天下無双という意で、特殊技能をもつ諸芸工匠に与えられた名誉称号。
これは室町時代の中頃から起こったものですが、年を経るに従いみだりに称する者が出てきて、ついにはその値打がなくなってしまいました。
そこで、特に工芸に意を用いた織田信長に至って、「天下一号を取る者何れの道にても大切なることなり、但京中諸名人として内評議有て可相定事」、または「信長、鏡屋宗白の鏡の裏に天下一と銘したるを見て去春何れの鏡屋やらん、捧げしにも裏に天下一と銘しつる、天下一は唯一人あってこそ一号にてあるべけれ、二人あることは狼なるにあらずや」などと『信長記』にみえるように、「天下一」の濫称をいましめました。
豊臣秀吉も工芸に意を用い特にこれを奨励し、名工を選んで一人に限り天下一の号を授けた。
工人はそれをその製品に銘として入れ、無上の名誉としました。
陶器師楽吉左衛門常慶、土風炉師西村宗次郎(一名宗四郎)らもこの名誉を得ました。
徳川の時代になっても工人にこの称号を許しましたが、再び濫称の弊が起こり、1682年(天和二)ついに諸工人が天下一の号を用いることを禁じました。
なお『看羊録』に「古田織部は花竹を栽植し茶屋を装造りし事毎に天下一と称し、必ず黄金百錠を以て一品を要し、盛炭・破瓢・汲水・木桶等にして若し織部が褒賞したりとせぱ更に其価を論ぜざる習俗なり」とあり、ここにまた天下一という文字がみえます。
『看羊録』は文禄の役に捕虜となりのち帰国した朝鮮人が日本の事情を書いたものです。
(『日本工業史』『釜山窯ト対州窯』)