越前・珠洲 echizen suzu 解説

越前 甕

 越前と珠洲、この二つは北陸地方の中世陶器を代表する著名なやきものです。越前は周知のように、福井県南部、越前市から丹生郡の山地において焼かれた無釉の焼締陶です。あたかも常滑のそれを思わせる褐色の器肌に、緑色の自然釉のかかった壺や甕を主として焼いており、しばしば常滑と混同されています。珠洲焼は昭和二十年代以降知られるようになった、能登半島の先端、珠洲市周辺の丘陵地帯で焼かれた陶器です。それは一見、須恵器とみまがうばかりの黒い焼き肌をした壺・甕・擂鉢などを主として焼いています。

 この二種のやきものは、第三巻 『瀬戸 美濃』で述べた中世陶器の三分類のうち、瓷器系と須恵器系のなかの一類を代表するものであある。繰り返しになりますが、ここで簡単に瓷器系と須恵器系の二種について分類内容を示しておきたいです。瓷器系の中世陶器は平安時代に東海地方一円において生産された灰釉陶器 (白瓷) の系譜をひくものであり、(1) 瀬戸 美濃のような灰釉 鉄釉を施した施釉陶器 (2)無釉の日常食器類のみを焼いた東海地方各地の山茶碗窯、(3) 常滑渥美などのように、無釉の壺・甕・擂鉢の三者を主として焼いたもの (4) 平安時代に灰釉陶器の伝統をもたない地方において、中世陶器への転換に際して、猿投・常滑などの製作技術を導入して・甕・擂鉢の三者を主として焼いているものの四者があります。本巻で取り扱う越前 加賀などはこの瓷器系第四類に属するものです。次に須恵器系には、(1) 平安時代の須恵器の伝統をひきながら、鎌倉時代において酸化焰焼成による茶褐色の陶器に転化した備前などと (2) 須恵器の製作技術をそのまま継承した、還元焰焼成によある灰黒色の、続須恵器ともいうべき陶器の二者があります。本巻で取り扱う珠洲 亀山などは、この須恵器系第二類に属します。

 瓷器系第四類に属するものには後述する越前・加賀のほか、新潟県笹神および福島県飯坂 大戸窯 宮城県下の諸窯があり、北陸か東北地方に分布しています。これらの諸窯のうち、越前・加賀・飯坂については別項で述べるので説明を省き、近年知られるようになった他の諸窯について、ここでまとめて若干の説明を加えておきたいです。笹神は新潟県阿賀野市狼沢にあり、三基の中世窯が知られています。この付近には他に笹神村から豊浦村にかけて十六基の須恵器窯が知られており、灰釉陶器を焼いた形跡は認められません。この地域の古窯調査は昭和三十三年以来、立教大学文学部の中川成夫教授らにより続けられており、とくに昭和四十七四十八年度に狼沢にある二基の中世窯の発掘が行われて、その内容が明らかにな(『狼沢窯群の調査』 立教大学文学部考古学研究室調査報告Ⅰ 昭和四十八年)。それによると、二基の古窯跡はいずれも焼成室と燃焼室の境に分焰柱を設けた東海諸窯のそれと同一の窯体構造を示しており、製品は壺・甕・擂鉢のほか、碗・皿類を併焼しています。この壺・甕類は形態・成形技法ともに常滑のそれに極めて類似しており、とくに紐輪積成形の接合部に段状に叩文をつける手法は常滑の直輸入といってもよく、越前・加賀とは異なっています。碗皿類を焼いている点でも常滑的といわざるをえません。

 次に、東北諸窯のうち、宮城県下の三窯業地について述べましょう。

 その一つは県南の白石市白川犬卒塔婆字東北にある東北窯です。

 その存在については昭和二十二年ごろから知られていたようですが 東北地方の中世窯として注目されるようになったのは昭和四十八年以降のことです。古窯跡は三群に分かれ、現在二十基の存在が確認されていますが、未発掘のため窯体構造は明らかでありません。いまーつは、昭和四十一年以降に知られるようになった登米市迫町新田にある品ノ浦窯築館町熊狩山塚沢 東沢窯などを含む伊豆沼窯です。現在五十二基の古窯跡の存在が確認されています。窯体構造は常滑 越前と同様な瓷器系のそれです。最後の一つは、昭和五十年に発見された大崎市多高田にある三本木窯です。以上の三窯業地については昭和五十八年に東北歴史資料館において開催された「東北の中世陶器」 展によって、詳しくその内容が知られるようになりました。これらの三窯はいずれも製品は壺・甕・擂鉢の三種の器物に限られており、酸化焰焼成による褐色の器肌をしています。

 口縁部など細部の違いはありますが、形態的にみて古常滑のそれに類似しており、瓷器系第四類に入るものと考えられます。

 .また、近年注目されている古窯跡群として、福島県会津若松市の大戸窯があります。奈良時代の須恵器窯から室町初期の中世窯に亘って、二百八基に及ぶ東北地方最大の古窯跡群です。このうち中世窯は三十六基ですが、昭和六十三年度より進められている発掘調査によって、瓷器系を中心とするものであることが判明しつつあります。

 次に須恵器系第二類に属する中世陶器について述べましょう。この類に入るものでは最もよく知られたものとして、東日本では珠洲焼、西日本では岡山県の亀山焼がありますが、最近では全国的に窯業地の拡がっていることが知られるようになってきました。それぞれの内容については別項で詳しく述べますが、この須恵器系第二類は、東海地方を除く全国に分布しており、地域的には瓷器系第四類や須恵器系第一類と近接している場合 (たとえば備前と亀山) もあって、必ずしもプロック別に一種のやきもので統一されているわけではありません。この須恵器系第二類に属する窯業地で、発掘によって内容の明らかにされているのは珠洲窯だけであって、まだ概括する段階に至っていませんが、製品の種類は主として壺甕・擂鉢の三者に限られています。珠洲窯のように碗類をもつ場合でも初期のみです。

 さて本巻で取り上げた中世の陶器は主として須恵器系に属するものであり、瓷器系に属するものであっても、前代に施釉技法の伝統をもたない窯業地に限られています。それらはいずれも、極めて農民的な色彩のつよい日常雑器を主製品としたものです。しかし、それらの窯業地はすべて一様な展開の過程をたどったわけではありません。

発生の状況、発展の過程、衰退消滅の経緯は各地の条件に応じてさまざまです。いまこられの窯業地を通観しますと、そこに大きく二つの類型を認めることができます。第一は今日まで連綿と生産の継続している窯業地であり、第二は室町時代中ごろを境に消えていく窯業地です。第一類型に属するものは、越前・加賀の二者ですが、加賀は近世に入って磁器生産に転じており、越前や備前・丹波などと様相を異にしています。一方、第二類型に属するものは珠洲・亀山 飯坂 大戸・笹神および宮城県の諸窯などです。等しく日常雑器を主製品としながら、地域によってなぜこのような操業年代の差異が生じたのでしょうか。たとえば珠洲の場合をみますと、富山県大岩日石寺裏山経塚出土の経筒 (仁安二年銘) 外容器にみられるように、すでに平安末期に中世陶器として出発しているのです。そのうえ、その製品の分布は意外に広く、鎌倉後期から室町初期には、日本海沿岸の各地から北海道まで運ばれていて、越前と互いに商圏を競い合ったことが知られています。また、飯坂 大戸が東北の遠隔の地にあるという点を挙げるならば、亀山が備前に接した備中の地にあって、かならずしも該地の後進性を理由とすることはできません。

 このような現象は東海地方においても、常滑と渥美あるいは中津川などにみられるところであって、その原因の一つは陶土の性質からくる燃料経済の相異に起因すると考えられています。したがって、それは鎌倉後期から室町初期にかけて、需要の増大に伴い、酸化焰焼成に転ずることによって燃料経済をはかった須恵器系第一類と、還元焼成をそのまま踏襲した第二類との経済競争の結果であると考えられます。第二の問題は東西両日本における地域差です。現在まで生産の続いている窯業地のうち、西日本では信楽・ 丹波が瓷器系の製作技術を、備前は須恵器の製作技術を継承して中世窯業へ転換しています。それに対して東日本、とくに北陸・東北の諸窯はその多くが猿投・常滑など東海地方の瓷器系の製作技術を導入することによって中世窯業への転換を遂げているのです。珠洲のように須恵器系を踏襲するものは東北地方の日本海側に限られています。

 なお、本巻では須恵器系第二類と考えられている関東地方の諸窯、すなわち埼玉県の亀井窯、群馬県の金井窯、その他茨城・千葉県下に分布する陶器については調査不十分のため割愛しました。

 

 

越前 加賀

 

 北陸における最大の中世窯である越前古窯が一般に知られるようになったのは意外に新しく、戦後のことです。爾来二十数年、在地のほとんど唯一の研究者ともいうべき水野九右衛門氏の努力により、越前古窯は今日ようやく、その全貌が把握できるまでになりました。

 越前古窯は福井県南部の、丹生郡越前町平等および同宮崎村熊谷を中心とし、越前海岸に急斜面を見せる城山(標高513m) の東麓に派生する各支丘の南斜面にそれぞれ群をなして分布し、南北5km、東西3kmの範囲に、現在、約百六十基の古窯跡が発見されています。それは丹生山地の中央を北に流れ、織田町で東折りして南越盆地に流れこむ天王川の西部丘陵であり、東部丘陵は須恵器窯の分布地域であって、両者は截然と区別されています。ただ近年、宮崎村小曾原地内において、平安末に遡ると考えられる古越前の窯が数多く発見されており、越前窯の発生が、須恵器窯跡群の分布地域内において始まったことが知られるようになりました。それを別にすれば主要部分は西部丘陵にあり、南から曾原・増谷窯、熊谷窯、小熊谷窯、平等・ 大釜屋窯、焼山窯、織田窯、山中窯の七支群が知られています。これらのうち、とくに窯の多いところは熊谷窯中の奥釜井谷窯十七基、上ヶ平窯十五基、平等 大釜屋窯中の上大師谷東窯十数基、同西窯十五基などである(87頁分布図参照)。

 •越前古窯の製品はほとんど壺・甕擂鉢の三種の器物に限られており、わずかに陶錘などの漁具が付随的に焼かれました。壺類には大中小さまざまのものがあり、とくに高さ25cm前後の中形壺は広口壺、細頸壺、短頸壺、無頸壺など変化に富んでいる (図21~25)。口縁部のつくりも丸口のものや面取りのあるもの、外方へ折りまげたもの、N字状に立ち上がるものなどがあり一定していません。大形壺には高さ60cmを超えるものもあり、胴の太い、口頸部の細くしまったものとやや広口のものがあります。後者には肩に二ないし四個の鍛状耳の付くものが多いです。小形壺には高さ20cm前後の、面取りを施した短い口頸部をもち、口縁の一部を折りまげて片口状にしたものと、高さ10cm~12cmの、肩に双耳を有する、いわゆる「おはぐろ壺」 と呼んでいるものがあります。甕には高さ30cm前後のものと高さ60cmを超える大甕とがあります。いずれも口縁部のつくりはN字状をなし、常滑のそれにきわめて近似しますが、時代が降っても常滑のように幅広い縁帯をつくることはありません。使用陶土の違いによるものでしょう。擂鉢も外形は常滑に似ていますが、室町時代に入ると内面に櫛描きおろし目が施される点が異なっています。このほか、まれに水注 (図59) もつくられています。西日本の諸窯では室町後期には茶陶が焼かれたが越前窯ではまだその例をみません。

 古越前の製作技術についてみますと、まずその使用陶土は窯の分布地域が花崗岩を基盤とした新第三紀層の地帯であることから、東方の須恵器窯分布地域 (洪積層)のそれにくらべて耐火度の高い、やや鉄分の多い砂質粘土です。寒冷地に適した陶土を選択したというべきでしょう。成形は壺類ではまず轆轤上に円形の底板をつくり、その上に粘土紐を巻き上げ、二次的に轆轤で引いたのち、器面を第および刷毛を用いて調整しています。底面に下駄印を有するものもあります。大甕は底板の上に幅広い粘土紐を巻き上げ、一旦乾燥させたのち、さらに接ぎ足してゆく五~六段のはぎづくりで常滑のそれと同様ですが、常滑のように各段の継目に押印を連続して施すことはありません。器面は、木で調整しています。古越前の壺甕・擂鉢には原則として肩に一、二個の範描きによる窯印を施しているのが特徴です。また鎌倉後期には櫛描文のあるものがままみられます。古越前は使用陶土は山土単味で、無釉を原則としていますが、初期には灰釉を、室町後期には器面に刷毛塗りによる鉄釉を施すことも行なわれました。また室町後期には田土を使用しているため、黒褐色の器肌を呈するものが多いです。

 古越前の焼成技法は窯体構造が示すように伝統の技法を棄て、常滑のそれを導入したと考えられます。発掘によって窯体構造を知りうるものは、昭和四十年に筆者の掘った織田町平等の上大師谷東窯第8号窯と昭和四十八年に水野氏の掘った宮崎村奥堂の奥窯の二基のほか昭和五十年代に入って、上長佐窯・水上窯など数多くありますが、上大師谷東窯は長さ15.5m、後者は長さ約18mの大窯で、燃焼室と焼成室の境に分焰柱を設けた東海地方の瓷器系の窯体です。当地方には前時代に瓷器の生産はみられず、須恵器のみですから、中世陶器の生産に転換するに際して常滑の製作技法を導入したものと考えられます。とくに初期に灰釉を施しており、鎌倉中期ごろまでやや還元気味の中性焰で、鎌倉後期以後酸化焰で焼いていることも常滑と規を一にしています。

 越前窯の発生の場所および年代については、従来、越前市安養寺・光明山経塚出土の経甕をめぐって不分明な点が多かったですが、昨年、筆者らの発掘した丹生郡越前町小曾原 上長佐古窯跡群の内容からみて、須恵器窯の分布圏内のうちにあること、同窯の熱残留磁気方位測定による年代からみて、12世紀の後半代、すなわち平安時代末期に須恵器窯から中世越前窯へ転換したことが明らかになってきました。

 中世の越前窯は、I 平安末~鎌倉初期、II鎌倉中期、III鎌倉後期~南北朝、IV 室町前期、V室町中期、VI室町後期の六段階に編年することが可能である (108頁編年図参照)。その変遷の詳細については紙数の関係で割愛せざるを得ませんが、「古代・中世における手工業の発達・窯業・北陸」 (「日本の考古学』 歴史時代上、河出書房新社版)を参照されれば幸いです。越前窯の商圏は意外に広く、西は京都北部、南は岐阜県揖斐郡の山地に及んでおり、北は海路を通じて遠く北海道函館付近まで運ばれています。

 加賀はここ数年のうちに突如として登場してきた窯業地であり、まだ一般には耳慣れない呼称でしょう。石川県南部における中世陶器の生産についてはすでに古く昭和十五年に故松本佐太郎氏が「定「本九谷』の中に護摩堂焼・串焼などを挙げてその存在を注意しましたが、その後研究の進展せぬままに戦後に及びました。加賀古窯が窯体の発掘を通じて中世陶器窯としての位置づけを明確にしたのは、昭和四十四年、加賀芙蓉カントリーの造成工事に際して上野与一氏などによって行われた小松市二ツ梨町奥谷1号窯、同那谷町那谷1号窯の調査でした。この調査において、燃焼室と焼成室の境に分焰柱をもった常滑・越前と同様な瓷器系の窯体構造であり、製品も常滑に近似した壺・・ 擂鉢の三者を主体とすることが明らかにされたのである(上野与一 「加賀古陶一加賀中世の窯業について」 金沢大学日本海域研究所報告第5号 1973)。その後、上記カントリー第二期工事に伴って昭和四十八年、那谷町大天王谷にある二古窯の調査および全域的な分布調査によって、ようやく加賀古窯はその輪郭が把握できるようになりました。

 加賀古窯の分布地域は小松市粟津町から加賀市松山町にかけての、柴山潟に面した平地にのぞむ標高50m前後の低丘陵地帯です。同丘陵は古墳時代末以降の須恵器の生産地であり、近世の松山窯がその南端に営まれています。中世加賀古窯はこの丘陵の南側の小谷に面·した斜面に群をなして分布し、奥谷・那谷大天王谷 小天王谷・カミヤ各支群を併せて約三十基の古窯跡が知られています。それらの古窯は平安末(那谷1号窯)から鎌倉時代(大天王谷窯) を経て室町時代(カミヤ窯) にいたる各時期のものを含んでおり、桃山時代にいたって西方の加賀市作見窯に移ったことが推測されています。その後同地の窯業は小規模の生産を継続する一方、江戸初期には大聖寺川を隔てた西南の吸坂窯から九谷窯に連なる磁器生産を展開させるのです。加賀古窯の調査はまだようやく緒についたばかりです。したがって、ここに詳しくその変遷を述べることはできませんが、きめの細かい良質の陶土を用い、常滑風の壺・甕、越前風の擂鉢の三者のほか、水瓶なども焼いており、口づくりはむしろ瀬戸のそれに近く、越前よりは良質のやきものをつくっています。その製品はまだ、小松軽海中世墓地、能美郡辰ノ口町長滝経塚などわずかな出土品をみるのみで、その全体像は今後の調査研究にまたざるを得ません。

 

 

珠洲

 

 須恵器とみまがうばかりの、いかにも黒々とした珠洲焼は、能登半島の東北端、珠洲市周辺の丘陵地帯において焼かれました。かつて、須恵器と混同されることの多かった珠洲焼が中世陶器の一つの類型を代表する重要なやきものであることが認識されるようになったのは、昭和三十年代後半に入ってからのことです。昭和二十七、二十八年の九学会による能登総合調査においては、須恵器系統のやきものが足利時代ごろまで行われていたといわれましたし、昭和三十四年には室町時代の西方寺窯が須恵器窯として珠洲市文化財に指定されるような状況でした。珠洲焼が中世窯としての位置づけを明確にもつようになったのは、昭和三十八年の北国新聞社主催による能登総合調査においてです。

 北陸以北の日本海沿岸から東北地方・北海道南部一帯にその製品が広く分布する珠洲焼は、その出土量の多いわりには古窯跡の発見数は少ないです。現在知られている古窯跡は南北26km、東西3kmの範囲にわたって十地点十六基ですが、そのほとんどが珠洲市上戸町・宝立町の南北5km、東西2kmのうちに集中しています。しかし、今後この稀薄な分布地帯においても発見量は増すでしょう。北から記しますと、

珠洲市馬諜峠窯一基

珠洲市三崎町寺家クロバタケ窯一基

同 上戸町カメワリ坂窯 二基

同宝立町春日野法住寺窯 三基

同 宝立町西方寺窯 二基

鳳珠郡能登町行延窯一基

同 宝立町大畠窯

同 宝立町橿原郷窯一基

二基同 宝立町鳥屋尾窯一基

同 三崎町大屋ヒヤマ窯 二基

 

以上のように分布は内浦から外浦にまで及んでおり、いずれも海岸からやや離れた丘陵上に築窯されています。最も古いカメワリ坂窯のごときは標高200mを超す高所にあります。

 珠洲古窯の製品は他の中世窯と同様に、壺瓶擂鉢の三種の雑器類を中心としていますが、初期には碗皿 瓶なども併せ焼かれました。

 最も普遍的にみられるものは甕・擂鉢です。甕には高さ70cmを超す大甕と高さ35cm前後の小形のものとがありますが、後者が圧倒的に多いです。いずれも器面の条線状の叩目を施しているのが特色です。なかには叩目を消し、器面を磨いた精品もまま見うけます。これらは須恵器の甕の伝統を忠実に残しています。肩には箟描きまたは押印による文様を施すのが特色です。壺類には大小二種のものがありますが、器面には叩目を有するものと有しないものがあります。大形のもの(高さ30~50cm)には両端をはねた特色ある耳を付けた四耳壺があります。

 小形壺は高さ20cm前後の短い口頸部を有するもので、肩・胴に櫛目文を施すものが多いです。まれに古瀬戸風の横耳を付けた四耳壺や丸胴に環状の縦耳を付けた双耳壺などがあります。擂鉢は中世窯に通有な浅い大平鉢ですが、珠洲の場合、最初から高台をもちません。鎌倉中期以降、内面に櫛がきによるおろし目を施しています。以上三種の器形のほか、初期にはわずかながら厚手粗質の碗・皿類が焼かれています。また他の須恵器系中世窯にみられない珠洲窯の特色として、花瓶・浄瓶 瓶子などの瓶類が焼かれています。

 つぎに製作技術について述べますと、まず、陶土は須恵器に比して耐火度の高い、粗質のもので小石をかんだものが多いです。焼成後の断面をみても、多孔質の粗雑な素地のものが多いです。成形は、甕ではまず底部を轆轤挽きで一定の高さまでつくったのち、粘土紐を巻き上げながら継ぎ足してゆく手法をとっており、底部は板おこしと静止糸切による二種のものがあります。器面は刻文のある型を用いて叩き締めるため条線状の叩目がありますが、初期のものには内面に青海波状叩目を残すものもあり、須恵器とのつながりを明瞭に示しています。精品はさらに叩目を消し去り、器面を箟で磨いています。いずれも肩に箟ないし押印による窯印が施されます。壺類も大きいものは紐巻き上げづくりで器面を箟で調整しています。小形壺は轆轤水挽きによるものが多いです。底部は、板おこしと静止糸切の両者があります。擂鉢は紐巻き上げづくりで、口縁端部は初期から面取りを施すのが特色です。

 焼成は製品からみて、須恵器と同様な燻焼還元焰焼成によっていることは明らかですが、古窯跡の発掘調査は現在まだ、西方寺窯と法住寺窯の二基について実施されたのみで、その窯体構造については完全に解明されていません。昭和四十七年七月に発掘された鎌倉時代の法住寺3号窯は須恵器窯を大きくした形態のもので、全長9m以上、焚口の幅2.6m、焼成室の最大幅3.6mあり、床面傾斜は26度でした。室町時代の西方寺窯では全長12m、幅3.2m、天井までの高さ1.1m、傾斜28度です。したがって須恵器窯にくらべて幅の広い 天井の低い形態のものです。焼成方法は須恵器のそれとほとんど変わらないとみてよいでしょう。

 それでは珠洲焼はいつごろどこで発生したものでしょうか。製品の上においては須恵器との連続性が顕著ですが、珠洲窯の分布圏内において須恵器窯をみることはありません。最も近いものは西々南約30km離れた輪島市洲衛古窯跡群です。珠洲窯の場合も中世窯への転換に当たって大きく移動しているわけで、陶土の問題もさることながら、海上交通に便利な内浦近辺の丘陵地が選ばれることになったものでしょう。現在知られる最も古い珠洲窯の製品は、仁安二年(1167) 銘経筒の外容器に用いられていた富山県中新川郡上市町大岩日石寺裏山経塚出土の甕と擂鉢です。平安末期にすでに中世窯として成立していたことが知られます。珠洲焼の変遷については現在、吉岡康暢氏によって平安末期から室町後期までを8型式に編されていますが、筆者は各器種の形態や組み合わせ、及び文様の変化からみて、12世紀中葉から16世紀前半代までを大きく5期に分けて抱えています。第1期 (12世紀、平安後期)は各地の中世窯と同様に、壺・甕・擂鉢を主体としながら、若干の供膳形態を残し、宗教用具や中国写しを焼いた創成期です。第1期のものには前記日石寺裏山経塚出土品やカメワリ坂窯などがあります。壺・甕類は薄手の精品が多く、叩文は細い状線を斜めに用いており、窯印はほとんどありません。巴文壺などは希少例に属します。カメワリ坂窯から壺に大きい櫛目波状文のあるものが出ていますが、中国華南の褐釉壺の写しであり、当時の輸入品を直ちに写していることは珠洲窯が決して後進的でなかったことを示しています。この時期には花瓶や浄瓶などの特殊品のほか、小量の碗皿類が焼かれています。第Ⅱ期 (13世紀、鎌倉前・中期) もまだ壺・甕類の成形は丁寧で、比較的精品が多いです。四耳壺や瓶子などが焼かれています。擂鉢の内面に櫛目によるおろし目がつけられるようになるのはこの時期からです。肩に施された窯印はこの段階ではまだ箟描きのものが多いです。第III期 (14世紀、鎌倉後期・南北朝期) は珠洲焼の最盛期です。器形はほとんど壺・甕・擂鉢に限定され、瓶類や碗・皿類は焼かれなくなります。叩文は粗い条線になるとともに、器面が縦に叩き締められて多面体になり、それに対応して叩文も綾杉状に変化してきます。両端をはねた珠洲独特の耳をもつ四耳壺が数多く作られ、壺類の肩から胴にかけて櫛目文を施すのもこの時期の特色であある。円や菊印花の窯印も多くみられます。この時期は珠洲焼の商圏が最大規模に達し、北海道まで運ばれています。第IV期 (15世紀、室町前・中期)にはいると珠洲窯は衰退期に入り、器種の減少と形式化への流れが目立つようになります。壺甕類はほとんど多面体に成形され、叩文は綾杉状に施されます。大甕の口縁は玉縁になります。壺類は一般に口頸部が小さくなる傾向があります。擂鉢の内面のおろし目は密となり、幅広くなった縁帯の上面に櫛描きによる装飾が施されるようになります。

 そして第V器(16世紀、室町後期) にはわずかに擂鉢など、その器種限定によって生産を維持しましたが、やがて越前窯の隆盛の前に廃絶を余儀なくされました。

 

 

 穴水町明泉寺、通称鎌倉屋敷墓地内、永享三年銘五輪塔

 

 

飯坂 亀山

 

 東北地方の古代末中世の経塚や遺跡から出土する黒ずんだ陶器類はかつてはすべて須恵器として扱われてきました。しかし、この十数年の間に珠洲焼の実態が知られるようになりますと、一転してこれらは珠洲焼と呼ばれるようになりました。日本海沿岸から北海道にかけて出土するものにはたしかに珠洲焼そのものが多いですが、内陸部から太平洋岸にかけてのもには素地 焼成の点で若干異なるものが多く、これらを珠洲系陶器と呼んで、珠洲焼そのものと区別しようとする気運が生じてきました。とくにこの二、三年前から多賀城址や東北縦貫道に伴う遺跡発掘現場からの表面の黒ずんだ陶片の出土が注意されるようになり、その生産址を求めて各地の踏査が行われるようになりました。その結果、発見されたのが宮城県白石市の東方約4kmの犬卒塔婆窯であり、福島市の飯坂窯です。白石 犬卒塔婆窯は犬卒塔婆部落の西南丘陵斜面の二地点に数基の窯が並列して築かれており、出土の陶片は淡い褐色の大甕などです。明らかに酸化焰焼成のそれらは珠洲とは異なる、どちらかといえば常滑にちかい系統のやきものです。これに対して福島市飯坂窯の二群の古窯跡のうちの一群は白石と同様ですが、他の一群は黒ずんだ珠洲にちかいものを焼いています。そして飯坂窯の二群は既に昭和三十八年と四十二年に須恵器窯として福島市教育委員会によって発掘されていたのです。

 しかし、多賀城址や宮城県内で発見されている黒光りのした壺・甕類は白石 飯坂窯とは異なるやきものであり、その古窯跡は現在まだ発見されていません。

 飯坂窯について述べましょう。福島市史編纂委員会の秋山政一氏によると、飯坂窯は現在、毘沙門平窯と赤川窯の二群の古窯跡群が知られています。赤川窯は飯坂温泉の西方3kmの臨済宗妙心寺派天王寺か一山越えた南方約1kmの南斜面にあり、二基の窯が知られています。

 東側の一基は昭和二十八年ごろ開墾のため破壊されたといいます。西側の一基は昭和三十八年三月、福島市教育委員会によって発掘されました。

 窯はすでに土取りのため焚口および煙出の一部は亡失し、長さ約6mの窯体が遺存するのみでした。窯体は幅約1.8m、床面傾斜25度の、須恵器窯とほとんど同様なものです。出土の陶片は壺・甕類ですが、黒ずんだものと淡い褐色を呈するものが混在しており、陶器は鎌倉時代後期です。

 毘沙門平窯は飯坂温泉の北方、飯坂町湯野の山街道部落から丘陵を登った頂上ちかく、標高300mの高所に営まれています。四基の窯が並んでおり、東側の二基は昭和四十二年に発掘され、多数の壺・甕などの陶片が出ています。窯体は赤川窯と同様なもので、床面傾斜はそれより緩やかです。出土陶器からみて鎌倉時代前半に属するものです。出土陶器は珠洲焼とよく似た燻焼還元焼成による灰黒色ないし黒褐色を呈する壺・甕・擂鉢などです。いま天王寺に蔵す承安銘筒、壺類などは毘沙門平窯跡群の製品でしょう。

 このようにみますと、飯坂窯は同地の須恵器窯から平安末期に須恵器系の中世窯に転化し、鎌倉後期ごろに酸化焼成に移っていったという見通しを立てることができます。しかし、実態の詳細は今後の調査にまつべきです。珠洲焼があくまで燻焼還元焼成に終始したのに対して、途中から酸化焰焼成に転化した飯坂窯はしたがって、珠洲系陶器と称することはできません。日本海側と太平洋側との違いを示すものでしょうか。

 つぎに西日本において須恵器の伝統をつよく残した中世窯として著名な岡山県の亀山焼について述べましょう。亀山焼の知見はすでに昭和五年、水原岩太郎氏が『吉備考古」5号に玉島市八島の神前神社境内の古窯跡から出たやきものに「亀山式土器」という名称を付けたことに始まります。その後、昭和十五年に宗沢節雄氏が平安時代から室町時代にわたって、壺・甕・擂鉢・堝などの雑器を焼いていたことを明らかにしました。戦後さらに西川宏間壁忠彦両氏などによって窯跡の分布製品の分布などからその性格についての論述が進められてきましたが、昭和五十九、六十年度に岡山県教育委員会によって、山陽自動車道建設に伴う事前調査によって、六基の古窯跡を含む関連遺跡の発掘が実施され、その内容の一端が明らかにされた(「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告69」 1988年)。

 古窯跡は玉島市八島字亀山と浅口市金光町須恵に集中して発見されており、須恵器から鎌倉初期ごろ独自に転換して成立したものと考えられています。製品は壺・甕・擂鉢の三種の器物を主とし、堝・浅鉢・火鉢・瓦などを焼いています。壺は短い口頸部と球形の胴をもったもので、初期のものは、短い口頸部から外へ屈折する口縁をもった広口壺です。底部は大きな平底で、粘土紐巻き上げづくり、器面は粗い格子目の叩きによって整形しています。初期のものほど口径・底径が大きく、焼成温度が低いです。鎌倉末以降、口径が小さく、胴底部は丸底にちかくなってゆきます。また器面の叩文は綾杉状となり、面取りがでてきます。大甕は高さ、胴径ともに65cm前後のものを最大とし、太い粘土紐巻き上げづくりで、器面は格子目のある整形具で叩き締められています。内面は刷毛目調整です。初期のものはくの字形に外反する短い口頸の先端を幅の狭い外傾する面に切ったものです。その後、口頸は直立し、口縁帯は肥厚して外傾するやや幅の広い緑帯となり、やがて大きく垂れ下がる幅の広いものに移行すあります。擂鉢は中世窯に通有な大平鉢の縁帯の一部を折り曲げて片口状にしたもので、平底で高台は付きません。初期のものは口縁端部の平面に切った幅の狭いものですが、次第に幅が広くなり内傾する傾向を示します。このほかに、若干の皿類などがみられますが、量は少ないです。

 これらの器物はどのような窯で焼かれたかまだ明らかでありませんが、耐火度の低い洪積層の粘土を使用していて、焼成温度が低く、灰色をした瓦器質のものが多いです。なかには灰黒色、褐色、赤褐色を呈するものがありますが、いずれも焼成温度の低さからくる焼きむらです。

 亀山焼の発生はいまのところまだ鎌倉時代を遡り得ません。鎌倉中ごろが最盛期で量的に最も多く、鎌倉時代末期に入ると急激に減少してゆきます。この亀山焼の分布範囲は岡山県から広島県および山口県の一部にかけてであって、主として平野部から海岸寄りの地域に分布密度の高いことが知られています。とくに広島県福山市草戸千軒遺跡において大量に出土しており、備前焼その他のやきものとの伴出関係がよく判ります。珠洲焼が越前と互いに商圏を競い室町中ごろに廃絶したのと同様に、亀山焼も備前と競合的立場にあったものと考えられます。

 従来、西日本の中世須恵器系陶器については、以上に述べた亀山焼が東日本の珠洲焼と対比して取り上げられることが多かったですが、昭和四十年代末以降、兵庫県下の神出 魚住窯を中心とする東播系中世窯の発見とその調査によって、大きく様相を変えることになりました。そのうち最初に注意されたのは神戸市垂水区の神出窯ですが、その後、この神出窯の発見を契機として昭和五十年代に入ると急速に調査が進み、加古川沿いに南北に広く同様な須恵器系中世窯が展開していることが明らかとなってきました。北方には三木古窯跡群、南方には魚住古窯跡群を擁して、その生産規模は西日本の須恵器系中世窯として最大であり、とくに明石市の魚住窯は四十基を超える大古窯跡群です。昭和五十四年、兵庫県教育委員会によって発掘調査が行なわれましたが、須恵器窯と同様な窖窯であり、壺・甕・擂鉢を中心として、碗・瓦などを焼いていたことが知られています。また、それらの古窯跡のうちには碗のみを分業生産した煙管窯の存在も明らかにされた(兵庫県教育委員会 「魚住古窯跡群」 1983年)。

 一方、中国山地においても岡山県勝田郡勝央町において三十数基から成る勝間田古窯跡群の存在が知られるようになり、昭和五十三年には発掘が行われてその実体が明らかにされています。窯体は古代の須恵器窯と規模・構造ともにほとんど同様で、碗・壺・甕・擂鉢などが焼かれています。そのほか窯跡不明ながら製品の存在が指摘されているものでは、まず畿内についてみますと、平城宮跡の新しい出土品のうちに須恵器とよく似た叩文のある陶片があり、大阪府高槻市の宮田遺跡や津之江遺跡などいくつかの遺跡から、土師器や瓦器に混じって、瓦器質や陶質の甕・擂鉢・鍔釜などがかなり大量に出土している(「高槻市史」第6巻考古編)。それらの甕は器面に須恵器風の格子目叩文のあるものや常滑と同様なN字状口縁をなすものなどさまざまのものがあります。擂鉢は平底で、内面には幅の広い櫛描きおろし目のあるものが多く発見されています。また、三重県伊賀市三田町の仏土寺からは器面を炭化させた黒光りのする甕の破片が出ています。このような雑器類は現在どこで焼かれたか明らかでありませんが、遠方から輸入したとは考えられませんから、近傍の須恵器工人たちの後裔者によって生産が継続していたと考えざるを得ません。

 山陰地方では島根県において、常滑・備前・丹波などの輸入品のほかに、安来市広瀬町祖父谷発見の暗褐色の壺や出雲市大社町鷺浦発見の赤褐色の銭壺や鉢などが、雑器としてそれぞれの土地で焼かれた可能性のあることが指摘されている (近藤正 「古代・中世窯業の地域的性質 (6) 山陰」 「日本の考古学」 VI)。そのほか、本巻で取り上げた京都府綾部市発山出土の元永元年(1118) 銘経筒の外容器としての叩文のある甕など、産地不明の中世陶器類を挙げれば枚挙にいとまがありません。

 以上のように、古代において須恵器生産の行われた地域では、中世において壺・甕・擂鉢の雑器生産地としてそのまま室町時代まで継続していたことがむしろ一般的な状態であったと考えられます。

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