中国 china 解説

唐物とは

 唐物-からものという字づらから解しますと、唐の国のもの、つまり中国製の品というように受けとれます。ところが昔の日本人は、地理的な感覚に乏しかったですからか、たいへん大ざっぱな定義を、この唐という称にからませていたらしいです。中国のものが唐物であることは当然ですが、朝鮮のものも、安南やタイ、ルソン渡りのものも、また時としてはヨーロッパのものまでも、唐物の中にぶちこんでしまっているのです。だから、唐物とは舶来品をさした言葉と見ていいでしょう。
 それでは、唐物茶碗といえば外国の茶碗すべてをさすかというど、そうではないのです。外国の茶碗のうちでも、朝鮮産のもの、即ち高麗茶碗のことを、唐物茶碗と主称するのです。甚だ奇妙なことですが、今日までの茶道界では、これが常識になっているのです。
 こう述べてきますと、恐らく疑問をさしはさまれる方が多いと思います。茶入の場合は、唐物といえば中国産のものをいうじやないか、それなのになぜ茶碗の唐物は朝鮮なのかと、これは当然すぎる指摘でしょう。そしてこの疑点を解明することが、至って曖昧な唐物という言葉の、正体をあかすことになると思います。

 古くわが国に渡来した茶入は、主として南中国に産したもので、そのほかに南海諸国のものがまじります。朝鮮産のものは殆どないといっていいです。そして南方産のものは、島物といって区別されますから、唐物茶入といえば中国のものに限られるのです。唐物茶入という称が、まともに中国製のそれをさすゆえんは、以上のような次第によっています。
 茶碗の方はどうかといいますと、最初に渡来したのは正真の唐物、即ち宋・元の代につくられた天目・青磁・白磁などの茶碗でした。しかし室町にはいって、茶道がしだいに佗び茶へと指向するに至って、きらびやかな中国の茶碗は敬遠されはじめ、代わって朝鮮産の渋い味わいの茶碗が、斯界を風鐸するようになります。利休以後の、つまり桃山から江戸へかけての茶道では、この朝鮮の茶碗と、楽や織部といった和物の茶碗が王座を占めて、中国の茶碗は、特別の場合を除いて、いわば疎外された立場に置かれるようになったのです。
 ところで、お茶に使う道具を、たとえばこれは伊羅保の茶碗、これは辻堂の香合というように、細かな種類分けというか、整理をするようになったのは、遠州ごろからのようです。もちろん高麗茶碗が茶碗の筆頭におかれていた時代です。唐物という格づけの高い称号を、その高麗茶碗の上にもっていったのは、むしろ自然のなりゆきだったのではありますまいか。
 しかも本来の唐物である中国製の茶碗は、天目茶碗とか青磁端ぎざみの茶碗というように、より直接的なよび名で遇されていましたので、あえて唐物とよばないでもさしつかえたかったのでしょう。そのような事情から、いつか唐物といえば、高麗茶碗をさすようになってしまったのです。
 そういう茶道界の常識にしたがうなら、唐物茶碗の総説たるこの稿は、当然、高麗茶碗のすべてについて述べるのが本義でしょう。しかしながら、近代に至って、陶磁器の鑑賞・研究は飛躍的な進歩をとげ、これまで茶道界で、単に古い好みの特殊な茶碗としてしか顧みられなかった青磁や天目も、中国陶磁史上の大きな遺産として、広く識者の珍重を促すこととなりました。また世界に冠たる茶道文化のそもそもの淵源をなしたものとして、それらに眼をふさぐことは許されなくなったのです。
 そのような状況から、いわゆる唐物茶碗、即ち高麗茶碗についての評説は第二巻にゆずり、ここでは、茶道界で最も早くから親しまれた本来の唐物、中国製の茶碗について略述することにしたいです。

中国から来た茶碗
 既によく知られているように、抹茶を喫する風が日本に伝わってきたのは、鎌倉の初め、宋国に留学して禅を修めた栄西禅師の手によります。彼は抹茶を点てて喫する法と、栽培用の茶の種子とを持ち帰って、喫茶の風と茶の生産を始めたわけですが。当然それを喫する道具、即ち茶碗をも持ち帰ったに違いありません。
 当時のわが国には、茶を喫するための茶碗はなかったといってよいです。木器や漆器が上流の食器として用いられてはいましたが、材質からいって茶にかなうものとはちがいます。陶器としては、瀬戸地方でつくられていた山茶碗の類が、ただ一つ茶碗とよべそうなものですが、中国の禅院で日常用いられていた見事な陶碗にくらべて、それは余りにも粗に過ぎます。
 そのへんの状況を熟知していた栄西は、何のためらいもなしに、茶碗を彼地から持ち帰ったに違いありません。彼の携行品の内訳は、残念ながら不明です。しかし、それを類推させる記録はあります。学問・宗教・文化の最高府であり、従って権勢とも至って近い関係にあった鎌倉五山の雄、円覚寺の什物を書きとどめた『仏旧庵公物目録』がそれです。
 そこに記されているのは、青磁を筆頭に、饒州・建撞・窟変・敬蓋といった茶碗です。饒州は白磁の産地とて知られていた地名で、饒州できのもの、つまり白磁のことをいったものですが、恐らく景徳鎮か、それに類する青白磁のものを総称したのでしょう。建遺は福建省建て窯のふつうの天目を、窯変はその後に曜変とか油滴といった称を冠せられた別格の建羞を、そして敬遠は、江西省吉州窯の釈放羞天目のことをさしています。
 これが抹茶茶碗として最初にわが国で用いられた品々なのです。すべて中国製であることは申すまでもありませんが、それらが江南の窯の産ばかりであることも注意に値しましょう。産地が南にかたよっていることは、日本からの留学僧たちの滞留先が、江南の中支を主体としていたことによるのです。
 中国から舶載された茶碗類のこういった性格は、この後も長らく変動を見せません。それは東山義政の時代に編まれた足利家の道具帳、『君台観左右帳記』に記載された茶碗類が、この仏日庵の軌を一歩も出ないことによって知られます。留学僧の滞留先は相変わらず江南の地に限られましたし、公私の貿易船が寄航するのも、浙江以南の港だったからでしょう。それと同時に、宋がその領土の北半分を金に明け渡した南宋時代以後、江北の地にかつて栄えた名窯は廃滅し、宋の陶磁といえば江南のものに限られてしまったからでもあります。
 さてそれでは、中国からもたらされたこれらの茶碗を、その種別により、陶磁史的な背景もからませて、見てゆくことにしましょう。

青磁
 中国で茶碗として用いられた陶磁では。青磁と白磁が最も早いです。唐代の茶法について陸羽が記述した『茶経』によれば、越州の青磁と那州の白磁が、茶碗の最上とされています。また唐詩の中にも、この青・白の二磁碗をたたえた詩がしばしばあらわれます。尤も今日の眼から見れば、唐代の陶磁はまだ種類に乏しく、この二つの他にあったのは黒黒磁くらいですから、最もすぐれた青磁・白磁を造った両窯が称揚されたのは、当然のことといっていいかもしれません。
 それはともかく、この越・邪の青磁・白磁が茶碗として賞されたのは、その肌色が茶の色によくかなったからと伝えられています。ただここで気をつけねばいけないのは、当時の茶湯の色が、抹茶の鮮緑とは全く違う点です。唐代の茶は団茶といって、茶葉を蒸し、これを鴇いたものを丸薬状に乾し固め、それを砕いて熱湯で溶くのです。こうして煎れられた茶湯は紅茶か番茶のような紅褐色を呈します。淡いオリーヴ・グリーソの越州青磁も、かすかに黄味をおびる邪州の白磁も、この濃い色とならコントラストの妙を呈したに違いありません。賞玩されたゆえんでしょう。
 このような唐代の茶法、茶碗は、早く平安朝にわが国へも伝えられています。しかしこの流の喫茶法は、今日に及んでいる茶道とは直接のつながりがありませんし、従ってそれらの茶碗が茶筵に用いられることもありませんから、詳述することはさけます。ただ、この越州の青磁と、宋代ならびに鎌倉時代以後のわが国で寵用された青磁とが、どのようなかかおりあいをもつかは、やはりふれておかねばなりますまい。
 ふつう青磁と聞きますと、人は翡翠色の釉薬がたっぷりとかかった、本書第7図の満月の茶碗に類するやきものを想いうかべます。それでいいのです。しかし、このような完璧な青磁が成立するまでに、中国の陶磁史は、実に二千年の歳月をついやしているのです。唐代の越州青磁は、その最後の一歩といってよいです。さきほど越州の青磁は、淡いオリーヴ・グリーンを呈するといいました。それは字で書いただけでも、砧青磁の翡翠色とはニュアンスが違います。どこに違いがあるのでしょう。
 一口にいいますと、青磁の釉は灰の釉なのです。雑木を焼いた灰を釉に用い、薪をたくさんくべて燻し焼きにしますと、灰の中にわずかに含まれている鉄分が還元して、淡い灰青色の釉肌になります。釉薬の精練を入念にし、焼きかたに気をつければ、これで青磁ができます。越州のオリーヴーグリーソの肌は、このセオリーを正しく実行したものといってよいです。ところが、それでもなお砧青磁のしたたるような翠色が出なかったのは、もう一歩の工夫が足りなかったからなのです。
 秘密は釉の層の厚きにあります。水は無色透明でも。深く湛えて淵となった水は青いです。それと同じで、わずかな青さの釉も、厚い層をなしてかかりますと、色も濃く、深みを増すことになります。越州の青磁が、決して悪い色調ではないのに平板の感をまぬがれなかったのは、釉をさっと流しかけただけで、至って薄い釉膜しかもたなかったからなのです。
 唐のあとに続く五代のころ、浙江省の西南部、竜泉県一帯に、越州の系統をひく新たな窯がおこります。
世に名高い竜泉窯の始まりです。どのような遥庭をへて、この時期この地に窯が興ったかは定かでありません。しかし焼造技術からいって最もむずかしい青磁を、世界最大といっていいほど大量に焼いた窯の初めだけに、経営に当たる者のうちにも、また技術者の中にも、相当の頭脳の持ち主があったことはたしかでしょう。彼らは、その新しい事業を成功させる妙諦は、在来の越州青磁になかったものを造ることと考えました。その必死の思案から生まれたのが、層を厚くして釉色に深みをもたせた、本格的な青磁だっためであります。
 しかしこの一大発見の功を、竜泉窯にだけ帰するのは危険といえましょう。そこにはもっといろいろの、多元的な要素がからみあっているように思われるからです。
 北宋が中国の統一国家として成立したとき、その首都は河南省の開封に置かれました。中国の全土からいえば。江北の地です。宋室が振興に力をいれた新しい陶磁器の生産も、当然この首都の周辺で行われたはずで、事実、定窯・均窯・汝窯といった北宋の名窯は、河南・河北の地に集中しています。国家をうしろだてとしたこれらの窯は、唐・五代の伝統をふまえて、新機軸の創案に力を注ぎました。科学技術の発展にもめざましいもののあった北宋のことです。すぐれた作品の生まれぬわけがなかったといえましょう。
 均窯の月白釉、汝窯の青磁、定窯の刻花白磁といった、今日世界の鑑賞界の寵児となっている優品が、次々と生産されていたのです。いかに大きな窯だったとはいえ、江南の僻地に新しく興った竜泉窯にしてみれば、それら江北の優越な技術は、絶好のお手本だったに違いありません。翡翠色の青磁が竜泉窯に生まれたのは、多かれ少なかれ、それらの窯の技術が与ってくいたと考えるべきでしょう。
 均窯の月白釉といい、汝窯の青磁といい、色目はそれぞれに違って別もののようですが、非常に近い性格なのです。汝窯の方は、越州の青磁に似た色で、ただかなり釉の失透性が高いです。均窯の方は、月白釉という言葉が示すように、釉色はペール・ホワイトというか、ラヴェソダー色をしており、やはり失透性が高いです。この色合いは、青磁の灰釉を、雑木の灰ではなく、藁灰のような、燐酸を含んだ灰からつくると得られます。両釉とも主成分は同じで、灰の種類が違うだけといえましょう。そして特に重要なのは、この二釉が、二度、三度と器に重ねがけされている点なのです。
 さきにも述べたように、唐代の越州青磁器では、釉はただ一度流しがけにするだけでした。ところが汝窯や均窯の青磁―均窯の月白釉も性質の上からは青磁に属するーになりますと、釉をかけては乾かし、またかけては乾かすというように、釉の層を厚くする努力をしています。そのために成品の釉肌は色も深く、どっしりと落ち着いた風格を見せているのです。竜泉窯に美しい青磁が生まれたのは、いちはやくこの施釉法を学び取りましたから、と考える方が合理的のようです。越州窯が用いていた灰釉を、汝窯の伝で何回も重ねて焼いてみたら、美しい青磁になりました。そういうことではなかったろうか。

 ともかくそのようにして、北宋のある時期に、竜泉窯は新たな、真の意味での青磁を、世に送り出したのです。ここでもう少し詳しく、その青磁の性質を明らかにしておきましょう。
 一口に竜泉窯と人はよびますけれど、その窯場は竜泉県を中心に、慶元・雲和・遂昌・麗水・永嘉の各県にわたって散らばり、いまわかっているだけでも、二百基を越す窯趾をかぞえます。これだけの大量生産地帯が現出したということは、このあたりに良質の陶土が豊富にあったからです。今日のこっている竜泉の青磁器について胎土を見るとー器の大部分が釉におおわれており、高台の畳付ぐらいしか土見はないがー、灰白色の、非常に緊密に焼きしまる細土であることが知れます。青磁という文字からすると。これは磁土、すなわちカオリンのように思えますが、実際はそうではなくて、半磁質の陶土というべきでしょう。
 灰白色の、と書いたことは、間違いではないが問題が残りそうですので、ひとこと注解しておきます。竜泉窯の青磁で土見になった部分は、一般に紅褐色に焦げているものです。これは素地の中の鉄分が、焼成の最後に酸化して・できる現象なのです。砧青磁についてよく紫口鉄足ということがいわれますが、その鉄足にあたります。だから竜泉の青磁は土が赤い、と思われやすいのです。しかし、これはあくまでも土の表面だけの現象で、中身は灰白色を呈します。この高台部には、機能上、欠け損じができることが多いです。またそういう欠け損じをならすために、後世そこを磨いたりしたものも多いです。そういう部分について見れば、この土が灰白色をしていることがわかるでしょう。
 さてこの土が灰白色であることは、青磁という釉をかけるには、まことに好適なのです。なぜかといいますと、この色は青磁の色の原素ー還元した鉄の色と同系だかちです。はやくいえば、ともいろなのです。従って、この土の上に青磁釉をかければ色が反撥せずによくなじみますし、それだけ色調に奥ゆきが出るともいえましょう。かりにこの土が純白だとしたら、色は明るくはでやかになるかもしれませんが、鍋島青磁のそれのように、なんとなくうわついた、味わい少ないものになってしまうでしょう。
それともう一つ、この土の利点は、非常に腰の強い、つまり可塑性に富んだ土だというところにあります。第7図の満月の茶碗にしろ、同じく宋代竜泉窯の作として知られている、馬煌絆や雨竜の茶碗にしろ、すべて碗体のつくりがすこぶる薄いです。これくらい薄く茶碗を挽くには、轆轤の腕もさることながら、土の腰が強くなければかなわぬことです。薄作の茶碗というものは、鋭い理知的な感覚を人におぼえさせます。定窯の白磁、耀州窯の青磁、景徳鎮の青白磁等、宋代のやきものには、この性格をそなえたものが多いです。竜泉窯の工人も、釉法を汝窯にならうと同時に、形制の鋭さをそれらの窯器から学んだのでしょう。それにしても、この強靫な土にめぐまれていたからこそです。
 竜泉窯がそこから派生したろうといわれている越州窯も、土のいいことで定評があります。灰白色の、竜泉とよく似た細土です。しかし可塑性の点では、やや竜泉に劣るのではないかと思われます。というのは、越州窯が最もいいものを造ったといわれる唐末・五代の時期にも、薄作の茶碗や鉢は殆ど生れていないからです。

 次は器形である。初期の竜泉窯でどのような種類の器が造られたか、戦後の中共の発掘報告で次第に分明になってきましたが、ここでは他は略して、茶碗の形にのみ集中すれば足ることでしょう。越州にならって生まれた窯といわれるだけに、竜泉の碗形は、唐末・五代の越磁のそれに近いものが多いです。では、どのような形が越磁ではやうていたかといいますと、比較的高台の広い、そして浅く朝顔形にロを開いた、いわゆる平茶碗形なのです。これは横から見た形をいったものですが、上から見ますと、轆轤で挽きっぱなしの正円形を呈するものと、その縁が花形になるように、何か所かに切りこみを入れたり、縁を外から軽くおさえたりしたものとがあります。
 竜泉窯の茶碗にこの両形を求めてみましょう。縁が正円形になる茶碗といぇば、金閣寺伝来の雨竜の茶碗が想いあわされます。側壁がたゆたいなくすっきりと開いた浅蓋の姿は、正に越州の第一の形式です。そして第二形式、即ち輪花形に当たるのは、いうまでもなく馬煌絆の茶碗です。竜泉窯の北宋期の窯趾から、葵口碗の破片が出たと中共の調査は報じています。葵口碗とは、もちろんこの馬煌絆式の輪花形をいったものです。してみますと、馬煌絆は北宋に遡る初期の作と見ていいのかもしれません。
平重盛が、育王山の仏照禅師から贈られたという、この茶碗の伝来も、あながち付会の説とはいいきれないようです。 ただこの越磁によく似た二碗にも、形の上で違う点が一つあります。それは高台です。越州の茶碗の高台は概して広いです。そして削りこみのないべた高台か、中央だけを浅く削った広幅高台であることが多く、ふつうの輪高台はむしろ少ないです。ところが、竜泉窯の同種の茶碗ー満月も含めてーでは、高台は小さく、ごく薄く削りこんだ細幅の輪高台になっています。恐らくこれは、薄く鋭い造りの碗に、広い太い高台をつけたのでは、バランスが崩れるという配慮から出たものでしょう。達見というべきです。
 尤も、ひるがえって北宋の陶磁全般を見わたしますと、定窯や耀州窯・均窯、更に河南天目にいたるまで、開口部の大きい浅遺は.すべてこの式の小さくしまった、薄い高台をそなえています。当代の典型だったのです。竜泉窯もそれにならったまでかもしれません。
 この二つの形式よりやや遅れて出てくるのが、満月のタイプの、いわゆる鎬ぎ手の茶碗でしょう。この方が遅いだろうという根拠は、この手の破片が出るのは、竜泉でも南宋期の窯趾からという、中共の報告にもとづきます。しかし何しろ広大な窯趾群を擁する竜泉窯のことですから、今後の調査如何では どうなるかわかったものではありませんが、今は一応こう考えておいてよいでしょう。
 竜泉窯の青磁の茶碗は、鎌倉いらいおびただしく招来されていますが、その中でも鎬ぎ手の茶碗が、葵花碗、即ち輪花の茶碗と並んで、最も愛好されたらしいです。今日わが国に伝世する竜泉青磁の碗や鉢に、この鎬ぎ手のものが多いのも、その好みを映したものといえましょう。かの有名な狩野秀頼筆、高雄観楓図屏風の画面で、路傍の荷茶売りが並べている茶碗は、明らかに青磁の鎬ぎ手です。室町の末頃までは、これが最も普遍的な青磁茶碗だったのです。
 このタイプの碗も、満月で見てもわかるように、高台は比較的しまって小さいですが、それでも碗体に対する比率からいいますと、雨竜型のそれよりはいくぶん大きめです。それには碗の形がかちんでいるように思われます。この碗では、側壁は一直線に外へ開くのではなく、やおらかな曲線をえがいて、 まるくかかえこんでゆきます。開きかげんではありますが、まあごくふつうの碗形といっていいでしょう。この形には、余り小さな高台は、却って不安定さをともなってつりあいません。浅遺形にくらべて、この形では重心が高くなっているからといってよいでしょう。だから、これくらいの大きさが必要だったのです。
 それよりも大きな違いは、なんといってもこの茶碗が、前者にはなかった装飾をもっていること、つまり外側面に鎬ぎを有する点でしょう。鎬ぎというのは、刀のそれでも知れるように凸帯の頂が稜角をなすことをいいます。こういう凸帯が外側にずらりと竪にならんだ飾文を、鎬ぎ文とよんでいます。古くはエジプトやギリシャの大理石器に、また中国では周代の銅器に、既に採用されています。
 そんな古いところは論外ですが、竜泉窯の器にこれが出て来る経路をさぐってみますと、唐の越磁や北宋の諸窯器にやはりたどりつきます。それらの碗や鉢には、外側を花弁飾りにしたものがよくあります。もともとは仏像の蓮座から来た飾法で、こうすることによって、器が花のうてなにかかえこまれた形になります。甚だ美しいですので、六朝いらい、白磁や青磁・三彩の器などに好んで用いられました。
 この仰蓮とよばれる花弁飾りが次第に密になって、弁の一本一本の幅が狭くなってきますと、鎬ぎ文になります。北宋の陶磁には、ごよくこの飾文を見る満月の鎬ぎになりますと、弁の形が左右相称に正しく整っているばかりでなく、三十本の弁がみな同形向き寸で整然とならび、完璧のできばえを見せる。フリー・ハンドで彫ったものとは思えぬほどで、当代の陶工の腕の冴えには舌を巻かされます。
 この鎬ぎ文は、青磁の釉が上にかかりますと、より一層の効果を発揮するといってよいでしょう。器壁がうすいですので、鎬ぎ面の凹凸はわずかに過ぎませんが、それでも全く平坦な面とは異なります。そこへ釉がかかるのです。釉は沈んだ部分にはよく溜まり、鎬ぎの稜角帯には薄くしかのりません。こうして焼きあげられた器は、釉の厚く沈んだ凹帯で深い莉翠色をたたえ、薄くしかかからなかった凸帯では、素地の色がすけて青白い筋を走らせます。それがたがい違いに横へめぐってゆくのです。まごに美しい景色が現出します。前の第一形式では見られなかった新機軸です。
 満月の茶碗では、何度かに重ねた釉が、外側の中ほどで溜まって、むらくものような濃いよどみを横にたなびかせています。それが竪に流れる鎬ぎ文上の釉景と交錯して、えもいえぬ景観を呈することになったのです。

 室町時代の往来物等の記録によると、青磁や饒州とならんで、かんようという器物の名がよく出てきます。官用・管窒・壇瑶などの宇があてられていますが、要するに貫入、即ち釉面にこまかな氷裂状のひびのある青磁ということらしいです。これが単に貫入のあるということで終わるならいいのですが、近来、南宋時代の官窯ー宮廷の御器のみを焼いた官営の窯ーの研究が進むにっれ、あるいはそれは官窯青磁のことをさしたのではないか、といった論議がなされるようになりました。
 かんようと官窯という、字面の相似だけで物議をかもすならナンセンスですが、実は貫入のある青磁は、官窯の作品に多いという事実があるのです。竜泉窯の青磁には、大きな貫入が幾つか走る例はあっても、貫入が細かくびっしりと肌をおおうといったものはありません。ことさらにかんようを強調している往来物の記録が、大きい貫入の竜泉ものをきしたとは考えられません。とすれば、これは郊壇官窯などに見られる小貫入のものを言ったのではないか、ということになってくるのです。
 しかし、いまのところ、伝世の青磁の茶碗で、官窯の青磁と目されるものはありません。従って、この筒題の決着はつけられませんし、ここで官窯の青磁について詳述する必要はありますまい。竜泉窯の青磁のもっと上等なもので、釉色はもう少し白みをおびたもの、とぐらい知っておいていただけば事足りましょう。
 ただ一言だけつけ加えておきたいのは、伝世の花生類、たとえば大内筒とか万声といった遺例を、名品だからということだけで、やたらに官窯にしたがる傾向が強いことです。こういう比定は、台北の故宮博物院を始め、欧米の美術館に散在する極めっきの官窯器を、もっと精細に研究してから後になさるべきでしょう。いわゆる砧形の、鳳凰耳や統耳の花生の形が、官窯品に遺存しないというのが、よい戒めです。


人形手
 日本における茶の好みが、室町の末ちかくから、次第に佗ぴの方向へ向かうことは初めにもふれました。
可視的な美に満ちた青磁や天目は、余りにもはでやかに過ぎて、世の好みから徐々に遠ざけられてゆくことになります。それにかおるものとして取り上げられたのか、人形手とか珠光青磁とよばれる、色目の渋い青磁です。
 さきにも述べたように、青磁の釉は、還元焔で焼かれたときに、初めてあの翠色を呈します。ところが燃料がわずかでも焔を出しますと、釉は酸化してしまいます。つまり釉中の鉄分は酸化第二鉄となって、黄褐色といった色調に変ってしまうのです。こういう色調をもったものが、人形手や珠光青磁なのである。
 宋代以後も、浙江から福建にかけて多くの竜泉系の窯が拡がっていきました。それらの中には、窯の設備も充分でなく、技術の劣るものも少なくなかったに違いありません。その結果、還元が完全に行われず、一部参加焔で焼かれた黄色っぽい青磁がたくさん出てきました。明らかにこれは青磁としては失敗作で、恐らく当時の中国でも、竜泉あたりの美しい青磁に比べればずいぷんと安い値しかつかなかったでしょう。
 ところが世の中はおかしなもので、この下物ともいうべき出来そこないの青磁が、佗びを指向する日本の茶道界では、逆に殊のほか歓迎されることになったのです。たまたま当時の貿易船が、浙江か福建の港近くで造られたこの種の茶碗を、なんの気もなしに持ち帰ったのでしょう。それが時の茶人の眼にふれて、そのひしお色の釉調がいかにも佗びたものと称揚され、いつか茶碗の寵児となったものらしいです。村田珠光が愛したということから、その一つは珠光青磁どよびならわされることになりましたし、もっと厚手で型押しの人物文のある手を、人形の茶碗、人形手とよんで、さかんに用いています。
 珠光青磁というのは、越州の青磁に近いものと思えばよいです。灰白色の素地で割に薄作め浅遠形をとり。その。内外に細かい櫛目の文様を走らせたものです。血が薄いですので、櫛目のつけかたはほんの引っ掻く程度に過ぎず、なかなか軽快な効果を出しています。ぢょうど猫が爪でひっかいたようだといいますので、猫掻きなどともよばれます。上にかかる青磁釉は、たぶん一回のかけきりだったのだろう、至って薄い釉膜で、越磁のそれによく似ています。従って釉色も淡く、深みとて出ぬ上に、焼成が還元しきつていない関係で、褐色がかった草色ーいわゆる、ひしお色に焼き上がっています。香港のハリウッド・ロードの骨董屋さんに、この手の鉢がたくさん並んでいるのを先年見ました。香港に近い福建か広東あたりで造られたものなのでしょう。

 人形手の方は、珠光青磁とはかなり調子がちがいます。遺品で見ると土見がかなり焦げていますから、鉄分の強い土ということになりますが、質は緻密でよく焼きしまっています。土は珠光青磁とそれほど違わないようですが、こちらはかなり厚作りで。碗形は開かずにかかえこんだ満月形に属します。明代の竜泉窯の青磁には、こういう作り、形の鉢・碗類が多いですから、たぶんその伝をひいたのでしょう。そして釉がかなりたっぷりと厚くかかっているのも、やはり竜泉に近いです。
 人形手といわれるゆえんは、碗の内面に人物・花・折れ枝・雷文といった文様が、型押しでつけられていることによります。特にその中の人物を主役と見立てて、人形の型押しの茶碗とよぶようになったのでしょう。人物こそ余り見ませんが、竜泉のこの期の青磁にも、型押しで文様をつけたものばかなり多いです。そういう幾つかの共通点から見て、この人形手を造った窯は、比較的竜泉に近いところにあったのではないかと思われます。
 ところが釉の色という点になりますと、竜泉とはけた違いなのです。明代の竜泉青磁は、釉の硫酸分が多くなったのか、透度の高いぎらぎらした肌で、色も緑と草色の間ぐらいの調子になります。世にいう七官青磁です。しかしそれでもまだ、青磁とよぶことをためらうほどのものではありませんでした。それにひきかえ人形手の釉色は、十一屋の人形手の図版8でおわかりのように、かな力濃いオレンジ色をしています。草色に赤みがかかったというようなものではないのです。珠光青磁の方がその意味ではまだ青磁的だったといえましょう。『茶道正伝集』に「柿色なる唐茶碗」としているのは、正鵠を得ています。
 この釉色が、酸化焔焼成で生じたものであろうことは勿論ですが、釉の成分にもよるのではないかと思われます。釉肌をつぶさに調べますと、この柿色の釉表には、ところどころに卯の斑が浮遊しているのに気づきます。恐らく土灰の精選が悪いためにおこった現象でしょうが、このような釉は、鉄分の量がふつうより多かったのではありますまいか。それが釉の赤みに拍車をかけたように思われるのです。

天目
 青磁の話に手間がかかり過ぎてしまいましたが、茶碗の上では青磁よりもっと重要な働きをした、そして量の上でもはるかに多く用いられた、天目について筆を進めましょう。
 宋代にはいって、青磁はみごとな翡翠色を得ました。茶の色との映りもよく、更に重用されたかと思えそうですが、事実はそうではないのです。宋になってから、茶のつくりかたが変ったのです。その結果、煎れた茶の色は、ひからびた笹っ葉のような、白っぽい草色になりました。今の抹茶のもっと白みがかった色と思えばいいです。ごのような色の茶は、どう見ても青磁の茶碗に合いそうにもありません。色がつき過ぎてしまうからです。
 日本では青磁の花生や鉢を珍重したのにつれて、青磁の茶碗をも長く賞美しましたが、宋代の喫茶では、殆どこ瓦を用いなかったらしいです。茶の色と合わないことが。大きく左右したのです。それに、青磁よりもはるかに茶うつりのいい茶碗が造られたからです。それこそが天目なのです。
 天目という名の由来については、古くからいろいろな説があります。わからぬ詮議だてはいらぬことですから、ここでは、天目山から招来された茶碗、という最も穏当な説に従っておきましょう。天目山は、浙江と安徽の境に径山と並んで立つ山で、茶の産地であるうえ、有名な禅寺があって、多くの留学僧が修行をした場所なのです。そこから持ち帰った茶碗が天目とよばれたのは、むしろ自然なことでしただろう。
 要するに天目という名は、天目山渡来の茶碗、即ちこれから述べる建て窯や吉州窯の茶碗のことをいいます。それらはたしかに、他の茶碗とは区別さるべき独得の形をそなえています。それらをただ茶碗といわずに、天目茶碗とよぶのは理にかなっています。しかし今日では、その茶碗にかかっている黒系統の釉のことをも、びっくるめて天目釉とよぶようになっているー単に宋代中国のものに限らず、日本や他の東洋諸国のものでもーから、少々ややこしいです。碗形と釉の種類との両方に、天目という語が用いられるということです。

 天目の釉は黒いです。それは釉の中に鉄がたくさない(約10%)含まれているからです。こういうたちの釉は、中国では六朝時代の越州窯からあらわれます。しかしここで扱う天目茶碗に直接つながるの唐の黒磁でしょう。唐の黒磁がどこで造られたのか、まだはっきりとはしていませんが、河南省方 面で生まれたものということは確かです。従って時代が五代、北宋と移っても、この釉法の伝統は、河南のあたりにのこったと考えていいです。だから宋代になって、この釉を茶碗に適用して天目茶碗をまず造ったのも、この方面だったと考えていいのではないでしょうか。
 河南天目とよばれている、黒釉に茶色の斑文の浮いたものや、竜光院や藤田美術館の小さい油滴天目、同じく藤田美術館の白縁天目などが、その江北に生まれた天目といえるでしょう。そして断定はできませんが、この方が江南の建て窯、吉州窯の天目より早く、少なくとも北宋代に造られたものと考えられそうです。
 天目茶碗はその釉面の微妙な変化をよろこぶものですので、釉のことだけ書けばよいわけですが、ここでは一応にしろ、形の変化というか、南北の違いについてふれておきましょう。さきにあげた河南天目や、これに類する柿天目の中には、青磁の雨竜形、つまり浅く一直線に開いた平茶碗で、高台の小さくしまった形をよく見ます。これまでを天目茶碗とよんでいいかどうか、問題ではありますが、ともかくこの形式は、北宋代に江北の諸窯に流行したもので、いわば北宋様式と称されましょう。
 従ってこのタイプの茶碗は、まず北宋を降らない時期の所産と思って間違いありません。黒い天目釉のかかった茶碗としては最も早い作例といえるでしょう。建て窯や吉州窯の天目茶碗には、この様式をふまえたもの捨ありません。もしそれらの窯が、北宋代からさかんに天目茶碗を造っていたとすれば、当然この形が出てきてもいいように思えます。それがないどいうことは、江南の天目は北方より遅れて始まったと考えていいでしょう。
 この説に対して、異論をさしはさむ人がいるかもしれません。吉州窯の釈放叢天目の中には、北宋式の浅蓋形があるではないかと。たしかに浅遠形はあります。たとえば、有名な前田家伝来の木の葉天目などは、正に浅遺形といっていいでしょう。しかし注意七て見ますと、それらの形には、本格的な北宋式浅蓋形とは、若干ことなった点があることが指摘できます。第一は、高台はたしかに小さくしまっていますが、背が低すぎるのです。碗底へめりこみそうなほど低く、高台とは申し訳のような姿をしています。この点でまず北宋式と違うどいえましょう。それと、浅く開いた側壁が、わずかながら内へかかえこむカーヴを示すのです。北宋式の意識的な直線が、ここでは影をひそめてしまっています。それらの点から考えて、吉州窯のこの形式は、北宋浅雀形の崩れたものと見るのが妥当ではないでしょうか。
 江北の天目茶碗には、この浅遺・形をとるものはむしろ少なくて、大抵は側壁のカーヴのまるい、いわゆる碗なりの姿をとります。竜光院や藤田美術館の油滴天目の形といえばおわかりでしょう。総じて背が低いですので、開口部は大きく、一種の平茶碗といってもよいですが、碗の側線扨やおらかくまるみをもち、おだやかな碗なりとなります。そしてこれと対照的に、高台は正しく直立します。
 この形式も江北だけのもので、建て窯や吉州窯の天目には見られません。汝窯や均窯の碗・鉢の中には、これと同じ様式のものがしばしば存することを思いますと、この形もやはり北宋様式の一つであるといえましょう。吉州窯の戒琉遠の中に、わずかにこれと似た形がありますが、高台のつくりが崩れていて、とても北宋へさかのぼらせることはできません。
 建て窯や吉州窯が最も得意とした形、即ち世に天目形とよばれているあの形(図版2 油滴天目参照)は、この江北の天目の碗なりをアレンジしたものと考えられます。これは轆轤をひくときに、最後のここだけひねり返して、飲みロをつけたからです。これらの碗に口をつけてみるとわかりますが、このひねり返しが唇に当たって、まことに飲み具合のいいものです。
そういう機能の面から発した工夫といっていいでしょう。
 ところが建て窯や吉州窯の天目形にも、この飲み口がつけられています。『雲州蔵帳』の油滴天目(図版2)や、室町三井家の玳玻盞鸞天目(図版6)などに、それがはっきりと見てとれゐ。この口縁部のひねりかえしは、天目形の大きな特徴の一つとされていますが、こうしてみますと、それが江北の天目から学んだものであることが知れましょう。
 この一点で、江南の天目形は、江北の碗なりのアレッシであ&ことがわかりましたが、その他の部分については、余り似ていません。似ていないのは、かなりそのアレンジがきついからです。建て窯の天目、即ち建遠の場合は、一応もとにならって、高台も正しく直立させているからいいのですが、玳玻盞の方は、この天目形でも、やはりべたっと低い高台しかつけていません。似ないのも道理でしょう。といって建て蓋の方が、より祖形に近いかといいますと、これもまた然らずです。

江北の天目
 江北の天目といっても、河南天目や柿天目などは古渡りの中にはなく、従っ七茶席で用いられることもまずありませんから、ここでは竜光院や藤田美術館手の油滴天目に限って申し上げることにしましょう。
 これらの天目は一体どこで造られたのか、調査が進んでいませんので、はっきりとは決めかねますが、河南省修武県の当陽峰窯ではないかと思われます。この窯は、いわゆる磁州窯の中に含まれる名窯で、宋三彩・宋赤絵・掻落しなど、さまざまの作品を造っています。この窯趾で採集したという破片が手もどにありますが、〈そ。の中に一片、明らかに上記の天目と同じ油滴を生じたものがあります。これが確かな当陽略出土片なのかどうか不安はありますが、今のところ、そう信ずるよりしかたありません。
 ところで、この種の天目が磁州窯系の所産としますと、中国陶磁に詳しい方ならお気づきになるでしょうが、当然、土は白系統の色になるはずです。宋赤絵にしろ三彩にしろ、あるいは鉅鹿手とよばれる白釉陶で恚、すべて土見の部分にのぞく胎土は、赤みか青みをおびた灰白だからです。正にその通りで、この種の油滴天目は、同じ白い土をそのまま用いています。ただ、その白い色は、外見からはわかりません。というのはその土見になる高台周辺を、必ず鉄砂で塗っていますから.色目としては紫褐色と映るのです。ところが鉄砂の塗りかたが少なかったために、釉の裾に塗りのこした白土がのぞいていたり、長い間の使用の中に、鉄砂がすれて下地があらわれたりして、もとの白い色が瞭然と上見てとれることが多いのです。
 なぜこのような塗りを施したのか、なにも記録がないので全くわかりません。恐らく初めは。白土のまま釉がけをして焼いたに違いありません。ところが、濃いチョコレート色に銀珠の浮いた油滴天目釉ができてみますと、白い土の色との対照が余り強すぎて、折角の油滴が尤う一つひきたたなくなります。私がいま白土のままの油滴を想像してみてもそう思えるのですから、美的感覚の鋭い当時の関係者は、いちはやくそのことを感じ取ったに違いありません。磁州窯という窯は、素地忙白化粧をすることが至って得意だつた。つまり素地の色を変えることに馴れていたといえます。そこで、白の代わりに黒土を塗って、素地の色を上の釉と同系にするという、このすばらしいアイデアを考えついたのではないでしょうか。
 これまでの説では、この黒化粧は建て窯の天目、殊に油滴天目の土が黒いですので、そのひそみにならってしたのだ、といわれてきました。しかしこの油滴天目と全く同類と思われる、藤田美術館の白覆輪油滴天目を見て、この説に疑問をいだくようになりました。何故ならばこの天目は、つくりからいって、また特殊な白覆輪という技法からいって、北宋を降るものとは考えられません。にもかかわらず、これもやはり土見に鉄砂を引いているのです。建て窯とは無関係にした技法と考えるのが妥当でしょう。

 さて次は釉です。天目の釉は鉄を10%ほど含んだものと前に書きました。それを高熱で焼きますと、鉄は酸化第二鉄の微粒子となって釉(一種のガラス熔液と考えたらいい)の中に熔けこみます。その中に、釉や素地は、その成分の中に含んでいた酸素を放出します。酸素ガスは小さい気泡となって、ちょうど 沸騰した湯が泡を吹くように、釉の中から表面へと浮かび上がり、やがて破裂します。これが油滴の現象をおこす母胎なのです。
 釉中に熔けている不安定な酸化第二鉄は、すばやくこの気泡のまわりに集まります。水面のごみがあぶくの周りに集中するのと同じです。やがて気泡が破裂しますと、酸化第二鉄はそのあとのくぼみへ流れこんで、釉表に斑点状の形でとどまることになります。この状態のときに火がとまり、ゆっくりと窯が冷えてゆきますと、この粒はそのままの姿で保たれて、油滴になるのです。
 油滴天目の表面をルーペでのぞいてみますと、油滴が茶色いかたまりであることがわかります。だから油滴天目というものは、茶色い斑点が浮かんだものであるべきなのですが、わずかにこの上にかかる釉の薄い膜が、外光を干渉して、この粒を銀鼠色に見せるのです。恐らくは当陽峪だろうと思われるこの窯は、他の華北の窯と同じく、石炭を燃料としているため、焼成はおおむね酸化焔によっています。だから釉の色は、鉄の酸化により濃いセピア色になり、その上に銀の珠が浮くという景観になったのです。
 こういう釉の性質や油滴のできかたは、建て窯の天目とこれとなんら変りありません。ただ江北の油滴天目は、釉の成分によるのか、かけかたによるのか、建て窯にくらべると釉の層がやや薄いです。そのために釉調がいくぶん深みをかき、油滴の照りもやや表面的なきらいがあるといえるようだ。

建て窯の油滴天目
 建て窯の天目について述べるなら、第一等とされている曜変天目からはいるべきなのですが、前項で油滴が出てきましたので、そのならびということで、油滴天目から先に扱うことにしました。
 建て窯の土は、磁州系の土と違って、鉄分が多く、いくぶん粒子があらいです。だから焼き上がったものの土見は、淡褐から黒褐といった色調を呈し、肌はざらついて、唐津のちりめん皺に近い状態になります。尤も色が濃くなるのは、鉄分のせいではなく還元焔で焼いたためだということを、清水卯一氏に聞いたことがあります。あるいは、そうかもしれません。
 この土で、さきほどいった天目形をつくるのですが、轆轤は速くみごとに挽かれていますのに、江北の天目にくらべますと、ずいぶん厚作りになっています。特に底部から腰にかけてがぶあついです。だから手に取ってみたとき、建遠はまず重いという感じが先に立ちます。轆轤がうまいのですから、もっと薄ぐ造れそうなものですが、それをあえて厚くしたのは、ある意図があったからにほかなりません。
 それは、この天目が茶をいれて喫するものという機能に徹したからです。茶は熱くして飲みます。だから器が、その熱をなるべく手に伝えないことが望ましいです。そういう要請からこの厚さが出てきたのです。またその厚さは、逆に中の茶をさめにくくするという効用をもかねていました。
 宋の蔡襄は、その著『茶録』の中で、建て蓋が色が黒くて、茶の色とよく映ることをほめるとともに、その厚さの効用をもたたえています。そして青磁や白磁は、有識の者ならこれを用いないと記しています。前に見てきたように、竜泉の青磁の茶碗は胎が薄いです。まだ満月や馬煌絆で茶をよばれたことはないがあの茶碗にたぎった湯で茶をたてられたら、とても素手では持てないだろうと思います。胎は薄いですし、土が半磁質でよく焼きし奮っていますから、瞬く間に熱が伝わるに違いありません。色目のことよりも、この性上質が宋の茶人に嫌われた大きな理由でしょう。
 形の上でもう一つふれておきたいのは、高台のつくりです。建遠の高台は、直立の正しい姿をしていますが、高台内は、ほんのわずか、申しわけ程度に削るに過ぎません。べた高台に一筋箆目を入れたようなものなのです。なぜこのようなつぐりにしたのか明らかでありません。しかしこれが建て蓋の大きな特色の一つである以上、なにか理由があってのことに違いない、やはり熱が逃げるのを、できるだけ防ごうとしたと考えたくなるのですが、どのようなものでしょう。
 さてこの建て蓋形の上にかかる油滴の釉は、江北のそれと殆ど同じです。思わず油滴の釉と書いてしまいましたが、単に鉄釉という方が正しいです。同じ釉が、その焼成の加減一つで油滴にもなれば、曜変も生みますし、また普通の兎毫蓋にもなるからです。ただこの建て蓋の釉は、江北のものより粘りが強かったらしく、たっぷりと厚くかかります。建て蓋の釉の裾を見ますと、水飴の流れのように。厚い釉がまるっこい溜まりを見せて止っています。これも建て蓋独得の景色です。
 この釉が焼成中に油滴を生じさせるしくみは、前項で既に述べました。建て窯の油滴の成り立ちもほぽそれに等しいです。ただ建て窯では、華北と違って燃料には木を用い、還元焔で焼くのがふつうです。還元焔で焼かれますから、釉中の鉄は酸化第一鉄、つまり青磁のそれと同じ組成となり、釉に青みをおびさせます。この釉は鉄分の含有量が多いですから、釉色は黒に近い青を呈することになります。建て蓋の地釉が青黒く見えるのはこのためで、江北の油滴天目の肌が紫褐色だったのとは違います。
 そのうちに釉は酸素の気泡を吹き出し、そこに酸化第一鉄の細かい結晶が集中します。そのへんも前項と同じことです。ところがこの結晶は第一鉄の方ですから、油滴は黒い粒となったはずです。青黒い肌に、より濃い黒点がうかんだことになります。しかし私どもが見つけている建て窯の油滴天目は、茶色っぽい油滴を吹いています。黒い粒ではないのです。なぜそうなるのでしょう。
 建て窯では還元焔を用いるといいましたが、薪をくべるのを止めて窯を冷やしにかかりますと、外の空気がはいって、わずかの時間でも酸化焔を生ずることが多いのです。そのときに、釉表に顔を出していた第一酸化鉄の油滴は、瞬時に酸素と結びついて、第二鉄へ、つまり赤い鉄に変貌してしまうのです。釉の中に熔けている第一鉄の方は、釉にもぐりこんでいるため、酸素にふれられず、そのまま青黒い色を持ち続けるわけです。こうして、青黒い地肌の上に、茶色い油滴のうかんだ天目が誕生したのです。
 油滴天目とは、このようにして釉表に油滴が結んだもののことをいうわけですが、釉が薄いところにごく薄くしかかかりません。こういう状況の部分では、吹き上がった第一鉄は粒状にかたまることができず、横にひろがって、一様の茶色い釉となって残ったからでしょう。もちろんここでは、下の青黒い地釉を見るすべもありません。
 それに対して、たっぷりと釉のかかった部分では、地釉は色こそ濃いですが、黒曜石のような深い澄明さをたたえ、そこに茶色の細粒がただよって、甚だ妖しい美しさをかもし出すのです。この味わいは、江北の油滴にはなかったことです。釉の厚い建て蓋の持ち味でしょう。


曜変天目
 『君台観左右帳記』には、天目茶碗の種別があげられていますが、その筆頭に来るのが曜変天目です。
いまその記述を引いてみますと、
″曜変 建て蓋の内の無上也 世上になき物也 地いかにもくろく こきるり うすきるりのほしひたとあり 又 き色 白色 こくうすきるりなとの色々ましりて にしきのやうなるくすりもあり 万匹の物也″
とあります。黒々とした地釉の上に濃淡さまざまの瑠璃色の曜変が、満天の星のようにきらめき、そのまわりにオパール状の光芒があらわれたさまを、なかなかたくみに表現しています。今日の眼で見てもは油滴は出ません。たとえば、口縁のひねりかえしになったあたりは、特に切り立っていますので、釉がめぐるめくほどの美しさなのですから、昔の人が驚異の眼を見はったのは当り前でしょう。そしてそのころから稀少なものだったことが、世上になき物也で知られます。万匹という値段が、今日いかほどに当たるのか、よくはわかりませんが、ともかく破天荒な値がつけられたといえましょう。
  この曜変天目は、いま四点しかありません。静嘉堂・竜光院・藤田美術館、そして某氏のとです。このほかには諸外国にも伝存しませんから、世界でただ四点ということです。定めし世界宝とで恥称すべきものでしょう。


 曜変の土や形は、他の建羞となんら変りありませんから、ここではその釉の変化についてだけふれておきましょう。さきにもいったように、釉だって別に特殊なものを用いたのではない。ごくふつうの、油滴や兎毫遺のと同じ釉をかけるのです。この釉が焼成の間に気泡を発し、そこに鉄の粒が集まって油滴をつくります。ここまでは油滴天目の生成と全く同乙です。曜変天目の星といわれている粒々の部分をルーペでのぞきますと、すべて円に近い形で、これが気泡の破裂したあとであることは疑いありません。
 ところが。これが単なる油滴天目で終わらずに、曜変となる秘密はどこにあるのでしょう。油滴の場合、その粒は茶色をしていました。だがルーペでのぞいた曜変の粒は、あくまでも黒いです。この粒の輪郭がオパール色の曜変を見せますから、これが黒いまるい粒だということがわかるのですが、それでなければ、黒い釉の上の黒い粒ですから、甚だ見わけにくいものです。色が黒いということは、よくはわかりませんが、この気泡あとに集まった鉄が、茶色の第二鉄ではないといえるかもしれません。タングステンやマンガンといった爽雑物の結晶がまじったとも考えられますし、還元したままの第一鉄だといえぬこともありません。
 いずれにしろ、この黒い粒が曜変の一つの秘密をにぎっていることはたしかでしょう。もう一つの秘密は、この粒の上に薄くのっている釉の表層です。曜変天目を手に取って眺めて気づくのは、その曜変の輝きが、視角によってみごとに出たり余り光らなかったり、その光芒の量が変わることです。
もう少し詳しくいいますと、粒に正対して見るときは輝きがうすれ、斜めから見ると燦然とかがやくのです。つまり斜光を当てて、釉面に乱反射がおこりやすいようにしてやりますと、曜変は最大の輝きを発するといえます。
 これを要するに、曜変というものは、釉の表層に生じた、オパール現象のおこりやすい薄い皮膜と、その下にある黒い粒とが、反射光を干渉しあってできたものといってよいでしょう。よほど特殊な条件で焼成がおこなわれたときに初めて、こういう曜変天目が生れたのです。だからわずか、四点しか遺存しなかったのでしょう。
 しかしこれに近い状態を呈するものは、建て蓋の中に尤少なくありません。油滴天目や兎毫遺に斜光を当てますと、釉の表層がラスター現象のように光彩を放つことが多いです。こういうものは、曜変とよく似た表膜を釉面にもっているわけです。ただ釉下の油滴や兎毫の組成・条件が、曜変のところまでゆかなかったと考えていいでしょう。

その他の建羞
 天目といえば曜変・油滴を珍重する風が強いですが、建て蓋の大半を占めるのは、兎毫遠とか禾目天目とよぱれるものです。兎毫といい禾目というのは、細い毛筋様のもののことです。つまり釉の表面に、そういう筋目が櫛比して浮かんでいるものをいうのです。
 その兎毫蓋は、土・形・釉ともに、曜変・油滴と全く同じ焼成による釉表の景色が違うだけです。油滴がどうして出るかは、既に詳述したところですが、兎毫はこの油滴が粒のままでとまらずに、下へ滴下したものと考えていいです。気泡のあとに鉄が集まって油滴ができたとき、窯の火が落ちてゆっくりと冷えてゆきますと、油滴はそのままの形で釉面にとどまり、立派な油滴天目ができあがります。ところが、この状態になっても火が落ちず、焼成が続きますと、釉は流動をつづけ、それに従って、折角たまった鉄のかたまりが崩れて流下することになるのです。
 だから兎毫蓋の釉面を見ますと、茶色め筋があるいは長くあるいは短く、一様に下へ下へと流れてい&のがわかります。茶碗によって、兎毫がまだ粒状に近い形をしていたり、きれいに長’くのびていたりするのは、日の落ちる時期による変化といえましょう。兎毫蓋はその意味で、油滴の弟に当たるわけです。
 焼成が進んで釉が煮えているときに、急に火が落ちて窯が冷えますと、釉中の第二酸化鉄は、油滴や兎毫のように結晶となってあらわれず、釉面を泥のようなきたない色と化してしまいます。もちろんこれは天目としては失敗作なのですが、そのかせたような灰黒色の肌が、佗び茶に好まれて、灰被天目という名で珍重されています。灰がかぶったようだからというのでこの名がついたのですが、匣に入れて焼く建て蓋に灰のかかるはずはなく、その色調を見た眼の判断でこう称したのでしょう。
 天目茶碗の釉は、たいていの場合、二度がけになっています。下地に鉄分の多い黄土のようなものを塗り、その上に硫酸質の釉をかけるのです。焼成が始まりますと、下地の鉄が上釉の中に熔けこんで、さきの油滴や兎毫蓋になるわけです。ところがなにかの加減で、その下地釉がごく薄くしか塗られなかったとしますと、鉄の殆どが釉中に熔融して、余分の鉄が結晶して油滴を生ずるということはおこらない、この場合、釉の色は鉄の呈色で黄褐色になり、飴釉のように透きとおります。こういう手のものを黄天目とよんでいますが、偶然の産物なので多くはありません。
「天王寺屋会記」その他桃山時代の茶会記に、ときどき「たてひやしる天目」という言葉が出てきます。
たてひやしるとは、蓼をすり入れた冷製の吸いもので、蓼のみじんが浅緑色を呈して、夏場の食欲をそそるものといわれています。それに似た天目というのです。どういうものか長い間疑問にされていましたが、近ごろようやく判明しました。京都の竹内逸氏が御所蔵の天目の中に、釉調が正に蓼冷汁そっぐりの、緑あがりの天目があります。これがそれに該当する尤のに違いありません。これも至って数の少ないもので、この他には九州大学、オランダのフロニングン博物館、そして英国に一点あるのを見ただけです。
 これの組成も、恐らぐさきの黄天目と殆ど同じだろうと思われます。ただ黄天目の場合は、酸化焔で焼かれたために黄褐色に上がったのですが、こちらは還元焔で焼かれましたので、ちょうど青磁のように鉄が還元して、草色になったと思われます。釉と火の加減一つで、天目は正に午変万化の相を見せるのです。

玳玻盞天目
 江西省の吉州窯で造られた天目にもいろいろの種類があります。それらを文様の上から細かく分ける分類がありますが、技法の点では殆ど同じことですから、ここではその代表的な名である、玳玻盞という称で統一しておきます。玳玻とは玳瑁の皮、つまり鼈甲のことをさします。濃褐色の地肌に黄色い斑文を有する釉調が、この吉州の天目に通有のものですから、それを鼈甲と見て、玳玻蓋とよんだのです。
 玳玻盞には、大きく分けて二つの型があります。一つば前にも述べた浅蓋形です。あるかないかの低い高台がつくのが特徴恚いえよいます。もう一つは単純な碗なりです。図版(4)のつくりでわかるように、いくぶんかかえぎみの側線をもった碗で、比較的広い高台をもちますが。これも至って背が低く、横から見だのでは、高台があるとは見えません。そして建て蓋にあったような、口縁のひねり返しはつかないのが普通です。その点、図版(6)の鸞天目は、異例の形といえましょう。
 ただ、中には、外からはひねり返しに見えませんが、口縁の内側が姥ロのように隆起して、一種の飲み口をなすものがあります。恐らく、茶碗の内ぶところを締める意味でつけられたものでしょう。
 吉州窯の土は、建て窯と違って白く、かなり細かいですが、質はいくぶん脆いようです。美濃の土のように余り焼きしまらないらしぐ、浅蓋形の薄作のものでも、かなり断熱性が高いです。
 玳玻盞の妙味は、土や形ではなく、その上にかかる釉薬の変化にあります。さきに天目の釉は二重がけにすることを書きましたが、玳玻盞の釉は、その二重がけにするというテクニックを、うまく応用したものなのです。本書に掲載されている玳玻盞の図版を見ますと、黄色っぽいむらむらした釉の中に、濃い褐色で文様が出ているのがわかります。文様となっている濃い部分は下釉だけ、地の黄色い部分は、二重釉なのです。
 どの茶碗でも、下地に黄土のような鉄分の強い釉をかけるのは一緒である。その上で、得たいと思う文様を切り紙でつくり、これを適当な部分に貼って、上釉をかけるのです。こうすると切り紙の下だけは上釉がかからず、下地釉だけで残ることになる、紙をはがして焼きますと、当然、釉が一重のところと二重のところとでは、色目が違って焼き上がります。ごうして文様を得るわけです。
 下地釉だけの文様の部分は、その強い鉄分が発色して、濃い褐色になります。それに反して、硫酸質の上釉をかけた地の部分は、上釉の中に下の鉄分が熔けこんで、黄天目と同じように黄褐色となり、その表面に余分の酸化第二鉄が兎毫となって浮ぶのです。上釉の成分の関係で、この兎毫は、俗に卯の斑とよばれるオパールのような色になりますから、建盞の兎毫より明るく、濃い文様との対比が一層きわだつことになります。この場合もちろん酸化焔で焼くわけです。
 近ごろ、新中国の物産展などに行きますと、よぐ細かな切り紙細工が並んでいます。こういう切り紙細工は、古くから中国で発達したもので、吉州の工人はそれに目をつけてこの応用法を思いついたのでしょう。小さい梅鉢や団花を剪って、一面に散らしたものもあれば、竜とか鳳凰といった大がらな図柄を貼ることもあります。凝ったものでは、花菱輪違いのかこいの中に、富貴長命・金玉満堂といった文字を配したりします。
 こういう切り紙細工いついたのであ
 こういう切り紙による型抜き文様は、必ず碗の内面だけに限られ、外側に配することはありません。そして外面には、原則として玳玻文様をつけるのです。これはどうするのかといいますと、下地釉をかけた上へ、上釉を筆かなにかに含ませて、ぱっと飛び散らすのです。そうすると釉の飛沫が、打ち水でもしたように偶発の斑文となり、その部分だけに卯の斑状の兎毫が生じるのです。黒地に黄ばんだ斑文がうかぶ様は、正に玳玻のよび名にそむきません。
 切り紙によるこの施文法は、いろいろな文様を表現することができます。その文様に従って、梅花天目とか、文字天目といったよび名がついていますが、あらわす形が違うだけで、技法は一つに過ぎません。
だから定称としては、た技法による作品が、玳玻盞という一つの名で統一する方がいいです。ところが吉州窯には、それと違っもう一種だけあります。それが木の葉天目とよばれているものです。
黒い浅遠形の茶碗の見込みに、一葉のわくら葉がはらりと散ったかのように浮いています。まことに風情のある景色で、昔から非常に珍重されています。これはどうやって造るのかといいますと、至って雑作もないことで、本当に木の葉を一枚、下地釉の上に貼りつけるだけなのです。そんなことで、といぶかる方もあるでしょうが、正にその通りなのです。こうして窯に入れますと、葉はもちろん燃えつきてしまいますが、灰だけはそこに残ります。そしてその灰が下の鉄釉とまじって、玳玻盞と同じような卯の斑を生じます。黄色っぽい色で、葉そのままの文様が浮かび上がるというわけなのです。
 うまく焼けたものになると。細かな葉脈の一つ一つまでくっきりとあらわれて、人工のものとは思えぬほど迫真性があります。炎の芸術とはよくいったものです。ただこの場合、どんな葉でもいいというわけにはゆきません。故石黒宗麿氏は、木の葉天目の再現に成功しました。名工ですが、ある特定の種類の葉でありませんと、こういう見事な葉文を出すことはできないと述べておられました。木の葉天目は、この他には 一切飾りを用いません。玳玻盞が常にする外側の釈破文もつけず、あとは黒一色の無地にしておきます。木の葉の印象をできる限り強く出そうとしたからでしょう。


絵高麗
 中国からわが国に渡来した茶碗の大部分は、江南の竜泉とか建て窯・吉州窯あたりの産で、華北の窯のものは至って少ないです。これは地理的な関係によるといっていいです。しかし北のものが全くないわけではなく、河南の当陽略の油滴天目は、その数少ない例といえましょう。珍しい北方産のもう一つのものとして、絵高麗の茶碗をあげることができます。白地に黒で、逆に黒地に白で梅鉢文を散らした、軽快な平茶碗です。
 この絵高麗の茶碗は、磁州窯系のどこかの窯場で、元・明のころに造られたものと考えられます。絵高麗という名からしますと、朝鮮産のように思われますが、これも昔の日本人の大まかな海外知識からする誤りで、間違いなく華北で造られたものです。『大正名器鑑』でさえ、これを朝鮮ものと信じこんでいたのですから、日本の茶人はどうも詮索欲に乏しかったらしいです。
 磁州窯の作品について、大ざっぱにふれておきましょう。磁州窯は華北では最大の窯で、多種多様の陶器を大量に産しましたが、定窯や均窯のような国の庇護をうけた窯と異なり、民間の需要にこたえるためのものを主とした、完全な民窯なのです。そのために、この窯の作品は、いくぶん作は粗雑に流れますが、至って親しみやすい味わいをもっており、特に日本では愛好されています。
 磁州窯の土は、一般に焼き上がると赤みもしくは青みをおびます。濃い色の釉をかけるときはそのままでいいのですが、淡色の釉ですと、この地色を反映して色が濁ってしまいます。そこで地土の上に白泥を塗る、つまり白化粧をすることが、この窯では製陶の大前提となりました。この白化粧をした肌に文様を彫りこみ、無色透明の水釉をかけて焼けば、いわゆる白釉掻落としになります。白の上に更に黒泥をかぶせ、その肌を白の層まで彫りこんで文様を浮き出させたのが、白黒掻落としである。白泥の上を水釉でおおっただけの白い碗・鉢は、鍾鹿手とよばれていますし、鍾鹿手の碗の上に赤・緑で花文をえがき、低火度でもう一度焼いたのが宋赤絵です。
 宋赤絵は色目がはなやかですが、白地の上に黒泥で絵をかき、水釉をかけて焼いたものも多いです。暖かい白い肌の上に黒の絵がのって、これもなかなか魅力的なものです。この手のものを絵高麗とよぶのです。大きな壷や瓶子から、深い鉢、いろいろな形の陶枕など、多くの作品に適用されています。
 絵高麗でも、北宋代のものには作が厳正で、絵の調子も雄勁なものが多いですが、南宋以後はかなり崩れが出てきます。金・元といった異民族にこの地が支配され、質よりも量をといった傾向が生じたからでしょう。梅鉢の茶碗もそういう状況下に生まれたものです。陶磁史の上からいえば、磁州窯の作としては時期もさがりますし、決して上作とはいいにぐいものなのですが、茶の世界では、逆にその良相なたたずまいが愛され、大いに賞用されたのです。
 赤みの強い土を、速い轆轤でさっと挽きあげて、平碗形を造ります。高台はさして高くはありませんが、きわめて大きいです。口径の五分の二ほどの径ですから、なみはずれた大きさといえましょう。それと碗の背丈が低いこともあって、頗る安定した形となっています。そのあと、絵高麗の眼目である白化粧をします。白泥をかけ流すのではなく、高台をつまんで白泥の中に漬けたらしいです。そして外側面に黒泥で、梅鉢とよばれる七曜文を四、五か所に散らし、水釉をかけて焼けぼ、白地に黒文のいわゆる絵高麗となります。
 これが本来の絵高麗で、ふつう「ひなた」ー陰陽の陽を意味する一とよばれています。「ひなた」という称が生まれた裏には、当然それに対する「かげ」が存することになります。即ち本書の図版(9・10・11の三点)に掲げられたのが、その「かげ」の方です。見ればわかるとおり、「かげ」の茶碗では、外側の白化粧地の上半分に鼠色の帯が走り、その上に白点による七曜文がのっています。つまりさきの絵高麗とは全く逆に、ここでは暗色の地に。白の梅鉢が浮んでいるのです。正にひなたに対するかげといえましょう。
 技法的には別にむずかしいことではない。磁州窯では、白化粧とともに黒泥による化粧もよく行われていました。その伝なのです。白化粧をかけた上に、もう一度黒泥をかけ、その上に白泥で七曜文をつけ、水釉でおおって焼くのです。黒をかけた部分は黒く発色しそうなものですが、上にかけた水釉に長石分が多かったため、釉がいくぶん白濁し、ちょうど鼠志野のそれと全く同じに、黒がやわらげられて鼠色に上がったのです。土の赤、白い化粧、鼠色の帯、そしてその上にのる白い梅鉢と、色目が一つの茶碗の中で何段にもわかれて、甚だこころよい諧調をかなでるのです。
 他に絵高麗の茶碗の特色としては、見込みの蛇の目が指摘されましょう。この茶碗は大量に造りちれたものらしく、幾つも重ねて焼いています。見込みの中央を、釉がけをしたあとで環状に削って、ここに上の茶碗の高台をおくのです。釉のある上に重ねますと、釉が熔けたときに上下がひっついてしまいますので、それをさけるためにしたしかけです。環状に釉がそげ地土がのぞいているのが、あたかも蛇の目傘のようですので、蛇の目とよびならわしています。これも一つの景色です。

中国から来た茶碗2
 これまで、古く中国かち渡来した茶碗のことを書いてきました。それらの中には、あるいは時代が明ごろまで降るものが含まれているかもしれませんが、一応技術的には、宋の伝統をふまえたものと考えてよいです。ところで、そういう宋磁風の陶磁に対して、元末から明にかけて興った新しい技法のもので、わが国に。渡来したものもたくさんあります。それらのものを、この項であつかうことにします。新しい技術、それは江西省の景徳鎮を中心として、明代以後の陶磁界を風葬した、染め付けと色絵の磁器です。
 景徳鎮は、宋代に美しい青白磁を産したことで有名な窯です。上釉のわずかな鉄分が、青磁より更に淡い空青色を皇して、甚だ美しいものです。それが南宋・元と時代が降るにつれ、釉の青みをだんだんと減らし、ついに無色透明の釉をつくり出しました。景徳鎮の土は、カオリソとよばれる純白の磁土ですから、この釉によって、完全な白磁ができたことになります。
 初めはその白磁の肌に文様を彫ったり、貼りつけたりして装飾としましたが、やがてコパルトで絵をつける法を開発します。染め付けの誕生です。恐らく元の中ごろには始まっていたらしいです。それが元の末に個性のある展開を見せるのです。
 それら元・明の染め付け磁器も、もちろんわが国に輸入されたに違いありません。しかしその大部分は、茶道界に受け入れられず、いつか厘滅して今日に伝わりません。
しかし佗び茶の美学からすると落第なのです。形は人工のにおいがぷんぷんしていますし、絵つけは機械的に整いすぎています。佗び茶の冷え枯れた世界とは、全く逆の作風恚いうことになるのです。
 そのような違和性から、明代の官窯で造られた本格の染め付けは、忽ち茶席から追いやられてしまいました。
今から思えば随分惜しいことのように思われますが、これは当時の人々の好みの問題なのですから、どうしようもないことです。しかし、そういうものを嫌ったということは、それと逆の好みをそなえましたものなら、喜んで取り入れる用意があるということになります。そしてたしかに、茶に迎えられた染め付け磁器があるのです。

雲堂手
 その最も早い例は、世に雲堂手とよばれている茶碗です。三つ足の千鳥型のは最初の完成期を迎え、明に入ってから、永楽・宣徳・成化・弘治・正徳・嘉靖と、各代にそれぞれ香炉の形-本来は香炉だったものを、茶碗に見たてたのであるIをしたものと、鉢の子とよばれる鉄鉢形のものと二手あります。いくぶん青みをおびた肌に、やや暗い調子のコ。パルトで、筆太に絵がつけられています。蛸唐草のようにむくむくと渦巻く雲の横に、祀堂のような建物がそびえています。その雲とお堂を取って、雲堂とよびならわしたのです。
 この種の茶碗には、官窯の染め付けのような年号銘は入っていません。民間の窯で造られた証拠です。
それだけに形もいくぶんぼてついていますし、絵つけも恣意的にかいたあとが見えて、親しみやすいといえます。そういうところが茶人の好みに叶ったのでしょう。民窯産であるために、年代を決める手がかりがなく、いつ造られたものかわかりにくいですが、成化ごろから明末にかけて、かなり長期にわたって造られたのではないかと思われます。ごく稀に、雲堂手で色絵になったものを見ます。これも恐らく同じころ、同じ窯でできたのでしょう。

赤絵金欄手
 明の景徳鎮の陶業は、嘉靖のころ最高潮に達します。民間の窯がかなりいいものを大量に造ったのもこの時期です。
 また色絵の技法を最もさかんに駆使したのも、この時期といってよいです。そういう民窯の中で、色絵に金彩を加えることの巧みな窯があって、世に金欄手とよばれる、けんらんたる色絵磁器をたくさんのこしています。
 そういう派手なものは、茶道には向かないように思えますが、遠州以後のきれい寂びの茶では、結構そういう品をも茶器に取り入れているのです。赤絵金欄手の蓋物の蓋だけを、大寂びの古備前種壷水指にのせたりするのも、江戸の茶の一つの好みを示していましょう。その色絵金欄手には、抹茶茶碗にできたものはありません。しかしそれに近い形のものはあります。向付というか、御馳走を入れる蓋茶碗がまずぴったびの形です。そこで蓋をはずして、身だけを茶碗に用いるようになったのです。淀屋金欄手はその好例でしょう。
 それら金欄手の茶碗は、蓋茶碗だからおのずと形はきまっています。いくぶん背の低い碗形で、広い高台がつき、安定感があります。景徳鎮の盛期にできただけに、作りはなかなか薄く、色も冴えています。
桃山の佗び茶なら恐らく採らなかったでしょう。見込みは中央に染め付けで花枝を小さくえがき、内縁にやは勺染め付けのつなぎ菱や輪違い文をめぐらします。そして色絵金彩は、外側一面につけられます。
 赤・黄・緑・青、そして稀に紫を用い、文様の適当な部分に截金をおくというやりかたですから、たいへん派手なものです。しかし淀屋金欄手を見ればわかるように、図柄は機械的な文様をきちんとかくといったものではなく、文人画風の構成・筆法をとりますから、ともに遊ぶという気分をそそり、茶の好みにもつながったといえましょう。

祥瑞
 既に指摘したように、景徳鎮で生産された染め付け磁器でも、官窯の本格的な製品は、茶の世界には迎え入れられませんでした。そして民窯の雲堂手や、後で述べる明末の古染め付けなぞが登用されたのです。
しかしそれらのものは、形、絵つけともにやや崩れた、いわば下手物でした。ところが、茶器として用いられた染め付け磁器の中にも、群を抜いて精作巧画な一団が存します。それが祥瑞としてもてはやされているものです。
 祥瑞に入る前に。その序曲的な存在である古染め付けのことにふれておくべきでしょう。嘉靖期に景徳鎮の陶業が高潮したことは前述のごとくですが、それには国需がやみくもに増加したことが原因となっています。数万、数十万という政府からの発注量が、記録の上に残っているほどで、非情なまでの大量生産が、景徳鎮に課せられたのです。この傾向は隆慶・万暦と時が進むにつれて更に強まり、苛酷な要求に。泣いた工人の悲話すら伝わっています。
 ところが、方暦のころから、度かさなる失政のために、明朝の国力は急激に低下し、天啓の代にはいりますと、陶業の保護もできなくなるかわりに、需要も全く出なくなってしまったのです。景徳鎮はあらゆる束縛から一気に解放されて、完全に野放しの状態におかれたといえます。自活をする上での苦労はあっても、工人は大いに自由を謳歌したに違いありません。
 そのことは作品の上にも包まずにあちわれて、天啓スタイルともいうべき奔放な作風が、景徳鎮に溢れ出たのです。規格から外れぬよう、さしで計って成形する必要はなくなってしまいましたし、おしきせでない、自分の好きな絵をかけばよかったです。時たまたま、景穂鎮に近い安徽省新安の町では、董其昌や陳継需といった文人画の大家の編になる絵手本・八種画譜が印行されていました。工人たちはその画譜にある平遠漏達な描法を自らのものとして、器面に応用したらしいです。
 その結果、形制は多少粗雑でも、天衣無縫な趣の描画をもった器物が、即ち世に古染め付けと称される染め付け磁器が生れたのです。それらの器はすぐに日本へも渡ってきました。江戸の初め、寛永の世です。
 雲堂手よりはるかに雅味のある古染め付けは、忽ちのうちに江戸の茶人を魅了してしまったらしいです。多くの水指・花生・茶碗・香合・向付類が、いまも伝存しているからです。
 それら古染め付けの茶器類の中には、中国製でありながら日本の意匠を盛ったものがよくあります。たとえば富士山をかたどった向付だどか、桜の絵をかいた水指、御所車をえがいた火入といった類です。これは、既製のものを見立てて使うより、初めから茶に合う意匠で造らせる方が早いですと、注文をつけたからにほかなりません。朝鮮に注文して、いわゆる御本の茶碗をつくらせたのと同軌です。祥瑞はその注文作の最も精緻なるもの、といえるのです。
 祥瑞というよび名は、この手の中のあるものが、高台裏に「五良大甫 呉祥瑞造り」なる銘をもつことから発しました。この五良大甫呉祥瑞という人物が、実在の人物なのか、それならば中国人なのか日本人なのか、古来諸説紛々で、いまだに決着がつかないでいます。ここでその顛末をくだくだと述べたところで始まりませんが、畏敬する小田栄作老が最近となえられている説が、最も当を得ていると思いますので、そのあらましを紹介しましょう。
 五良大甫は五郎太夫なる日本名を、中国風にもじったもので、恐らく小堀遠州や藤堂家に出入りしていた唐物屋、つまり茶器商の名だったのだろう、と説かれています。江戸の初め、寛永ごろに、日本からの注文で造られた古染め付けが大いに流行したことは既に書きました。それらは、どちらかといえば織部好みの範躊に属するものです。遠州あたりにしてみれば、それとは別の、己れの好みに合ったものを造らせたかったに違いありません。
 たまたまその意図を知った五郎太夫は、自ら渡明かして衡に当たることを申し出で、遠州の切形を持って景徳鎮へ入ったのでしょう。古染め付けの場合は、注文とはいいますものの、製作はあちらまかせでしたわけですが、こんどはその好みを充分に心得た監督が、現場にのりこんで指導に当っだのですから、当然できばえが違ってきます。よく精白された磁土で入念に成形し、純度の高いコパルトで精細な絵つけが行われ、世に祥瑞之よばれるあの優美な染め付け茶器が生れたのです。
 祥瑞の意匠の特色は、器の縁や裾を、細かな装飾文、たとえば七宝つなぎ・石畳・花輪違いといった文様でくくり、中に花鳥や山水の文人画を入れ、詩文を書者つけるところにあります。たいへん優雅な文様構成ですし、素地も青料も澄明だかち、いかにも遠州らしいきれい寂びの境地を開いたといえましょう。
 その一々については図版解説でふれることになりますので、ここでは詳述しません。ただ祥瑞といっても、幾つかの種類があることにふれておきましょう。その種別というのは銘の有無と、その書風によってわかれます。無銘のものは、恐らく遠州の最初の注文作と考えられます。初期の京焼の陶器類には、窯名や作人名の入っていないことが多いですが、これは堂上方や門跡寺院の注文品であるため、・銘を入れては畏れ多いと考えたからなのです。それと同様に、遠州の切形で作ったものに、自分の名を記すことは、五郎太夫といえども遠慮されたに違いありません。そういう点から、無銘のものが第一期の作と考えられるのです。              ところが、そうして造られた第一期作が日‘本に送られ、遠州の手から諸家に散って凄じいまでの賞讃をうけてみますと、五郎太夫としては大いに慾が出たでしょう。遠州の注文の品はすべて造りおおせましたが、こんどは自分だけの裁量で、それと同じようなものを造らせ、それに「五良大甫 呉祥瑞造り」恚いったもっともらしい書銘を入れて売り出したのです。だからこれら在銘物は、いわば五郎太夫好みの、第二期、第三期(といってもそう長期ではなく、恐らく数年間のことであろう)の作ということになります。
 ところで銘の書体ですが、茶碗・水指のような茶器のそれと、数ものの食器のそれとは違っています。食器の方の銘は職人にまかせ、茶器には自分で丁寧に一つ一つ銘を書いたのだろうといわれます。同じような形の多い祥瑞でありながら、その茶器の方は、一つ一つみな形も図も違うのです。いかに入念に一品製作をしたこれで知れますが、そうなれば銘を自署するのは、むしろ当然のことだったと考えていいでしょう。
 祥瑞は、退潮時の明の染め付けが、最後に咲かせた特異な名花だったといってよいでしょう。

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