三彩・緑釉・灰釉 解説

三彩壺

 古代後期、すなわち奈良 平安時代に用いられた各種のやきもののうち、もっとも特色のあるやきものの一つは三彩・緑釉などの鉛釉を施した彩釉陶器であり、いま一つは高火度焼成の灰釉陶器です。これらの二種のやきものはわが国最初の施釉陶器ですが、このような新陶器は決して自生的なものではなく、中国 朝鮮などの先進諸国家からの技術導入によって発現したものです。周知のように、中国におけるやきものの発展はきわめて古く、彩陶から黒陶あるいは灰陶を経て、殷代にはすでに植物灰を釉薬として用いた灰釉陶器が焼かれています。この灰釉陶器はその後、後漢末から三国代にかけ、南部の浙江省において発展を遂げて古越磁となり、隋唐代には見事な青磁や白磁にまで発展しました。一方、戦国末に始まった彩釉陶器は漢代に緑釉陶器として発展し、唐代にいたって多彩ないわゆる唐三彩を生み出すなど、古くから著しい成長を遂げています。
 朝鮮もまた、わが国に先がけて中国陶磁の影響をうけて発展し、日唐の直接的な交渉の始まるまで、各種陶磁のわが国への伝達の役目を果たしたのでした。
 まず、三彩・緑釉などの彩釉陶器から述べましょう。そのもっとも代表的なものは世界最古の伝世品である正倉院三彩・緑釉陶五十七点ですが、近年日本の各地からの出土例があいつぎ、現在では秋田県から鹿児島県までほとんど日本の全域にわたって、三百箇所以上の遺跡が発見されています。彩釉陶器は周知のように、緑 黄・白三彩 緑・白あるいは緑・黄二彩、緑・黄・白各単彩など、さまざまの色釉が施されています。これらの彩釉陶器は奈良・平安時代の文献や古文書によると、「瓷」あるいは「瓷器」という文字が当てられており、『倭名類聚抄』 ではこれを 「止乃宇豆波毛乃」 (シノウツワモノ)と読ませています。この瓷器という言葉は平安時代には「青瓷」と「白瓷」 に分けて呼ばれており、灰釉陶器である白瓷と区別して彩釉陶器を 「青瓷 (アオシ)」 あるいは 「青子」と呼んだことが 『西宮記』 や 『江家次第』、永久五年(1117) の正倉院の 『綱封蔵見在納物勘検注文」 などによって知られます。彩釉陶器は唯一の伝世品である正倉院三彩を除きますと、現在知られている三百箇所以上の遺跡は、宮殿・官衙跡、寺院跡、神社跡、祭祀遺跡、墳墓、集落跡、城柵跡、古窯跡などですが、いずれも祭祀に関する遺跡を主としており、日常生活容器として用いられた形跡は認められません。
 それでは彩釉陶器はわが国において、いつごろ始まったものでしょうか。従来の通説では、奈良時代に唐三彩の影響を受けて、まず三彩 二彩などの多彩釉陶器がつくられ、これと並行して黄釉・白釉 緑釉などの単彩釉器が併せつくられたと考えられています。しかし、昭和三十三年、川原寺の調査において、東回廊南端付近から半肉彫の緑釉波文塼が発見され、川原寺創建時のものとして7世紀後半代まで遡る可能性のあることが注意されましたが、さらに昭和四十九年三月、川原寺西北の丘陵、板蓋神社の西側斜面から多数の博仏などとともに緑釉水波文塼八十個体分が発見され、彩釉陶器の発生に関する新たな論議を呼び起こしたのです。このような波文塼は多数を組み合わせて蓮池を構成したもので、法隆寺の橘夫人念持仏にみられるように、仏像台座に用いられたものと考えられる。川原寺は天武天皇代に最も有力な官寺として尊崇されましたが、平城遷都後は主要官寺から脱落しており、このような豪華な施設が行われたのは創建時あるいは天武天皇晩年の頻繁な祈願のなされたころと考えられるとするならば、三彩釉器にさきがけて、すでに7世紀後半代に緑釉の器物がつくられた可能性のきわめて高いことが十分考慮されるのです。なお、三彩釉器の年代の知りうる最も古いものは、神亀六年(729) の小治田安万侶墓出土の三彩小壺であり、さらに遡る可能性のあるのは昭和四十一年に大安寺跡から発見された三彩・緑釉瓦塼類です。大安寺は養老元年(717) に唐から帰朝した僧道慈によって造営の指揮がとられており、昭和四十一年に発見された多数の唐三彩陶枕類が、道慈によって請来されたと考えられるところから、この時に三彩の製作が始まったのではないかという考えが、藤岡了一によって提出されています。彩釉陶器は以上述べたところから考えますと、まず7世紀後半、緑釉瓦の焼造をもって始まり、やがて奈良時代に多彩釉陶器がつくられるようになりました。しかし、平安時代の初期を過ぎると多彩釉陶器はつくられなくなり、もっぱら緑釉単彩のものに限られるようになります。緑釉陶器生産の終末は現在知られる古窯跡や遺跡出土のそれからみると、ほぼ11世紀中ごろと考えられる。
 つぎに灰釉陶器について述べましょう。灰釉陶器は奈良・平安時代に、猿投窯を中心として東海地方においてつくられた、植物灰を原料とした高火度焼成の施釉陶器のことです。『伊呂波字類抄』巻九に「白瓷(シラシ)」、「小右記』 の万寿二年(1025) の条に「素用白瓷器者 可令召尾張之由」、「仏器料瓷器等 可召尾張 美濃者」 などとあり、『島田文書』の建久二年(1191) の長講堂目録によれば、美濃 尾張の荘園から長講堂に対して白瓷鉢などを貢納していたことを記しており、それらの荘園の所在地のなかに灰釉陶器の生産地を多数含むところから、灰釉陶器を当時 「白瓷」 と呼んだことはほぼまちがいないでしょう。なお、『延喜式』に記された 「尾張国瓷器」 は当時の尾張の窯業生産の実態からみて、あるいは緑釉陶器を含むかも知れませんが、主体をなすものは灰釉陶器であったと考えられる。灰釉陶器の生産が始まったのは名古屋市東部丘陵地帯に展開した猿投窯においてであり、その最も古いものが鳴海32号窯を標式とする古窯跡において焼かれていて、平城宮跡において天平宝字年代の木簡を伴って出土していることから、760年代にはすでに生産の始まっていことが知られます。この初期の灰釉陶器を焼成した古窯跡から出土する窯道具はわずかに器物を支える粘土棒のみですが、9世紀はじめごろの窯では三叉トチンを用いた灰釉の出現をはじめ、中国陶磁がその焼成に用いた窯道具と類似するものが多数発見されており、明らかにこのころ中国からの技術伝播のあったことが推測されます。
 この問題と関連するのは、『日本後紀』 弘仁六年(815) の条に記された 「造瓷器生尾張国山田郡人三家人部乙麻呂等三人 伝習業成り、雑生に准じ、出身を聴す」 とある記事でしょう。ここに掲げられた瓷器は従来、緑釉陶器のことであり、平安京の官営工房において伝習が行われたとする解釈が支配的でした。そしてそれは当時ほとんど絶えかかっていた緑釉陶器の製作技術を再び復活させた功績を評価されたものと解してきたのです。しかし、当時平安京においては緑釉陶器はひき続いて焼かれており、その後、近江 尾張・美濃などへ広汎に製作技術が伝播していることを考えるならば むしろこの 「瓷器」 は尾張国の官営工房で伝習の結果、灰釉陶器のより高度な製作技術の達成を記念したものと考えられるのです。
 以上、古代後期を特色づける二種のやきものの発現の経緯およびその性質について概要を記しました。すなわち、7世紀後半まず緑釉陶器の製作技法が朝鮮半島から導入されましたが、やがて8世紀はじめ、唐三彩の技法導入によって、奈良三彩の華麗な展開が始まりました。それは一大世界帝国を形成した唐の多彩な文物の模倣によって、アジアの国際世界に一勢力として進出したわが律令国家の粧いの一つであったのです。唐三彩が明器として、冥界における仮器であったのに対して、奈良三彩もまた、神仏に対する供献の器として機能しました。日常のやきものに対する古代貴族のあこがれは必然的に須恵器から唐のすぐれた青磁 白磁に向かったのでした。しかし、官貿易を通じて輸入される唐の陶磁は貴族など上層階級の欲望を満足させるには充分でなく、やがて8世紀後半代には猿投窯においてその模倣としての灰釉陶器の生産の開始を促したのです。ここに土師器・須恵器を基本としつつ、さらに高級陶器としての灰釉陶器、祭祀形態としての彩釉陶器など各種のやきものが、それぞれの機能を分有しつつ、生活の多彩な需要を満たしたのです。

正倉院陶器

 正倉院には俗に正倉院三彩とよばれる五十七点の彩釉陶器と正倉院薬壺 薬碗とよばれる須恵器十点および青斑石硯とよばれる須恵器の風字硯一点、合計六十八点のやきものが伝わっています。これ以外に三十六箇の陶片および若干の小片がありますが、これらすべてが地上に伝世した世界最古のやきものとして、つとに著名なものです。
 しかし、永久五年(1117) の 『東大寺綱封藏見在納物勘検注文』 には彩釉陶器として、塔をのぞく五十六点しか記載されておらず、陶片類はすでにこのころ破損物として別にされていたらしく、当初はもっと多くの陶器が存在したものと考えられる。
 周知のように、正倉院の宝物類は天平勝宝八年(756)六月二十一日 聖武天皇の崩御後四十九日の忌日に当たり、光明皇太后が先帝遺愛の品、「国家の珍宝」 を集めて東大寺盧遮那仏に献じたものを中心とし、その後、神護景雲二年(768) にいたるまでたびたび献物の行われたことが記録の上から知られますが、三彩・緑釉陶器類はそのうちに入っていません。天暦四年 (950) 七月、東大寺羂索院の倉庫が暴風のため破損し、羂索院双倉の納物を正倉院双倉の南の端に移し、綱封を施したといいます。その後、永久四年(1116) に南倉の宝物のうち重要なものを封倉に移しましたが、南倉はその後も綱封のままであったことが 『綱封蔵見在納物勘検注文』 によって知られます。すなわち、正倉院三彩は香炉・水瓶 鏡鑑 楽器類などとともに、もと羂索院にあった儀式用の調度品で、天暦四年に東大寺から移されたものでした。したがって、北倉の薬壺 薬碗や中倉の硯とは伝来の経緯がことなっています。
 これらの三彩 緑釉陶器類はそれぞれに記された銘識によって、天平勝宝四年四月九日の大仏開眼会から神護景雲二年四月三日の称徳天皇東大寺行幸にいたる数々の主要な儀式に用いられたものと考えられています。
 なお、正倉院三彩のうちには緑白二彩の盤の底裏に 「戒堂院聖僧供養盤 天平勝宝七歳七月十五日 東大寺」と墨書銘があり、聖武天皇御生母中宮御斎会に用いられたことの知られるものがあります。
 正倉院三彩五十七点の名称は平安時代以降さまざまに呼び変えられてきました。永久五年の 『綱封蔵見在目録』 では 「青子筒 青子瓶」をのぞいてすべて「青子鉢・青子大鉢」 であり、明治四十一年の『正倉院御物目録』 では 「磁塔・磁鼓 磁瓶・磁鉢甲乙丙 磁皿甲乙丙」に分類されました。さらに昭和三十七~三十九年度の調査では 「塔・鼓胴瓶・大皿 大平鉢・ 平鉢・鉢碗」 に変更されましたが、大平鉢は当代の須恵器の杯に、平鉢は怨に当たるものであり、杯の底裏に「供「養盤」 とあるところから、本書では盤に、また碗を椀の字に当て用います。したがって品目数量はつぎのようになります。
 塔 一点 鼓胴 一点 瓶一点 大皿 十点盤四点 盌 五点 鉢二十五点 椀 十点以上の器物には、いずれも鉛釉を基礎とした三彩・二彩・黄釉・白釉 緑釉の五種類の釉薬が施されています。これらの詳しい内容については昭和三十七 ~三十九年度の調査報告である 「正倉院の陶器」(日本経済新聞社刊) を参照されたいですが、いま同報告書に依ってその概要を述べることにします。
 まず、素地は唐三彩や渤海三彩と異なり、小砂を噛んだざんぐりとした土で、酸化焰焼成のためほとんど卵殻色を呈しますが、やや還元気味のものは灰白色を帯びています。鼓胴の素地だけは特別にこまかくて白いです。正倉院文書の 『造仏所作物帳』 には造瓷料土として肩野 (大阪府交野) から運んだことを記していますが、交野付近の陶土を採集して実験した加藤土師萌氏は一見こまかい珪砂粒の多い蛙目風のもので、この土が用いられたと考えても支障はありませんと、同報告書で述べています。
 つぎに、成形はすべて轆轤水挽き手法によっており、作調はきわめて丁寧で、轆轤目はほとんど見えません。轆轤の回転は右廻りで水挽き後の器面調整も右廻りです。仕上げ調整には布を用いており、すべてが薄手の精作です。
 さて釉薬は唐三彩と同様、鉛丹を媒熔剤とした低火度焼成釉ですが、釉調からみて摂氏800~850度のかなり高温で焼いています。釉薬の塗布は筆で丁寧に塗り分けており、唐三彩の施釉が迅速に行われているのにたいして、運筆は遅々としてぎこちないです。施釉の順序はまず緑釉を、次いで黄釉を塗り、最後に空間を白釉で埋めています。白釉はいずれも淡緑色を帯びていますが、これは緑釉を施す際に用いた筆を十分に洗わないで用いたからだと考えられています。正倉院三彩の施文法は日本独特のもので、唐三彩のような貼付文はまったくなく、きわめて単純で、類型的です。もっとも多いのは「鹿の子斑」 とよばれている緑釉で連弧文を数段千鳥状に重ねたもので、三彩の場合には緑釉円弧の交点に黄釉を配するのを常とします。ほかに山道風にみえるもの、線条の流れ釉、麻の葉風のものなどがあり、三彩では緑と黄を半円状に四方連続に塗り分けています。緑釉単彩のものでも鉢類は外面緑、内面白であり、椀の場合には内外とも緑釉をかけるなど器物によって差異があります。正倉院三彩は施釉の前にまず素焼をしています。素焼の温度は釉薬の熔融温度より50~100度ぐらい高温で焼かれています。そして二彩大皿や緑釉鉢、黄釉腕などに還元焰で焼かれた際に生ずる御本が現れており、また二彩供養盤などの釉下に火襷の顕著に現れているものがあって、施釉前に素焼きが行われたことを知ることができます。施釉後の焼成は重ね焼きをしていることが目痕の存在によって知られます。鉢類は三叉トチンを、大皿類は王冠形の輪ドチンを用いています。なお、正倉院三彩がどこで焼かれたかは窯跡が未発見のため不明ですが、東大寺近傍において焼かれたであろうことは想像に難くありません。正倉院三彩 緑釉はすべて日本製です。
 つぎに北倉の薬壺・薬椀、中倉の風字硯について述べよう、薬壺・薬類の内訳はつぎの通りです。
 消壺、戎塩壺、治葛壺各一点、薬壺五点、薬碗二点、合計十点が完存していますが、昭和二年の薬物整理の際、北倉から発見された須恵器片が二十二箇、土師器片一箇があります。須恵器片は接合しますと、薬壺の蓋四箇体分、外側に 「内」 印のある杯一箇体分、薬腕の口縁部片一箇になります。土師器の器形は小片のため不明です。以上のち芒消壺 戎塩壺 冶葛壺はいずれも大形の短頸壺で、他の薬壺類にくらべて作行がすぐれています。前二者は通有な有蓋短頸壺で、地・焼成器形の特徴からみて、大阪南部の陶邑窯で焼かれたものであることが知られます。冶葛壺はとくに大形で作行もひときわ優れており、口縁部がラッパ状に外反する点で芒消壺とはことなっています。戎塩壺はわずかに外反します。しかしこのような口縁部の外反する短頸壺は陶邑窯において多数焼かれており、治葛壺も同窯産である可能性が強いです。他の薬壺五点はやや大形のものを中心に一括して保管されており、口縁部の外反するもの、直立するもの、高台のない平底のものなどさまざまですが、蓋のつくりからみて、これらも陶邑窯産と考えられる。薬碗二点および破片類も同様ですが、「内」 字を印した杯のみは灰白色の砂質に富んだ素地で、他の器物とやや作行を異にしています。中倉にある風字硯は木画文様のある六角形の台座の上に青斑石にはめこまれていますが、通有な須恵器の風字硯です。
 以上のように、正倉院陶器は北倉中倉の須恵器が陶邑窯など和泉国からの調貢品を用いているのにたいして、南倉の彩釉陶器類が中央の官営工房において製作された点で、その性格に大きな差異をみるのです。

三彩 緑釉

 わが国における三彩・緑釉など彩釉陶器の遺存例は、唯一の伝世品である正倉院三彩 緑釉陶を除きますと、すべて奈良・平安時代の遺跡から出土したものであり、北は秋田県から南は鹿児島県までほとんど日本の全域にわたり、三十三都府県から三百箇所以上の遺跡がすでに発見されています。それらの遺跡の種類は宮殿 官衙跡、寺院跡、神社跡、祭祀遺跡、墳墓、集落跡、城柵跡、古窯跡など多種類に富んでいます。それらの彩釉陶器は器形の上からみますと、壺、瓶、鉢、盤、椀 皿類をはじめ、火舎、塔、合子、硯など多種類にわたっており、その釉薬もまた正倉院三彩と同様に、緑 黄・白三彩、緑・白二彩 緑釉、黄釉、白釉など主として鉛釉を基礎とした釉薬を用いています。しかし、これら多種類の器形や釉薬は、奈良・平安時代を通じて一様に用いられたものではなく、時代によってその組み合わせを異にしています。概説の部分でも触れたように、三彩・二彩・黄釉・白釉などの多彩釉陶器は奈良時代から平安初期までで、それ以後はもっぱら緑釉単彩の器が用いられており、両時代のあいだに大きな性格の相異があります。
 奈良時代に用いられた彩釉陶器には大小短頸壺など壺類数種、多嘴瓶・水瓶浄瓶・広口瓶 長頸瓶など瓶類五種、鉄鉢形・ 平鉢など鉢類二種、腕盤皿 杯類のほか、特殊品として香炉・火舎甑・釜・托・塔・硯などさまざまのものがつくられています。釉薬は鉛釉を基礎とした三彩・二彩・緑釉・ 黄釉 白釉の五種のほか、最近山梨県黒頭遺跡から発見されたような、鉛をまったく含まない白釉の存在も知られています。つぎに平安時代の彩釉陶器は初期のものを除きますと、ほとんど緑釉単彩の器が用いられており、特殊なものとして名古屋市八事堂跡出土の二彩花文三足盤のような二彩釉のものがまれにみられます。器形別にみますと、短頸壺唾壺 四足壺など壺類数種 手付瓶二種・小瓶 花瓶 広口瓶など瓶類五種、鉄鉢形・碗形の鉢類二種、椀類三種、盤類二種、皿類四種のほか特殊品として合子、香炉、泥塔などがつくられており、平安初期以前のものとの間に大きな器形の相異がみられます。
 それではこのような彩釉陶器はどこで、どのようにして製作され、たものでしょうか。正倉院三彩を含め、三彩・二彩など多彩釉陶器を焼成した古窯跡は現在まだ発見されていません。しかし、正倉院文書の 『造仏所作物帳』 のなかに造瓷に関する部分があって、奈良時代におけるその製法を知ることができます。この 『造仏所作物帳』 は天平五年(733) から一箇年にわたって行われた興福寺西金堂の造営に関する記録であることが福山敏男博士によって明らかにされている。いま原文を掲げる余裕はないが、それによると製法はつぎのようになります。口径八寸の瓷鉢四口と口径四寸の瓷油坏三千百口をつくるために、陶土二千五十斤を肩野(大阪府の枚方付近)から車五台(賃銭車別八十文) で、また燃料の橡三百七十四材を山口 (春日大社裏山付近)から車六十七台 賃銭車別二十二文) で運んでいる。この場合どこでどのような窯を用いて焼かれたものか明らかでありませんが、官営工房であったことはいうまでもありません。そしてその釉薬をつくるのに必要な材料を官に申請して支給を受けています。それに掲げられた材料から釉薬の製法を検討した山崎一雄博士の研究によると、まず黒鉛すなわち金属鉛を加熱融解して酸化し、鉛丹 (酸化鉛) をつくります。
 つぎに丹和合料として白石 (石英) を加えると珪酸鉛、すなわち現在の鉛ガラスに近い組成の釉ができます。これに緑青を加えると緑釉となり、赤土(鉄分の多い土) を加えると黄褐色釉となります。またこの三者をかけ合わせると三彩になります。なお、素焼きした器に釉薬を塗る接着剤として膠を、鉛をすりつぶして細粉にするために塩を、鉛の酸化を促進するために猪脂が用いられています。実際の出土陶片の緑釉の組成をみますと、奈良時代のものは酸化鉛が少なく、二酸化珪素が多いですが、時代が降るにしたがって酸化鉛の量が増加しています。ままた、酸化銅の含有量は古いものほど多く、平安時代になると次第に少なくなっていることが知られます。
 彩釉陶器の焼成は正倉院三彩にみられるように精選された陶土を用いて、1000度内外の温度でまず器物を素焼きしており、さらに釉薬を施して750~800度の低温で酸化焼成を行なったものです。緑釉陶器を焼成した古窯跡は現在、畿内から東海地方にかけて二十五個所が知られています。これらのうち、奈良時代にぞくするものは奈良唐招提寺境内の瓦窯跡と奈良市川上町西瓦坂 (東大寺裏山) の瓦窯跡のみです。瓦坂窯は瓦やに鮮緑釉が付着しており、場所がら注目すべき窯です。8世紀末には平安京造営時の緑釉瓦を焼い大阪府吹田市の吉志部神社境内の瓦窯跡群があり、9世紀に入ると平安京の北部に官窯群が形成されます。このころから滋賀県 和歌山県など畿内の周辺部に緑釉陶器窯が出現しており、かつて畿内の中枢部において保持されてきた彩釉陶器の生産技術は律令体制の弛緩とともに周辺へ拡散しはじめるのです。やがて9世紀には愛知県猿投窯へ、10世紀には尾北窯から東濃諸地域へと分布を拡げ、それと対照的に畿内における生産は衰退してゆくのです。『西宮記』『北山抄』 『江家次第』 など10世紀以降の古文献に散見する 「尾張青「瓷」 の記事は緑釉陶窯の分布と対応していることが知られます。近年、日本の各地から緑釉陶器の出土例が急激に増加していますが、それらを通しますと、その大部分は9~10世紀にぞくするものであり、胎土・釉調によってその生産地を知ることができるものがかなり多いです。
 その最も多い例は黄白色の胎土に厚い淡緑釉を施した愛知県鳴海窯の製品と灰黒色の硬胎に濃緑釉を施した愛知県小牧市の篠岡窯(尾北窯) の製品である。古文献をまつまでもなく、当時「尾張青瓷」 が他地域のものに優っており、日本の各地に供給されていたことを知るのです。
 こうして製作された各種の彩釉陶器は当時どのようにして用いられたものでしょうか。彩釉陶器の出土遺跡はさきに述べたように多種類にわたっていますが、いずれも祭祀に関する遺跡を主としており、日常生活に用いられた形跡は認められません。昨今住居址出土例が増加していますが、ほとんどの場合、国分寺・国衙などに付属する集落のそれであって、特殊な用途として用いられるか、あるいは保管されたものと考えられ、日常容器として用いられたとは考え難いです。いま、その使用形態を遺跡の性格からみますと、大きく五種類に分かつことができます。まず第一は火葬蔵骨器として墳墓から発見される場岡山県笠岡市大飛島祭祀遺跡合で、三彩・緑釉二種の大形短頸壺が用いられています。その内容の明らかな代表例は昭和三十八年に和歌山県高野口町北名古曾の大和街道に沿った丘陵の南斜面から発見されたもので、地下30cmの深さに蓋を屋蓋形に形どった長方形の滑石製石櫃に入れられていた三彩壺です。なお、墳墓への副葬品として、三彩小壺を用いた唯一例として、奈良県山辺郡都祀村都介野の小治田安万侶墓があります。これには神亀六年(729) の墓誌を伴っていて、年代の判る最古例です。
 第二の使用形態は交通の要衝などにおいて行われた祭祀での、神に対する供献の器であって、主として三彩小壺が用いられています。
 その最も著名な例は岡山県笠岡市大飛島と福岡県宗像郡沖ノ島の両祭祀遺跡です。大飛島は瀬戸内海の真只中に浮かぶ小島で、この島の東北端の細長い砂州の基部から唐鏡や多数の供献の器とともに、蓋十三個、身七個の三彩小壺が発見されています。この島はちょうど瀬戸内海の中央部にあって、東西の潮の変移点に当たっているところから、中央官人の西海下りに際して、潮待時に海神に対して航海の安全を祈願して奉納したものと考えられる。沖ノ島も同種の遺跡です。第三の形態は宮殿官衙・寺院における祭儀に用いられたもので、その器種の示す最も典型的なものが正倉院三彩です。平城宮跡からも同種の彩釉陶器が発見されており、畿内の主要な寺院からの発見例もかなり知られています。その器形の組み合わせは三彩火舎、三彩・二彩盤、二彩 緑釉、三彩・二彩・緑釉仏鉢から成っており、正倉院三彩の組み合わせに類似した内容をもっています。第四の使用形態は平安時代中後期の仏教関係の遺跡から発見される緑釉陶器群であって、二種の組み合わせが知られています。一つは名古屋市八事堂跡や栃木県日光男体山頂遺跡の場合であって、各種の遺物に混じって、合子・椀 皿類 花瓶などの組み合わせをもつ緑釉陶器が発見されています。日光男体山頂の場合は各種の金属製密教法具類を豊富に伴っており、そこに密教大檀供の組み合わせをみることができます。いまーつの組み合わせは群馬県山王廃寺の寺域の一画から発見された緑釉陶器群で、円礫を用いた一辺60cmの方形区画内に板石を用いた祭壇を設け、その上に緑釉椀三箇、皿四枚、銅鏡を置き、その傍に緑釉手付水瓶、土師器椀 皿類を置いていました。地鎮具として用いられた例でしょう。このような例は内容不明ながら、長野県平出遺跡、石川県三浦遺跡においても同種の器物が出土しています。また、京都市東山区今熊野総山のように墓域の一角において、小児頭大の石を方形に並べ、そのなかに緑釉花瓶三箇 椀九箇、皿六枚をおいた特殊な遺構も知られています。第五の使用形態は平安後期の緑釉椀 皿類が古墳の横穴式石室内部から発見される例です。その典型的な例は山口県萩市見島古墳群の場合で、横穴式石室の前半部を改築して別の石囲いを設け、緑釉皿二枚を供献の器としておいた例が知られています。また、状態不明ながら、横穴式石室から出土した例とし大阪府西能勢の岩坪古墳、滋賀県五箇荘村の一古墳などが知られています。このような祭祀の性格がいかなるものか明らかでありませんが、供献の時期にかなりの年代の幅を含んでいて、興味ある問題をうちに秘めています。
 以上のように、奈良・平安時代における彩釉陶器の使用形態を通観しますと、集落跡出土のような若干の不明なものも含んでいますが、いずれも祭祀とふかく結びついており、日常容器として用いられた形跡を認めることはできません。また、奈良時代における多彩釉陶器の製作は正倉院文書の 「造仏所作物帳」 にみられるように、興福寺西金堂の造営という特別の場合に当たって、その製作に必要な材料を官から支給し、官工房において製作したものであって、その製作は一回限りのものであり、特定の対象なしに絶えず継続して生産が行われていたとみることはできません。さらに全国の各遺跡から出土するそれらの器物をみても、素地釉調など同質のものが多く、同一場所で製作されたものであって、各地においてそれぞれ自由な生産が行われていたとみることはできません。とくに三彩小壺などは比較的限られた時期に何回か行われた祭祀の存在を示しており、中央政府による一元的な姿をそこにうかがうことができるのです。
 また、平安時代において畿内から東海地方にまで、緑釉陶器の生産がひろく行なわれていますが、「西宮記』 や 『江家次第』 などにみられあるように、「御歯固式」などの宮中の儀式に用いられるものであったり、密教の儀式にその法具の一部として用いられるような性格をもつものでした。当時、日常容器として土師器・須恵器が用いられており、特別高級な陶器類としては中国から輸入される青磁 白磁などがありました。それらにくらべて、奈良時代の彩釉陶器は軟陶であり頻繁な日常容器の使用に耐えない、非実用的な器物でした。
 それでは日本の彩釉陶器の源流である唐三彩や他地域のそれはどこのような使用形態を示しているでしょうか。中国では漢代以来、緑釉陶器は明器として、墳墓へ福葬されるのが通例でした。唐三彩においても現在知られている遺跡はすべて墳墓であって、他の遺跡から異なる使用形態を示す明らかな例はまだ知られていません。一方、中国の東北地方東部に7世紀末以来、約二百年間存続した渤海においては、東京城内の宮殿において緑釉瓦や怪獣緑釉陶製品が使用されており、外城域の竪穴住居址から日常容器類とともに三彩器脚片が発見されています。また、朝鮮半島では百済や新羅の寺院跡出土の諸例が知られており、それらはいずれも日本における使用例と相似た状況を示しているのです。しかし、西方のイスラムの多彩釉陶器 (ペルシャ三彩) は唐三彩の流れをひくものではありますが、実用の日常容器として使用されていました。このように彩釉陶器はそれぞれの国において異なった使用状況を示しています。日本の場合においては、墳墓への副葬品として用いられたものは小治田安万侶墓のみであって、他のほとんどは火葬藏骨器を除けば、祭祀に関する器物として使用されたのです。ここに日本の彩釉陶器の特色があります。

灰釉陶器

 すでに述べたように、灰釉陶器と呼ばれるものは、奈良時代後半から平安時代にかけて愛知県を中心として東海地方全域にわたって「焼かれた、植物灰を原料とした高火度焼成の施釉陶器です。彩釉陶器がそうであったように、灰釉陶器もまたその源流が中国陶磁にあることはいうまでもありません。中国ではすでに殷代に植物灰を釉薬として用いた灰釉陶器がつくられています。その発生についてはまだあきらかではありませんが、当時さかんに焼かれていたやや硬質の灰陶が焼成温度の上昇にともなって生じた自然釉にヒントを得たものでしょう。その後の発達過程はあきらかでありませんが、後漢末から三国代にかけ、南部の浙江省において発達をとげて古越磁となり、隋唐代には見事な青磁や白磁にまで発展しました。これに対して、朝鮮や日本では中国の灰陶の流れをひく新羅焼や百済の陶質土器、須恵器など硬質のやきものがつくられていますが、まれに自然釉のかかったものはあっても、それを意識的に灰釉にまで発展させる技術は8世紀にいたるまでなかったのです。
 わが国において灰釉陶器の生産が始まったのは、現在知られる限りでは、名古屋市東部丘陵地帯に展開した猿投山西南麓古窯跡群においてであり、そのもっとも古い原始灰釉陶器が鳴海32号窯を標式とする古窯跡において焼かれていて、平城宮跡において天平宝字年代の木簡をともなって出土していることから、760年ごろにはすでに生産の始まっていたことが知られるのです。おそらく当時官貿易を通じて輸入されていた中国陶磁に刺戟を受けたものでしょう。しかし、灰釉陶器は須恵器生産の行われたところではどこでも焼かれたわけではありません。まず猿投窯において始まり、平安時代には尾張北部から美濃へ、さらに遠江 伊勢山城へ拡がりましたが、主要産地は東海地方の範囲から外へ出ることはなかったのです。それは高度な製作技術とそれに見合う原料陶土に規制されたためです。通常、植物灰の熔融する温度は1240度ですが、このような高温に耐える陶土は須恵器のような洪積層の粘土ではなく、より母岩にちかい新三紀層の粘土であって、名古屋市東部20km四方の丘陵地帯に豊富に存在したことが、猿投窯において灰釉陶器の生産を可能ならしめた最大の要因でした。
 灰釉陶器の器形は古墳時代以来の須恵器の系譜をひくさまざまな日常容器類や祭祀用の器物のほか、あらたに加わった各種の仏器類や食器類を含めるときわめて豊富です。しかし、これらのすべての器物に一様に灰釉が施されたわけではなく、時代によって施釉の対象に変化があります。奈良時代においてまず施釉の始まったのは瓶類であり、そのもっとも多いのは平瓶や古墳時代の細頸瓶から変化した長頸瓶です。また、金属製の仏器を写した水瓶や浄瓶などがあり 平安時代には中国青磁水注を写した徳利形の手付瓶や水注などがあります。壺類も豊富ですが、代表的なものは正倉院薬壺と同形の短頸壺であり、平安時代中期以降には中国青磁を模倣した広口壺や唾壺があり、特殊なものとして、胴に数段の突帯を貼り付けた四足壺や双耳壺などがあります。本格的な刷毛塗の灰釉を施した椀 皿類が出現するのは9世紀に入ってであり、中国陶磁の影響によるものです。普遍的なのは大小二種をセットとする椀であり、他に金銅銃を写した腰に稜のある腕などがあります。皿類には低い高台をもった通有な皿のほか、『延喜式』に見える 「擎子(しっし)」に当たるものと考えられる内面あるいは内外両面に段のある皿、腰に稜のある皿な愛知県愛知郡東郷町黒笹7号窯などがあります。特殊なものとして耳皿もつくられました。以上のほか猿投窯や尾北窯では手付瓶や椀 皿類に中国陶磁を模倣した陰刻花鳥文や輪花の装飾を施したものがたくさん焼かれていますが、これには原則として灰釉は施されていません。緑釉陶器の素地に用いられたものです。
 それでは灰釉陶器はどのようにして製作されたものでしょうか。
 さきに述べたように猿投窯においては東方の耐火度の高い良質の陶土が用いられたことが古窯跡の分布から知られます。とくに9世紀後半以降に東部の黒笹地区に生産地が集中するのは、灰釉の色調をより効果的なものにするために白色良質の陶土が要求されたためでしょう。それらのうちには水を行ったのではないかと思われるほど緻密な良質の素地のものがあり、とくに陰刻花鳥文を施したものに多いです。器物の成形についてみますと、原始灰釉陶器の発生した8世紀後半代に瓶類など縦長の器形が生まれ、轆轤技術の向上がみられますが、この時期の椀類の底部に糸切痕のあるものが出現しており 一塊の粘土から多数の器物をひき出す轆轤水挽き手法が採用されるようになったものと考えられる。また、8世紀末から9世紀にかけて、瓶類の口頸部の接合に胴との間に当て板を挿入することなよく、直接頭と胴をつなぐ二段継ぎの手法が用いられるようになりました。
 同時に壺などの大形品においても水挽き技法が採用されるようになって、轆轤技術が飛躍的に向上しています。おそらくこれはつぎに述べる焼成技法とともに中国からの直接的な技法の伝播が考慮されるのです。灰釉陶器を焼成するための窯は、須恵器とおなじく丘陵斜面に溝を掘り、スサを混ぜた粘土で壁および天井を貼った、断面半円形の細長い窖窯の構造のものです。須恵器の初期の段階には愛知県みよし市黒笹町89号窯床面の傾斜が15度前後の緩いもので、燻焼還元焼成にふさわしいものでしたが、その後しだいに傾斜が急角度に変化しているとくに猿投窯では8世紀末から9世紀はじめにかけて30度から40度におよぶ急角度に変化していて、燃焼室の床面に楕円形のピットを持った窯が多くなります。これは本格的な還元焼成を行なうために生じた窯体構造の変化であって、灰釉陶器を焼くための高火度焼成に適したものでした。また、新しい灰釉椀 皿類を焼くために出現した各種トチン、つく、より輪などの窯道具は唐から五代にかけての中国陶磁の窯道具とまったく同一であって、その製作技術の伝播を考慮せしめるのです。
 最後に灰釉陶器の生産の消長について若干述べておきましょう。灰釉陶器は中国陶磁にくらべれば格段に質のおちるものでしたが、初期には輸入陶磁に次ぐ高級陶器として、いっぱんにゆきわたるまでにはいたりませんでした。生産地である愛知県下ではいっぱんの集落跡から発見される場合もありますが、奈良末から平安初期にかけての主要な需給対象は宮廷官衙 大寺院など、主として畿内の中枢部に限られていました。やがて9世紀に入り、中国からのあたらしい生産技術の導入によって、椀 皿類が焼かれるようになり、施釉の対象が盤・壺などの多くの器物に拡大されるようになりますと、需給範囲は急速に拡がり、東北地方から中国地方まで運ばれるようになりました。これとともに猿投窯内の須恵器生産者はあいついで灰釉陶器の生産に転換しましたが、需要の増大にともなって、しだいに尾張北部から美濃においても灰釉陶器が生産されるようになりました。とくに、10世紀から11世紀にかけて、農業技術の発達にともなう農村の興隆を背景に、灰釉陶器の需給範囲はいっそうの拡がりと密度をもつようになります。近年の発掘調査の結果をみても10世紀後半以降、ほとんど全国的にいぱんの集落跡から出土例が増加しています。もはや灰釉陶器は上層階級のみのものでなくなったのです。このような灰釉陶器の普及と対応して生産地の拡大と生産方式の転換がみられます。後者についていえば、一部の上手物は別として、二級品の椀 皿類は匣鉢やトチンを用いることなく、直接十二、三枚ぐらい重ねて焼く量産方式が採用されるようになりました。それに応じて施釉方法も変化し、重ね焼きによるロスを避けるため、器物の周囲のみに釉薬を施す簡略手法がとられました。しかもなお需要の増大は生産地の拡大をもたらし、11世紀代に入ると東海一円から近江 山城など近畿の一部にまで及びました。このような動向は必然的に質の低下を招きました。灰釉陶器はもはやこの段階には一般民衆の日常容器に変質したのです。そのような背景には日宋貿易による中国陶磁の大量輸入によって、上層階級に対する需給関係が大きく変化しつつあったのです。やがて11世紀末に入りますと、東海各地の灰釉陶窯はいっせいに施釉を放棄し、窯内に分焰柱を設けた量産方式の窯体に変化させることによって農民用の日常雑器としての山茶碗生産に転換していったのです。

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