黄瀬戸

黄瀬戸

 桃山時代の美濃の窯業地は、現在の目で見てもまことに華々しい多彩な展開をしたものだと思う。そしてその軌跡を考察するとき、技術とか作風とかいうものは、漸進的に向上していくものではなく、なにか外的な刺激が加わると急速に上昇して様相を一変するものであることを知る。天正年間から文禄、慶長年間にかけての美濃の陶業は、まさにそうした時期であったといえ、永禄から天正年間にかけて戦国の世が収束されたのに呼応するかのように、従来の技術を基盤としつつ、詫びの茶の世界の需要と結びついた新しい陶風が、永禄年間頃から次第に活況を呈し、天正年間後期から文禄、慶長にかけて大いに開花したのであった。そうした美濃の代表的な陶芸であった志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部のなかで、黄瀬戸と瀬戸黒は鎌倉、室町時代以来の瀬戸、美濃の陶業の伝統的な技法の上に咲いた新感覚のやきものであった。
 白い釉膚に濃く淡く赤い焦げの生じた志野は、情趣豊かな日本の風土が生んだ独特のやきものであったが、それにもまして、しっとりとした釉膚に軽いタッチの彫文様をつけ、わずかに緑色の胆馨を点じた黄瀬戸には、ほのぼのとした日本的な味わい深さが感じられる。志野は室町時代の後期にあらわれた新技術であったが、黄瀬戸釉は鎌倉時代以来の古瀬戸灰釉の流れを汲む釉で、それが次第に改良されて桃山時代のいわゆる油揚手の黄瀬戸が生まれたわけである。美濃では室町時代以来、古瀬戸の灰釉と同じような透明性の釉のかかった、素直な轆轤びきの中国の青磁を倣った茶碗や、大小の皿などが多く焼かれていたが、その後鬼板を化粧した上に灰釉のかかったものが焼かれるようになり、それらの釉にさらに工夫を加えて、天正末から文禄頃にかけて独特の質感の油揚膚の黄瀬戸が大萱の窯下窯などの窯で完成したと推測されている。
 それら桃山時代独特の黄瀬戸の最盛期は天正年間(1573-92)から慶長(1596-1615)の前期にかけてであったと考えられ、やはり志野や瀬戸黒と同じく穴窯で生産された。桃山の黄瀬戸の先駆をなす作品はやはり天文(1532-55)から永禄年間(1558-70)頃、室町後期にはじまったと考えられ、その頃の作品と推定されるものに、茶人北向道陳(1504-62)の好みという伝承のある茶碗が知られている。轆轤成形され腰のまるい、丸碗と半筒を折衷したような形式の茶碗である。素地の上に美濃地方で産出する鬼板を施しその上に灰釉をかけた黄瀬戸であり、これと同じ釉調の天目茶碗がやはり伝世しているので、一時期このような釉調の黄瀬戸が盛んに焼かれたことが考えられる。
 黄瀬戸の茶陶としては、千利休(1522-91)の所持と伝えられる「黄瀬戸立鼓花入」のような形式のものもある。天正年間末期以後に盛んに焼かれるようになるいわゆる油揚手の黄瀬戸とはちがって、よく溶けたやや失透気味の黄釉が全面にずっぽりとかかり、この種の釉調のものが天正年間にかなり焼かれ、つづいて油揚手が生産されていったように推測される。
 黄瀬戸の茶陶として忘れるこのできないのは「黄瀬戸茶碗銘朝比奈」である。黄瀬戸には茶碗として作られたものはきわめて少ないが、これは珍しく茶碗に生まれた代表的な名作である。轆轤成形したのち、胴に箆を加えてくっきりとした桃山風の半筒形に作っており、おそらく天正年間後期の作と考えられる。見込には茶溜りをつけ、瀬戸黒や志野と似た作行きであるが、釉がかりが薄いため胴に施された箆削りの痕がそのままうかがわれる。焼成火度がやや低かったためか濃く薄くかけられた釉はしっとりとした質感に焼き上がり、一部に焦げが生じ、いわゆる油揚手でもなく、桃山の黄瀬戸としては類例の稀な作である。
 また根津美術館に蔵されている「黄瀬戸宝珠香合」も、小品ではあるが黄瀬戸茶陶の代表作である。まことに優雅な宝珠形をなし、全面にかかった黄釉はいわゆる油揚をみるようなしっとりとした質感で、数ある桃山の茶陶のなかでもとくに味わい深い作品である。この種の黄瀬戸が盛んに焼かれるようになるのは天正年間末期から文禄、慶長の前期にかけてであったと考えられ、かつて加藤唐九郎氏が発掘した古窯跡、大萱の窯下窯ではこの種の作品の優作が焼かれていたことが確認されており、しかも文禄二年(1593)の銘をもつ陶片が出土したことも知られている。
 桃山の黄瀬戸の主体をなすのは以上に述べたような純然とした茶具ではなく、各種の向付や鉢など、当時の高級の食器類であった。もちろん美濃では室町時代後期以来、中国から請来された元、明の青磁や白磁を倣った大小の皿などの食器がかなり量産されていたが、それらを底辺にして桃山風の独特の様式をもつ上質の食器が焼かれたのである。その代表作として「黄瀬戸茶碗銘難波」がある。これはいまは茶碗として用いられているが、本来小鉢または向付として生まれたもので、低い高台をもち形は半筒形式であるが、胴にいわゆる「胴紐」と呼ばれている突帯をめぐらし、その上に線彫りで唐草風の文様を表わし。文様の上に黄瀬戸の胆罪と呼ばれる銅呈色の緑釉がかかり、その釉調はまさに油揚手というにふさわしい、しっとりとしたやわらかい質感のものになっている。古瀬戸にはじまった瀬戸・美濃の黄釉は、桃山にいたってこのように洗練された味わいのあるものになったのであった。
 黄瀬戸の食器としては「黄瀬戸菖蒲文釉花鉢」は大作として名高いものである。「菖蒲手黄瀬戸」という言葉があるが、それはこの作品によっていると伝えられている。鐔状の口造りの縁を釉花形にしたいわゆる鉦鉢形式の鉢であるが、このような器形は中国明代の漆器ややきものの面盆を倣ったものである。しかしそこにみる作品は質的にはまったく和様化されたもので、中国的な趣は感じられない。見込には力感のある線彫りで菖蒲の絵を描き、葉の部分には濃く胆礬が施され、装飾効果も抜群である。
 また「黄瀬戸菊紐蓋付向付」も、伝世する黄瀬戸の食器のなかではとくに優れたものである。黄瀬戸の食器は全体にかなり薄く成形されており、この「菊紐蓋付向付」も薄作であるがざんぐりとした形は桃山ならではのものである。しかもその蓋の裏側に線彫りで施された菊の折枝文や丁子の文様の表現にはまことに茶味の深いものがあり、桃山の工人たちが、志野や織部とはちがった美しさを黄瀬戸に求めていたことがうかがわれる。
 この種のしっとりとした質感のいわゆる油揚手。あるいは菖蒲手と称されている黄瀬戸は、半地上式の大窯でのみ良質のものが焼成されたがその期間は短いものであった。そして慶長年間に入って美濃の窯の多くが連房式の登窯に変わると良質のものは焼かれなくなり、登窯に適した。のちに「御深井焼」あるいは「絵瀬戸」と呼ばれる黄釉のものに変化していったのであった。

伯庵茶碗

黄瀬戸

 黄瀬戸系の作品で特異なものにいわゆる伯庵茶碗がある。伯庵茶碗は、かつて幕府の医官曾谷白庵が所持していたことからその名が起こったといわれる。瀬戸系のどこで焼かれたかはまだ判然としないが、土味、釉調などから推測して、慶長年間から元和、寛永頃に焼かれたものと思われる。伯庵手の特色は一般に見る瀬戸系の作風と異なり、唐津系の蹴轆轤によって成形されたものと似た作振りであることで、姿も奥高麗や高麗茶碗と似ている。したがって近年、一部の人々は瀬戸や美濃系のものではなく、唐津または朝鮮半島の産と見ている。慶長年間にいたると唐津風の登窯が久尻の元屋敷に築かれ、また唐津では志野を倣ったと思われる文様のものが数多く焼かれている。したがって美濃と唐津の交流は地誌の伝えるところよりも深いものであったことが推測され、一時期に唐津風の作行きの特殊なものが美濃で焼かれたとしても不思議ではない。また私はかつて京瀬戸系の作ではないかと推測したこともあるが、それは京瀬戸の陶工に伯庵と呼ばれていた者がいることによる仮説である。瀬戸、美濃系の窯で焼かれたことを物語るものに、伯庵茶碗の箱の蓋表に小堀遠州が「瀬戸伯庵」と記しているものがあり、伯庵茶碗が製作された時代とあまり遠くない時期に遠州が書付したものであるだけに、信憑性は高いのではないだろうか。
 伯庵茶碗の特色は、一見素直な椀形に轆轤びきされているが、全体の作風はかなり作為的なものである。意識的に胴に一文字の割れをつけ、そこから海鼠釉がなだれるようにかけられているのも、自然のもではなくー連共通の作為である。高台はいずれも片薄高台に削り出され、高台まわりを残して黄釉が厚くかかり、その釉膚はよく溶けて、ぐい呑手の黄瀬戸に近い状態に焼き上がっている。今日伝世しているもの十数碗あるが、他に同様の作振りで一文字の割れや海鼠釉のかかっていない無地の茶碗を数碗見ている。しかし多くは共通の約束をもっているので、やはりある時期に特別の注文に応じた作品であったのではないだろうか。