わが国へ最初に来朝した瓦工と伝えられます。
『日本書紀』巻二十一の崇峻天皇の元年(588)の条に、百済国より使者を遣わして進調し合わせて仏舎利と僧ら九人を献じましたが、そのほかに寺工・鍵盤博士・瓦博士・画工も同伴されて来たといまなもんぬようきもんりょうきもんさくまいます。
瓦博士とは麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帝弥の四人であります。
寺工と画工は工とあるのに鉉盤と瓦の方は共に博士なっているのは注目され、おそらく手先の技術と知識の技術とで名称が相違するのではないでしょうか。
四人の中にはあるいは施釉法の技師も加わっていたかもしれないようです。
天平甕器の前後に当たり、わが国で初めての施釉瓦が行なわれた背景には、軟釉の法が彼らから伝わったことによるとも考えられます。
(塩田力蔵)