平壌焼 へいじょうやき

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鶴田 純久の章 お話

朝鮮平安南道平壌府外西城里に産した陶磁器。
平安道一帯には古くから極く幼稚な土器程度のものが生産されていましたが、1907年(明治四〇)頃佐賀県有田の某が平壌から五里の馬山洞に陶土を発見し、平壌において小規模の製陶を開始しました。
しかし資金欠乏のため間もなく閉業し、その後を朝鮮人の有力者十数名が資本金六万円の株式会社組織で引き受けましたが、これまた経営困難に陥って閉業しました。
さらに1917年(大正六)頃に花咲某、次いで福島荘平も製陶工場を開きましたが、しばらくで休止を余儀なくされました。
しかしこれと相前後して十川甚吉が箕林里に設けた製陶工場のみは次第に発展し、1921年(同一〇)には西城里に移転、1923年(同二一)合名組織の朝日窯業と改称、1926年(同一五)には組合組織の平壌製陶所となりました。
同所の主要製品は、耐火煉瓦・高級電気用陶器・タイル・朝鮮食器などでありました。

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