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鶴田 純久の章 お話

近代まで街道茶屋の煮染皿に用いられ、陶器質または炻器質で多少の地色があり、それに鉄砂または呉須の淡彩で粗画を描いています。
多くは尾張・美濃国(愛知・岐阜県)の産で、初期のものは呉須を使わず銅緑の斑点または飛釉を施しています。
皿の大きさは直径四〇センチばかりのものが最も多く、のちにはこれを大として大中小三個組み込みのものもありました。
食物を盛った時の持ち運びに便利なように反縁とし、初期のものには反縁の上に溝があったがのちには溝がなく平坦になりました。
安定を保つために高台は大きくて低いです。
初期の文様には新鮮な感じを与えるため草がよく用いられていましたが、その後大津絵のようなおどけた粗画となりました。
石皿の名は長石を粉砕したものに土灰を混ぜた釉薬を施したためでしょうか。
石皿は絵瀬戸の最初のもので、李朝鉄砂・絵唐津と類似のものであります。
発掘の結果によると美濃笠原窯のものが最も古く、年代は慶長(1596-1615)の初期と思われます。
ここの製品は炻器質で鉛色の地色をしており、装飾に鉄砂や銅緑を使っています。
しかし笠原の原土はこれに適していないので間もなくその製造をやめました。
のちに瀬戸の洞の窯で多量に焼かれましたが、洞の製品は陶器質で地土はやや黄色味を帯び、装飾には鉄砂と呉須とが使われ反縁は平坦となりました。
幕末になって製造単価の関係から馬の目皿に圧倒されてまったく衰え、今日では絵もなく形も崩れて、これまでの石皿よりはるかに粗雑なものが煮染皿として製造されています。
石皿の素朴で単純な意匠のうちに無意識的な美しさがあって、近世の下手物称美運動によって世人に注目されるようになったものです。
なお西鶴の『世間胸算用』(1692・元禄五年刊)には湊焼の石皿のことが書かれています。

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