大正名器鑑 Taisyoumeikikan 解説

taisyoumeikikan
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思ひ立ちてより十年、着手してより五年の星霜を閲して今や大正名器鑑第一編を刊行せんとするに當り、本鑑編成中余に深厚の同情と多大の便宜とを與へられたる社會各方面の諸君子に封して滿腔謝恩の誠意を表するは余の最大義務なりと信ず。余が本鑑編集の大願を發したるは大正元年の事にして、爾來之を實現する方法を講究しつゝありしが、同六年に至り、名器撮影及び彩色圖木版の成績漸く我が所期に達せを以て、玆に其説明記述の様式を定め、愈々諸家の名器拜見に取掛りしに、一時に多種類を網羅せんとすれば調査上不手廻りを生じ、彼此互に混雑して共に疎漏に陥るべきを發見し、第一期計畫として先づ茶器の儀表たる茶入、茶碗を取調べ、全力を此二種類に集中するの得策なるを悟れり、是に於て天下名物茶入、茶碗の約七分の一を領有せらる、松平直亮伯を四谷元町邸に訪ひ余が本鑑編集の趣旨は寛政年間伯の高祖松平不昧公が、古今名物類聚を編述せられたると同様にして、今日昭代の餘蔭に依り、更に一層精密なる圖録を調製せんとするに在る事を告げ、只管伯の援助を懇請せしに伯は欣然さして之を諾し、不味の時代は名器檢覽の困難、撮影技術の不備なるが爲め、今日の目を以て見れば、其調査も微に入り細を極むる能はざりしに、今日貴下が一層精密なる名器鑑を編輯せんとするは、斯道の爲め誠に有益なる企圖なれば、自分は貴下の目的を貫徹せしむべく、能ふ限りの便宜を提供すべしとて大に余を獎勵せられしにぞ、余は伯の此一言を以て百萬の援兵を得たるよりも有力に感じ、大正七年五月、同家東京邸所藏の名器三十八點を検覧し、引續いて松江市寶藏分五十五點を調査し終りて、玆に名器鑑の中核を構成する事を得たるは余の感謝措く能はざる所なり。次いで同年十一月、幕府傳來の御物を保藏せらる、徳川家達公を訪ひ、本鑑編集の趣意を披陳したるに、公は此計畫を以て最も時宜に適せりと爲し所藏の大名物茶入十三點、茶碗六點の検覽竝に撮影を許可せられたるのみならず、同族諸家に對して、余に其所藏名器を検覽せしむべく親しく勧誘の勞を執られしにぞ、余は引續きて徳川三家の名器を拝見し、夫れより島津忠重、毛利元昭兩公家、猶ほ次で小松輝久、前田利爲、細川護立、井上勝之助諸侯、松浦厚、酒井忠正、同忠道、德川達孝、久松定謨、南部利淳、有馬賴萬、堀田正恒諸伯、松平賴和、相馬孟胤、土屋正直、小出英延、松平康民、大河内正敏諸子、岩崎久彌、同小彌太、森岡彥諸男家を歴訪して其寶庫を巡覽せしが、此外三井同族諸家は、余が嘗て奉仕したる舊誼に依りて容易に余の希望を容れられ、益田鈍翁、馬越化生、根津青山、加藤正義、阪本金彌諸君は余が敬愛する先輩なれば、無論數便宜を興へられ、着手以來に至るまで、東京方面の調査は最も順調に進捗せり。若し夫れ東京以外に在りては、大正八年四月加州金澤に赴き、越澤宗見、松岡三次兩氏の周旋に依りて、横山隆俊男を始め、同地諸名家の所蔵品を檢覧し終わり、大正九年五月には大阪に於て先づ住友、藤田、鴻池三男爵家の名器を拝見せしが鴻池家は二百年來容易に其所藏を人に示さざる家風なりしに善右衞門男は余が願意を聞き、是れ名物茶器の國勢調査なりとの警句を洩され、名器所藏者は之を援助して其目的を達成せしめざる可らずとて、二回に亘り 快く秘蔵の名器を展示せられ、其他村山龍平、平瀬三七雄、島德藏、上野理一、高谷恒太郎、磯野良吉、野村徳七、阪上新治郎の諸氏も亦皆余の所望に應じ、廣島に於ては淺野長勳侯の特許を得て、觀古館收藏の名器を検覚し、京都に於ては町尻量弘子、東西雨本願寺、孤篷庵、龍光院、本圀寺、毘沙門堂、藪内家、表千家等の諸名器を縦覧する事を得、名古屋に於ては同地の冨田重助、關戶守彥兩君の斡旋に依り、小出庄兵衛、八木平兵衛、吹原九郎三郎、佐野治朗、岡谷惣助、早川い俄子等諸家の臓器を實見する便宜を得たり、此際に在りて能く名器所藏者を知り又其名器の傳來を審にする道具商諸子の盡力は大に之を鳴謝せざる可らず。松平不昧公が古今名物類聚を編纂するに當りて、竹屋宗郁、伏見屋甚兵衛、吉村觀阿、谷松屋權兵衛等の意見を徴し、又其斡旋に由りて大に名器調査の便宜を得たると同様、今回余の名器調査に就ても、東京に於ては山澄力藏、梅澤安藏、川部利吉、伊丹信太郎、池田慶次郎、大阪に於ては戸田彌七、同子息音一、池戸宗三郎、春海商店の三尾邦三、小田榮作、京都に於ては土橋嘉兵衛、服部七兵衛、林新助諸子の最も忠實懇篤なる援助に依りて、諸家名器の所在を知り、又之を檢覧するの機會を捉ふる事を得たるは余の大に其勞を多とする所なり。又本鑑編纂に就ては大正六年赤坂區一ツ木町に名器鑑編纂所を開設以來、梅園高橋龍雄氏が余の補助として來りて編纂事務に當り、毎回名器檢覽に立會ひ、雑記の資料蒐集に勉め、興味を以て大に盡力する所ありたるは、適材を適所に得たる者と謂ふべく、又余が秘書山口鐵市は、茶器檢覽竝に撮影に立會ひ、實見記の速記を擔當し、寫眞師長谷川清七郎は、名器撮影上種々の工夫を凝らして頗る好成績を示し、精藝社の川面義雄氏は、名器着色圖と其木版作成とを引受け陶器の彩色に前例なき技術を發揮せられ、又審美書院長窪田六氏は、熱心に此事業を賛成し、本鑑の印刷製本等に就き責任を負うて自から之を監督し何れも同心一體に本鑑の完成を幇助せられたるは、余が満腔の感謝を禁ずる能はさる所なり。
余は水戸藩士の家に生れ、少小藩學に在りて漢籍を修め、後慶應義塾に學んで出世の初め時事新報記者と爲り、更に轉じて實業社會に入りしが、明治四十五年思ふ所ありて一切の塵累を避け、獨立自適茶事を娯み、文藝を愛し、時に東都茶會記、大正茶道記等を公にして、天下風雅の士人と交り、其愛顧眷遇を辱うせしが故に、余が本艦編集の事を發表するや、名器所藏者各位は必ず相當の効果を齎らすべきを期待せられたる者の如く、到る處最も眞摯なる同情を寄せられければ、名物茶入茶碗の檢覧に關して非常の便宜を享受したれども、本来此事業たる學力、識力、勞力、資力等種々の要素を結合するに非ざれば其完成を期す可きに非ず、然るに余は淺學菲才なるに加へて、最初より他人の物質的合力を乞はず、單獨にして此事業に當りしが故に、幸に大正の聖代に遭ひ、古人に幾倍する文化の餘慶に浴しながらも、種々の困難に逢着し、辛うじて茶入、茶碗二種だけの調査を完了する事を得たりしなり。然れども茶人として、利休より遠州よりも、松平乘邑よりも同不昧よりも、幾倍多数の名器を實見する事を得たるは實に畢生の幸慶にして、此點に至恩たがりも茶事開創以來余が第一人なりと誇るも決して過分に非ずと信ず、而して此等未曾有の眼福を専有し、此名器鑑を後世に留むる事を得たるは固より昭代の恩澤なりと雖も、各方面諸君子の庇護同情に負ふ所極め大なるが故に、余は本鑑劈頭に此謝恩記を掲げ、一は以て中心の感喜を表白し、一は以て本鑑の由来を天下に告白する者なり。
東都赤坂一木伽藍洞に於て
箒庵 高橋義雄識

本編名けて大正名器鑑と云ふ抑も名器とは何ぞや、今我の實際に就て云へば、正倉院御物其他帝室の御臓器も名器なり、全國古社寺に傳存する什器も名器なり、縉紳、富豪、大家の貯蔵する重寶も亦皆な名器ならさるなし、而して其所謂名器には武器もあるべく樂器もあるべく、或は室内装飾品もあるべく其他雑多の種類あるべしと雖も、本編に於て名器と稱するは 単に茶器を指せるなり、古來茶人間に於いては有名なる器を名物或は名器と云ひ、其時代を分ちては或は大名物と云ひ、或は中興名物と云ひ、其持主を分ちては東山御物、柳營御物、或は何々家藏帳品と云ひて、廣く此社會に通用するが故に、今探って以て本編の名稱とは爲したるなり而 て名器は如何なる種類の茶器中に存在するやと云へば、大要左の八品目に過ぎざるべし。
茶入 碗碗 茶杓 葉茶壺 花入 香爐 香合 釜
此他水指、建水、炭斗、五徳、火箸、爐縁等の品種ありと、其中に名器と解すべき者甚だ少なきが故に、名器艦は前掲八種類中の名器を収録するを以て足れりとすべし、左れば余は當初右八種類に就て名器調査を遂行せんとする績なりしに、實驗上種目多岐に涉れば、彼此互に混雜し總體疎淵に陥るの虞れあるを感知し、第一期計畫として八種類中最も名物に富みたる茶入、茶碗の二品目を先きにし、此二品目に就ては廣く探り過く求め、及ぶ限り之を網羅せん事を期せり、案ずるに名器の収藏は足利義政に濫觴し、東山時代に於て能阿彌、相阿彌、引拙等が之を品第したるを君観左右帳と云ふ、次で天正時代に於て千利休、津田宗及等が更に之を鑑査して、其高下を甄別したるを大名物と云ひ當時之を記録したる者を山上宗二の茶器名物集とす、其後寛永時代に小堀遠州出で、新に名物茶器を選定したるを中興名物と稀し、是れより大名物中興名物と相竝んで名器の數量大に増加しければ寛保年度に於て松中左近將監乘邑、名物記を選み、寛政年度に於て中出守宗納古今名物類聚を著し、文政年度に於て本屋了雲麟鳳 龍を編畢生の心血を注いで各各其調査に従事したれども、封建屋代には、諸大名の臓器多くは其藩在り、交通不便其他の事情の爲め容易に之を拝見する能はず或は偶々拝見するも、当時寫眞撮影の事便宜を得ざりしを以て、遂に完全なる名器集を編成する能はざりしは、時勢實に之をして然らしめたるなり、然るに今や交通の便大いに開けて、名器檢覽に好都合を得たるのみならず、寫影圖畫の技術も著しく進歩したれば、余は名器調査上幸に古人にして幾倍する利便を享有して其遺漏を補ふ事を得たる次第にして、畢竟昭代の餘恵に外ならざれば、茲に大正時代に調査したる名器圖祿と云へる意味に於て、本編を大正名器鑑とは名けしなり。

名器と義政
東山時代に茶事起こり茲に茶器の必要を生せり、足利義政が鎌倉以來歴代将軍に先例なき多數の書畫什器を収蔵したるは畢竟此必要に基きたる者ならんが、是れが偶然にも朱明極盛の時代に相當し、彼の國に於て宋元書畫器具の猶ほ頗る潤澤なる際に於て、極力名品を我國に輸入すを得たるは實に千載一偶の好運と謂はざる可らず、我が茶禮に使用する茶入、茶碗、花入、香合の類は、少くも、鎌倉時代より輸入せられ、其後必要に應じて漸次追加したる者にして、悉く東山時代に輸入したるに非ざれども、義政始め當時我が上流の士人は概ね支那崇拝家のみなれば、茶器の如きも専ら漢作竝に唐物を尊重し、支那の文物未だ地に墜ちざる間に於て、其國賓とも見るべき名品を陸績輸入したる次第にして偶然の結果とは云ひながら、之を世界的大勳功者と稱して可ならん。若し彼の時に於て、義政等が支那の名品を我國に輸入せず、其儘之を彼の図に残し置きたらんには、清朝幾多の發亂を経て悉く煙散霧消せしや知る可きなり、後世事を解せざる者漫に義政の華奢文弱を云々すれども、今日東洋の文化を研究せんとする者は、義政其他東山時代の風雅人に依りて輸入せられたる本邦現在の名物に據るの外なきが故に、我が國民も深く意を此邊に留め、海外名器の我國に傳來したる経路を審にして、義政を始めを東山時代の數寄者に感謝する所なかる可らざるなり。

名器と名稱
名器に名稱を冠して之れに獨自一個の資格を附輿するは、封建時代に苗字なき平民に苗字を許して何の某と名乗らしむるが如く、其位置を向上せしむるに最も有效なる條件たるべし、蓋し名器に特名を附するは文字國たる支那の慣例にして、彼の国の樂器、文房具などには往々雅稱を有する者あり、日本に於ても古來其類例ありたれども、名器あれば必ず其名稱あるに至りたるは、茶事の始めて起りたる足利義政時代よりの事なるが如し、案ずるに義政は文雅を好み、意匠に富み、自から愛藏の器物に命名せし者少から、又其臣下にも風雅者多く、題箋を作り箱書附を爲し、名器に其所持人の苗字若くは雅號等を冠して何肩衝、何茄子、若くは何々文琳など云ふ呼銘を定め、茶書に載せ目録に掲げて、遼に天下の重寶に列せしめたる者枚舉に遑あらず、其後利休時代に至り、彼の物數寄にて各種の茶器を作り、折に触れ興に乗じて夫れぐれ名稱を附したるが爲め、左までの實價なき器物まで、大宗匠を鳥帽子親に持ちて、名器の仲間入りを爲せし者あり、更に遠州に至りては、不世出の鑑識を以て世間器物の伯楽と爲り、其選み出したる古物若くは其意匠に成りたる新品を取り上げて、或は和歌の心を寄せたる歌銘を附け、或は其形状、釉色等に因みて風雅なる名稱を下し、當時同好の茶友澤庵、江月、松花堂等と商談合して、箱書若くは附属物等に様々の工夫を凝らし其文筆の力に依りて、無名の器物に名物の資格を具備せしめたる者幾何なるを知らず、而して此等風雅の名稱は茶事上に津々たる趣味を附加する者にして世界各國に比類なき一種の國粋と謂ふべきなり。

名器と價値
東山時代より頓に其數量を増加したる日本の名器は茶事の流行と共に盆々其價値を増進したるを以て、所臓者は自から之を珍重し、例へば茶入の袋を作り挽家を製し、内箱、外箱等を調製して、三襲五襲猶ほ以て足れりとせず、之を堅牢なる倉庫に納めて萬全の保護法を講じ、之を使用するには最も周到なる注意を爲し、彼の唐物茶入などに對しては茶禮於て鄭重に之を取扱ふ一種の方式を定め萬々過失なき事を期するに至れり、然れども性來風雅の嗜みなく名器にして所謂猫に小判の如き徒輩には、債値を示して其貴重な 程度を知らしむるを捷徑なりとし、東山時代より以降、一代の宗匠をして天下名器の格附を定めしめ、一般人に対して簡単に器物の高下を示す事と爲れり能阿彌、相阿彌、引拙等が東山御物を品第して、略ぼ其價格を定めたるが如き即ち其一例にして、雷に茶器のみならず刀剣に於ても鑑定の本家たる本阿彌に命じて折紙價格附を作らしめ容易に其軽重を區別せしむるに至れり此事たる、一方より観れば甚だ卑俗なるが如くなれども、名器を知らざる者をして先づ之を尊重せめて大切に之を保護せしむるには、其價値を示すが最も簡便なる方法なるべし斯くて名器の價格定まり、一般人が之を尊重するに至れば天下の名爵秩祿と相竝んで加恩賞功の效用をすべきは固より自然の勢にして最も早く此に着眼し大に之を利用したるは蓋し織田信長なるべし。

信長と名器
織田信長が尾張より崛起して天下統一の業を創むるや、今川、武田を滅し、浅井、朝倉を残して先づ京師を勢圏に入れ、攻伐の方面愈々擴がるに隨ひ勇將猛士を要する事彌々急なれども、當時朝灌地に委して名爵は彼等の欲望を充たすに足らず彼等をして其死力を竭さしむる者は唯土地、金銀、財寶等物質的賞興に外ならざれども、奥ふべき土地は既に興へ、金銀も自から際限あり、時務に敏達なる信長は狭くも此邊の消息を看取し、東山御物を始めとして、近畿の間に散在する天下の名器を我が手に収め、之を以て軍功奬励の用に供せんとし、永祿十二年入浴するや、忽ち大文字屋の初花肩衝、祐乗坊の富士茄子等を召上げ、三好、松永等の如き、彼より以前京都に在って、東山御物を専領したる者共より多数の名品を獻納せしめ、京都・堺の町人等よりも亦其所藏名器を召上げたり。但し信長は沒風流漢に非ず茶事を嗜み名器を好み、戦亂の間に在りて尾州瀬戸の陶窯を隆興せしめたる等風雅の志淺からざりしてと難も、目前天下統一の大事業に急なれば、上國に於て手に入れたる名器は自から之を愛玩するよりも先づ之を將士に興へて其軍功を奬励する方便に供せり、左れば彼は安土に於て秀吉に数種の茶器を興へ其軍功を賞したるを手始めとして、天正五年には信忠の松永討滅を嘉し、初花肩衝以下數點の名器を興へければ信忠大に喜び其名器を以て茶會を催し部下の將士を饗應せし事あり、又十三年間抗争したる本願寺と和睦するに當り其挨拶として信長より贈りたる一文字呉器茶碗は、今尚ほ唯一の什寶として西本願寺に傳存せり。此等名器が當時其用途に如何なる效果を齎らしたるかは、今敢て多言を要せず、信長が之を一種の金鶏勲章に爲したる其事が其名器に一段の名誉を添へ更に歴史的色彩を濃厚にして忩々其権威を加ふるに至りたるは固より當然の結果と謂ふべきなり。

名器と堺衆
足利時代より徳川初期に至るまで、泉州堺は關西に於ける唯一の港場にして、内外名貨輻輳殷賑の都會たり、足利氏其他當時上流階級が大陸若くは南洋諸國より名器珍貨を輸入する關門にして、納屋、油屋、天王寺屋、太子屋など云へる豪家軒を竝べて立ちけるが此等堺町人は慨して堺衆と稱せられ、天下取りの名將が軍政上富豪と經済的關係を結ぶの必要ありとすれば、當時に在りては決して堺衆を度外視する能はざりしなり、而して此等堺衆は外國と日本との交通の要路に當りて、先づ最新知識を吸収し得べき位置を占め居たれば、家々自から名器を貯へ當時流行の茶事に於ても最も進歩的傾向を有したるや疑を容れず、一代の宗匠武野紹鴎、千利休、津田宗及、今井宗久等が昔な此地より出でたるを以て観るも、當時堺が殷富の港たり風雅の源たり名器の巣窟たりしを知るべし、左れば信長は早くも此形勢を看取し、其志を京師に得るや、直に堺衆と握手したれども、未だ深甚なる關係を結ぶに至らずして世を去りければ、之れに代りたる秀吉は信長の遺策を踏襲して大に堺衆と結び、其結果として一層深く名器利用策に注意したるは流石に彼の慧眼と謂ふべきなり。

名器と秀吉
秀吉は天下統一の政策に於て全然信長を踏襲したる者なるが名器利用策に於ては更に一層大袈裟に之を擴張して多大の効果を飲めたる者の如し、秀吉が茶事を好み名器を愛したるは信長以上にして、天正十年信長死後、巳に信長が抱へ置きたる津田宗及、千利休等を使用し、此等堺出身宗匠を介して早くも彼の堺衆の歓心を買ひ信長に代りてより日向ほ淺く風雲莾蒼として天下未だ何れに定まるやをせざるやを辨ぜるに當りて、草庵に松風の音を聞き、金屋に臺子の茶を催し、九州征伐にも利休等を従へて、到る處に風流雅會を開き、小田原北條も未だ滅びず東北の物情猶は未だ定まらざるに、北野大茶湯を催して近畿の数寄者を一場に會し、自他の名器を陳列して同好相樂まんとする、其快濶豪放の擧措が斯道に多趣味なりし彼の堺衆等を如何に驚喜せしめたるかは固より多言を俟たざるなり。然れども秀吉が茶事を好み、名器を愛したるは、單に其の政策より出でたりと云ふ可らず、彼は木下藤吉郎時代より最も熱心に茶禮を習ひ、當時の同輩中に於ては蓋し最も練達したる一人なりしならん、察するに、彼は最も能く時勢を解し、當時上國の人心を收欖せんとするには、彼等の好尚に一致する風雅の素養を示さヾる可らざるを知り、木曾義仲が京都入りの後、餘りに疎豪にして禮儀に嫻はず、忽ち 沐猿冠の嗤ひを招きたるは微賤より成り上りたる彼が大に警戒する所なりしならん。彼は郷に入っては郷に従への秘訣を知れり、高位高官に上りて公卿衆に交われば粗末ながらも和歌を詠じて御多分にれざる如才なさを示せり當時近畿の間に在りて風雅の第一に敷へられたる茶事を解し、其趣味を伺うするに依りて堺衆京都衆若くは博多衆等の歡心を得たるは彼の経略實行上天下の富豪階級を籠絡するに最も怜悧なる手段なりしならん、斯くて天下人たる秀吉が率先して茶事を好み、名器を重んじたるに依り名器の價格は層一層に加はり風尚の致す所、武人が其軍功に對して秩祿を賞腸せられんよりも寧ろ名器の恩賞に預かる事を悦び播州一筒國の代りに釜一つを獲て、之を播地釜と名けたりなど云ふ逸事をさへ傳ふに至りたるは、秀吉が此名器利用策に成功したる一端を證明する者と謂ひて可ならん。

徳川と名器
徳川家康は、秀吉の如く芝居掛りに名器を取扱はざりしやうなれども、彼は軍政上思慮周到なる大將なれば、勿論名器の價値を知り實價以上に之を利用するの道に於て毫頭遺算なかりしは固より多辯を俟たざるなり、彼が松平念誓より初花肩衝を得て、其代りに五百石を興へんと言ひたるが如き其名器に對する観念の一端を示す者にして、程なく之を秀吉の柴田退治祝賀品としたるを見れば彼が如何に能く名器利用の道を解するかを知るに足らん、慶長五年家康が上杉征伐の途次、野州小山に於て石田三成等の旗揚げを聞き將に其軍を返さんとするに當り、津田秀政は家康に向ひ、今度關西勢との取合御勝利を得ば名物茶入多數御手に入るべし拙者も今度は懸命の働きを爲すべければ、其賞として名物茶入一個を賜るべしと言ひければ家康欣然として之を諾したりと云ふ、賞時軍陣の間に奔走する士が如何に名器に懸戀したるかは此一事を以て之を推測する事を得べく家康が此機微を察して如何に能く名器を利用したるかも亦之を推想するに難からざるなり降て元和元年大阪落城の時、家康は城中の名器が空しく鳥有に帰せん事を惜しみ、藤重藤元父子に命じて焼跡より九個の大名物茶入を發見せしめたる事あり、又翌年彼が駿府に於て臨終の際、遺物として藏所の名器を一族若くは老臣宿將に頒ち以て其思遇を示したる事あり、其他彼が一代を通じて名器を利用する手腕の信長、秀吉にも遜らざりしを知るべきなり。而して秀忠、家光時代に於ては天下の物情未だ定まら外様大名に封して時に其歡心を買ふの必要あり屡々名器を彼等に思賜し、彼等も亦屡々之を献じ、以て互に懇親の情を表したる共感酬の頻繁實に驚くべき者あり。當時に於てを除かれたる者は其所藏の名器が幕府に没収せらるゝ事言ふまでもなく、其他諸侯の主當が隠居するか死去するかは或は其嗣子が新に封土を継承する等の場合には、其御禮として将軍家に物を献じ、将軍家よりも亦種々の下賜あるを常とせり、而して生前に於て物を幕府に敵するを得物と云ひ、死後に於て献するを遺物と稱し、其應酬に使用する名器は、前に將軍家より腸はりたる者を後更に献上し、後に献上したる者を其又更に賜はりて、幕府と諸侯との間に同一名器を屡々授受したる塲合少からず此授受は五代將軍の元祿頃まで最も頻繁に行はれしが幕府は明暦の大火に於て一切を焼失し、其他種々の事情を生じて元祿以後は著しく名器授受の敷を減じ名器利用策に一頓挫を來したるは、時勢の變化自から然らざるを得ざりしならん。

名器と遠州
足利義政時代に於て蓄積したる東山御物其他珠光、紹鷗、利休若くは同輩宗匠等が珍愛の餘り銘を附し箱を作り、種々の風流的色彩を加へたる名器は其數固より數多なりと雖も元龜、天正の亂若くは大阪落城等に因りて大に其數を減じたる一方に於て、徳川氏の天下巳に定まり、大小名何れも江戸に参観して、豪壮なる邸宅を構へ幕府も天下太平策の一端として暮ら茶事風流を獎勵する時勢となりしかば、名器所望者激増して在來の名物のみにては到底彼等の希望を充たすに足らず此に於てか三代将軍の茶道師範小堀遠州等は、幕府の意を迎へて茶事交會を繁くすると同時に、鎌倉時代より引きて國内に輸入したる支那、朝鮮、南蠻諸島の作品、及び瀬戸其他内各地の陶器中より最も優秀なる者を選択し、其銘を撰び挽家及び修理を作り、其他様々の意匠を究盡して在來の名物以外に新に名物茶器を増加したる者其幾何なるを知らず。斯くて寛永以前の名物を大名物と云ひ、遠州時代の新名物を中興名物と幕するに至りけるが、其當時は利休直傳の古老も猶ほ幾分生存して細川三斎、織田有樂、桑山左近、金森宗和、佐久間將監の如き時代の要求に應じて夫れぞれ新名物を選出せしが故に、寛永前後に於て日本に名器の數量を増加せし事擧げて算ふ可らず、而して其十中六七は遠州の物數寄に係るが故に、彼は斯界に對して多大の名器を寄興したる大恩人にして、其遺徳の及ぶ所廣大無邊真眞に數寄道の神と稱して可ならん。

大名と名器
信長、秀吉、家康 徳川五代將軍頃までの間に、大名として相當の地位を保ちたる者は、其何れよりか必ず名器を拜領し居れり、中に就き姫路酒井家の酸漿文琳、根井伊家の宮王肩衝の如き祖先が動功に依りて親しく家康より拝領したる者なれば、一門名譽の表彰として子孫代々極度に之を尊重するは固より其所にして傳家の名器が往々御家騒動の材料と爲りしは決して怪むに足らざるなり、左れば名器は大名の専有物にして、民間に於ては三都の舊富豪の外に名物茶器を所有する者なく、徳川初期茶事の大流行と共に、民有名物は悉く大名の徹發する所となり、然も猶ほ且つ遺漏あらん事を慮り、金森出雲守は其所領飛驒國に於て、小壺狩とて一切の茶入を狩り出し點檢の上名品と見れば悉く之を召上げたる事あり、細川三齋も亦所領小倉に於て、其顰に倣ひ同じく小壺狩を催したる事ありと云ふ。斯かる次第なれば名器は悉く大名の手に専有せられしが、其名器を珍重するの餘りにして殆んど神秘的の意味を加へ往時將軍家若くは大々名に於ては、傳家の名器中より三種を選びて之を守本尊と爲し例へば徳川将軍家に於ては初花肩衝、本莊正宗、圜悟墨蹟、雲州松平家に於ては圜悟墨蹟、油屋肩衝、及び鎗の鞘茶入を以て三寶と看做し偶然の事ながら帝室に於ける三種の神器と略ぼ其揆を一にしたりとなり、其他諸大名に於ても赤之れに似寄りたる慣例あり、例へば黒田侯爵家の博多文琳の如き、君公代替りの時一度だけ披陳し、其場合には文琳を床の間に飾り家老を始め禮服着用にて之を陪觀する作法なりしと云ふ。斯かる習慣は封建時代大名間に存在したる種々の政策より生じたる者にして、固より一得一失を免れず、從來名器調査を綿密に行ふ事館はざりしは、此等習慣の餘弊に外ならざれども、多数の名器を所蔵したる大名家が、比較的完全に之を保存する事を得たるは此習慣の功徳にして、決して之を沒却すべからず兎に角日本國民は永く傳統的名器尊重の習慣を厳守したる舊大名家に對して、多年其責務を盡したる偉績を賞揚せざる可らざるなり。
如き場合を生

名器と維新
徳川時代を通じて名器は殆んど將軍若くは大名家の専有物と爲り、名器は名家に在りて比較的安全に保存せられしが、一たび王政維新の變革に會ふや此等諸名家の傳統的名器尊重思想は大動亂を生じ、殊に藩籍を奉還したる大名家は舊領地を引拂ひて東京に移住し、其邸宅を縮小せざる可らざるが爲め藩地に於て東京に於て、家財諸道具若くは重代の名器まで二束三文に賣却して、成るべく簡便の生活を營まんとするに至りたるは當時一般の情勢なりき左れば名家所藏の書畫什器を賣る者多くして求むる者少く需要供給の不槿衡より如何なる名器も土芥に等しく、蒔繪の器物を打砕きて其金分を取り書畫の中身を取除きて其表具を利用するが如き有様なりしかば當時大名の名器が民間に散逸したる者其數を知らず例へば加州金澤に於て、今日御臓器と稱する者は悉く前田家舊藏にして、維新後藩地に於て賣却せられたる者なりと云ふ、是れ固より古今未曾有の精神的大動亂にして、名器の轉傳其主を挽へたる、賞に此時より甚だしきはなしと雖も、彼の傳統的名器尊重心は猶ほ且つ幾分の楕力を存し、傳家の名物に至りては容易に之を手放さず、或は之を手放したる者ありても、名器は自から其歴史的價値を存するが故に、貿易商人が多数に之を買取りて外國に輸出するが如き場合を生ずるに至らず、近來歐洲諸国の美術館、若くは個人所藏の日本品を歴觀したる者が其列品を見較べて我が名物の海外に輸出せられたる者極めて僅少なる事を證明し居れば、維新の變革は大に我が名器の所在を變更したりと雖も其變更は幸に國内に止まり、日本が舊に依りて名器潤澤の國たるを失はざりしは誠に國家の幸慶と謂ふべきなり。

名器と當代
維新の變革に由りて名器の散亂せし時代は數年にして過ぎ去り爾來約四十年間名器の賣買は格別頻繁ならざりしに、日露戦争に引續きて歐州戦争の我が經濟界に及ぼしたる大變動は、二様の意味に於て名器の所在を變更すべき情勢を誘致せり、即ち一方には物腰騰貴諸税増加の爲め、営業に依りて収入を得ざる華族諸家は、家政維持上頗る困難を感じ、現在自家に入用なき器物を資却して、他の理財的方面に使用するに若かすとの観念を生じ、他の一方には財界の變動に乗じて所謂成金と爲りたる者が暴富に任せて邸宅を造り、室内装飾に名器を縺んとして、未曾有の高價を厭はず之を買収せんとするが爲め、名器所藏者は其高價に心を動かし、従来は其家の名を出すを羞ち、一品二品内々にて賣却したる者が魔々と其姓名を掲げて名器の入札賣却を爲すを憚らず、寧ろ其賣上代金の多きを得意とするが如き形勢と爲りたるにより、財産に過分の餘裕なき華族家は昔な爭ひて其顰に倣ひ大正二年頃より同九年春頃までの間に入札に附して名器を賣却したる者幾何なるを知らず即ち最近五十年間に於て名器の頻に其持主を變更したるは、維新より明治七年頃に至る間と、大正二年より同九年に至る間と此兩期を以て最も顕著なる者なりとす。而して九年春頃より経済界の大沈衰に因り、大名家の藏器入札賣却は一時全く中絶したれども近代各種の事業に興かりて所謂成金と爲りたる者は元龜、天正時代槍先の功名に依りて大々名と爲りたる今日華族諸家の祖先と同様なれば、今昔名地を換へ、名器の持主に大轉換を生ずるは誠に巳むを得ざる事なるべく、結局華族諸家の所藏する名器は今後も猶ほ次第に減じて、彼の財界の成功者に傳はるに到るは必至の趨勢と謂ふべきなり。

名器の効用
名器は市に定價あり、勿論財産の一部なれども、彼の金銀等と異りて獨自一個の資格を具へ天地間に二個の同物ある可らず而して其財産として效用を顯はさヾる時に於ても尚ほ所持者に無限の威興を興ふる者なれば、之を稱して趣味的財産と謂ふべき乎、而して極めて永績的素質を具へ大切に之を保存すれば以て悠久に傳ふべきは彼の正倉院御物が千有餘年を経て、今しも製作したるが如く極めて新鮮なるを以て之を知るべし。左れば徳川時代に於て此名器の永續的效用に着眼し、大に之を蒐集したる者あり、勿論趣味的財産は趣味なくして之を集むる事能はざれども、單に娯楽と云ふに止まらず天下の名器を我が有と爲して最も完全に之を保護し、之を保護するに依りて子々孫々に霊妙なる一種の趣味的遺物を興へんと考慮したる者なるべし而して其一人は松平不昧公なり、公は最初悉く天下の名器を買収せんこ試みたれども將軍家若くは他の大名家所藏にして、金銭を以て買取る可らざる者あり、且つ其數に限りあれば、随て買へば随て其價を増し、所期の半数にも達する能はざりしと雖も公が其一代に買収したる名器は實に莫大なる數量にして、一旦買取りたる者も之に優る者あれば更に之を交換せしが故に其手を出入したる名器は果して幾何なるやを知らず、今日松平家に現存する名器のみにても、天下約七分の一を保つを見て其收藏の如何に豊富なるかを知るに足らん。又不昧公と同時に姫路酒井侯の家老に河合隼之助なる者あり、或る時藩倉に金銀の山積するを見て、斯く金銀を積み置けば、他年馬鹿者が出でて之を害用するの虞れあり、若かず今に及んで天下の名器を買收せんにはとて名器は世間通用相場の倍償にて買収すべしと觸れ出したるが爲め、道具商爭ひ傳へて名器を周旋せしにぞ同家の所臓は一時雲州侯を壓し、其頃の世評に雲州は値段を云々すれども、姫路は金銭に絲目を附けざるが故に、道具の品位は姫路が遙に雲州の上にありと言ひたりとなり。勿論當時の姫路侯は、抱一上人の實兄たる宗雅公にして、茶を不昧公に學び風雅の嗜み最も深かりしが故に名器買收は必ずしも河合一人の發意に非ず君臣一體共理想を實行したる者にして、當時同家收藏の潤滞なりしは之を推察するに難からず惜いかな明治四年大阪に於て多数の臓器を賣却し、爲めに大に其藪を減じたる由なれども、今日と雖も猶ほ同家が鬱然たる大收藏家たるを失はざるを見れば、其往時の盛況如何を卜知すべきなり兩家の如き初めより其然るを期したる收藏家なれども、此外單に名家たるの故を以て名器を蓄積したる者尠からず、而して此等の名器は他の土地、金、銀、財賣が維新の變革を経て悉く分散したるに引替へ、依然舊時の観を存して今日市に霧がんとすれば即日其價を得べく如何なる財産と雖も其永續的效力に匹敵する者ある可らず、即ち古人が此永續的效用を看破して夙に大に之を買収し置きたる先見に對しては大に敬意を表せざるを得ず、今日と雖も、天下の大家永遠の計を購ずる者は、此趣味的財産たる名器の効用を忘却す可らざるなり。

名器の靈感
前項に於て名器を所蔵する大家中には、それに神秘的意味を加へて守本尊の如く崇拝する者ある事を記述せしが我國の効く名器には必ず歴史あり、然かも其歴史が之を所蔵する家系に因縁ある者多きを思へば、一個の玩弄物として名器を観る串能はざるは固より賞然の事なりとす。例へば家に關ヶ原若くは大阪陣に於ける感賞として、先祖が徳川將軍より腸はりたる名器ありとすれば其家の子孫は之に對して有價證券其他の財産にすると同一の威を爲す能はざるは勿論なり、即ち先祖が一国一城に値する動功の表彰さして、當時の名將より賜はりたる者なりと思へば之れに封して其流風遺烈を偲び、子孫として乃祖の家聲を墜さざらんと奮勵するに至るは人情の自然と謂ふべし。余は嘗て歐洲諸国に遊び其名族の家に於て動功ある祖先の或は軍陣に臨み、或は政事に興かり、或は學事盡したる其歴史の油繪を一室に掲げ、家族が日夕之を拜して祖先を憶ひ家格を重んじ、知らず識らず一家の精神上に偉大なる感化を及す事を看取し、彼の國民教育の方法として最も賢明なる工夫なりと感じたる事あり。而して我が国に於ける名器は恰も西洋諸国に於ける油繪と共霊感を等しうする者にして其國民精神の感化に影響する所決して少小ならざるべきなり。

工藝と名器
名器は長年月間各國の名工が、其精神と技術に天然の霊助を併せ得たる傑作物なれば、一として稀世の珍貴ならざるはなし、左れば今茶入茶碗に就て云へば其形状、釉色、景色、頃合等或は優美、或は古雅、或は珍奇にして千態萬悉く法度に合し、百代の模本と罵るべき者にして工藝上眞に無二の参考品たり。凡そ一國の工藝は必ず傳統的の模本に攄らざるべからず、一人が一代に工夫したる者は何程超自然的の天才ありとするも、其數量に程度あり、意匠に際限あるが故に、長年月間多數の名工が残したる多數の橈本に撮りて研究するに者かず、されば名器は其國祖先の恩恵にして子孫たる者は之を珍重して其恩恵に依らざる可らす。西洋諸國人は最も先人の意匠模型を珍重して之を利用する事を忘れず、啻に自國のみならず、他國の長所をも十分に参酌して之を其工藝上に施すが故に、自から優秀なる作物を出し、大に北聲價を揚ぐる事を得るなり。然るに日本人は此點に不注意にして、現に陶器に就て云ふも、瀬戸、京都、九谷等の工場に於て陶工の参考品たる者甚だ稀なり、偶ま多少の参考物あれば其地方に於て掘出したる古陶器の残骸位にして、参考本の貧弱なる、質に憐むべき者あり、左れば日本の陶工は先人の苦心に係る種々の模本を利用せず、一代々々唯自家の工夫に依りて製るに止まるが故に、意意匠は漸次卑俗に傾き、其新作品に観る可き者なきは固より恠むに足らざるなり。斯くの如きは國家工藝上に於け大缺點にして、彼等に名器の模本を興へ、之に據りて自から研究せしむる事、實に焦眉の急務と謂ふべし乃ち大正名器鑑の如き、我が製陶地方の参考物として、成るべく廣く之を彼等に提供せんとするが本旨にして、名器を茶人間の鑑賞に限り之を現在の工藝に利用せざるは余の甚だ探らざる所なり。古人の精神技備の籠りたる名器を今代の参考品として古今の工嚢を融通するに至りて始めて名器の効用を完うする者なれば、余は此點に於て殊に世人の考慮を乞はんと欲するなり。

國家と名器
名器は歴史的に工藝的に祖先の名譽若くは模範を後代に傳ふる者にして、國家は其保存に就て最も意を致さざる可らず。然るに近世事を解せざる者、名器を所藏する者を以て、私欲を充たし奢侈を事とするが如く誤認し、高價なる名器を買入るゝ者あらば寧ろ之を擯斥する者少からず、斯かる謬見をして廣く世に行はれしめば國寶的工美術品を破滅して、一瞬を野蠻時代の廣漠たる原野とし終るを以て満足せざる可らず。本來文明諸国に於ては國に美術館、博物館、工藝館あり、天下の名器を其中に網羅し、一般公衆の参考に供し、又大切に之を保護して後代に傳ふる事を努めざる者なし、然るに本邦は之れに異り、世界に比類な刊行するに、是れより猶ほ約三年を費すべし、斯くて後余が餘勇果たして能く他の名器調査に及ぶ事を得べきや、頽齢巳に耳順を過ぎたる余は自から顧みて之を必する能はず、天若し幸に余に毒を假し、他年他の名器調査に着手する都合を得せしめば誠に望外の幸なれども、人事豫期し難し、若し余が本鑑以外に手を伸ばす能はざる場合には、後入幸に余の志を継ぎ更に茶入、茶碗以外の名器を調査して、名實相當する大正名器鑑を大成せん事を敢て懇囑する者なり。

箒庵 高橋義雄識

凡例
一本鑑は全部九編にて完結すべし、而して之を刊行し終るに約三年を要する豫定なれば此間及ぶ限り名器の所在を探索して更に發見する者あれば及ぶ限り之を収録すべし、若し又各編刊行後に發見せられたる者あれば拾遺として之を最終編の末尾に追加すべし。
一本鑑は各品毎に名稱、寸法、附屬物、雑記、傳來、實見記を掲ぐる事と爲せり。但し雜記見當らず傳來不明なる者は自然之を省くべし。
一名稱は諸書を涉猟して、成るべく之を聞明する事を期したれども、疑義に渉る者は已むを得ず之を缺如せり。一寸法は古來茶書に載する所往々異同あるが故に、今囘精密なる度衡を以て之を検査し、實渕上正確なる数字を示せり。
一附属物は嵩張る者多きが故に、其寫真は概ね原寸よりも縮小せり。
一雑記は各品に關する諸書の記録を蒐集したる者にして、一々其所載書名を附記せり、然れども茶書には書名なく且つ著者の不明なる者多きが故に、従来編者の保職したる茶書及び梅園氏が圖書館等にて謄寫したる茶書にして無名なる者は、圖録を箒庵文庫甲何號、同文書を乙何號として掲載せり而して茶人の記録は成は専門語を用ひ威は方言俗語を交へ、文辭も亦蕪雑にして甚だ解し難き者あり、或は事實を誤まり妄説を傳ふる者あれども、各時代筆者の感想を其儘傳示せんが爲め編者は其記事に就き何等の責任を負はず全部有りの儘に之を轉載せり。
一傳來は茶書に載する所の外現品所藏者老茶人道具商等に問合せて、及ぶ限り其轉傳の徑路を證明せり。
一實見記は名器實見の際編者が實物を手にしながら侍座の秘書に口授したる者なれば、一時に多数の名器を檢覧せし塲合には多少の誤認遣漏を免れざるべしと難も、一切肉眼の實見記にして大體に於て大過なかるべしと信ず。
一毎編収録の名器に關して一切の説明を爲すべく編首に其解説を掲ぐる事と爲せり。
一名器の寫眞は之を實見すると同時に撮影せし者にして、總て原寸通りと爲し實物と全く相違なきを期せり。
一名器の本歌又は一品物は殆んど現物に異ならざる着色圖を掲げて其特色を示し、他品と参照するの便宜に供せり。
一本艦に於ける名器排列の順序は古來最も高名なる者を先にし威は各種類中の本歌を首としたる者もあれども、宮中席次の如く其後先が必ずしも名物の品位に相應する者に非ざれば、覧者幸に之を諒せよ。
編者誌

解說
本編には漢作及び唐物肩衝五十三點同茄子十七點を収録せり、肩衝とは茶入の肩の張りたるを云ひ茄子とは茄子の形したる茶入を云ふ、而して斯く呼び做したるは蓋し東山時代よりの事なるが如して扨て漢作と唐物との區別に就ては、松平不昧公編迹古今名物類凡例中に
小壺焼は元祖藤四郎を似て鼻組とす、藤四郎は本名加藤四郎左衛門と云ふ、藤四郎は上下を省きて呼びたるなるべし、後堀河帝貞應二年永平寺の開山道元禪師に随ひて入唐し唐土に在る事五年陶器の法を傳へ安貞元年八月歸朝す唐土の土と藥とを携へ帰りて 始めて尾州瓶子窯にて焼きたるを唐物と稱す(中略)誠に唐土より渡たる者をば漢と云ふ、是れは重賣せぬ者なり、唐物と混す可らす。
とあり、是れ古來漢作と唐物に對する茶人者流一般の見解なれども、今日の目を以て廣く此漢唐兩種の陶器を研究すれば此説餘りに單純にして信を置くに足らず、今漢作と稱する者が支那人の手に成れるは固より論なし、而して其唐物と稱する者は、悉く藤四郎が支那より撈へ帰りたる土と釉とを以て日本にて製造したる者なるべきか今日日本に存在する唐物茶入は其名物のみにても 多数にして、一人の手にて製作すべきにとするも、宋時代に於ける小形の便船に、藤四郎の身分として左程多量の陶土や原釉を積みて之を持ち帰る事を得べきや如何左れば今日現存する唐物茶入が、悉く藤四郎の手に成りたりと云ふは、常識の判断を以て到底信を置く能はざる所なり、且つ漢物とを比較するに、唐は漢に比して時代稍若きやうなれども其中には殆んど區別する能はざる者あり、製作の手際に就いて見るも作風種々に變化してより同時代同一人の手に成りたる者に非ざるや明白なり左れば唐物中には藤四郎が真に唐土と唐藥とを以て造りたる者もあるべしと雖も、其大部分は漢作と同様支那に於て各時代に製作せられたる者と見て可ならん。然れども所謂唐物の作者が藤四郎一人なるかは支那諸陶工なるかは、今日に於て器物の軽重に關係なきが故に、古來茶書に漢作若くは唐物として之を區別し居る者は、總て其儘に記載して古人の意見を尊重する事と爲せり。

本編は肩衝を先にして茄子を其次に列せり、往昔茶人は唐物茶入中最も茄子を重んじ、肩衝を共に置けり、其理由の一として茄子は釉掛り深く盆附際に達すれども、肩衝は腰以下高く土を見る者多し、即ち貴人は足を隠し賤夫は之を露はすの例に依りて茄子を肩衝よりも上位に置きたるなりと云ふ。然れども今日の審美眼を以て之を観れば肩衝は大作多く且つ變化に富みたる點に於て大に之を重んずべき理由あるが故に、余は本鑑發端に肩衝を置き、且つ初花の名の先頭を飾るに相應するを以て、之を開卷第一に掲げたるなり。

もたある者
漢作及び唐物茶入は、肩衝、茄子を始めとして其他多種多様なれども、是れが支那に於て最初より抹茶入として造られたる者なり、如何、日本の茶書に「支那にては此壺類は丸散の粉抹を貯ふる藥器なり」と記せし者あり。又俗説に或る茶入は楊貴妃の油壺なりなど言ひ傳ふ所を見れば其中には化粧具又は樂器文房具等に生れたる者なしと謂ふ可らず要するに其形状に應じて用途も様々なりしならんが、日本に渡來後は恰も茶事の流行に際會したるを以て、悉く茶入に適用せられたる者なるべし。
漢作及び唐物茶入は、最古は唐時代、最新は明時代に製作せられたる者にして、物に依り時代に五六百年の差等あるが如し、松平不昧公著瀬戸陶器濫觴に
一漢 千年より三百年に至る唐の元和、長慶の頃の器なり、和の大同、天長の頃來り、明の景徳、天順の頃に終る、和の寶徳、享徳の頃なり。
一唐物 五百年餘宋の嘉定、寶慶の頃、和の安貞の頃なり。
とあり、今日は不昧公時代より更に百年を経過し居れば、其年代一層加はり漢唐茶入は傳世古陶器として世界無比の重寶たる事、固より多言を待たざるなり。
漢作竝に唐物茶入が製産せられたる支那の地理に就ては、古來的確に之を説明する者なし、藤四郎の在宋五年間は一地方に滞留せしかは各地遊せしか而して其足跡は那邊までに及びしや漠然として之を知るに由なし、然れども往時日本の便船は潮流の爲めにや浙江、福建方面に着陸するを例とし而して福建は建盞の産地にして陶業の最も達したる場所なれば、藤四郎は蓋し此方面に於て見學修業したる者と推測して大過なかるべし。余は本鑑完成後支那に漫遊して、古陶器製産地を踏査する志望を有するが故に、幸に何物かを發見する事あらば、他日更に之を發表する考なり。
古本日本に輸入したる漢唐茶入に就ては種々の説あり其中には藤四郎は彼の地に於て日本六十六ヶ國に擬へ六十六個の茶入を製造して持ちりたりと云ふ者あり、又或る茶書には日本に輸入せられたる漢作肩衝茶入は其約七十位なりしならんと云ふ者あれども何れも漠然たる想像説にして到底信を置くに足らず。本來脆弱なる物質なれば、長年月間に種々の變災に遭うて烏有に帰したる者幾何なるを知らず、殊に大阪落城、明層大火は其最も顕著なる者にして、明暦大火の際江戸本丸のみにても大名物の焼失したる者、左の二十二點に達せりと云ふ。
朝倉肩衝 圓座肩衝 濃紫肩衝
木ノ村肩衝 木村屋肩衝 時雨肩衝
島津肩衝 實休肩衝 宗陽肩衝
投頭巾肩衝 檀柴肩衝 長束肩衝
二王肩衝 盆田肩衝 青木肩衝
中山肩衝 飛驛肩衝 十四屋肩衝
矢島肩衝 芝肩衝 青木肩衝
木の丸肩衝
右の外古茶書に其名ありて、今回の調査中其所在を發見し得ざる肩四十六茄子十八 其名稱は左の如し。
肩衝之部
朝比奈肩衝 有明肩衝 大友肩衝
小野肩衝 西門跡肩衝 堅田肩衝
笠原肩銜 木野邊肩衝 宮内卿肩衝
小島屋肩衝 佐竹肩衝 三藏院肩衝
呜肩衝 下間肩衝 篠屋肩衝
清水肩衝 清休肩衝 宗理衝
宗薫肩衝 宗二月衝 則祐肩衝
宗久肩衝 宗向肩衝 宗古肩衝
竹藏屋肩衝 田北肩衝 丹下肩衝
治部少肩衝 津島肩衝 戸川梔子
道滴肩衝 道三肩衝 道純肩衝
棗肩衝 永井肩衝 鸡肩衝
ぬし屋肩衝 灰屋肩衝 寶性肩衝
本能寺肩衝 松永肩衝 森屋肩衝
祐玉肩衝 驢庵肩衝 休夢肩衝
都鳥肩衝
茄子之部
出雲茄子 圓性茄子 榮仁茄子
花瓶口茄子 月山茄子 珠光茄子
朱張茄子 淨珍茄子 住吉茄子
尊敷院茄子 鳥井茄子 内藤茄子
似たり茄子 蜂屋茄子 針屋茄子
兵庫茄子 本行坊茄子 八重茄子
今回の調査は余の力の及ぶ限り全国に行き渡りたる積りなれば右等所在不明の茶入にして、今後發見せらるゝ者は極めて僅少なるべしと難も、若して發見する者あらば、之を最終編拾遺部に収録する事と爲すべし。

漢唐茶入の形状、釉質等に開して茶書に記載する形容文字は筆者に依り時代に依りて同様ならず甚だしきは同一文辭にして其意味を異にす者さへなきに非ず、左れば余の實見記は一切古人の記録に據らず、我が肉眼に映じたる所を以て成るべく其實相を表明せんと期したるが故に、鐵氣色、青瑠璃色、朱泥色等、從來茶書に見當らざる新熱字を使用したる者あれども、此等は總て余が實見の所感を其儘表白したる者なれば、讀んで字の如く領解せらるべし、又實見記中に記載したる茶入の要點は大略左圖に依りて會得せられん事を乞ふ。

 

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目次
漢作唐物肩銜
初花肩衝 侯爵 德川圀順氏藏
新田肩衝 公爵 德川家達氏藏
北野肩衝 伯爵 酒井忠道氏藏
油屋肩衝 伯爵 松平直亮氏藏
玉堂肩衝 侯爵 德川圀順氏藏
遲櫻肩衝 公爵 德川家達氏藏
久我肩衝 伯僻 松浦厚氏藏
筑紫肩衝 伯爵 德川達孝氏藏
種村肩衝 一名木下肩街又都歸り 伯爵 松平直亮氏藏
不動肩衝 男僻 益田孝氏藏
宮王肩衝 伯爵 井伊直忠氏藏
味噌屋肩衝 男僻 鴻池善右衛門氏藏
藥師院肩衝 舊名針屋肩衝 子僻 松平賴和氏藏
鍋屋肩衝 一名筑摩肩銜 伯爵 松平直亮氏藏
木目肩衝 侯爵 前田利爲氏藏
大隅肩衝 侯爵 德川賴倫氏藏
大坂肩衝 子爵 松平賴和氏藏
伊木肩衝 伯爵 松平直亮氏藏
靑木肩衝 伯爵 酒非忠正氏藏
星肩衝 公爵 德川家達氏藏
宗無肩衝 一名住吉肩衝 侯爵 德川義親氏藏
道阿彌肩衝 公爵 德川家達氏藏
勢高肩衝 男爵 藤田平太郎氏藏
日野肩衝 伯爵 松平直亮氏藏
伯耆肩衝 公爵 德川家達氏藏
師匠坊肩衝 侯爵 前田利爲氏藏
松屋肩衝 公爵 島津忠重氏藏
松山肩衝 子僻 大河內正敏氏藏
繁雪肩衝 公爵 德川家達氏藏
本願寺肩衝 京都 東本願寺藏
佗助肩衝 公爵 德川家達氏藏
宗半肩衝 侯爵 前田利爲氏藏
朱衣肩衝 公爵 島津忠重氏藏
雲山肩衝 舊名佐久間肩衝又金森肩衝 伯僻 久松定臨氏藏
佐伯肩衝 神戶 田村市郎氏藏
安國寺肩衝 一名中山肩衝 東京 益田弘民氏藏
松飾肩衝 一名武藤肩衝 東京 高橋義雄藏
篦目肩衝 一名紀伊胴高 侯爵 德川賴倫氏藏
樋口肩衝 一名山井肩衝 男爵 岩崎小彌太氏藏
酒井肩衝 東京 益田弘氏藏
平野肩衝 公爵 島津忠重氏藏
平手肩衝 伯爵 有馬賴萬氏藏
殘月肩衝 伯爵 松平直亮氏藏
白雲丸肩衝 伯僻 松浦厚氏藏
瘤肩衝 一名佐々肩衝 男爵 岩崎小彌太氏藏
靱肩衝 侯爵 德川義親氏藏
八雲肩衝 男僻 鴻池善右衛門氏藏
蘆庵肩衝 男爵 藤田平太朗氏藏
冨士山肩衝 伯爵 松平直亮氏藏
常陸帶肩衝 京都 西本願寺藏
竹中小肩衝 伯爵 酒非忠正氏藏
小肩衝 男爵 岩崎小彌太氏藏
かはづ肩衝 男僻 益田孝氏藏
漢作唐物茄子
國司茄子 伯爵 酒非忠道氏藏
北野茄子 公爵 德川家達氏藏
富士茄子 侯爵 前田利爲氏藏
付藻茄子 一名松永茄子 男爵 岩崎久彌氏藏
松本茄子 男爵 岩崎久彌氏藏
宗悟茄子 子爵 土屋正直氏藏
種子茄子 公爵 島津忠重氏藏
曙茄子 侯爵 前田利爲氏藏
茜屋茄子 侯爵 德川義親氏藏
福原茄子 大阪 島徳蔵氏藏
七夕茄子 侯爵 前田利爲氏藏
京極茄子 侯爵 德川賴倫氏藏
紹鴎茄子 一名みおつくし茄子 男僻 鴻池善右衛門氏藏
紹鴎茄子 東京 益田信世氏藏
豊後茄子 侯爵 前田利爲氏藏
利休小茄子 侯爵 前田利爲氏藏
利休物相 一名木葉猿茄子 男爵 岩崎小彌太氏藏

 

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