常滑・渥美・猿投 Tokoname Atsumi Sanage解説

渥美 葦鷺文三耳壺

 中世における代表的なやきものといえば、誰しもまず第一に挙げるのは、黄緑色や黒褐色の釉薬をかけ、さまざまな文様で飾られた古瀬戸の壺や瓶子でしょう。しかし、その一方でわれわれはまた、茶褐色の荒々しい器肌に濃緑釉の流れ落ちる、野生美の溢れた古常滑や特色のある文様で飾られた渥美の壺や甕を挙げることにも決して躊躇を感じません。この施釉陶器と無釉の焼締陶という全く相異なる二つのやきものは、互いにその機能を分担しあって、中世のやきものの基本を構成しているのです。さらに言えば、瀬戸・ 常滑・渥美をおおって、東海地方全域に拡がっている無釉の碗・皿・鉢を焼いた白瓷系陶器、また、それらの底辺に存在する古墳時代以来の、赤い素焼の土師器も中世のやきものの一翼を担う主要な生活容器でした。最近では、こうした従来から著名な窯業地のほかにも古瀬戸に近似した施釉陶器や常滑類似の壺甕などを焼いた窯業地が東海各地で発見されており、一口に中世陶器と言っても、極めて複雑な様相を呈しています。
 これらの中世陶器は平安末期、すなわち12世紀始めごろに一斉に発生しています。個々の窯業地の成立過程についてはそれぞれの個別解説のところで触れますが、全国で唯一の施釉陶器生産地であった瀬戸 美濃を別にしますと、如上の中世陶器窯では、いずれも壺甕擂鉢を、また無釉の碗・皿類を焼いている点に特色があります。それらは農村生活における必需品として、前代とは異なる形態をもって新たに出現したものです。
 さて本巻で瀬戸 美濃を除く東海諸窯の製品を取り上げるに当たって、それらが中世陶器のなかで占める位置づけについてあらかじめ指摘しておきたいです。すでにたびたび述べてきたように、中世のやきものを分類しますと、土師器系須恵器系瓷器系の三系列があります。
 土師器系には土師器そのものと瓦器の二者があり、前者は中世においては主として煮沸用具として機能しています。また、後者は西日本においてのみつくられた碗・皿などの日常食器類です。須恵器系には平安時代の須恵器の伝統をひきながら、鎌倉時代において酸化焰焼成による茶褐色の陶器に転化した備前と、須恵器の製作技術をそのまま踏襲した還元焼成による灰黒色の珠洲系陶器および亀山などの西日本の瓦質系陶器類があります。最後に、瓷器系には(1)平安時代の白瓷の系譜をひく施釉陶器としての瀬戸 美濃 (美濃須衛窯と東濃系諸窯) (2)無釉の日常食器類や一部の貯蔵容器を焼いた東海地方各地の白瓷系陶器窯、(3)壺・甕・擂鉢の三者を主として生産した常滑・渥美・湖西 兼山・中津川など、(4) 平安時代に白瓷生産の伝統をもたない北陸地方において、東海地方の白瓷系陶器の影響を受けて、中世窯に転化した越前・加賀・笹神 (新潟県) および東北地方の東北・品ノ浦 (宮城県) など、また西日本の信楽丹波が知られています。
 それでは、ここで取り上げた各窯業地ではどのような器種のものが焼かれているのでしょうか。同じ平安時代の白瓷の伝統をひきながら、以上に挙げた (1)(2)(3)の窯業地ではそれぞれその製品の内容を異にしています。(1) に含まれるもののうち、東濃の古瀬戸系施釉陶器を除く美濃では、釉薬の性質を異にしながら、器形の上では瀬戸に近いものをもっています。すなわち、食器類としての碗・皿・鉢・瓶類 調理具としての片口擂鉢、貯蔵容器としての壺・瓶甕類など(2)(3)の窯業地よりは豊富な内容をもっています。これに対して(2)の白瓷系陶器窯では農民用の日常食器類としての碗・皿類、調理具としての擂鉢を主として焼いており、なかには仏具や屋瓦を焼いている場合もあります。(3)の常滑・渥美・湖西・ 兼山 中津川などの諸窯では、食器類としての碗皿類 調理具としての擂鉢 片口などをうちに含みながら、その主製品は壺甕などの大形容器類でした。
 ひとしく平安時代の白瓷の後身としてのその伝統をひきながら、なぜ地域によってこのような差異が生じたのでしょうか。それは専らその使用陶土の差異に基づく分業の結果なのです。
 つぎに瓷器系中世陶器の製作技術について述べましょう。瀬戸・常滑を中心とした東海諸窯が古代以来ひき続いて大窯業地として発展した大きな理由は、耐火度の高い良質の陶土に恵まれていたことです。瀬戸から美濃にかけての低丘地帯には、よく知られているように木節目粘土と呼ばれる良質の粘土が豊富に埋蔵されていますが、それらは三国山 猿投山などの基盤をなす花崗岩を母岩とする鮮新統の瀬戸陶土層および矢田川累層に含まれるカオリン系の鉱物であって、耐火度の高い緻密な、また可塑性に富んだ陶土でした。それらは高火度焼成を必要とする施釉陶器の生産にふさわしいものであって、古瀬戸系施釉技術を導入するまでの東濃地区において、白瓷系施釉技法が存続した理由でもありました。一方、知多半島の陶土はやはり猿投山の花崗岩を母岩とする矢田川累層中の常滑層群に含まれるカオリン系の粘土であり、やや耐火度が低いため、大形の壺・甕の製作にふさわしいものでした。猿投窯および美濃須衛窯の分布地域は、地質的にはちょうどその中間的様相をもっており、無釉の白瓷系陶器を焼くのに適合していました。このように南北に長い、広大な地域に分布する豊富な陶土が、母岩からの堆積順序やその距離によって性質を異にした点が、それぞれの地域にふさわしい器物を分業的に焼くことを可能にしたのです。
 つぎに成形技法についてみますと、器物の種類や大小によってさまざまですが、水挽き轆轤成形、紐土巻き上げ成形などを基本としています。これらの各種陶器類は瀬戸 美濃を除きますと、ごく初期の三筋文系装飾を別として、基本的には器面装飾を行わないのが通例です。つぎに焼成技法についてみますと、瓷器系の窯はすべて同一構造の窯体を基本としています。すなわち、その基本構造は丘陵斜面の頂上近くに、掘り抜きで幅の広い、容積の大きい窯体をつくり、燃焼室と焼成室の境に太い分焔柱をもったものでした。この分焰柱は10世紀初めごろの白瓷窯に起源をもつ、燃焼効率をたかめるための装置であって、このような窯体構造は、東海地方から畿内の一部においてのみみられるものでした。もっとも東海諸窯が基本的に同一構造の窯体であるとはいっても、その使用陶土の性質によって細部の違いがみられます。瀬戸 美濃のように耐火度の高い陶土を使用している場合には、燃焼室の床面が奥に向かってわずかに高くなっていますが、渥美のように耐火度の低い粗質の陶土の場合には焚口から分焰柱に向かってかなりの傾斜で下降しており、一種の間接焰焼成の方法をとっています。
 •さて本巻に取り上げた陶器類は、機能的には大きく三つにわけて把えることができます。すなわち、古瀬戸系施釉陶器を除いた美濃の白瓷系施釉陶器、東海一円に拡がる白瓷系陶器窯において焼かれた一般庶民用の食器類としての無釉の碗皿鉢類、常滑・渥美・兼山 中津川などにおいて焼かれた大形貯蔵容器としての壺甕類がそれです。以上のうち、美濃の白瓷系施釉陶器については最近その内容が明らかになってきたものであって、最後に若干の解説を加えることにします。第二の無釉の碗皿 鉢類は以上のいずれの窯業地においても大量に生産されており、いわば中世陶器の基底をなすものでした。これに対して中世における特徴的な器物はまず大形の壺・甕および擂鉢であり、瀬戸に先がけて、常滑 渥美などにおいてその姿を明確にさせた点に、それらの器物のもつ中世的な意味が存在するのです。この三種の器物がもつ機能について考えてみますと、壺はいうまでもなく一般的な貯蔵容器として、須恵器以来発達してきたものです。しかし、中世においては「種壺」という呼称にみられるように、農業と密接な関係を有することが注意されるのです。それには播種用の種籾の貯蔵という用途のほかに、播種のための浸種といった機能が併せ考えられるべきでしょう。平安末期以来の二毛作の普及に伴って、播種前の籾の浸種は稲の生育に大きな影響をもたらしたと考えられます。甕もまた本来水甕として、ああるいは酒を醸すためのものとして、日常生活に必要欠くべからざる貯蔵容器ですが、中世における肥培技術の発達によって、肥甕としての機能が増大していったことと考えられるのです。平安時代以降、次第に用いられるようになった肥料の主なものは草木灰ですが、鎌倉時代に入りますと、糞尿の使用が始まったと考えられます。ままた、擂鉢は大平鉢とも呼ばれますが、万能調理具として日常生活に不可欠の器物でした。このように三種の器物はいずれも日常の雑器であり、それが農業と深く結びついていた点に特色があります。
 それではなぜ、この大形の壺 甕類が平安末期の猿投窯から遠く離れた常滑・渥美などの半島中央部に進出して生産されるようになったのでしょうか。その理由の一つは陶土の性質の問題です。常滑の項でも説明しますが、常滑周辺の半島中央部はいわゆる常滑粘土のうち黒土の卓越する地域であり、この耐火度の低い黒土は大形の壺・甕類を焼くのに適しているのです。いま一つは東西の幅の最も狭い半島中央部の丘陵地帯が海岸に近く、舟運を利用しての輸送に極めて便利でした。この点は渥美半島においても同様です。
 常滑の大甕類は遠く青森県から鹿児島県まで、ほとんど日本全域に運ばれて使用されています。すなわち、前代の白瓷の伝統技術に基づ<製品の優秀さもさることながら、舟運に便利であったことが、常滑を全国に先がけていち早く大窯業地に発展させた大きな理由であったと考えられます。渥美窯も同じ条件の下にあったことは注意さるべきことです。
 しかし、常滑渥美における製品はこのような農民用の雑器生産にのみ終始したのではありません。各地の経塚から発見されている経筒外容器、あるいは中世墓地から出土する蔵骨器のうちには、三筋文系の文様をもった高級品が使用されているのです。常滑における中形経甕 三筋壺、渥美における刻文壺は決して雑器としての壺ではありません。たとえば常滑の特産物であるかのようにいわれている三筋壺は五輪思想など宗教的なものではなく、すでに猿投窯や美濃須衛窯において中国宋代の白磁四耳壺をまねた複線三筋文のある器物からの省略手法として発生したものなのです。渥美における刻文壺もそうです。また、秋草文壺など一連の文様のある大形瓶は、いずれも前代の猿投窯において中国の広口瓶をまねてつくられた大形瓶にその粗型を求めることができるのです。このように常滑・渥美においても中国陶磁の影響があることは注目すべき事実ですが、それが瀬戸のように忠実な模倣に終始したのと異なって、独自なものに変化させている点に、中央貴族社会と結びついた、これらの窯業における独自の世界をみることができます。
 最後に、瓷器系第一類の変型ともいうべき美濃須衛窯について若干述べておきたいです。美濃須衛窯というのは岐阜市から各務原市一帯にかけて展開した美濃国における須恵器生産の中心であり、10世紀には尾張の白瓷の製作技法を導入して、白瓷の生産に転換しています。
 この美濃須衛器は12世紀に入りますと、他の白瓷生産地が無釉の碗・皿窯に転じたのに対して、東方の一部を除いて生産を停止してしまったのです。しかし、この東方の一部地区における窯業生産は注目すべき内容をもっていることが知られるようになりました。すなわち、美濃須衛窯東端の稲田山古窯跡群の東部丘陵において、無釉の碗・皿類のほか、肩に灰釉を施した四耳壺や土瓶など、古瀬戸と同様な器種を焼いている古窯跡が発見され、新たな問題を投げかけています。
 この四耳壺は従来漠然と瀬戸あるいは瀬戸近傍で焼かれたと称されていたものであって、東海各地からかなりの発見をみていました。この稲田山窯は鎌倉中期ごろのものですが、近年各地から発見される同系の四耳壺にはかなりの年代の幅があり、高野山奥之院出土のそれや新潟県華報寺経塚出土のものは12世紀後半に遡り得る形態を示しています。したがって美濃須衛窯にはまだ未発見の同系の窯がいくつも存在することになります。この種の四耳壺は美濃須衛窯のみならず、猿投窯西部においても焼かれていたとみられ、その原型は当時日本に多数請来されていた宋代の白磁四耳壺です。猿投窯西部の東山窯はやがて瀬戸窯に引き継がれてゆきますが、美濃では白瓷系の技法のまま継続する点で尾張とは異なった展開を遂げているのです。やがて南北朝代には古瀬戸系施釉陶器にとって替わられることになります。


常滑

 赤黒い器肌に流れ落ちる鮮烈な緑色の自然釉のかかった壺や甕は、中世の常滑を代表する製品です。これらの壺甕類を焼いた古窯跡は常滑市を中心に、知多半島全域をおおっており、これらを総称して知多半島古窯跡群と呼んでいます。古常滑に関する研究は意外に早く、すでに明治二十年代以降、寺内信一 滝田貞一氏らによって始められていますが、古窯跡の発掘を基礎とした本格的な研究の始まったのは戦後のことです。昭和二十七年の、沢田由治氏を中心とする常滑古窯調査会による半島全域の分布調査、籠池第1号窯の発掘を出発点とし、昭和三十四~三十六年の名古屋大学による愛知用水建設に伴う発掘調査、その前後から今日にいたる在地研究者らによる数多くの土木工事に伴う調査によって百基をこえる古窯跡の発掘が実施されており、その成果を基礎にした古常滑の体系はほぼ樹立されているといってよいです。平安末~室町時代の古常滑の窯跡はほとんど半島の全域に分布し、現在五十数群、千三百基余が確認されていますが、すでに破壊されたもの、未発見のものを含めると三千基を超すといわれています。これらの古窯跡の分布密度は一様でなく、中央部では常滑市寄りの西半部に、また地層の異なる野間町以南の半島尖端部にはごくわずかの窯しか存在しません。この五十数群の古窯跡群はさらにいくつかの支群を含んでおり、小は三~四基から大は三十基の支群から成ります。このうち最も分布密度の高いのは半島中央部の半田池古窯跡群、常滑市東北部の柴山古窯跡群、東南部の椎ノ木檜原山古窯跡群で、ここだけで全体の過半数を占めています。 また、各窯の製品はすべて一様でなく、壺・甕を主体とするものと山茶碗 小皿類を主体とする二種のものがあります。前者は常滑市周辺において卓越しており、後者は半島北部に多いという傾向をもっています。この二者の分布の濃淡の差は、その発生と展開および使用陶土の分布と深くかかわっています。
 知多古窯の製品は食器としての碗・皿類、調理具としての鉢、釜類 貯蔵容器としての瓶・壺・甕類のほか祭祀用具・文房具・漁具・瓦などさまざまのものを含んでいますが、主要なものは壺・甕・擂鉢と山茶碗 小皿の二種のセットです。とくに古常滑といった場合には前者を指しており、施釉高級陶器を主製品とする瀬戸との間に分業関係をもっています。山茶碗・小皿類はひろく東海地方全域をおおう基底の焼成品です。山茶碗・小皿のセットは、平安後期の灰釉陶器における中形碗と小碗のセットの後裔であり、鎌倉時代に入って小碗が高台を失い小皿化したもので、広く民衆の間に用いられた最も一般的な食器の組み合わせである。瓶には二種のものがあります。一つは平安灰釉陶器から続く仏器としての水瓶であり、高台を失い、口頸部と肩の接合部に突帯を設けている点に特色があります。いま一つはやはり前代から続く広口瓶で、大形のものは水瓶と同様に突帯を設けています。壺類には数形態あります。一般的なものとしては高さ25cm前後の広口壺と大小の短頸壺および口頸部を細くしぼった大形の壺で、これには三~四個の環耳を有するものが多いです。常滑特有のものとして、広口壺の胴に三本の沈線を施した、いわゆる三筋壺があります。また数は少ないが鎌倉後期以降、片口小壺があります。甕類は大小二種のものがあり、大甕は高さ 胴径ともに50~70cmのものが多く、ロ縁端部の折り返しが時代とともに幅広くなる点に特色があります。小甕は高さ30~40cmのもので、口縁帯の変化は前者と同様です。また、室町時代には後世に不識壺と名付けられた広口小甕がつくられています。擂鉢は口縁部に片口をもった通有な大平鉢です。これとは別に口縁部の内する片口鉢があります。以上が古常滑の基本的な製品ですが、ほかに鍔釜、硯、陶丸、陶錘、分銅、賽、祭祀用具などさまざまなものがあります。また、半島の中央背稜に沿って瓦を併焼する窯が南北に長く連なっています。
 つぎに古常滑の製作技術についてみましょう。古常滑に用いられた陶土は半島全域に分布する新第三紀層に属する常滑層群中のカオリン系の粘土です。この常滑層群は尾三国境の花崗岩由来の、鮮新統上部の尾張夾炭層および猪高層に対比されるもので、半島北部から中央部までの広い地域をおおっています。野間以南の尖端部は中新世に属する頁岩と砂岩の互層であり、その上にところどころ常滑層がのっています。このように半島全域が陶土供給源となっています。常滑粘土は鉄分などの含有量の相異によって白土と黒土の二種に分けられています。白土は2.51%、黒土は13.92%の鉄分を含んでおり、後者は耐火度が低く、低温で焼き締まる性質をもっており、大形の壺・甕類の製作に適しています。北部に山茶碗が多く、壺甕窯が中央部に多く集中しているのはこうした陶土の分布の違いによるものです。成形はごく初期には平安灰釉陶器以来の水挽き轆轤成形が残っていますが、基本的には壺瓶・甕類は紐土巻き上げ成形です。とくに大甕類はヨリコづくりと呼ばれる太い粘土紐を接ぎ足しながら、甕のまわりを廻って、五~七段の輪積状に成形しています。古常滑の施文は三筋壺のような特殊なものを除きますと、ごく初期に一部の地域において、秋草風の刻文がみられるのみで、原則的には無文です。
 まれに壺の肩に小形の印花文を施したものがあります。大甕類は平安・鎌倉時代には成形時に接合部にさまざまの押印をめぐらしていますが、室町時代には器面の一部に痕跡的に残されているのみです。焼成に用いられた窯は、丘陵斜面の地下深く刳り抜いた窖窯の形式に属するもので、焼成室と燃焼室の境に分焰柱を設けた、東海地方特有の構造のものです。燃焼室の床面は使用陶土の耐火度の違いによって差があり、白土使用のものは水平ですが、耐火度の低い黒土使用のそれは、内部に向かって低く傾斜しており、分焰柱から焼成室へ一段低くつくられています。したがって焼成室の傾斜も急角度をなすものが多いです。これは直火による器物の破損をさけるための配慮でしょう。いずれの場合も窯詰め後、分焰柱の両脇に焼台を積み上げて障壁をつくり、通焔孔を小さくしています。煙道部は焼成室と傾斜を変えて水平に近づけ、両者の境に棒をスサ入り粘土で巻いた直径10cm内外の粘土棒を並列させて、焼成室を密閉できる施設を設けています。こうした地下深く刳り抜かれた窯は地下水の浸透をさけるため、多くの場合床下に山茶碗あるいは木材を敷き並べて排湿施設を設けています。山茶碗窯は通常、長さ6~8m、幅2.5m前後の規模のもので、床面に馬爪形の焼台を置いて水平面をつくり、その上に十三枚重ねて焼いています。多くの場合、焼台は十六列二十行ぐらい置いており、したがって一回の焼成量は四千個前後です。壺・甕窯は長さ12m前後、幅3m前後ですが、鎌倉後期の大甕では14mを越えるものがつくられています。大甕は焼成室下半部に三列、九個ばかりを並べ、上半は擂鉢、小形壺などを置いています。
 それでは常滑窯はいつごろ、どのようにして発生したものでしょうか。その詳細はまだ明らかでありませんが、平安後期の猿投窯南部の一分枝を母胎にしていることは想像に難くありません。猿投窯灰釉陶窯の南端の一群は、平安後期、十一世紀末ごろには知多半島北部の地域に及んでいましたが、これらの生産者の一部が、半島中央部の本宮山麓周辺に転移して、壺・甕類の製作を開始したのが始まりでしょう。同地域の椎ノ木古窯群跡、檜原山古窯跡群において最古の壺甕類が集中して焼かれている事実が知られています。現在年代の知られる古常滑最古の製品は、京都今宮神社境内の一経塚の天治二年(1125) 銘の四方仏石の下から出土した三筋壺ですが、これと同形式の三筋壺が古常滑最古の編年的位置をもつことからみて、12世紀初めごろに成立したものでしょう。なぜこのように壺 甕類の生産が半島中央部において生産され始めたか、その理由は明らかでありませんが、一つにはその製作に適した陶土分布、いま一つは海岸線に近く、大形の壺甕類の運搬に地の利を得ていたことが挙げられましょう。以上のように知多古窯跡群は、山茶碗窯が北方から時代とともに南下しているのに対して、壺・甕窯は半島中央部から南北へ拡散してゆくといった二元的な展開を示しているのです。
 古常滑は平安末から室町時代後期まで七段階の変遷を遂げたことが知られる (94ページの編年図は六段階まで図示)。第一段階は知多郡東浦町緒川新田の八巻1号窯、常滑市松淵 2号窯を標式としますが、両者の間に若干の時間差があります。さきにも述べたように、古常滑は当初から山茶碗と壺 甕窯の分化がみられますが、この第一段階にはまだ両者の混合焼成がみられ、製品は良質のものが多いです。碗類・鉢類における輪花手法、瓶 壺類にみられる施釉技法など、まだ前代の灰釉陶器とのつながりを残すものが多いです。成形も水挽き轆轤技法を残しており、壺甕類の口縁部のつくりもシャープなものが多いです。第二段階は半田市阿久比町陶ヶ峯2号窯および常滑市大野町籠池 3号窯を標式とし、平安末から鎌倉初期にかけての時期のものです。第三段階は常滑市多屋窯山2号窯を標式とし、鎌倉中期に属します。この第二段階から第三段階にかけて、常滑窯は急速な発展を遂げ、山茶碗を含めて、半島のほぼ全域に拡散しています。壺甕窯も北方の東浦町にまで拡がり、山茶碗と壺 甕類の分業が截然としている大碗 小碗の組み合わせは小碗が高台を失って、碗皿のセットとなり、粗質化しています。壺・甕類は、使用陶土の粗質化に伴い大型化するにつれて口縁部の折り返し縁帯の幅を広くして、口縁を保護するようになりました。第四段階は常滑市高坂大窯あるいは知多町巽ヶ丘2号窯を標式とする鎌倉後期から南北朝にかけてですが、この段階には壺甕窯の分布が最大の拡がりをみせ、窯も一箇所に十基前後並列して構築されるという窯数の最も多い時期です。窯の規模も14mを越える大窯が各所にみられ、高さ 胴径70cmを越える大甕類が量産された古常滑の最盛期です。器形別分業は一層進み、平安灰釉陶以来の広口瓶はなくなり、水瓶も激減しました。碗・皿類は腰のふくらみのない粗質のものになりました。壺・甕と擂鉢類も分業生産され、器物の大きさも最大のものがつくられた時代です。第五段階は南北朝後半から室町前期にかけての時期であり、常滑市天神4号窯を標式とします。この時期から窯の数はしだいに減少し始め、常滑市域に集中するようになってきます。窯の規模も小さくなり始めますが、大類はまだ大形化が続いており、高さ1mを越す、口縁帯の幅広いものがつくられています。山茶碗窯もこのころから減少が著しいです。第六段階は常滑市平井口1号窯を標式とし、室町中期に当たりますが、この第六段階から室町後期の第七段階にかけて、窯の数はきわめて少なくなり、常滑市街地周辺にほとんど集中します。製品はほとんど壺・甕と擂鉢に限定され、山茶碗もきわめて稀にみられるのみとなりました。壺甕類も小さくなり、とくに甕類は広口となって口縁帯の折り返しが口頸部に密着して、上面に幅広い面取りがみられるようになるのが特色です。この第六・七段階の製品は酸化焰焼成で、焼成温度も概して低く、赤褐色を呈するものが多く、自然釉のかかったものは少ないです。
 以上が古常滑の変遷の大要ですが、この千数百基を越える厖大な数の窯の製品はいうまでもなく、東海地方のみの需要に応じたものではありません。全国にさきがけて中世窯として出発した常滑窯の製品は厖大な陶土資源と地の利を得ていち早く量産体制 (分業) をはかり、全国にその市場を獲得しました。現在知られている古常滑の分布範囲は、北は青森県上北郡七戸町から、南は鹿児島県揖宿郡開聞町にまで及んでおり、島根県など日本海側の一部を含め、太平洋岸の日本全域に拡がっています。もっともその拡がりは器種によって一定ではなく、山茶碗 小皿類は伊勢湾周辺に、三筋壺は南関東から畿内および四国の一部に、甕類は全国にというように、その用途や大きさによって分布範囲が異なっています。いうまでもなく古常滑の製品は中世の農村を対象とした日常雑器がその基本ですが、その用途によって特殊品も数多くつくられています。その一つは高さ30cm前後の小形甕類で、経筒の外容器として関東から畿内にかけての経塚から多数出土しており、いま一つは経塚に随伴する器物としての三筋壺がそれです。また、大小の甕類に蔵骨器として用いられている例も多いです。
 いま一つ、知多半島の北部から中央部にかけての山茶碗窯において、瓦を生産した例が十数基知られています。それらのうちには大府市の吉田12号窯や知多町社山古窯の製品のように、京都鳥羽離宮の安楽寿院において用いられていたことの知られるものもあって、当時の窯業生産のあり方を追求する上に興味ある事実を提供しています。


渥美

 渥美半島古窯跡群が瀬戸・常滑窯と並んで東海地方における中世の大古窯跡群であることが認識されるようになったのは、昭和三十年代後半に入ってからのことです。しかし、渥美窯の存在が知られたのは意外に早く、大正七年には伊良湖において東大寺大仏殿再興のための瓦を焼いた窯跡が発見されていますし、大正十一年には田原町六連の百々窯跡が史蹟に指定されています。また、大正十二年に刊行された渥美郡誌にも半島全域に及び厖大な数の古窯跡群が詳細に記述されているのです。その後長く忘れ去られた存在であった渥美窯がふたたび注目されるようになったのは、一つには豊川用水建設工事に伴う発掘調査によるものであり、また、従来焼成地不明であった蓮弁文壺が昭和三十八年に鈴木幸朗氏らによって加治坪沢窯の製品であることが確認され、一連の刻文壺の産地としての渥美窯の再検討が要請されるに至ったためです。その後今日まで、小野田勝一氏を中心とする在地研究者によって半島全域の調査が進められ、渥美窯の全貌がほぼ知られるまでになりました。
 渥美窯は半島の基部に当たる豊橋市南西部から田原町 赤羽根町・渥美町の一市三町にまたがっており、現在までに七十四群四百基に近い古窯跡の存在が確認されています。すでに破壊されたものや今後の発見を考慮しますと、優に五百基を越すでしょう。古窯跡の数から言えば、常滑・猿投・瀬戸に次ぐ全国第四位の中世窯跡群です。この七十四群の古窯跡は、小は三~四基から大は二十基を越えるものまでさまざまですが、一群五~八基のものが多いです。これらの古窯跡群は半島全域に一様に分布するのではなく、大きく四地区に分かれてまとまりをみせています。すなわち、東は豊橋市の梅田川南岸から紙田川流域にかけて二十三群百十二基、田原町の汐川・蜆川流域から太平洋岸に面する神戸地区にかけて三十五群百八十八基、田原町芦ヶ池周辺から赤羽根町にかけて十三群七十四基、渥美町伊良湖地区の三群十四基がそうです。この四地区はそれぞれ発生の契機を異にし、独自の展開を遂げたものと考えられます。
 渥美窯の製品は基本的には常滑窯と同一です。すなわち、食器としての碗・皿類、調理具としての鉢類、貯蔵容器としての瓶・壺・甕類のほか、祭祀用具 漁具・瓦などを焼いていますが、主製品は壺・甕・擂鉢と碗・皿類の二種のセットです。このうち碗皿窯は半島全域をおおっていますが、壺・甕窯は半島中央部の二群にとくに多い傾向があります。これらの各器形は常滑とまったく同一です。両者この相異を示す祭祀用具については後に特製品のところでふれることにします。
 渥美窯における器物の製作技術は土の性質からくる焼成技法の相異をのぞけば、基本的には常滑窯と同一です。渥美窯はその分布から知られるように (92ページ分布図参照) 南半の太平洋岸に面した低位丘陵に立地していますが、この低位丘陵は渥美累層と呼ばれる更新統のシルト層におおわれています。このシルト層中の粘土が使用されたわけですが、砂質に富み、耐火度が低いです。成形は常滑と同様初期には水挽き轆轤成形が残っていますが、基本的には紐輪積成形です。輪積の接合部は外面から叩き締めた押印が大甕のみならず中形の壺甕類にみられる点に常滑との相異があり、両者を区別する目印ともなっています。なお、渥美窯は常滑窯にくらべて、前代以来の灰釉をかなり長く保持した点が注目されます。焼成に用いられた窯は、東海地方特有の焼成室と燃焼室の境に分焰柱を設けた窖窯です。したがって基本的には常滑窯と同一構造ですが、渥美窯の場合は燃焼室の床面が内部に向かって深く傾斜しており、焼成室との境でさらに一段低くなっています。このため焼成室の傾斜が急で、しかも天井が非常に高いです。したがって窯内の容積は常滑にくらべてかなり大きいわけで、一定の温度を上げるために莫大な燃料を必要とします。このような窯体構造をとらざるを得なかったのは、その使用陶土の性質に依るものでした。直火による破損を避けて間接焰焼成を行ったのであり、焼き締めのために燻焼還元焼成がなされました。渥美の作品が 「黒い壺」 と呼ばれたように、器面が炭素の吸着によって黒ずんだものが多いのはこのためです。なお、碗・皿窯は焼成室の幅が広く、床面傾斜が急であるのに対して、壺・甕窯は幅狭く、長くて、傾斜がいくぶん緩やかに構築されている渥美窯はいつごろ、どのようにして発生したのでしょうか。渥美窯の母胎をなしたのは豊橋市東南の、奈良時代に形成された須恵器窯跡群である一里山古窯跡群、およびそれから北西へ転移した平安灰釉陶を焼成した二川 大岩山古窯跡群であることはすでに指摘されているところですが、それから漸次西方へ拡がって渥美窯を形成したのではありません。渥美窯は現在、平安末期から鎌倉後期にかけて、三段階の変遷を遂げたことが知られていますが、各段階の内容および変化の過程は常滑に準じて捉えられています。第一段階は平安末期に属しますが、この第一段階の窯は主として蔵王山麓および芦ヶ池西南の二箇所に集中しており、二川古窯跡群から半島中央部へ転移して出発したことが知られるのです。このうち、年代を想定しうるのは芦ヶ池西南の大アラコ窯であって、ここから平安末期に三河国司であった藤原顕長などの刻銘のある壺片が多数採集されており、12世紀中葉ごろのものと考えられています。蔵王山麓においてもこれと同期の大沢下古窯跡群が知られています。これらより早い年代を示す資料として、文政八年に和歌山県熊野本宮から出土した保安二年(1121) 銘の経筒外容器があります。この外容器には渥美窯産の器物にみられる「白瓷箱」 の刻銘があることから同窯の製品であることは疑いもありません。したがって、12世紀初めごろにはすでに生産の開始されていたことが知られるのです。渥美窯は以上述べたように、半島中央部の二群から出発し、しだいに南方へ拡散したものであり、東方の豊橋市域に入る一群は第二段階、すなわち鎌倉時代の初めごろに西方から拡がって形成されたものです。なぜこのように半島中央部において出発したのか、その理由は明らかでありませんが、蔵王山麓の汐川流域一帯は伊勢神宮との結びつきが強く、神戸・御厨 御薗など神宮領が広汎に拡がっていることからみて、この地域の窯業生産が神宮経済の一環として成立した可能性を示しています。これに対して芦ヶ池周辺には神宮領はなく、国司の名を記した壺などを焼いている点から国衙の官窯であった可能性がつよいです。こうした推論には多くの論証を必要としますが、いまは興味ある問題として提示するにとどめておきたいです。
 渥美窯の製品は、北は岩手県から南は愛媛県まで広汎に分布していますが、常滑に比べるとその分布範囲は狭いです。主要な分布地域は南関東から伊勢・熊野地方の太平洋岸に限られています。その発生が常滑窯とほとんど変わらないにもかかわらず、分布範囲が狭いのは前代の灰釉陶器以来の市場の確保の相異によるものでしょう。さきにも述べたように、渥美窯の製品は壺・甕擂鉢・碗・皿といった農民用の日常容器を主としていますが、常滑における三筋壺のような特殊品として、数多くの刻文壺を焼いています。これには大小二種のものがあり、半截竹管を用いて、連弧文 蓮弁文・袈裟襷文などの幾何学文を描いています。大は多くの場合、経筒外容器として、小は蔵骨器あるいは経塚随伴品として用いられています。とくに三筋文系陶器のなかで注目されるのは、秋草文壺 (図79) のように大和絵風の四季絵を描いた刻画文陶器が豊富にみられることです。いま一つの特産品は専用の経筒外容器です。これにはさまざまの形態のものがありますが、古いものは越州窯の経筒を写したものがあり、しだいに単純な円筒形に変化したことが知られています。これらは主として伊勢 熊野地方の経塚から発見されています。特殊なものとしては京都府花背経塚出土のそれのように花文を陰刻した大形品もあります。
 常滑窯が今日まで連綿として生産を維持しているのに対して、渥美窯は鎌倉時代の終末をまたずに廃絶してしまいました。その原因については神宮経済のあり方と関連づけて説明しようとする考え方もありますが、廃絶がほぼ同時期に半島全域に及んでいる点から考えますと、むしろさきに述べた陶土の性質からくる燃料不経済な焼成技術に求めるべきであって、常滑窯との生産競争に敗れたものと考えられるのです。


猿投

 平安時代以来、灰釉陶器生産の中心であった猿投窯が、12世紀初めごろ三極に分解し、北方に瀬戸を、南方に常滑を生み出したことはすでに述べたところです。ここでは平安灰釉陶器生産の中心であった猿投窯のその後の動向について述べましょう。すでに明らかにしたように、瀬戸は灰釉 鉄釉を施した高級陶器生産地であり、常滑は大形の壺甕などの日常雑器生産地でした。こうした地域別分業の基底に、平安灰釉陶以来の碗 皿類を中心とした日常の食器類の生産が広汎に存在しました。猿投窯はこうした碗皿類を中心とした窯業生産地として存続したのです。灰釉を失い、粗雑なつくりの碗類を東海地方では一般に山茶碗と呼んでいます。この山茶碗は小皿とセットになって用いられますが、これは平安後期に大小の碗をセットにして食器に用いたその伝統をひくものであり、鎌倉時代に入って小碗が高台を失い、小皿化したものです。
 猿投窯における中世の山茶碗窯は前代の灰釉陶器の分布範囲を凌駕する広汎な地域に拡がっており、旧時代の地域内で五百六十基の古窯跡が確認されていますから、破壊されたものを含めて、全地域で八百基を越すものと推定されています。こうした山茶碗窯における製品の種類はいうまでもなく碗皿類を中心とした食器類ですが、初期には前代の系譜をひく広口瓶や大形短頸壺なども焼かれています。またこの段階にいたって従来の擂鉢が底の厚い深鉢形のものから、高台をもった大平鉢に変化し、各窯において碗・皿類とともに焼かれています。しかし、猿投窯のうちにはこのように碗・皿・鉢類のみならず、ごく一部には常滑風の壺甕類を焼いたところもあり、西端の東山地区では各種仏器類や瓦・四耳壺などを焼いた窯もいくつか知られていて、その内容はかならずしも一様ではありません。とくに東山地区で他にみられない多くの器物が焼かれていることは、猿投窯のうちにおける同地区の特殊な位置を示すものと思われます。前代における灰釉陶器生産の中心は東方の黒笹地区であり、9世紀中葉代から10世紀初めごろの窯ですぐれた灰釉陶器や花文陶とともに「内「竪所」 銘の大碗類が焼かれるなど、国衙の官窯的性格をもっていたと考えられますが、この地区では山茶碗窯に転化しますと、ほとんど碗・皿・鉢のみの単純生産になってしまっています。これに対して前代には傍系窯的な存在であった東山地区に碗・皿・鉢以外の製品が多く焼かれていることは官窯的性格が黒笹地区からこの地区に移ったことを示すものと考えられます。名古屋市瑞穂区の五中山古墳の側から出土した 「工政所」 銘の碗が東山窯の製品であることもその有力な証拠として挙げられましょう。さきに瀬戸のところで述べたように、東山地区において宋磁を模した四耳壺を焼いた窯がいくつか知られており、東山105号窯のように中国陶磁を模した新しい器面装飾が行われるなど、時代の動きに敏感に反応していることも、そのような性格を考えることなしには理解し難い現象です。中央や在地の社寺勢力と密着した各種仏器類や瓦の生産も同様です。やがてこうした時代の要求に応じた上層階級向けの陶器生産の中心は瀬戸へ移ってゆくのであり、古瀬戸確立以後の東山窯はほとんど廃絶に近い状態になっています。東方の猿投窯各地区においても事態は同様であって、鎌倉末ごろには完全に廃絶したと考えられます。
 それでは尾張三河以外の東海各地の中世の窯業生産はどのような状況を示しているでしょうか。まず美濃についてみましょう。美濃国における窯業生産の中心は木曾川の北部、各務原市から岐阜市にかけての低丘陵地帯に拡がる美濃須衛窯です。ここでは現在百三十基余りの須恵器 瓷器窯が発見されていますが、このうち瓷器窯は約二十基です。これらの瓷器 灰釉陶窯は須恵器廃絶後、10世紀代に尾北あるいは猿投窯の影響の下に窯業生産地として復活したものですが、12世紀に入ると他の地域のように広汎な山茶碗窯に転化することなく、その一部が辛ろうじて生産を維持したにすぎません。
 しかし、そのうちには稲田山背後の一古窯のように無釉ながら古瀬戸と同形の四耳壺などを焼いたことが最近明らかとなっており、鎌倉時代中ごろ過ぎまで操業されていたことが知られます。しかし 中世における美濃の窯業生産の中心は多治見・土岐市など東濃の諸地域であって、ここではさまざまな窯業形態がみられます。このうち、古瀬戸的な施釉陶器を焼成した一連の窯や灰釉陶器の流れをひいた山茶碗窯については、すでに瀬戸 美濃の項でふれましたが、とくに近年 開発にからんで厖大な数の山茶碗窯が発掘されており、15世紀末に始まる大窯に連続する様相が明らかになってきています。
 東濃における中世窯として最近知られるようになったものの一つに兼山窯跡群があります。兼山窯は可児郡兼山町の木曾川に面した丘陵の各支谷に造営された中世窯跡群で、古城山地区に四基、東山地区二基、合計六基の窯跡が確認されています。このうち、古城山1号窯が発掘されているのみで、全貌は明らかでありませんが、常滑と同様な壺・甕類を主体とした製品を焼いている点で注目すべきものです。山茶碗 小皿・鉢類はきわめて少ないです。壺 甕類は形態 色調とも常滑にきわめて近似しており、一見区別をつけがたいほどです。ただ使用陶土の耐火度が高く、常滑より高温で硬く焼かれており、口縁帯の折り返しも常滑ほど幅広くならない点に両者の違いがみられます。東濃の山茶碗地帯のなかに生じたこの兼山窯の特殊性は、やはり木曾川の水運を利用した大形壺甕類の需要に応ずる地域の一面を示すものと考えられます。
 いま一つ、東濃において戦後新たに知られるようになった中世窯として、中津川古窯跡群があります。この古窯跡群については昭和三十三年に小山冨士夫氏を団長とする調査団によって大規模な発掘調査が行われており、その内容もある程度知られています。窯は中津川市西部の、中央線と木曾川に挟まれた丘陵地帯に東西に長く拡がっており、一部南にも及んでいます。現在二十五基の古窯跡が確認されていますが、実数はおそらくこれに倍するでしょう。これらの窯はいずれも東海地方に通有な山茶碗窯の構造形式をもつもので、製品は山茶碗・小皿類を主にするもの、壺・甕・擂鉢を主にするもの、両者混在するものの三者があります。山茶碗・小皿類は東海各地と共通のものであり壺・甕・擂鉢は常滑窯のそれと同一です。中津川窯の製品はいずれも素地が白色に近い、きわめて硬質のもので、淡緑色の自然釉のかかった美しい陶片が大量に出土しています。完器としての同窯の製品はまだあまり知られていません。同窯の母胎をなすものは平安後期に東濃の諸地域に拡散した灰釉陶窯であり、その一分枝が中津川市千旦林の小石塚窯です。このような灰釉陶窯はいずれも12世紀に入ると猿投窯と同様な山茶碗 小皿を主とした雑器生産に転化してゆくのですが、中津川古窯跡群において壺・甕類が広汎に生産されたのには理由があります。東濃地区における灰釉陶器窯が広汎な展開をみせたのは、東国における灰釉陶器の需要に応じたものでした。その一番東端の中津川窯において、大形の壺・甕類が生産されるようになったのは、やはり距離的に東国に近いという地の利を占めたことに理由を求めるべきでしょう。同窯は平安末期に小石塚窯を出発点にして山茶碗窯に転化し、鎌倉時代に入って常滑の影響の下に壺・甕窯の生産を開始したものと考えられます。当初は碗皿類と併焼していましたが、やがて鎌倉末から南北朝にかけ、碗・皿窯と壺・甕窯の二種の窯に分化しました。需要の増大に伴う分業であることはいうまでもありません。しかし、そのまま生産を維持することな室町時代の始めごろに廃絶しました。その理由については明らかでありませんが、渥美窯を始め東海各地の山茶碗窯の廃絶と軌を一にしており、壺・甕のみの生産を維持することは難しかったものと考えられます。
 以上のほか東海地方において中世の窯業地として取り上げねばならぬものに、遠江の各古窯跡群があります。それらも尾張・美濃などと同様に灰釉陶器生産を母胎とした山茶碗窯跡群であり、碗皿類を中心として、一部壺・瓶類を併焼したものですが、紙数の関係で割愛します。

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