乾山 Kenzan 解説

銹絵染付金銀彩松波文蓋物

乾山

乾山焼の図版編成にあたって、乾山に大きな影響を与えたと考えられる空中斎本阿弥光甫の作陶があり、その作品は仁清・乾山ほど大きな存在ではありませんが、京焼における一つの個性的な作風を示したものとして、茶の世界における声価は高いです。そうしたことから本巻でも乾山焼に先駆するものとして、管見の内にある作品若干を選んで図示しましたので、ここでも乾山焼の概説の前に、空中焼について簡述することにしました。
 空中斎光甫は本阿弥光悦の孫にあたり、慶長六年(1601) に生れ、天和二年(1682) 八十二歳の高齢で歿しました。光悦の歿した寛永十四年(1637) にはすでに三十七歳でしたから、鷹峰に庵住してからの晩年の光悦の生活はつぶさに見聞していました。人格円満で長者の風のあった光悦の影響は大きかったものと思われ、彼が楽茶碗や信楽風の作陶を志したのも光悦を慕ってのことと推測されます。
 また慶長六年から天和二年にいたる長い生涯でしたから、創始期から完成期にいたる京焼の様子もつぶさに知っていた人であり、京焼についての重要な資料を残した鹿苑寺の鳳林承章とも交遊があり、もちろん光琳 乾山の生家であった雁金屋とは姻戚で、光悦の楽焼の陶法を尾形権平 (後の乾山) に伝授したと伝えられていますが、光甫が歿した時、権平は二十歳でした。
 空中斎の作陶も、光悦同様やはり家業体のものではなかったらしいですが、残された作品から推測すると光悦よりもその範囲は広く、楽茶碗だけではなく信楽写の作品も作っているのが特色で、「空中信「楽」という呼称があるほどです。しかし空中信楽は信楽郷の窯で焼かせたものではなく、当時粟田口焼や仁清の御室焼などでも信楽風のものを焼造しているように、おそらく東山山麓の窯で焼かせたものと推測されます。
 作品は香合、水指、茶碗がほとんどで、いずれも侘びた味わいのものばかりです。興味深いのは、桃山の風を倣いつつも瀟洒な好みがうかがわれることで、そこに彼が生きた桃山時代から江戸時代前期にかけての過渡的な時代相が反映しているように思われます。そして彼が示したような作風は、仁清も含めたいわゆる京焼には見られないもので、江戸前期の京焼を概観するとき、一風あるものとして見逃すわけにはいかないものです。また光悦、空中の存在が、後に乾山に作陶への志を芽生えさせた動機となっているように思われ、また乾山が仁清に陶法を学びながら、まったく趣の違った雅陶の世界を開いたのも、光悦を始祖とするいわゆる琳派の血脈がなさしめたものと推察され、そうした意味でも空中斎光甫は、一つの役割を果たした存在であったといえましょう。
 あらためて述べるまでもありませんが、乾山は画家尾形光琳の弟として、寛文三年(1663) 京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の三男として生れました。諱を惟允といい、通称は権平といいました。貞享四年(1687) 父宗謙が残した時に緒方深省 (乾山は姓を光琳とは違えて、緒方と表記しました)

と改め、生涯その名を称しました。父宗謙から鷹峰光悦村の屋敷や月江正印の墨蹟、書籍一式その他の遺産を譲られ、おそらくかねてからの望みであったのであろう、洛西御室雙ヶ岡の麓に住居を建てて習静堂と名づけ、そこに隠棲するようになりますが、その間の消息については、乾山がかねてから参禅していた嵯峨直指庵の独照禅師会下で、同門の月潭道澄が元禄三年(1690) に書いた 『習静堂記』 に述べられています。そして霊海、逃禅などの号をみずから称したのもこの頃からと推定され、そこには若くして禅に共感を抱き隠逸を好む心が反映しています。後に詩画賛を絵付した独特の雅陶を盛んに焼くようになるのも、その詩想は、やはりこの時期に独照性円など黄檗派の人々から学んだものと思われます。また彼独特の書風もその間に習ったのでしょうが、光悦の縁者でもあった父宗謙は光悦様をよく書きましたのに、乾山が定家様を基本にしているのは、平安時代以来の和様のなかで、桃山時代以来特に好まれたのが藤原定家の書であったことが影響しているようであり、また幼少からの二条綱平ら公家との親交も作用したかもしれません。
 .二条家といえば、光琳 乾山ともにかなり愛顧をうけていたようで、『二条家日次記』によると、元禄六年に二条綱平は緒方深省の宅を訪問していますし、また『法蔵寺文書』によると翌七年に、後に乾山が窯を築くにいたる鳴滝泉渓の山屋敷を二条家から拝領しています。
 この頃すでに泉渓開窯の志があったか否かは判然としませんが、しかし御室よりいちだんと幽境といえる泉渓に地を得たことは動機となったかもしれません。作陶の動機といえば、いうまでもなく御室仁清の窯場の傍に隠棲したことがもっとも大きいです。彼が居を構えた元禄二年にはすでに初代仁清は歿して、その子が二代仁清を名乗っていたと推測され、とすれば元禄十二年鳴滝開窯に際して、陶法伝書を授けた「野々村播磨大掾藤良」 は初代仁清の次男清次郎にあたるようで、初代が歿した後の御室焼は、長男清右衛門政信が早死したか何かの理由で、次男の清次郎藤良が播磨大掾の称号を再許されて後を継いでいたと筆者は推考しています。そして初代以来の陶法によって色絵陶器などを焼いていましたが、おそらく深省が親しく窯場を訪れていた頃はそれほど優れたものは焼かれていなかったようで、元禄八年の「前田貞親覚書」 「仁清二代に罷成下手ニ御座候」 と記されていることから、それがうかがわれます。初代仁清は名工としてその名も高かったですが、断片的な資料から推測しますと、彼の息子たちはいずれも凡工のようで、初代の余光によって御室焼を経営していたようです。しかし二代にありがちな人のよさはあったのでしょう。近寄ってきた深省と親しく接し、ついには初代が苦心研鑽したと考えられる陶法を乾山焼開窯に際して伝授してしまい、さらに清右衛門政信の長男であったかと思われる清右衛門を手助けにも出してやっているのです。ともかく御室焼がそうした状態にあった時、深省は隠宅からしばしば通って陶法を習い、ついに元禄十二年にいたって、二条家より拝領の屋敷に窯を築いて作陶生活に入ったのでした。元禄十二年三月から初窯までの消息を文献資料によって観察しますと、元禄十二年三月 御門前緒方深省泉谷築窯井家業許可 焼物之銘乾山と付 (「御室御記』)

七月乾山 薪拝領許可 (「御室御記』)
八月野々村播磨大掾藤良 乾山に陶法伝書を与う( 『陶工必用』)
九月乾山 築窯完成 (「御室御記』)
十一月 乾山初窯 仁和寺宮に緒方深省手形茶碗始め献上を乾山焼と号す (『御室御記』)
元禄十三年三月 乾山 二条家へ自焼御香炉献上(『二条家日次記』)

となり、その作陶には仁清のところから清右衛門と押小路焼の孫兵衛が手伝いとして参加したことが、乾山筆の陶法伝書 『陶工必用』に記されています。さらに窯の名を乾山と号したのは、泉渓の地が京都から乾の方に当ることにより、以後乾山と称したのですが、それはあくまで陶号もしくは窯名としての通称であって、絵画作品や書簡には多くの場合「深省」の署名をし、乾山号はまったく使っていません。
 鳴滝時代の乾山焼がどのようなものであったか、残念ながらその実体を捉えることはいまなお難しいです。窯跡からの出土陶片や伝世品などから推しても、仁清から陶法を伝授されたにしては、仁清流の端正な轆轤成形や、艶麗な上絵陶の延長線上にある陶芸ではなく、当初からかなり異なった作風を示していたように考えられます。しかし初期の作品と考えられるもののなかに金彩と色絵の盃台などがあり、それらに仁清陶の影響の一端が偲ばれます。
 古窯跡からの出土陶片には本焼とともに低火度焼成の軟質陶 (内窯焼) もあり、鳴滝の乾山焼では本焼と内窯焼を併用して作品を生産していたことは明らかです。しかし当時の鳴滝といえば洛中からかなり遠隔の地であり、家内工業的な規模であったにしても、陶を生業とするには流通上不便なところであったに違いなく、『陶工必用』 にさまざまの陶技の研鑽のあったことが記されていることから推して、当時の京焼のなかにあって独特の作風のものを製作してはいましたが、生業としてはさほど大きなものではなかったのではないでしょうか。とはいえ正徳三年(1713) に著された 『和漢三才図会』 中に御室、清水、深草などの焼物とともに乾山の名も記されていることは、巷間それなりに評価されていたことを物語り、また元禄十二年九月の開窯から正徳二年に京都の二条丁子屋町に移転するまでの間乾山焼は独特の作風を確立していたことは確かです。
 乾山のなかでも特に注目されるのは、元禄十五年(1702)の年紀銘をもつ藤原定家の和歌をそれぞれの裏面に書した 「色絵十二ヶ月色紙皿」 に始まる、いわゆる白化粧下地の大小各種の角皿で、それらはすべて低火度の内窯焼成であり、釉下に色絵と銹絵で絵や和歌、詩文をあらわした乾山焼独自の製品でした。そしてその技法によって宝永七年(1710) 頃から正徳年間(1711~16) の作品に、兄光琳が直接絵を描いた光琳 乾山合作の皿が生産され、今日では乾山焼のなかでももっとも重要な作品として声価が高いです。さらに乾山が元文二年(1737) の九月に著した 『陶磁製方』 と題した陶法伝書中に「最初之絵ハ皆々光琳自筆ニ畫申候、爾今絵之風流規模ハ光琳このミ置候通ヲ用、又ハ私新意ヲモ相交、愚子猪人ニ伝」 と乾山自身が述べ.ているように、乾山焼は、光琳による意匠を基調にし、それに乾山独特の意匠も加えて工房生産されたのであり、伝世した作品を概観してもそうであったことがうかがわれます。
 したがって乾山焼のなかで確実に光琳や乾山が手を下したと認められる作品は、光琳自筆の落款が書され、そこに乾山が詩文などを着賛した作品群に限定されてしまいます。他に「銹絵染付金銀彩松波文蓋物」 (126) や 「銹絵染付金彩芒文蓋物」 (図127) のように、光琳の署名はありませんが、あるいは絵付に光琳が筆をとったかと推測されるもの、乾山自画賛と推定されるもの、光琳や乾山のデザインによって工房で絵付されたもの(この場合、乾山自身も絵付に加わっていたか否か判然としない)、光琳以外の画家 (例えば渡辺素信のような人)が絵付したものなどに乾山自身が詩賛や 「乾山」 銘を署名したと推定されるもの、さらに絵付・署名ともに乾山か他の工人か判然としないものなど、それらすべてが乾山焼として、鳴滝から二条丁子屋町時代を通して生産されたのでした。ところが工房生産品であるにもかかわらず、それらのほとんどがいつしか乾山焼としてではなく、乾山作と見做されて伝えられたところに乾山焼鑑識上の大きな問題点が生じたのであり、その作風についていまだに判然としないところ多いのです。
 さらに乾山は享保十六年(1731) 頃に江戸に下向しますが、乾山は鳴滝時代以来の陶技やデザインを養子猪八に譲って下向したため、京都の聖護院に設けられた窯で、猪八が養父乾山と同様の銘をもつ乾山焼を生産したようであり、この多くが伝世の間に猪八乾山としてではなく、初代乾山の作として伝えられたのでした。
 いまも述べたように乾山の陶風は仁清陶とはかなり異なったもので、まず第一には仁清のように優美に轆轤びきされたものはありません。
 多くは型物、または単純な半筒形の茶碗、あるいは手作りのような気分のざんぐりとした器が圧倒的に多いです。それは仁清の窯に通ってその風を踏襲するというよりも、むしろ仁清伝の色絵や銹絵の陶技を生かして、いわゆる琳派の意匠をそこにもろうとする思いが当初から明確にあったようで、三十七歳という年齢から作陶生活に入ったのも、仁清陶も含めた在来の京焼とは違った一風あるものを打ち出そうとする情熱のしからしむるところであったと思われるのです。
 そうした意味で乾山焼をみますと、明らかに純然とした絵画を陶胎の上にあらわす、あるいは絵画的な装飾性をそこに示す、という主張が乾山焼の陶風の基調になっています。そしてそれを具現するのにもっともふさわしい陶技として、白化粧下地を効果的に応用していくことが考案されたのであり、仁清伝あるいは押小路焼の内窯陶法によって、あらゆる種類の陶技を実際に試みた様子が 「陶工必用』を一読すればおのずからうかがわれますが、そのなかに 「乾山一流内かま薬ゑのく焼方ノ事」 として 「一、惣地土ノ訳ハ前ニ相記申候通土八何国ノ土ニても下地造り 上へハ可然存候土ヲ塗り候て焼候へば 如何様共出来申事ニ御座候・・・・・・」 と記しているように、白化粧の法を用いれば、土の性質によって焼成火度の高低、それに応じての陶質の硬軟の相違はありますが、どのような土でも乾山流の陶画を主題にした雅陶が焼き得たことは事実でしょう。
 しかし轆轤びきによる優れた器形は、やはり良質の土を得ることによって成り立つものであり、乾山はその点はかなり無頓着であったようで、事実仁清陶のような軽妙な轆轤さばきを見せた器は一点もありません。絵付を主題にした釉枝には強い関心を示しましたが、成形は型によるか、仕入物の素地、あるいはぎんぐりとした形に切込みをつけて変化をもたらした、いわゆる反り鉢のような作行きのものが多いのが乾山焼の特徴といえます。しかし平凡さを補って余るほどの味わい深く自由なデザインの世界は、私たちを十分に楽しませてくれるのであり、乾山焼が出現した当時でも一部の数奇者は大いに共感を示したことと思われます。さもなければ乾山の窯はそれほど規模の大きなものではありませんでしたから、いま私たちの目に触れるほど多くは残らなかったでしょうし、後に倣作も行なわれなかったでしょう。
 乾山は正徳二年に至って、十二年ほど窯煙をあげつつさまざまの製品をものした鳴滝から洛中の二条丁子屋町に移転しています。移転の理由については判然としていませんが、私は陶器生業の上での不自由さに起因しているのではないかと考えています。従来丁子屋町時代は自営の窯を持たない借り窯生産であったため、揃物などの量産品が主体をなしていたのではなかったかと推定されていたがなお判然としていません。私はむしろ、鳴滝時代に独自の風を確立して、京洛の地に戻って乾山焼を積極的に生産しようと計ったのではなかったかと推考しています。しかしやはり隠逸を好んだ乾山には企業家的な資質は欠けていたのでしょうか、丁子屋町時代は失意のうちに終局を迎えたようで、享保十六年に輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下向し、入谷に住して晩年を過したのでした。
 江戸ではやはり内窯で軟陶を焼造したと推測されていますが、この時代の作品については、まったく詳らかではありません。さらに元文二年(1737) に下野国 (栃木県) 佐野の大川顕道、越名の須藤杜川、松村壺青英亭らの招きに応じて佐野に下り、請われるままに作陶とその指導をしたのでした。佐野からいつ江戸に帰ったかは判然としませんが、元文三年、晩年の乾山の最大の庇護者であった公寛法親王の入寂は彼に大きな痛手を与えたと推測され、親王に贈られた勅賜号崇保院の六字を頭文字に詠みこんだ和歌六首を献じています。そして寛保三年(1743) 六月二日、「放逸無慙八十一年 一口呑却沙界大千 うきこともうれしき折も過ぬれば た あけくれの夢計なる」 という辞世を残して、世を去ったと伝えられています。

前に戻る