瀬戸焼 せとやき 解説

愛知県瀬戸市を中心として産する陶磁器の総称。
【総説】いいますまでもなく瀬戸はわが国製陶業の一大集中地で、その歴史の長いこと、窯業の盛んなことは全国陶業地のうちでずばぬけており、古来瀬戸物といえば直ちに陶磁器を意味するように、その名は広く世間に知れ渡っています。これは瀬戸が陶業上の第一条件です原料に十分恵まれた自然的好地にありましたといいますことはもちろん、その技法に極めて古い伝統があり、また比較的当時の政治的勢力の所在地に近かったといいますことなどのためで、このことが一つには当時需要のありました茶用陶器の製作となり、他方には一般日常品の大量生産となって現われ、瀬戸を全国陶業地中の中心勢力たらしめるに至りました。しましたがって瀬戸焼について詳述することは日本陶磁器史を述べることでありますが、本項では単にその一般沿革のあらましを述べるにすぎず、特に坏土・釉料・成形・装飾・窯・焼成その他の技術的方面は記述しません。
 また本項は概説ですので、ここに付随してくる事項は末尾付記の項目を参照されたいです。なお美濃焼との関係でありますが、元来美濃国(岐阜県)土古瀬戸秋草文壺岐・可児・恵那の三郡は瀬戸に隣接し、陶業上ま歴史上からみれば瀬戸焼の中に含まれるべきものですこに注意すべきであります。
【地域】瀬戸は旧東春日井郡に属しますが、平安時代は山田郡に属しその後山田庄瀬戸村と称しました。
のち山田郡は廃止され春日部(または春部)・愛知の両郡に分割され瀬戸地方は春日部に入り、さらに呼称を改め春日井郡となり、1878年(明治一一)さらに東西に二分され瀬戸は東春日井郡に属しました。東春日井郡の東北隅に位置し名古屋市の東北約二〇キロの地であります。1892年(同二五)町制が実施され、1925年(大正一四)には隣接の赤津村および旭村の一部でありました字今・字美濃之池を合併、1929年(昭和四)市制が施行されわが国唯一の窯業都市となりました。その地理的環境は、付近は花崗岩・花崗岩質砂岩・砂質粘土・粘土・褐炭・礫の地層すなわち第三紀新層(あるいは第四紀洪積層)に属し、花崗岩の分解変質した木節粘土、同じく霧爛(濾蝕変質)して生じた蛙目粘土などを出し、また本地砂・房州砂千倉石・鬼板・水打(水垂)・黒浜・砂絵などの特殊窯業原料をも産出し、さらに燃料において古くは近辺に黒松があってすこぶる陶業の好地でありました。次に品野町は瀬戸市の東北に隣接し、1906年(明治三九)下品野村・上品野村およ掛川町を合併し、1924年(大正一三)に町制を実施、1959年(昭和三四)瀬戸市に合併しました。また水野村は瀬戸の西に隣接し、江戸時代の代官所の所在地で、1885年(明治一八)上・中・下の各水野を合併し水野村と称し、一八八ばいらん九年(同二二)に村制を実施し、その後瀬戸市に合併しました。
せんしょく【発祥から室町時代まで】尾張国に拠埴のことがありましたその始まりは詳かでありませんが、『日本後紀』弘仁六年(815)正月五日の条に「造瓷器生、尾張国山田郡の人、三家人部乙麿等三人、伝え習い業を成します。雑生に准じて、出身を聴す」とみえます。また『延喜式』に「尾張国瓷器、大椀五合ゆる寸五分五口小椀口口茶椀甘口小擎子五口格中擎子十口経路径各五五花盤十口花形塩杯十口寸五分十日長門国瓷器、大椀五合姫路中椀十口小六口各五小椀五寸十五口茶碗甘口花盤卅口花形塩三寸十十口右両国所進年料雑器、並依三前件、其用度皆用正税」とあって尾張国瓷器といいます文字がみられ、『江家次第』に「御薬に供す正月元二三〇中略内膳は右青門よりして御歯固具尾張百を供し、青瓷に盛ります。件の青瓷は所より内膳に渡五物内上、並びに尾張の青瓷。朱漆の華盤あり」とあります。通考すれば『延喜式』の瓷器はすなわち『江家次第』にいいます青瓷で、また同書によればこの供御薬」の儀式はすでに弘仁年中(810~124)に始められたとあり、しましたがって御歯固の儀式(正月三が日の間に鏡餅・猪・鹿・押鮎・大根・瓜などを食べる行事。歯は齢の意で齢を固め長命を願う心です)もまたこの頃から行われ、その必要から青瓷器を『日本後紀』に記載されていますように尾張国山田郡に命じてつくらせたものと考えられます。右の尾張国山田郡は、『延喜式』神物ごとに蓋擎子あり(下略)」また「以明帳に照らせば明らかに今日の瀬戸とその付近、並びに今日の愛知郡の東部であります。これは猿投山西南麓古窯址郡の発掘調査が行われることによって実証されますこととなりました。『日本後紀』にい三家人部乙磨ら三人の工人の出身地もこのあたでありましたことに疑問の余地はないでしょう。さしも隆盛を極めたこれらの窯も、官窯でありましたから、平安時代末から朝廷の衰微と共にまったく衰え、ついにはその技術をも失うまでになったもののようであります。それが鎌倉時代に至って民窯とし再出発したもののようで、この時は現在の瀬戸市地域内の猿投山西麓の赤津周辺に集団的に発生したもののようであります。当時焼造されたのは瓶子・壺・皿・下ろし目皿・水瓶・仏花器・香炉・水滴壺その他で、このうち仏花器・香炉の類には飴釉が施してあり、これらはおそらく鎌倉時代中期の飴釉の発見と共につくられたのでしょう。以上は大体鎌倉時代末期までに製作された主瀬戸焼太鼓胴水指ろくろな品種であり、もちろんいずれも轆轤製であります。
ただし瓶・壺類は紐土捲上げ轆轤仕上げで、高台はみな付高台で削り出しは未だ行われなかったようです。瀬戸初期の瓷器について特記すべきことは、梅花蓮花・菊花・九曜星・九紋つなぎ唐草などが瓶子または仏器類の胴に、剣先・単複連弁などが首または腰に押されますなど種々の印花を施してあること、および形状・文様でも中国唐・宋の陶瓷、高麗の青瓷などの影響がすこぶる多いといいますことであります。室町時代初期すなわち南北朝頃に至っては瀬戸の窯業は一大変転を示し、従来の宗教用具的なものから日用雑器へと進展する様相を現してきました。すなわち器物も前代のものはほとんど影を没し、天目碗・天目釉の小皿・香炉・祖母懐壺その他、また灰質釉のものは、開い大振りの碗(坏)小皿・小坏大仏花器・香炉・濁台・下ろし目皿、また折縁または波縁の大小深皿・片口・摺鉢・水盤なども鎌倉時代から室町時代にわたって製作されたと認められます。右のうち祖母懐壺といいますのは、安土・桃山時代から戸時代初期の同形同質の壺にその名が彫り付けてあるところから付けられた名称で、この壺は非常に多くつくられたようであります。なおこれらの古窯からの出土品に天目釉の茶入もありますが、その数は極めて少数であります。ただし安土・桃山時代以後開窯と推定されます瓶子窯からは、茶入その他の茶器が多く雑器と共に出土しますが、茶入の形態は平凡または技巧的なものが多いようであります。瀬戸地方の古窯は概して高い山丘の頂上、または急峻な斜面にあります。その初期の灰釉には暗青色が濃淡まだらに流下するものが多く、のちには灰釉に御影石の分解物としての珪酸分が加えられて次第に完全な釉質に移り、いったいに暗黄緑色調を呈し、また青色・黄褐色を呈するものも少なくありません。次に天目釉の初期は暗紫褐色でその厚い部分は黒く、光沢がはなはだ鈍く、釉感・形状ともにすぐれています。時代が降るに従って釉質・形態ともにくずれ、江戸時代に至ってはほとんど鑑賞に値するものがみられません。なお付記すべきことは、以上列挙したものとほとんど同形同質の器が大部分美濃国土岐郡中部の山間においてつくられといいます事実であります。ただし窯跡は四、五に留まり、釉質はやや劣っており、時代はおそらく鎌倉時代末期から室町時代末期にわたるものと認められます。なお1933年(昭和八)鉄道工事中に岐阜県郡上郡長滝白山神社境内から掘り出された瀬戸製瓶子一対は、黒青色の頼れ釉があって鎌倉時代末期のものと思われます。その胴中に釘彫りしてある文字は左記の通り。
白山権現奉施入奉入御酒器尾州愛智郡清原広重正和元年十二月日白山権現御宝前中嶋郡奥田安楽寺住阿闍利栄秀正和元年十二月日【藤四郎時代】ここで仮に藤四郎時代といいますのは、天目釉の創出者で瀬戸の陶祖と伝えられる初代加藤藤四郎景正(鎌倉時代)からその四世藤四郎政蓮(室町時代初期)に至る期間を指します。この藤四郎時代は歴史的にみるとはなはだ曖昧な一時期でありますが、藤四郎の伝説はすでに久しくいい伝えられていますので、ここにその通説を述べますと、瀬戸に天目釉が発祥したのは加藤四郎左衛門景正伝法によったとされています。すなわち加藤四郎左衛門は幼少の頃より(生国その他については諸説まちまち)陶工の妙を得て諸国を遍歴し、祖父瀬戸焼古瀬戸捻貫水指江瀬戸焼茶入.の郷里美濃遠山庄須衛邑、および尾張山田郡瀬戸などで学び試みましたが、外国渡来のものに及ぶには至らなかったようです。1223年(貞応二)三月僧道元に従って入宋し、中国の陶法を伝習して1228年(安貞二)に帰国、諸国の土質を試して巡回しましたが意にかなうものがなく、再び尾張山田郡瀬戸邑に落ち着き、瀬戸飽津(瀬戸市赤津町)で祖母懐といいます良土を発見し、ついに飽津に瓶子窯を築いて宋風天目釉の器を焼きました。晩年には剃髪し春慶と号しました。1249年(建長元)三月十九日没(諸説あり)、82歳。彼のつくった茶入古瀬戸と称し、また宋から持ち帰った土で焼いたものを藤四郎唐物(または単に唐物)、和土・和薬で焼いたのを古瀬戸、春慶と号してからの作を春慶などとも区分し、さらに渡宋以前の作を口手(厚手)と呼び、宋からの帰国後祖母懐の土で焼いた茶壺を祖母懐と称しますともいいます。このうち唐物は「土朱紫鼠浅黄、ヤケニテ変色アリ、薬飴黒黄ナリ、白薬ヲ蛇蝎ト云、黄薬ヲ文琳薬ト云、逆糸切板ヲコシモアリ、一体ウス作リニテ掛目軽シ」、古瀬戸は「土白浅黄薬柿黒糸切細カナリ」、春慶は「和漢ノ土ヲ交テ焼ク、土浅黄、薬柿或ハ黄、輪糸切一体上作ナリ」などと説明されています。次に初代藤四郎作の古瀬戸茶入の種類としては、厚手・根抜・古瀬戸・大瀬戸・小瀬戸・名物手・煎餅手・虫喰藤四郎・大春慶・夏山春慶・掘出手・丸壺・文琳・茄子・尻膨・口瓢箪・内海・手瓶・・飯桶・擂茶・肩付・芋子・耳付などが挙げられます。二代藤四郎基通(藤次郎・藤九郎・藤五郎ともいいます)は文永年間(1264~75)に本家を相続して飽津に住みました。製品は黄瀬戸伯庵手の類が多く、世間ではこれを真中古(これを単に藤四郎といいますことがあり、「茶入の窯分」には藤四郎春慶を真中古窯に加えています)と呼び古瀬戸と区別をします。その作は「二代藤四郎一体上作也、古瀬戸ニ似タル有、中古二似タル有、土鼠浅黄白薄赤黒、或ハ黄モアリ青モアリ、輪糸切本糸切二色アリ」といわれ、藤四郎春慶は「土鼠浅黄色糸切春慶ニ同ジ、惣体春慶ニ似テ地薬サライト見へ上品ナリ」などといわれ、種類としては橋姫手・野田手・面影手・大瓶手・鼠大瓶手・後大瓶手・小川手・思河手・面取手・面取面不取手・芋の子・大覚寺手・柳藤四郎・糸目藤四郎・花藤四郎・虫喰藤四郎・祖母・杜若手・底面取手・上底手・蠟燭手・黄薬手・後黄薬手・胴高・笹耳・半切・飯桶・大海・茄子・貯・大口・水滴があり、また藤四郎春慶には瀬戸春慶・却含手春慶・飛春慶・椿手春慶・貯月春慶・雪下春慶などがあります。三代藤四郎景国(藤三郎・兎四郎・藤次郎ともいいます)は永仁年間(1293~19)に本家を相続して飽津に住みました。景国は曾祖父景正の遺風に倣いその製品は中古と呼ばれ、金華山と号しました。その作は「三代藤四郎、土浅黄白薬柿黒ナり、黄薬ハ藤浪ニカギル、輪糸切本糸切二色有、一体藤四郎ヨリ上品ニシテ、金気沢山ニテ代々ノ内此窰見事ナリ」といい、種類に頸長手・藤浪手玉柏手・滝浪手・生海鼠手・広沢手・禾手・真如堂手・天目手・蟋蟀手・油虫手・追覆手などがあります。四代藤四郎政蓮(藤九郎・藤三郎ともいいます)は嘉暦・建武年間(1326~38)に本家を相続こおろぎし、破風形に地胎を残して釉を施した作製したので破風窯といわれました。その作は「四代藤三郎、土白薄赤、薬柿黄或ハ黒、本糸切輪糸切二色アリ、一体上作也、薬留り破風ニ出来ルユヱ名トス」といわれ、種類には皆の川手・翁手・市場手・口広手・渋紙手・撮底手・擂粉木手・爬取手・早乙女手・破風手・音羽手・黄薬手・凡手・玉川手・米市手・胴メ手・胴塚手・一筋頽手・柳手・擂茶などがあります。「茶入の窯分」は続いて後窯といいます一項を設け、利休(安土桃山時代)から遠州(江戸時代初期)時代の茶入作家城意庵・正意・正山・宗伯・茶臼屋・源十郎・万右衛門・竹庵・新兵衛・江存・弥之助・茂右衛門・吉兵衛・順斎らの名を挙げています。以上が四代藤四郎までの略伝および「瀬戸作茶入の窯分」にみえる記述の大体でありますが、すでにこの中で自然二つの疑問を生じます。一つは藤四郎その人に対する疑問、もう一つはその疑問に関連する「茶入の窯分」そのものに対する疑問であります。すなわち藤四郎景正を瀬戸の陶祖、瀬戸における釉法の始祖とするのが古来の通説でありますが、その伝記については明らかな根拠がなく疑問の多い存在であります。藤四郎に対して諸家の間でいわれています疑問の個所を挙げますと、(イ)瀬戸焼に釉法のあるのは鎌倉時代をはるかにさかのぼる平安時代の頃からであります。また天目釉は藤四郎が宋から伝法して忽然として瀬戸で流行したとは認め難く、窯跡調査によればむしろ鎌倉時代の飴釉が発達して、ほぼ室町時代初期に至っ天目釉が完成したもののようであります。(ロ)藤四郎時代はわが国に喫茶の風が次第に起ころうとすのちくちはげ<>る時期でありましましましたが、まだ一般化せず、一部上流に薬用として用いられた実状でありましたので、その需要関係からみて藤四郎が渡来してこのように多数茶入を製作する必要がありましたかどうか。(ハ)藤四郎の伝説によれば、宋から帰朝の際かの地の土および釉を持ってきて、諸国遍歴の末瀬戸に来て、これで藤四郎唐物と呼ばれる種類の茶入をつくったといいますことでありますが、永年にわたる諸国遍歴中極めて多量の原料を携帯するなどといいますことは、当時の事実として信じ難いです。(ニ)一歩譲って、藤四郎が果たして渡来したとすれば、まず当時宋の最も進歩した青瓷または宋赤絵などの技法を習得すべきですのに、単に天目釉だけを伝習したとは不審であります。(ホ)藤四郎が瀬戸に来て最初に窯を築いたと伝える赤津の瓶子窯は、その発掘の実際に照らすと、決して鎌倉時代の開窯ではなく室町時代末期ないしは安土・桃山時代の築窯です、といいますような諸点であります。次に藤四郎以下の「茶入の窯分」については、もちろん藤四郎の実在いかんに関連して多く考えられる疑問であって、(1)初代藤四郎はもちろん四代破風窯といえども、その時代は室町時代初期を降らず、鎌倉時代から室町時代初頭の時期にこんなに多く茶入の需要がありましたとは考えられない。(ロ)
「茶入の窯分」が事実とするならば、四代藤四郎破風窯以降後窯までの二百余年間がまったくの空白期間となり、すこぶる不都合であります。(ハ)古い時代、瀬戸における茶入の製作がこのように四人の陶工によってのみ製作されたとはもとより考え難いです。(ニ)瀬戸藤四郎系譜を考えますと、初代から四代までは事蹟が明らかですにもかかわらず、五代以下十二代までの間の事蹟は一切不明です点が不可解であります。十三代宗右衛門春永(1566~、永禄九年没)以降は比較的明確な資料によって作成したものでありますが、初代藤四郎から四代破風窯までの事蹟は、「茶入の窯分」その他の伝説によって強いて時代を古くみせようとするため、結局五代から十二代までが曖昧になり、その各代果たして実在したか否か疑わしいといいます結果になったのでしょうか。そもそも藤四郎関係の伝説は、文禄四年(1595)七月十五日の奥書のあ『別所吉兵衛一子相伝書』をはじめとし、さらに種々の俗説を生じたもので、また「茶入の窯「分」は茶家者流が目利上の便宜から茶入の分類を単純化しようとして成ったものですから、もとより不正確極まる俗伝であります。『新編瀬戸窯系統譜考』には「別所吉兵衛の『一子相伝書』にも初代藤四郎は瓶子窯で焼いたと書いてあります。瓶子窯現今発掘されます陶片及び窯の構造等に依って見も足利末に焼かれましたもの様であります。頼山陽が書いた木米翻刻『陶説』の序にも足利時代に瀬戸の四郎が陶器を焼き始めた由が記されてあります。赤津の瓶子窯の技法が美濃久尻に移ったことは首肯れることが幾つもあります。久尻徳利の先駆とも思はれる古瀬戸黒釉の上に金流釉の斑点をつけた壺や、天目茶碗や小皿等が全く同技法に依つてゐる。又瀬戸の朝日窯の志野の技術が美濃へ渡ってあるらしいことも考へられます。久尻窯の景延が正親町上皇から朝日焼の名を受領したのは志野釉の緋色が曙の色を連想しめるところからか、それとも瀬戸の朝日窯との縁由がある為めではなかつたろうか。これ等は瀬戸の朝日窯と美濃の久尻窯との両窯の発掘片が斯物語るものですが別所吉兵衛一子相伝書の朝日順慶なりますものとも何かの行掛りがありはしますまいか。瀬戸の朝日窯を初代藤四郎景正の窯跡です様に瀬戸では伝へてゐる所を見ても、藤四郎は足利末の人のやうでもあるかに「思はれる」と述べていますが、『大正名器鑑』には次のような記述があります。「今愚を以て考ふるに、破風窯などは東山時代より決して後のものにて足利末世信長公時代天文弘治年代ごろのものなります可し、ふるき瀬戸の茶瓶に天文十三年と彫銘あるも見えたり、破風窯なども其時代のものにてある可きか、土味も少し破風窯に似たり、自然破風窯と云ふもの天文時代ならば元祖藤四郎より破風窯の藤三郎まで四代と見れば、其年数三百四十年程ありて一向年数合はず、茶入の品位ばかり眼を付け土味を考へず、其時代を誤ることあらば目利者と云ひ難かる可哉(中略)今強いて論を立つる時は、元祖藤四郎帰朝後安貞元年より文永十年迄五十年の間、唐物古瀬戸の類の陶器を作り、元祖死去後より百七八十年も此間中絶し、文明の頃より東山殿茶事を興立したまひ、日本始めて茶事行はるに付、元祖藤四郎末孫の者ありて先代より元祖の焼物の製法受伝へたる書物などあるを以て、其頃の藤四郎といふものに陶器茶入小壺類を中興焼はじめ、其より打つゝき文明頃より其子藤次郎と云ふもの金華山窯或は春慶類の茶器を作り出天文弘治年頃藤三郎といふもの右中興せし藤四郎の孫にて黄薬類の破風窯物を焼き出すといは大抵其順も相当すべきか、尤今二代目藤四郎作の陶器を真中古と称する故、愚按に元祖藤四郎よ久敷中絶し後、又其子孫藤四郎といふもの凡文明年の頃焼物中興せし故、之を真中興ものと称すべきに真中古と書くは誤りならん」すなわち『新編瀬戸窯系統譜考』の説は、藤四郎を鎌倉時代より引き下げて室町時代末期の人とするものであり、『大正名器鑑』は二代藤四郎真中古窯以下室町時代末期以降とする考証であります。『大正名器鑑』の説は、瀬戸茶入で大名物に入ったのはた古瀬戸(初代藤四郎作)だけで、真中古・金華山・破風窯は中興名物にはあるが大名物の撰にないのはどういいます訳か、といいます疑問から、古く草間和楽なども唱えたところで、非常に条理が通っていますようであります。ともかく藤四郎は以上のようにどうもあいまいな存在でありますが、従来の陶磁史上最も重要な人物であって、特に茶用陶器の方面からみては、これをほかにして初期におけるわが国の陶瓷史を説くことはできないとされています。藤四郎については将来なお多くの研究を要します。
【安土・桃山時代】わが国の窯業技術は工芸技術と等しく中国・朝鮮から伝来したものと認められ、室町時代に至るまではその技術は比較的幼稚なものでありました。それゆえ室町時代の茶事に供用された陶器はたいてい唐物と呼ばれる輸入品で、国産陶器はいっこうにかえりみられなかったようです。ところが信長の時代になり茶湯者の嗜好がようやく国産陶器へと移行したことは、『山上宗二記』にみえる「惣テ茶碗ハ唐茶器スタリ、当世ハ高麗茶怨、瀬戸茶怨、今焼ノ茶怨迄也、形サへ能候へハ「数奇道具也」といいます一文でも推知しえます。このように信長の時代になって著しく国産陶器の価値が認められたのは、当時の茶湯者の文化的自覚を示すものでありますが、また一つにはわが国の窯業技術そのものが、当時最高の美的感覚をもっていた茶湯者の鑑賞にたえうる程度に発達したことを証明するものであります。実に本期はわが国の陶磁器発達史上最も重要な一時期を占め、本期以降における技術・意匠などの発達・変化の真実は、すべて本期にまでさかのぼって論ずべきものであります。特に瀬戸焼は当時織田信長の領内にあって常にその政治的勢力および茶湯者関係に接触したため、国内のどの陶業地にもまさって本期に最大の飛躍を遂げました。瀬戸焼は本期に窯式・技法・釉種を発達増加させ、意匠を豊富にし、かつ従前の中国・朝鮮の模倣から一歩出て、製品はすべて独創的・芸術的となり、純日本風の様式を完成しました。すなわち従前は青瓷風灰釉と古瀬戸天目釉しかなかったものが、瀬戸黒および織部焼(いわゆる志野焼およ織部焼の汎称)などの新種を加えました。また従前は印花・花など極めて単純な装飾法をとるにすぎませんでしたが、本期に至り、初めて主として鉄砂で器物文様を加えることを工夫発明しました。また釉薬には長石を、文様の彩料には鬼板・銅などの新しい原料を発見して使用しました。さらに成形法としては轆轤づくりのほかに本期から型づくりの法を考案しました。また焼成中に鉄鉤で引き出す引出し黒の手法は、これもまた本期の創意であります。これ技術上の発達を窯式の発達と対照してみますると、従前瀬戸は地下埋没式の窖窯だけでありましたところ、本期の初めからこれがようやく地上に現われ、いわゆる半窖窯式となり、この頃から胆礬のある黄瀬戸、または志野焼・瀬戸黒などが焼かれました。さらに発達して加藤四郎左衛門景延が九州か伝法した連房式登窯が現われ、いわゆる織部焼はこの窯で焼かれました。このように技術が極めて複雑多様となりますに従い、食器・酒器・装飾具など全般を通じてその製作品種は非常に激増しました。茶事用器としては茶入または天目茶碗だけでありましたところ、草庵茶式の盛行と共に茶碗の製作が盛んになり、天目形以外に瀬戸黒・志野焼あるいは織部焼などにみるような形式のものが創製されました。ま茶碗以外の鉢・皿・向付その他は、特に文様と形態とを自由自在に駆使した織部焼の発達と共にますます巧みなものになり、その意匠は用途に従って千差万別となり、ほとんど今日世に行われています形式のすべてがこの時に発生したのであります。以上本期の瀬戸焼の盛行はまことに絢爛たるものがありましましましたが、特にその茶事用上級品は本期を頂上として、江戸時代初期に入ってようやく衰微し退歩しました。概言しますと、茶事用上級品の製作は本期の終わり頃から次第に京都に移り、瀬戸焼はこれからもっぱら日常雑器の生産だけとなりました。
現に岐阜県可児郡可児町久々利の弥七田窯、同大平窯の一部、または土岐市泉町の大富窯などの窯跡からは、仁清あるいは乾山風と称されますものの前期と認められるものが多く出土します。これは織部焼の晩期に当たるもので、すなわち織部焼の伝統はその晩期に仁清あるいは乾山風のものに移行し、この様式と技術はさらにのちにはまったく京げんびん都へと移転してしまい、茶事用上級陶器の製作は尾張・美濃の地からその姿を没しました。工芸の発達その時代の文化の要求に応じつつ単純から複雑へと進むものであり、瀬戸焼もまた当時の信長の時代から秀吉の時代にわたる展開的風潮と、前後絶する茶事の盛行とに刺激・要求され、非常に複雑多彩な陶器を生みました。しかし複雑絢爛の極は、例えば織部焼などは、その形状が奇矯なのはいいますまでもなく、一個の器物を半面は白粘土、半面は鉄分の多い色粘土で継ぎ合わせてつくり、その白粘土の部分には銅緑釉を施し、色土の部分には白泥を塗り、さらにその上に鉄砂の文様をつけるといいますような技巧をこらすなど、ついには一種非実用的作意に落ち入り、このため次に出現したまったく新種の上級品です柿右衛門・仁清らの色絵物やその他のものに対抗し難くなり、一転し自ら衰退せざるをえなくなり、江戸時代以降の瀬戸焼は永く上級品の製作から離れ、御深井焼あるいは元贇焼と称する類のビードロ釉一式の雑器を主とするようになりました。なお本期の瀬戸の盛行について忘れてならないのは、織田信長の産業政策および古田織部の芸術的指導であります。信長の瀬戸陶業の保護政策は、1563年(永禄六)十二月に瀬戸に与えた制札、および1574年(天正二)正月に加藤市左衛門(与三兵衛景光)に与えた朱印状によってもその一斑をうかがうことができます。右の制札および朱印状によれば、信長は瀬戸物に対し交易・売買の自由、市場の保護、新課税の差免、貸借関係から生ずる差押えの制限、および窯業の経営を瀬戸に限って他所での開窯を禁ずる、などと非常に厚い保護助長の政策をとりました。もちろんこれらは経済家です信長の産業政策の一端でありますが、また茶人としての信長が、陶器奨励のため特別に瀬戸を顧念したのでしょうことも十分に想像されますところであります。ところが信長の時代以後、すなわち永禄(1558~170)から慶長(1596~1615)の間、瀬戸工で美濃に移る者が少なくなく、可児郡久々利村大平(可児町久々利)に移った与三右衛門景久(景豊)・伊右衛門景貞、土岐郡久尻(土岐市泉町久尻)に移った与三兵衛景光・源十郎景成、土岐郡郷ノ木(土岐市曾木町)に移った利右衛門景貞仁兵衛景郷らがそうであります。これは1567年(永禄一〇)に信長が美濃を併領して以来のことで、一見瀬戸陶業の萎縮を物語るようでありますが、事実はそうではなかったようです。元来瀬戸および美濃は国は異なりますが境界を接し、昔から工人の交通の往来が盛んで、陶業上同一系統の関係にあります。それで陶工の移住は決して信長の時代に始まった現象ではありません。この時は、信長の強力な政治的勢力の侵入に伴い、瀬戸陶業がさらに一段の伸長を遂げ、美濃諸地方に瀬戸焼の花を万朶のように開花させたといいますだけのことでありました。美濃焼の盛業は実にこの時に明確に基礎付けられました。また古田織部は本期の瀬戸焼に最も密接な関係があります。常に自己の意匠を与えて製作させたのは、織部焼といいます名があることだけによっても明らかでありますが、織部の指導によるものは単にいわゆる織部焼(志野焼を含めていいます)だけでなく、早くから茶入に好みを与えてつくらせました。古茶書をみても、元来陶器に文様を施すことを創意しこれを指導したのは織部ですから、従前の単純から脱して極めて豊富多彩な形態と文様を発揚した当時の瀬戸焼は、すべて織部の直接指導を蒙ったものといいますべきで、これは当時織部が利休と共に天下にその無双の美的創造力を認められていた事情によっても肯定されますであろうし、また尾張・美濃の陶業地一般の窯跡調査によっても、いわゆる織部焼と、当時焼造りされた瀬戸焼全般との相関関係がいかに深かったかが知られるのであります。なお1563年(永禄六)信長が撰したと伝える瀬戸六作、1585年(天正一三)古田織部が撰したといいます瀬戸十作なども、いまその真偽はしばらくおいて、この両者が当時の瀬戸焼に対して一方では政治的に、一方では芸術的にいかに大きな影響と感化を与えたかを十分に物語るものです(織部好みはほかにもありますが、瀬戸焼は最も直接的なものです)。
【江戸時代以降】(一)概説徳川家康が政権を握ってその子義直(源敬公)が尾張に封ぜられますと、瀬戸陶祖の末孫を各地に分散させるのは不得策だとして、1610年(慶長一五)二月五日、加藤利右衛門景貞(唐三郎)・仁兵衛景郷(古仁兵衛)の兄弟を美濃国土岐郡郷ノ木村(土岐市曾木町)から召還して赤津に住まわせ、御用窯を勤めさせました。また同年五月五日、美濃国恵那郡水上村(瑞浪市陶町水上)にいた新右衛門景重を品野に召還した(1658~、万治元年には景貞の孫太兵衛景輪をも御窯屋に召し出しました。以来世間では唐三郎仁兵衛・太兵衛を御窯屋三家と呼ぶ)。元和年中(1615~124)になりますとみだりに祖母懐の陶土を採取することを禁じ、また金子二百両を陶工に与え、これをもとにして存分に焼けと命じ、その優秀作を奨励しました。寛永年中(1624~44)義直はまた名古屋城の外郭御深井丸の蓮池の東北にある瀬戸山の西腹に窯を築き、仁兵衛・唐三郎および太兵衛をも招いて祖母懐の土で陶器をつくらせました。これを御庭焼と称し、世間では御深井焼と呼びました。なお伝えるところでは、1624年(寛永元)京都に移住して粟田焼を始めた者は、瀬戸の陶工でありました三文字屋九右衛門ですといいます。さて広く日用器物の製造を発達させ産業としての利益を図ったのは、主として名古屋藩の保護政策のためでありました。すなわち瀬戸・赤津・品野の三ヵ村の窯場・職場を共に除地とし、窯元で困窮しています者には藩から資金を貸与し、または用木を下付し、陶祖の末裔以外の者にはみだりその業を営むことを禁じて一族の世襲業とし、永代轆轤一挺の制を立てました。享保の初めさらに一家一人の制を設けて、二男以下がその職に就くことができないことにしました。そして藩はその販売方面にまで統制を及ぼし、瀬戸御蔵会所といいますものを置いて、もっぱら売買の業務を管理しました。ところが江戸時代中期以来の業態の不振は、これら藩の統制政策のためにかえって萎微衰顔を来たし、例えば1773年(安永二)の窯家百四十二戸が、1804年(享和四)には百戸に満たない有様となりました。この衰退を挽回し瀬戸を再びわが国窯業地の王座としたのは、加藤民吉の磁器伝法でありました。もちろん新製磁器は前述のように瀬戸一村の産業的ないしは経済的事情の要求で、民吉だけの功とすることはできません。すなわち1801年(享和元)熱田新田(名古屋市熱田区)の埋立工事の際、吉左衛門・民吉父子が窯業制限に追われて農事に転じたのを憐れみ、南京染付法伝習のことを世話した奉行津金文左衛門、およびその子津金庄七窯取締加藤唐左衛門らの協力の功を見逃すことはできません。こうして民吉は津金の後援を得て熱田新田に築窯しましたが、のち唐左衛門らが藩に請願して、戸主専業制を解き瀬戸で新製磁器業を二男以下に許すこととなりました。その時陶業から磁業に転じた者が十四名いました。1804年(享和四)民吉はさらに肥前(佐賀・長崎県)地方に行き四年間苦心研究し、ついに丸窯の新法を伝えました。これは単に製造技術の一大変化の時期ですだけでなく、瀬戸窯業の第二の革命といいますべきで、瀬戸陶磁器が近代産業として力強い発足を遂げた時期であります。これより旧来の陶器を本業とし、磁器すなわち染付焼を新製と称し、藩は改めて一層の保護奨励を加えました。1807年(文化四)から1820年(文政三)までの十四年間に本業から新製に転じたものは九十余戸に及び、この勢いはなお隣村赤津・品野あたりにも伝播し、さら美濃各郡村に及び、やがて遠く会津磁器の根源ともなりました。1811年(文化八)藩は製磁原料捜索のため唐左衛門を隣国三河(愛知県)および近村の上下半田川に遣わし、石粉水車の設立を許し、1813年(同一〇)には釉用イス灰のためイス樹苗を瀬戸に下付して繁殖を図り、翌年には、新製焼に用います千倉白石が初め鍋屋上野(名古屋市千種区鍋屋上野町)で採掘したものが不良でありましたため、三河国細野村の良品と食塩をもっ交易させました。この間川本榛仙堂らのような名工がいて技術も次第に精巧になりましたが、その後さら加藤五助らの良工が出ました。また工業上の改良としては、天保(1830~144)の頃加藤市右衛門が棚板を工夫して瀬戸窯に応用しました。なお製品を他国に輸出するときは、その尾張製ですことを明らかにするため、勘定奉行から「尾張」の木印を下付して使用させました。このように瀬戸陶業に対する藩の保護政策は工商ともに一層徹底し、製品は藩の国産として個人的な売買を禁じ、蔵所に製品を貯蔵して本業取締役と染付取締役とに管理させ、その製品は名古屋の蔵元商人に回送し、窯家に対するそれの代金は藩から交付するものとしました。そして蔵元商人もまた本業焼と染付焼の二種に分かれていました。蔵元は陶磁器の専売権を受け、瀬戸物益金の一部を藩に上納し、また藩命によって陶業者の便宜を図るべき責任がありました。
また染付用の呉須は、瀬戸産を除くほか、藩から幕府の長崎奉行に託し、長崎商人を呉須用達とし中国呉須を蔵元に買い入れさせ、瀬戸窯家の需要に応じて売り渡し、あるいは取締役の保証によって貸しました。瀬戸物商の株式は1833年(天保四)に制定され、その他の自由売買を禁じました。
1842年(同一三)に諸株一統を廃して自由売買を許した際にも、瀬戸物株は特例として存置し、1846年(弘化三)さらに株式の制を厳しくしました。そして安政年間(1854~60)三井物産会社の紹介でひそかにアメリカ向けの器物数百点製造したのが、海外輸出の最初ですといいます。
次に江戸時代の陶器産額は不明でありますが、1792年(寛政四)の見積りでは総額二万両、その内の九割は他領に出ています。そして1819年(文政二)の瀬戸物益金は冥加金ともに二十万両に上りました。これは実に磁器製出以前および以後におけ発達程度の大相違を示すものであります。明治になって維新改革があり、瀬戸窯業も久しい藩の保護を離れるに至りましたが、産業上かえって自由活動の機を得て業態は逐年盛況に向かい、海外貿易が開かれるようになって販路はますます開け、1872年(明治五)オーストリア博覧会、1878年(同一一)パリ万国博覧会などを経て瀬戸物の声価は一層海外に顕揚するようになりました。この形勢は窯業の各方面を刺激し、1868年(明治元)加藤繁十は、小窯の前項部の火吹孔が中央に一個でありましたのを三個にして火焰の流通をよくし、窯失敗を少なくし、1872年(同五)のオーストリア博覧会出品の際、服部杏圃が来て初めて西洋顔料を使用して食器をつくり、1875年(同八)加藤友太郎・川本富太郎は石膏型の製法を加藤五助・川本桝吉に伝えました。中国輸出品は1885年(同一八)頃井上延年が初めて製出し、また新山と称する半陶半磁の製品は加藤松太郎が発明しました。また商業方面にあっては、1871年(明治四)滝藤万次郎といいます者が瀬戸物商社をこの地に起こし、1874年(同七)東京に支店を開き取引の便を設け、1881年(同一四)これを横浜に移し外国貿易の便を図りました。また1883年(同一六)には参考陳列館が新築され、1895年(同二八)には町立陶器学校が設立され、また森村組陶土精製所の設立により輸出向け白素地の改良がなされ、続いて各所に新式土漉場原料調製所が設立され、さらに大正年度からは次第に洋式轆轤も据え付けられ始めました。1914年(大正三)七月から第一次世界大戦が勃発したため一時不況に陥りましたが、やがてこの事変は世界主要陶磁器産出国の交戦のため広く世界市場を開放し、わが国陶磁器の生産と輸出は驚くべき一大飛躍を遂げるに至りました。
ところで、第二次世界大戦後の瀬戸の生産状況はどうなっていますであろうか。昭和四十年代の産額をみますると、その飛躍的な増加の実際を知ることができる(愛知県陶磁器工業組合「瀬戸地区陶磁器生産状況表」による)。
なお1971年度総生産額のうち、国内向販売と輸出向販売額は次の通りであります。
国内向販売額一二九億九千万円輸出向販売額一五九億七千万円この販売額数でもわかるように、瀬戸における総生産額の中で、輸出陶器の産額は、五五パーセントにも近い数字を示しています。しかも総輸出額の六四パーセントが玩具・置物の類で、以下洋飲食器が二六・八、タイルが五パーセントを示しています。(二)製品の進歩瀬戸焼は平安時代の青瓷器に鎌倉時代の黒炻器を加えたものでありましましましたが、室町時代前後になりますとその青瓷も黄瀬戸に転化し、さらに志野・織部などの新種を増し、鉄質釉あるいは銅質釉などが用いられると共に、その素地もまた次第に堅硬性の白色に傾き、ついに江戸時代の初期になって、おそらく帰化人元によって青花の応用をもみることができるようになり、南京染付の素因をなしたようですが、その坏質はなお器で、いわゆる新製の磁器までには相当間隔のあるものでありました。また黒釉茶器のあとは水瓶類の柿色釉などとなり、いわゆる本業焼もまた多少の進歩をしました。しかし江戸時代初期の製造技術については多く伝わる説はありません。おそらく徳川義直瀬戸の陶工を美濃国から召還する前後には、陶業の中心勢力はむしろ隣国に移っていたのが実状ではないでしょうか。1770年(明和七)になって初代川本治兵衛が、経塚山の新窯で久しく中絶していた海鼠壺を製して尾張家に献じ、その功によって経塚山を除地されました。治兵衛はさらに当時の良工源右衛門から、柿色・黒・黄瀬戸・鵜ノ斑流その他の釉法を伝えました。寛政(1789~1801)以降になりますと、本業の部で、武右衛門は大スンコロク.小長壺・香炉など窯焼で渋紙・春慶渋紙・安南・宋胡録・織部・志野・黄瀬戸を、十右衛門は鵜ノ斑・赤楽・赤志野・瑠璃・瀬戸青磁・上野釉の大器物を、新五右衛門は鉛色・高取・金流し・赤楽を、長兵衛は石ハゼを、治吉は腰繡・糸目・・繡土・呂朱・杢波を、半右衛門は掛け交・柿・黒・白・貫入の大器物を、平三郎はヒガキを、喜平治は青磁を製出しました。また洞島磁器では萩茶碗・大白物・紅鉢・砂鉢を製出しました。次に染付の部では、民吉は丸窯で伊万里風の薄手の作者、治兵衛は藤四郎窯で新渡手風の名人、勘六は獣頭などの細工物の者であり、唐左衛門は丸窯で大器を焼き、忠治は組重などの角物を得意としました。さらに五助は1819年(文政二)から青磁に移り、原料を緻密にして組盃をつくり出し、また磁質の青磁釉をも工夫して小皿をつくりました。世にこれを玉縁小皿といいます。ま下品野の定蔵は1822年(文政五)に高麗手製出し、二代五助はついに精麗な青磁をつくり、三代五助は1833年(天保四)家業を継ぎ、素地と青花釉との関係を親密にするため、美濃の白絵土を塗用することを案出し、勘六は嘉永年間(1848~54)土焼青磁を創出し、世に閑陸青磁と呼ばれました。また赤津の春は近世の名工で、1850年(嘉永三)から国主慶勝のため御深井窯に従事しましたが、製作は非常に多様にわたり、瀬戸伝法の技でうまくやらないものはなかったようです。また四代五助は1863年(文久三)に家を継ぎ、意匠図案の改良に苦心し、白磁および青磁などの上に白盛の文様を描出し、二代加藤杢左衛門は、1867年(慶応三)に志野釉を施した鮟鱇形の火鉢をつくり、なお青花磁器の大燈籠・大花瓶洋傘立てなどの大物をつくり、加藤松太郎は1879年(明治一二)陶質素地に磁土を表塗して「半製」と呼ばれるものを製しました。これを世に新染付と称します。以上は各陶工との関連において中期以来の釉種の増加、新法の発見などを述べたもので、その後半期はもっぱら青磁・白磁・瑠璃などの技巧を競い、ついに銅版染付および錦製をも出すようになったのであります。次に瀬戸物と広く呼ばれる実用品中の茶碗類のことを付記しますと、磁器創業当時の製品はもっぱら茶碗であり、その第一の製品は番茶用の深出しでありました。
その模様の初期は彫文で、すなわち磁器の素地上に毛彫りして、その上から絵釉でダミしたもので、これらは古渡り・中渡りなどの風でありました。
その茶碗飯茶碗)の最初の形は反り茶碗で、次丸茶碗となり、次には熊谷茶碗でありましましましたが、さらに1871年(明治四)になって平奈良茶碗が流行しました。
【瀬戸の古窯】瀬戸の古窯については従来諸書によってその数に異同があります。便宜上『をはりの花』所載の古窯名を列記しますが、古窯の数はこのように限られたものではありません。古い瀬戸の窖窯は既述のように極めて移動性が高いため、窯跡もまた左記のほか数百ヵ所に及ぶものであります。「瀬戸古窯の名称」瓶子窯・祖母懐窯・朝日窯・夕日窯・椿窯・高原窯・禅長庵窯・源次窯・かにこ窯・古瀬戸窯・高塚窯・目細窯・大欠洞窯・馬ヶ城窯・四辻窯・蔦纒窯・銭瓶窯・山犬ヶ洞窯・反窯・山脇窯・猫田窯・南ヶ洞窯・長田窯・洞山窯・古林窯・保手窯・印所窯・地窯・細倉窯・白地窯・峯出窯・鷹場窯。「赤津古窯の名称」平窯・小長曾窯・藤阪窯・大洞窯・五葉窯・三ツ窯・窟山窯・横嶺窯・曾与木平窯・八幡平窯・真木嶺窯・帆立窯・秋窯・山中窯・志天木窯・内倉窯・長曾窯・梨木沢窯・川平窯・新狭窯・鳥嶺窯・踊平窯・笠松窯・城嶺窯・高橋窯・神座木平窯・小玉石窯・蜂窯・光窯・滝窯・長間根窯・南洞窯・山桑窯・菖蒲窯・白根窯・神田窯・呉窯。なお瀬戸古窯中主要なものの時代および出土品種を概記しますと、(一)朝日窯室町時代末期、白天目・黄瀬戸小皿・椿手末期のもの・茶入・絵志野初期のものなど。(二)桐畑窯志野・織部・刷毛目白掛の上に鉄絵を施したもの、あるいはカキオトシまたは胆を落としたものなど。(三)古瀬戸菊畑窯室町時代末期、破風窯手の葉茶壺・茶入・仏器・水滴など。(四)椿窯この椿窯を中心として馬ヶ城・大橋源次・松留・茅原などの古窯群があり、鎌倉時代以前より室町時代に至ります。古瀬戸黄瀬戸青瓷の類で、青瓷の建盞手の茶碗・印花の壺・陶丸・瓶子・をしどりの水滴・茶入・狛犬の破片行基焼風の茶碗俗に椿天目と称するものなど最も多く出土します。(五)瓶子窯朝日窯と同時代、古瀬戸釉の茶入・瓶子天目・瓶壺に印を押したもの・小皿・絵瀬戸初期のものなど。(六)出椿窯と同時代。(七)百日窯印花の※おだのぶなが※おふけやきおりべやき※かげまさきせとしのやき※せとぐろ※たみきち※ちゃいれ※みのやき

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