瀬戸黒

黄瀬戸

 瀬戸黒も黄瀬戸と同じように、桃山時代にいたって忽然とあらわれたものではなく、やはり室町時代以来の伝統的な技術の上にのってあらわれたものである。すでに述べたように、室町時代以来、美濃でも瀬戸と同じように天目茶碗が多く焼かれていた。その天目茶碗を焼くとき、釉の溶け具合を調べるために、いわゆる色見用に茶碗が引き出されたとする。すると溶けた釉は冷たい外気に急に触れて、黒く釉膚が変化したものができたにちがいない。それがいわゆる瀬戸黒の釉である。したがって、室町時代以来の美濃の窯の周辺に捨てられている破片を詳しく調べれば、天目茶碗の引き出し黒があるにちがいない。
 しかしそうした黒い釉に着目して、いわゆる瀬戸黒茶碗を焼くようになったのは。室町時代末期、永禄年間頃からであったように思われる。かつて私は美濃を訪れ、小名田の尼が根という窯跡から出土した破片を見た。そこから出土した瀬戸黒風の茶碗は、腰にまるみのある茶碗であったが、この窯は室町時代末期、天文から永禄年間にかけて窯煙をあげていた窯であったと推定されるようになった。
 瀬戸黒は瀬戸の黒茶碗の意味であるが、のちに瀬戸黒と呼ばれるようになった。瀬戸黒の特徴は半簡または筒形の形式で、初期の作品は小名田の尼が根窯出土品に見るように腰にまる味があるが、くっきりと腰の張った姿に完成するのは、やはり天正年間(1573-92)にいたってからであったと考えられ、したがって俗に「天正黒」とも呼ばれているのである。鉄釉がかけられているがその漆黒色の釉調は。焼成中に窯から引き出して急に冷却することによってもたらされるもので、「引き出し黒」ともいわるれ所以である。
 瀬戸黒茶碗は美濃の小名田ではじまり、つづいて浅間、さらに大萱と広がっていったようであり、もっとも優れた作品を焼いたのは大萱の窯で、世上有名な「小原木」・「小原女」・「冬の夜」などの銘をもつ茶碗は、天正年間に焼かれたようである。
轆轤成形したのち胴に箆を加え、また口造りにやや変化をつけるなど作為が加わっているが、志野や織部に比して全体的に轆轤成形の趣を残した端正な姿のものが多い。また瀬戸黒は高台を削り出したものがほとんどであるが、それがきわめて低く作られているのも特色であり。土はやや鉄分を含んだざんぐりとした土が用いられている。
 瀬戸黒は従来の古瀬戸の鉄釉の延長線上に現れたものであるが、漆黒色の釉調を得る引き出し黒の技法は天文年間以後に新しく現われ、その後形姿も天正年間を過ぎて文禄から慶長(1596-1615)にかけて次第に作為の加わったものに変化し、それらを俗に「織部黒」と呼ぶようになるが、とくに慶長年間に入ると沓形のゆがみの強いものになり、釉技も黒釉の上に長石釉を二重がけして釉景色に変化をもたせるようになる。また次の段階では、黒釉を掻き落として線刻による筋文様や簡略な絵文様を表したもの、さらに一方または二方に黒釉をかけはずし、かけはずした素地の上に鉄絵具で絵文様を描き。その上に長石質の白釉をかけた、一般に「黒織部」といわれている装飾的な絵文様の加わった茶碗が焼かれるようになったのであった。釉をかけ分けるだけでなく、黒釉を掻き落として文様を表わすなどかなり技巧的なものが多い。それらは慶長年間中頃から元和頃にかけてかなり量産されたらしく数多く残されている。