岸岳の飯洞甕下窯が十六世紀の末に終わっていたらしいことを、昭和四十六年に行われた島根大学浅海教授の熱残留磁気測定が示していますが、それは岸岳城主波多氏の滅亡とも時期がほぼ合致していますので、おそらく疑いのないところでしょう。波多氏はおよそ四百年続きましたが、文禄二年(1593)十六代波多三河守親にいたって豊臣秀吉によって所領を没収され滅んだのでした。と同時に飯洞甕窯などの窯の煙も絶えることになったらしいですが、この窯から「彫唐津茶碗」と類似の陶片が出土していることは興味深いです。その作風が美濃で焼かれた志野に似ていることから、あるいは文禄役に際し秀吉の名護屋城滞陣に後備衆の一人として在番した古田織部重然の指導のもとに作られたものではないかと推測されていますが、その可能性は十分に考えられます。とすれば、飯洞甕下窯の最末期の作品の一つと見ることができます。中里太郎右衛門氏によると、この岸岳の諸窯では一部を除いてほとんど茶陶らしいものは焼かれていないといいます。しかし、作為的な茶陶は焼かれていなかったにしても、茶に用いられなかったとはいえません。これも推測の域を出ませんが、天正年間後期には、唐津で焼かれた茶碗が高麗茶碗の一手として用いられていたように思われます。その一例として、天正十九年(1591)に歿した千利休が、筒茶碗「ねのこ餅」を所持していたことは疑いのないところですので、あるいは岸岳系以外にもすでに開窯されていた窯があり、「ねのこ餅」などと同類の茶碗、すなわち奥高麗茶碗が焼かれていたかもしれません。唐津の窯はかなり広範囲にわたって発掘されていますが、その作業に十分な学術的配慮があったとはいえず、まだまだ今後の調査によって新たな解明がなされていくことでしょう。
片口の水切り
古唐津古窯跡地でほぼ共通しています。大きさや焼方は色々有るけれども片口の作り方は同じようです。水切りは抜群に機能しています。現在は装飾のため片口が造られていますが、元々用をなすために造られた片口で四百年前はそれが当たり