唐津諸窯から出土した陶片を見ると岸岳の飯洞甕や帆柱窯、またはその系統の作品が最も古格を示しており、いったいに作振りも素朴です。ところが、文禄・慶長役を境に朝鮮から多くの陶工が渡来し、在来の陶工達とともに各地に窯を築いて窯の煙をあげるようになります。伝世している唐津焼のほとんどは文禄・慶長役以後に開かれた窯で焼かれたもので、創始期はたとえ十六世紀中葉以前であったとしても、いわゆる唐津焼はやはり文禄・慶長に始まったといっても過言ではなく、その最盛期は慶長から元和、寛永頃であったと考えられます。そして唐津焼古窯跡の分布図や唐津古窯と陶技分類等によってもわかるように、唐津焼は岸岳諸窯およびその系統・松浦系・武雄系・多久系・平戸系に分布しています。基本的な技術は共通しているが窯場によって土味や形・絵文様の筆行きなどにそれぞれ特色があります。しかし、示された特色によって、すべてが明確に窯分けしうるかというとそうではなく、いずれとも決め難いものが数多くあります。そうした唐津諸窯のそれぞれの作風や特色については、長年にわたって窯跡を踏査された水町和三郎・永竹威・十三代中里太郎右衛門の諸氏によってすでに幾度か発表されていますが、ここでも中里氏のご教示にしたがって陶技の分類をし、唐津焼の性格について考えたいです。
片口の水切り
古唐津古窯跡地でほぼ共通しています。大きさや焼方は色々有るけれども片口の作り方は同じようです。水切りは抜群に機能しています。現在は装飾のため片口が造られていますが、元々用をなすために造られた片口で四百年前はそれが当たり