信楽・備前・丹波 Shigaraki Bizen Tanba 解説

信楽 檜垣文壺

信楽・備前・丹波

 燃えるような赤い器肌に白く長石の吹き出た信楽の壺 灰白色の締まった器面に鮮緑釉の流れ落ちる丹波の壺や甕、さらに赤黒い器面に朽葉色の自然釉のかかった備前の壺の数々。これらはいずれも西日本の中世陶器を代表する著名なやきものです。それぞれの地域に即したその器形や肌色は、地域性のつよく前面に押し出された中世社会の特色を、最もよく具現しています。
 いま、これらの西日本の中世陶器を取り上げるに当たって、その占める位置づけについてあらかじめ指摘しておきたいです。すでに瀬戸美濃の巻において述べたように、中世のやきものには土師器系・須恵器系瓷器系の三系列があります。伊賀・信楽・丹波・備前などの西日本の中世陶器は、前三者が瓷器系に、備前が須恵器系に属します。
 須恵器系とはいうまでもなく、平安時代にそれぞれの地域において硬質のやきものとして焼かれていた須恵器の系譜をひくやきものですが、これには第一類として初期には須恵器の伝統をひきながら、鎌倉時代において、酸化焰焼成による茶褐色の陶器に転化したものと、第二類として須恵器の製作技術をそのまま踏襲した、還元焰焼成による灰黒色の続須恵器ともいうべきものとの二種の陶器があります。本巻で取り上げたのは、これら二種のうち第一類に属する陶器類です。
 須恵器系の中世陶器の特色は、主として壺・甕擂鉢の三種の器形に限って焼いている点であろう。一般に、中世陶器の器形には、碗・皿・鉢・瓶などの食器類と、壺甕などの貯蔵容器のほか煮沸用器としての釜、若干の仏器類などがあります。しかし、これらの各器種はいずこの窯業地においても一様に焼かれたわけではありません。備前窯においては、ごく初期には碗皿 瓶類が焼かれていますが、鎌倉中期以降には壺・甕・擂鉢にほぼ限定されており、わずかに仏器類が併せ焼かれる程度です。発生期の実態がまだ判っていない伊賀・信楽 丹波などでは、どのような器種を含んでいるか不明です。現在知られる限りにおいては、壺・甕・擂鉢の三者に限定して焼かれています。また、室町後期には片口小壺 緒桶・徳利花瓶などのあたらしい製品が登場してきますが、一方、侘び茶の流行に伴い、茶陶が焼かれるようになる。美濃 瀬戸などの施釉陶器を除きますと、中世の無釉の焼締陶のなかで茶陶を焼いているのは西日本の諸窯の特色でしょう。とくに信楽・備前ははやくから茶会記にも登場していますが、これは古くから畿内と密接な関係をもっていた両地域の先進性を示すものでしょう。
 しかし、中世陶器の主流をなすものは壺甕擂鉢の三者です。
 その前後の時期に若干の器種を伴いながら、なぜこの三種の器物が中世という時代において際立った存在として出てくるのでしょうか。
 それぞれの器種がもつ機能について考えてみますと、壺はいうまでもなく、須恵器以来、貯蔵用の容器として発達してきたものです。
 しかし、中世においては 「種壺」 という称呼にみられるように、農業と密着した一面をもっていることが注意されましょう。それには播種用の種籾の貯蔵という用途のほかに、播種に際して発芽を促進させるための浸種に利用するといった機能が併せ考えられるべきでしょう。平安末期以来の二毛作の普及に伴って、播種前の籾の浸種は稲の生育に大きな効果をもたらしたと考えられます。甕もまた、本来水甕としてあるいは酒を醸すための容器として、日常生活に必要欠くべからざる貯蔵器です。しかも一方、中世の農村における肥培技術の発達によって、肥甕としての機能が増大していったことと考えられます。平安時代以降、次第に用いられるようになった肥料の主なものは草木灰ですが、鎌倉時代に入ると糞尿の使用が始まったと考えられるのです。鎌倉末ごろの作である 『沙石集』に載せられた説話のなかに、田に入れるため糞を馬で運ぶ条がみえていたり、室町時代の作である 『泣不動縁起』に屋敷畠の一隅に甕を埋めてある図があって、すでに宝月圭吾氏によって、人糞尿の使用が始まっていたことが推定されている(「中世の産業と技術」 「岩波講座日本歴史8』所収)。鎌倉中期以降、一部の甕がとくに大形化してゆくことと併せ考えるべき点であろう。また、擂鉢は調理具として日常生活には欠くべからざる器物でした。このように三種の器物はいずれも日常の雑器であり、それがふかく農業と結びついている点に中世陶器の特色があります。中世における農業技術の発達は、灌漑設備の整備や耕地の集約化をめぐって展開されたことはよく知られるところです。平安時代初期に中国から導入された水車は、中世に入って普及しました。また、農業の集約化は稲の品種改良をもたらし、二毛作の発達によって雑穀栽培の進歩がみられたのでした。さらに二毛作の発達からくる育成の促進と地力の維持のための肥培技術の発達は、さきにみた通りです。また、鉄製農具の著しい普及、牛馬耕の浸透は、農業生産力の上昇に大きな役割を果たしました。このような農業技術の発達に伴う農村の興隆は平安後期から顕著に現われはじめ、12世紀に入ると全国的な規模で展開されたのでした。そのことを背景において考えれば、壺・甕・擂鉢の需要と供給の関係が自ずから理解されるでしょう。また、壺・甕類は農事用としてのみ生産されたわけではありません。その使用の大きな分野の一つは宗教用具としてです。平安後期以降の、経塚の造営に伴う経筒外容器として また火葬の普及による蔵骨器として盛んに用いられたことが、各地の調査によって明らかにされています。とくに、火葬蔵骨器としての壺・甕の使用量は、信楽においても丹波・備前においても厖大なものです。わずか一箇所の小さな墓地でさえ、数十個の蔵骨器が発見されることは決して珍しいことではありません。未発見 未調査のものを考慮に入れれば、その数量は莫大なものです。また、比較的数多く発見される例として、銭甕の使用があります。西日本の中世陶器では、とくに丹波の使用例がよく知られています。平安末期以降の農業生産力の上昇に伴って、鎌倉時代に入りますと、余剰生産物の商品化の傾向が顕著になり始めました。とくに日宋貿易によって宋銭が大量に輸入されるようになりますと、畿内農村などの先進地域では、はやくから年貢の銭納化が進められていきましたし、年を追ってこれらの貨幣は都市から農村へ浸潤していったのであって、蓄銭のための甕の使用もまた欠かすことのできない一面である。
 いま西日本の中世陶器の製作技術について総括的にその特質をみてみましょう。まず使用陶土についてみますと、信楽・丹波・ 備前のそれはいずれも須恵器の陶土より耐火度の高いことが特徴的です。須恵器の使用陶土は、平野周辺の低丘に露出する洪積層の粘土ですが、中世に入ると窯の立地を転換させ、より高い丘陵地の新三紀層の粘土を求めています。さきに述べた機能に即した、大物づくりにふさわしい強度が要求されたためでしょう。いずれも室町時代の中ごろまでは山土単味ですが、室町後期に入りますと、例外なく田土を混ずるようになる。成形の面では、壺類についてみますと、須恵器のそれが轆轤成形であったのに対して、中世のそれは粘土紐を巻き上げて基本形をつくったのち、木を用いて器面を調整する方法がとられました。大形の壺や甕類は木の台の上に砂をまき、まず円形の底板をつくったのち、その周囲に沿って紐土を巻き上げながら一定の高さに達すると一旦乾燥させ、さらにその上に紐土を接ぎ足してゆくという、信楽などで 「はぎづくり」 と呼ばれる成形法がとられており、さらに器面を箟で削ったり木麗で縦横に調整が施されました。つぎに焼成技法についてみますと、まず築窯法において須恵器窯が丘陵斜面に細長い溝を穿ち、スサ入り粘土で側壁および天井を築くのが通例ですが、西日本の諸窯においても未調査の丹波窯を除きますと、いずれもその築窯法を踏襲しているようです。信楽も一見東海地方のそれに近い外見を呈しますが、大幅の溝を掘り、中壁および天井を築いているのです。また焼成法は、瓷器系のそれが還元焰から酸化焰に近い焼成であったのに対して、西日本の諸窯では初期には還元焰焼成を、鎌倉時代中後期からは還元焰から酸化焰に近い焼成を行っているのが特色です。


信楽

 赤い火色の出た器肌の全面に、白い長石の吹き出した信楽の壺の数々、肩に太い箟彫りで描いた檜垣文のある大壺や蹲は、中世のやきもののなかで最も魅力のあるものの一つである。信楽は周知のように、滋賀県甲賀市信楽町、すなわち滋賀県最南部に突き出した山あいの盆地において焼かれました。東南部は三重県伊賀市に、西南部は京都府相楽郡和束町に接した南北に狭長な地域です。
 ところで、信楽は著名であるにもかかわらず、いつごろどのようにして成立したものか、まだ明らかになっていません。中世陶器としての信楽はまだ鎌倉時代中期以前に遡る資料に恵まれていません。平安時代の須恵器や灰釉陶器との間をつなぐ中間的なものは、の経筒を除くとほとんど不明です。しかし、他の中世窯業地がいずれも平安時代末期に古代的なものから転換したことを考えるならば、ひとり信楽のみが後出的であったとは考えられません。近江国の古代窯業は5世紀末以来の鏡谷古窯跡群に発する須恵器生産を主体としたものですが、同窯は時代を追ってしだいに南下し、平安中期以降には蒲生郡日野町作谷窯や甲賀市水口町春日の山の神窯において緑釉陶器を焼いており、後者では灰釉陶器も併焼していて、尾張の瓷器系窯の影響が及んでいたことが知られるようになってきました。水口町から野洲川を渡り、一山越えれば信楽の盆地です。中世の信楽陶の形態が常滑ときわめて近似しており、瓷器系中世陶器の範疇に属することは明らかですが、その源流は北方の平安中~後期の瓷器窯に求め得る可能性が高いというべきでしょう。

信楽窯の分布
 信楽窯の古窯跡の分布は北は信楽町北部の宮町から南は長野・神山地区までの間に、現在百八十五箇所が確認されています。そのうち中世に属するものは四十六箇所ですが、それらのうちには宮町の中井出古窯のように四基を一群とするものなどがあって、個々の古窯跡数は優に百基を越えると考えられます。これらの四十六箇所の古窯跡群は、南北に長い信楽の盆地に一様に分布するものではなく、地域的に大きく五群のまとまりをみせています。第一群は最北の宮町地区であり、東西に流れる大戸川と隼人川を結ぶ線から北に分布すある十二箇所の古窯跡群です。第二群は大戸川と隼人川の合流する黄瀬・牧を中心とするもので、川西に六箇所、川東の中牧に一箇所の古窯跡が知られています。第三群は勅旨地区で、川西に九箇所、川東の宇田出に三箇所、計十二箇所を数えます。第四群は信楽町の中心街である長野の西方山地に八箇所、東側に二箇所の十箇所があります。
 第五群は信楽町東南端の三重県側に接した神山地区であり、北新田に一箇所、五位の木に三箇所、計四箇所を数えます。さらに東方の五位の木峠を越えた三重県側のオスエノヒラに一箇所、古窯跡の存在が知られています。

信楽の製品
 中世信楽窯の主要な製品は、瀬戸 美濃を除く他の中世窯のそれと同様に、壺甕・擂鉢の三種です。碗・鉢類などの食器・調理具はきわめて少ないです。しかし室町時代後期になりますと、以上の三種の器物のほかに、緒桶・徳利花瓶など新しい器種がわずかながら加わってきますが、一方、侘び茶の流行に伴なって、茶碗・茶入 ・水指・花入などの茶陶類が焼かれるようになる。また、特殊なものとして経筒・舎利塔 瓶子などの仏器類も若干焼かれています。
 以上の三器種のうち、最も数多い壺類についてみますと、大きさによって、大・中・小三種のものがあります。大壺は高さ35~50cm位のものですが、50cmをこえる大形品もしばしばみかけます。中形壺は20~35cm位のものです。小形壺は20cm以下であるが15cm前後のものが多いです。これらの壺類は形態的にみますと、肩の張った、胴の丸くふくらんだ丸胴型のものと、なで肩の、胴の細い長胴型の二種に分けることができます。この二種の壺形態は西日本の中世陶器に共通するところです。信楽の壺は他の中世陶器にくらべて口づくりがきわめて変化に富んでいます。口縁端を丸く収めた丸口づくり、口縁を外方に捻り返して、断面がいわゆるN字状になった捻り返し、口縁端からすぐ下に突帯状に縁帯を設けたり、凹面を設けたりしたいわゆる二重口と呼ばれるもの、口縁の内面に凹線を設けたいわゆるとい口づくり、口縁端を外方に丸く曲げて玉縁風にしたものなどさまざまの形態があります。甕類には大小二種のものがあります。大甕は高さ50~60cmのものがあり、胴に比例して口径が大きく、常滑によく似N字状口縁のものが多いです。とくに鎌倉中期以前の初期のものには常滑と近似したものが多いですが、時代の降った縁帯の幅の広いものは下端が頸部に密着して内反りになる傾向をもっています。小形の甕は高さ25~30cmばかりの大きさで、捻り返し 二重口 玉縁などの口縁の変化に富んでいます。N字状口縁では大甕同様に縁帯が内反りになるものが多いです。また室町後期には飯胴甕と呼ばれる丸胴・平底の小形甕が焼かれています。鉢類のうち、その大部分を占めるものは擂鉢です。擂鉢は中世陶器に通有な大平鉢の口縁の一部を折り曲げて片口にした平底のもので、鎌倉時代のものには内面のおろし目はありません。南北朝ごろからまばらな櫛描きのおろし目がつくようになる。
 このほか南北朝ごろから室町時代にかけてしだいに多くつくられるようになったものに片口小壺があります。これは他の中世窯においても共通してみられるもので、胴が太くふくらんだものと、細身の胴形のものとがありますが、備前のような大きな鳶口にはならず、片口部分は小さいです。また、室町中期以降に出現してくるものに円筒状の緒桶があります。鬼桶水指と称されるものもその初期のものは緒桶の転用です。室町末期から桃山時代にかけて大鉢や花盤のほか、各種茶陶が焼かれるようになる。肩の張った肩衝壺、いわゆるおせんべ壺もこの時期の信楽に特徴的にみられる壺の一種です。

信楽の製作技術
 信楽の盆地をとりまく周囲の山々は花崗岩地帯です。信楽の使用陶土は俗に蛙目粘土・木節粘土と呼ばれる花崗岩由来の新第三紀層ないしは鮮新更新統に属する石英 長石に富んだ耐火度の高いものが用いられました。南北に細長い盆地のうち、北方の黄瀬周辺のものは鉄分が多く、石英 長石の粒子の比較的少ない、焼き上がりの外見が黒褐色ないしは黒紫色を呈するものが多いです。中央部の勅旨から長野周辺のものは、いわゆる信楽特有の赤い火色の出た、石英 長石の吹き出しの多い素地のものが多いです。東南部の北新田 五位の木から伊賀領の槙山地区の陶土は長石の含有量がきわめて多く、高い火度で焼かれたものには自然降灰と長石が混って青白い釉流れのものが多いです。
 器物の成形は壺・甕の場合、まず円形の底板をつくり、その上に太い粘土紐を巻き上げて一定の高さまでつくり、ある程度乾燥したのち、さらに上に継ぎ足してゆく、いわゆる「はぎづくり」 の手法をとっており、器面は箟削りや横ナデ、上からのナデによって調整しています。小壺類などは手轆轤で水挽きされています。器面を飾る文様の最も特徴的なものは肩に太い箟描きで施された檜垣文あるいは縄目文と呼ばれる刻文です。大・中・小の壺にのみ施されています。
 中小形壺のうちに樹文系の退化した文様を描いたものもいくつか知られています。まれに肩に鳥文を麗で描いたものもあります。
 器物の焼成は丘陵斜面に壙を穿って構築した窖窯が用いられています。信楽には単室窯と焼成室の中央に障壁を縦に長く設けて部屋を二分した双胴式窖窯の二種のものがあるといわれていますが、従来発掘された古窯跡はいずれも双胴式窖窯で、単室窯の構造はまだよく知られていません。筆者の発掘した室町末期の中井出1号窯の構造についてみますと、丘陵斜面に幅4mの広い壙を掘り、中央の焼成室に当ある部分に、芯に人頭大の石をつめた障壁を設け、その上に天井を築いていて、長さは10mあり、その前後の焼成室と煙道部を合わせると全長が16.3mにおよぶ大窯です。燃焼室の両側壁には貼石がみられ、高火度焼成に耐える窯体構造をもっていたことが知られます。

信楽窯の変遷
 中世の信楽窯の変遷は、現在まだ不明である平安時代末期から鎌倉時代前期までの約百年間の空白期間を別としますと、I. 鎌倉中~後期、II. 鎌倉末~南北朝、III. 室町初期、IV. 室町中期、V. 室町後期の5段階に分つことができます。近江・伊賀両国から近年数多く発見されている中世墓地の藏骨器の出土例をみますと、平安末~鎌倉前期の時代には常滑の使用例が多いですが、比叡山横川出土の経筒外容器の存在にみられるように、この期間が空白であったとは考えられず、調査不十分というほかありません。現在知られる中世墓地出土例の最も早いものは三重県伊賀市の仏土寺墓地出土の中形甕であり、鎌倉中期にまで遡ります。古窯跡として最も早いものは長野地区(第四群) 西方の二本丸窯であり、鎌倉中期にまで遡り得ます。いま一つは宮町地区(第一群) 東南端の半シ窯であり、やはり鎌倉中期の甕類が発見されています。両者は形態や口づくりにおいて常滑のそれときわめてよく似ています。とくに半シ窯の甕の肩に施された成形時の叩文に常滑と同様なものがあります。このように信楽窯の南北両端において最も古い古窯跡が発見されていることは、信楽窯の発生を考える上にきわめて重要です。遺品の上で信楽が最も顕著な姿を見せ始めるのはII期の鎌倉末~南北朝ごろからです。この時期の年代の明らかなものとして、滋賀県下の中世墓地から出土した応安二年墨書銘の甕があります。
 内反りの幅広い口縁帯をもった広口で、算盤玉形の胴をもつこの形態を南北朝代の典型として捉えることができます。このⅡ期から大形その壺類において、丸胴型と長胴型の二種の形態のものが数多く焼かれており、檜垣文を有するものと無いものの両者があります。大甕においてもN字状口縁帯は頸部に密着して内反りとなっています。擂鉢にはまだほとんどおろし目をみることはできませんが、まれに三条の粗い目の入るものがあります。古窯跡では神山地区の北新田窯をその代表例として挙げることができます。なお北新田窯はその後引き続いて室町後期ごろまで焼きついている古窯跡群です。III期の室町初期のものでは応永 (推定) 二十八年銘の中形壺があり、二重口の口縁をもった肩の丸く張るタイプのものです。大形壺では成形時のはぎづくりの段を明瞭に残しているものが多いです。古窯跡としては発掘された長野地区窯ヶ谷窯があります。IV期の室町中期の代表例は古くから著名な長禄二年(1458) の墨書銘をもつ擂鉢と蔵骨甕です。擂鉢の内面のおろし目はまだ粗いです。甕は胴に対して広口であり、口縁帯は頸部に密着しています。壺類ではこの時期には外反気味ながら、すでに玉縁風につくられたものが出現しています。古窯跡ではすでに発掘された長野地区南松尾窯がよく知られており、双胴式窖窯です。ここの時期のものは各群に亙って広汎に分布しており、信楽窯の生産の最も拡大した時期です。この時期の長野東出窯から口頸部の短く締まった小壺が出ており、擂鉢にはおろし目のあるものとないものとがあります。V期の室町後期のものでは永禄元年(1558) 銘四耳壺が基準作として知られています。肩の丸い長胴形の四耳壺で、口縁部は玉緑風につくられています。「永禄元年 九月吉日 信楽 勅旨 染師満介作」 の銘があります。発掘された中井出古窯はこの直後位の形式の壺そのほか、胴部に横線を施した飯胴甕、緒桶、花盤などが出ています。
 擂鉢は大小二種のものがあり、いずれもおろし目が密に施され、内底部で交差しています。なお、窖窯ではこれより時代の降る桃山時代と考えられる窯に、勅旨28号窯、勅旨9 号窯などがあり、前者は玉縁づくりの口頸部の直立する壺、胴のふくれた浅鉢、備前風の口縁帯をもつ大甕が出土しています。また、後者からは碗のほか、浅い大鉢が出ていて、いずれも備前・丹波などと交流のあったことが推測できます。


備前

 昭和52年(1977)、香川県小豆島の東方沖合6kmにある 「水ノ子岩」北斜面の海底から大量の古備前が発見され、わが国で初めての水中考古学的調査によって引き揚げが行なわれて大きな話題を呼びました。
 引き揚げられた古備前は器形的には壺・甕・擂鉢など十器種二百十固体におよび、それらは同時生産的様相を示していて、消費地に向けて航行中に進路を誤り、波間に見え隠れする水ノ子岩に衝突して沈没したものと推定されています。1940年の香川県直島海底引き揚げ以来の大量発見です。従来、このような海底から引き揚げられた古備前は「海揚がり」と称しており、備前の流通を示す貴重な資料として珍重されていますよて、現在数多く知られている中世陶器の一つの極に施釉陶器としての古瀬戸があるとすれば、いま一つの極にあるのが古備前です。それは須恵器の伝統を引きながら今日まで無釉の焼締陶を通し続けた唯一のやきものであるからです。中世の備前を代表するものは、赤い火色の出た器膚に暗緑色の自然釉がかかった玉縁の壺・甕であり、擂鉢でした。南北朝時代に今川貞世はその著 『道ゆきぶり』のなかに「かがつといふさとは、家ごと、玉だれのこがめといぶ物を作るところなりけり」 と書いています。
 いうまでもなく、中世の備前窯は平安時代の須恵器窯を母胎としていますが、備前窯の分布地域には須恵器窯はほとんど存在しません。
 その母胎となったのはよく知られているように、古井川下流の瀬戸内市邑久町長船町から備前市の一部にかけての内陸部の丘陵地帯に展開した邑久古窯跡群です。邑久古窯跡群は古墳時代から平安時代初めにかけて隆盛を誇った中国地方最大の須恵器窯跡群ですが、平安時代中期以降、急速に衰退し、わずかに瀬戸内市長船町や東部の丘陵地帯で生産を維持するにすぎない状態でした。近年、平安時代末期の須恵器窯が長船町の西岡から山田にかけての地域および、その南の油杉東方の丘陵斜面に点々と発見されており、その生産者たちが福田越え、伊坂峠越え、あるいは長谷越えなどのルートを通じて次々と伊部入りを行なったものと考えられます。

備前窯の分布
 備前焼はかがつ (香々登)、すなわち香登庄に属していたいまの岡山県備前市伊部を中心に、熊山山麓一帯の山々で焼かれました。備前古窯跡群は伊部の市街地を取り囲む周囲の山々から南北の谷を遡った奥地まで、東西3km、南北5kmの範囲に点々と群をなして分布しています。現在、八十基を超える古窯跡が発見されていますが、一群ずつ綿密な調査をすれば、その総数は倍以上になることでしょう。
 備前窯は大きく三地域に分れて分布しています。一つは伊部の市街「地の西北部から北方に延びる谷沿いに、熊山東麓に至る両側の丘陵であり、いま一つは市街地に向かって北から延びる不老山の東側、すなわち市街地の東北部から烏帽子岩南麓にいたる谷の両側です。
 さらに市街地の南部丘陵から浦伊部に至る地域が別の一群を形づくっています。それぞれの地域に平安時代末から継続して窯が築かれており、桃山時代の西大窯 北大窯・南大窯に引き継がれるのです。
 いま、西大窯を中心とする西北部の一群についてその推移をみますと、まず、平安時代末期に備前市の西の入口にある大ヶ池の北側斜面の池灘窯を出発点として、不老山西麓の大明神に移り、鎌倉時代には坊が池窯から医王山北麓の合ヶ渕窯を築いています。その後、さらに北進して鎌倉時代末期には熊山東麓のグイビーヶ谷窯まで拡がりました。
 やがて、室町時代に入ると一転して南下し、室町時代中期から後期にかけて医王山東麓の坊が池北窯に、そして桃山時代には西大窯に定着するのです。北大窯のグループについては大明神窯からの分かれと考えられますが、その推移はまだ明らかでありません。
 一方、南大窯のグループについては大ヶ池の南のJR赤穂線に面しまた丘陵の北斜面にある大ヶ池南窯を出発点として東進し、姑耶山麓この谷間を点々と移動して南大窯に定着したものと思われますが、伊坂峠越えによる浦伊部のグループでは大窯を形成しておらず、南大窯との関係は明らかではありません。

備前窯の製品
 中世の備前窯もまた、瀬戸を除く他の中世窯と同様に、壺・甕・擂鉢を主として焼いています。しかし、初期には碗・皿・盤瓶などを焼いていて、須恵器との連続性を明瞭に示しています。また、室町時代後期には他の諸窯にさきがけて花入・水指などを焼いています。
 壺類についてみますと、最も基本的なものは須恵器のそれを引き継いだ、口縁の外反する高さ20cm前後のもので、のちしだいに大形化するにつれて、口縁を外にまるく折り返して玉縁に変化させています。
 これとは別に南北朝ごろから長胴型の大形壺が出現しますが、肩に四耳をもつものが多いです。茶壺です。またそれと相前後して、口縁に一部を折り曲げて片口状にした小形壺がつくられるようになる。この器種には大・中・小さまざまのものがあり、箟描き文を有するものが多いです。
 には大小二種類のものがあり、いずれも須恵器の甕から転化したものです。大甕は高さ60cm以上の、直立する口頭の先端を大き玉縁にし、まるくふくらみの強い胴の外面を木で調整した、平底のものです。小甕は通常、壺類に入れられている場合が多いですが、「玉だれのこがめ」 と呼ばれたように、短い外反する口頸部の先端を玉縁状にした広口のもので、肩に沈線文あるいは櫛目文を施しています。擂鉢は他の中世窯と同様な、大平鉢の口縁の一部を折りまげて片口状にしたもので、鎌倉時代以降、内面に櫛描きによるおろし目が施されます。また室町時代中期ごろから口縁帯が肥大し、桃山時代には数条の凹線をもった、幅広いものがつくられています。初期にのみつくられた碗類は平安時代末期の須恵器碗を踏襲したもので直径15cm前後高さ5cm前後の平底のものです。皿類も直径8~10cmの浅い平底のものです。このほか、直径40cmを超える大盤や水瓶も初期には焼かれています。
 一方室町時代後期にはあたかも銅器のそれを思わせる大きな喇叭状の口頸部をもった花瓶が仏器としてつくられており、いちはやく瀬戸 美濃大窯において中国磁器を写した瓶類なども徳利の原型として生産が始まっていたと考えられます。さらに桃山時代にかけて、侘び茶の流行に伴って、茶碗・茶入をはじめ花入 水指などの茶陶が焼かれています。

備前焼の製作技術
 備前焼の製作技術は基本的には他の中世陶器と異なるところはありません。使用陶土は前代の須恵器が、内陸部の平野周辺の丘陵地帯の洪積層の粘土を用いていたのに対して、備前焼では伊部周辺の花崗岩由来の耐火度の高い粘土が用いられています。なお、室町後期には田土を混ぜるようになりました。成形は壺類についてみますと、まず底板をつくり、粘土紐を巻き上げて数段の胴継ぎによって基本形をつくったのち、器面を削りと木調整によって整えています。備前焼の壺甕の口づくりは、他の中世陶に比べて変化に乏しく、初期の口縁端部の折り返しがのちしだいに玉縁に変わってゆくという、ほとんど一種類のものに限られています。甕類も基本的には壺と同様でああるが、大甕は太い粘土紐を巻き上げた紐輪積み成形で、器面は箟削りと木調整が特徴的です。擂鉢も紐土づくりですが、室町時代中期ごろから大形化するに伴い、口縁帯が肥大化してゆく傾向がみられます。なお、小形の壺類は室町後期には水挽き轆轤成形を行なっています。また、桃山時代から壺甕類の器面に塗り土が行われるようになり、これがやがて伊部手に移行してゆきます。
 焼成に用いられた窯は、須恵器窯と同様な細長い単純な窖窯で、通常、長さ10m前後、床面傾斜15~20度位ですが、なかには30度に達するものもあります。室町中期以降のいわゆる大窯では、不老山東窯のように長さ40m、幅が2.5~3m、床面傾斜15度という長大な窯が築かれており、やがて桃山時代には南大窯のように52mという大規模な窯が出現するに至っています。中世の備前焼は鎌倉時代の中ごろまでは須恵器の技法を踏襲した還元焰焼成で、製品は灰墨色を呈していますが、鎌倉時代には酸化焰焼成に転じており、赤い火色の出た古備前独特の色調があらわれるようになりました。また、備前窯では鎌倉時代から効率的な窯詰めを行っており、重ね焼きの痕跡のみられるものや隙間のない詰め方によって、いわゆる牡丹餅状の斑痕の出たものが多いです。
 以上が中世の備前焼の大要ですが、他の中世窯が器形や焼成技法の上で、東海諸窯の影響を強く受けているのに対して、あくまで須恵器の技法を踏襲し、それを独自に発展させていった点で、また今日まで無釉の焼締陶に終始した点で、備前焼は中世陶器のなかできわめて個性的なやきものであったといい得ます。

備前焼の変遷
 中世の備前焼については現在、6段階の変遷を辿ったことが知られています。すなわち、1. 平安時代末期~鎌倉時代初期、II. 鎌倉時代前期~中期、III. 鎌倉時代後期~南北朝期、IV. 室町時代前期~中期、V. 室町時代中期後半~後期、VI. 室町時代末期~桃山時代の6期に分かれます。第Ⅰ期から第Ⅱ期にかけての初期の備前焼はまだ還元焰焼成で、色調は灰黒色を帯びており、碗・皿・盤 水瓶などもわずかながら焼かれていて、前代の須恵器の伝統が残されています。形態的にみても第Ⅰ期のそれは須恵器と区別し難いものが多いです。備前特有の赤い火色があらわれるようになるのは第Ⅲ期からであり、壺類の肩に施された二重沈線がしだいに数を増やし、やがて櫛目に変化して器面を飾るようになるのも第III期からです。またこの時期に入りますと、窯は備前市の盆地西部から北・東 東南の谷奥まで拡散し、急速に生産を拡大させるようになる。それまで摂津の魚住窯、備中の亀山窯 美作の勝間田窯と競合し、地域的な窯業地に留まっていた備前窯はこのころからそれらの窯業地を駆逐し始め、さらに西日本を広く覆っていた常滑焼に取って代わる大窯業地に発展しました。室町時代に入りますと、さらに発展を遂げ、畿内をはじめ、西日本一帯の国産の壺甕擂鉢は備前一色と化し、北は関東の太平洋岸から南は沖縄までの広い範囲に供給されるようになりました。同時に寺院の常住物としての年紀銘物が数多くつくられるようになるのもこのころからです。15世紀末から16世紀に入りますと、広範囲に拡散していた窯は西大窯 北大窯・南大窯の三箇所に集約され、集中生産が行われるようになる。このような現象はひとり備前のみでなく、瀬戸・美濃、常滑、備前、信楽、丹波の各地においても同様です。六古窯とはこのような中世から近世への移行期における大窯期の現象なのです。そこでの生産は大中小さまざまの壺・甕擂鉢を始め、新たに加わった瓶類、鉢類などの供膳・貯蔵形態のほか、侘び茶の流行に伴って茶碗・茶入・ 花入 水指などきわめて豊富な器種を含んでいますが、信楽とともに備前において特徴的な器種は水指・花入です。近年、平安京左京三条四坊十三町遺跡において発見された豪商の屋敷跡からの一括遺品は桃山時代における地域の特産物の在り方をよく示しています。やがて桃山時代から江戸時代にかけて備前焼は塗り土から発展した黒褐色の伊部手に移行してゆきます。


丹波

 畿内西部の山間部に興った丹波焼は焼締陶のなかでは最も明るく、洗練された形姿をもっています。それは丹波が他の中世陶にくらべて鉄分の少ない灰白の素地に、高火度焼成によって淡緑色の自然釉が流れ落ちるようにかかった器肌の色調と、耐火度の高い陶土を用いた成形の確かさによるところが大きいです。
 ふるく小野原焼とも呼ばれた丹波焼は、兵庫県丹波篠山市周辺の山々で焼かれました。かつて、筆者は中世丹波焼の発生について、数多くの遺品から推して、鎌倉中期を遡るものはなく、備前などと同様に、平安時代の須恵器につづく中世の須恵器系陶器のなかから生まれてきたのではないかという考えをもつ一方で、丹波以外に考えることのできない古式の三筋壺の存在などから、東海諸窯との関連を模索してきました。ところが昭和52年に発掘された三本峠北窯の出土品は丹波窯が須恵器系ではなく、常滑 渥美窯と同様に瓷器系であることをはっきりと証明したのです。灰白色の素地に鮮緑色の自然釉のかかった壺・瓶・甕類や碗・鉢など豊富な器種を含んでいますが、そのうちの多くの壺 瓶類に三筋文や秋草文が施されていて、従来の中世丹波陶には予想もされなかった新しい陶芸の世界の存在したことが明らかとなりました。そればかりでなく、秋草文の一つは神戸市淡河の石峯寺裏山経塚出土の、永久5年 (1117) 銘経巻を併出した秋草文壺と素地・文様ともにきわめて類似しているところから、丹波窯の発生は12世紀前半代まで遡る可能性が生まれてきたのです。
 しかし、丹波窯は東海諸窯のように、その前段階に白瓷生産をもっていませんし、広汎に展開している周辺部の須恵器生産は丹波窯の成立後も消滅することなく継続し、明石市魚住窯のように須恵器系中世窯として室町時代初期まで続いていたことが最近の調査で明らかになってきています。
 一方、昭和55年に発掘された加古川流域の、西脇市緑風台窯跡群の二基の窯体は燃焼室と焼成室との境に分焰柱をもった東海地方の瓷器系の構造と同様であり、その出土品が12世紀前半代の猿投窯の製品と類似しているところから、その影響を受けて築かれたものであることが明らかとなりました。丹波窯が距離的にやや離れた緑風台と直接結ばれるかどうか、現在まだ確認し得ませんが、12世紀代に、須恵器窯の広汎に展開する畿内西部の地域内に、瓷器系の影響を受けて出現したとみなければなりません。

丹波窯の分布
 日本の中世窯のなかでも代表的な窯業地の一つに数えられている丹波はその製品が世上に数多く知られているにもかかわらず、現在知られている古窯跡の数は意外に少ないです。
 中近世に属する狭義の丹波窯は兵庫県丹波篠山市立杭付近から東南の三田市四辻にかけて、東西5km、南北5kmの範囲にわたって分布しています。それらのうち、中世窯の存在が知られているのは今田町側だけです。すなわち加古川の支流である四斗谷川が南北に貫流する今田町中心部の狭長な平地の東側にそびえる虚空蔵山(標高596m) の南半の山腹から山麓にかけて立地しています。それらは標高200~250mの丘陵斜面に分布する三本峠窯 (四基)、床谷窯(金兵衛山)、源兵衛山、太郎三郎窯、稲荷山窯の五群のみしかまだ知られていません。各群それぞれ数基の窯を含むとしても総数十数基にすぎません。しかし、これは調査の不充分さからくるものであって、現在知られている膨大な数量の遺品から類推すれば、古窯跡の数がこの程度のものでないことは疑いをいれません。以上の五群の古窯跡群は平安時代末期に遡る三本峠窯を最古とし、稲荷山窯が最も新しいですが、物原採集品を見る限り室町時代前半代までであり、それ以後の古窯跡はまだ確認されていません。近年、盆地西南部の釜屋地域から室町時代に遡る擂鉢を焼いた古窯が発見されているところから、稲荷山窯から釜屋窯への移動は従来考えられている以上に早かったのではないかと思われます。

丹波の製品
 中世の丹波窯で焼かれた器種を挙げますと、碗・皿・鉢・瓶・壺・甕茶陶類を始め、さまざまのものがあります。しかし、瀬戸 美濃を除く他の中世窯がそうであるように、中世の丹波も壺・甕擂鉢の三種の器物を中心としていて、さきに挙げた他の器種はわずかであり、時代によってその組み合わせに違いがあります。また主要三器種のうちで最も多いものは壺類で、甕はそれに次ぎ、擂鉢はきわめて少ないです。
 いま壺類についてみますと、丸胴形・長胴形・扁平胴形・ 短頸壺・広口壺・肩衝壺 片口壺など、七種類以上のものがあります。これらのうち、最も多く、また各期を通じて焼かれたのは、丸胴長胴二種の大形壺です。丸胴形と称するものは桐文壺のように、やや肩の張った高さに対して胴径の大きいもので、初期のものは肩から強外反する、いわゆる反り口の口頸部の付いた壺です。長胴形の「壺は 「布引」 銘の壺 (図150)のように、反り口の口頸部をもった、高さに対して胴の細長いタイプのものです。扁平胴形の壺は数は少ないですが、南北朝代から室町時代を通じて焼かれています。広口壺は菊花文壺や三本峠窯出土の陶片類に見られるように、大きくラッパ状に開く口頸部をもったタイプですが、初期のものにしかみられな広口瓶から転化したものでしょう。また、外反する口頸部の上半を立ち上がらせた受け口をもつタイプもあります。小形壺としては口縁の一部を折り曲げた片口壺などがあります。肩衝壺は長胴形壺の中・小形品の肩を直角に屈折させたもので、室町末から桃山時代にかけて出現します。
 次に甕についてみますと、丹波の甕には三種のものがあります。一つは高さに対して胴径の大きいものであり、いま一つは胴径の細いものです。前者は常滑などに似たタイプのもので、口縁部に縁帯をもいつものと丸口のものがあります。後者はやや遅れて出現しますが、二重口縁をもった丹波独特のものです。第三は室町中期になって出現するもので、幅広い緑帯の内湾するタイプです。
 擂鉢は丹波においては、江戸時代の登窯に移るまで生産量はきわ止めて少ないです。内面のおろし目は間隔の広い一本引きのもので、桃山時代までその手法を踏襲しています。
 また、初期の段階にのみ、碗 小皿 浅鉢などの食器類が焼かれています。碗は口径13cm前後高さ3.5cm前後のもので、轆轤成形で、底裏に糸切痕を残しています。小皿は口径7.6cm高さ2.6cm前後の粗雑なつくりのものです。この碗 小皿は東海地方の山茶碗 小皿のセットに対応するものです。
 つぎに瓶類では、室町後期に多くみられる徳利形のものがあるのみです。また、数は少ないが室町後期から緒桶が出現してきます。
 それらは桃山時代以降、一重口水指として用いられているものも多いです。以上のほか、桃山時代の窖窯末期に焼かれたものに大形の浅鉢とも大皿ともみられるものがあります。釜屋の古窯跡から出土しており、内面底部周辺部の数箇所に陶片を置いて重ね焼きしています。

丹波の製作技術
 丹波地方は古生層の間に噴出した花崗岩 石英粗面岩が広汎にみられ、基盤層を形成していますが、良質の陶土を供給する新三紀層の形成はみられません。現在、四辻で採掘されている陶土は石英粗面岩の上に堆積した沖積粘土で、鉄分が多く、やや質の悪いものです。
 文禄元和年間の土取場絵図によると、初期には三本 大南方面の山土が採取されていたことが知られ、中世では古窯跡付近の陶土が使用されていたことが明らかです。
 次に成形技法についてみますと、碗皿類などの小形品は水挽き轆轤成形ですが、壺・甕 擂鉢など大 中形品はいずれも紐土巻き上げづくりです。まず、台の上に灰をまいて円形の底打ちをし、太い粘土紐を巻き上げながら腰の部分までつくり、一旦乾燥させたのち、さらにその上に粘土紐を巻き上げながら継ぎ足してゆくとい成形法で、常滑や信楽と同様です。こうして形ができ上がりますと、器面は箟削りによって凹凸をなくし、木を横に用いて調整しています。ところが室町中期以降になりますと、いわゆる猫描手と称する、粗い櫛を縦に用いて器面を調整する方法がとられるようになりました。中世丹波における文様などの器面装飾は、平安末期から室町初期にかけての前半代にその流行をみました。それは秋草文や蓮弁文など渥美窯系の文様であり、まれに樹文系や桐壺などを描いたものもあります。
 丹波の焼成技法は古窯跡の発掘がまだ一基も行われていない現在、推測の域を出ませんが、その製品をみますと、常滑・渥美窯の系譜を引いていることは明らかであり、西脇市緑風台窯と同様な瓷器系の窯体構造をもつものであったと思われます。

丹波窯の変遷
 中世の丹波窯は現在、平安末~鎌倉初期から室町前期までの五地点、十基に満たない古窯跡しか知られていません。室町中 後期は伝世品が知られるのみです。しかし、初めにも述べたように、神戸市石峯寺裏山経塚出土の秋草文壺の存在から12世紀前半代に始まっていることは明らかです。丹波窯の変遷は平安末期から桃山時代まで6期に分けて捉えることができます。すなわち、I. 平安後期~鎌倉前期、II. 鎌倉中~後期、III. 鎌倉末期~南北朝期、IV. 室町前~中期 V. 室町中期末~後期、VI. 桃山時代です。第Ⅰ期の窯は三本峠北窯が知られるのみです。壺・甕擂鉢を主体としたこの窯ではとくに甕の生産が著しいです。甕の形態をみますと、口縁部のつくりや胴形が常滑渥美によく似ています。碗 小皿のセットがみられますが、その形態は前代の須恵器を踏襲しています。この時期に焼かれた壺類そのうち、特色のあるものは口頸部がラッパ状に開く広口瓶の系譜をひく反り口のもので、肩に秋草文を施したものが数点知られています。
 そのうちには神戸市石峯寺裏山経塚出土品のように渥美・秋草文壺に似た文様をもつものや、菊花文三耳壺のように優れた文様を描いたものもあります。また、中形の壺の肩に三筋文や蓮弁文を施したものも知られています。第Ⅱ期の鎌倉中・後期になりますと、碗 小皿類はなくなり、壺・甕・擂鉢の三器種の組み合わせが顕著となる。広口瓶の口頸部は直立するようになり、肩の文様はなくなります。壺甕類はその機能に応じて分化が始まり、丸胴壺・長胴壺、あるいは甕の胴径の太細など二種のものが生まれるとともに、大小さまざまの大きさのものがつくられるようになりました。とくに壺甕類の口縁が二重口になるのがこの時期の特色です。桐文壺はこの時期を代表する壺です。第III期の南北朝代で現在知られる窯は稲荷山窯のみです。
 壺甕類の諸特徴は完全に常滑的なものを脱して丹波になりきっています。壺類においても大小さまざまのものがつくられる一方、扁平丸胴壺や片口小壺が出現するなど器形の文化が進んでいます。第ⅣV~V期の室町中・後期においては古窯跡の存在は知られていませんが、伝世品の遺存はきわめて多いです。壺類は次第に口頸部の形成が顕著になり、口縁端も玉縁風のものに変化してゆきます。甕類も口縁を水平に折り曲げた丹波独特のものになる一方、新たに口縁の内湾するタイプが生まれてきます。この時期の大きな変化は器面の調整法としての猫猫手と窯印の出現です。これらは量産化に対応する手法であったと考えられます。第VI期の桃山時代は丹波における窖窯最後の段階です。慶長二年銘壺にみられるように、口頸部が内傾してくるとともに、新たに肩衝壺や大皿・ 緒桶などが出現します。茶陶類はわずかに水指をみるのみで、江戸時代に入って大きな展開を迎えます。

 

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