筑後の朝日焼 ちくごのあさひやき

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鶴田 純久の章 お話

美濃国(岐阜県)久尻窯の祖加藤与三兵衛景光の長男四郎右衛門尉景延(藤四郎とも称した)は久尻窯に従事していましたが、たまたま肥前国(佐賀県)唐津の浪士森善右衛門が清安寺の住職との縁故によってこの地に来て、景延の陶器を見てその技術を論じ得失を挙げ、ついに景延を伴って唐津の業法を視察させました。
景延は帰郷すると唐津窯を築き、初めて白釉の陶器を製出しました。
世にこれを道具窯または藤四郎焼といいます。
後陽成天皇の時(1586-1610在位)正親町上皇からその製品を徴せられ白釉手の茶碗を奉りましたが、以来年々貢献し、1597年(慶長二)7月5日ついに筑後守に任ずるとの宣旨を賜りました。
それゆえ筑後窯または筑後の朝日焼という名称を得ました。
朝日焼とは陶祖藤四郎が朝日春慶に因んだ名だといわれます。
清安寺山の南面久尻の中島という所に景延の碑があるようで、「松岳景延庵主寛永九年申年2月2日筑後守藤原景延公」と記されています。
(『岐阜県産業史』)

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