大高焼 おおたかやき

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鶴田 純久の章 お話

尾張国知多郡大高村(名古屋市緑区大高町)の陶器。
ここは愛知郡鳴海(同区鳴海町)にも近く、その創業や継続についてはおよそ五説があります。
1)明和年間(1764-72)に同村の儒者山口余延年が粟田の製品を模作して始めたとする説。
2)享和年間(1801-4)にこの地の長寿寺の僧と鈴木治兵衛が茶器を焼き出しこれを大高焼といい、また余延年焼一名大高焼は、文化年間(1804-18)山口余延年が余技として製陶し、その出生地の地名に因んで大高焼と名付けたという説。
3)1804年(文化元)3月陶工十人(瀬戸四人・赤津四人・下品野二人)をこの地に移住させ製陶させましたが、その印に大高・大高山などがあって1813年(同一〇)廃窯したという説。
4)鳴海織部を再興するため文政年間(1818-30)に尾張藩家老志水甲斐守が瀬戸工四人・赤津工二人・品野工二人を招いて製陶させたが永続せずに中絶したとする説。
5)東春日井郡下品野村(瀬戸市下品野町)の加藤定蔵が1804年に大高窯を再築し、1813年帰郷しましたが、1822年(文政五)再び来て高麗手の白磁を出したという説。
ただしこの3、4、5の諸説は同一の事実から出たものではないでしょうか。
(『陶器類聚』『をはりの花』『日本近世窯業史』『日本陶甕史』)

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