大谷光瑞 おおたにこうずい

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鶴田 純久の章 お話

西本願寺の法主として知られるばかりでなく、早くから西域方面の学術調査という壮挙をなしたことで学界・美術界に名高いです。
1876年(明治九)京都西本願寺に生まれ、学習院を卒業後ヨ一ロッパに留学。
1907年(同四〇)から1914年(大正三)まで同寺法主・同派管長を務めました。
法号は鏡如。
東洋学に傾倒した光瑞は、ヨ一ロッパ各国が中央アジアの探検に力を注いでいるのに刺激され、この間1902、1908、1910年の三回にわたり大谷探検隊を組織し東トルキスタン地方の考古・美術調査を敢行しました。
その困難な大調査旅行の詳細は報告書「新西域記」に尽くされていますが、苦心の末に採集・発掘した資料の多くは当時の旅順博物館・朝鮮総督府博物館に寄託されていたため、現在の状況が不明であるのは惜しまれる。
しかしキジ一ル、クチャ、ミ一ラ一ン、アスタ一ナ、ロ一ラン出土の一部の遺品はわが国に伝存し、現在その大部分が東京国立博物館の有に帰して東洋館に展示されています。
1948年(昭和二三)没、七十二歳。

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