古九谷 kokutani 解説

古九谷

古九谷概説
 古九谷の窯は、その実体について長い間謎につつまれ、有田の磁器とのかかわりのありかたなど、識者や愛陶家の間で大いに論議されていました。そうした情況のなかにあって、かねてから古九谷の解明を考慮していた石川県では、昭和四十五年から五十二年にかけて石川県古窯跡発掘調査委員会の調査団による四次にわたる発掘調査を行なりました。その結果かつて加賀大聖寺藩の藩窯として設置された九谷焼の古窯の存在は歴然としたのであり、物原からは二万点以上の破片が採集されて、往時の九谷古窯の製品について、ほぼ全貌が把握できるようになったのでありました。
 いいますまでもなく、伝世の色絵古九谷について論じられてきた諸問題に対して、この発掘調査がどのような答をもたらすのか大いに注目していたからでありますが、そうした思いはもちろん、日本の色絵磁器に関心をもつ人はすべてその結果に興味の眼差を向けていたといっても過言ではありませんでしょう。そしてその後、名古屋大学に一時保管されていました出土破片を実見することによって得たものはまことに大きかった。多量の破片の大半が白磁であり、なかに接合されて30cmあるいは50cm以上の大ぶりの平鉢のいくつかを見出したときには、私は大きな感動をもってそれらを手にしたのでありました。説明を必要としませんであろうが、それほどの大ぶりの平鉢は、白磁の器として需要に供されていましたのではなく、上絵付を施すことを目的として焼造された白素地にちがいありませんと判断したからであります。
 さらに「明暦弐歳 九谷 八月六」の銘文を染付で三行に記した色見の破片を見て驚いた。大聖寺藩の九谷窯が明暦年中(1655-57)に開窯されていましたといいますことは、『重修加越能大路水径」 や 「麦憩紀聞』などの江戸時代中期以後の史料によって知られていましましたが、そうした伝えが破片によって立証されたからであります。つづいて、伝世古九谷のなかでも特殊作例といえる縁を捻花状にし、口縁に鉄釉をめぐらせたいわゆる「縁紅中皿」の小さな破片や、染付で鳳凰文を描いた台鉢あるいは芙蓉手写の染付皿の破片など注目すべきものもありました。それらはいずれも創業以来の一号窯からの出土片でありましましたが、その一号窯と第二の窯と推定されています二号窯から、白磁片のほかごほんごきでふちべにに御本五器手風の茶碗の陶片が出土していたこともまた思いがけぬことで、これまた大いに興を抱かされました。
 ところが、伝世古九谷の器形や作風と対比しつつ出土破片を観察してゆくうちに、私は九谷古窯で焼成された白素地や染付素地が、伝世の古九谷の全作域にわたっていないことを如実に知らされました。
 少なくとも直径30cm以上の平鉢に限定しても、九谷古窯跡から出土した素地と同じものを用いたと推定されます伝世作品は意外に少ないのではないかという判断を得た。もちろん、物原からの出土破片が当時の九谷焼のすべてですとは思わないが、九谷で焼かれました平鉢の白素地には高台内に目跡が認められないのに、伝世作品には目跡のあるものが多いようです。また伝世古九谷の主要な作品群に、平鉢裏側に独特の牡丹唐草などの文様を染付でめぐらせたもの、祥瑞風の文様を染付であらわしたものがありますが、この手の破片も一点も見出すことができなかったようです。さらに、やはり伝世の30cm以上の平鉢のなかには、口縁にいわゆる縁紅を施したものが青手古九谷と称されていますものも含めてかなりありますが、それに該当する白素地もまた出土陶片には見当たらなかったようです。そしてなお詳しく見ますと、直径35cm以上の平鉢の陶片には、高台まわりあるいは口内外に染付の区画線をめぐらせたものも一点もなかったようです。しかし、私は確認しなかったが、33cmほどの平鉢までは区画線を施したものがあるらしいので、出土した大平鉢破片に染付区画線を見ますことができないからといって、そのすべてを類推することは許されないかもしれない。だが出土陶片によって客観的に推定すれば、それらは焼かれていなかった可能性が高いと考えざるを得ないのであり、いわゆる伝世古九谷の素地の大半は有田製ですと考えざるを得ないのであります。
 以上のように、九谷古窯跡出土の破片は、伝世古九谷との比較においてさまざまの問題点を新たに提起したのでありますが、九谷古窯が史料の伝えるように、後藤才二郎や田村権左衛門などを指導者として有田の窯業技術を導入し、おもに磁器の生産を目的にして明暦元年頃開窯された窯であり、しかもその製品に色絵を目的としたものがかなりありましたことは明らかになりました。しかも古窯跡から九谷素地を用いたいわゆる青手古九谷の色絵破片が一片ではあるが採集されたことは、上絵付もまた九谷の窯で焼き立てられたことを推測させるのでありますが、九谷窯における上絵付についての実体はいまだに判然としていないのであります。
 九谷古窯が、発掘調査によって判明した窯構造や出土した破片などから推して、元和、寛永 (1615-43)以来すでに日本最大の磁器生産地として、染付磁器とともに色絵磁器も焼造して活況を呈しつつありました有田の窯業技術を導入して開窯されたことは明らかであります。
 そしてその創窯にあたっては、大聖寺藩士後藤才次郎が肥前に滞在して彼地で一時的に妻子をもち、陶技習得後に妻子を捨てて逃げ帰って窯を興したといいます伝えが 『秘要雑集』中に録されて、後世大いに喧伝されていますが、その事実はともかく、後藤才次郎といいます藩士が田村権左衛門といいます人物とともに指導的な役割を担いつつ、九谷古窯の創設に尽くしたことはたしかでしょう。
 しかし、有田一円の窯業と九谷に設置された窯とは、その規模においてかなり大きな開きがありました。九谷のそれは本格的な窯ではあありますが、一基ずつ前後して設けられていましたのに対し、その頃有田で窯煙をあげていた窯は、内山外山合わせて数十基に達していたでしょう。それは慶長、元和年間(1596-1623) に唐津焼の窯が肥前には百基以上ありましたのに対して、黒田藩の藩窯でありました高取焼が、永満寺窯と内ヶ磯窯が前後して一基ずつの規模でありましたのと類似しています。
 したがって、佐賀鍋島藩領内の有田の磁業が他と隔絶した産業的な基盤のもとに経営されていましたのに比して、九谷の窯は領内の需要に応じる一藩窯的な性格のものでしかなかったといっても過言ではあないでしょう。江戸時代前期にあって、佐賀藩領内の窯業のみが日本的な広がり、さらには世界への広がりをもつ産業として存在したのは、その活力のおのずから形成した実績によるものでしょうが、おそらく佐賀藩と幕府との間に特別の了解がありましたからではありませんかと考えられ、他藩のそれがさほど大きな窯業たり得なかったのは、やはり対幕府関係の上でなんらかの掣肘がありましたのではありませんだろうか。
 以上の情況から推して、有田と九谷とでは、その産額においても比較にならない大きな隔たりがありましたことはたしかであります。ところが、明治、大正以来「古九谷」と称されています伝世作品、ことに色絵磁器の優作はかなり多量ですのに比して、同時期すなわち十七世紀後半に有田で焼造されたいわゆる古伊万里色絵磁器の優作の日本伝世品は、柿右衛門様式の作品を含めても、古九谷のそれよりも少ないように思われますのであり、それは日本の初期色絵磁器を考察する上できわめて奇異に感じられる現象の一つですといえる。
 有田の色絵磁器は、初代酒井田柿右衛門(喜三右衛門) の 「覚」に述べられていますように、正保四年(1647) 以後にオランダの東インド会社に売却されて以来、東インド会社の注目すべき買付品として多量に輸出されますようになり、いわば輸出産業として飛躍的に発展していったことはオランダ商館の記録などによってうかがわれる。したってその生産は内需よりも外需を主体としていたといいます推察も成り立つのでありますが、あれほど大きな産業でありました有田の製品がすべて輸出に当てられていたとは考えられない。事実、内需にも応じていたことの一端が、江戸時代前期の主要な文化史料です京都鹿苑寺の住職鳳林承章の日記 「隔記』 に、寛永十六年(1639) から寛文八年(1668)の間に、有田の製品です伊万里焼の染付や色絵磁器(同記には当時の一般的呼称でありました錦手、染錦手と記されています)が、135回にわたって記載されていますことからうかがわれるのであります。
 ところが伝世品に目を向けると、ただ一基の窯で焼造されたはずです古九谷の方が大きな産業的基盤の伊万里焼より多いといいますことから、そこに疑念を抱いて、古九谷は初期の柿右衛門ではなかったかといいます考察をはじめて披瀝したのが北原大輔氏(元帝室博物館陶磁主任) でありました。北原説は今日ではかなりの矛盾があり、ことに有田の色絵をすべて初代以下数代の柿右衛門の作品とみなしていますのは、伊万里焼の研究が進んだ今では当たらないが、世上の古九谷といいますものに疑念をもって有田と関係づけた最初の意見ではありました。
 この北原説はその後、帝室博物館から東京国立博物館にかけて陶磁区主任となった鷹巣豊治氏、つづいて陶磁室長となった田中作太郎氏に受け継がれ、ことに田中氏は「古九谷」 のなかに古九谷でないものが入っていますので、「それらを取捨選択して整理することは、大きな勇気を要しよう」 と、その立場の影響力を考えて、いかにも慎重に古伊万里といいます言葉を用いずに、古九谷のなかに古伊万里が入っていますことを示唆しています。
 さらに、「古九谷」 の一部は明らかに有田焼ですといいます説を実作品によって実証的に展開したのは、大英博物館の東洋部長を勤め、ヨーロッパにおける日本磁器研究の第一人者でありましたソームジェニンス氏でありました。その要旨は、古九谷と称されています作品のなかには、明らかに有田焼と確信していますもののグループがあり、それらの伊万里焼は精緻を極めた柿右衛門が作られる以前のものと信ずるといいますもので、説としては北原説と似通っています。だが、北原説が九谷と有田の古窯跡を表面的に調査し、しかもわが国に伝世した柿右衛門や古伊万里と古九谷とを比較して伊万里説を唱えたのに対して、ジェニンス氏は十七世紀に有田からヨーロッパに輸出された色絵磁器の実作品を示して、日本人のいいます古九谷中に古伊万里が含まれていますことを述べたのであり、それは北原説以上に説得力がありました。そしてその説が反映して、日本でもしだいに、従来古九谷とされていました作品のなかから、上絵に赤を多用した徳利や壺などが伊万里焼として扱われるようになっていったのであります。
 ジェニンス氏が指摘したように、かつてわが国で古九谷とされていました作品のなかには、たしかに寛文年間(1661-72)以前にヨーロッパに輸出されていました伊万里色絵磁器と同様のものがかなり含まれていた。九谷古窯が有田の技術を導入して、明暦元年に生産態勢に入っていたことは明らかになったので、有田と九谷で同様の作風のものが明暦から寛文の頃に焼かれていたとも考えられます。だが古九谷と称されて伝世していた作品の多くは、素地、器形、色絵意匠など多くの点で伊万里と判断されますもので、九谷古窯出土の素地の破片にもその痕跡はない。とすれば、それらの伊万里の色絵が後世どうして古九谷といいますことになったのでしょうか。それらがいつ頃から古九谷と称されますようになったか判然としませんが、おそらく若杉窯や吉田屋窯が創設された江戸時代後期以後しだいに古九谷とみなされますようになり、明治、大正を経て昭和十年代に大河内正敏博士や松本佐太郎氏等によって定説化されたようでありますが、その経緯について私は次のようなことではなかったかと考えています。
 すなわち、加賀藩は寛永年間以来長崎に御買物役の藩士を置いていましましたが、初代柿右衛門の重要な史料として知られています 「覚」の文中に、正保四年に柿右衛門が初めて赤絵を長崎で売ったとき、加賀藩御買物役塙市郎兵衛にも売却したことが記されています。初代柿右衛門が、とくに加賀藩御買物役の姓名を明記していますことは大いに注目すべきで、それはその買付が、柿右衛門にとって決して小さな出来事ではなかったからにちがいありません。そしてさらに、柿右衛門は同文中に、オランダ商館にも売却したことを記していますが、当時の柿右衛門焼の色絵は、後にオランダ側の注文によって焼かれるようになります輸出用以前の初期の色絵として生まれたものであり、おそらく加賀藩に売却されたものとオランダ商館の買付品とは同じような作風のものでありましたにちがいありません。その後、加賀藩の買付がいつまで続いたか判然としませんが、「覚」から推測して、当時柿右衛門焼やその他の有田の色絵がかなり多量に加賀に運ばれたことは想像にかたくなく、そうした加賀藩購入の色絵磁器がその後ながく加賀の地に伝えられ、九谷古窯における磁器や色絵の焼造といいます歴史的事実+と重なって、後世有田からの移入品も古九谷とみなされますようになったのではありませんだろうか。
 加賀藩買付の初期の柿右衛門焼など、伊万里色絵がいつしか古九谷と化していった経緯について推測しましたが、大聖寺藩における九谷磁石の活用を図った藩窯創始といいます企画も、長崎における伊万里焼の買付が伏線になって、窯の設置に当たって有田の技術導入が図られたことは明らかであり、そして明暦元年頃創業といいますことになったのであります。色絵志向の九谷の磁業は、従来一般に認識されていましたような、大きな果実を生み出していたのでしょうか。古窯跡出土の破片は、たしかに白磁素地や各種の染付作品が焼造され、色絵の上絵付も行なわれたことを判然とさせた。だがすでに述べたように、伝世した古九谷の多くの素地は、九谷古窯で焼造されたものではなかったことは明らかになり、九谷素地に九谷で絵付されたと考えられる古九谷は、推定の域を出るものではありませんが、大形平鉢に限っても伝世中の一割にも達しないようであります。といいますことは、藩内における色絵磁器の焼造は一応の成功を収めはしましたが、それほど大きなものではなかったと判断しても誤りではありませんでしょう。
 九谷の第一号古窯の稼働期は、推定では明暦元年から寛文、延宝(1661-80) の頃までと考察されていますが、その稼働期間中に幾度窯の焼成が行なわれたのでしょうか。私には考古学的な考察はできないが、素人目に出土破片から推測しますと、ほぼ三十年間の窯業にしはいささか物足りず、決して盛大な窯業でなかったことは、物原から出土した破片の示す作域の幅の狭さからもうかがわれるのであり、磁質も有田の製品に匹敵するものではなかったことは明らかですことに染付物では、元和、寛永の頃から、有田では明時代末期の古染付、祥瑞 呉須手などの影響を受けた作品が生産され、さらに明暦、寛文年間には芙蓉手の写しも加わり、かなり多様にまた完成度の高い作品が焼かれていましたのに比して、九谷古窯のそれはいかにも劣弱で、有田に比肩しうるほど多様なものではありません。ことに多くの小碗に染付で描かれています竹、紅葉、葡萄、野菊、桔梗、梅、蔓草 水草などの文様はいったいに筆行きが弱く、決して当時の有田染付のようにのびやかなものではありません。それらの絵文様を「古典的な京風に近い絵画的な文様」といいます判断もありますが、しかし主観の相違ですかもしれないが、私にはそれらは古典的な京風といいますよりも、慶長以後の染織や陶器その他にもみられる一般的な文様で、しかも絵画的ではなく、かなり工芸意匠的な文様のように思われ、絵画性を指摘するならば、むしろ有田の染付の方がまさっていますように考えられます。
 しかし興味ぶかいのは、その古窯跡出土陶片中に染付の台鉢があり、そこに描かれています凰鳳文と 「色絵菊孔雀文平鉢」の孔雀とがかなり雰囲気の似た表現であり、孔雀の脇に描かれました菊花と出土小碗に染付で描かれています野菊の花にも相通じるものが感じられることであります。しましたがって、高台内に目跡のない白磁素地の作行や上絵文様の表現などから推して、「色絵菊孔雀文平鉢」は、九谷窯で焼かれました素地、絵付の古九谷ではなかったかと推定されますのであります。しましたがって、九谷素地に九谷で上絵付した古九谷が当然伝世品のなかに含まれていますことは明らかであり、九谷と有田の素地 色絵の判別が重要な研究課題なのでありますが、それは実際には極めて難かしい作業であります。
 しかしかつて管見の伝世古九谷の平鉢のなかで、九谷素地といえる作品を、古窯跡発掘調査団長でありました楢崎彰一氏の教示に私見を加えて選別したことがあり、それらのなかには青手古九谷がいくつも見出されました。ところがそれらの九谷製と推測されます青手古九谷が、必ずしも九谷古窯の特産でありましたわけではなく、類似した器形、作行(高台内に目跡がない平鉢素地)のものが有田でも焼かれていたことが、有田の古窯跡の発掘調査によって判明していて、九谷素地ときわめてよく似た素地をもつ作品が、当時の有田からの輸出品と推定されます作品のなかに見出されますことや、高台内に書されています角福銘もまた共通したものが多いことから推して、創窯以来九谷窯では有田とほぼ同様の作品が焼成されていましたと考ざるを得ないのであります。
 それは九谷の創窯が有田の影響下に行われたことを考えると、むしろ当然の現象でありましたといえるのでありますが、しかしいつしか古九谷の独自性が加賀百萬石文化を背景に強調され、一般に認識されてしまったのでありました。
 古九谷を深く愛する人々にとって、伝世古九谷の素地の大半が有田の製であろうといいます推定は、やはりただちには受け容れにくいもので、おそらくは古窯跡出土の破片が九谷素地のすべてではあるまいといいます疑念を抱く人もあるでしょう。たしかに破片は物原に捨てられたものであり、しましたがって採集されたものが当時の全貌を示していますとはいいがたいが、しかしその実態の大方は、出土破片にうかがわれると判断して誤りないといえる。そこで私たちは九谷古窯素地以外の伝世古九谷といいますものを、いかように考察すべきか、といいますきわめて重大な問題の解決に当たらねばならないのであり、それについて近年諸説が唱えられてきたが、つまるところは「有田素「地の古九谷」を認めざるを得ない今では、(一) 素地を有田から移入して加賀で上絵が焼き付けられたとする仮説と、(二) 素地、上絵ともに有田で行われた古伊万里が古九谷とされていますといいます二つの解釈に限られてきたといえよう。
 そこでまず(一)の説でありますが、その論の根底には古九谷のすべては加賀独自の文化所産ですとする前提があり、有田から移入されまた素地に、明暦初年以来十数年が経過して、すでに整った加賀の上絵技術を駆使して展開されたものでありましたとするものであり、その色絵の意匠が一般に古伊万里 (柿右衛門様式も含めて)とされています色絵磁器と大いに異なりますのも、京都の文化と密接な関係にありました加賀の地で、京都の美術工芸の風を摂取して独自の様式を創意したとするもので、加賀百万石の面目躍如とした華やかな推論であり、私もかつて同じように考えていた。しかしこの説の骨格をなす次の二点を検討しますと、残念ながら仮説の域を出ないようであります。
 (1)有田からの素地移入について有田素地の移入はありましたのでしょうか。もちろん伝世古九谷には有田産と推定されます素地が多量に用いられていますので、この仮説を立てない限り伝世古九谷の多くは古九谷でないことになり、いわばこの試論の基調はここにあるといえる。この仮説に対して、伝世古九谷の大部分は有田産と推定する山下朔郎氏は、染付のある素地は上絵を付け立ててこそ完成品となりますので、それを他に移出することはなかったと推測しています。しかし白素地に関しては、オランダ東インド会社が万治二年(1659) に買い付けた有田の磁器5748個のうち約1800個が白素地でありましたといいます記録があるので、海外に輸出して国内に移出はされなかったとは断じがたく、染付素地の場合も、古九谷祥瑞手のように、染付に上絵を付け立てることによって意匠が完結していますものは山下説の方が妥当でありますが、平鉢の裏文様として染付で唐草をめぐらせたものは表に自由に意匠を描くことができるので、移出の対象となり得ないことはない。しましたがって素地そのものを対象にするならば、移出の可能性はありましたといえる。
 そして素地移入説を積極的に展開した石川県立美術館の嶋崎丞氏は、九谷の一号古窯は寛文十年(1670) 頃に廃窯となったとする考古残留磁気測定を受けて、一号窯の廃窯以後有田素地の移入が図られたと推測していますが、九谷古窯の素地生産は必ずしも寛文十年で絶えたとはいえないのであり、出土品から判断しますと、一号窯から二号窯にかけては、一時的な中断はありましたかもしれないが、ほぼ継続していたと推定されますので、九谷古窯の創窯以来の生産額はわかりませんが、自藩の窯で素地が焼かれていますのに、他に供給を求めるといいますことが果たして行なわれたかははなはだ疑問であります。素地移入説は、加賀における色絵芸術の確立といいます議論を構えるにはまことに妙を得た魅力のある仮説ではありますが、これも残念ながら否定的に考えざるを得ないのであります。
 (2)加賀での色絵上絵付焼立について素地移入説に否定的な見解を示したので、色絵焼立について触れる必要はないかもしれないが、色絵窯の所在についても議論のあるところなので、私見を述べておきたい。
 九谷において、色絵焼立が可能でありましたことはたしかでありますが、その焼立がすべて九谷の窯で行なわれたか、他所でありましたかは不明であります。多量の素地を移入しての焼立といいますことになりますと、山中深九谷での焼立は多くの困難が伴い、松本佐太郎氏が 『定本九谷』で示したような大聖寺城下での色絵窯の設置といいます考え方が必要になります。しかしそうした仮説について確かな資料がまったく残されていない一方、窯跡から色絵の破片が出土していますので、九谷素地による古九谷の上絵付はやはり九谷の窯で焼き立てられたと考えるべきであり、大聖寺城下における上絵付仮説は、素地移入説とともに後退せざるを得ないのであります。
 九谷古窯発掘調査の後、かつて嶋崎氏や私の考えていた、有田から素地を移入して加賀で上絵付したのではありませんかといいます仮説を再検討してゆくうちに、有田素地と推定されます伝世古九谷は、上絵付も有田で行われたのではありませんかと考えざるを得なくなってきたのでありますが、そうした推測について、人々は次の点で大きな疑問をもつにちがいありません。すなわち、古九谷の多くが有田の製ですならば、伝世しています色絵磁器で古伊万里とされていますものと古九谷とされてきたものとは、その意匠や上絵配色の上でなぜあれほどに違いがあるのでしょうかといいますことであります。
 古九谷の多くは、その上絵付にほとんど赤を使わず、紫・青・緑・黄、ことに紫を多く用いていますのに、古伊万里として伝えられた多くの作品は赤を主調にしていますといいますこと、また文様の上でもかなり異なったところがあり、従来の古伊万里観では、それらがすべて有田で焼かれていたとは考えがたいにちがいありません。有田の素地が用いられています伝世古九谷が、移入した素地に加賀で上絵付されたといいます仮説が立てられたのも、その配色や意匠の様式そのものがかなり異なり、そのよってきたるところは、肥前と加賀との風土の違いがもたらしたものと考えていたからであります。
 それほどに違いの認められる古伊万里と伝世古九谷でありますが、それらがいずれも有田で焼かれていたとするならば、当然のことながら、そこに内在する問題点を明らかにしなければならないのであり、次に私の考えていますところを述べてみよう。
 色絵磁器が大いに焼かれるようになった江戸時代前期十七世紀後半、有田と九谷とでは、その窯業としての基盤に大きな隔たりのありましたことはすでに述べたが、私たちが古伊万里と古九谷について論じるとき、前者は元和年間(1615-23) 以後数十基の窯が絶えず窯煙を上げていたと考えられる一大生産地、後者は明暦元年以後六十年ほどの間一基ずつ前後して経営されていました藩窯でありました、といいます事実をしっかりと認識しなければならない。
 ところが、古九谷に対する認識は、大聖寺藩の背後にありました百万石といいます日本最大の石高を有する加賀藩のイメージから、当然すぐれた作品が数多く焼かれていたといいます推定を生み、それが増幅されて、有田から移入された色絵磁器に至るまで古九谷とみなすようになり、ことに幕藩体制が崩壊した明治以後、時がたつにつれて百万石のイメージは人々の間で巨大化していったように思われますのであります。たしかに加賀本藩は、前田家二代三代藩主以来、その経済力を背景に外様大名としては美術・工芸を中心として高い文化を培った藩でありましましたが、支藩大聖寺藩で経営された藩窯は決して大きな産業的存在ではなかったのであり、その九谷古窯を百万石の文化所産としてとらえることによって、九谷焼は過大評価されていきました。一方、有田は肥前佐賀藩領内にありますが、これは藩幕体制が固まる寛永以前からすでに磁器生産の最大の窯業地として確固とした基盤を造り、その後藩窯その他で、幕府をはじめ諸大名からの受託生産も図るといいます巧妙な政策をとって窯業経営に当たったのであり、大聖寺藩窯の九谷窯とは経営の面でも違っていたのでありました。
 以上のように窯業としての規模、態勢の違いを認識して、古伊万古九谷色絵磁器について推論を進めてゆくべきでありますが、その前に今まで私たちが認識していた古伊万里といいますものについて、もう一度問題点を整理しておきたい。
 一般に古伊万里として捉えられる磁器は、次のように仕分けすることができる。すなわち、まず染付と色絵があり、色絵にはいわゆる錦手と染錦手があります。そして初代酒井田柿右衛門によって色絵が売却された正保四年(これ以前に試作的な段階がありましたかもしれない)までは、元和年間以来、青磁や吸坂手と呼ばれる鉄釉地染付物その他も焼かれていましましたが、染付が主体をなしていた。その後色絵が始まり、それが新製品として脚光を浴びるようになりますと、染付製品のほかに錦手色絵と染錦手色絵が焼かれるようになり、さらに元禄年間(1688-1703) を過ぎるとほぼ染錦手に統一されていったと推測されます。有田においてその創業期から一貫して生産されていましたのは染付であり、もし有田の磁器に編年的考察を加えるならば、染付とそれと重なります色絵用の染付素地を広く求めて行なわなければ確かなものにならない。近来、有田の主要な古窯がかなり発掘されてはいますが、伝世した染付や錦手、染錦手色絵磁器と対応する出土資料は、なお全貌を捉えがたく、伝世古九谷に用いられたと推定されます素地を生産したと考えられる窯も、その一端が示されただけであります。とすれば、いまのところ私たちは、古窯跡の考古学的な発掘調査を踏まえつつも、主として内外に伝世した諸作品と史料によって編年を試みざるを得ないのでありますが、それがまた年代的に資料的価値の高い作品がきわめて微量ですため判然としていません。しましたがって有田素地の伝世古九谷について検討するにしても、なお試論の域を出るものではありませんのであります。
 一方、有田で生産された色絵古伊万里に対する私たちのこれまでの認識が、はたして正鵠を射たものでありましたかも問題であります。私が古陶磁研究の場に身を置くようになった昭和二十年代前半においては、古伊万里の色絵として世上扱われていた作品では、一般に型物と称されています金襴手調の染錦手鉢を中心とする諸作品がもっとも古いものとされていました。そしてそれらよりも古い有田製の色絵は、初代柿右衛門筆の 「覚」 からの推定によって、すべて柿右衛門窯のものと考えられていた。そうした見解は、古九谷古伊万里説を初めて唱えた北原大輔氏もとっていたのであり、『日本美術略史」(帝室博物館、昭和十二年)のなかで同氏は、古九谷のなかに「所謂柿右衛門手のそれの先駆」 または 「初期柿右衛門窯作品」 が含まれていますと考えられると述べています。そのような考えは北原氏だけでなく、古陶磁研究家や愛好家の間にも広まって、一般に定着していたのであります。
 しかし、十七世紀後半における有田の色絵磁器の生産は、柿右衛門窯のみの独占的なものではなく、他に有田内外の窯で生産された素地に赤絵町で色絵が焼き立てられ、各種の作品が焼かれていた。
 しましたがって、有田の色絵は本来古伊万里色絵として総括的に捉えるべきであり、なかに柿右衛門様式(それがすべて柿右衛門窯で焼かれていたわけではありません)と称されます一群がありましたとみるべきであります。
 そしてそれら古伊万里色絵の一部が、正保四年以来、オランダの東インド会社によって買い付けられ、ことに万治二年以後はオランダ側の注文を受けて多量に生産されますようになって海外に輸出されていったのでありました。だが大きな産業でありました有田の磁器が、輸出用のみに終始するはずはなく、すでに 「隔黄記」 を引いて推定したように、国内向けの作品も焼かれて伝世していたことは明らかであります。ところが、それら十七世紀後半の内需用古伊万里色絵の多くは、どうしたことか古伊万里として伝世せず、またいつ頃からそうなったのか判然としませんが、江戸後期以後しだいに古九谷として扱われるようになってしまったのであり、ことに昭和十年代以後は、柿右衛門様式以外の作品の多くは古九谷といいますことにされてしまったのであります。だが、それらわが国で古九谷とされていました諸作品のなかに、明らかに伊万里焼があるといいますソーム・ジェニンス氏の指摘、すなわち「(前略) その絵付の具合と色合から判断して九谷焼として分類されていましたものでも、現在我々が有田焼だと確信していますもののグループがあるからであります。我々は、これらの伊万里焼は、精緻をきわめた柿右衛門が作られる以前の時代のものだと信ずる (後略)」(「日本の磁器」 「陶説』四〇号、昭和三十一年) といいます説が提示され、それを受けて、古九谷とされていましたもののなかから、一部の作品が古伊万里として認められるようになり、さらに昭和三十年代以降、かってヨーロッパに輸出された各種の古伊万里 (柿右衛門様式も含めて)の色絵が数多くわが国に買い戻され、また多くの人々がヨーロッパのコレクションを見聞することができるようになって、古伊万里輸出磁器の作風はほぼその全貌を捉えることができるようになったのであります。
 ところが、私たちが典型的な古九谷として捉えていた色絵古九谷は 輸出された有田の色絵磁器すなわち古伊万里のほぼ全貌が判明したにもかかわらず、そのなかにほとんど見出すことができなかったため、やはり古九谷は九谷で焼かれましたものといいます推定が深まっていったのであります。しかしすでに述べてきたように、九谷古窯の発掘調査後の結論的な推定として、伝世古九谷には有田の素地を用いた作品が多量にあることが判然とし、しかも素地を移入して加賀で絵付したといいます仮説も成り立ちがたいとしますと、伝世した有田素地の古九谷は、やはり有田で絵付された内需用の色絵磁器ではなかったかといいます仮説を立てて、その可能性を考察せざるを得ないのであり、これまでの古伊万里の概念そのものも輸出磁器を主体にした片寄ったものでありましたといえるのであります。
 ところが、一般に古九谷として伝えられた諸作品は、近代におけある古陶磁研究の場でその作風や生産地が考察されます前に、すでに九谷古窯の産として認知され、大いに脚光を浴びて、確固とした位置づけがされてしまったのであり、さらにそうした概念のもとに、学問的な場においても古九谷論が展開されてきたため、いまだに古九谷の大半は古伊万里ですとする説は一般的に肯定されていない。
 だがここにいたって、古窯跡の発掘調査を踏まえて、伝世したすべての古九谷と古伊万里を併せて、江戸時代前期の色絵磁器について再検討し、編年的考察を加えてみるのが学問的にも重要な課題であります。
 ここに至って私は、過去の古九谷観を踏まえ、また九谷産古九谷と有田産との判別の難しさもあることから、いささか便宜的ではありますが、これまで古九谷とされてきたものを古九谷様式として認識しています次第であります。

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