京焼 Kyouyaki 解説

色絵牡丹文花入

 江戸時代にはいりますと、京都は日本でも有数の窯業地として盛大に窯煙をあげるようになりますが、室町時代末期までは名あるやきものはほとんど焼かれていませんでした。しかしまったくかかわりのなかった土地柄というのではなく、古く平安時代に素焼や緑釉の瓦を焼いた瓦窯が散在していました。その流れは近世までつづいて幡枝や深草に土器を焼く窯があり、「かわらけ」を量産して一般の需要に応じていたことに幡枝の土器は江戸時代にいたっても名が高かったらしく、寛永十六年刊の『毛吹草』 に列記された 「諸国より出る古今の名物」のなかに、山城国 (京都府) の名産として、「粟田口 キセル土物、黒谷 茶入合土」 とともに、「畑(幡) 枝土器(かわらけ)」があげられています。しかし純然とした施釉陶は平安時代以後ふっつりと絶えて、桃山時代にいたるまで焼かれませんでした。その間は瀬戸や美濃、さら常滑、丹波、信楽、備前などの陶器が、京都人たちのさまざまの需要に応じていました。だが瓦窯や土器窯が活躍していたことは、内窯の押小路焼(作品の実態はわかりませんが、京焼の発達に重要な役割を果たしたことが文献上で認められる)や長次郎焼など、低火度焼成の陶器生産の温床となったにちがいありません。
 ところが慶長年間にいたって、純然とした本焼窯が東山山麓-おそらく粟田口であろうーに興り、茶入や茶碗を焼いていたらしいことが、博多の富商で茶の湯の場でも名を残した神谷宗湛(1551-1635) が筆録した茶の湯の日記にうかがわれます。慶長十年(1605) と 十一年に 「肩衝京ヤキ」、「黒茶碗京ヤキ也 ヒツム也」、「黒茶碗京ヤキ」 とあるのがそれで、それらは当時すでに盛んであった長次郎焼と考えられぬこともありませんが、当時の他の茶会記などに長次郎焼を「京「焼」と記したものはありませんので、おそらく長次郎焼ではない京焼であったと推測され、粟田口辺に興った窯の製ではなかったかと考えられます。そしてその窯は、慶長から寛永頃にいたる諸文献などから推して、美濃か瀬戸の陶工によって始められた窯にちがいなく、京瀬戸と称して正意や万右衛門の茶入が江戸初期以来知られていますが、あるいは彼らが従事したものかもしれません。ことに歪んだ黒茶碗が京焼として使われているのは興味深く、いわゆる織部好みが大いに流行した頃でしたから、京焼でも歪んだ沓形茶碗が焼かれたものと思われます。そしてそれらの慶長から元和頃にかけての京瀬戸の作品のなかには、いまでは美濃焼あるは古楽とされているものがあるにちがいなく、瀬戸黒や織部黒のなかに美濃物とは違った土味や釉調のもの、さらに長次郎焼とは異なる黒楽風の茶碗の陶片が、最近京都、大阪その他の遺跡から出土していますが、それらはあるいはそうした京焼ではなかったかと推考されます。しかしいまのところ創始期といえる慶長から元和年間にかけての京焼についての実態は判然とせず、詳しくは今後の考究を待ちたいです。
 さらに乾山の陶法伝書 「陶工必用』 によると 「押小路焼き物師一文字屋助左衛門ト会者唐人相伝之方ヲ以内窯焼之陶器ヲ製ス 楽焼之祖朝(長) 次郎より旧キ由申伝候へ共何レカ先なる事不存候」と記していることから、長次郎焼以前から中国人が技法をもたらした内窯交趾焼風の法が京都で行われていたかと推測され、一方、長次郎の窯でも交趾手二彩の香炉や平鉢が焼かれていますので、少なくとも天正年間頃から、京都では低火度焼成の彩釉陶が行われていたことは確かです。したがって桃山から江戸前期にかけての押小路焼なるものは即物的には不詳ですが、あるいは押小路焼の内窯交趾焼の彩釉の技法が粟田口あるいは八坂、清水あたりの本窯に伝えられて、京焼独特の彩釉陶や上絵陶器に発展したとも考えられます。
 寛永年間後期にはいりますと、京焼についての最大の文献資料といえある鹿苑寺住持鳳林承章の日記 「
隔蓂記』 などによって初期京焼の動静が判然とし、東山山麓諸窯についても窯名や作者、さらに作風なども明確にとらえることができるようになります。ことに仁清の御室焼についてはもっとも記述が多く、その作風や動きをかなり詳しくとらえることができます。
 「隔蓂記』に京焼のことが初めて記入されるのは寛永十六年(1639)で、以後鳳林和尚が入寂した寛文八年(1668) までにその名が記載されている窯は、粟田口焼、八坂焼 清水焼 音羽焼、御室焼、御菩池焼(同書には菩薩池とある)、修学院焼などで、御室焼をのぞいてはすべて東山山麓地帯に散在した窯であり、なかで修学院焼は寛文四年に後水尾院の修学院離宮に築窯された御庭焼でした。
 ろがいけそして粟田口焼には、茶入をもっぱら焼いたらしい作兵衛、高麗茶碗の写しに巧妙であった太左衛門という陶工が活躍し、当時この窯では主として茶入と高麗茶碗の写しが焼かれていたようです。
 仁清の御室焼も含めた京焼の茶碗に、薄手の呉器茶碗の姿を倣ったものが多いのは、そのすんなりとした姿が当時京洛の数奇道具として好まれたからにちがいなく、なかでも粟田口の太左衛門という陶工の作った呉器写茶碗は、鳳林和尚に「見事之茶碗 驚目者也」 といわせるほどのものでした。
 ついで興味深いのは八坂焼についての記述で、寛永十七年五月七日に清兵衛という陶工が鳳林和尚に贈った香合には、甲に朱で寿字があらわされていました。もしこれを上絵付と見るならば、資料に見る「錦手京焼の初出であるばかりでなく、知られているかぎりでは、日本の赤絵としても初めてのものです。さらに正保元年(1644) 十二月に、同じく清兵衛が手作りした 「紫色青色交薬之藤実之香合」を鳳林和尚に贈っていますが、文面から判断すると交趾焼風に色釉をかけた香合であり、八坂焼ですから、おそらくは本焼色釉であったと思われ、後に量産されるいわゆる古清水の先駆をなすものであったと思われます。また正保三年に記された「八坂燒梅之紋有之鉢」 は、色絵か銹絵であったかは判然としませんが、文様をつけた鉢の初出です。以上から推して、八坂の窯では寛永から正保にかけて色釉あるいは色絵や銹絵の陶器を焼いていたことはほぼ確定的で、この窯の陶工清兵衛は粟田口焼とは違った作調のものをよくしたように思われます。
 そして正保五年一月九日に、いよいよ「御室焼茶入」 が同記に初出しますが、御室焼ではこの年から色絵や金箔を焼きつけたものを焼いていたことが 『旁求茶会記』 に収録された伊丹屋宗不や金森宗和の茶会記にうかがわれ、仁清独特の優美な色絵陶器はすでに出来上がっていたようで、その後 「隔蓂記』 にもたびたび記されるようになります。したがって京焼における色絵は 『隔蓂記』によって推察するかぎりでは、正保元年から同五年の間に八坂清兵衛や御室焼仁清によって完成されたものと考えられ、そしてほかに清水焼 音羽焼、御菩薩池焼、修学院焼などが寛文八年にいたる間につぎつぎと記され、色絵 銹絵、色釉 (交趾風)または呉器手、伊羅保手、信楽風、瀬戸釉などの陶器の生産が行われるようになったのでした。
 このように、文献的にもっとも信用のおける 「隔蓂記」 を中心に江戸初期の京焼を概観しますと、正保から明暦にかけて仁清の色絵陶器が完成するまでに、京焼の作風はすでに、一つの著しい傾向を示していたように思われます。すなわち唐物写しの茶入や、高麗茶碗でも江戸時代初期に釜山窯などで焼かれた薄手の呉器手や伊羅保手の茶碗が好んで焼かれていることで、それは天正から慶長にかけて、利休や織部によって好まれた桃山風といえる侘び道具と違った作風のものであり、明らかに次代の代表的な茶人小堀遠州、金森宗和などのいわゆる「奇麗さび」 の好みが作風に大きな影響を与えています。
 そしてそうした基盤の上に独特の銹絵や色絵が創案されて、まさに京風という言葉にふさわしい繊細優美な陶器が完成されたのですが、それら美作の陶器を作りえた大きな要因として 「毛吹草」 や 「陶工必用』 に記されている 「黒谷土」 というきめのこまかい独特の胎土がこの地から産出されたことを見逃すわけにはいきません。
 ところで前期京焼の作風の上でいささか不思議なのは、仁清がやわらかい白釉のかかった素地の上に、赤を存分に使った艶麗な色絵陶器を完成していますのに、御室焼以外のいわゆる古清水には、薄い朽葉色の貫入のある釉がかかっているのが通例であり、上絵も青と緑を主調にして赤を使っていないことです。仁清陶ではあれほど色彩に対する深い配慮が見られますのに、古清水は何故に一貫してあのような地味な色絵に終始したのでしょう。御室仁清陶は秘法として他が追従できなかったのか、あるいはあえて別の風を求めたのか、興味深い問題です。
 江戸時代中期、すなわち元禄から寛政頃にかけての京焼では、独り乾山焼のみが光彩を放っています。元禄年間には、仁清の御室焼もすでに栄光の時は過ぎ去っていましたし、粟田口や音羽 清水など東山山麓の窯も窯煙はあげていたでしょうが、作風に新しい展開はなく、旧風を保持しつつ一般の需要を受けていたように考えられます。文献資料も乾山焼を除いてはほとんどなく、予楽院近衛家煕の 「槐記』に記されている京焼はおおかた仁清の作品で、当時の京焼としては「新清水焼 狂言袴(茶碗)ノ写」 が記されているくらいです。そうしたことから、全般的に安定した状況で需給がはかられていた時期であったように思われます。
 そうしたなかにあって、乾山の作陶はさして規模の大きなものではありませんでしたが、その個性的な作風によって京都に新風をもたらしたことは特筆に価します。仁清に私淑してその陶法を学び、元禄十二年(1699) 三十七歳の時、京都の乾の方向にある鳴滝渓谷に開窯しましたが、仁清伝の陶技を基調に、押小路焼の法、さらに独自の工夫も加えて、仁清や他の京焼とはまた違った雅味豊かな乾山焼を創案したのであ「いぬいいました。このように京焼に、仁清や他に見ない新風をもたらした乾山焼でしたが、乾山は享保十六年(1731)に江戸に去り、その後養子の猪八 (仁清の息子)が二代乾山を称え、京都の聖護院のかたわらで作陶をつづけます。その作風は初代乾山の風をそのまま倣い、「乾山」の銘も踏襲したためいつしか混然として、二代作品で初代とされているものが多く伝世しています。
 東山山麓に散在した粟田口、清水、御菩薩池、そのほかの窯では、仁清、乾山とは異なった一般に古清水と呼ばれ、朽葉色の釉のかかった陶胎の上に主として金、青、緑によって上絵付された作風のものが焼かれていたようであり、長く京焼の伝統となりましたが、窯と作品との関係を物語る資料に乏しく、また窯跡のすべてが宅地化されてしまっている今日では、東山山麓諸窯の様相は判然としません。しかし江戸時代中期十八世紀は、ほかの窯業地においてもいったいに停滞していた時期であり、京焼もさほどふるわなかった時期と考えられています。そのころ東山一帯に広がる窯は、粟田口、清水、五条坂の三系統に分かれ、粟田口焼の陶工として錦光山喜兵衛、岩倉山吉兵衛、宝山安兵衛、帯山与兵衛、暁山忠兵衛、錦光山嘉右衛門、ほうざんらくとうざんたいざんぎょうざんきんこうざんいわくらやま宝山源兵衛、洛東山治兵衛などの名が知られていますが、それぞれの作風は判然とせず、おそらく前期の京焼すなわち古清水風のものを保守的に守っていたように推測されています。
 せいかんじ清水焼は、清水、音羽、清閑寺などで焼かれていたものの総称ですが、その規模は五条坂や粟田口などに比べて小さかったようで、またここでもそれぞれの窯の作品の判別はむずかしいですが、清閑寺では仁清風のものが焼かれています。
 粟田口と対照的な活動を見せるのが五条坂の窯で、江戸中期に清水から分かれたと考えられていますが、保守的な粟田口に対して五条坂の窯は新しい作風の展開に意欲を燃やし、ここで京都ではじめて磁器が焼かれるようになったのであり、ことに文化 (1804-18) 文政 (1818-30) 期から明治にかけては、京焼を代表する陶工であった高橋道八 清風与平、清水六兵衛、和気亀亭、真清水蔵六、宮川香斎などが出て活躍したのです。
 幕末の粟田口焼 清水焼 五条坂焼など東山諸窯の製品は、寺院や公家その他からの特別注文品は別として、一般に五条坂焼き物問屋の手によって販路をもったのですが、いうまでもなくその需要の中心は京都を中心とする畿内一円でした。
 しかし江戸時代後期、京焼が従来のいわゆる古清水風とは異なっまた中国陶磁の模倣を中心とした多種多様な作風を展開するきっかけを開いたのは、奥田頴川が「陸方山」と号して三条粟田口に窯を築き、従来の京焼とは違った染付や赤絵など磁器風の雅陶の焼造を始めたことが大きく作用しています。
 頴川は本来、商家 (質屋)の人で、余技として中年から独学で陶法を研鑽したと伝えられています。いつ頃の開窯であったかは判然としませんが、おそらく天明から寛政の頃ではなかったかと思われます。その門には青木木米、欽古堂亀祐、二代高橋道八 (後の仁阿弥)とその弟周平、三文字屋嘉助らが集まったのですが、おそらく頴川が中国の染付や呉州赤絵など磁器の作風を倣ったことが魅力となって彼らは集まったのでしょう。
 たしかに頴川の呉州赤絵写しは見事であり、それは、彼ら馳せ参じた陶工たちに大いなる刺激を与えたものと思われます。ことに朱笠亭著 「陶説』などを読み、血気の盛んな文人木米に大きな影響を与え、木米自身も陶法を研鑽して、青磁、白磁、赤絵 そして交趾写しの軟陶などに新風を興し、独特の煎茶具を作って一家をなしました。二代高橋道八は父からの陶法に加えて頴川伝の磁器の焼造に熟達、さらに乾山風を倣ったもの、仁清写し、楽茶碗、高麗茶碗の写し、寿星置物などの彫塑的作品にいたるまで、あらゆる陶技にわたって傑出した作品を残したのでした。
 木米、仁阿弥についで優れた作品を多く残し、幕末三大名工の一人と称されたのが永楽保全でした。彼は文化十四年(1817) に、桃山以来土風炉などの焼造によって名の高かった西村家十代了全の養子となり、初めは家業に従っていたのでしょうが、ふたたび活況を呈するようになった文化、文政期の京焼の渦中にあって、単に家職の保守にのみとどまることはできなかったのでしょう。文政十年(1827) 紀州偕楽園御庭焼に父了全とともに奉仕したのを機に、中国明代の法花 (当時これも交趾焼と呼んだ)、金襴手、古染付、祥瑞などを倣いつつ、それを和様化した独特の作風を打ち立てたのです。
 そして姓を西村から永楽に変え、京洛第一流の陶家として活躍したのであり、その子和全も優れた作家で、幕末から明治にかけての京焼を支えたのでした。
 ほかに幕末京焼の陶家としては、欽古堂亀祐、清水六兵衛初代、二代、三代、岡田久太、龍文堂安平、真葛長造、清風与平、初代真清水蔵六 初代三浦竹泉らが活躍し、日本の陶芸技術のメッカとなったのです。


古清水

 ここに図示した作品は、今日一般に古清水と総称されていますが、しかしその呼称は必ずしも当を得た言葉とは思えません。古清水というと清水焼の古作というような印象をまぬがれませんからで、それらこの作品は、南は清閑寺から北は修学院にいたる東山山麓に散在する窯で焼かれたものです。したがって京焼と呼ぶのがもっともふさわしいようですが、京焼といえば、仁清、乾山、さらに幕末の個人的な作家たちも含まれねばならず、それらの人々は今日ではすでに一人の作家として遇されているのでいまさら京焼と呼ぶわけにもいきません。
 元禄七年(1694) 編纂の 『古今和漢諸道具見知鈔』 には、粟田口焼、御室焼 清水焼 黒谷焼、押小路焼などを列挙して、「何れも京焼也」と記していますが、いまではその御室焼の作品の多くは仁清焼ということになってしまっています。そして粟田口焼 清水焼 さらに 「隔糞記』 などに記されている八坂焼、御菩薩池焼、音羽焼、修学院焼、清閑寺焼、岩倉焼などの作品が近代に至って古清水と総称されるようになったのです。それらの窯の作品は、「隔蓂記』によれば、当時名の知られた陶工が作っていたらしいですが、作者の名はいつしか歴史のなかに埋もれてしまい、窯にしても、印銘を捺したものはわかあるが、無印のものはどこで焼かれたかも判然としません。作風も互いに共通していますので、よほど詳しく検討しても、果たして分類できるかどうかは疑問です。したがって古清水と呼ばれているものは、言葉をかえれば、京焼全体のなかで作者を明確にしていない没個性的な作品の総称であるといえるのではないでしょうか。
 また古清水の作風の変遷を考察することも、極めて困難です。
 正保五年頃に仁清の作品が焼かれるようになってからは、その影響がかなり強いようですが、仁清の作品そのものが年代を追って編年できませんので、当然のこと古清水についても不可能です。しかし赤を用いずに青と緑などの上絵具に金、銀を加えた典型的な古清水様式の色絵が完成したのは、仁清の色絵の完成とほぼ同時期の明暦頃であったと思われます。
 江戸時代前期の京焼については 『隔蓂記』 に、多くのことが記されていますが、他に延宝六年(1678) に京焼諸窯を訪れた土佐の陶工森田久右衛門の旅日記にも窯の様子などが記されていて、京焼の文献資料として評価が高いです。
 「隔蓂記』にその名がはじめて記されるのは粟田口焼で、寛永十七年(1640) から万治三年(1660) にかけて九回記載されています。そこには茶入師の作兵衛、高麗茶碗の写しに達者な太左衛門、さらに理兵衛などの陶工の名をあげていますが、その頃はまだ色絵の古清水風のものは焼かれていなかったようです。ついでやはり寛永十七年から慶安三年(1650) にかけて六回、八坂焼についての記載があります。
 この窯で興味深いのは、清兵衛という陶工が色釉をかけた藤実形香合(円形の平らな香合) や、梅文様のある鉢を焼いていることで、歴史に見るかぎりでは京焼最初の色釉 (上絵付か否かは不明)であり、銹絵か染付か色絵かは不明ですが、文様のある器でした。
 清水焼も寛永二十年(1643)十月二十二日に初出し、寛文六年(1666) 九月十日には音羽焼も記されるようになります。清水焼 音羽焼ともに、花入、香合、水指、茶入 茶碗などを盛んに焼いていた様子が、一乗院宮真敬法親王の日記 『一乗主人日次記』からもうかがわれ、寛文 延宝の間がその最盛期であったように思われます。後水尾院の修学院離宮における御庭焼が、寛文四年に開窯されたことも「
隔蓂記』に記されています。また御菩薩池焼も承応三年(1654) から寛文六年にかけて四回記され、寛文三年正月三日の条には 「菩薩池天目壱ヶ、錦手之絵、縁取見事成天目也」とあって、立派な色絵の天目を焼いていたことがわかります。
 「隔蓂記』 は鳳林和尚が入寂した寛文八年八月まで、『一乗主人日次記』 は京焼については元禄二年までしか記されていませんので、他は極めて断片的にしか知ることができません。正徳三年(1713) 刊の『和漢三才図会』 では、山城国土産瓷器として御室、清水、乾山、深草などをあげていますが、山麓諸窯は清水焼しか記されていません。しかし粟田口や御菩薩池焼、押小路焼なども行われていたはずです。
 古清水は没個性的であるといいましたが、その作風には一つの大きな特色があります。それは赤い上絵具をほとんど使っていないこと、その多くに貫入のある淡い朽葉色の釉薬がかかっていることで、仁清の色絵陶器とはかなり作行きが異なります。何故にこのような作風が定着したのでしょうか。古清水には判然としないことがあまりにも多く、江戸時代の陶芸のなかでは、今後の重要な研究課題の一つです。


穎川

 江戸時代中期の末、十八世紀後半の東山山麓の諸窯がどのような状態であったかは判然としませんが、作風は全般的に沈滞していたようです。そうした京焼に新風をもたらし、活を入れたのが奥田頴川 (1753-1811) であいました。彼がもたらした新風というのは、京都にあって一時期乾山が試作した程度で、まったく行われていなかっまた磁器の焼造でした。肥前有田や加賀九谷では、すでに十七世紀前半から中葉にかけて染付や赤絵の磁器が生産されていましたが、京都では仁清、乾山によって技術的完成と展開をみた色絵陶器が京焼の伝統となっていました。ところが江戸時代中期以後、中国から請来されまた明時代の陶磁の賞玩は大いに高まり、ことに交趾焼や、古赤絵金襴手、古染付、祥瑞 呉州赤絵などは、江戸時代前期から元禄、享保、さらに江戸後期にかけて、数奇者の間で大いに声価をあげていたにもかかわらず、京都ではその倣作は焼かれていませんでした。頴川が着目したのは、そうした中国陶磁の風を倣った作品を焼造することにあったようで、彼は中年から作陶生活に入ったにもかかわらず、みずからが求めた主題を見事に成し遂げたのでした。
 川は宝暦三年(1753) に生まれました。その家は明末清初の動乱を逃れて日本に帰化して頴川氏を名乗った陳家の後裔で、名を庸徳といいました。若い頃洛東建仁寺山内の清住院に寄寓していたらしいですが、後大黒町北入東側で営業していた親族の大質商奥田家に入ってその五代奥田茂右衛門となりました。彼が作陶を志すようになった動機は不明ですが、読書人であったといいますから、おそらく当時しだいに流行しつつあった文人趣味を好み、中国の陶磁に深く興味をもち、ついに作陶に入ったのではないかと推測されています。
 しかしその陶法をどのようにして習得したかはまったく不明であり、一般に独学で学んだといわれていますが、おそらく有田か九谷系の職人を呼び寄せたのではないかと思われ、みずからもその作風について学んだのでしょう。さらにいつ頃磁器を完成したかも判然としませんが、「天明年製」の銘のものがありますので、その頃ではないかと推測されています。
 頴川作と伝えられるものは、その作風はほぼ五種に限定されています。すなわち呉州赤絵、呉州染付、古染付と素三彩やいわゆる交趾焼の倣作で、交趾焼と素三彩は極めて少なく、そのほとんどは他の三種です。なかでも呉州赤絵は本歌にまさるとも劣らぬほどで、釉膚の趣、速筆で描かれた絵文様の軽妙さはまことに見事です。
 しかし器形に和様のものがあるのは、やはり単なる模倣家ではなく、一見識ある人であったことをうかがわせます。そして作品はいっさい市販せず、自家用と自分が寄寓したことのある建仁寺の塔頭寺院に寄進したり、知友に贈ったと伝えられ、そのため明治維新までは巷間にはほとんど見られなかったといわれています。そしておそらく、富商であり長者の風のあった頴川でしたから、木米、道八その他の人々がその門に集まったのであり、余技でしたからこそ、彼らに新しい技を惜しむことなく伝えたのでしょう。文化八年(1811)五十九歳でした。
 窯は三条粟田口にあり、「陸方山」と号していました。作品には染付あるいは赤絵で 「頴川」 と楷書銘を入れたものがあり、稀に 「号陸方山」 または 「庸」 を花押にして書き入れていますが、無銘のものがかなり多いです。


木米

 江戸時代の京焼三百年の歴史を通じて、もっとも個性的な作陶家は緒方乾山と青木木米 (1767-1833)の二人であったといえます。後水尾院を中心に展開していた王朝文化が爛熟しつつあった元禄、享保の頃に活躍した乾山と、文化、文政期に多くの文人と交わって、いわゆる文人趣味に親しんでいた木米とでは、そこに示された陶風はかなり異なりますが、二人の作陶への志にはどこか一脈合通ずるものがうかがわれます。二人とも父祖以来の陶家ではなく、前者は呉服商、後者は茶屋に育ち、そして青年の頃から志を得て作陶生活に入っています。しかも従来の陶風に飽き足らず、みずから大いに研鑽して新風をものしているのも似ていますが、おそらく当時の一般的な常識によれば、二人とも奇人に類する存在であったにちがいありません。乾山は宗達や兄光琳の装飾的な画風を生かした雅陶を作り、木米は明代の陶芸に深い共感を抱いて、当時流行しつつあった煎茶道具に独特の作風を打ち立てている木米は明和四年(1767) に、京都の祇園の縄手通大和橋北詰にあった茶亭 「木屋」 の長男として生まれました。姓は青木、通称佐兵衛で父の佐兵衛は美濃久々利の出であったといわれています。別に八十八ともいい、その屋号の木と名の八十八を 「米」 に作って、木米と称したらしいです。
 遊里の茶屋に生まれた人でしたが、若くから学問を好んだらしく、高芙蓉の許に出入して文人的な薫陶を受けています。また自分の雅号の一つに「古器観」 を選んでいるように、生来非常な嗜古癖の強い人であったらしく、二十代の一時期には伊勢山田で古銅器や古銭の鋳造をしたと伝えられています。作陶の志をもつようになったのは、大阪第一流の文人木村蒹葭堂の許に寓している時に、その蔵書に乾隆五十九年刊の『龍威秘書』 があり、そのなかに収まっている清代康熙年間に朱笠亭が著した 『陶説』 六巻を読んで感激したのが契機でしたと、自著の『上奥殿侯書』のなかに記しています。「陶説』を読んだのは二十八歳以後のことでしたが、その後すでに京都にあって従来の京焼とは違った、中国明代の染付、赤絵などの磁器を模倣した新陶を焼造していたと思われる奥田頴川の門に入り、陶技の研鑽にいそしみ、他に十一代宝山文造にも師事したと伝えられています。その間寛政七年(1795) 二十九歳の時に父の佐兵衛が歿して家を継ぐことになり、おそらくそうした環境の変化も要因となって陶工への道を歩みだしたものと推測されています。しかし木米と交遊のあった頼山陽が、木米翻刻の 「陶説』の序文中に「翁嗜古士 非陶工也 少小好賞 鑑古器-」 と記しているように、「陶説』を読んだことが動機ではありましたが、単なる陶工を志したのではなく、生来の古美術好きがまずその原点にあったのであり、中国の古陶磁の作風を模すことに情熱を傾け、そしてその陶技を自家薬籠中のものにして、木米独特の風を打ち立てたのでした。
 そして木米三十六歳の頃には、当時流行の煎茶道具を焼いてその名はすでに高かったらしく、嵐翠子著の 「煎茶早指南」 (享和二年著)「左兵衛は唐物をうつすに妙を得たるものなり」と記されています。
 作陶生活六、七年で、「妙を得たるものなり」あるいは「左兵衛からものうつし 上品にてあたえも又貴し」 といわれるほどの手腕に達していたことは驚目に価します。木米に関するさまざまの伝記からも推察しうるように、生来の激しい嗜古癖が契機となっての作陶生活でしたから、非常な努力で陶技を磨いたことが想像されます。型物の交趾などは、かつて鋳造技術を身につけていたのが幸いしたのでしょうし、煎茶碗などに示された轆轤技もけっして平凡なものではありません。
 文化二年(1805) に青蓮院宮の御用を拝命していることは、彼がすでに第一流の陶芸家になっていたことを物語り、同じ年に木米を金沢に招聘するべく亀田鶴山が入洛したのも、その名声が高かったからでしょう。文化三、四年に二度にわたって金沢におもむき、春日山窯を築窯して独特の青磁や赤絵を焼造しています。また紀州候にも招かれて瑞芝焼に参画したと伝えられますが、ここでは胎土が悪く、あまりよい成果は得られなかったと伝えます。木米の窯は粟田の東町にあったらしいです。
 その後は京都で知友の文人と交遊しつつ、もっぱら作陶を続け、天保四年(1833) 五月十五日、六十七歳で歿しました。その墓碑に篠崎小竹が 「識字陶工木米之墓」 と記しているように、おそらくは木米ほど博学で実践力のある陶工は過去にいなかったでしょう。そしてまた、彼ほどにいかなる陶技も見事にこなしえた人は少ないです。幕末京焼の鬼才といわれるのも、その作風の全貌を概観すれば当然のことで、頴川の開いた新風を見事に実らせた功は大きいです。
 彼の作品は圧倒的に煎茶具が多いです。しかし抹茶具も作らなかったのではなく、雲鶴青磁、刷毛目、御本立て鶴など高麗茶碗の倣作に優品があります。作風は古赤絵を倣った赤絵金襴手、七官手風の青磁、古染付風、祥瑞風、さらに交趾焼、南蛮焼締め、白泥など、当時世で見られた中国陶磁のほとんどの技法を習得して、純然とした写し物だけではなく、その作振りを倣いつつ独自の風を打ち立てています。
 使用した銘印は楕円の木米印大小、青来印、古器観木米製、粟田米、木米製などがあり、他に聾米造、九々鱗、百六散人と染付や赤絵で書したり、彫銘にしたものがあります。作品の多くは共箱に収まり、「粟田陶工聾木米印」 や前記の種々の雅号の落款を書しています。
 雅号の由来は、「青来」は青木姓に困ったもの、「百六散人」は、名の木を十八と数え、それに米の八十八を足すと百六になることよ「米」は中年に聴をしたため、「九々鱗」 は青木氏の出身地である久々利をもじったものといわれています。またその住いを停雲楼として雅号としました。


仁阿弥

 仁阿弥道八は、天明三年(1783) 三月十日京都粟田口表町の陶家高橋道八家の次男として出生、諱を光重といいました。父の初代道八は、伊勢亀山の元藩士高橋八郎大夫の次男でしたが、宝暦年間に京都の粟田口に出て居を構えて作陶生活にはいったと伝えられ、諱を光重、名は周平、号を松風亭空仲といいました。周助光貴という長男がいたが十九歳で夭折したため、次男が家を継いで二代道八を称したのであり、その弟の周平光吉も後に名工と称された文化元年(1804) 初代が残した時、二代道八は二十二歳でしたが、二年後の文化三年には粟田の青蓮院宮の御出入を仰せつかっていますので、父に習ってすでに一通りの陶技は身につけていたと考えられています。そして父の松風亭の号を受け継ぎましたが、後に華中亭と称し、この号は以後高橋家代々の雅号となりました。
 その後奥田頴川に師事して、従来の陶器の技法に加えて磁器の製法も学び、広く陶技を研鑽し、ほかにも粟田口の宝山文造にも師事したと伝えられています。同門にはすでに一家をなしていた青木木米、木米とほぼ同年輩の欽古堂亀祐 (1765-1837) 楽只亭嘉助、弟の周平 真葛長造などがおり、幕末京焼にその名のあった陶工の多くがいました。頴川が工夫の上完成した中国風の磁器の製法が、沈滞していまた京焼の陶工に大きな刺激を与えたことを如実に物語っているといえましょう。
 文化八年に粟田口から清水坂に窯を移し、はじめは頴川伝の染付磁器を焼造して名をあげましたが、彼の遺作を概観しますと、やはり中国風のものよりも仁清写し、乾山写しを主調に、光悦写し、空中写し、種々の高麗茶碗の写しなど、茶の湯の道具が多いのが特色で、木米が主として中国の染付や赤絵あるいは交趾焼の風を倣った煎茶具をしたのに対しています。さらに道八の作品で高く評価されているのは彫塑的な作品で、ことにいくつも現存している寿星すなわち福禄寿や寿老人 布袋などの置物もまことに巧妙です。しかし管見の限りでは、やはり乾山写しの諸作品がもっとも優れ、なかでも雲錦手鉢、雪笹文手鉢などには傑作があり、おそらく乾山の作風が彼の好みに適していたものと思われます。
 若年の頃から勤仕した青蓮院宮をはじめ醍醐三宝院宮、仁和寺宮、西本願寺本如上人、さらに代々の所司代にも出入するなど、その名声は高まっていきましたが、文政七年(1824) に近江石山寺尊賢法親王の仏弟子となって剃髪し、同親王の依頼をうけて「石山御庭焼」を興し、続いて同年に西本願寺本如上人の御用窯 「露山焼」 を開き、文政九年には仁和寺宮から法橋に叙せられて 「仁」の字を拝領し、さらに醍醐三宝院宮から「阿弥」の号を賜り、「仁阿弥」と号しました。したがって、仁阿弥道八の称はここに始まったのです。
 文政十年に紀州徳川家の 「偕楽園御庭焼」 に参仕し、十一年和泉貝塚に「願川寺御庭焼」、さらに天保初年頃に嵯峨の豪商角倉玄寧のために 「一方堂焼」を興し、天保三年(1832) には高松藩主松平頼恕侯に招かれて 「讃窯」 を興すなど、文政年間から天保年間にかけてまことに華々しく活躍したのでした。だが天保十三年にいたって家を長男の三代道八に譲り、仁阿弥自身は伏見桃山の江戸町に隠居して桃山焼を興し、作陶を楽しみつつ安政二年(1855)、七十三歳で歿したのでした。
 作品には「道八」「仁阿」「仁阿弥」 「御室賜土作」 の丸印、「桃山」の瓢形印、さらに法螺貝形の輪郭に道八の二字を収めた法螺貝印などを捺し、彼が開いたそれぞれの窯には窯の銘印が捺されていますが、讃窯のには 「讃窯道八」 などと書したものがあります。さらに高橋道八家代々のなかで、「仁阿弥」 と 「土師」の称号を許されたのは彼のみでしたので、彼のことを特に仁阿弥道八と称しています。


保全

 永楽保全は、青木木米、仁阿弥道八よりさらに若く、寛政七年(1795)に京都の織屋沢井の家に生をうけました。幼少の頃から百足屋木村小兵衛薬舗に奉公し、さらに大徳寺黄梅院に住した大綱宗彦のもとに寄寓していたらしいですが、幼少時に世話になったこの二人とは生涯深く交わり、後に息子和全と不和になって江戸に下向した折も、この二人の意見に従って帰っています。
 十三歳の頃大綱和尚の世話で、室町末期から続いた土風炉師西村了全の養子になりました。西村家の始祖は西村宗印といい、南都 (奈良)西京西村に住し、奈良屋と号して春日大社の供御器等を調製していたと伝えられ、侘び茶が盛行しつつあった晩年はもっぱら土風炉を作ったといいます。武野紹鷗とも交りがあり、永禄元年(1558) に歿しました。二代は宗善と号し、奈良から堺に移って家業を継ぎ、三代宗全の時代には京都に移って六条東洞院に住し、さらに中立売寺の内に転居しましたが、そのあたりを風炉図子と呼んだと伝えられています。元和九年(1623) 歿。初代以後代々土風炉師善五郎と称して、四代宗雲、五代宗筌 六代宗貞、七代宗順、八代宗円、九代宗巌と続き、土風炉には三代宗全が用いた銅印(一説に遠州筆という)を捺しましたので、世に宗全風炉と称されました。
 保全の養父十代了全は宗巌の子で、天明の大火で焼失した家を再興して油小路一条橋詰町に住し、彼の代から土風炉や灰器だけではなく他の茶陶も焼くようになり、なかでは表千家に伝来した 「安南染付長字茶碗」の写しゃ、利休所持と伝える「瀬戸捻貫水指」の写しが知られています。土風炉だけではなく施釉陶器も焼くようになったのは、やはり寛政から文化、文政にかけてにわかに盛り上がってきた新製京焼の流行が影響したのでしょう。了全の名は表千家の了々斎の一字をもらったもので、天保十二年(1841) 一月十二日に歿しました。
 了全に始まった土風炉以外の作陶は、養子保全によっていちだんと深められ、ついに幕末京焼三名工の一人と称されるに至ったのです。その作風は、交趾 (法花) をはじめ青磁、古染付、祥瑞、赤絵金襴手、さらに仁清写し、高麗茶碗の写しなど、当時一般に賞玩されていた中国 朝鮮、日本のあらゆる陶芸の技法を自家薬籠中のものにし、しかも単なる模倣ではなく、意匠、釉法ともに独自の工夫をこらして、時代の好みを反映した新製茶陶を数々残したのでした。
 伝えによると、西村家にはいってから文政十年(1827) 紀州徳川家の御庭焼に参仕するまでのおよそ二十年間は、そうした陶技の研鑽に費やされたといわれています。文政十年十月、表千家の吸江斎に伴われて紀州におもむき、藩主徳川斉順の別邸西浜御殿の御庭焼に従事して成果をあげ、斉順候から「河濱支流」 の金印と 「永楽」 の銀印とを拝領する栄を得たことは、保全の名を大いに世に知らしめたと推測されます。そして、以後、西村家では作品に「永楽」 印を捺すようになり、作品によっては「河濱支流」の印、さらに両印を併用するようになって今日にいたっています。「永楽」の印については、永年間(1403-24) が明、清時代を通じてもっとも陶芸の充実した時代であったのに因んでのものといわれているが判然としません。「河濱支流」 は、史記五帝本記第一の 「舜陶河濱器皆不苦竄」の語により、その支流との意をあらわしたものでしょう。こうした、中国の故事に由来した印を賜ったことは、紀州侯がその御庭焼で中国明代の法花を好んで作らせたことと、保全が青磁、染付、赤絵金襴手など、中国陶磁の模倣をもっぱらにしたことによるのではないでしょうか。この永楽の印を拝領した後、同家ではこれを号として用い、了全も 「永「楽了全」 と箱書き付し、印も捺していますが、永楽を姓とするようになったのは保全の子の和全の時代からで、明治元年からでした。
 やすたさらに紀州におもむく少し前、文政十年七月に、保全は従来の通称善五郎のほかに保全名を越前守藤原光寧なる人につけてもらっています。文政十年は保全三十三歳にあたり、彼にとっては記念すべき年であったといえます。
 天保十四年四十九歳の頃、名を善五郎から善一郎と改めていますので、「善一郎造」の箱書き付のものは以後のものであり、嘉永二年(1849)に鷹司家の命で近衛家蔵の「揚名炉」の写しを作り、佳作の功によって鷹司家から 「陶鈞」の二字をもらい、陶鉤軒とも号しました。陶鈞とは陶家の関白、すなわち最高位を意味するものといいます。さらにその頃有栖川宮熾仁親王染筆の「以陶世鳴」の額を下賜され、それを名誉として「以陶世鳴陶鈞軒河濱支流永楽保全」 という二行の銘款を書したものがあるらしいです。
 ところが嘉永三年に、文政六年に生まれた長子の和全との不仲が起因して、家を捨てて江戸に下向しましたが、志も満たされず、前述のように大綱和尚と百足屋老人の意見も加わって、九か月後の嘉永四年に帰洛の途につきました。だが大津滞在中に京都の家が火災にあったため、円満院門跡宮の旨をうけて湖南焼を興し、「三井御浜」 「長等山」「河濱」の印を捺した作品を残しています。さらに嘉永五年春に、高槻城主永井侯の御庭焼「高槻焼」 に参仕しましたが、嘉永七年九月十八日に六十歳で残しました。晩年は火災にあったことなどから経済的にも不遇であったらしいですが、たえず窯を興すことを考え、陶技の研鑽を主題に生涯を生きたことは、陶工として大いに高く評価されるべきであり、幕末から今日にいたる京焼の茶陶に残した足跡はまことに大きいです。
 

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