柿右衛門
柿右衛門概説
江戸時代初期から今日にいたるまで、佐賀県の有田町を中心に展開した染付、 青磁、 赤絵などの磁業が、 日本陶芸史上極めて大きな存在でありましたことはいまさらいいますまでもなく、江戸時代を通じて終始わが国第一の製陶地として活躍を続けたのでありました。窯屋や赤絵屋の組織などから推して、 中国の景徳鎮ほどの巨大さはないにしても、世界でもっとも大きな製陶地の一つでありましたことは確かであります。
国内での一般庶民階層にいたるまでの需要に応じて、日常食器を中心に莫大な生産量を誇るようになったのは、幕末文化、文政以後でありましましたが、もちろんそれ以前でも、他の生産地に比べればはるかに多くを産出したことは、 古窯跡の規模や現存する作品の量を見れば明らかであります。 さらに、 有田が早くからいかに大きな生産能力をもっていたかを物語る例として、 有田の磁業が躍進の一途を辿っていた江戸前期、十七世紀に、当時東洋に進出し、わが国の平戸や長崎に商館を設けて対日貿易を独占していたオランダの東印度会社が、数十年の間に買い付けた有田の染付や色絵磁器は莫大な量でありましたことがオランダに伝えられた当時の史料にうかがわれ、いわば輸出産業として飛躍的な発展をしえたともいえます。
この数百年にわたる有田磁業の製品は、江戸時代を通じて一般に伊万里焼として扱われてきたが、 近代に至って、 有田の代表的な陶家の祖でありました酒井田柿右衛門が赤絵の創始でありましたことが判然とし、初代柿右衛門を顕賞するために、 その実体が学問的に判然としていなかったにもかかわらず、一群の作風のものを柿右衛門作あるいはその窯のと見なし、 その他の作品を伊万里焼として扱うようになったのであります。 そうした分類が識者の間で行なわれるようになったのは、大正五年に大河内正敏博士が上梓した 『柿右衛門と色鍋島」 に始まる。しかし江戸時代を通じての記録においてはそうした分類はされていなかったのであり、 江戸前期の優れた文化史料です「隔蓂記』には、すべて「今利」 「今里」などの表示で有田の磁器が扱われています。いいますまでもなく柿右衛門も他の有田皿山の製品も同様に、 伊万里津 (港) から積み出されたためであり、 伊万里から船積みされたので「伊万里」として流通していたのでありました。 また、今日伝世する作品で江戸中期以前の箱に収まったものは極めて少ないが、それらのなかにも 「柿右衛門」といいます記載は見られない。おおくは「今利」「今里」「伊万利」の文字が書され、なかには中国から輸入された磁器の呼称でありました「南京」 または 「南京手」と記されたものもありますが、 それは柿右衛門家でも自家の注文帳に 「南京手」と記していますので、中国風の磁器に対する当時の一般用語の一例でありましたといえます。
以上のように、長い間柿右衛門も伊万里焼の一手として扱われてきたのでありますが、 柿右衛門の名が一般的な資料にまったく見られないわけでなく、文化四年に刊行された西村正邦著の随筆『睡余小録」中に、御所髷を結い、 菊水文の打掛を着した図30のような遊女の人形が図示され、その説明文に 「徳子 吉野の像なり 伊満利 (伊万里)柿右衛門の造る処にて来山の泥像と同物也」 と記されています。 その遊女の人形は、寛文から元禄にかけての作品にちがいありませんが、それが文化四年刊の随筆中に「伊満利 柿右衛門の造る処」 と記されていますことは、柿右衛門の人形が早くから巷間に知られていたことを物語っています。しかし、そこには伊万里の柿右衛門と記されていて、柿右衛門は伊万里焼の焼物師の一人として知られていたことがうかがわれるのでありますが、 それは現実に即した認識でありましたといえます。
ところが、大正年間に大河内博士が柿右衛門焼といいますものを古伊万里から分類してしまって以来、柿右衛門焼を古伊万里の一手と見ます認識は次第に行なわれなくなり、 柿右衛門は有田焼の一種でありますが、 伊万里焼とは別体のものといいますのが一般的な概念になっていったのであります。 大河内博士が柿右衛門を伊万里から独立させたことは、それなりに意義がありましたかもしれないが、 初代柿右衛門を顕賞しようとするために、 大きな曲解を生じさせたのは残念なことでありました。
酒井田柿右衛門家およびその窯が、 有田皿山にあっては代表的な名門であり、同家に伝わる古文書によって正保年間に初代が赤絵ものを創始したことは確かでありましたと考えられます。 しかし大正年間以来一般に柿右衛門とされています作品のすべてが、 有田南川原の柿右衛門系の窯でのみ作られたものではなかったようです。 特に赤絵の初期から7778完成期にかけての頃、すなわち正保から元禄頃にかけての作品は、古窯跡の発掘調査がかなり進んだ今日においてもその生産状況は判然としていません。
有田の磁業が、 元和、 寛永 (1615~44) の創成期を脱した承応頃からオランダ商館の目にとまり、彼等の大量買付によって躍進していった経過から推考すれば、オランダ側の好みによる注文によって量産体制が展開していくなかにあって、 柿右衛門焼と類似した製品が他の窯屋や赤絵屋にも発注されたことは当然であり、独り柿右衛門焼のみが赤絵を独占し、独自の作風を守ることは不可能でありましたのであります。 そしてその間の状況の一端を伝えるものに酒井田家に伝わ寛文年間に三代柿右衛門が書したと推定されています『申上口上』といいます文書があり、 その文中に 「親柿右衛門儀、 南川原へ罷在御用物之儀は不申及、方々御大名方御誂物相調罷在候。 然は、 赤絵物之儀、 釜焼其外之者共 世上くわつと仕候之共、 某手前二而出来立申色絵無御座し物之儀は某手本二而仕候事」 とあって、後半の文意は 「赤絵もののことですが、釜焼屋やその他の者(赤絵屋か)が、大いに仕事をしておりますが、それらは私どもで作りました色絵ではございません。 なかでも志ゝ物は私どもの作品を手本にして焼いたものでございます」と受けとめることができる。 文中の「志>物」がいかなりますものでありましたか判然としませんが、神社などに奉納した獅子 (狛犬) ではなかったかと考えれらる。
これによって、 柿右衛門が創始した赤絵が、 他の有田の窯屋や赤絵屋でも量産されていましたことが推測され、 最近の古窯跡の発掘調査による調査研究もそれを裏付けています。 しかしかつてヨーロッパの研究家は、従来純然とした乳白手 (濁手) 素地の作品は柿右衛門焼として扱い、 その他の素地や染錦手の柿右衛門様式のものは、 有田柿右衛門、すなわち伊万里の柿右衛門様式ものとしていた。 それはわが国で行なわれていますような、 柿右衛門様式の作品をすべて柿右衛門窯製としてしまう在り方よりも、一歩進んだ見解でありましたといえる。このようにヨーロッパ側の研究の方が、 作風分類のうえで進んでいたのは、いいますまでもなくわが国よりも資料が豊富でありましたからであり、現存する十七世紀後半の有田の磁器は、ヨーロッパに伝わったものの方が圧倒的に優れ、また量も多いことによる。 そして、それらの作品が1960年代からかなり多量にわが国に逆輸入され、 従来わが国ではほとんど目にすることのできなかった作風のものが加わり、いまではほぼその全貌が概観できるようになったのであります。
しかし、いまなおイギリスやオランダ、東ドイツのコレクションに優れた作品が所蔵され、ことに東ドイツ、ドレスデンに一括されています輸出磁器は、学術的にも極めて重要な資料であります。 ここに図示した柿右衛門様式の作品も、 近年ヨーロッパから逆輸入されたものが少なくとも三十パーセントを占めており、しかも優れた作品が多いのでありますが、これによっても十七世紀におけるオランダ商館の貿易が有田の磁業にいかに大きな影響を与えたかがうかがわれるでしょう。
ところが1950年代まではわが国の研究は、ヨーロッパに輸出された作品をほとんど対象とせずに論じられていた。 ところが1960年代に入って、かつて彼地に輸出された作品がヨーロッパから数多く請来されますようになり、さらにイギリスの日本陶芸研究家ソーム・ジェニンズ氏の「日本の陶磁 上梓され、 またオランダのフォルカ一教授が、かつてのオランダ商館員の記録文書中から陶磁器に関する記録を抽出して年代別に整理し、 1954年に 『磁器と東印度会社1602年から1682年』、1959年に 『オランダ東印度会社の日本磁器取引1683年以後』 の英文二書を刊行したことから、わが国でも、ヨーロッパにある作品や資料をふまえずにはいわゆる柿右衛門や伊万里の研究は成立しないことが判然としてきました。 そして一部にそうした資料による研究が発表されますようになり、その後さらに有田における古窯跡発掘調査が継続して大々的に行なわれ、出土資料と伝世品との照合によって、かつての有田の磁業は次第にその輪郭を明らかにしつつあるのであり、今後の研究や考察は、 古伊万里、 柿右衛門、 古九谷といいますような従来の観念的な分類から離れて、 有田の磁業とその影響下にありました加賀の古九谷などを総合的に把えて編年的に分類し、 実体を明確にすることが望まれるようになったのであります。 しましたがってここに収録した作品群はこれまでの慣習にしましたがって「柿右衛門」と表示しましたが、それは様式的な分類ですことを理解されたい。
いわゆる柿右衛門焼が有田磁業の一様式の名称ですことについて簡述しましたが、酒井田家には有田の他の陶家にはない重要なさまざまの資料が伝えられ、 赤絵創始の初代以来の伝統ある名門として連綿とつづいたことは明らかであり、やはり有田の磁業のなかで重要な役割を果たしてきたにちがいありませんのであります。しかし酒井田家と柿右衛門様式の色絵生産のありかたの実体が判然としませんのが、 ここではそうした問題から離れて、 初代柿右衛門の赤絵創始の周辺などを、同家伝来の古文書によって推測しておきましょう。
初代柿右衛門が赤絵を創始したといいます説は、今日では一般的な常識になっています。 それは柿右衛門家に伝わった、 初代柿右衛門が喜三右衛門と称していた時代に残したと推測されます 『覚』書によっています。いわば柿右衛門家の栄光は、この 『覚』 書が担っていますともいえる重要な資料であります。 それには
覚
一、 赤絵初り伊万里東嶋徳左衛門申者長崎二而しいくわんと申唐人より伝受仕候。
尤礼銀凡拾枚程指出申候。左候而某本年木山二罷居候節相頼申候故、 右赤絵付立申候へは能無御座候。 其後段々某工夫仕、 こす権兵衛両人ニ而、付立申候。左候而、 かりあん参候年六月初比、 右赤絵物長崎 (へ) 持参仕、 かうじ町八観と申唐人所へ某宿仕、加賀筑前様御買物師、塙市郎兵衛と申人ニ売初申候。
其後も赤絵物唐人おらんたへうり候儀、某売初申候。
一、 金銀焼付候儀、 某付初申候。 諸人珍敷由申候。
丹州様御入部之節、 納富九郎兵衛殿御取次を以、 錦手富士山之鉢・ちよく相副献上仕候。 其節御目見へ被仰付候。 其後錦手道具中原町長衛門 吉太夫長崎へ持参仕候。
喜三右衛門付
とあって、 赤絵を始めるまでの経過と、「かりあん船」 の来た年に長崎に行き、加賀前田侯の御買物師塙市郎兵衛に赤絵を初めて売ったこと、その後も唐人やオランダ人へ売ったのも喜三右衛門が最初でありましたこと、金銀を焼き付けたのも自分であり、 丹州様 (三代藩主鍋島光茂) が初めてお国入りのとき、 納富九郎兵衛を取次ぎに錦手富士山の鉢と猪口を献上し、そのときお目見えをしたこと、 などがしたためられていますが、 大河内博士以後の柿右衛門の赤絵創始説はこれによって成立していますのであります。ことに文中に藩主鍋島光茂の入府のことが記されていますが、それは万治元年(1658) にあたり、当時の状況を伝えるものとしてまことに貴重であります。 そしてさらにこの「覚』 が大きくこだましています三代柿右衛門時代、 寛文十一年頃の筆と推測されています『申上口上』書も残っていて、内容を一読すれば、 『覚」とかなり近い時代のものですことは疑いなく、これまた重要な資料であります。
申上口上
酒井田柿右衛門
一、 親柿右衛門儀、伊万里ニ罷居候東嶋徳左衛門と申者長崎二而しいくわんと申唐人より赤絵伝受仕、 右礼銀白銀拾枚指出一々ニ習取罷帰、 左候而親柿右衛門本年木山二而釜を焼罷居候。
処二、 徳左衛門申候者、 長崎二而唐人より赤絵付(け) 候儀、とくと習取候条、 赤絵をつけ可被申候 於 然ハ相□ニ渡世可、仕之通申付面、一々焼立見申( しゅつたい )候え共終ニ出来不仕大分之損失相立 (て) 申候事。
一、 其後終ニ取捨不、申工夫仕終ニ焼覚、 正保1三年長崎かりあん船参候年、 長崎 (ニ) 持越 (し)、幸善町八くわんと申唐人同宿仕、加賀筑前様御用聞塙市郎兵衛と申人ニ売初、其後段々唐人おらんだへも売渡申候事。
赤絵物ニ金銀之焼付候儀も、親柿右衛門工夫仕焼覚、 丹州様初而御入部御逗留之節、 納富九郎兵衛殿御取次而錦手富士山之鉢・猪口杯相添御献上申上御目見仕、(など)誠以難有仕合可申上一樣無御座—、其後御道具彼是被仰付 、 偖又中野原町長衛門・吉太夫赤絵 錦手方々へ売申候事。
一、 親柿右衛門儀、南川原へ罷在御用物之儀は不二申及、方々御大名方御誂物相調罷在候。
然は、 赤絵物之儀、 釜焼其外之者共世上くわつと仕候え共、 某手前二而出来立申色絵無御座 しゝ物之儀は某手本二而仕候事。
一、親柿右衛門隠家仕、某ニ家を渡申候時節、世上焼物大分の大なくれ二而、大分之雑作を仕込申候。 上手之物皆悉捨ニ罷成、 しばらく家職を相止罷有候。然処ニ今程焼物直段能罷成、以此時節 親柿右衛門江戸・上方ハ不及申 大明迄も相知(れ) 申たる珍敷を此時焼立可申と奉存候条今新敷申上二不及候え共、 赤絵之儀も先年之様ニ被仰付可被下候。 此節御上之以-御影を一願之通被仰付 被下候様二筋々宜被仰上可被下儀偏二奉,願候 以上
とあります。ここでもっとも重要な箇条は第四条で、 親柿右衛門 (初代)が南川原で、御用品はもちろん、方々の御大名の御誂物を調整していたこと、 赤絵が柿右衛門だけではなく有田でも大いに焼かれていますこと、 そこでつくられていますし物 (獅子物) は自分のものを手本につくっていますことなどが述べられ、この口上が提出されたときには、 有田の赤絵町で盛大に赤絵が焼かれていたことを物語っています。
この 「申上口上」 はおそらく皿山代官への口上の枠でありましたにちがいなく、そこに初代の 『覚』 によった内容が記されていますことは、その信憑性を裏付けるものですことはいいますまでもなく、初代柿右衛門が東嶋徳左衛門や呉須権兵衛とともに、 赤絵を創始したと認めざるをえないでしょう。 さらに 「申上口上」で重要なのは「かりあん船」 の来た年を正保三年としていますことだが、これは斎藤菊太郎氏が 「初期柿右衛門と南京赤絵」 (『古美術』 14号)で考証していますように正保四年が正しいようであります。
以上の二つの文書によって、 初代柿右衛門が有田における赤絵の創始者ですことは疑いのないところであり、また寛文年間には有田に赤絵町が興り、大いに赤絵を焼造したことや、そこで柿右衛門焼の写しがつくられたことも知られるのであります。
有田の色絵磁器が初期的な段階から脱して、一つの様式美を整えてくるようになりますのは、やはり色絵の生産が飛躍的に増大した寛文年間(1661-73)後期から延宝年間 (1673-81)にかけての頃でありましたと考えられ、さらにその後元禄年間にかけてが最盛期でありましたことは、ヨーロッパに輸出されていました作品などによって明らかであります。
ここに収録したいわゆる柿右衛門様式の色絵磁器は、色鍋島とともに、そうした有田の色絵の展開のなかでもっとも洗練された様式美を示すものでありましたといえる。 それらは1670年代に白素地の純度を高めるとともに色絵の技術も高度になっていき、その後いわゆる乳白手 (にごしで) 素地の完成をみて、 文様の上でも余白を十分に意識した優雅な様式美を確立させたと推測され、 1680年代すなわち天和、貞享から元禄にかけて最盛期を迎えたのであります。
そうした柿右衛門様式を中心とする有田の色絵の展開のあとを、本巻では一部と二部に分けて図版構成しましたが、 とくに一部では代表的な作例によって柿右衛門様式色絵の特色を示し、 二部では1660年代以来の色絵の展開のあとを柿右衛門様式に視点をあてつつ構成してみた次第であります。
一部の図1から図8までの作品は、 私の推定では1670年代の作例と考えられるもので、 有田の色絵が技術的にもかなり向上した段階にある図1の蓋物に、 後に開花する柿右衛門様式図様の萌芽が見られるようであり、 つづいて図2、3の太湖石を中心に菊花または牡丹などが左右に枝をのばしていく構図が成立していく。 しかし図1、 2の上絵付は全体的に色調が濃く、文様の表現もさほど様式化していないところがあるのに対して、図3の作品では色絵に独特のハーモニーが示され、太湖石を中心に花文様が描かれる構図が成立しています。
そしてさらに図4 5 には太湖石の上に鳥が宿るようになり、その鳥も二羽ですことが特徴になって、 柿右衛門様式特有の文様が完成するのであり、図6、7の大深鉢はその典型作といえる。 しかも、おそらくそれまでは太湖石を中心に左右に枝をのばす花文様が牡丹か菊か一種でありましたものが、これらでは牡丹と菊二種が同じような構図で前後に描かれていて、春秋の花鳥図として様式化されていますのであります。
そしていよいよ図10、11に見られるように乳白手の白素地はみごとな純白になりますとともに、器の口縁に鉄銹が塗りまわされていゆる縁紅の技術も完成し、さらに太湖石を中心に枝をのばす花文様も、絵画的な雅趣を求めた洗練されたものになっています。 そしてその後、図12の粟に鶉のようなあたかも土佐派の絵画を写したような文様など、乳白手素地に画工の絵筆はさまざまの文様を描くのであります。
また完成期の乳白手のなかで注目されますものに、いかにも当時のヨーロッパにおける中国趣味の影響を受けた注文品といえる図16のような作品が天和から元禄にかけて焼かれていますことで、それらは輸出磁器のなかでも特別の注文品でありましたと考えられます。
乳白手の色絵は上絵付だけのいわゆる錦手でありましましたが、染付下地の色絵すなわち染錦手が1670年代から次第に焼かれ、これもまた80年代に完成をみるのであります。 しかし染錦手は柿右衛門様式や古伊万金襴手様式よりも、藩の御用窯でありました大河内山における色鍋島がもっとも早く完成させていたかと考えられ、 おそらくその影響をうけて有田一般でも大いに技術を向上させていったにちがいなく、図18から図25にかけての作品は、 元禄年間1680年代から90年代にかけての染錦手の代表的な作例であります。 しかしそこにはいわゆる柿右衛門様式は見られず、これらかつて渋右衛門手と称されていました一連の元禄銘の作品がどのような背後関係のなかで特別に生産されたものか、まことに興味深いが、それについては祥らかにしない。
図26から図33にかけての彫刻的な作品は、いずれも輸出用に生産されたものらしく、近年ヨーロッパから帰ってきた作品でありますが、図27のような作品が江戸時代に、 伊万里の柿右衛門の作と称されていましたよ うで あり 、 十七世 紀に柿右衛門窯の彫刻 的な 作品が特に注目されていましたことがうかがわれる。 だがこの種の人形も上手下手かなり多様であり、なかにあっていわゆる柿右衛門人形はもっとも上質でありましたようであります。
以上に柿右衛門様式、あるいは渋右衛門手とされています作品群の代表作について述べましたが、 すでに語ったように、 それらが、 柿右衛門窯を中心に生産されたかどうかは不祥であります。 しかし十八世紀に酒井田窯では乳白手風の柿右衛門様式の鉢や向付を生産していますので、やはり柿右衛門様式といいますものは酒井田家のお家芸でありましたのかもしれない。 しましたがってその伝統をうけて近代に至って、 十二代、十三代によって乳白手の再興が行なわれたのでしょう。