朝鮮 korea 解説

 井戸・熊川・三島・刷毛目・伊羅保・斗々屋などの朝鮮茶碗は、むかしは高麗茶碗といわれ、今でも茶人の間ではそうよんでいる場合が多いです。また茶方では、茶碗に限って朝鮮のものでも、唐物とよんでいます。高麗茶碗といっても、別に高麗時代のものという意味ではありません。朝鮮の茶碗がお茶で使われだした室町の末から桃山にかけての時代には、日本では朝鮮を高麗とよんでいました。秀吉の朝鮮役が高麗御陣といわれたように、朝鮮の茶碗であるから高麗茶碗とよんだわけです。
 高麗茶碗がお茶の場に登場してくるのは、室町末の天文ごろからで、ちょうど紹鴎時代に当り、堺の茶人がその口火をきったようです。在来の唐様を旨とした茶会は。新興の町衆が参加してくるにつれて、風態に著しい変化が生じてきましたが、まず端的に際立って目につくのは、道具の好みにおける推移です。堺は、当時における町衆の最も発達した地でしたが、その堺の茶の湯に、この傾向の歴然と現れたのは当然です。中華一辺倒の禅林から発した茶会が、当初唐様を貴ぶのは自然の理ですが、とくに人間的な感性を基調とする芸能的な催しが、やがては本然の日本人的な感覚によって浸透されてゆくのも、また自然の趨勢です。庶民的な体質のうちに固有の日本人としての無垢の感覚を伝承してきた町衆にとって、中華的な美の規範で律せられた唐様の茶会は到底なじめないものであったに違いありません。ことに堺の町衆は自由精神の最も旺盛な人々で、茶道具においてもその生ぶな感覚に根ざした好みを大胆に発揮しましたが、その頭領として堺の茶人を指導したのは紹鴎でした。下手の天目の灰被をとり上げたのも彼ですし、備前・信楽の美を努めて鼓吹したのも彼でした。
 従来の唐様の茶会では、茶碗といえば美々しい天目・青磁でしたが、同じ天目・青磁でも堺の茶人は、却って粗相な、従って感覚にソフトにとけこむ灰被や珠光青磁に魅力を感じました。珠光の好みは、茶における日本的な感覚の流れの先駆をなすもので、その象徴として珠光青磁の名が伝わるのですが、そのくすんだ釉調は日本人の本然の感覚には、綺羅びやかな砧青磁よりも、はるかにうなずけるものです。珠光青磁に限らず、人形手・ひしお手などの下手青磁の茶碗が、天文・永禄ごろの堺の茶人の間ですこぶる愛好されていますが、当時の茶会記の類に高中茶碗あるいは梅茶碗の名で見えているのは、すなわちこれら青磁茶碗の総称で、その共通の特色は、釉調が黄ばんでいることです。梅茶碗の名もそれからきたもので、ちょうど熟梅色に似ているからです。この色調に対する愛好は、日本人固有のもので、染色のうちでもとくに日本人好みのものです。
 しかし天目や青磁は、灰被や珠光青磁といえども。その形の上からいえば所詮規格的で、一律の感を免れません。日本人はその風土的な影響から、規則的なものや、極度に相称的なものを好まない性向がありますが、天目や青磁茶碗はその点、まず形の上でも日本人の肌にはなじまないようです。これを言葉をかえていえば、茶碗の場合でも、個々それぞれに違いがあり、また一つの茶碗でも、その形なり、釉調の上に変化のあるものを悦びます。つまり作風に個性的な特色の豊かなものを悦びます。
 ここに登場してくるのが高麗茶碗で、茶会記で見ても堺のお茶がいちばん早いです。堺の港には朝鮮通いの船も入り、おそらく茶の流行につれて高麗茶碗も、室町末といわず、その以前から渡っていて、堺の茶人には親しかったものと思われます。そしてまた高麗茶碗の個々に変化のある作風は、彼らの好みに叶うものであったに違いありません。紹鴫の唱導によって新傾向の好みはとみに強まったようで、堺の茶人山上宗二が「当代千万ノ道具ハ紹鴎ノ目利ヲ以テ被召出也」と記しているのでもその状は察せられますが、高麗茶碗の愛好もこれを機としていっそう高まったでしょう。その中でとくに興味をひいたのは井戸茶碗かと思われます。津田宗及の茶会記で永禄十二年の一会に、高麗茶碗について「色ウスキヒシホ色(枇杷色)也」といっているのは注目されるところで、その釉色が興を唆ったことが看取されます。との釉色はまた青磁の梅茶碗と共通するもので、井戸茶碗愛好の契機はおそらくこの辺に胚胎するものとみられ、それはまた高麗茶碗の中でとくに。井戸茶碗の名が逸早く先駆したゆえんかとも思われます。
 宗及の茶会記などでみても、彼ら堺の茶人の高麗茶碗に対する鑑賞は、土の色合いや、微妙な釉調のニユアソス、作行きの変化など、微細にわたっていますが、これは彼らが自由で個性的なものを好んだのに加えて、茶碗がことにただ見るだけでなくて、手にふれて仔細に味到するという点からも自ずと促されたものでした。三島などを除いて高麗茶碗のほとんどが、人為的な装飾を欠いていますが、一見無味の単調のうちに、茶人は人工の意匠にも勝る複雑な変化を見出し、深い魅力を探り当てています。高麗茶碗における新しい美の発見は、洗練されたそれぞれの感覚の協働によってもたらされたもので、いわば新しい美の領野であり、秀れた茶人の感覚によって創造された規範でもありました。
そのさ。い高麗茶碗が総じて土ものであるという点も注目されるところで、天目・青磁の堅い触感に対して、その和らかな手触りはまた、触覚上における大きな魅力でした。
 紹鴫時代から堺で流行した高麗茶碗は、利休時代になりますと、ひろく上方における茶の湯での主流を占めるようになりました。すなわち山上宗二が、「総別茶碗之事、唐茶碗ハ捨リタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也」と述べているゆえんです。これは要するに前記のように、唐様の好みの外被が剥離され、茶の湯において、本然固有の日本的な感覚が現れてきたからにほかなりません。
 桃山時代でも、井戸や三島の名がいわれた以外は、まだ高麗茶碗の総称で、各種の名ができたのは江戸時代に入ってからですが、粉引・刷毛目・熊川・井戸脇・堅手・呉器・金海・伊羅保・雲鶴・狂言袴・割高台・半使・御所丸・御本手などは、すで把元禄時代には使われています。これらの名称は、使用上の便宜から高麗茶碗が類別されるにつれて生れたものではありますが、それに伴って鑑賞はいっそう細緻になったことは争えず、これによって茶人の感覚はより鋭く練磨されていきました。
 高麗茶碗ブ~ムの桃山時代に起〈つた朝鮮役では、諸侯の興味が彼地の茶碗に注がれたのは当然で、西国の諸藩に役後帰化した朝鮮陶工によって製陶が始まったのも、大きな副産物でした。また高麗茶碗熱の赴くところ、初めからお茶の茶碗として、茶方の好みをうけて彼地で造られるものも現われました。御本茶碗はその歴然たるもので、織部御本の御所丸は中でも初期のものとみられ、利休御本の伝えも必ずしも無稽ともいわれません。なお茶方の好みにつながっている点で、伊羅保・斗々屋・彫三島・金海なども、要するに同じ範躊ということもできるわけで、高麗茶碗には井戸・熊川・三島・刷毛目などの、純然たる朝鮮産の系統と、茶方の息のかかった系統との二つの流れの存することが指摘されましょう。
 高麗茶碗特有の美ぼ俗に寂びといわれ、斗々屋・伊羅保・柿の敷の類はその点でことに典型的とされて、茶方ではこれを寂び物とよんでいます。暗渋の表現はまさに寂びというにふさわしいもので、それは高麗茶碗行脚のはてに、風土に培われた日本人の好みを基調とする茶人の感覚が創造した、という意味で独特のものです。しかし寂び物の表現は、一見人為を絶した無作のもののようで、それがまたともすれば一知半解の徒に、寂び物を素朴単純な雑器と思わせがちですが、その作陶の仔細をみますと、じつは、周到な意匠的配慮のなされていることに気づくのです。寂び物は高麗茶碗における魅力のいわば焦点ですが、その美はしかも高次の意匠の所産ともみられ、その間に茶方の好みの連関を偲ばせる趣もあって、いわゆる寂びの美の生成には単純に律しきれぬものがあります。


井戸
 井戸は高麗茶碗の王といわれ、また一井戸、二楽、三唐津などといって、茶碗の中での最高とされています。これはその姿が堂々として、作行きが秀れ、枇杷色の釉も美しく、また竹の節高台や、かいらぎなど、茶碗としての見どころがかね備わっているためでしょう。
 高麗茶碗を最初にとり上げたのは、日鮮交易に縁の深かった堺の茶人たちで、すでに天文ごろから使われていますが、中でも井戸茶碗はその見事な作柄だけでなく、釉色が彼らの好む黄ばんだ下手青磁の梅茶碗にも似ていますので、とくに興味をもたれて、井戸という特定の名で他にさきがけて評判されるようになったものと思われます。井戸の名はすでに天正ごろには生じていますが、これは奈良興福寺の寺臣井戸氏所持の一碗が当時名高く、それかち起ったものです。この井戸の起りである茶碗は、のちに筒井順慶に伝わって、深いので筒井の筒茶碗といわれ、略して筒井筒とHぱれ、井戸の中での名碗とされています。
 井戸手の種類は多いですが、筆頭は大井戸で、これは一名、名物手ともいいます。井戸として特色の最もよく現われた手で、前記筒井筒をはじめ、古来有名な喜左衛門(本多井戸)・細川・加賀・有楽・美濃・宗及・越後・浅野・松永・福島・坂本・九重・本阿弥・信長などの名物井戸はすべてこれに属しています。
 大井戸の名はその姿が堂々として雄大なのによるもので、じじつ井戸の中ではこの手のものが口径平均15cm強(五寸余)でいちばん大きいです。作行きに張力があって強く、形が整っている点から、生れた年代はそうとう古ぐ、すでに室町の中期には日本に渡っているかと考えられますので、李朝初期ごろのものとみてよいです。
 大井戸の素地は赤褐色で、一見粗いようですが、じつはかなり粘りのある土です。枇杷色の貫入釉が高台内までかかって土見ずの総釉になっています。これは井戸手の約束の一つであり、畳付は多く釉がすれて赤みの土を見せています。釉は透明ですが、釉溜りの部分は白っぽく不透明になっています。作りはやや厚手で、轆轤目が荒く立ち、高台はがっしりと大きくかつ高いです。見込みの茶溜りには目が五、六個ついているのが約束で、これはまた景の一つであり、大事な見どころになっ七います。この目は重ね焼きのときの小さな土塊のあとですが、重ね焼きでいちばん上に置いたのには当然目がありません。天下の三井戸といわれる喜左衛門・細川・加賀には、目がないのが特色になっています。
 高台脇は脇取びといって一気に削っていますので、素地がざらついている上に、この辺は釉の溶けがわるいですので、釉が粒々に固まっていわゆる鮫皮状になったり、あるいは厚く溜って縮れたりしています。
これが、井戸において茶人の最も悦ぶいわゆるかいらぎ(梅花皮)で、井戸最大の見どころとなっています。
 かいらぎというのは、刀の柄や鞘の飾りに使った魚皮のことで、それに似ているのでいわれました。蝶鮫の皮としたのは間違いで、じつは南方産のアカエイに似た魚の皮です。このかいらぎは高台内にもできます。高台はまた脇取りのためにいわゆる竹の節高台となり、高台内には削りで中心に兜巾とよばれる突起ができています。
 以上の特色、すなわち枇杷色釉・竹の節高台・かいらぎ・兜巾・脇取り・胴の轆轤目(俗に井戸四段といわれます)・見込みの目・総釉(土見ず)、これらは井戸茶碗の見どころないし約束とされる、鑑賞上大事なポイントです。中でも枇杷色釉・竹の節高台・かいらぎ・轆轤目・目の類は、井戸としてとくに大事な約束で、井戸茶碗の魅力の秘密は大半これらのうちに蔵されています。また快い手取り感は高麗茶碗の眼目の一つですが、井戸のざんぐりした手取りの感じはことに素晴らしいです。
 大井戸は素地の点から、南鮮の慶尚南道の産とみられますが、おそらく室町以後日本と交易の多かった熊川港に近い、晋州付近の窯のものだろうといわれています。
 大井戸に対して小井戸があります。小ぶりな点から出た名ですが、作風や釉調においても、大井戸とは違いがあります。代表作に六地蔵と忘水があり、いずれも中興名物で、小井戸の双璧をなしています。いずれも薄手の華奢造りで、茶臭の好みが感じられます。大井戸よりは時代が下り、李朝中期とみられます。
 青井戸は、釉調が青みに上っていますので、この名があります。素地は大井戸にくらべて鉄分が多く、褐色がかっています。釉は厚めで光沢がなく、失透ぎみでやわらかく生焼けふうです。青みに上がるのは、窯の癖でしょう。総釉でかいらぎや目もあり、轆轤目もよく立って、作風は大井戸に似ていが、焼成火度は彼より低いようです。大井戸にくらべて厚手で、作行きも鈍く、下手です。しかしその寂びた趣は、かえって佗び茶には恰好です。形は概して小ぶりです。青井戸の随一といわれる柴田井戸は、作行きもよく締って轆轤目もきりりとし、釉色も美しい枇杷色に上って、としてはむしろ異色に属します。有名なものに、柴田のほかに。宝珠庵・蓬莱・竹屋・升屋・瀬尾などがあります。
 作風からみて大井戸よりも時代が下るでしょうが、この点はまた大井戸の銘となった所持者が多く室町の末から桃山にかけての人であるのに対して、青井戸の銘では江戸初期以降の人であることも、青井戸の日本へ渡った年代が大井戸よりも下ることを物語るiので、青井戸の年代の下ることをしぜん示唆するといえましょう。すなわち李朝中期(日本の江戸初期)の作とみられ、産地はやはり慶尚南道でしょう。
 小貫入とは釉に細かいひび(貫入)があるのでいわれた名で、一名小ひび手ともいいます。小ぷりで、素地は堅めです。李朝中期の作でしょう。
 井戸ふうではありますが、素地とかあるいは釉が多少違った類を、井戸に近い、井戸の脇にあるという意味で、井戸脇とよんでいます。しかしこの中には種々のものが含まれていて、とうてい一つの特色で表わすわけにはゆきません。概して堅めで、下手なものが多いです。尤恚、中には長崎久太夫がとり上げて名物になった、長崎という銘の井戸脇のような名碗もあります。李朝中期以降の作で、晋州付近の窯の産が多いようです。


呉器
 呉器は五器とも書きますが、本来は御器(木椀)で、形が似ているのでこの名があります。俗に呉器なりというように、形に特色があって、椀なりで高台は高く、裾で開いた撥高台になっています。素地は黄土色でキメの細かい粘りのある土で、半透明な淡青みがかった釉がかかって、柿色あるいは青みに上がっています。釉は高台までかかり、総釉で、高台内はすくったような丸削りです。呉器なりの碗は高麗青磁にもあって、李朝の呉器はその流れをくむものであ&が、端正で作行きの鋭いものは李朝初期を下らぬとみられ、窯はおそらく慶尚南道でしょう。
 呉器は形のきまったものだけに、釉なだれとか、掛けはずし(釉をかけ残したいわゆる火間)や指あとなどの偶成の景をとりわけ悦ぶものです。茶人は寂びといっても決して単調に甘んずるのではなく、作行きと同様に、釉肌の上でも変化があり、見どころのあるのを賞美します。雨漏りや火替りなどもその好例です。
 呉器には大徳寺呉器・紅葉呉器・錐呉器・番匠呉器・尼呉器・遊撃呉器などの各種があります。御本茶碗にも呉器手をまねたものがあり、これは御本呉器といいます。
 大徳寺呉器というのは、室町時代に朝鮮の使節が京都の宿所大徳寺で、帰国の際に記念として、持参の呉器を寄進したのが名の起りで、以来同じ手のものもそうよんでいます。呉器の中では最も古く、大ぶりで高台は高く、外開きの撥高台も強くて、姿も堂々としています。口縁は玉縁で、青みに上がっています。
 紅葉呉器は大徳寺呉器の上手で、とくに作行きが秀れ、撥高台も見事で、やや小ぶりで凛々しい姿をしています。総体赤みに上がり、白い釉溜りや指あと、あるいは掛けはずしの景に、火替りの青みも交じって、独特の美観を呈しています。肌の赤みから紅葉呉器の名があります。世に稀なもので、加島屋(広岡家)と千種屋(平瀬家)の両碗は双璧として有名です。
錐呉器は薄手で、小ぶりなものが多いです。薄柿色に上がり、上手には摘み出しがあります。見込みの茶溜りが錐で突いたように凹んでいるのが名の起りといいますが、また胴や高台際に錐で引っかいたような筋があるからともいいます。一説に切高台のものを切呉器といったのが、転じたともいっています。また番匠呉器は番匠(大工)の使う木椀に形が似ているからともいわれ、尼呉器は口造りが姥ロふうなのを尼法師にたとえたといいます。


粉引
 粉引はまた粉吹ともいいます。茶人特有の端的な名称で、白泥が全面に引いてあるからです。つまり粉引とは、素地の全面に白泥を化粧がけして、これに透明な釉をかけたものです。白化粧をする手法の点で刷毛目・三島と共通懲、年代もほぼ同一とみてよいです。鉄分を含んだ素地ですので、その色をかくすために一種の装飾として白化粧を施したものです。
 粉引の素地には、細かい黒褐色のものと、粗い淡褐色のものとの三種があります。前者には薄手で端正な上手が多く、白髪美しい純白で、光沢のある透明釉がかかり、高台にも畳付の薄い、いわゆる薄輪高台のものがあります。またこの手には、たいてい外側に笹葉状の火間があります。後者は、これも概して薄手ではありますが、作行きは前者よりも劣り、白化粧の色も前者ほど冴えず、釉にも光沢がなく、いったいに下手な感じです。上手な方が作風や形からみて時代は古く、李朝初期は下らないとみられます。
全羅南道の宝城が粉引の産地として知られています。


三島
 三島手は細かい白象嵌の地紋のあるもので、その縦に並んだ文様がちょうど伊豆の三島神社の三島暦に似ていますので、三島といわれ、また暦手ともよんでいます。
三島手は、同じ小紋を押し型で一面に押し、それから表面に白い化粧土を刷いてふきとり、文様の部分だけを象嵌ふうに白く表わしたものです。しかし、たいていはやり方がぞんざいですので、白い刷毛目のあとが残ったり、白化粧がそのまま残って粉引のようになっています。それがかえって佗びた味があって、茶人には悦ばれます。素地には産地によって、淡茶色のものや、褐色のものや、いろいろあります。形にも椀なりのものや、浅い平茶碗などがあります。また総釉です。
 三島手の手法は高麗象嵌青磁の流れをくむもので、いわばその退化したものともいえますが、高麗末期に始まり、李朝の初期から中期にかけて南鮮一帯で焼かれました。秀吉の文禄・慶長の役の戦災や飢饉のために南鮮が荒廃疲弊するとともに、その打撃で製陶も一時極度に衰え、これを機として三島手も以後しだいに滅び去りました。
 三島手も高麗茶碗の中では、井戸と並んで最も早く日本に渡り、その特色ある文様によって逸早くとくに三島とよばれ、すでに室町の末ごろから堺の茶人の間で愛好されていました。茶人は三島手をいろいろに分けていますが、古三島とは古渡旦二島の意で、端反りの碗なりの姿が特色です。小さな菊花文様のあるのは花三島といわれ、見込みに幾筋も渦文のあるのは渦三島といいます。また三作三島とは、内面が三島で、外側は粉引、高台脇が刷毛目のものをいっています。
 礼賓三島とは、見込みに礼賓の文字が象嵌してあるもので、平茶碗が多いです。李朝時代の役所に、外国の賓客を接待する礼賓寺というのがありますが、礼賓三島はがんらいこの役所の調度品で、したがって上手物が多いです。この銘がなくても、この手の上手の三島は、ときに礼賓手とよんでいます。このほか李朝の役所の、長興庫・内資寺・内嫌・司膳・仁寿府などの銘の入った三島手もあります。長興庫というのは調租の収納を管理する役所ですが、これに慶州・慶山・密陽・昌源・晋州・彦陽・金海・梁山・蔚山・高霊などの産地名が冠せられています。礼賓寺以外の役所の銘のあるものでも、ひとしく礼賓手とよんでいます。この役所銘のあるわけは、李朝では調租として各地から陶器も上納させましたが、高麗朝以後の積弊で役人がこれを着服することが多いですので、それを防ぐために太宗の時代に、使用する役所の名を一々の器物に明記すべしという法令が出されたからです。室町時代に渡鮮した日本の使節が接待されるのは礼賓寺でしたから、そんな関係でしぜん調度品の礼賓三島を入手する機会も多かったものか、役所銘の三島は伝世品では礼賓銘のものが最も多いです。礼賓三島の手は案外室町も早くから、有識者の間では珍重されていたのではないかと思われます。
 鶏竜山窯趾(忠清南道)発掘のものは、鶏竜山三島といわれ、大いに愛好されています。鶏竜山からは三島手のほかに、刷毛目・絵刷毛目・掻落し手・天目釉・白磁など各種のものが発掘されていますが、ここの三島や刷毛目の茶碗は、素地は褐色で薄手、作行き鋭く、高台も小さくひき締って、いかにも軽快なきびきびした感じで、三島手の中の異色です。伝世品の中にも鶏竜山三島があり、上田暦手などはその好例です。


刷毛目
 白泥の刷毛目ありますので、この名があります。粉引の白化粧が簡略されたのが刷毛目で、素朴ながら一種の文様効果をあげています。刷毛目茶碗では、生きのいい刷毛目の味が、軽快な作行きと相まって大事な見どころとなっています。
 三島手同様、李朝初期から中期にかけて南鮮一帯で焼かれたもので、作風の上でも三島手と共通するものがあり、いわば兄弟同士といった感じで、三島刷毛目とひっくるめてよびたいほどです。鶏竜山では三島手と一緒に焼けていて。年代はほぼひとしいです。
 白化粧の手法は高麗末期からおこなわれ、掻落し手がそれですが、刷毛目の手法もその流れをくむもので、白化粧の手間をはぶき簡便にしたものです。刷毛目と三島では、刷毛目の方が手法的には三島よりもいっそう単純なだけに、味わいにおいてはかえって勝るものがあるともいえましょう。
 刷毛目も総釉で、高台は竹の節、高台の中に兜巾を見ますが、茶人は刷毛目を分けて、古刷毛目・塚掘(古墓発掘)刷毛目・稲刷毛目・無地刷毛目・鶏竜山刷毛目などとしています。古刷毛目とは古三島同様、碗なりで端反り、高台は井戸に似て手強いです。稲刷毛目というのは、刷毛目がはっきりしないので否刷毛目といったのに稲の字を当てたものです。鶏竜山刷毛目も薄作で鋭く、高台も小ぶりで締っています。無地刷毛目とは、刷毛目が全面にあって粉引のようになったもので、ただし外面の腰以下は刷毛目のないのが約束です。この手は主に務安地方(全羅南道)で焼かれました。


割高台
 割高台とは高台が四つ割りになっているのでいいます。素地や釉からみると各種があって、堅手もあれば熊川ふうもあり、時代にも新古がみられます。李朝の祭器が見立てられたものもあれば、これに倣って茶人の好みで造られたものもあり、「概にある特定の窯の作とすることはできません。しかし遺品の大かたは作風の上からみてお茶の息のかかっている感じで、これらは江戸初期釜山に近い金海・晋州などの窯で造られたものでしょう。割高台が愛好されたのは、文禄・慶長の朝鮮役以後のことで、はじめ織部がとり上げて、しだいに武将たちの間でもてはやされたのが起りのようです。


熊川
 熊川も古来茶人には親しまれてきた茶碗です。熊川の名は、釜山に近い熊川の地名から出たものです。熊川は室町時代を通じて日鮮交易の最も盛んにおこなわれた港で、ここには当時日本人も多数居留し、長年にわたって倭館(今の領事館)も設けられていて、我が国には至極なじみの深い地でしたが、当時の日本人はこれを誂った和訓で「こもかへ」とよんでいました。現に秀吉の朝鮮役当時の文書の中にも、熊川に「こもかへ」と傍訓しています。それで伊万里港から船積みした有田焼が伊万里焼とよばれなと同様に、ごもかえ港から輸出された付近の窯の茶碗が、日本ではもかえといわれたのでしょう。熊川の近くでは、晋付州近の窯のものがよく熊川手に似ていますので、熊川茶碗はおそらくこの窯の産とみられています。年代は李朝の初期から中期にかけてのものでしょう。
 熊川の特色はまずその形にあり、俗に熊川なりとよばれるもので、胴は丸く張って端反りになっています。素地は白いですが、ときに赤土もあり、この手は紫熊川といわれます。いずれも細かい粘りのある土です。釉はふつう枇杷色で、釉調はやおらかく、細かい貫入があります。伝世品では釉肌は多く青みがかっています。またよく雨漏りの景があります。高台は竹の節でがっしりしており、高台内は丸削りになっています。高台は釉がかからず土見です。見込みの茶溜りは円く落ちこみ、これを鏡とか鏡落ち、あるいは輪とよんで、熊川の約束になっていますが、鏡は小さいのが良しとされています。
 熊川は熊川港の歴史からみて、すでに室町時代には渡来していたのではないかと思われ、茶碗としての登場は三島や井戸同様案外古いかと思われます。それで熊川は早くから茶人に親しまれたようで、古唐津や古萩でも熊川に倣ったものが多く造られています。茶人は熊川を分けて、真熊川・咸鏡道・紫熊川・鬼熊川・平熊川・後熊川・滑熊川などとしています。
 真熊川とは熊川の本手で、形は深めで端正な姿をして上品です。素地捨細かい粘りのある白土で、細かい貫入のある、やわらかい枇杷色釉がかかっています。高台は竹の節で、内にはちりめん皺が出ています。高台は土見ですが、伝世品では素地が汚れて茶褐色になり、釉肌も青みや柿色がかっている場合が多く、また雨漏りもよく見うけます。上作は薄手で高台も小さいです。不昧伝来の千歳はその代表作です。茶人が或鏡道(河澗道)というのは、真熊川の極上手です。真熊川の土や釉は晋州付近の窯のものによく似ており、その産とみられています。
鬼熊川は真熊川にくらべて下手で、作行きに強い感じがあるのでこの名があります。真熊川より厚手で、作行き手強く、浅めで、見込みの鏡は大きくて砂目です。素地には白土と赤土があり、高台削りは荒く、竹の節高台も手強いです。釉は多く枇杷色で、火替りや雨漏りもあります。また失透の白釉のかかったものもあります。鬼熊川にはまた真熊川とは違ったくだけた味わいがあって、茶人に悦ばれています。平熊川は赤土の紫熊川に似たもので見込みには鏡がなく、後熊川は時代の下る後渡り物で土見ずであります。


玉子手
 玉子手の名はその釉肌の色からきています。形は端反りで胴が丸く熊川に似ていますが、熊川にくらべて腰がややしまぴ、彼より浅めに見えます。薄作で、素地は細かく粘りのある白茶色の上土で、これに貫入のある、やおらかい半透明の乳白色の釉が裾までかかり、高台は土見になっています。竹の節高台で、高台内には兜巾があり、また細かいちりめん皺があります。茶溜りには鏡があり、小さな目があります。
口縁から裾にかけてよべ竪貫入があり、約束といわれています。真熊川系の一種上手のものとみてよいです。
真の玉子手は世に稀なもので、世上いわゆる玉子手の多くは、堅手や粉引などを誤ってよんでいる場合が多いです。玉子手はまた一名「和らか手」ともいいます。


堅手
 堅手とは手触りの堅いところから出た名です。李朝白磁の系統のもので、作風や種類にはさまざまあり、年代もまた李朝初期から中期にわたっています。
 しかしとくに賞美されるのは、土味のざんぐりした、釉調のやわらかく厚めにかかった、作行きに変化のある手です。伝世の堅手茶碗の多くは南鮮の慶尚南道の産で、河東・金海などの窯でできたものとみちれます。
 堅手の中でとくに悦ばれるのは、古渡り堅手、すなわち古堅手です。この手は陶質の感じで、ざんぐりとして手取りが軽く、釉はやおらかく潤いがあって、荒い貫入があり、失透ぎみで粉引のように見え、厚くかかっています。多く土見ずで、作行きは軽快で変化があり、轆轤目が立って、竹の節高台になり、ときにかいらぎもあり、作風には井戸や三島・刷毛目の類と共通した感じがあります。古堅手には大てい紫じみがあって、茶人の悦ぶ景となっていますが、これを雨漏堅手といいます。茶人は釉肌のしみを雨漏りといいますが、これは粉引や熊川にもよくみますが、ことに古堅手では釉調のせいでひときわ美しいです。
 秀れた古堅手は多く釜山に近い金海窯の産とみられますが、長崎久太夫所持の長崎堅手や、御所丸・金海もこの窯でできたものです。堅手でいちばん多いのは、金海産の金海堅手で、この手は表面に針で突いたような小さな穴が点々とあって、その周りが淡桃色に赤みざしているのが特色です。この赤斑は御本茶碗に多いので俗に御本といわれています。堅手にはこのほか、白手・鉢の手・砂堅手・絵堅手などがあります。


蕎麦
 蕎麦の字はがんらいそば(側)に当てたもので、もとは井戸脇と同様井戸の側という意から出た名です。それからまたひいて色合いが似ていますので、一つにそばかすともいいます。井戸そっくりの作風で、蕎麦茶碗の素地や釉だちのものがあり、古い箱書にソバ井戸ないし井戸ソバとありますが、この手がそもそも蕎麦茶碗の本歌ではないかと思います。
 ふつうに蕎麦という手は、まず形に特色があり、俗に蕎麦なりといわれます。やや厚手の平らめの茶碗で、縁は抱えぎみになり、茶溜りは広くて一段と凹み、従って腰で段ができ、高台は大きくて土見ずであります。素地は白茶がかった砂交じりの土で、失透ぎみの釉がかかり。見込みには目があって、ときに青みの火替りがあります。また素地や釉の青井戸とよぐ似た青蕎麦という手もあります。蕎麦にはたいてい火替りがあって、その趣には本手斗々屋などと共通するものがあり、茶人の息のかかっているかを思わせるものがあります。


斗々屋
 斗々屋の名は、堺の豪商魚屋がこの手の碗を一と船朝鮮から取り寄せたのが起りであるといいます。古くはざらめきといいました。斗々屋は伊羅保や柿の希とともにとくに寂び物といわれ、高麗茶碗の中でも茶人に別して賞美されるものです。これはその暗渋な味が茶趣に富むと同時に、冴えた茶の色と対照しての深い魅力によるものでしょう。
 素地は褐色の細かい粘りのある土で、青苔色の釉がかすれたようにごく薄くかかって、高台は土見ずであります。鹿の子の赤斑(御本)がよく出る土で、釜山付近の土でしょう。斗々屋独特の鮮やかな赤みの火替りも、この土なればこそです。素地には水挽きのときの挽き目の細筋がはっきり出て、一つの見どころになっています。薄手で鋭い作行きも大きな特色で、高台内には美しいちりめん皺ができて、兜巾を囲んだ状がちょうど椎茸の裏を見るようですので、俗に椎茸高台とよんでいます。これも見どころの一つです。
 斗々屋賞美の眼目は、青鼠がかった渋さのうちに華やかな赤みのあることで、寂びの味は鋭くすっきりした作行きによっていっそう効果を高めています。斗々屋の作風を細かく見ますと、一見無造作のようで神経がよく行きわたり、まことにお茶に真向きで、とうてい単なる日用の雑器として生れたものとは合点されません。本手斗々屋における切回し(口縁を箆で切り回すこと)のごときも、端的にそれを物語るもので、要するに茶人の息がかかり、釜山付近の窯でできたものであろうと思われます。
 茶人は斗々屋を主に形の上から、本手と平茶碗の手に分けています。本手斗々屋はことに珍重されるもので、形に特色があり、腰で段をついています。赤みあるいは青みに上がりますが、赤と青と片身替りがとくに賞美されます。口縁には切回しがあり、高台は竹の節、高台内には兜巾が凛々しく立ち、周りには細かいちりめん皺が見事です。見込みには目が獲洒に並び、肌には挽き目の細筋が美しく、いずれも大事な見どころとなっています。本手斗々屋は概して大ぶりで、それだけに締った小ぶりの作が珍重されます。本手斗々屋などは、ことに茶人の好みに出たとみられるふしが多いです。
 平茶碗の手も、軽妙な続櫨で挽かれて、薄手によく締り、斗々屋独特のきりりとした特色はこの方によく出ています。赤みに上がったものが多いですが、青みに上がった恚のを青斗々屋といって上作としています。また火替りはことに悦ばれます。土は本手斗々屋よりも細かく、俗にこし土の斗々屋といわれるほどで、高台のちりめん皺もいっそう見事です。見込みには意気な小さな目がたいてい八つくらい並んでいて、そのしゃれた状は、茶人の息のかかっていることを感じさせます。


柿の蔕
 柿の蔕の名は、形や色合いが似ているところから出ました。また寂び物の雄たるもので、数の少ないものです。有名なものに大津や毘沙門堂などがあります。独特の形で。伏せた姿はまったく柿の蔕そっくりです。口は抱えぎみで腰で段をつけ。懐が広いです。厚手だが土味はざんぐりしていて手取りは軽いです。
口縁には箆で切回しがあり、いわゆる樋口になっていますが、これも約束の一つです。腰の段がはっきりとつき、切回しの鋭いのが悦ばれます。高台は大きく、撥高台で、これも約束です。高台内はえぐったような丸削りです。素地は褐色で、粘りのある砂交じりの土です。青みがかったいわゆるビードロ釉が、高台までごく薄くかかっています。素地には水挽きのときの細筋の挽き目があり、見込みには目があります。素地の挽き目は、すべて寂び物では大事な見どころとなっています。柿の希はその土質から見て慶尚南道の産とみられ、本手斗々屋や伊羅保と共通の技巧的な切回しがあったり、作行きや釉がかりに異風なところのある点からみて、茶人の息がかかっている感じが多分にあり、江戸初期釜山付近の窯で造られたものかと思われます。


伊羅保
 伊羅保の名は、肌がいらいらと荒いところから出たものでしょう。箱書には、イラホ・出鮑・意羅保・伊良保などとも書かれています。伊羅保には種々の手がありますが、共通の特色としては、素地は褐色の砂交じり土で、粘りがあり、挽き目の細筋がみられ、特有の伊羅保釉が高台にまでかかって土見ずで、やや厚手、形は深めで、胴は余り張らず、腰から口までまっ直ぐのびて、口が大きく開いた感じで、高台も大きいです。砂交じりの土は、寂びた味を添えるだけでなく、茶も点てやすいです。
 伊羅保は寂び物でも筆頭格ですが、これも細かく見ますと、その作風にはすこぶる神経が行き届いていて、お茶に真向きにできています。切回しやべべら・内刷毛・片身替り・釘彫りなどの意匠や技巧をみても、また、千種伊羅保・片身替伊羅保・釘彫伊羅保・碗形伊羅保・黄伊羅保などの仕分けをみても、これは明らかに茶人の好みに出た切形で作られたものと考えざるを得ないでしょう。伊羅保は江戸初期に釜山に近い昌基の窯で焼かれたものとされています。茶人は伊羅保に限って、少しの傷や繕いでも許さぬ慣わしになっています。
 伊羅保手は、古伊羅保・千種伊羅保・片身替伊羅保・釘彫伊羅保・碗形伊羅保・黄伊羅保などに分けちれています。古伊羅保は大ぶりで、口縁に切回しがあり、竹の節高台は大きくがっしりしています。
砂交じりの素地には、ときに石はぜがあり、景となっています。見込みには白い刷毛目がゆるく一と回りありますが、これは伊羅保の内刷毛といって大事な約束になっています。口縁には伊羅保特有のべべらがあります。ベベらというのは。轆轤で成形のときに土が不足して口縁が切れたのを土を補って直したもので、伊羅保では景の一つになり、約束になっています。切回しといい、内刷毛といい、ぺべらといい、すべてお茶向きの趣向から出た意匠といってよいです。
 千種伊羅保も、片身替伊羅保も、ともに古伊羅保の一種です。千種伊羅保は片身替伊羅保に類し、同手といってもよいですが、極上手として別格に扱われています。千種伊羅保の名は、本歌の平瀬家伝来のものが、もと千種宰相所持に因んでいわれたもので、他に不昧伝来のものがあります。片身替伊羅保は、伊羅保釉と井戸釉のかけ分けになったもので、それが特色になっています。口縁はやや端反り、一か所に押えがあり、鋭い切回しがあって樋口になっています。見込みには刷毛目が半回りしていて、これを片刷毛といいますが、必ず刷毛先を見るのが約束になっています。またべべらや石はぜがあります。竹の節高台は井戸ふうで、がっしりと手強く、兜巾は丸く大きいです。片身替りの手は古伊羅保の中でも格別賞美されて、古伊羅保を代表しています。
 釘彫伊羅保とは、高台内に釘で彫ったような渦状の彫りがあるのでいいます。作風は古伊羅保同様手強いものです。素地は赤茶色の粘りの砂交じり土で、石をかんでいて石はぜの景になっています。切回しはないが口造りは山道になり、べべらがあります。他にくらべてやや胴張りで、裾削りや脇取りがあり、作行きに趣を加支ています。伊羅保釉は薄くかすったように高台までかかっています。濃淡とりどりの青苔のような釉と、素地の赤みとが入り交じって、複雑微妙な色合いを呈して独特の深い魅力をたたえています。肌全体にうるみがあり艶高いですが、ことに釉のかすれている所などは赤みが強く、肌に照りがあります。強い赤みは釘彫伊羅保独特のものですが、土質のよさによるものです。他とちがって高台は竹の節でなく、畳付も平らで切高台になっています。この切高台も他の伊羅保とちがう釘彫手の約束の一つです。高台内は、これまた古伊羅保や片身替りの手とちがって、兜巾はなく平らで、太い釘でぐいぐいと彫ったような渦状の彫りがあります。これが釘彫りといわれるゆえんで、最大の特色です。
昔は玄悦伊羅保のように釘彫りが高台を切って裾まで延びたのを、本手釘彫りといって珍重したこともありますが、これは時代の下るものです。がんらい釘彫手は数のごく少ないものですが、その中でもことに秀れた数点は、作風や釘彫りの手癖が酷似していますので、おそらく同じ作人の作かとみられます。釘彫手も茶人の切形によって昌基の窯で造られたものでしょう。碗形伊羅保というのも、釘彫手の一種ですが、これも数の至って少ないものです。
 黄伊羅保というのは、黄伊羅保釉のかかったもので、本手と並の手の両種に分けられます。作風は古伊羅保に似ていますが、素地は白めです。本手では切回しがあり、樋口が約束になっています。釉はかすったようにかかって濃淡があり、景をなしています。口縁のべべら、見込みの砂目、竹の節高台など、すべて約束です。


彫三島
 彫三島とは、檜垣の彫り文様が三島ふうになっているのをいいます。たけは浅めで、大きさもほぼ一定し、口縁から内外にかけて、檜垣の彫り文様が二段ないし三段回っています。見込みや、まれには裾回りにも、押し型の菊花文様があり、その上からかけた白刷毛が文様の部分だけ白象嵌になっています。
釉は半透明で高台までかかり土見ずであります。素地は茶色の粘りのある土で、火替りのあるものはとくに悦ばれます。見込みには目が八つくらいあり、高台内には兜巾が立って、ちりめん皺が出ています。
 花形の文様が外側にあるのは珍しく、この手を外花といって珍重しています。外花の数はたいてい十六です。外花手はふつうの彫三島にくらべて、作ぶりも秀れています。彫三島はふつうの三島手とちがつて、茶人の息のかかった一種の形物茶碗といった感じがあり、やはり江戸初期、釜山付近の窯でできたものでしょう。


雲鶴
 象嵌青磁の筒茶碗で、主に雲鶴意匠なのでこの名があります。これには高麗時代の作と、李朝中期(江戸初期)のものと二種類あります。
 高麗時代のものは、区別して古雲鶴ともいいますが、京都の茶人匹田宗観所持のいわゆる匹田筒などはこの手です。また胴に丸紋のあるのは、この丸紋が狂言師の袴の丸紋に似ていますので、一名狂言袴ともいいます。このうち筒の深めのものは、茶臼の挽木にかぶせる鞘にたとえて、挽木の鞘とよんでいますが、利休所持のものが有名です。狂言袴の手は厚手で、釉肌はくすみ、釉も厚くかかって土見ずで、砂高台になっています。高麗末期の作とみられますが、桃山時代にはその佗びた趣で愛好されました。
 江戸初期になって古雲鶴をまねた作が、釜山付近の窯で焼かれましたが、これが雲鶴筒茶碗です。高麗時代の古雲鶴には、生ぶな自然らしさがあるのに対して、後者にはやはり作意的な面が感じられます。
形にも裾張りや大きな割高台など異風のものが多く、また見込みには篆書ふうの角印があり、釉がかりも厚く、釉調には特有のうるみがあり、火替りのあるものが多いです。時代はちょうど織部好みの流行したころですから、そんな影響もあって異風な雲鶴も生れたのでしょう。この手も要するに御本茶碗の一種とみられましょう。


高麗
 高麗茶碗でどの手にも入れ難いものを、高麗とよんでいます。有名なものに、利休・荒木道薫伝来の荒木高麗、紹鴎所持の白鴎および頭巾、遠州書付の邪高麗・飯櫃高麗・高麗色替りなどがあります。また柿高麗や黄高麗など、その色合いでよんでいるものもあります。


御本茶碗
 御本とは御手本のことで、日本から御手本(切形)を朝鮮に送って、釜山の倭館窯やその付近の窯で焼かせたものを御本茶碗といいます。時代は慶長から享保までわたっています。
 文禄・慶長の朝鮮役後、しばらく日鮮の国交は絶えましたが、慶長十二年講和成立とともに、一時廃されていた倭館が釜山の豆毛浦に設けられました。やがて寛永十六年には、徳川三代将軍家光の命による茶碗注文を機として、慶尚南道の河東や晋州から陶土をとり寄せ陶工を招いて、朝鮮側で倭館外に窯をも、その注文は宗家の所管でした。豆毛浦の倭館は延宝五年まで続き、翌六年から同じく釜山の草築いたといわれています。日鮮の国交回復後は対馬の宗家が交易の衝に当り、幕命による御本茶碗の類梁に移されましたが、ここでは宗家によって倭館内に築窯され、金海・晋州・河東・蔚山・密陽など各地の陶土をとり寄せて、日本陶工の指導下に朝鮮陶工を使って各種の茶碗が焼かれました。
 この窯もやがて享保二年には廃されました。豆毛浦および草梁の両倭館窯の期間はそれぞれ約四十年間ですが、豆毛浦倭館の時代における盛況にくらべて、草梁倭館窯は振るわなかったようで、作風においても劣っています。前記の伊羅保・彫三島・雲鶴などは一種の形物茶碗で、御本茶碗に属するものとみられますが、その年代は豆毛浦倭館の時代でしょう。


御所丸
 御本茶碗といえば寛永以後の釜山窯の作をさす場合が多いですが、すでにそれ以前から歴とした御本茶碗があります。御所丸がそれです。御所丸については、元禄の茶書にも織部好みの御本手とはっきり書かれていますが、御本茶碗としては年代の最も古いものです。釜山に近い金海窯で焼けた金海堅手の一種で、一に金海御所丸ともいいます。のちに釜山の倭館窯でこれをまねた御本御所丸に対して、本手御所丸とよんでいます。
 御所丸の名の起りは、朝鮮役に島津義弘がこの手の茶碗を彼地で焼かせ、御用船御所丸で秀吉に献上したのに因むといいますが、御所丸の船名は、博多の豪商島井宗室関係の天正年間の文書にも、対鮮貿易船として見えており、室町時代から朝鮮関係の御用船には通じてつけられた船名です。
 御所丸はまず形に特色があり、織部好みの沓形で厚作り、ロ縁は玉縁で、胴締めで腰は張り、腰には亀甲箆といわれる箆削りがあります。高台は大きく、土見で、箆削りの多角形になっている作意たっぷりの成形で、作行きはすこぶる手強いです。胴には挽き目の細筋が鮮やかで、金海堅手の特色である赤みが方々に出ています。御所丸には白無地のほかに、黒刷毛目の手もありますが、これはひじょうに少ないです。
茶人は白無地の手を御所丸といい、黒刷毛の方を古田高麗とたんでいます。ただし白無地ながら織部所持によって、鴻池家伝来の御所丸はとくに古田高麗よよばれています。これが御所丸の本歌ですが、その高台外側は不整の丸で、内側は箆削りで五角になっています。御所丸の多角形の高台は、これを手本にしてしだいに形式化されたようです。


金海
 御本茶碗ですが、釜山窯でなく近くの金海窯で焼かれたものです。金海窯は堅手が特色で、古堅手も多くは金海堅手であり、御所丸もこの窯の産ですが、金海茶碗は茶人の切形による御本茶碗で、その後にできたものです。
 金海はその特色によって、本手と小判なりに分けられますが、本手の方が古く、年代は豆毛浦倭館の時代でしょう。本手はごく稀で、西王母はその代表作です。口造りは、桃なりまたは州浜なりで薄作、内外に挽き目の細筋があり、腰から下へかけて金海窯の特色である赤みがほんのり出ています。高台は土見で、高くがっしりしていて、一・二か所割れています。胴にはいわゆる猫掻き(引掻き状の檜垣の箆目)はなく、腰に釘彫りで金海の銘があります。御本金海にくらべては手強い作ぶりで、釉がかりもむらむらと趣があり、一脈御所丸と通ずるものがあります。
 小判なりの方は本手より時代が下り、いっそう薄手で、作ぶりにも軽い感じがあります。口造りは小判なりで、胴には檜垣の猫掻きがあり、これが約束になっています。高台は外開きで割高台になったのが多いです。金海の特色たる赤みの出だのが悦ばれます。ふつう御本金海というときは、小判なりの方をさしています。


御本立鶴
 釜山倭館窯の作がいわゆる釜山御本で、ことに世上御木茶碗といわれる類の大半は後期の草梁倭館窯の作とみてよいです。釜山窯の作では、肌に鹿の于のように赤斑の出るのが特色で、御本手に多いので俗に御木とよんでいます。釜山御木には、有名な御本立鶴はじめ、絵御木・砂(手)御木・御本雲鶴・御木呉器・御木半使・御木三島・御木刷毛目などがあります。
 御本立鶴は御本茶碗の中で最も有名なもので、御本茶碗を代表している観があります。御本茶碗の中では、この立鶴と絵御本とがとくに珍重されていますが、これは江戸時代、将軍家からの注文茶碗というので格別貴ばれたのによるもので、御本という尊称も、もとは将軍の下絵に始まったものです。
 立鶴の名は、胴の前後にある白黒象嵌の立鶴の押し型に因んだもので、この文様は将軍家光が細川三斎の賀の祝いにかいたのが下絵になったと伝えられ、本歌は豆毛浦の倭館窯で焼かれたものとみられます。薄手の筒茶碗で、口縁はやや端反り、前後に立鶴の押し型があり、土見ずで高台は三つ割りです。肌には挽き目の細筋があって、総体赤みに上がり、その中に青い火替りもあり、また指あとや掛けはずしがあります。立鶴茶碗は吉祥の意で茶人にとくに悦ばれましたので、その後もたびたびこの写しが朝鮮に注文されていますが、これに対して当初の作を本手立鶴とよんで区別しています。しかし本手はきわめて少ないです。本手は作行き・釉調・釉がかりなどすべてにおいて断然秀れていますが、ことに割高台の切り方は冴えていて、端的にその違いを示しています。
 絵御本というのは、染付で簡単な絵のある手で、素地は白土です。有名なのは松竹梅の手で、そのほか山水絵゜笹絵’わらび絵゜藤絵・菊絵・渦絵などもある・その中には探幽下絵、あるいは常信下絵どいわれなものもあります。葵紋のは将軍家が諸侯へお茶を出すときの数茶碗でした。
 御本三島は、本来の三島とは文様も趣を異にしていますが、作風も薄手で、口縁を歪ませたり、割高台になって、一見作意の明らかなものです。対馬から渡って釜山の倭館窯で焼いた玄悦や茂三などの手に成るものだろうといわれています。半使というのは判事(朝鮮の通訳官)に当てたもので、この判事が来朝のときに持参した茶碗に名づけたのが起りといわれますが、これも釜山窯の作で、薄作で素地は薄赤く、半透明の釉はぬめりとした感じで、俗に半使釉といわれ、淡青みに上がって、赤斑や火替りが出ています。見込みには砂目があり、口造りは桃なりや州浜なりになっています。また呉器手をまねた釜山窯の作に御本呉器がありますが、本歌にくらべて作りも華奢で軟らかい感じで、赤斑(御本)や火替りがあります。
 対馬の宗家からは、倭館窯を宰領する役人が年々派遣されましたが、その中には自分で茶碗を造った者もいました。有名な者に、大浦林斎・中山意三・船橋玄悦・中庭(阿比留)茂三・宮川道二・宮川道三(小道二)・松村弥平太・平山意春らがあり、ことに玄悦・茂三はよく知られ、ともに伊羅保が得意で、玄悦御本手、あるいは茂三御本手といわれています。玄悦は釘彫りが有名で、手強い作ぶりのものが多いです。また茂三の方は薄手で高台が低く、二局台内は渦を巻いて、見込みに白刷毛のある約束になっています。総体獲洒な感じで、茶人にはなかなか人気があります。宗家は釜山開窯以来、しばしば将軍家御用の御本茶碗を焼かせましたが、享保二年にはついに閉窯されました。

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