江戸川製陶所 えどがわせいとうしよ

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鶴田 純久の章 お話

明治初期東京市牛込区新小川町二丁目十番地(新宿区)にあった工場。
江戸川(神田川)に沿い傍に地質調査所の窯がありました。
本製陶所の所長は塩田真、技師長納富介次郎、職工長加藤友太郎、主な画工に大出東皐・羽田簡二かおり、工人約八十余名。
1877年(明治一〇)勧業寮の伝習事業が廃止された時、塩田・納富が相談して江戸川製陶所を建て、献身的に官業の伝習事業のあとを継続しました。
納富の考案による新窯は、ヨーロッパの直焔式円筒窯の長所をとってわが国在来の登窯に利用したもので、前者の二、三階建ての点を後者の連房式に転用し、これを平地の横窯に改造してその端に煙突を立てました。
石膏型を応用して陶磁器・妬器などをつくり、染め付けを主として赤絵もつくりましたが、営利を主としたものではなく研究的な工場で、各地諸窯の生徒を養ったりしました。
そのため経費が予想外にかかり、そのうえ工場が風災に罹り塩田の自宅も火災に遭ったりして、ついに1884年(明治一七)閉窯しました。
ワグネルの旭焼も試験の当初にはしばしば当工場に委託していました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』塩田力蔵)

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