志野焼とは其の参 半筒形

志野 茶碗 銘 卯花墻 001

 桃山様式といえる半筒形の茶碗が、いつ頃から始まったかは判然としませんが、室町後期から桃山にかけての和え物茶碗を概観して推測しますと、 やはり天正年間に入ってからではなかったかに思われ、 そこには千利休の好みの影響があったと考えられます。桃山の主要な茶会記を見ますと、天正十一年ことに同十四年頃から「瀬戸茶碗」の使用が急激に増加してきますが、おそらくそれらは室町末期の天文から弘治頃の茶会記や記録に記されている瀬戸茶碗(天目でしょうか?)とは違った新しい形式の瀬戸茶碗、すなわち半筒の志野や瀬戸黒の茶碗であったと思われます。そして同じ天正十四年頃から、京都で長次郎が焼いたと思われる黒茶碗が「宗易形」(利休形)と呼ばれて茶会記に登場してきますが、長次郎の黒茶碗と瀬戸黒茶碗が同じく引き出し黒であり、長次郎の方が全体まるみのある姿に作られてはいますが、やはり半筒を基調とした形であり、そこにうかがわれる造形性が共通していることからも、おそらく天正十四年頃から美濃の窯でも急激に筒形が流行するようになったと推測されます。確かな資料はありませんが、今日一般に瀬戸黒は利休好みといわれるようになったのも、その間の消息を推し測ってのことでしょう。また利休が志野か黄瀬戸らしき茶碗を使ったことを推測させるのは、天正十八年九月十日、利休の衆楽屋敷における茶会で(「神谷宗湛日記」)、宗湛がその時の様子を「セト茶ワン持出テ台子の上ノ黒茶碗ニ取替ラルル 黒キニ茶タテ候事 上様(秀吉)御キラと候ホトニ此分二仕候ト也」と記していますが、黒くない瀬戸茶碗といえば白い志野か黄瀬戸しかありません。
 あまり確かな資料ではありませんが、志野や黄瀬戸の最も優れたものを焼いた可児郡大萱の窯について記された「大萱竃之記」(「美濃古文書」)のなかに、大萱の牟田洞窯は天正五年(1577)に加藤源十郎景成が開いたと伝えられていますが、たしかにこの窯は。天正の中頃から文禄、慶長の初期までが最盛期であったと推測され、窯跡から出土した陶片を見ますと、伝世する志野茶碗の優品の多くがこの窯で焼かれていたことがうかがわれます。したがって半筒形を基調とした志野茶碗は、総合的に見て天正十年過ぎ頃から慶長の初め頃にかけて盛んに焼かれたと判断してさほど誤りはありますまい。そして茶碗とともに水指や香合、花入、鉢、向付なども焼かれていましたが、志野らしい鉢や皿が、やはり天正十四年以後に茶会記などに記されるようになります。
 筒形の茶碗でも、端正に轆轤びきされ、高台も低くくっきりと円形に削り出されたまことに素直な作行きのものと、轆轤びきしたあと手で変化をつけてあたかも手裡ね茶碗のような趣にし、高台も歪みもある付高台にしたものなどさまざまですが、やはり増然とした轆轤びきのものが早いように思われ、それらは絵付も単純です。そして歪みや箆目をつけた面白い姿の茶碗ほど絵付も変化に富んでいるようです。
 釉の状態からも二つに大別することができます。赤い火色の生じた、いかにもほのぼのとした味わい深い釉の志野と、火色がなく、釉膚がつるりと溶けたものとがあり、絵付の文様は後者の方が変化に富んで面白く、しかも圧倒的に皿や向付など食器が多いです。それらはかつては志野織部と呼ばれ、時代も慶長年間に入って、いわゆる織部とともに焼かれたものが多いです。
 桃山時代の志野は、美濃の可児、土岐の二郡に散在する窯で焼かれたものであったことは明らかであり、黄瀬戸や瀬戸黒あるいは織部とともに同じ窯で焼かれたことは、昭和五年古窯趾発見以来の発掘調査によって判明しています。鎌倉時代以来の瀬戸系のやきものの技術の歴史を願ますと、灰釉のかかった黄瀬戸と、茶褐色の一般に瀬戸釉と呼ばれる鉄釉のかかったものが主流で、志野の長石釉は後に開発されたようです。そして慶長年間に唐津風の連房式登窯が美濃で築窯されるまでは、半地上式単室の穴窯で焼かれていました。その窯について荒川氏は「下半分は地下で、上半分だけがアーチのようになって地上に出ています。また焚き口は下に、上の方に傾斜して作られており.窯としては小規模な、ごく幼稚な段階に属します。したがって、不便な上に、燃料のいる不経済な窯です。つまり焔のひきが悪いため、燃焼がよくありませんから、温度は急に上昇しません。それで時間が長くかかるのです。しかし、長石釉の志野を焼くには、この不便で不経済な窯が、もっともよく適しているのです。短時間で焼き上がるような窯では、よい志野は絶対にできないといってよいだろう」と述べています。たしかに、窯跡から出土した破片を見ても、赤い火色の生じた柔らかい釉膚の志野は、すべてといっていいほど穴窯で焼かれています。もちろん窯だけでなく、土も大いに関係するでしょうが、不経済な穴窯と、経済的な連房式登窯で焼かれていた志野とでは、その味わいは大いに異なります。二十年前頃までは穴窯で焼かれた志野に対して、連房式登窯で焼かれた志野は「志野織部」と称して区別していました。しかし、近頃では同じ性質のやきものということですべて志野と呼ばれるようになりましたが、その質の相異は画然としています。まな江戸時代でも、志野の皿や鉢、向付などに「おりへ」(織部)と箱書付したものがあり、近衛予楽院の『槐記』にも、茶碗や水指には「志野」と書きながら、志野織部らしい向付を「ヲリヘ」と記しています。したがってをその頃から志野と志野織部は区別されていたように思われるのです。

About the author: Yoshihisa Tsuruta

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