安宅コレクション 解説

安宅コレクション

 安宅コレクションは、第二次大戦後に収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に視てももっとも質の高いものであり、しかもその収蔵作品が高麗・李朝時代の朝鮮半島の陶磁と、漢時代から唐・宋・元・明時代にかけての中国陶磁に限定された独特の内容をもち、またそれがかつて業界第九位に位置した総合商社による古美術の収集という、他に例を見ないありかたによって成ったコレクションです。
 その数は約一千点ですが、うち朝鮮半島の陶磁八百数十点。そのほとんどが高麗・李朝時代の陶磁であり、内訳は高麗陶磁三百余点、李朝陶磁五百数十点で、十一世紀から十九世紀に至る間に、朝鮮半島で焼造された主要な陶芸が網羅されています。ただし室町時代後期以来日本の茶の世界で高い評価をうけてきたいわゆる高麗茶碗(そのほとんどが李朝時代の十五世紀から十八世紀にかけて、地方の民窯で焼かれたものであった)の伝世品はありません。
 中国陶磁は約百五十点。漢代から唐代の作品約三十点、宋時代約五十点、元・明時代約七十点で、その収集が唐・宋・元・明に視点がおかれていたことが窺われます。したがってこれまで日本の古美術愛好家の間であまり共感がもたれなかった清時代の陶磁が、ここにも一点も加わっていません。
 他に日本の奈良三彩壺(重要文化財)、中国の古銅器、堆朱、ベトナム陶磁、日本および朝鮮半島の考古学的資料などがあります。
 以上によってもわかるように東洋陶磁コレクションといっても、数の上では朝鮮半島の陶磁が大半を占め、中国陶磁は全体の15パーセントです。そして高麗・李朝の陶磁はあらゆる作風のものが集められ、今日為し得るコレクションとしては、歴史的編年、陶芸技法による分類の上でもほぼ完全といえるものですが、中国陶磁は名品主義的で、陶磁史的にはいささか不完全です。コレクションとして最終的には、おそらくその充実が配慮されていたでしょうが、未完に終わったといえましょう。
 安宅コレクションの高麗・李朝の陶磁は、私的なコレクションとして世界第一といっても過言ではありません。ことに李朝の陶磁はまことに見事で、私の目には質の上では韓国の国立中央博物館を凌いでいるように思われます。それは大正年間以来日本の愛陶家の間で李朝陶磁が極めて高く評価され、すぐられた作品が多くすでに請来されていたためで、安宅コレクションはそれらの優品を集大成したのでした。
 李朝の陶磁と較べると高麗の陶磁は、全般的に良質の作品が揃ってはいるが特に傑出した名作は少なく、それは韓国の国立中央博物館には及ばないでありましょう。
 高麗・李朝の陶磁の内容をさらに詳しく紹介しますと、高麗時代の陶芸が最高潮に達したのは十二世紀で、中国宋代陶芸の影響をうけつつも、民族的な美意識があらわれた各種の器が青磁を中心に焼造され、十二世紀の中葉から中国でも全く行われていなかった象嵌青磁が創始されて、独特の作風を展開するようになったのですが、そうした十二世紀前半までの作風を代表する素文あるいは陰刻文・陽刻文を表した青磁が約九十点、十二世紀後半から十三世紀にかけて大いに流行した白、黒象嵌あるいはそれに辰砂を加えた、いわゆる象嵌青磁約百四十点、他に青磁白泥彩、青磁鉄絵、青磁鉄泥地白象嵌、青磁練上手など青磁釉の下にさまざまに加飾したもの約五十点、鉄釉や鉄釉白泥彩など黒い鉄釉のかかったもの約十点、さらに世界に極めて類例の少ない高麗白磁も約十点を数えられる。
 高麗時代の末期から李朝中期の初め十六世紀の後半まで、主として朝鮮半島中部から南部にかけての諸地域で、青磁や象嵌青磁の延長線上に独特の作風を展開した粉青沙器(従来日本では三島・刷毛目・粉引など、我が国における古来の呼称によって分類通称していましたが、その名称は必ずしも作品の実体を表していませんので、ここでは近年韓国において用語化した粉青沙器の称を用いることにした)が焼かれましたが、これらの粉青沙器は約百八十点蔵され、印花や線象嵌・白泥地搔落・白泥地鉄絵・白泥一色のいわゆる粉引などあらゆる技法の作例があり、また器種もまことに豊富に集まっています。
 李朝前期十五世紀の初め頃から、白磁や染付など上質の磁器が京畿道の広州を中心に焼造されるようになり、十九世紀に至るまで李朝陶芸の中核をなしましたが、これらも十五世紀から十九世紀に至る時代の作例を集め、白磁鉄象嵌七点、白磁約六十点、染付約百五十点、辰砂約三十点、染付属砂約二十点、染付鉄砂四点、鉄砂約五十点、瑠璃地三点、黒釉・飴釉約十点など、およそ五百年におよぶ李朝官窯を中心とする磁器の展開の跡を充分に把握しうる内容です。
 安宅コレクションの中国陶磁は約百五十点、コレクションとしてその数は決して大きなものではありません。しかも中国陶磁のコレクションとはいえ、その主力は宋・元・明の陶磁で、唐以前の古代の作品は少量であり、また清朝のものは一点もないといういささか変わったコレクションです。清朝の作品が加わらなかったのは、明らかにこのコレクションを集めた安宅英一氏の好みに因るもので、おそらく安宅氏は清朝の陶磁に美的環境をもたなかったのでしょう。
 世界の大コレクションと較べていかにも小さい収集ではありますが、その質的内容が極めて高いのがこのコレクションの特色であり、いわば少数精鋭主義の収集であったといえます。高麗・李朝の陶磁が、かなり徹底した網羅主義で集められているのに対して、中国陶磁は何故少数名品主義になったかといえば、それはさほど深い事情があったわけではなく、李朝を中心とする朝鮮半島の陶磁は、優れた作品がかなり多量に大正年間以来日本に請来されており、第二次大戦後という時期にあたって、それらを収集することは財力を尽くせば比較的に容易であったのですが、安宅産業が中国陶磁の収集に入るようになった昭和三十年代の後半頃には、中国陶磁を高麗・李朝のそれと匹敵する質・量そなわった内容にすることは経済的にすでに不可能な情況になっていました。したがって、自ずから少数名品主義をとらざるをえなかったのでしょう。しかし幸いなことにその頃からロンドン・パリ・ニューヨークなど世界の市場を相手に集めることが可能になったため、従来日本に請来されていなかった元・明の青花磁器の優品が集まったのでした。
 したがって安宅コレクションの中国陶磁を一覧しますと、唐・宋と明の五彩(赤絵)などの優品は日本伝世品もしくは第二次大戦以前にすでに請来されていたものが多く、元・明の青花は海外から入手したものが多いです。
 以上に述べた安宅コレクションの収集は、第二次大戦以前に安宅英一氏が関西の某氏所蔵の韓国陶磁のコレクションを一括入手したのがきっかけになり、終戦後にその延長線上に安宅氏個人の高麗・李朝陶磁の収集が行われ、昭和二十六年から会社による収集に替わりましたが、その間一貫して高麗・李朝のみに集中しました。昭和三十年代の後半からは中国陶磁に取り組むようになり、その収集態度は高麗・李朝に集中していた時よりも視野が広くなり、いわゆる名品主義的な中国陶磁の収集が、当時の高度経済成長も大いに作用して盛んに行われるようになり、コレクターとしての安宅の名は世界の古美術界から注目されたのでした。
 安宅コレクションは以上のような経緯で形成されました。そしてこのたび住友銀行を中心とする住友グループによって大阪市に一括寄贈され、永久に保存されることになったのです。

林屋晴三

中国陶磁のながれ

 中国の陶磁ほど、その本国の人々のみならず、世界の人々に愛されたものはありません。唐代の越州窯や唐三彩は、東は日本より西は中東にまで伝えられていますし、宋・元・明の陶磁はその優秀な品質と大量生産によって南海をへて、地中海のほとりにまで及びました。元・明代に完成した染付(青花)の手法は、中東のみならず、ヨーロッパの近世以降の陶磁にも多くの感化を与えました。日本では奈良時代以降、中国陶磁が多量に輸入され、その技術に近づくことが、作陶の目標であったのです。
 中国では華北の黄河流域はいわゆる黄土地帯があり、ここは、雨量は比較的少なく、アワが栽培されました。黄河の中下流地域に陝西・河南・山東省があり、殷周時代以降、中国古代国家の舞台となりました。この上流には甘粛 青海地方があり、乾燥地帯があります。華北の北には内蒙古自治区の草原・砂漠地帯があります。
 准河以南の華中は、長江流域のコメ作地帯です。ここは華北にくらべて両量も多く、いわゆる照葉樹林帯です。古代国家の成立は華北にくらべておくれましたが、春秋戦国時代には楚国がおこります。漢代に華北の人口が飽和状態になったため江南および、四川省の地域が開発され、三国時代には華北の魏に対して、江南の呉・四川省の蜀漢という三分の形勢をかたちづくった。呉の時には、南にいわゆる越州窯が成立し、南朝にうけつがれるのです。
 浙江省・福建省・広東省の地域は、雨量も多く、照葉樹林の植生におおわれ、またコメ作地帯です。
 浙江省には春秋時代、越国があり、その後この地域は越とよばれ、越州窯の名はこれから出ました。福建は?越、広東は南越とよばれましたが、しだいに漢文化圏に包括されました。宋・元代にはこの地に多くの窯があり、中国のみならず、アジア各地に陶磁を輸出しましたが、漢代以前は印文陶器を用いる地帯でした。
 現在、華北では江南省新鄭県裴李岡遺跡を標式とする裴李岡文化があります。放射線炭素の年代では紀元前5935±480年より5195±300年とでていますが、土器の器形にかなりヴァラエティがあり、さらにそれ以前の土器文化が期待できます。
 仰韶文化は河南省池県仰韶村遺跡名を標式として、河南・陝西・山西省に発達した文化です。作陶は手づきますね、積み上げで、ロクロはみられません。窯址も知られています。
 仰韶文化にひきつづき大?口文化をへて、龍山文化となります。縄文のある灰陶と、黒色磨研の黒陶があります。典型的な龍山文化は山東省歴城県龍山鎮遺跡を標式とします。この流れは、遼東半島や甘粛省の斉家文化、浙江省の良潜文化にまで及んでいます。
 甘粛には、甘粛仰韶文化(半山期 馬家窯期)のあとに、龍山文化の流れをくむ斉家文化、殷周文化と並行する辛店文化、寺窪文化、唐汪文化、?窯文化があり、最後に沙井文化があらわれます。
 華北では仰韶文化・龍山文化にひきつづき、殷文化が成立しました。これは龍山文化よりの過渡期である二里頭文化(前1620~前1520)、殷代前期の二里岡文化(前1380±95年)、河南省安陽市の殷墟遺跡にみる殷代後半の小屯文化(前12~11世紀)にわけます。殷代では王をいただく国家体制をとり、文字をそなえています。一般の人々は石器を用いましたが、支配者は青銅の武器・工具を鋳造し、車馬をととのえ、神々の祭りや葬送には青銅の容器を使用しました。
 殷代で特筆すべきことは、灰釉陶器の出現です。かつて安陽殷墟の発掘で、灰釉陶がみとめられていましたが、戦後、鄭州二里岡、および鄭州銘功路での調査によってもみとめられ、あきらかに灰釉陶が自然釉でなく人為的にかけたものであることが注意されたのです。
 周代は灰釉陶が江南より、洛陽・長安に分布し、これらの灰釉陶を原始瓷器とよぶ学者があります。
 周は西周と洛邑に都した東周があり、東周の前半を春秋時代(紀元前722~前481)、その後半を戦国時代(紀元前453~前221) とよんでいます。

 秦(前221~前206)および漢王朝(前漢紀元前202~前6、後漢=25~220)は、はじめて中国が領土国家として統一された時代です。
 秦代には始皇陵より人間や馬などの俑が発見されています。俑とは、死後の世界をにぎやかにするため人馬をうめたもので、またこれらを明器とよびました。
 漢代には厚葬の習慣があり、明器の数も多くなり、家屋、倉庫、井戸や、犬、馬、家鴨などの家畜や、武人、農民、曲芸師などを描き出しています。
 これらには鉛に銅分をふくんだ釉薬をかけた緑釉陶と、鉛に鉄分をふくんだ釉薬をかけた褐釉陶があります。
 漢代は三世紀のはじめ崩壊して、華北の魏 (220~265)、江南の呉(222~280)、四川の蜀漢(222~263)の三国が生まれました。呉では、六朝代を飾る越州窯の陶磁が生まれましたが、唐代以降のものと区別し、古越州、古越瓷とよんでいます。古越瓷は青磁ですが、形も千変万化です。
 呉、東晋(317~419)以来、六朝時代に茶が飲まれたことが史書にみえていますが、中唐の陸羽が『茶経』をあらわし、「越州」が茶をのむものとしてもっとも上位にあり、北方の白色の「?瓷は銀に類し、越窯は玉に類す」といっています。茶器にみえる他の諸窯のうち、?州窯(浙江省金華県)、岳州窯(湖南省湘陰県)、寿州窯(安徽省准南市余家溝)、洪州窯(推定、江西省南昌附近)はいずれも越州窯系の陶磁を出します。陶磁の目標である玉に肉薄することは、宋代に完成されますが、その基礎は六朝代にはじまるといってよいです。
 南朝と北朝を統一した隋王朝(581~618)のあとをうけて、唐王朝(618~907)が成立します。
 長安を都として、西域シルクロードのササン・ペルシャ文化などを吸収し、また日本をはじめアジア各地の国々に大きな影響力をもった時代でした。
 盛唐時代の北方を代表するものに唐三彩があります。白土の上に三色をかけます。緑、褐、白の三色の場合は三彩、白ともう一色の場合は二彩とよばれます。唐三彩は、男女の人物、ウマ・ラクダなどの動物の俑のほか、壺、盤などがあり、すべて明器としてつくられたものらしいです。窯跡も河南省鞏県などからも発見されています。唐三彩は日本の宗像・沖ノ島、太宰府、平城京大安寺、平安京などからも発見されており、日本三彩を生む原動力となりました。
 白磁も隋唐の間にあらわれました。また青磁も越州窯が有名です。越州窯は上林湖畔のものが有名ですが、これは日本の太宰府および平和台にも輸入されています。五代になると越州余姚窯は呉越の銭氏の庇護をうけて発展し、雲鶴、雲龍、花蝶などの劃花文をかき、器形も多くの形態にわかれました。越州余姚窯も北宋の太平興国三年(1342)、呉越王銭俶が?京で、宋の太宗に臣下の礼をとり、呉越がほろびるとともに、北宋の北方の民窯となり、五代のほどのものはつくれなかったようです。

 唐王朝のあと、北方では五つの王朝がたち、これを五代(907~959) とよんでいます。五代を統一したのが宋王朝で、華北の?京に都した北宋(960~1127)と、北方民族金におわれて江南の臨安に都した南宋(1127~1279)とにわけられました。
 北宋の白磁として有名なのは定窯で、河北省曲陽県澗磁村で、1941年、小山冨士夫氏によって発見されました。定窯の白磁は、彫り文様や型押文様があり、宮中の御用品となっていたことがうかがわれます。
 黒釉、柿釉のものがありますが、南宋時代には衰微したものらしいです。
 河南省の磁州を代表とする磁州窯は、やきものの表面を白土でぬり、透明釉をかけて白くみせる手法をとっています。この無地のものや、線ぼりのもの、白土のうえに黒土をぬって、文様の部分をかきおとしたものなど、各種の技法があり、文様も自由です。民間の雑器窯として現在もつづいているのです。
 江西省の景徳鎮も、この時期にあらわれました。影青とよばれる青白磁をつくった。
 抹茶を飲む風俗も宋代には完全に普及し、黒色の茶碗が用いられました。これを日本では天目とよんでいます。建窯(福建省建陽県区水吉鎮)と吉州窯(江西省吉安市永和鎮)はその代表的なものです。
 建窯はうるしのように黒く厚い釉層が特徴で、その釉面にいろいろな変化をあらわしました。静嘉堂のもつ曜変天目(稲葉天目)、安宅コレクションの油滴天目(図1)などは重要な作品です。
 吉州窯は黒い釉薬を主体としますが、茶色に発色する釉と二重がけしています。安宅コレクションの玻天目茶碗(前田家旧蔵木葉天目)(図1)はまさに絶品です。
 日本は茶道の国ですから、天目は昔より伝世で伝わっており、福岡市の地下鉄からは、宋・元代の龍泉窯、影青などにまじって多量の建窯の天目が出土し、「丁綱」などの墨書のあるものがあります。
 宋代には越州窯は龍泉窯に青磁の王座をゆずりました。龍泉窯は浙江省より福建省に窯がおこり、元・明から現代に至るまで用いられています。碗・皿が多いですが、花生や香炉などもあり、宋代のものを日本では砧 青磁とよんでいます。
 北方の青磁の代表的なものに耀州窯があります。ふかいオリーヴ色の釉色と、するどい片切り彫りの文様に特色があります。これらの青磁のうち北宋時代の官窯として知れられているものに、北宋官窯、汝官窯とよばれるものがあります。いまだ窯跡が不明ですが、形はきわめて単純で、青味のつよい釉をあつくかけています。
 北宋から南宋となり、都が汁より臨安(杭州)にうつるとともに、官窯も杭州にうつりました。修内司窯、郊壇官窯の窯跡が杭州のちかくにあります。これらを総括して南宋官窯とよんでいます。
 郊壇官窯の青磁には、網のようなひびわれ(貫入)があり、効果をあげています。
 日本へは唐代に唐三彩が伝わり、越州窯や長沙窯が伝わっています。唐三彩は太宰府や宗像沖ノ島、平城京大安寺、平安京などから出土していますが、おそらく揚州を介してであろうとおもわれます。
 越州窯は対岸の上林湖畔のものがあり、福岡市平和台は鴻臚館(警固所)のあとで大量に出土しました。これを日本でつくったものが、三河の猿投窯です。全体にうすい灰釉がのり、花蝶など越州窯にみる文様もあります。
 猿投窯の陶器は中部地方を中心に東北より幾内にひろがり、釉をかけた陶器はかえって九州でつくられませんでした。これができるのは、朝鮮の役後の朝鮮陶工によってです。
 宋代の陶器も九州一沿に多く、坊ノ津や博多はその荷揚として重要でした。博多の地下鉄工事に際しても多く出土し、越州窯、景徳鎮のものが多いですが、建窯の天目や、定窯の黒定、紫定、耀州窯の北方青磁などをもふくんでいます。

 1206年、チンギス=ハンはアルタイ山脈以東のモンゴルを支配するハンに就任、西夏を服属させ、金の中都(北京)を占領しました。金は開封に都しましたが、突如チンギス=ハンの西方遠征によって、その余命をたもったのです。
 将軍チェペには西遼をうたせ、自らはホラズムを征服し、インダス川流域まで攻めこみました。チンギス=ハンは1227年、西夏をほろぼしましたが、六盤山(甘粛省原県)でその一生を終えたのです。この広大な領域を一人では無理であり、長子ジュチにはキプチャク地域、次子チャガタイには西遼の故地を、三子オゴタイにはナイマンの故地エミール地区、末子ツルイにはモンゴルをあたえました。ジュチの子バツはボルガ川畔のサライにとどまり、キプチャク=ハン国をたて、ツルイの子フラグは現在のイランに勢力を確立しました。これがイル=ハン国です。
 第三子オゴタイ=ハンは、邪律楚材の策をとり、南方経略をすすめ、1234年南宋と協力して金を滅しました。フビライ=ハンは1260年ハン位につき、中統を建元し、現在の北京を大都とよび、その国号を元としたのです。フビライ=ハンは南下の歩をすすめ、1276年には南宋の都、臨安 (杭州)を占領しました。
 元は高麗を服属させ、さらに日本に眼をむけました。1274年、二万余の軍隊を対馬、壱岐より博多港に上陸させましたが、日本は事なきを得ました。1281年(弘安の役)には、対馬、壱岐よりと、平戸、肥前鷹島よりの二方面からの進撃を行いましたが、再び失敗しました。今年の夏、長崎県鷹島で「至元十四年九月造」(1277)の「管軍総把印」のパスパ文銅印が出土しました。これは元のフビライの年号で、弘安の役(1281)の四年前の年号です。
 元の時は、モンゴル人至上主義であり、漢族は冷遇されましたが、かえって陶芸などの芸術にすぐれた才能を発揮したといえます。東西の世界も交流し、都市も発達し、漢人の自発的意欲によるところが多かったのです。
 元にあらわれる陶磁として、元の青花(染付)があります。青花は酸化コバルトの顔料で白磁の上に文様をかき、透明釉をかけたものであり、コバルトはきわめて安定した顔料です。イスラムの技術からとりいれられたものでしょうが、これを景徳鎮でつくり、中東の国々にうりさばくことから発展したものです。
 元の青花が確認されたのは戦後のことで、それまで明初と考えられていました。1952年になって、ポープ(J.A.Pope)氏の注意により、はじめて確認を得たのである。
 トルコのトプカプ・サライ宮殿、イランのアルデビル・コレクションの元代の青花は優品であり、中国 (元)よりの貢納品です。近年では北京、保定や南京などでも出土しており、景徳鎮の湖田窯でやかれたことが確認されています。
 1976年、韓国全羅南道新安の海底に元の木造船のあることがわかり、翌七七年より引揚げをはじめた。陶磁はすでに一万二千点をこえ、龍泉窯、景徳鎮、建窯、吉州窯や北の磁州窯、鈞窯、汝窯などをふくんでおり、現在もまだ作業を継続中です。おそらく、福建、浙江の港をたって、日本にむかう途中、座礁したものとおもわれます。元の青花を欠きますが、それ以外の輸出用陶磁の代表的なものをそろえているとおもわれます。
 コバルトのかわりに銅をつかい、白地に赤い文様を出す釉裏紅もこの時代にあらわれました。コバルトの材料は銅・鉄にくらべて、きわめて安定した色彩を出しますので、これがあらわれて青花はきわめて流行をみるのです。
 この他、枢府の銘を型押しにした枢府の白磁があり、紅釉や藍釉のやきものがあるが数少ないです。

 明の時代(1368~1645)は、モウコ時代に屈服していた漢民族が再び自由をとりもどし、建国した時代です。
 景徳鎮がきわめて発展し、御器廠という官窯が生まれました。官窯には年号をかいているので製作年代をたどれ、青花と五彩が主にやかれたのです。
 永楽(1403~1424)と宜徳(1426~1435)年間が明でも最高の青花がやかれた時代です。土も釉薬も豊富です。この時期には鄭和が東南アジアより西南アジアに七回の遠征をおこなっており、コバルトの材料もイランにもとめたのです。鄭和の遠征は明朝に莫大な出費をともないましたが、海外諸国における招待外交船であり、中でも陶磁器は重要なものでした。
 正統・景・天順年間(1436~1464)は、みるべきものがありませんが、成化年間(1465~1487)になりますと、元や明初の青花とはことなり、重厚さがなくなり、女性的で、つくりはうすくなります。成化には豆彩とよばれる小さなやきものがあり、きわめて貴重視されています。
 弘治(1488~1505)、正徳(1506~11521年間にはアラビア文字をいれた青花がみられます。
 明の前期には、龍泉窯の青磁がさかんにつくられ、輸出されています。日本では天龍寺青磁とよんでいますが、厚手で、青磁というより黄緑になっています。
 また法花はもりあげた細い境界線で文様をあらわし、その中に紫、青、黄、緑色などの色釉を加えたものです。窯跡がまだわかりませんが、十五・六世紀頃のものでしょう。
 明の後期、嘉靖年間(1522~1566)には五彩がさかんになります。五彩は白磁の釉面の上に、赤、緑、黄、紫、黒などの低火度釉で文様をかき、もう一度窯にいれて低火度でやきつけたものをいいます。青花はこのころは輸入のコバルトをつかっており、紫がかっています。また日本では金襴手とよばれる彩磁があります。
 明代には、地方窯として、龍泉窯をふくむ處州窯青磁、白磁の名窯としての福建省の徳化窯、宋元代の伝統をもつ磁州窯があります。
 隆慶年間(1567~1572)のものは嘉靖年間のものに似ています。
 萬?年間(1573~1619)は四十七年もつづきました。この時期の五彩は萬暦赤絵として知られています。
 天啓(162~丁1627)、崇禎(1628~1644年間になりますと、官窯としての機能をはたせず、民窯の方に活気があり、日本で古染付、天啓赤絵、祥瑞とよんでいるものがやかれています。
 このころ日本に朝鮮の役後、朝鮮陶工が来日し、唐津、有田、萩、上野、高取、薩摩の諸窯が生まれました。日本独自の展開をとげたが、有田はここに青花および赤絵などの手法をとりいれたのです。

 清王朝(1644~1911)は満州族のつくった国です。元にくらべて漢民族を協力者としてとりあつかい、陶芸でも、各種各様、未曽有の発達をとげました。中でも康熙年間(1662~1722)、雍正年間(1723~1735)、乾隆年間(1736~1795)という三つの山があり、景徳鎮窯の御器廠では独自なやきものを展観しました。しかし光緒年間(1875~1908)には景徳鎮窯の技術も衰退しました。
 日本では清朝=江戸時代になりますと、京焼や瀬戸ならびに有田窯など、やきものが独立し、中国よりの輸入もストップしたのです。
 いまや中国は新しい時代を迎え、陶芸でも近代化をはかりつつあるのです。

岡崎敬

高麗・李朝の陶磁

 歴史の中の朝鮮陶磁史をひもときますと、広大な東アジアの文化圏の中で、地理的環境を母胎としながら絶えず中国の多様な窯芸を導入し、あらゆる文物と接触し発達したことを学ぶことが出来ます。しかし中国の陶技が導入されますと、ただ倣製に傾くことなく、朝鮮の風土と民情の中で特自の様式と装飾性を表現し、素晴らしい展開のあとを史実としてとどめ、伝世の名陶はその源流と系譜を語りかけてきます。加えて日本列島へと、その技を伝え、掛橋的役割を果たしました。幅ひろく朝鮮の美術工芸を考察しますと、その本質とした要素は、意識をこと更に強調することなく、端正にして謹厳な、合理的で機能的な造形美を内容とし、ある時代には、佛教思想の影響の中で、ある時代には、儒教的思想に順応して開花しました。
 このような工芸現象は、朝鮮陶磁に強く表現され、その特殊性を形成しています。朝鮮の陶磁器には、中国や日本のように茶意識の強い茶陶茶器類はほとんどなく、あるいは装飾性の過剰な、色絵磁器のような華美な様式もありません。いうまでもなく国際市場に幅ひろく、永く取り引きされたような商品性もありません。ただ哀歓に満ちた作調は朝鮮民族の感情の中で自然に培われたといえましょう。限りない淡々とした、しかも余韻の深い造形美が朝鮮陶磁の特色であり、東洋陶磁の中に異色ある比重を今に伝えている要素でもあります。
 このような朝鮮半島の古陶磁の内容と陶技は、中世以降に日本の窯芸、なかでも西日本地域の陶芸の発達をうながしました。したがって朝鮮の陶磁史をひもとかずして西日本の陶磁史を語ることは出来ませんし、また朝鮮の名陶を究めずして西日本地域の窯芸の全貌なり、陶技の変遷を語る事も出来ません。それゆえ、このようなゆかりの深い高麗期・李朝期の名陶を一堂に集めて鑑賞 考察する機会が与えられたことは、きわめて意義深いです。
 朝鮮陶磁の時代分類は大別しますと、楽浪文化の確立前後、新羅統一時代の前後、高麗時代・李朝時代と一応区分されます。いうまでもなく、それぞれの時代の朝鮮陶磁が政治や経済や宗教との関連性や社会環境の変転によって大きく影響していることを考察することも大切でしょう。

高麗期の陶磁

 高麗王朝の成立は、十世紀の918年であり、その後は1392年まで475年の間(十四世紀の終わり)続いています。高麗期の陶磁の、様式と傾向は、新羅時代の土器の陶技を伝承した面と、中国青磁の陶技を導入しながら交叉するといった生産現象を初期において学ぶことが出来ます。
 新羅時代の陶芸は無釉陶(意識的に施釉しない)で高火度(千数百度)による完全な還元焼成の完成をみており、他面、焼成の過程で木灰が降りて自然の釉相が発生し定着する傾向の時代でした。このような現象は、その後に還元焰を基調とした高火度焼成と灰釉陶の創成へと結びつきました。灰釉陶は青磁器の源流でもあり、灰釉が半磁器の胎土の上に全面に意識的に施釉され、それが前にのべたように高火度焼成に移行する過程での窯変品を「緑青磁」と分類されました。「緑青磁」は九世紀末から十世紀の初頭に創始されたと言われていますが、新羅期です。この緑青磁は、後年に高麗青磁の完成へと移行しますが、「緑青磁」は高麗青磁とは一線を画する状態で、酸化焼成で茶褐色の釉相です。このような傾向とは別に、「緑青磁」とは釉相を異にした、いわゆる「初期青磁」があり、灰緑色の釉相で洗練された青磁器として発達し異色な高度な高麗青磁が実現しました。中国青磁の影響が大きいことはいうまでもなく、中国の越州青磁の完全な模倣だといえます。現在の時点では、史料的な裏付はないにしても、中国陶工の移動が、高麗青磁の完成を可能にしたと史家は語っています。
 高麗時代の十世紀後半(950年前後)には「磁器所」瓷器所)が設けられ、陶磁は官窯的な組織の中で生産され「磁器所」は政策的に陶磁の発展をうながし、十一世紀に入りますと、宋時代の文物、特に多様な宋陶磁が移入され、その技法も導入されました。十二世紀に入ると高麗陶磁は最盛期を迎えています。高麗朝の政権が安定した高麗王国五代の景宗の時代 (976年前後)から十八代毅宗への治政下(1170年前後)の時代は朝鮮の陶芸が中国宋の窯芸技術と交流した革新の時代であったといえましょう。中国の定窯(河北)あるいは汝窯(河南)、景徳鎮窯(河南)などの様式を反映し、高麗初期青磁の淡い灰緑色のよどみのある濁り気味の色彩から脱して安定した色相を保ったのは十二世紀です。意匠は朝鮮古代や新羅時代の青銅器(その深流は中国の漢や隋唐時代の青銅器)の傾向を継承しましたが、無地の青磁釉相の他に陰刻、陽刻、透し彫り、象嵌、絵高麗(鉄絵)などの装飾技法があり多種な絵文様で描かれています。
 高麗王の十八代毅宗 (1170年)から、二十五代の忠烈王(1308年)までの180年間は文字通りの高麗陶磁の黄金期を迎え、爛熟に入る傾向を見せています。品種も多種多様で意匠にも変化があり、多岐にわたっています。「高麗図経」は十二世紀の初頭 (1123年)に中国から朝鮮の都・開城を訪れた使節団員の徐競の旅行見聞図録ですが、「陶器の色青きもの・麗人これを翡色という・・・」と青磁の釉相を表現しています。高麗青磁の美しさを文字にあらわした内容であるが翡翠の色相に似た高麗青磁の釉相をたたえた表現といえましょう。

高麗の技とその造形性

 高麗陶磁の中でその象徴的なのは高麗青磁です。その胎土は微量な鉄分を含み、灰白色です。成形された器は、素焼をした上に透明度の高い青磁釉(鉄分を僅かに含有)を施し、還元焰で焼成した結果として、鉄は灰青色の釉調へと窯変します。その色相 (釉面)は、灰青緑色であって優美であると共に、深遠な美意識をかもし出して来ます。本図録の「青磁陽刻警裟文鼎」(図4)は、緑を帯びた灰青色で、中国の古い銅器の鼎形の様式であり、三脚と両耳ある香炉です。原色図版の「青磁陽刻夔鳳文四方香炉」(図5) もやはり中国銅器の意匠に準じています。方形の香炉は四脚付で雷文、鳳文などの中国古代文様を印花技法でそえており、これらはいずれも十二世紀の高麗陶磁の最盛期といわれています。
 「青磁素文輪花瓜形瓶」(図8) は十二世紀前半の陶技の安定した優品で、その意匠形姿は、中国唐末の越州青磁が手頭(手本)のようですが、実際は、北宋時代の瓜形瓶によったものです。その意匠形状は北宋の頃の伝世品と比較しますと、きわめて写実的で、口造り、胴のふくらみと削り、高台の削りなど中・国的な意匠から高麗的な意匠へと移行した傾向を見せており、釉調は基本ともいえる翡色青磁で高台裏にも釉が施され、高台底には目跡が残っています。「青磁彫刻童女形水滴」(図2)は水瓶を抱えた童女の表情も豊かで、両の瞳には、黒土を封じてあり、上衣には細い線彫で(毛彫り) 花文様を散らし、この花文が水瓶の胴の部分に伸びて毛彫りしてあり、頭部飾りの蓮花の蕾が、水瓶の蓋に用いられるような趣向です。全体にきめの細かい感覚的な細工がゆき届いています。旧重要美術品だが、高麗青磁には、このような文房具類の小品にも優品があることを注目すべきです。
 高麗期の陶磁器の中で「青磁象嵌」の器もまた装飾技法としては特色があります。器物が生造り、生乾きの状態の折に、刃先の鋭い道具で素早く文様を彫りこみ、そのくぼんだ線の部分に白土や赭土を埋めこみ、後に、はみ出た土をぬぐい落とすのです。そして再乾燥し、素焼きした上で、青磁釉を施し本焼きしたのが「象嵌青磁」として製品化されます。これは高麗独自の技法であって、きわめて繊細にして雅味のただよう装飾効果といえます。「青磁象嵌唐子蔓草文水注」(図2)は重要文化財指定品ですが、瓜形の意匠と精細な成形技法が見事に融合した形姿であり、唐子が蔓草と戯れるように登る情景が、まことに伸びやかに象嵌描写によって完成されています。これまでの常識から抜け出たような器形、瓜形の胸面に「逆象嵌の技法」でモチーフを見事に象嵌し、さらに花文を黒象嵌しています。釉調は全体に薄く白象嵌の色調もよく、この水の意匠に調和しています。「青磁象嵌水禽文陶板」(図20)の絵文様の描写は、象嵌技法で、蒲柳や若竹が点在する水辺、湖面に、鷺が群がり遊ぶ情景が、淡々と描かれています。枠取りには白い象嵌で線をめぐらし、外周の縁取りは黒象嵌によって書文を連鎖しています。青の緑色の釉調で施釉の際の濃淡のむらが出ており、釉層が薄いので部分的に赤味を帯びています。一幅朝鮮の絵画、墨絵を見るようで高麗期の造形感情、高麗びとの感性や美意識が大なり小なり反映した陶板です。
 銅の泥しょうを用いた青磁辰砂は、色彩のない単調な青磁器に華麗さをそえます。銅を顔料(呈色剤)に仕立てて表面に文様を描いたり、白象嵌の上に更に点描する技法で青磁釉を施して本焼きすると、還元されて濃紅色を発色します。十四世紀の中国では白磁胎での辰砂現象を釉裏紅と呼んでいます。青磁辰砂は中国よりも先行していたとも伝えられ、高麗では十二世紀前半には辰砂技法が完成していたことは注目すべきです。「青磁象嵌辰砂彩牡丹文鶴首瓶」(図3)は、十三世紀の時代考証がなされますが、蓮花文の空間を白象嵌で埋め、三方に牡丹文様(折枝)をそえています。牡丹花文は茎と葉を黒象嵌で残し、花文と蕾を白象嵌と辰砂であらわした優雅な青磁器です。牡丹花文の中心部分に細かい貫入を生じて輝度をそえています。まさに焰の芸術がもたらす美しい現象です。
 日本では古くから絵高麗と呼びならわしている「青磁・鉄絵」の装飾技法があります。鉄砂を絵具に仕立陶胎の上に文様を描き青磁釉を施して本焼きしたものです。概して青磁の発色は鈍く茶褐色を帯びているものが多いですが、茶席に花入として用いられています。北宋様式の整然とした文様描写もあれば、民陶的な様式もあり、絵筆で自由に伸びのある絵文様が描ける特長のため十二世紀前半頃から高麗末期のに相当量が造られていたと思われます。後に「李朝鉄砂」の技法として継承されています。
 また高麗青磁の技法は多岐にわたり、「鉄彩」「黒高麗」と分類される一群もありますが、全体に鉄を化粧掛して透明釉をかけ、本焼きしています。厳密には「鉄泥地」で青磁釉をかける前に、雲鶴文や草花文を白象嵌した梅瓶が珍重されるのです。原色版の「青磁鉄絵宝相華唐草文梅瓶」(図30)などは、宋代の意匠をそのまま倣製した感じですが、「絵高麗」であり、それなりに格調を保っています。原色版の「青磁鉄泥地象嵌草花文梅瓶」(図3)は瓶の全面に鉄泥を塗りつけ、草花文を彫り込み、その上に白土を象嵌したものを素焼し、その後に青磁釉をかけて本焼きした器である。
 このようにバラエティに富む高麗陶磁はあくまでも青磁器が主流ですが、高麗白磁もあり、白磁の出土遺品も中国産なのか、高麗産であるか判定はむずかしいです。「白磁陰刻牡丹文瓶」(図2)などは高麗期の白磁を研究する上での貴重な遺産といえましょう。

李朝期の陶磁

 かつて高麗王朝に従属していた李成桂が、高麗を征服して都を開城に定め、太祖として王位についたのは十四世紀末の西暦1392年であって、間もなく首都を京城に移し政権の安定を図りました。その後、510年の間、李王朝は継続し二十世紀の初頭、1910年まで栄枯盛衰の歩みを続けましたが、陶磁の世界もまたこのような政情なり世相を反映したことはいうまでもありません。中国では、明王朝・清王朝の時代であり、日本では、中世の末期の室町時代から近代の明治までの時代であり、それぞれに陶芸技術が交流しました。李朝陶磁に関心を深める人びとは李王朝時代の時代区分を究めることも大切です。李王朝の国造りから政治の安定期まで、十四世紀末から十五世紀に及ぶ百年内外は一応、李朝初期、あるいは李朝前期として区分されます。李王朝の転換期といえば1592年(宣祖二十六年)から1598年までの七年間で、「壬辰・丁酉の乱」ですが、その後は李朝中期・後期として分類されています。李朝の美術文化は高麗王朝的なアカデミックな様式傾向の他に、民衆的、庶民的な様式の面を重視しなければなりません。
 李王朝の建国政策のひとつとして仏教を軽視し、儒教を国教として重視したことは、李朝陶磁の造形性をも大きく左右し、技巧的な精細な高麗様式から、端正にして清楚な様式へ、あるいは自由奔放な民陶様式へと移行したことも注目しなければなりません。このような傾向は新羅時代から高麗時代までの長い間、中国的な美術様式に依存していたものから脱却し、朝鮮独自の様式を樹立したといえましょう。

粉青沙器の美

 李朝時代の陶器や磁器を技法的に分類しますと、粉粧灰青沙器(日本では三島手あるいは刷毛目手として普及)と白磁・白磁青花磁器(日本では染付磁器として広く普及)とに大別されます。ことに日本人の間で慣用されている李朝陶磁の幅広い技法の三島手や刷毛目・象嵌などの技法は、去る1940年に韓国の美術史家・陶磁研究家によって粉の青器として名付けられ、今では世界の陶磁研究家の間で慣用されつつあることを注目したいです。一般的には「粉青沙器」といった略語が普及されているので本図録でもそのように表示されました。その技法は概して次のとおりです。
 鉄分を含有した胎土で器を成形し、その周囲を白い泥土で化粧掛し装飾を加え青色に窯変する釉薬を施し(ほとんど長石釉)、千三百度に近い高温で還元焰で焼成されたものです。いうまでもなく粉糖、灰青の技法は高麗陶磁よりの継承技法ではありますが、李朝的な造形感覚で処理されたもので施釉前の白く化粧した段階で、多様な装飾技法を多岐にわたって活用し、応用している点にその特色を見ることが出来ます。次に本展の列品の中から選択してその独自の粉青沙器の装飾性にふれてみましょう。
 「青器白地線刻魚文俵壺」(図4) と 「粉青沙器 白泥地線刻祠堂文扁壺」(図)はいずれも彫刷毛目の技法によります。器物体に刷毛目を塗り込むよう白泥土に漬けこみ、その上を鋭い線刻文を彫りあげています。いずれも、その意匠形状は李朝的で重量感があり、その装飾表現は、力強く、モチーフは朝鮮の自然と風土を感じさせます。原色版の「粉青沙器 粉引祭器」(図4)の意匠は、李朝の時代思想を象徴したような粉引技法の祭器で、いうまでもなく儒教の儀式に用いる器で、その原形は中国、殷周時代の青銅器です。この粉引による器は一見粗奔に見えますが、祭器として国教を反映した格調の高い伝世品です。原色版の「粉器 印花菊花文壺」(図4)は一般には花三島といわれていますが、菊花文の押印が胴の一面にあり、花文様を押したのちに白土を埋めこんだ技法です。胴面に「長興庫用」という字銘が認められますが、李朝初期(十五世紀)頃の官庁用品であるこの壺の文様は、最上段の雷文と最下段の蓮弁文は線彫り後に白土を埋める線象嵌です。印花文を散りばめた装飾だが僅かに薄い青磁釉がみられるのも特色です。
 「粉青沙器 粉引瓶」(図4)は、蹴轆轤で丸く水引きした瓶の形を叩き、あるいは削りあげて扁壺の姿に仕上げたものです。豊かな肩張り、ふくよかな胴廻り、高台の絞りは見事な成形です。化粧掛けをした折に、胎土に透しないで表面が剥落しており、気泡を生じたり、薄い部分に素地があらわれ残る状態です。この瓶は茶懐石用の酒器として古くから用いられ、薄紫色のしみが景色をこしらえていますが、「雨漏り手」として賞美されます。「粉青沙器 白泥地鉄絵草花文壺」(図5)は、日本では「絵刷毛目」といわれているが忠清南道にある有名な鶏竜山窯の産です。白泥を刷毛目で塗り引きした上に、鉄の顔料で簡素な伸びのあるタッチで草花文を描いています。この豊かな胴面のある安定した壺の形姿は、わが九州の古唐津や古高取の壺の形姿と交流しており、やはり李朝期の壺の意匠が源流です。鉄絵のモチーフやタッチも絵唐津の中に交流しています。このような壺の形を古唐津では「そろばん玉形」といっているので西日本地域での公開は意義深いです。本展の「粉青沙器」の展示コーナーで話題を集める李朝名陶のひとつに原色版の「粉青沙器 白泥地鉄絵蓮池鳥魚文俵壺」(図3)があります。俵壺の意匠は李朝陶器の異色な形状であって、左手の胴脇を底にして焼成しています。白泥を刷毛で塗りあげた後に、鉄絵具で文様を描いていますが、典型的な鶏竜山窯の焼成品。まるで一幅の禅画をみるような画面構成といえましょう。
 表面は、かわせみが魚をとらえようとする瞬間的な水辺の情景で、裏面は、立鷺と遠景に鳥が飛んでいる絵文様です。鉄分を僅かにふくんだ釉薬の窯変でかすかに青味を帯びています。絵筆のタッチもリズミカルで、明快な運筆のあとです。

李朝白磁と青花・鉄絵の美

 李王朝の世宗王(1419~150)になりますと、「御器は専ら白磁を用う」 記録があるように、この時代の白磁器は李王朝の宮中用であり、あるいは中国明朝への進献用として限られて焼成される程、きびしい環境の中で創業期を迎えています。白磁は儒教思想の白い清浄の観念とよく結びつき、李朝中期以降にはある程度、量産化されたようです。高麗末期を経て李朝初期の白磁を日本人の間では「白高麗」といいましたが、「堅手」が母胎となって、白い陶石を用いた磁器へと移行し、純白磁ではなく僅かに灰白・卵白・乳白を帯びた磁肌と釉面が特長です。李朝の中期以降・後期の磁器は青白・純白といった釉調が見られるように技術が進歩しました。つまり軟質の磁器から中国的な硬質磁器へと移行したのでした。「白磁丸壺」(図6)と「白磁面取壺」(図66) を比較対照しますと、その釉面の特色や技術の進歩の推移を学ぶのにふさわしい列品です。前者の白磁壺は李朝初期に分類出来るようですが、白磁といっても釉肌は、僅かに赤味を帯びた感じで完全な純白磁ではなく、胎土はやや鉄分を含有した感じです。作調はやや厚く、高台造りも高く、壺全体に貫入があり、形姿は静寂のただよう格調です。後者の白磁面取壺は李朝中期の十七世紀後半から十八世紀中頃までの焼成品で、胴が、八角の面取りで胴面からの稜角はきびしい曲線を残しています。乳白色の釉面が印象的です。
 日本では白磁胎に藍青の天然顔料で下絵付して描いた器を染付磁器、あるいは染付という言葉で略称していますが、しかし中国では青華磁器、あるいは青花と慣用していますので、李朝期のこの描画磁器も当時から「青花」と言葉の上で表現されています。「青花」の描画技法は東洋では中国で創成され、元時代に一応の安定した技術に達し、明王朝の初期には完成し、鮮麗な藍青色の絵文様が白磁器を一層特長づけました。李王朝では、前期の頃から「青花」の技法が発達を見せており、十五世紀後半といわれています。一応、高麗末期に「青花」の技法は導入されたようですが、十五世紀の「世祖実録」は世祖王の九年(1463~年)に全羅南道の役人が、青花の顔料となる回回冑を発見し、献上の青花磁器を焼成したと記録しています。李朝期の青花磁器の主要な窯場は、京畿道の広州の道馬里窯や牛山窯などであったことが最近の古窯地の発掘調査によって明確になりつつあります。次に李朝の青花磁器の列品の中の名器についていくつを照会してみたいです。
 「白磁青花秋草文壺」(図6)は、形姿のおとなしい柔和な造りで長壺といえます。胴の三方には秋の季節の「撫子」「蘭」「雛菊」が清楚な、流麗な、伸びのあるタッチで左右に展開文様として描かれています。
 乳白手に近い釉相で、厚く、部分的に流れがあるがいかにも李朝青花といった格調を残しています。原色版の「白磁青花窓絵梅花文壺」(図70)は李朝中期の十八世紀中頃の特長を残しています。青花の色相は、全体に薄いですが、梅花は一応輪廓の線を描き、濃淡の差をつけた「だみ筆」の運筆が、枠内に描かれた岩梅の絵模様を美しく整えています。原色版の「白磁青花虎鵲文壺」(図7)は稀にみる大壺です。典型的な長い壺状の意匠で、肩面がゆるやかで、胴の張りのある面と融合した作調です。李朝の民画をみるような「虎と」が主題で、上部の山脈と太陽の情景描写は李朝の陶郷を感じさせます。あるいは李朝の「白磁青花文面取瓶」(図77)や「白磁青花恋絵秋草文面取壺」(図18)の類はまことに堂々とした作調で、西日本地域の「初期・伊万里」の作調と比較研究する上にも貴重です。
 李朝の白磁の装飾技法として注目されるのは、鉄砂による描画であり、また銅を顔料とした辰砂釉裏紅)による描画も異色です。原色版の「白磁鉄砂虎鷺文壺」(図1)は、肩を強く張り出し、胴の裾の絞りへと力強い成形です。その胴の曲面に奇智に富む自由奔放なタッチで戯画的なモチーフを展開して描いてあります。おそらく李朝初期の造りで、鉄分を僅かに含有した失透性の白釉(長石釉)が施してあり、高台脇は胎土の持味を残しています。「白磁辰砂蓮花文壺」(図88)は東洋陶磁の類形的な絵文様で、釉裏紅の発色が実に素晴らしいです。胎土は僅かに鉄分を含有しており、釉薬に鉄分が含まれているのであろう、釉肌はやや青灰白を帯びています。
 このように高麗期から李朝期の名陶の世界を学んでゆきますと、隣接の中国陶磁の影響 角的に受けながらも、やはり当時の政治・経済・文化の推移の様相を陶芸の面に反映していることを教 られる。加えて、類型的でその技法は継承され、交流しましたけれども、高麗陶磁・李朝陶磁は、独自の創作性と装飾性を歴史の流れの中できわめて具体的に表現している内容を教えられるのです。

永竹 威

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