茶碗 解説 日本 JAPAN 弐

天目・瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部・伯庵

 今日、これほど声価の高い志野茶碗ではありますが、それはけっして古い伝統あるものではありませんでした。いまから四十数年前、袷庵高橋義雄翁によって『大正名器鑑』が編さんされたとき、志野・織部・黄瀬戸の茶碗で収録されたものは、わずかに九碗、うち志野は六碗にすぎませんでした。名古屋出身の茶人帯庵が全力をあげての編著であり、名碗を求めての探索には、とうてい私どもの及ばぬ努力がなされていたにもかかわらず、そこに所載された志野は六碗でした。もちろん篇庵に志野茶碗の所在がわからなかったのではなく、それは明らかに、当時一般の好尚が志野の認識を深めていなかったことを反映したものと思われます。
 志野茶碗に対する愛好が高められたのは、おそらく、昭和十一年に刊行された如春庵森川勘一郎翁の編著『志野・黄瀬戸・織部』に負うところが大きいです。伺書には伝世の志野十八碗が、すべて原色版で所載されており、今日における和陶志野に対する評価は、この労作によって啓発されたといえます。そしてその後、しだいに研究家、陶芸家の間でも志野は再評価され、おのずから数寄者間の鑑賞も高まって、今日にいたったのでした。
 ちなみに、志野茶碗に対する賞玩のあとをざっとふり返ってみますと、桃山の茶碗ですから、当時流行の作品であったことは当然ですが、江戸初期以後、ことに遠州時代を過ぎますと、茶碗の賞玩は明らかに高麗茶碗に偏重し、次いで利休以来の楽茶碗、さらに唐津・萩などがつづき、志野や織部に対してはあまり興味が示されていなかったように思われます。したがって名物または中興名物にも加えられず、『遠州蔵帳』『玩貨名物記』『中興名物記』など、江戸時代の代表的な名物記にも一碗も所載されていません。そのために大名を中心とした茶数寄の場では、ほとんど顧みられることなく、これが志野の位置をいちじるしく低下させていったと推測されます。
 江戸時代における一般的な傾向はそうでしたが、一部の数寄者、ことに町人の間では案外に愛蔵されていました。その一例として、元禄から元文ころに栄えた江戸の富商、冬木家に「卯花培」が伝わったことが知られており、大阪の鴻池家にも数碗伝来していました。そして人の茶碗であったともいえるほどであ&。しかしそれとても、高麗茶碗や楽茶碗と比較すれば微々たるものでしかありませんでした。
 また幕末の大名茶人、松平不昧の収集品のなかに、志野茶碗が三碗加わっているのも注目に価します。すなわち『雲州名物記』の「名物並之部」に位されている「志野茶碗」・「朝萩」・「梅ヶ香」の三碗ですが、『雲州名物記』は従来の名物記とちがって、不昧公自らの見識によって収集されたものであるだけに、志野茶碗もここにきて、少なくとも『玩貨名物記』の時代よりも認識が高まったといえるのですが、それはおそらく公の収集が、道具商を仲介してのものであったことが反映したものと考えられます。
 そしてさらに志野茶碗の存在を高め、その美しさを名実ともに認めるようになったのは、やはり現代にいたってからで、三井高保、益田鈍翁などを中心とした、数寄者の間で賞玩されるようになってからであり、一方、荒川豊蔵氏らの古志野再現への努力の積み重ねなども、大いに影響して、今日に至ったといえるのです。
 本巻に所載された茶碗は、志野のほかに瀬戸天目・瀬戸白天目・瀬戸黒・黄瀬戸・黒織部・赤織部・伯庵などですが、やはり主体をなしているのが志野であることが窺えます。

室町時代の天目

 曜変天目や油滴によって代表される唐物天目茶碗の賞玩は、北山・東山時代にその全盛を迎え、わけて曜変・油滴は価万疋、五千疋と称されるほどに珍重されていました。
 ところで、そうした時代の好みは、あたかも低きに水が流れるように、おのずからわが陶窯における倣製品の出現を促し、尾張や美濃の陶窯において焼造がはじめられたのでした。しかし、瀬戸における天目茶碗の焼造は、いつごろから始まったかは判然としません。古窯趾の発掘調査によれば、室町初期にさかのぼるといわれていますが、室町期の主要な記録に現れるのは、それほど古いことではなく、天文年間にいたってからであり、したがって一般的な需要も、やはりそのころから高まったと推察されます。
 記録に残っている室町期の和物天目の代表的なものは、「伊勢天目」「瀬戸天目」「白天目」ですが、うち産地が比較的判然としているのは瀬戸天目で、これはおそらく尾張の瀬戸で焼造されたものとおもわれます。伊勢天目、白天目についてはさまざまの推測がなされていますが、その産地については実体をきわめるには至っていません。いまも述べたように、瀬戸天目や伊勢天目が一般に使用されるようになったのは、室町末期天文年間(1532~1555)ごろからですが、それより三、四十年ほど早いころ、すなわち文亀二年(1502)に没した佗茶の祖村田珠光が、その在世中に伊勢天目を使用していたと思われる記録があります。それは金春禅鳳の『禅鳳申楽談義』のなかに、珠光がみずからの茶数寄を語った言葉として。
……金の風炉、耀子、水指、水こぽしにてあるべく候へども、しみはせまじく候、伊勢物、備前物なりとも、面白くたくみ候はば、まさり候べく候
とある一条によるもので、そこに語られている「伊勢物」が、あるいは伊勢天目ではなかったかと推測されるのです。
 珠光時代のことはしばらくおくとして、紹鴎時代ともいえる天文年間にいたりますと、瀬戸天目、伊勢天目は唐物天目とともに、当世の茶碗として使われるようになっていました。
 すなわち天文十七年(1548)の『霊雲禅院常住校割』に、「伊勢天目」の記載があり、さらに六年後の天文二十三年、一服軒宗金によって編された『茶具備討集』に「瀬戸天目」と「白天目」が記載されています。
ことに瀬戸天目は
瀬戸天目 尾州出之 諭石 或錫 或鉛之覆輪也
とあって、真鐘や錫の覆輪身つけた瀬戸天目が使われていたことがうかがわれ、唐物の場合はおもに金覆輪や軟錬覆輪であったことと比べますと、瀬戸天目はやはりいちだん格の低いものであったようです。
 さらに永禄ごろに中国の鄭舜功が著した『日本一鑑』に
茶碗 陶出尾張 其色黒 彼舞一美陶‘故此価高とあって、日本では美陶が焼かれないため瀬戸天目の価が高い、といった意味の紹介をしています。しかし中国人が筆録するほどですから、瀬戸天目を含めた尾張の陶芸が、当時かなり盛んであったことを伝えています。
 瀬戸天目に次いで、しばしば茶会記に現れるのが伊勢天目で、前掲の京都妙心寺塔頭霊雲院の什器目録といえる『霊雲禅院常住技割』に
伊勢天目 銀覆輪
としるされたのを最初に、『津田宗及茶湯日記』に
伊勢茶碗 永禄四年十二月十二日朝 かなたやそうべわつ会
伊勢天目白色 永禄九年正月十一日朝 道巴会
とあり、また『今井宗久茶湯書抜』に
イセ天目 永禄十年二月廿日朝 隆仙会
さらに『神谷宗湛日記』には天正十五年正月十八日から同年の六月二十五日にいたるまで、「白イセ天目」「イセ天目」「天目ハイセ新也」「イセ天目新」などと、五回にわたってしるされています。ことに六月二十五日朝の茶会は、
イセ天目新 天正十五年六月廿五日朝 箱崎関白会
とあって、関白秀吉の茶会に新焼の伊勢天目が使用されたことがしるされています。
 以上によれば、伊勢天目は天文から天正にいたるおよそ四十年の間、一流の茶碗として用いられていたものであり、しかも黒茶碗と白茶碗があったことは明らかです。ところがどうしたことか、いまもって伝世の「伊勢天目」なる茶碗は寡聞ではあるが管見のうちになく、それがいかなる茶碗であったかは判然としません。しかしその産地については、寛永十五年に当時俳壇の鬼才であった松江重頼が編した、『毛吹草』のなかに美濃国の名産として、
瀬戸焼物 分テ葉茶ツボヲヤク 藤四郎卜云 伊勢天目ト云モ 当国ヨリ出スト云
とあって、美濃国の特産に「伊勢天目」があげられ、伊勢天目の産地を推測する上に注目すべき解答を示しています。
 では何ゆえに美濃で焼かれた天目が伊勢天目と呼ばれたかといいますと、当時伊勢御師は美濃地方と密接な関係があったことから、諸国の参宮客に供するために天目を美濃に注文し、それらが伊勢天目と称されたと考察されるのである(満岡忠成『日本人と陶器』参照)。
 そしてさらに、美濃の久尻、五斗蒔や定林寺、赤サバなどの窯趾から室町期の天目が出土しており、大萱、大平、元屋敷の窯趾からも、天正から慶長、さらにそれ以後の白釉の天目が出土しているので(荒川豊蔵『志野』参照)、おそらくこのなかのいずれかの窯から、永禄九年に用いられた「伊勢天目白色」や、天正十五年正月十八日の晩に池田伊与が用いた「白イセ天目」(『宗湛日記』)なども焼成されたと推測していいのではないでしょうか。
 したがって室町期に使用された「瀬戸天目」と「伊勢天目」は、おそらく瀬戸天目が『茶具備討集』の伝えるように瀬戸、赤津などで焼造されたものであり、伊勢天目は美濃産の天目の通称ではなかったかと解されますが、くわしくはさらに今後の研究にまたねばなりません。
 「伊勢白天目」と関連して考察されねばならぬものに、かつて武野紹鴎が所持していたという伝来をもつ「白天目」があります。それは現在二碗伝世していて、一碗は尾州徳川家伝来の茶碗、今ひとつは加賀前田家に伝来した茶碗です。そして前田家伝来の茶碗には千利休筆で「紹鴎せと白天目」の書き付けがあり、さらに利休から堺の薬師院にあてだ消息が添い、その文面に、
今度従関白様(秀次)御拝領之紹鴎せとの白天目、依長床坊所望二百貫文に被参候由、能道具に候秘蔵あるべき趣可被仰伝候 恐惶謹言 八月七日 宗易判 薬院尊老 人々御中
とあって、紹鴎が所持していたことは明らかであり、したがって紹鴎の没した弘治元年(1555)以前に焼成された作品であることも確かです。
 両碗とも同様の作ゆきで、ほとんど同期に同窯で焼成されたと推察されますが、これがはたしてどこで焼かれたものかは判然とせず、今日研究家の間で注目されている作品です。
 荒川豊蔵氏の『志野』によると、「紹鴎所持の白天目を焼いた窯は、残念ながらまだ発見されていませんが、それが初期の志野であることは、ほぽ確実であり……」としるされ、志野の原流である理由に、「この二つの茶碗が、瀬戸でやけたか、美濃であるかは、いまのところなんともいえませんが、釉薬の点からいって、これは決して黄瀬戸ではありません。長石釉です。いくらか灰を混ぜているかもしれませんが、とくに徳川家のは、おそらくサヤにいれずに、裸でアラヤキしたものに違いない……」と説明しています。しかし焼いた窯は判然とせず、室町期に天目を焼いている定林寺の窯趾から「黄瀬戸や天目のほかに、ごくわずかではあるが志野が出ていますので、この定林寺、それから五斗蒔あたりの窯を、もっとよく調べてみたい気がする」と述べています。
 ところで前述のように、「伊勢天目」や「伊勢天目白色」を美濃の作品と推測する拙論によると、この二碗の白天目が美濃の焼き物であるならば、永禄九年の「伊勢天目白色」より時代の上がるものであり、しかも「白天目」が志野の初期ということであれば、伊勢白天目もまた志野の初期にあたるものであったといえます。ただここで問題になぞのは、利休が白天目を「せと」としていることですが、この場合の瀬戸は、『毛吹草』に美濃の陶器を「瀬戸焼物」としているのや、桃山の茶会記でも美濃の陶器がすべて瀬戸と称されているように、尾張の瀬戸産というよりも、当時の慣用語としての「せと」であったと解しでいいのではないでしょうか。そしておそらく「伊勢天目」の場合も、天目に限って美濃産の天目を伊勢天目と称したものと考えられます。つまり一部の美濃天目は、伊勢の特需的な性格をもっていたと解ぎれるのでみます。
 いずれにしても室町時代の天目茶碗については、現存する作品の再検討が大きな課題として残されていて、いまのところ判然としないことが多いです。『大正名器鑑』には、瀬戸天目として本巻所載の茶碗のほか、尾州徳川家伝来「古瀬戸天目」、村山家の「黄天目」、前田家伝来の「黄天目」などがあげられ、また菊花天目では、『世界陶磁全集』七巻所載の茶碗が、作ゆきのすぐれたものとして印象に残っています。

桃山時代の瀬戸茶碗

 室町時代の末期から桃山時代を通じて、多くの茶書や茶湯日記に「瀬戸焼」という言葉がしばしばしるされています。ことに瀬戸の茶碗は、当時一般に「今焼」と呼ばれた長次郎の楽茶碗とともに、桃山の茶会における和物茶碗の花形でした。
 瀬戸茶碗の使用は天正十四、五年ごろから急激に増加し、その全盛期を迎えるのです。が、ここに用いられている「瀬戸茶碗」のほとんどは、いわゆる尾張の瀬戸焼ではなく、美濃の土岐、可児両郡に散在した窯で焼造されたものでした。したがって、この場合の瀬戸茶碗は、『毛吹草』にもしるされているように、美濃における瀬戸焼物、いわば美濃瀬戸焼というべきものですが、当時は美濃、尾張の区別なく、両方の焼き物に対する一般的な通称として使われていたと推察されます。
 美濃では前章に述べたように、室町時代の後期から天目や菊皿手の黄瀬戸が焼かれ、桃山期における、ぱなばなしい開花の温床はすでに、つちかわれていましたが、その開花に直接的な影響を与えたのは、やはり織田信長の濃尾平定ののち、その庇護を受けて、尾張瀬戸の工人の移住も加わって、あの繁栄をみたのであり、さらに秀吉の天下統一によって人心が安定し、さらに堺や京都の町衆を中心とする数寄者が、時代の茶の湯に主動的な役割をはたしていたため、当然のこととして、かれらの商品経済のルートにのって、都会の需要に供給され、いまだかつてみなかった盛況を呈したのでした。しかもその間にあって、千利休、古田織部という桃山の前期と後期の茶風をになった、二人の大茶人の積極的な働きかけに応じたことも新しい造形として時代の脚光を浴びるうえに大きく作用したといえましょう。
 瀬戸黒・志野・黄瀬戸・織部は、以上のような環境から生まれたものでしたが、前掲の茶会記抜き書きにもみられるように、当時から今日のような種類別の区分けがなされていたものではなく、それらはすべて「瀬戸茶碗」として扱われていました。したがって、どの瀬戸茶碗がいつ、どこの茶会に使われたかは、ほとんど判然としません。しかし、たとえば天正十八年九月十日昼、京都の聚楽第で催された利休の茶会の様子を、
セト茶ワン持出テ台子ノ上ノ黒茶碗二取替ラルル、黒キニ茶タテ候事上様御キラヒ候ホドニ此分二仕候ト也
と神谷宗湛がその茶会記にしるしでいることから、太閤秀吉が黒茶碗がきらいなため、利休がわざわざ取り替えた黒くない「セト茶碗」は、おそらく白釉または黄釉のかかったものであったと思われ、あるいはそれが、いわゆる志野茶碗ではなかったかという推測も可能です。
 また慶長三年十一月二十三日に、博多で石田三成の茶会に用いられた「白茶碗」、『古織伝書』の慶長六年卯月十八日に、奈良の松屋久政が用いた「白茶碗瀬戸」などは、おそらく志野であったと考えられるのです。
 さちにまた興味深いのは、慶長四年二月二十八日の朝、伏見における古田織部の茶会の様子を
肩衝ハ、セト也、水指セト、ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也、肩衝ハ古ク見ユル
と『宗湛日記』がしるしていることで、古田織部がほとんど瀬戸焼道具の茶会を催し、しかもそこで、ひずみのある瓢掛だ(おどけた)姿の茶碗を用いていますが、これこそ織部黒の沓茶碗であったにちがいないと考えられ、さらにこの手のひずみのある瀬戸茶碗が、慶長九年二月八日の朝、陥岡における黒田筑州(長政)の茶会でも用いられ、「茶碗セト也ヒツムツキ候」と、同じく神谷宗湛がしろしています。
 このような茶会記の記述から、志野らしきものが天正十八年に使われたり、織部黒の沓茶碗が慶長四年に用いられていることなどから、瀬戸茶碗の内容の一端がうかがえるのですが、かといってそれによってその全ぼうを判断するわけにはいきません。
 桃山の瀬戸茶碗のなかでは、天目を除いては瀬戸黒が最も早く焼かれたものといわれています。しかし窯跡からは瀬戸黒、志野、黄瀬戸がともに出土することから、それらにはそれほど時間的な差異があるとは考えられず、むしろすべてを通じての形姿、紋様など、その様式の変化によって焼造年代を考察するほうが妥当と思われますが、ここでは各種類の特色について述べるにとどめました。

黄瀬戸

 黄瀬戸の茶碗はきわめて少ないです。というよりも現存するもので本来茶碗として作られたのは、三井八郎右衛門家に伝来した、宗旦直き書きのある「朝比奈」一碗といわれています。
 その他は、ほとんどが向こう付けに作られたものが、茶碗の用をなすところから、転用されたものと思われます。低く大きい高台のつくりなど、たしかに茶碗の高台とはいえぬ作ゆきであり、したがって本巻所載の「難波」など三碗は、すぐれた作品ではありますが、やはり本来は向こう付けであったのでしょう。
 他にここには掲載されていませんが、俗に伯庵手と呼ばれている古瀬戸と同様の、透明性の黄釉のかかった茶碗がありますが、これには室町期のものもあり、いわゆるあやめ手黄瀬戸の先駆をなすものと推測されています。しかもその形態が、一見、珠光青磁に似ていることも興味深く、天目とともに青磁の写しとして焼かれたのかもしれません。したがって古い時代に使われた「瀬戸茶碗」には、との手のものがあったことも考えられます。
 ところで、「朝比奈」は黄瀬戸としては異色的な作品であることは、いまも述べましたが、箆目を使った形態や作調は、「初音」など志野茶碗とよく似ていることから、やはり桃山前期に美濃で焼かれたものといえますが、ほかに類品のないことから、おそらぐ特別の注文をうけた作品であったと思われます。
 向こう付けに造られた筒茶碗は、いずれもあやめ手黄瀬戸ですが、胴筋をつけたり、花唐草の模様を二方に線刻して、胆僣釉を塗るなど、共通の作ゆきをもっているのが特色です。
 大萱で焼かれたものが最もすぐれているといわれていますが、油揚げ膚の黄釉地に緑の胆僣を点在させた、温和でほのぼのとした色感は、志野の白釉とともに、いかにも日本的な情味をたたえました。焼き物といえます。
 しかし焼成時のぐあいで、釉調にさまざまの変化がおこって、ここにみる三碗ほど作ぶりのすぐれたものはきわめて少ないです。

志野

 今日、志野と呼ばれている長石質の白釉をかけた焼き物が、美濃または瀬戸の窯で焼かれるようになったのは、室町時代の後期からとみなされています。もちろん、本巻に所載されている志野の茶碗は、いずれも桃山時代に入ってから焼かれたもので、初期の作品はいずれも天目茶碗でした。そしてそれらの白釉の天目は、おぞらく当時「伊勢白天目」と称されたものにあたると考えられ、ほかに紹鴎所持の茶碗のように「瀬戸白天目」と呼ばれたものも焼かれていました。そしてそれが、桃山時代に入ってから、鉄釉で絵を描いた上に白釉をかけた、いわゆる志野茶碗に発展したのでした。
 ところで、志野茶碗という名称が、いつごろからのものであったかということにも、いろいろの推測がなされています。
 桃山の志野を、「志野」と呼ぶようになっだのは、記録にみえるかぎりでは江戸時代に入ってからで、桃山の茶会記などには見あたちありません。いずれもただ単に「瀬戸茶碗」または「白茶碗」とあるだけで「茶碗セト志野」というような名称は、欲しくと名見あたりません。とすれば、焼成当時に志野と呼ばれていなかったものか、なにゆえに後世になってから志野と称されるようになったのでしょうか、残念ながらいまのところ判然としません。
 しかし、室町期の天文二十二年から天正十四年までの間の、『津田宗及茶湯日記』や『今井宗久茶湯書抜』に、たびたび使用ざれている茶碗の一つに、「志野茶碗」というのがあります。
 しかもこの志野茶碗は、紹鴎と宗久と宗及の三人だけが使用していることから、当時二~三碗しかなかった特別の茶碗の名称であったことがうかがわれます。だが、その茶碗がいかなる茶碗であったかは明らかでなく、茶書や茶会記にも判然としていません。しかし名古屋の森川家蔵の、千利休が宗徳にあてた「茶道伝授巻」。(写しではないかと思われますが)の天目の条に「和をハ志野天目という」としるされていることから、「志野茶碗」が、あるいは志野天目ではなかったかと推測され、もしくはその志野天目が白釉の天目であって、そこから志野の名称がはじまったのではないかとも考えられるのです。
 しかしこの志野天目と、紹鴎所持の瀬戸白天目と、伊勢白天目とがどのような関係にあるものであったかは未詳で、これらについては、いずれも今後の研究にまたねばなりません。
 桃山時代に入ってから焼かれた志野茶碗には、次のような種類がありますが、それがいつごろからはじまったかは明らかでなく、利休が台子の上の黒茶碗と取り替えたのが志野とすれば、天正十八年にはすでに焼かれていたといえ、おそらく天正の中ごろからはじまったものと考えられます。そして今日の一般論としては、瀬戸黒と似た形の筒茶碗が最も古く、次第に作為の強い、いわゆる織部好みに変化していったとみられています。

無地志野

 絵や彫り紋様がなく、全体に白釉のかかった素朴な作ゆきの茶碗で、美濃のどの窯趾からを破片が出土しますが、その窯によって時代の古い新しいがあり、無地志野だからといってすべて古いとはいえません。無地志野では、京都の藪内家に伝来した古田織部所持の茶碗が古調のもので、瀬戸黒の筒とよく似た姿をしています。本巻所載の「卯の花」も作ぶりのすぐれた茶碗です。

志野

 最も一般的な志野で、鉄釉(鬼板)で絵を描き、その上から白釉をかけたもの。「卯花培」をはじめ、本巻掲載の志野茶碗の中心をなしています。大萱の作品が最もすぐれています。

鼠志野

 素地の上に鬼板で化粧し、その上から白釉をかけたものですが、その多くは象眼したような白い彫り模様があり、それは鬼板で化粧してから紋様を掻き落とし、その上に白釉をかけると掻き落としたところが白く紋様となって現れたものです。

赤志野

 鼠志野と同様の手法ですが、鼠にならないで赤く変化したものをいい、紅志野とは種類を異にします。紅志野は、鬼板ではなく「赤らく」と呼ばれる土で化粧したものです。

練り上げ志野

 練り上げ手志野とも呼ばれていますが、手法からいいますと、ねりこみと呼ぶほうがよいといわれています。白土に赤土を練り込んだものですが、またその逆の場合もあります。

織部

 その名のごとく、古田織部正重然の好みによる茶碗という意味から、織部黒・黒織部・青織部・赤織部などと呼ばれていますが、織部好みをすべて織部というならば、志野もまた織部焼の一つに数えねばならぬことになります。事実、志野のなかには、「おりべ」や「織部」と箱書きされた皿や鉢が伝世しています。しかし今日では、一般に白釉のかかったものはすべて志野の範躊に入れ、黒釉や青釉のかかったものを織部と呼んでいます。
 織部好みの瀬戸茶碗が、美濃の窯で焼かれるようになったのは、いつごろからであったか判然としません。『津田宗及茶湯日記』によると天正十三年一月十三日に古田佐介、すなわち織部が瀬戸茶碗を用いて茶会を催したとしるされていますが、桃山の茶会記に織部の自会がしるされた最初です。その初めての自会に用いた瀬戸茶碗が、どのようなものであったかは知るよしもありませんが、そのとき織部は四十二歳、七月に秀吉が関白に任ぜられたのと時を同じくし、古田佐介も従五位下織部正に任ぜられています。以来、織部といえば彼のことをさし、「織部殿」「古織公」と称されました。したがって、この天正十三年は、織部にとっては記念すべき年であったといえます。一武将でありながら、津田宗及のような大茶人を呼んで茶会を催しているところ、すでに茶の世界でも注目されていたのかもしれません。そして天正十三年といえば、桃山における「瀬戸茶碗」(天目ではない)の使用年度としては、最も早いころであることを考えますと、このころからすでに、織部と美濃の陶工の間には接触があったとも推測され、あるいはその会に使われた茶碗には、織部の好みが示されていたかもしれません。しかし利休形の長次郎茶碗が、はじめて茶会に現れるのが天正十四年であったとしますと、まだ織部好みは生まれていなかったかもしれず、これまた当時の消息、文書などの調査によって解決すべき、今後の一課題でしょう。
 天正十九年に千利休が没しますと、茶の世界は織部の時代に移ってゆきますが、文禄に入りますと、織部の茶会には、ほとんど「瀬戸茶碗」が使われ、彼と美濃瀬戸との関係が、いちだんと深まったことがうかがわれます。そしてさらに慶長に至りますと、ここに織部好みは明確に示されます。すなわち慶長四年二月二十八日(千利休の命日であったのは興味深い)に、例の「セト茶碗ヒツミ候也ヘウケモノ也」と称された茶碗が、彼によって用いられるのです。これこそ志野または織部黒・黒織部の沓形にちがいない茶碗で、今日、いわゆる織部好みの代表的作風といわれているものです。さらにまた慶長六年にも、「白茶碗 瀬戸」すなわち志野が用いられていますし、同八年には「茶碗 黒瀬戸」が彼によって使われています。
 指導者であった古田織部好みの茶碗は、かつて利休好みの楽茶碗が広がっていったように、一股の茶会にも盛んに用いられ、織部の没した元和元年には、「茶碗は年々に瀬戸よりのぼりたる今焼のひづミたる也」と、『草人木』にしるされるほどの盛況をみたのでした。もちろんその主体をなしたのは、黒織部の茶碗であったにちがいありません。
 織部時代の瀬戸茶碗を、主として桃山期の茶会記によって考察しましたが、これによると、瀬戸茶碗の焼造年代は、いったいにそれほど時代の上るものではなく、ほとんど長次郎焼とほぼ同じころ、すなわち天正十四、五年ごろから急激に高まったように推察されます。したがって、瀬戸黒や志野が焼かれたのは、桃山前期といっても、そのほとんどは天正の後期以後からであったとも考えられるのです。

織部黒

 いつごろから類別されるようになったのかわかりませんが、織部好みの沓茶碗で、全体に黒釉のかかった黒無地のものを、黒織部とはいわずに「織部黒」と呼んでいます。その作調は、いったいに沓形でも重厚な作ゆきのものが多く、瀬戸黒にいちだんと力強い作為を加えたものといえます。おそらく天正の末期から、文禄・慶長の初期にかけて焼かれたものでしょう。

黒織部

 これは総黒ではなく、かけ分けた黒釉の間に鉄釉で絵を描き、絵の部分に白釉をうすくかぱたり、黒釉を掻き落とした上に白釉をかけて紋様としたもので、作ゆきは織部ひず黒よりいちだんと歪みが強く、変化に富んだものが多いです。ほとんどが慶長年間に焼かれたものと考えられますが、作ゆきから前期と思われるものと、後期と推察されるものとがあり、織部黒にちかい作品は早く、いったいに口造りなど厚手のものが多いです。後期の作品は、次第に重厚さを失い、装飾的で軽妙な作ゆきとなります。

赤織部

 別に鳴海織部ともいわれるが八鳴海織部は、赤土と白土をつなぎ合わせて造り、白土のほうには青釉を、赤土の部分には白泥で紋様を描き、さらにその上に鉄絵の線描きをいれています。そのほとんどが鉢や向こう付けで、茶碗はみたことがありません。赤織部はその赤土のみを用いたもので、本巻には「山路」と筋紋の二碗を掲載しました。その焼成年代は後いわば織部焼が量産態勢に入った時代の作品です。

志野織部

 一見、志野と思われる長石釉の白いものですが、火色がまったく見られず、大皿、鉢、向こう付けに多いです。茶碗もまれに見ますが、やはり志野のような味わいがなく、登り窯で量産化された志野焼というべき性質のものです。

絵織部

 「織部染め付け」「白織部」などともいわれています。素地は白いが堅く、白釉も長石に灰を加えていて、柔らかい味わいがありません。元屋敷の登り窯で焼かれたものです。
 以上のほかに、織部と呼ばれているものに伊賀織部、唐津織部などがありますが、桃山における織部を代表するものは、やはり織部黒・黒織部・青織部・鳴海織部などであり、ことに茶碗では織部黒と黒織部にすぐれたものが多いです。しかし古田織部の好みになるものという意味での織部焼には、もちろん志野も加えねばなりません。そしてこれらは長次郎の茶碗・高麗茶碗とともに桃山の茶会の主役でした。天正十六年に、利休の高弟山上宗二は、当時の茶碗に対する一般の風潮について「惣別茶碗之事 唐茶碗 瀬戸茶碗 今焼の茶碗迄也 形サヘ能候ヘバ数寄道具也」と述べていますが、天正十六年(1588)といえば、前述のように瀬戸茶碗や長次郎の名品が、次々と茶会に使われるようになったときであり、山上宗二の言葉は、そうした様をすなおに表わしたものであったといえます。しかもそこで、宗二が「形サヘ能候ヘハ数寄道具」と言いきっているのも印象的で、形式にとらわれず、自由に風流しようという心こそ、桃山の名碗を生んだ温床であったといえます。

伯庵

 伯庵と呼ばれている茶碗が、およそ二十碗ほど伝来しています。その名称の起こりは、伝えによると、寛永七年(1630)に六十二歳で没した幕府の医官、曽谷伯安が所持していた茶碗を本歌として、その手のものを伯庵と呼ぶようになり、それは小堀遠州の名づけるところであったといわれています。そして産地は、尾張の瀬戸で焼かれたと見なされていました。以来これが通説となって、伯庵は瀬戸で焼かれた黄瀬戸の一種といわれ、箱書きなどにも「瀬戸伯庵」と書がれたのが多く、事実「本歌伯庵」には「瀬戸伯庵茶碗」の貼り紙が、黒田家伝来の伯庵には「瀬戸茶碗」と小堀遠州が書き付けしています。以上のことから、小堀遠州の時代には伯庵は瀬戸茶碗の二種とされていたことは確かです。
 そしてその作陶年代については、草間和楽の『茶器名物図彙』に「伯庵という茶碗は、利休時代の黄瀬戸焼で、これより古いものはなく、形はほとんど皆同じですが、少々ずつの大小はあり、当世の風にあわないものです。これは曽谷伯庵という人が、江戸の市中で見出し、そのころ遠州公が在世していたので見てもらい、銘を所望したところ、伯庵の名をそのまま銘として名付けられました。取り合わせに面白い茶碗といいますので、数寄者が需めですし、堺から多ぐ出たといわれている」としるされ、桃山の作としています。
 ところが文禄四年乙未七月十五日の奥書きのある『別所吉兵衛[子相伝書]の当時の作者の条に「宗伯本武州川越の人近年京都に上り耳付茶入を焼く茶入より茶碗多し武州にては伯庵と云」とあって、伯庵と称した宗伯が茶碗を焼いたことをしるしていますが、この『別所吉兵衛』子相伝書』は資料としても価値の高いものであり、その記述から、次のような一つの仮説をたてうることができます。
 すなわち作者の宗伯と医者伯安とは、もちろん同一人物でなかったことは当然ですが、もしかすると、伯安が所持していた茶碗は、宗伯すなわち伯庵の作であって、それをみた小堀遠州が宗伯の作であることを知っていて「瀬戸伯庵」と書き付けしたところ、医者の伯安と同名であったことから、世上に伯安の「伯庵」茶碗として聞こえるようになり、それが本歌のごとく伝えられたのではないでしょうか。そしてこの仮説を認めるとすれば、その製作年代は『茶器名物図彙』にいうように、桃山ごろと考えられ、そしてまた、当時知られた陶工達が京都に移住しそこから各地の窯場に赴いて作陶したという伝えからすれば、宗伯もそうしだ陶工の一人であったと考えられるのです。
 右のような仮説をあえて述べたのは、私は伯庵茶碗を桃山から江戸初期にかけて、ある一人の作者によって、特別に焼成されたものという考えを、かねてから抱いていたためで、いささか我田引水のきらいがあるかもしれません。
 伯庵茶碗の産地については、従来は遠州以来の瀬戸説でしたが、その後、その作ゆきから瀬戸以外の窯、ことに轆轤(ろくろ)ひきのあとが、瀬戸系のものとちがっ七朝鮮系の作ゆきであることから、原文次郎翁による朝鮮産説、または唐津説などがあり、近年では瀬戸説はかなり後退しつつあるといえます。というのは、古来、伯庵の十誓といって、その作ゆきの見どころとされている、「一 枇杷色、一 生海鼠薬、一 しみ、一 高台片薄、一 高台縮緬絞り、一 轆轤(ろくろ)目、一 きらず土、一 茶溜、一 小貫乳、一 端反り形」の十ヵ所と、他に「竹の節高台、高台飛び釉」とが、その約束とされていますが、その多くが瀬戸系の茶碗の特色よりも、朝鮮系のものに多くみる特色であること、また朝鮮の会寧焼に、伯庵茶碗とまったく同様の釉だちのものがあることなど、作ゆきそのものをみてゆきますと、瀬戸説は後退せざるをえないのです。
 ところが、伯庵茶碗の最も大きい特色は、その多くの茶碗の作ゆきが、すべて意識的に作られた、きわめて技巧的な作為の働いたものであり、胴の一文字の土割れや、その上に一文字に現れたなまこ釉は、意識的につくられ、施釉されたものであることは、その製作年代や製作地を考察する上に、重要な意味をもつものといえます。しかし伯庵茶碗のなかには名古屋の岡谷家から徳川美術館に寄贈された茶碗のように、なまこ釉のまったくかからないものや、他になまこ釉が外側にはなく、内面につけられたものもあり、また約束を備えたものでも、「本歌伯庵」と「奥田」「冬木」「黒田」などとはまたやや作ぶりにも相違があり、作為的に作られた茶碗にはちがいありませんが、すべてがすべて同一期の作ともいえないところがあります。
 そうしだところから、ざらに一つの仮説をたてれば、なにか伯庵の祖形となるものがあって(あるいは朝鮮産の茶碗であったかもしれない)、それを手本として、いわゆる約束をもつものが作られたのではないかとも考えられるのです。
 結論として、その産地については、私はいまのところ、瀬戸もしくは京瀬戸ではないかと考えています。その場合に、朝鮮系の作風が問題となりますが、これが特需的な作品であったことを考えますと、それほど重要な意味をもたなくなるのではないでしょうか。朝鮮または唐津系とする説に、なによりも抵抗をもつのは、やはり製作年代とそれほど離れていない時期に、小堀遠州が「瀬戸伯庵」、または「瀬戸茶碗」としていることで、土昧も、私には唐津系とみるよりは瀬戸系の土のように思われるのです。したがって祖形は朝鮮茶碗であったかもしれないが(あるいは伝世の伯庵茶碗をすべて詳細に調べれば、祖形が入っそいるかもしれない)、約束の整った伯庵茶碗は作為的に京都瀬戸系の窯か、瀬戸で焼かれたものと思われ、その作陶には朝鮮系の工人が加わっていたかもしれず、または前述の仮説のように、宗伯工房の手になったとも考えられるのです。

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