仁清
作品は数多く伝存していますが、江戸中期以前の日本の陶磁史には、いまなお不詳のことが非常に多いです。それはいうまでもなく、窯や陶工の消息を伝える確かな文献資料や作品が少ないためですが、そうしたなかで比較的資料の多いのは、京焼の仁清と乾山です。仁清が活躍した御室焼が始まってから、乾山が江戸で殺するまでのおよそ百年間にわたって、彼らの窯や作品についての確かな資料は、地方の窯や陶工よりもはるかに多いです。それはやはり京都という都市が、江戸時代にあっては個性を認めることにもっとも積極的なところであったことと、彼らが第一流の貴顕と交わりえたことが幸いしています。乾山の場合は、雁金屋という京都でも著名な商家に生をけたことと、彼自身が資料的価値の高い作品を多く残し、ことに 『陶工必用』 という陶法伝書を書きとどめたことによります。仁清の場合は、当時京洛第一流の知識人であった鹿苑寺の鳳林 承 章 和尚の日記こうひつようかくめいきほうりんしょうしよういちおんぽう「隔蓂記』や尊寿院の顕証上人の日記 「一音坊日記』、奈良一乗院主いちじょうしゅじん ひなみ き真敬法親王の日記『一乗主人日次記』 などに多くの記事が録されており、彼の作品が堂上公家を中心とした階層の間で賞玩されたためです。それは、やはり仁清の作品そのものが他の京窯よりはるかに洗練された優れたものであったからであり、現存する作品を概観しても、江戸中期以前の京焼に占める仁清の位置は抜きんでて大きいです。京焼の世界だけではなく、江戸時代の日本の陶芸史に、艶麗という言葉で形容される雅陶を加えたのは、仁清以外に何者もいません。
さて、御室仁清の窯は洛西御室仁和寺門前にありました。この窯の創始期は判然としませんが、応仁の乱以後荒廃していた名刹仁和寺が、徳川家光の命によって木下淡路守と青木甲斐守が作事奉行となって再建され、後陽成天皇の第一皇子であった門主覚深法親王が仮宮殿から新御殿に移られたのが正保三年(1646)十月であったことから、門前の御室焼の開窯もそれ以後のことと推測されています。さらに寛永十六年(1639) の初出以来、京焼、粟田口焼、八坂焼など初期の京焼についてしばしば記されている 「隔蓂記』のなかに、「賀茂之関目民部来、御室焼茶入壱ヶ恵之也」 とあって、初めて御室焼が記述されたのが正保五年正月九日でした。またこの御室焼と極めて密接な関係があったと推測される金森宗和 (1584-1656) の茶会に招かれた奈良の松屋久重が、その茶会記の正保五年三月二十五日の条に「アラヤキ水指 茶入 宗和切形トテトウ (胴) 四方也 シマノ袋 茶弁当ニ入レル為ト云ヘリ 仁和寺ヤキト也」 と、いかにも初見の新作水指と宗和切形で胴四方の仁和寺焼茶入について誌しています。これらのことから御室焼の開窯は、おそらく正保三年十月から五年一月の間、すなわち同四年ではなかったかと推測されています。そして、後に仁清と称するようになった焼物師清右衛門が関与していたことが、やはり「隔記』 の慶安二年(1649) 八月二十四日の条によって推測できます。すなわち、仁和寺再建の作事奉行木下淡路守の屋敷に鳳林承章がおもむき、「焼物師清右衛門焼物之形作 免々 (面々) 種々相好也 予亦作好 而水指 皿 茶碗等令作之也・・・・・・」 と、御室焼の焼物師であった清右衛門に、参会した人々がそれぞれに自分の好みの器を作らせていることが記されており、開窯の正保四年から慶安二年までの二、三年の間に焼物師が替わることもないと思われますので、築窯その他最初から清右衛門が従事していたと断じていいでしょう。
この窯が仁和寺の御用窯であったか否かは判然としませんが、仁和寺宮を中心とした人々が好みの作を焼かせたりしていますので、やはり当初は新御殿落成に付随しての御庭焼的な性格ももっていた窯であったように思われます。さらにこの窯の作品指導には初めから金森宗和があたったことが、前述の 「松屋会記』 からもうかがわれますが、宗和は御室焼だけではなく、粟田口焼の陶工作兵衛にも切形を与えて肩衝茶入を作らせていることが 『隔蓂記』 の寛永十七年(1640) 十一月八日の条に「粟田焼之肩衝茶入 (中略) 金森宗和被切形、而於粟田口、而作兵衛焼之茶入也」 と記されており、宗和が積極的に京焼の指導にあたったことがうかがわれるのです。正保五年(1648) 以後 『隔蓂記』 には、御室焼または仁和寺焼、あるいは清右衛門、仁清焼、野々村仁清作などと記されて、筆者鳳林和尚が入寂した寛文八年(1668) までに三十数回にわたって御室焼のことが記されています。
他の京焼のことよりも圧倒的に多く記されているのは、やはり御室焼が他の窯とは違った性格をもっていたことを推測させ、仁和寺と関係のある窯でしたからこそ、仁清という当代の名工を従事させたとも考えられるのです。
仁清が轆轤や細工物の名手であったことは、残された作品を手にすれば一目瞭然であり、それは万治三年(1660) 三月十一日後水尾院が仁和寺に行幸された時、わざわざ仁清の作陶を叡覧されます ( 『隔蓂記』)という栄誉を得たことからも察することができます。そして、当初から茶入 茶碗 水指などの茶具を主体に焼いていたことも『隔蓂記』 からうかがわれ、現存する作品もまたそれを物語っています。
しかし開窯時からあの艶麗な赤絵 (錦手) が行われていたか否かは判然とせず、「隔蓂記』 に初めて 「野々村仁清作錦手赤絵茶碗」 と明記されるのは万治三年五月四日のことであり、それ以前は単に御室焼の茶碗、水指とあるだけなので色絵物か否かは判然としないところが三十数回におよぶ御室焼や仁清についての記述中、「錦手」と記されているのはわずかに茶碗二点ですが、それらの茶碗だけが色絵物で、他はそうでなかったのか、あるいは記載を省略したものかはわかりません。しかし万治三年より三年前の明暦三年(1657)に、仁清の作品中特筆されるべき紀年銘をもつ色絵の香炉が作られています。それはかつて仁清が安養寺に寄進した香炉 (図37) で、底に 「奉寄進播磨入道仁清作 明暦三年卯月」 の刻銘があります。またかつて蜷川第一氏が御室焼窯跡から採集した、同形の香炉らしい素焼きの陶片に「奉寄進 野々村播磨・・・・・・明暦弐年・・・・・・」と銘したものもあり、明暦二年から三年には仁清の色絵は完成していたことは明らかであり、それ以前に焼かれていた可能性もあります。
安養寺伝来の香炉に 「播磨入道仁清」 陶片に 「野々村播磨・・・・・・」とあることは、陶工清右衛門の身分に大きな変化が起こったことを物語っています。正保四年に御室焼が開窯されて以来、仁清のことは「焼物師清右衛門」 (『隔蓂記』 慶安二年八月二十四日の条)、「丹波焼清右衛門」 (「仁和寺御記』 慶安三年十月九日の条)、「壺屋清右衛門」(『仁和寺御記』 明暦元年九月二十六日の条) など、清右衛門という呼び名が記されているにすぎませんが、明暦二、三年に至って、自作香炉に 「野々村播磨」や「播磨入道仁清」 と記すようになります。また 『隔蓂記』 からも「清右衛門」の呼び名は消えて、以後 「任 (仁の誤記) 清」に替わります。すなわち 「清右衛門」は「仁清」 となり、野々村姓を名乗り、さらに「播磨入道」と称しているのです。そしてそれらを総合しますと、清右衛門は明暦二、三年頃から 「野々村播磨大掾藤良正広入道仁清」 (北野天満宮旧蔵の万治二年銘の「色絵三具足」にこの銘が記されているという)というものものしい称号を作品に記すことができる身分になっていました。
『仁和寺御記』に「丹波焼清右衛門」 または 「壺屋清右衛門」 と記され、野々村を姓とするようになっているのは、彼が、『毛吹草』(寛永十七年刊) にも記されている葉茶壺の名産地、丹波野々村の壺屋の出身であったことを物語っています。そして仁清の呼称については、乾山の陶法伝書 『陶工必用』 によると 「仁和寺の仁と、清右衛門の清の字を合わせたもので、仁和寺の仁は当然仁和寺宮から授けられたものにちがいなく、さらに仁清の称を許される頃に「播磨「大掾」の称号も宮様から賜わったのでしょう。陶工としてこれほどの名誉を得たのは、やはり名工としての声価が高まりましたからで、ことに仁清独特の色絵の完成が評価されたのではないかと推測されます。
また明暦三年には剃髪していたらしく 「入道」と称していますが、もし明暦二年の破片が完全に残り、それに入道と記されていなかったならば、剃髪の原因は、あるいは彼の作陶上の最大の指導者であったと思われる金森宗和の死によるものと考えられますが、あるいは年齢によるものかもしれず、その間の消息は判然としません。
以上のように、仁清という呼称は正保四年開窯以来のものではなく、資料に見るかぎりでは明暦頃からのものでした。とすれば正保四年から仁清を称するまでの作品には、当然 「仁清」の印は捺されていないわけで、現存する御室焼の茶入やその他の作品で無印のものは一応初期の作と考えられますが、尊貴な人への献上品や注文品には印を捺さない風習もあるため、必ずしも無印物のすべてが初期のものとはいえません。
仁清が使用した印は五種で、①小判形大印、②大内印または幕印と呼ばれる小印、③繭形の小印、④ 「仁清」の清の字の旁が大印とまったく同様の小印、⑤ 清の字の旁が大印とは異なった小印などです。このうち⑤は俗に宗和印と呼ばれ、印形に大、中、小があるらしいですが、まだはっきりしていません。しかしこれらの印は名工であった初代仁清一人だけが使用したものではなく、二代仁清も使用したようで、明らかに作行きの劣るものにも捺されています。他に仁清の字を釘彫した書印のものもあります。
陶工の陶法などというものは口伝が多くほとんど記録を残していないのが普通ですが、御室焼仁清の陶法は、この窯で陶技を学んだ尾形乾山が書き残した陶法伝書 『陶工必用』 にほぼ全貌が記述され、いまに伝わっています。それによると胎土には「本窯焼土」 「五器手土」 「いらほ土」 「唐津土」 「瀬戸貫入手土」 「白絵べに皿手土」 などがあって、作品に応じて土の合わせ方がそれぞれ異なりますが、基本的には他の京焼にも用いられている 「黒谷土」 を基調として諸所の土を合わせています。
素地の上にかける釉薬にも 「本焼掛ケ薬」 「べに皿手薬」 「高麗薬ノ方」 「杜若手ノ柿薬」 「柿薬」 「春慶釉」 「茶入薬」 「瀬戸釉」 「唐物薬」 「茶入金薬」 「正意手茶入薬」 「ちょこ手薬」 「朝日手之薬」の他に 「青磁薬」 「瀬戸青薬」 「さび釉」 「いらほ手薬」 「刷毛目又井土手薬」 などの調合が記されています。現存する作品でそれとわかるものもあり、判然としないものもありますが、瀬戸系の釉法が種々記されていることは京焼の一般的傾向を示すとともに、仁清が瀬戸におもむいて修業したという伝えを裏づけています。
さらに「錦手絵の具」、すなわち上絵付の絵の具も「赤」 「萌黄」 「紺 (青のことですか)」 「黄」 「紫」 「白」 「金」 「黒」など、仁清の色絵に用いられているすべての調合が記されています。
作風は図示した百十七図によって、ほぼ全貌を概観しうると思いますが、茶壺、花入、香炉、香合、水指、茶入、茶碗、建水 蓋置、皿、鉢のほか水滴、硯屏にいたるまで作っています。轆轤の成形はまことに見事なものであり、また鳥獣をかたどった香炉や香合に示された彫塑的細工に対する手腕も抜群で、京洛の人々だけではなく 『徳川実紀』 の天和元年(1681) 七月二十八日の条によると、仁和寺から将軍綱吉に御室焼の茶碗、花瓶、硯屏などが献上されていますし、加賀の前田家や丸亀の京極家からの特別注文に応じて優れた作品が造られたことは、両家関係の名作が伝来していることから推して明らかであり、その他の大名たちの間でも大いに賞玩されたのでした。
香炉や香合、さらに茶碗、水指などの意匠は、都ぶりともいえる優美さが満ちあふれ、堂上公家の好みをつよくうけたためか、有職故実によった意匠が多いのも大きな特色です。文献資料にはまったく記されていませんが、仁清の作品のなかでももっとも重要なものに茶壺があります。そして今日現存する京焼のなかで茶壺を残しているのが仁清だけであることは、やはり彼が茶壺の産地丹波野々村の壺屋出身であったことによるのではないかと思われ、『丹波の古窯』 の著者杉本捷夫氏によると、その轆轤の作行きは明らかに丹波の風を示しているといいます。また茶壺の絵文様には、狩野派風、宗達派風、海北派風などの図が描かれ、おそらくそれらの流派の絵師に下図を注文していたようで、貞享元年(1684) 刊 『雍州府誌』 に 「近世仁和寺門前に仁清の製造する所是を御室焼と称し、狩野探幽、永真等に命じて其上に画かしむる事を始む」 とあることはその間の消息を物語っていますが、しかし実際に狩野探幽や永真が直接絵付していたかどうかは判然としません。
御室焼の窯場の様子についても、延宝六年(1678) 八月二十日に窯場を訪れた土佐尾戸焼の陶工森田久右衛門の旅日記に「御室焼見物に参る 別に替わりたる儀も御座無く候釜所も見物仕る釜も七ツ有唯今之焼手 野々村清右衛門と申也・・・・・・」 または 「御室焼別替りし儀釜迄無之候 掛花入にしゃく八 (尺八) あり かうろ(香炉) にゑびあり おし鳥きし (雉) など有」と記されていて、御室焼の作風の一端を示しています。なかで 「窯も七ツ有」 というのは興味深いですが、それについて窯場の域内に七ヶ所各種の窯が設けられていたのか七部屋の登窯であったのか判然としません。また 「唯今之焼手 野々「村清右衛門」 とあることから、この頃初代仁清は歿して、息子の清右衛門が窯大将であったかもしれません。
仁清は、以上のように正保から明暦、延宝頃まで活躍した名工であり、江戸時代の陶工としては文献資料のもっとも豊富な人ですが、それでいて生歿年はいまなお不詳です。
延宝二年二月二十九日と同五年二月十二日の日付で、仁清の長男清右衛門が借主になっている借金の証文が残っており、それには 「請人仁清 借主清右衛門」 とあることから、この頃仁清はまだ存命でしたが、延宝六年の森田久右衛門の日記には清右衛門が焼手となっていますので、あるいは延宝五年から六年頃にかけて歿したか、また六年には存命であったが隠居していたかもしれません。さらに、ほかに天和二年死歿説もあります。しかし元禄八年(1695) には歿していたことは明らかで、『前田貞親覚書」 に 「御室焼香合十三出来到着事外不出来御用に立かたく候間何とぞ為焼直 (中略) 仁清二代に罷成下手に御座候 旨申来候云々」 とあって、加賀前田家から注文の香合を、二代仁清が下手に作ったことに対する苦情が残っていますので、元禄八年には名工初代仁清は歿していたように推定されています。
仁清には、資料に見るかぎりでは三人の息子がいたようです。
すなわち長男野々村清右衛門政信、二男野々村清次郎藤良、三男野々村清八政貞、ほかに 『隔蓂記』によると 「安右衛門」 なる者が仁清の子として記されていますが、これはあるいは前記三名の内の一人の前名であったかもしれません。そして乾山に陶法を伝えた 「陶工必用』中に記されている「野々村播磨大掾藤良」 は二男清次郎であったように思われますが、やはり同書に仁清の嫡男清右衛門が元禄十二年の乾山開窯時に手伝ったことが記されています。するとこの清右衛門は二代を称したと思われる清右衛門政信の嫡男であったように考えられるのであり、二代清右衛門が早世したため弟の清次郎が二代仁清を称していたのか、あるいは初代が長命して乾山に陶法を伝授し、その長男の清右衛門が乾山の開窯を手伝ったのか判然としません。しかし明暦二年に剃髪して入道を称した初代仁清が、元禄十二年まで活躍していたとは考え難いのではないでしょうか。
御室焼は正保四、五年頃から元禄年間にかけて、およそ五十年間続いたようです。そしてその間の大半の作品に大小の仁清印が捺されたのであり、当時は御室焼と呼ばれていましたが、後には仁清焼と呼ばれて世上珍重されたのでした。この御室焼仁清の窯がどのような仕組みで運営されていたかは、江戸時代の京焼の性格を知る上でも興味深いことなのですが、その状況を伝える資料がほとんど残されていないのは残念なことです。
ところで、今日仁清といえばすべて初代仁清の作とされていますが、五十年間初代仁清一人が窯大将として活躍したわけではなく、延宝以後には彼の息子たちが作陶を主管していたように推察され、したがって仁清印のある作品のなかには、初代とその後継者たちの作陶が含まれていることは明らかです。元禄八年の『前田貞親覚書」から推測しますと、その頃作行きがかなり低下していたことは事実であったと思われます。そして伝存した作品を見ても作行きにかなりの違いが認められるのですが、それらを作行きの優れたものを初代、劣るものを二代以後と概念的に分けることは今のところ許される状況ではありません。作品に捺されている数種の印が作者の違いを示しているのかと考えて作品を分類してみたが判然とせず、印の使用を特製品と並製品とに区別して捺していたかとも考えられ、要するに作品の上で明確に初代と二代その他とに分類することは、新しい資料が出現しないかぎり不可能に近い作業のように思われます。
ここに収録した百十一点の作品もすべて初代仁清作として伝世したものですが、細かく観察すると作振りにかなり巧拙のあることは確かです。しかしいずれも貴重な愛蔵品であり、これらを対象にして細かく研究調査し、なんらかの異議を申し立てることはなかなか難しいことです。