでしょう。
 なお、光悦茶碗は、「不二山」「乙御前」が約370グラム、「雨雲」が350グラム、「時雨」が378グラムと、375グラム前後の重さのものが多いです。この重さは、掌に載せて茶を飲む際に、重からず軽からず、といえるような目方であるように思われます。したがって、光悦が茶碗を作るに当たって、そうしたことも考慮に入れたといえるでしょう。

唐津・高取・薩摩

 九州各地の陶業は、太閤秀吉が企てた、文禄・慶長の朝鮮役に出陣した諸将が、帰国に際して同伴した、かの地の陶工により創まったことは、人によく知られています。それらには薩摩焼・上野焼・高取焼・肥後焼などもあげられますが、中でも肥前唐津地方の窯芸は、焼き物の代名詞が「からつ」と呼ばれていたように、著名でした。
 「からつ」焼の名称が記録に表われるのは、奈良の漆芸師松屋久重が、慶長八年十月、京都の千道安の茶会に招かれた際、「カラツ水指」が使われたと載せられているのを初見として、同じ十年八月にも、千道安席に「カラツ水指」「同茶ワン」が使われ、同十三年二月、千宗旦の茶会に「共フタのカラツ水指」「シュラク焼茶ワン」、同年三月、奈良称名寺の茶会に、「カラツ水指」「今ヤキ黒茶ワン」が用いられていたことを、覚え書きしています。この例から、唐津焼の名が、ようやく世上に知られるようになったのは、慶長期の中ごろであったろうと推測されます。一方、久重の茶会覚え書きは、寛永三年十二月、奥平金弥の茶会に「肥後焼茶ワン」、同七年一月の中沼左京の席に「筑前焼茶入」、同十「年三月、京都の三宅亡羊の会に、「ツルノアル小倉ヤキ水指」が用いられたことを、あげています。また寛永十四年五月に催された、京都の唐物屋道昧の茶会には、「サツマ焼肩ツキ茶入」が用いられたこともしるしています。この肥後焼は八代焼でしょうが、八代焼は寛永十年、細川忠興が肥後国八代郡高田郷の奈良木に、それまで豊前の上野焼にたずさわっていた、上野喜蔵を呼んで開窯させたと伝えますので、久重会記にある肥後焼は、八代焼の前身であったと考えられます。また筑前焼は、黒田長政が、豊前から筑前に国替えになった慶長五年ごろ、陶工八山~のちに八蔵~に命じて、鷹取山の麓に開窯させたのが始まりである、高取焼をさしています。この高取焼は、そのご内が磯(直方市)、山田(山田市上山田)、白旗山(飯塚市幸袋町)、小石原(朝倉郡)などと焼成地を移動していますが、寛永ごろは白旗山窯で焼成していたときで、したがって、久重会記に載せた茶入れも、同窯の製であったろう。とともに高取焼は、小堀遠州が選んだ、いわゆる遠州七窯の一つであることは、人によく知られていますが、この白旗山で生まれた茶入れは、内側も施釉されているような、すこぶる精巧な作調のものであったといわれ、したがって、久重がしるした茶入れも、その類であったろうと想像されます。また小倉焼は、豊前国の上野焼であったろうと考えられますが、これらの肥後焼、筑前焼、小倉焼などの、唐津焼と同じ系統の焼き物の名が、唐津焼より、二十数年遅れて現れているのをみても、唐津焼は、朝鮮系窯芸を代表していることを、示しているといえましょう。
 さて、唐津焼は、もともと当時の人々の、日常生活の容器の焼成が主でした。したがって、前記の『松屋会記』にあげられた水指や茶碗は、そのころの数寄者が、それらの雑用器の中から茶器として選び出した、いわゆる「見立てもの」であったろうと思われ、「奥高麗」「漸批り」「根抜け」と呼ばれているもののような、少しも作為のない古唐津茶碗が、その類に相当しましょう。
 また、青みをおびた黒色釉の、いわゆる黒唐津と呼ばれている茶碗に、しばしばみられるような、上辺と下辺が広く、胴側が狭くなった姿には、単に日用器として作られたものでなく、茶陶的な作為が加わっていることを思わせます。
 寛永十七年四月、京都の吉田で催された、細川三斎の茶会に招かれた松屋久重は、「肥後ヤキ茶ワン」と、「小倉ヤキ水指」が使われたことを載せるとともに、水指が「工」字形であったことを図示しています。この姿は、江戸初期の焼成といわれる伊賀焼や、備前焼の水指にもしばしばみられるように、そのころ好まれた水指の、一つの姿であったらしいです。この形が、系統上からは、唐津焼と姉妹関係にあるといえる、小倉焼に示されていることは、寛永ごろになりますと、それまで雑器を主とした唐津焼にも、茶陶ふうの窯器が、作られていたことがうかがえます。前記の黒唐津の茶碗の姿も、それの現われといえましょう。
 また、前出の細川三斎の茶会に、半開きの桔梗花形の、いわゆる割山檄と呼ばれる小鉢も図示され、それに小倉焼の注がついているのが、注目されます。この割山檄形の向付けは、唐津焼と称えて、茶家が早くから珍重していました。しかし、いま広く探求された唐津古窯跡からは、同種の陶片は全く発見されず、姉妹窯である豊前の上野窯跡に、同類が発見されていることと、久重会記に、それが小倉焼として載せているのをみますと、往時の窯地の記載は、割合に正鵠であったことが知られて、興味があります。
 さて、唐津陶に、このような茶陶ふうのものがみられることは、古田織部正重然~元和元年没、七十歳~の指導が、大きく影響していると説かれています。秀吉が、肥前名護屋に滞陣中に、室の北政所にあてだ手紙に、
一だんあたたかに候 寒中のやうにはなく 心やすく候へく候 朝夕ちやのゆにてうち暮し候 かしく 十二月廿日 大さか おねへ 大かう 返事
とあるのをみますと、秀吉は退屈をまぎらわすため、しばしば茶の湯を催していたことがうかがえます。文禄元年三月から約一年半の間、名護屋に赴いていた織部が、秀吉の茶の湯の相手を勤めたであろうと想像されますが、このようなことから、唐津陶に織部好みの姿のあるのは、彼の指導が加わったからであったろうといわれます。が、慶長元年から九年までの間に、織部が催した数度の茶会に列席した、松屋久好の覚え書きには、瀬戸の茶碗や水指、今高ライ茶碗、信楽焼水指、備前焼の水下しなどが、使われたことを載せ、唐津焼の名は、あげられていない・周知のように、織部は利休亡き後は、「当時数寄之宗匠也 幕下甚崇敬之給 諸侍志茶湯輩朝干晩有茶湯……」(『駿府記』)とあるように、茶道界のリーダー格でした。したがって、前記の小倉焼水指のような、奇矯に近い姿の唐津焼が、彼の指導で生まれていたなら、織部の茶会に、その類が使用されたであろうと思われます。が、そのような例がみられないのは、慶長ごろは、未だ織部好みの唐津陶は、焼成されていなかったのでしょう。したがって、慶長八年の茶会に、松屋久重があげた「カラツ水指」も、「見立てもの」であったろうと推測されます。つぎに唐津焼の、茶陶ふうの濃い作調を示すもので、注目されるのは、角張った姿の茶碗でしょう。この姿は、慶長ごろ、東美濃地方で焼成された瀬戸黒茶碗に似て、高台も低いです。
 さらに、それらの中には、高台が二重になった、いわゆる二重高台作りのものもあり、また白い長石釉を、厚くかけた作調など、同じ東美濃産の志野陶に、すこぶる近似しています。
 これらの点から、唐津焼は、瀬戸陶と深い連関があったことが考えられます。唐津焼の皿に、「遠公独刻蓮華漏」と、虎渓三笑の一人である恵遠が山に入って、時を計るために、蓮を十二本植え、それが水面に映る日影によって、時刻を知ったとの故事を、しるしたものがありますが、志野陶にもまた、この記事があることは、唐津、瀬戸の連関性を、示しているといえましょう。
 さて、唐津陶の窯跡は、いま百二十余力所発見されているといわれ、それらを、岸岳系・松浦系・多久系・武雄系・平戸系などに系統別しています。岸岳系には、佐賀県東松浦郡北波多村の帆柱、飯洞甕窯、同郡相知町の道納屋などの窯地があげられていますが、中でも失透性の白釉を厚くかけた、いわゆる斑唐津を焼いた帆柱窯、また木灰質の青緑色釉を施した飯洞甕窯は、格調ある民芸的な窯器を、焼成した窯として知られているとともに、飯洞甕窯に多い壷の内面に、いわゆる叩き作りの跡である、青海波状の紋様が、しばしば現れているのは、この造形法が、朝鮮陶の手法であることから、唐津陶の系統を、はっきり示しています。松浦系には、飴色釉一色、または、さらにそれに白濁釉を加えた、朝鮮陶の趣によく似た、いわゆる朝鮮唐津を焼いた、伊万里市の藤の川内窯や、瀟洒な趣の、絵模様を黒、または斟色の釉で描き表わす、いわゆる絵唐津を焼いた、道園窯が名高いです。多久系は、鍋島藩の家老、多久順安に従って帰化した、陶工李三平一派によって、始められたと伝えられる窯をさし、佐賀県多久市西多久町の高麗谷窯が知られています。武雄系も、鍋島藩の家老であった、後藤家信に従って帰化した、陶工宗伝一派の人たちによって開かれた窯であって、同県武雄市武内町祥古谷窯や、同じ町の高麗窯がこの類に属しています。
 また平戸系には、刷毛目の巧みな使用で知られている、長崎県佐世保市折尾瀬の、木原山窯が含まれます。
 これら岸岳・松浦などの系類に入る、古唐津と称える唐津焼は、唐津の土は砂目といわれるように、一般に荒いが粒子が割合にそろっているので、水漉しなどを、行わないのが通例です。とともに、鉄分が多いため、焼き上がりの土膚の色は、焦げ茶、または黒茶色を呈するのが一般ですが、松浦系の道園窯や阿房谷、あるいは藤の川内窯の製には、灰白色を呈しているものもあり、また岸岳系の山瀬窯のように、淡い黄朽葉となっている例もあります。釉薬は、窯に残った木灰を原料としたもの、灰と長石を混ぜたもの、鉄質の黒色のものの、三様に大別されます。
 木灰釉は透明性が高く、酸化・還元の炎の相違によって、黄色を呈した黄唐津となり、あるいは青緑色の、青唐津と呼ぶものになります。灰と長石のうわぐすりは、「まだら唐津」と呼ばれる、不透明な白色を呈するのが一般であって、帆柱窯の製に使われている例が多いです。
 この釉調が、北鮮の会寧窯の製によく似ていますので、唐津陶には、会寧窯の流れも汲むとされています。
 つぎの天目釉は、唐津焼の窯地で広く使用されていますが、釉中に含まれた鉄分の多少や、炎の性質によって、あるいは黒色となり、あるいは鉄鋳色に変化する、違いが示されています。

萩焼も、唐津焼が代表する九州諸窯の製と同じように、朝鮮系の焼き物です。伝えによると、毛利輝元のとき、朝鮮から帰化した陶工李敬が、萩城下の松本村中の倉で創めたとも、また李敬の兄の、李句光が創めたともいわれて、一定しません。が、輝元が萩へ入国したのは慶長九年ですので、創業の時期は、その後であるといえましょう。
 李敬は、はじめは坂倉姓でしたが、のち坂と改め、寛永二年、藩から替え名の判ものを賜ってから、高麗左衛門と名のりました。この高麗左衛門の孫の、新兵衛忠順ごろの窯業は、祖父の代から、窯焚きの燃料に伐採を許されていた鼓嶽―俗称唐人山―を。
 唐人山の儀は父新兵衛代御預り申上 福隠岐様御当役之節差上申候事
というような、状態となっていました。が、藩から「三人米七石六斗」の、わずかな扶持米を給されて、その後も細々ながら、焼造を続けていました。
 一方、李勺光の孫にあたる山村平四郎光俊─のちに坂倉姓となる─と、勺光の弟子の蔵崎五郎左衛門などが、勺光が没したと伝える大津郡深川町三の瀬に移住して、開窯しています。
 この深川の開窯につき、平四郎光俊の父、新兵衛光政の伝書(享保九年以後の写本)には、
自分焼口被指免候明暦三年卯月七日 他国へ参申間敷之通御請之書物壹通 其外焼物師六人より山村正庵へ当て神文之誓紙血判仕置候…
とあります。また蔵崎五郎左衛門が、深川の地へ移るについて差し出した請状には、
……惣之瀬山之内こまかさこより東之両ゑきを御免被成焼物薪御免被成候……材木に不S成之採用可仕候……契書差上申所如件
とあって、その日付けが、承応二年七月二十五日になっています。これらの記録から、山村家が松本へ移って開窯したのは、江戸初期の明暦・承応のころであったと推察されます。そのご萩焼には、松本に三輪窯、佐伯窯が、また深川に惣の瀬窯、古畑窯などが開かれました。
 元禄初年ごろ、「傅言 今長門国萩之所焼是称萩 是亦毛利輝元自高麗招造陶器之人 是号高麗左衛門 今造之者其末流也」といわれているように、古い萩焼は、この松本、深川の地で焼成されたものをさしていました。
 この萩焼の遺例には茶碗・水指などの茶陶が多くみられます。その作ふうが、井戸や熊川、御本などの李朝陶に近いのは、萩焼の起源からみて当然であって、したがって、古調な陶片は、唐津焼とすこぶるよく似ています。が、伝世されたこの類のものが知られていないのは、俗に「萩の七化け」といわれているように、古い萩焼は、同じ朝鮮系の焼き物である、九州諸窯の製器の中に、混交しているためといわれます。一方、このような朝鮮ふうの作調のものとともに、木製の曲げ物を写したような姿の水指や、茶碗の高台が花弁状になった、いわゆる桜高台と呼ばれるような、萩焼独自の和ふう陶もみられます。釉薬も、萩陶特有な柔和感に富んだ不透明な白色が通例ですが、中には、やや粗厚な、いわゆる「鬼萩」と称されている、釉調のものもあります。胎土もまた、釉薬と同じように、柔らかな趣が強いです。これは、防府市大道堂山の土を、採っているためといわれますが、大道土が萩焼に使われるようになっだのは、江戸中期の享保ごろからといわれます。したがって、この類の萩陶は、そのころ以降の焼成といえましょう。

信楽・朝日

 信楽焼は、近江国甲賀郡長野村、神山村で焼成されました。伝えによると、天平宝字のころに創まったといわれますが、古いことはわかりません。
 大正期の初め、岐阜県土岐郡土岐村笹山の、俗に桜堂と呼ばれている地で、三味線の撥形のつまみのある蓋をかぶせた、寸筒形の窯器~経筒の外容器~が出土しています。その素地土は、白い小石を混えた粗質であって、つやのある赫褐色を呈し、いま信楽焼とみられますものの、土膚そのままです。伴出した円い鏡にある、桜に双雀の浮模様の形式が、平安時代末ごろの和鏡と鑑せられますので、この窯器もまた、そのころに焼成されたとみられます。
 このような例から、信楽焼は、平安期末に作られていたといえますが、つづく鎌倉期のものについては不明であって、次の室町期末の遺例が、わずかに知られているにすぎません。
 この例は、長野坊山から発掘された甕であって、蓋に使った片口のある鉢~ねずみ色をした須恵質~に「長禄三年三月十日」と墨書きされていますので、身の焼成期も、そのころと推定されます。この甕の土色は灰白色であって、土中に混った白い小石は割合に少ないですが、信楽陶特有な、干からびた餅に似た土膚です。とともに、口縁の上端が、南北朝期と推測される常滑焼の壷の口と同じような、といぐち(樋口)になる作りとなっています。古調な信楽壷の口作りには、鎌倉末期の瀬戸焼の瓶子と同じような、車軸形になるものを多くみますが、一方にこの坊山出土の、甕のような口作りがあるのは、信楽焼には瀬戸とともに、常滑焼の影響があったことが推測されましょう。
 このように、古い信楽陶の、確実な遺例とみられるものはきわめて少ないですが、記録に表われた信楽焼の名は、割合に多いです。室町期の初めには、香々登(備前焼)、瀬戸焼とともに、葉茶を貯える用に適した壷に、信楽焼があげられています。また末期の延徳二年十月十八日の項に、「信楽壷二ヶ買ふ」としるされているのも、同じ用途のために購ったのであろう(『蔭涼軒日録』)。
 これらの信楽壷は、もともと、その地方の農家の用に、応えるために作られた器でした。
 元亀二年三月十日、津田宗及が、千利休や山上宗二などの、桃山期に著名な茶人を招いて催した茶会に、「しからき 鬼桶 辻玄哉所持之也」とある鬼桶も、もとは農家の婦人が、綿から糸をつむぐときの、用器であったといわれます。
 このように、いわゆる民芸品であった信楽焼が、茶器として登場する初見は、保田氏の調査によると、天文十八年卯月七日、大阪石山寺の坊官下間兵庫の、朝茶会に使われた水指があります。が、このころ信楽焼が茶会に使われた例は、割合にまれであって、ようやく盛んに用いられるようになったのは、天正期の中ごろからでした。その器種の大部分は、単に水指とありますが、慶長六年十一月二十日、古田織部が催した、生高(勢高)肩衝茶入れの披露席には、「トモブタ」の信楽水指とあるように、慶長期には、共蓋を伴っています。また、一日後の二十一日、小堀作介(遠州)が、京都伏見で行った茶会にも、共蓋の信楽焼水指を用いている(『松屋久好会記』)。さらにまた、慶長八年の佐久間不干斎信盛の茶会には、信楽の水指と茶碗が使われています。これらの例から、信楽焼は、このころになって日用器のほか、茶用の器も、焼成するようになったと考えられます。
 正保三年二月、大和戒重(奈良県桜井市)で開いた織田左衛門佐─織田有楽斎長益の第四子─の茶会にも、信楽水指が使われたことが載せられ、その略図が示されている(『松屋久重会記』)。それをみますと、形は、乳児が口にする「オシャブリ」に似た姿であって、かたわらに「極フルキ」と注がしるされていますので、慶長後半ごろの信楽水指は、いわゆる茶趣味の濃い、姿のものであったろうと想像されます。
 また、小堀遠州が愛蔵したと伝えて、早くから著名だった、「水の子」銘の信楽茶碗の高台が、楽茶碗と同じような、多角状の作りとなっていることや、高台裏から腰へかかる釉調が、いわゆる伏せ焼であることを想わせるなどからも、慶長・元和ころの信楽茶碗もまた、茶意識が強く示されたものであった、と推測されます。
 このように、信楽焼は、桃山期から江戸初期ごろの、茶家の間に広く愛用されていました。その結果、当時、有名な茶人の好みを盛った、いわゆる利休信楽、遠州信楽などと呼ばれる茶陶を生みました。一方、こうした茶家に賞玩された、信楽陶の持つ素朴な美しさは、茶陶の焼成に伴って、次第に失われる結果をもたらし、信楽焼の堕落を招くようになりました。
 朝日焼は、膳所(近江)、古曽部(摂津)、赤膚(大和)、志戸呂(遠江)、上野(豊前)、高取(筑前)などの諸窯とともに、遠州七窯の一つにあげられています。が、その窯史は、つまびらかでありません。伝えでは、宇治の人、奥村次郎右衛門が慶長末年ごろ始め、江戸初期の正保・慶安ごろに至って中絶し、承応ごろになって、奥村藤作が再び興したといいます。また一説には、近江の人、奥村藤兵衛が正保ごろに開窯したのち、息の藤作が継ぎましたが、寛文ごろに止んだともいわれています。小堀遠州は、正保四年二月に没していますので、後説の正保年中の開窯としますと、遠州との関係より、「朝日」の印銘を与えたとの伝えのある、遠州の子、権十郎政尹との関連が、濃いといえましょう。
 窯地は朝日山の麓にあり、この山の土を使って、茶器を作ったといわれ、特に茶碗を、もっぱら焼成したと伝えられるように、遺例には茶碗がみられます。それらの中で古調なものの土質は、割合に粗荒であって、淡い暗青色となった器表の釉中に、黒褐色の小斑が無数にみられるように、精選されていません。姿は、朝鮮茶碗を模倣して、それが和様したといえるような形です。腰から高台ぎわへかけて、強い轆轤(ろくろ)目跡をみせていることや、暗青色の釉表に現わした白釉を、高台裏までかけていること、また高台裏に凸起した渦状紋を、はっきり作っていることなどは、井戸や釘彫伊羅保と呼ばれている、いわゆる高麗茶碗にある、作ふうのなごりであるといえます。
 なお、朝日焼は幕末の慶応ごろに、同地の人松林長兵衛が再び興しました。この松林窯は、宇治郷の山田にあって、藁田の地の土を採って焼成しましたが、この窯の製は、前の朝日焼のそれのような雅趣のない、きわめて平凡な作調であって、いま多くみられる朝日焼は、この類でしょう。
 足利義満が、宇治に七園を制定して、その一部を重臣の京極氏、山名氏、斯波氏などに与えたといわれるように、宇治は茶の産地として、早くから知られていました。また江戸初期には、自家用のほか、「於宇治之星野宗以而自吉権遣書状仙洞御壷井聞茶之事申遣也……」とあるように、宮廷をはじめとして、他家から依頼をうけて、宇治茶の名門星野家や、上林家へ注文しています。このようなことに刺激されて、古い朝日焼が興ったのでしょう。

仁清

 優麗な作ふうで知られている、江戸時代の京焼は、仁清に始まるとともに、仁清の作品は、その最高の姿を示しています。したがって、仁清の陶ふうは、その後の京焼の指標となって、長い間受け継がれていました。
 仁清は、丹波国桑田郡野々村の出身でしたので、姓を野々村と称え、初名を清右衛門と呼びました。この野々村姓を名のったのは、御室の仁清の窯跡から採集された陶片に、「明暦二年(1656)野々村播磨……」とありますので、そのころからであったと思われ、それまでは壷屋清右衛門、丹波焼清右衛門と呼ばれていました。また、仁清が若年のとき、技術の上達を祈願して、仁和寺や横尾の寺、あるいは京都市右京区大原野の安養寺など、三ヵ寺に奉納したと伝えがある香炉に、「奉寄進播磨入道仁清作明暦三年卯月」の刻銘がありますので、そのころには、仁清と号していました。さらに、このころ仏門に帰依して、入道と呼んでいるのは、仁清のよき指導者であったといわれる金森宗和が、前年の明暦二年十二月、逝去していますので、宗和の死に、深い関係があったろうと想像されます。
 延宝六年(1678)八月、土佐国尾戸の焼き物作り森田久右衛門が、江戸へ赴く途中、御室焼の見学をしています。その見聞記は、「釜所も見物仕ります。釜も七ッ有、唯今の焼手野々村清右衛門と申也」とあって、焼き手を仁清と呼んでいません。が、その前年の延宝五年に、借り主が清右衛門で、それの保証人が仁清となっている金子借用証が、仁和寺宮に仕えた、香山家の末裔に残っていることから、そのころ仁清は、家業を長子の清右衛門政信に、譲っていたのでしょう。が、元禄八年(1695)に、加賀の前田家から、裏千家を通じて御室焼香合を注文した際、「…御室焼香合十三出来候て殊の外不出来、不宜S……仁清も二代に相成り……」との音信が、裏千家からありましたと、加賀藩士前田貞親が覚え書きしています。仁清の指導者であった金森宗和と前田家とが、きわめて深い関係にあったことは、宗和の長男七之助が、十六歳になった寛永二年、千五百石の大禄で、前田藩に抱えられている事実からも、それが推測されます。こうした関係が、宗和が指導した仁清の御室焼の香合を、前田家から委嘱した原因の一つであったとも思われます。が、そのころの御室焼は、二代目清右衛門であると述べているのは、元禄八年には、仁清はすでに没していたといえましょう。しかし、仁清の享年についてはわかりません。
 仁清は洛西の名刹、仁和寺の門前に窯を築いて製陶しました。仁和寺は応仁乱後、すこぶる荒廃していましたが、三代将軍徳川家光が、木下淡路守、青木甲斐守を作事奉行として再建をはかり、それが完成したのは正保三年でした。そして、後陽成天皇の第一皇子であったにもかかわらず、仁和寺第二十一代を継いだ覚深法親王が、仮居から新御殿へ移られたのは、同年の十月でした。この仁和寺再建について、大きな努力をした塔頭、尊寿院の顕証上人が、この十月行われた穆路の様子を、次のように詳しく述べています。
 仁和寺御移徒記
正保三年十月十一日 天晴 今未明本所新御所御移徒也 路次経池上通令入本寺南門行列次第等最略御沙汰也 前駈四人非職被居 石山寺より上童中童大童子侍法師房官等也乗輿令入口脚門給 従四足東門令中門同寝殿東面中央間屋従僧綱直光院僧都勝宝院僧都令挙御簾給う 其他住侶僧綱等南大門被令参向口内口今日諸堂井御所従造寺奉行方請取申上 御所に料理申重以吉日御移徒荒増之処板倉周防守同日指意可然之旨申上之間今日雖為次吉儀令移徒給り 未刻斗諸堂入堂也 各被供奉也 還御以後両造寺奉行木下淡路守 青木甲斐守 代官小川長左衛門小川九右衛門被伺上也 両奉行太刀折紙馬代白金一枚宛進上也 両代官青銅百匹宛也 御雑煮御盃御祝儀事也 各被罷立也 今朝入御也 五菓等任旧例令献上 三日已後生気の方令埋之也
これによると、前駈四人は非職とありますので、いわば臨時に、好意で奉仕した人と思われますし、また儀礼の童子などは、石山寺から借りているのが知られ、最も簡略にとの沙汰があったとはいいながら、このような落慶式であったことは、仁和寺の財政が窮迫していたためでもあったろう。が、ともかく仁和寺の再建が成りましたので、それを機会として、その周辺は再び昔時のいん賑を、取り戻したであろうと想像されます。
 鹿苑寺の鳳林和尚~勧修寺晴豊の第六子、文禄二年生、寛文八年没~の日記に、「加茂之関目民部来 御室焼之茶入壱ヶ恵之也……」とあるのが、正保五年一月です。当時、仁清の焼き物は、仁清焼、仁和寺焼とも呼ばれていましたが、御室焼が、最も広く唱えられていました。寛文三年正月七日、鳳林和尚へ年頭の賀を述べに訪れた釉岡宇右衛門~白粉商?~が、御室焼茶碗を持参していることや、また、延宝ごろの刊といわれる『嵯峨行程』には、「近世此門前に陶家あり、仁清と号す……今茶人所玩の御室焼、茶入、茶碗是也……」としるしていることからも、仁清焼は、御室焼であったことがわかります。
 このように、仁和寺が再建されて、覚深法親王が移られたのが正保三年十月であり、御室焼の名の初見が、正保五年一月であることから、仁清が御室に開窯したのは、正保四年(1647)中であったろうと推定されます。
 仁清が、仁和寺門前に開窯した動機については、前記のような仁和寺再建からの、いわゆる新興地であったことも考えられますが、また鳳林和尚も助力したでしょう。鳳林は、後水尾院の信任が厚く、仙洞御所へしばしば伺候して、連歌や双六などのお相手をしています。
 また寛文四年十二月に、後水尾法皇が、修学院離宮で手すさびに作られたと思われる、焼き物を焼く窯を開くので、同行せよと仰せつけられ、寒中にもかかわらず、病後をおして供奉しています。したがって、後水尾院の兄君に当たられる、仁和寺宮覚深法親王とも、親近であったろうと推測されます。寛文二年、江戸の材木商伏見屋長右衛門が、鳳林を訪ねて、仁和寺修理について、木材売り込みの口添えを依頼しましたので、鳳林から御室の外記~仁和寺坊官?~あてに書状を出しているのは、仁和寺と鳳林との関係の、一端を示す例といえます。この鳳林が、「焼物師清右衛門焼物之形作……予亦作好 而水指 皿 茶碗等令作之也……」と、慶安二年八月の日記に載せていることは、仁清が、鳳林と親しかったことがうかがえます。したがって、鳳林の口添えも考えられ、その結果が、仁清の御室開窯となったとも推測されます。
 さて、当時の京都の陶芸界をみますと、粟田口や八坂、二条押小路などに窯があって、そこで焼かれたものが、記録に表われています。寛永十七年四月、鳳林は、唐物商大平五兵衛の案内で八坂住の焼き物師清兵衛を訪ね、茶入れや香合、香炉などを、轆轤(ろくろ)で作るのを見たのち、山のあたりへ歩を運んで、窯も見物しています。それから三年後の正保元年に、河内の代官、北条久太夫氏重の家老、舟越外記が帰国するについて、鳳林が香合を贈っていますが、これは先年、焼き物師清兵衛が来て作った、藤実形のものであって、紫色、青色の釉がまじってかかっている、としるしています。この釉調から想像しますと、鳳林が贈った香合は、八坂焼であって、交趾陶に類した、軟質の焼き物であったことが推測されます。したがって、粟田口で焼かれたものもまた、同種の軟陶であったといえましょう。また、清水坂、音羽山下、みぞろ池にも窯があったらしいですが、これらについてはつまびらかでありません。
 一方、当時の京都には、各地方の焼き物が移入されています。それらには、近いところでは近江の膳所や、尾張瀬戸のものがあり、遠隔地のものでは、伊万里をはじめとして肥後焼、豊前焼などがあげられます。これらは、前記の粟田口や、八坂で作られた軟陶と異なって、堅硬な、いわば実用性が高い焼き物でしたので、それらへの数寄者の関心も、また高かったでしょう。鳳林が、仙洞御所や知人に、伊万里焼をしばしば贈っているのは、そうした好尚の、一つの表われといえます。京都の数寄者の関心が、このような方向に赴いていたときであったことは、仁清が軟質陶を焼かなかった、一つの原因であったろう。また、『久右衛門日記』にあるような、七釜もある窯を、粟田口や八坂のような場所に築くよりも、中心を離れた御室に築窯するのが、適当していたことも考えられます。
 さて、慶安二年三月二十五日、京都に在った金森宗和の催した茶会が、奈良の漆芸家松屋久重のぽ記に載っています。そこで見た「アラヤキ」~新しい焼き物~の水指が、宗和の切り形であって、胴が角張った形の、仁和寺焼であると述べています。
 宗和は、飛騨高山の城主、金森可重の長子でしたが、慶長、元和の大阪役について、不参戦を主張して父と意見が合わず、廃嫡されたといいます。その後、京都に出て、大徳寺の伝叟宗印に参禅し、宗和と号したといわれ、数寄者として、当時の堂上貴顕の間に、広く出入りしました。この「茶」を通じて、顕紳に知音が多かったことについて、山田鉱庵老は、宗和は徳川氏の命をうけて、当時の朝廷方の動静を、探っていたと主張しています。それはともかくとして、彼の茶ふうは、いわゆる姫宗和といわれるように、はなやかさが濃いといわれます。が、前記の松屋久重の会記にある、水指に似た形の仁清作の壷をみますと、形、釉色ともに、寂びた趣の深いことが看取されます。したがって、宗和の茶ふうは、一概に、はなやかであったとばかりいえません。
 仁清が、若いころ京都に出て修業し、さらに瀬戸地方に赴いて技を磨いたことは、仁清の次子清次郎藤良から、尾形乾山に譲られた、陶法書にもしるされています。瀬戸の茶入れ作り、竹屋源十郎に習ったとの伝説も、この瀬戸の地での修業かち生まれたのでしょう。この陶法書によると、柿薬、金気薬、春慶薬などの、茶入れに使われたと思われるような色調のものや、「ベニ皿手」「瀬戸青薬」「瀬戸カンニュウ手」などの名をあげています。この瀬戸青薬は、織部陶に多く使われている銅質釉であり、「カンニュウ手」は、志野陶の釉調をさしていると思われます。また「ベニ皿手」は。はっきりしませんが、当時、織部・志野とともに盛行した、黄瀬戸ではないかとも想像されます。
 さて、仁清焼と認められるものの遺例には、雑子や法螺貝のような、香を焚くようにしつらえてはいますが、一見して床の間飾り式のもの、あるいは室内の長押しの釘隠しのような、異色な姿のものもあります。が、多くみられるのは茶器であって、それらには壷をはじめとして、水指・茶碗・茶入れ・香合があげられます。仁清陶を代表する壷は、口切りの茶会に飾られたと思われるもので、形は室町末葉から舶載されて真壷・清香壷・蓮華王などと呼ばれていた、いわゆる呂宋壷の姿です。呂宋壷が、茶の葉を貯えるに適しているとされて、早くから珍重されていますので、仁清壷は、その形を模したのだろうと思われる姿ですが、中には前記の胴が、四角になった姿のような、異ふうなものもあります。また釉彩は、連銭貫乳と呼ばれている、多角状のひびの入った、白色釉で外表を包みますが、底側の部分は土膚をみせた、いわゆる裾をからげる施法を行なっています。
 水指の形は、壷に比べると多様であって、優形・俵形・砂金袋形などがあります。とともに、それらには胴側に竹削形や蕨形・結紐形などの、変化に富む耳を付しています。壷には、いわゆる仁清信楽と称されているような、土味を生かしたものもありますが、水指には信楽写しのほか、南蛮写しなどがあって、この土味を生かした風趣のものも、形と同じく、多種になりました。
 これらの、壷や水指に示された仁清陶の特徴は、遺品の最も多い茶碗によくみられます。形は御本、呉器と呼ばれて、当時珍重されていた茶碗のような、端正な姿のものや、井戸茶碗の形が和様化したとみられる、胴央がわずかにくびれたもの、あるいは{引木鞘}と銘せられた茶碗の姿に似た、筒形のものなどと、早くから名物にあげられていた、いわゆる高麗茶碗を、亀鑑にしたと思われるような形のものが多いです。それらに共通してうかがえる特色は、腰から高台への曲面が、柔和であるのに対し、高台が円座を張り付けたように、くっきりとなっていることでしょう。さらに高台には、壷や水指などの大作に示された、轆轤(ろくろ)の精巧な技術が、よく表れているのも、共通した特色です。釉彩は、壷や水指と同じような、白色の半透明、また不透明調ですが、ひびは壷のそれと違って、きわめて小さいです。釉下に、人物や草花を鉄錆色で描いた、いわゆる広義の染め付けを行ったものと、釉表に赤、緑に金銀を加えて、絢爛なものとがありますが、特に後者が多いです。また素地土の趣を生かして、一部に白釉を振り掛けて、波濤模様を表した、異色なものもあります。
 この金銀を加えて、はなやかに色どった茶碗の図様には、染織のそれの風趣に近いのがうかがわれ、うろこに波の絵や、金銀筋の模様は、能衣装のそれを直ちに連想させる、よい例といえましょう。とともに、この金銀を高く盛り上げた技法には、蒔絵のふうに近いことも、見のがせません。
 このような絵付けについて、『雍州府志』は、「近世仁和寺門前に、仁清製造する所、是を御室焼と称し、狩野探幽井に永真等に命じて其上に画かしむる事を始む」としるしています。
 狩野探幽は、鳳林和尚とはすこぶる児懇であって、上洛した際には、仁和寺や鳳林をしばしば訪ね、また江戸にあっても、おりおりに鳳林と音信する間柄でした。が、探幽は、幕府の絵所をあずかる地位にありましたので、仁清陶に、直接筆をふるったとは考えられません。
 しかし鳳林を中にして、探幽と仁清との関係を思いますと、京都に在った探幽の弟子などが、筆を染めたことは考えられましょう。
 次に、これらの茶碗には、みな「仁清」の銘印が押されていますが、壷や水指のそれと違って、小形であるのは、小器の茶碗には当然なことですが、また壷などにない形の、脊円の上部が垂れ幕状になる、「大内印」と称えているものや、繭形の輪郭のものが、用いられています。書体は壷、水指などと同じ草書ふうであって、また高台裏に押されたところも、絵画の斟飢のように、急所に押されているのは、壷や水指と同じです。仁清の陶芸家としての自覚が、どの器にも印をしるしたのでしょうが、このふうは、やがてのちの京焼に、個人作家を輩出する遠因となりました。これもまた、仁清が京焼に残した、大きな足跡であったといえます。

乾山

 江戸中期の元禄でろ、乾山によって創められた陶ふうも、仁清のそれと並んで、以後の京焼の展開に、大きな影響をもたらしました。
 乾山(寛文三~寛保三)の姓は尾形(緒形)、名は惟允、通称を権平といい、深省・尚古斎・霊海などの別号もありますが、自筆の伝書、『陶工必用』に、「……則京城の西北二相当り候地二候故、陶器ノ銘ヲ乾山卜記シ……」と、乾山の号は、陶器にのみ用いたことを述べています。乾山陶の代表的な遺例の一つである、黄山谷の看鴎図を描いた角皿の裏に、「大日本雍州乾山陶隠深省……」とあるのも、それを示しています。
 陶法は、「手前二指置候細工人 孫兵衛と申候者右押小路焼之親族ニて則弟子二候而細工方等功者二候故御室仁清嫡男清右衛門ト 共二手前江相頼ミ置此両人ニより押小路かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候……」と、伝書にあるように、堅い本焼ものは仁清伝であり、軟質の交趾手のものは押小路焼を継承し、それに、さらに自家の工夫を加えたことが知られます。
 乾山が、洛西の鳴滝の地に開窯したのは、彼が三十八歳の元禄十二年でした。これよりさき、乾山は二十五歳のとき、父宗謙の遺言によって、室町立花町や浄華院町、あるいは鷹が峰などにあった家や屋敷とともに、印月江の墨跡や、書籍類一式を譲られています。この墨跡や書籍が、乾山に譲られていることは、東福門院の呉服御用達を承っていた、雁金屋の三男である彼の、富裕な町人としての教養や、人となりがうかがえます。それから三年後の元禄二年に、御室の習静堂に隠棲していますが、この習静堂の近くに仁清窯がありましたので、おりおり仁清の窯場を訪ねて、作陶にも手を出したことが、のちに鳴滝開窯の一因でもあったろう。また鳴滝の地は、二条綱平家の所有であったのを、乾山が拝領したと伝えられます。が、事実は譲渡されたのでしょうが、その時機は元禄七年であって、このころは、仁清窯も二代目になって、ようやく衰微したときでもあり、これもまた鳴滝開窯の一因と考えられます。元禄十二年十月に開かれた、乾山窯の製品には、絵付けは兄の光琳が筆をふるい、乾山はそれに賛や銘をしるした例が、しばしばみられます。これらの図様には琳派特有な、喉まで、しかも丸みのある線描がうかがわれますが、また一方に、狩野画派に近い、硬直な筆致で絵付けしたものがあり、この類には「素信」の名がしるされています。この素信は、近衛家の家臣であって、始め狩野派を習い、のち光琳に師事した、渡辺始興であろうといわれています。乾山は、「倦怠のとき素信に描かしめた」といっているように、あるときは絵付けや書銘さえも代行させています。したがって、「乾山」の銘を伴った、乾山窯の製と認められるものにも、乾山が、直接手を下さなかったものも、あるといえましょう。
 さて、このようにして焼成された乾山窯の製品は、乾山を知る人々によって宣伝され、世に知られるようになったでしょう。しかし、焼き物を作ることは、仁清が晩年になって、借銭をしている例もあるように、往時は、採算がとれないのが通例でした。したがって、鳴滝窯を経営した数年の間に、乾山が注入した金額は、多大であったろう。また派手好きな兄光琳の、生活の窮迫を援助するなどあって、乾山の手元は、不如意がちであったろうと推察されます。さらに、光琳を介して、乾山焼のよき援助者であったと考えられる、京銀座の年寄り役、中村内蔵助が、正徳四年に失脚するなどあって、乾山は、開窯して数年後の、正徳二年に鳴滝を去って、二条通り丁字屋町に移り、そこで、焼き物商を営むようになりましたが、このとき五十歳でした。この丁字屋町の期間は、養子である仁清の子、伊八が手伝い、粟田の共同窯で焼いたといわれます。が、宝永二年十一月に「……来ル廿一日ヨリ廿三日迄、乾山窯焼被届来ル……」(「御室御記」)とありますので、乾山は鳴滝でも、時々焼成を行なっていたことを示しています。しかし、この丁字屋町時代の乾山は、いわば失意のときでしたので、したがって、鳴滝期に作られたような、芸術意欲の溌刺としたものがなく、低調であったらしいです。
 このようなとき、乾山がかねてから恩寵を蒙っていた、輪王寺宮公寛法親王の第二回目の上洛が、享保十六年にありましたので、その十一月、宮の帰東に随って江戸へ下り、入谷の地に住んで製陶に従事しました。その焼成地は、いまの台東区坂本にある、小野照神社の近くであったといわれますが、確としたことはわかりません。
 さて、乾山の作陶は、仁清から伝えられた本焼きの上絵付けものと、黒絵、鋳絵、あるいは呉須絵の下絵付けもの、また孫兵衛から伝授された、楽焼き質の軟陶に大別されます。これらの中で、最も異色な乾山陶といえるものは、器の全面、または半面に白釉を塗り、その釉表に緑・藍・金を使って絵模様を描いたり、また釉裏に、青釉で絵付けした類です。
 この白釉について、乾山は、「惣テ白絵具ノ事自家最第一之秘事、書面に難言尽シ、以口授可相伝也」と述べているように、最も苦心し、備前の八木山や、薩摩の白土などを試みました。
 その結果、豊後玖珠郡赤岩村から出る奉書紙用の白土が、最も良好ですと、伝書にしるしています。当時、肥前産の白磁が珍重されていましたので、乾山の白釉陶焼成も、その影響が考えられますが、一方、彼の得意とした、書画の風趣を陶器に表現するためには、有色土の胎では効果のあがらないことが、「世界赤白ノ土陶器二不成事ナシ」とはいいながらも、こうした白土への、ひたむきな探求となったのでしょう。根津美術館所蔵の、絵替わりの土器皿は、この類の代表的なものといえます。
 また、乾山は楽焼きについて、「京楽之赤楽之秘伝も故有テ伝覚候へ共是ハ利休以来ノー家ノ伝二俣故私態書付不申候間御所望二候ハ、口授二可申上俣」と伝書に注記しています。
 この「故有テ……」とあるのは、本家雁金屋三右衛門の子が、楽一入の養子になっていることや、当時の楽家が、「一入までは貧者ニテ宅二方々に住す」(『任土斎秘書』)ような状態でしたので、楽家の職業の妨げとなる、いわゆる脇窯ものが、焼成されることを懸念した、乾山の心使いからでしょう。したがって、乾山作の楽焼き茶碗には赤はなく、黒釉のものが、きわめてまれにみられるにすぎません。この黒楽も、器表に大模様の花弁を、現したような作ふうのものであって、楽茶碗に特有な、無模様であるとともに、造形上に苦心の跡がうかがえるような、茶碗の遺例はみられません。
 つぎに乾山陶で注目されるのは、模様の意匠が、染織品のそれに近似していることです。
 この傾向は、乾山が、呉服を商う家に育ったためであったろうが、それらの模様の表現に、型紙染め式の技法を用いているのは、乾山窯では同種のものを、大量に生産したことが考えられます。したがって、この類を乾山の製と認めますと、乾山の作例は、すこぶる多くなるといえましょう。が乾山は、前にも述べたように、己れの書画についての制作意欲を、土という素材の上に表現した、いわば個人作家であったことを思いますと、このような、型紙を使用した意匠の類までを、乾山の作と認めることは、一考せねばならないといえましょう。
 

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