瀬戸 美濃 Seto Mino 解説

瀬戸 灰釉狛犬

瀬戸 美濃
 美濃とともに中世における唯一の施釉陶器であった古瀬戸は、周知のように名古屋市の東北東約20km、瀬戸市街地をとりまく標高100~200mの低丘陵地帯において焼かれました。狭義の瀬戸窯は尾張旭市の東端から瀬戸市のほぼ全域に拡がっていて、東西約11km、南北約10kmの範囲にわたって、六百基に近い古窯跡の存在が知られています。実数はおそらくこれよりはるかに多かったと考えられます。これらの古窯跡は平安後期の灰釉陶窯から中世の全時期のものを含んでいますが、各時期のものが全域に一様に分布しているわけではありません。
 赤塚幹也氏の三十数年にわたる調査結果をまとめた労作 『瀬戸市史陶磁史篇』によれば (巻末分布図参照)、猿投窯の外延である平安後期の灰釉陶窯は南部の矢田川(山口川) 以南に、山茶碗窯は瀬戸市街地の西半に、中世の施釉陶は市街地東部から猿投山西北麓にそれぞれ分布の偏りがあります。これは瀬戸窯が西から東へ向かって時代とともに展開したことを示しています。年代の明らかな古窯跡四百四十八基の内訳は、平安期灰釉陶窯九基、中世施釉陶窯二百一基、山茶碗窯二百三十八基ですが、山茶碗窯の実数はこれを大幅に上まわると考えられます。
 古瀬戸の発生に関して、いわゆる藤四郎伝説があります。これには諸説ありますが、よく知られているのは、陶祖加藤四郎左衛門景正が貞応二年(1223) 道元に随って入宋し、陶法修業ののち安貞二年(1228) 帰国、各地で試作の末、仁治三年(1242) 瀬戸に良土を得て窯を興したのが始まりであるというものです。こうした伝承はさておき、遺物遺跡に立脚した場合、現在、古瀬戸の成立について二通りの考考え方があります。一つは、輪積成形による灰釉四耳壺や瓶子の発生を指標とし、伴出の山茶碗の編年から古瀬戸の確立を鎌倉中期に求める考え方です。赤塚幹也氏は、11世紀初めごろ瀬戸市山口の広久手窯において始まった灰釉陶器の生産が12世紀代に入って衰退し、山茶碗窯に転化しましたが、鎌倉中期に瀬戸市街地の南部丘陵に進出して四耳壺 瓶子などを大量に焼く灰釉陶窯として復活したのが古瀬戸の確立であるといいます。これに対して筆者は古瀬戸特有の四耳壺の発生を平安末期の東山古窯跡群に求め、猿投窯平安灰釉陶器生産の流れの一環として、広域的に捉える必要性のあることをかつて論じたことがあります。もちろん、赤塚氏も東山窯における初期四耳壺の存在を早くから指摘していますが、こうした考え方の相異はその内容をどのように把握するかという問題に関わっています。平安末期、古代的生産体制の崩壊を通じて猿投窯は分解し、南方に壺・甕・擂鉢を主体とする常滑窯を成立させたとき、その分極の一つとして、上手物の施釉陶器の生産地がおなじ圏内の一部に生じたとみることは、当時の莫大な輸入陶磁の存在を考慮に入れてもなおありうべきことと考えねばなりますまい。最近、猿投窯の発祥の地であり、長い空白ののち11世紀代に灰釉陶器生産地として復活した東山窯では、12世紀代に入ると他の地区が山茶碗 小皿を主体とした無釉の雑器生産に転化したのに対して、中央の院政政権や在地の新興寺院勢力を背景に 屋瓦や仏器類などの高級品の生産にたずさわっていたことが知られるようになってきました。そのうちには四耳壺や仏器のみならず、広口壺の胴に二重の沈線をひき、その間に牡丹文を繞らすといった、古瀬戸の母胎をなす新しい未磁の模倣が始まっていることも最近になって知られた重要な事実です。常滑窯が猿投窯西南部から遠く知多半島中央部に飛んでその成立をみたように、高級施釉陶器生産地としての瀬戸が東山窯からの移動によって成立したと考えることは、その製品の内容からみてむしろ自然な考え方ではないでしょうか。
 古瀬戸の製品はいうまでもなく、美濃とともに中世における唯一の施釉陶器でした。したがって、数多くの山茶碗窯をのぞく二百基余の施釉陶窯では比較的小形の高級日常用具および仏器類の生産を主としており、大形の壺 甕などを焼いた常滑 渥美窯との間に器形別分業を行なっています。これらの高級陶器は社寺 貴族 武士階級・ 富裕農民層を対象とした日常容器類に広く及んでいますが、その主要なものが中国陶磁の模倣であったところに特色があります。古瀬戸の器形は飲食器としての碗・皿・鉢 水瓶 土瓶 調理具としてのおろし皿・擂鉢 片口堝釜、貯蔵容器としての壺・瓶甕類、日常用具としての薬壺・水滴合子・燭台・筒形容器 洗 折縁深皿、仏具としての瓶子・花瓶 仏供・燈明皿・香炉・ 仏塔、茶陶としての天目茶碗 茶入 茶壺をはじめ、入子・沈子陶丸狛犬な··どきわめて多種類に及んでおり、碗皿 瓶 壺類はさらに数型式に分かれるなど五十種類をこえる器種を含んでいます。もちろんこれらすべての器形が鎌倉・室町両時代を通じて一様につくられているわけではなく、時代によってそれぞれ消長があります。とくに鎌倉時代と室町時代の間には性格の上で大きな差異が認められます。すなわち、鎌倉時代から室町時代の初めごろまでの前半期には四耳壺・ 瓶子・仏花瓶・香炉など蔵骨器や社寺を対象とした祭祀用具が顕著であるのに対して、室町時代には天目茶碗、茶入 灰釉平碗 小皿類など、消費都市を対象とした日常生活用具、とくに茶陶類の存在が目立っています。そうした器種の違いばかりでなく器面の装飾にも大きな差異があり、前者は印花文画花文・貼花文などで豊かに飾っているのに対して、後者は無文化が著しく、むしろ釉薬に力を注いでいます。
 つぎに古瀬戸の製作技術について述べましょう。瀬戸が施釉陶器の生産地として成立した最も大きな理由は耐火度の高い良質の陶土に恵まれていた点にあります。周知のように瀬戸市周辺は木節目粘土と呼ばれる良質の粘土を豊富に埋蔵していますが、それらは猿投山の基盤をなす花崗岩を母岩とする第三紀鮮新統の瀬戸陶土層および矢田川累層などの堆積物で、砂礫層の間に白色粘土層をなし、カオリン系鉱物を主としています。これらの粘土は通常水を行なわず単味で用いたらしいです。大形品はやや荒いもの、小形品は粒子のこまかい粘土を用いています。茶入や茶壺は器物の刻銘や文献からも知られるように鉄分を含んだやや荒い祖母懐土が用いられました。
 古瀬戸の成形技法は器物の種類や大小によってさまざまですが、水挽き轆轤成形、紐土巻き上げ成形、紐輪積成形、一部型物使用紐輪積成形の四方法があります。高さ10cm内外までの小形品は水挽き轆轤成形ですが、それ以上の器物は他の三方法が用いられています。四耳壺はごく初期には平安灰釉陶以来の水挽き手法を残すものもありましたが、大半は紐輪積成形であり、室町時代に入ってふたたび水挽き成形が行われるようになりました。最盛期の瓶子は赤塚幹也氏によると肩の内型を上にしてまず肩の部分をつくり、その上に紐輪積で胴を接いだのち、別に轆轤で挽いた口頸部をとり付けたものといいます。
 古瀬戸の器面装飾は本来中国陶磁のそれを写したものですが、豊富な器具と手法を生かして古瀬戸独特の文様を描き出しています。
 最も一般的な手法は文様を刻んだ施文原体(やきもの)を器面に押しつけた印花文や丸鑿を用いた画花文 粘土紐や小円板を貼りその上から印花や刻みを入れた貼花文、櫛目を用いた櫛描文の四種のものがあります。これらの文様は瀬戸地域においてはまず印花文に始まり、つづいて画花文・貼花文櫛描文があいついで現われ、最後は櫛目文で終わっていますが、鎌倉末から南北朝にかけての最盛期には各手法を組み合わせて器面全体を飾る複雑な文様が用いられています。これらの文様の題材は、丸角・菱・十字・ 格子 連珠・点列などの幾何学文 牡丹・蓮・菊・梅松椿・柳・唐草 葵などの植物文、魚・蝶などの動物文のほか、器物を模したと思われるものが若干あります。
 古瀬戸の釉薬は灰釉と鉄釉の二種のものを基本としていますが、まず灰釉が用いられ、鎌倉期以降、鉄釉が併行して用いられるようになりました。灰釉は初期には木灰単味の釉層の薄いものでしたが、のしだいにサバと呼ばれる長石質の釉材を加え、釉層の厚い安定したものになりました。鉄釉は主として鬼板と呼ばれる粘土層の上部に沈澱した固形板状の酸化鉄が用いられましたが、南北朝以降には黒浜や水打なども使われたと考えられ、これらの鉄釉の製法の発展の末に瀬戸独特の優れた黒褐色釉 (古瀬戸釉) が生み出されました。なお、焼成技術については変遷を述べるなかで折にふれて論ずることにします。
 古瀬戸の変遷は通常、鎌倉前期以降、室町時代中期までを前・中・後期の三段階に区分して叙述されていますが、本稿ではさきに述べたように成立期の瀬戸を平安末として捉え、さらに室町後期の大窯時代を後期から切り離して五段階とし、中後期をさらに二分して七期の細分を試みました。以下、この区分にしたがって古瀬戸の変遷の大要を述べます。
 第一段階は古瀬戸の草創期ともいうべき時期で、東山窯から瀬戸への移動の時期に当たっています。古瀬戸発生の指標を灰釉四耳壺に求めますと、瀬戸市域では矢田川(山口川)の南に接した菱野新田大草洞口窯が最も早く、平安末ないしは鎌倉初期まで遡りえます。この窯は山茶碗窯ですが、つづく大草洞1号窯でも山茶碗とともに灰釉四耳壺を焼いています。おそらく東山窯から大草洞窯を結ぶ矢田川以南の丘陵沿いに灰釉四耳壺の生産があまり時間差なしに始まったと考えられます。東山窯のそれもすべて山茶碗窯ですが、製品の種類は窯によって違いがあり、なかには東山101号窯のように、瓦・花瓶・火舎香炉などの仏器類を焼いているものもあります。こうした前駆的なものはさらに矢田川を北に越えた瀬戸市街地の美濃池高根山窯や中水野少年院中窯にも現れており、まず瀬戸市の西部および西南部の地域において、古瀬戸の母胎が形成されたと考えられます。
 第二段階は従来前期として捉えられてきた時期であり、12世紀末から13世紀末までの間です。この時期の窯は約八十基が知られており、分布範囲も品野、赤津地区など、かなりの拡がりをみせていますが、瀬戸市街地をとりまく丘陵地帯に五十基余の窯が集中しており 生産の中心は瀬戸市街地東部の丘陵地帯にあります。この段階になると古瀬戸の器形は豊富となり、四耳壺のみならず、瓶子 水注・擂鉢・おろし目皿・小形仏花瓶洗水瓶合子入子・仏供など、あたらしい器物のセットが形づくられています。これらのうちでもとくに四耳壺・瓶子類が量産されています。釉薬は灰釉のみですが、灰単味で釉層は薄く流れ縞の多い不安定なものです。文様は四耳壺や瓶子の肩に数条の櫛描条線が施されるようになり、やや遅れて小形の菊花文を中心とした印花文も現われています。
 第三段階は鎌倉後期から南北朝期までの、古瀬戸の最盛期です。
 この時期の施釉陶窯は約六十基が知られています。分布範囲は瀬戸市域のほぼ全域に拡がっていますが、分布の中心は東南部の赤津地区に移っており、過半数に達する三十六基の窯が猿投山の西北麓に展開しています。この段階の製品は前代からの四耳壺 瓶子・水注・おろし目皿に加えて、新たに水滴・仏花瓶・香炉・狛犬燭台などが出現し、またわずかながら天目茶碗・平茶碗・茶入なども焼かれるようになって、古瀬戸のほとんど全器種が出揃いました。また各器種のなかでもいくつか種類の増加がみられるのは香炉・仏花瓶とともにあらたに中国陶磁の器形を導入したためです。とくにこの時期に出現した器種のうちには南宋竜泉窯や景徳鎮窯との結びつきを示すものが多いです。成形は小形品を除き、壺瓶類は主として紐輪積轆轤成形ですが、この段階の後半には水挽き轆轤成形に転換しています。文様はさきに述べた四種の文様が出揃い、各種の文様がさらに組み合わせられて器面を豪華に飾っています。釉薬は灰釉に加えて新たに鉄釉の使用が始まりました。灰釉は長石分が多くなって淡緑色の美しい安定したものが多くなっています。鉄釉はまだ透明性のいわゆる飴釉で、濃淡のいちじるしいものが多いです。焼成窯はその初現以来、燃焼室と焼成室の境に分焰柱を設けた、山茶碗窯と同様な構造のものですが、この段階になると床面の傾斜がつよく、窯体上半部を細くしぼった燃焼効率のよい構造のものに変化しています。
 第四段階は従来後期といわれている時期のうち前半の、室町前期から中期にかけての時期です。この段階には六十五基の窯が知られていますが、分布の中心はやはり赤津地区にあり、他地区が減少してますます赤津地区に集中した感があります。分布範囲も標高200m ちかい猿投山麓の奥深くに築窯しており、最も拡がりをみせた時期です。この段階における製品は器種の上では前代のものをひきついでいますが、四耳壺・瓶子など仏器的なものが減少し、実用的な平碗・小皿類 折縁深皿・片口擂鉢が増加し、日常生活と密着した窯業に転換しています。また、前代に出現した天目茶碗 茶入などの茶陶類は都市における喫茶の風習の増大とともに生産量も増加し、和物茶陶としてすぐれたものがつくられるようになりました。器物の成形は轆轤技術の向上によってほとんど水挽きに転換しています。文様は瓶子や仏花瓶の一部に丸彫りによる簡単な画花文が残るのみで、この時期を通じての文様といえば四耳壺・ 瓶子の肩に施された櫛目波状文ぐらいです。釉薬の面では灰釉は長石分が増加していっそう安定し、淡緑色の美しい釉調のものが多いですが、後半になると酸化焰焼成による黄緑色に変化しています。鉄釉は黒褐色の光沢のある古瀬戸釉が完成し、天目茶碗 茶入などにすぐれた釉調のものが数多くつくられています。
 第五段階は15世紀末葉から16世紀中葉にかけての、室町後期に相当する時期です。15世紀中葉代、すでに三河 美濃など周辺部の地域に拡散し、窯数の減少しつつあった瀬戸では、この段階に入る岐阜県多治見市笠原町妙土窯跡と従来の窖窯は消え、新たに瀬戸・ 赤津・ 品野 水野などの集落の近くに大窯と呼ばれる新様式の窯が築かれるようになりました。この大窯は半地上式の、燃焼効率の良い窯体構造をもっており、その製品は従来の日常食器類をある程度引き継いではいますが、主要品種は天目茶碗 丸碗 丸皿・擂鉢であって、前代と大きく変化しています。
 それは15世紀末葉、中国の海禁政策が緩み、大量の青磁・白磁・染め付けなどの優れた陶磁器が輸入されるようになったため、それに対抗して技術革新を行い、従来の商圏を確保する必要に迫られることになったためです。現在、瀬戸ではこの段階の大窯は十八基が知られていますが、それらは大窯期の前半代に限られており、後半代には瀬戸地域には窯はみられなくなります。いわゆる瀬戸山離散です。
 瀬戸とならんで中世後期における施釉陶器の生産地である美濃は桃山時代に志野 黄瀬戸 織部などのすぐれた茶陶を生み出したことであまりにも有名です。この美濃における施釉陶器の生産の開始は従来、室町後期における瀬戸山離散によって、山づたいに美濃入りをした工人たちによって始められたものといわれています。しかし、最近における美濃窯の調査は急速に進んでおり、従来の通説はかなり変更を余儀なくされるにいたりました。ここではその要点のみかいつまんで述べておきましょう。多治見・土岐瑞浪・笠原 可児の三市二町を含む東濃西部の地域では奈良時代の須恵器生産から始まっており、平安中期の空白ののち、平安後期には灰釉陶器の産地として復活し、灰釉陶窯四十数基、室町初期までの山茶碗窯二百五十基以上という大窯業地を形成しているのです。一方、瀬戸系の施釉陶窯は土岐市妻木町の窯下窯を南端とし、西山沿いに北上して土岐川を渡り、泉町の日向窯までの間に合計八基の窯が現在確認されています。それらのうちには多治見市の大荷場窯や日向窯のように室町中期よりやや遡ると考えられるものがあり、その開始の意外に早いことが注目されるのです。この八基の分布地域が土岐氏 妻木氏の本貫であることを考えれば、瀬戸山離散によって生じたものでなく領主経済の一環として成立したものと考えられます。いわゆる窖窯時代はこの八基をもって終息し、瀬戸と相前後して大窯時代に転換します。その窯体構造や製品器種は瀬戸とまったく同様です。大窯時代は15世紀末から17世紀初めまでの約百年間で、戦国時代に相当しますが、その前半と後半では製品器種に大きな変化があります。瀬戸に生産の中心のあった前半代においては美濃では小名田窯下1号窯 妙土窯など、わずか数基の窯がみられるだけでしたが、後半代に入ると瀬戸からの流入者を加えて急速に窯数が増加し、五十基を越えある大窯業地に発展しました。この後半代の大窯の製品は輸入中国陶磁の模倣とその量産化に加えて、当時流行しつつあった侘び茶の深化に伴い、従来の灰釉 鉄釉製品のみならず、新たに黄瀬戸 瀬戸黒・志野という和物茶陶や食器類が創出されるにいたりました。時代はまさに桃山であり、近世陶器への転換をそこにみることができます。

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