唐津焼とは其の五 都会の需要

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鶴田 純久

唐津焼とは其の五 都会の需要

 唐津焼は、美濃と違って、雑器を主体に焼造されたと推測されていますが、その雑器とは何でしょうか。文禄・慶長役後の唐津焼は都会の需要にこたえるべく量産されていったと考えられますが、そのなかには純然とした茶道具もあれば一般的な飲食器もありました。普通の壷や皿・鉢の類があくまでも雑器であって茶陶となりえなかったとはいえないのです。唐津焼は基本的な作風として朝鮮的な素朴さをもっており、その素朴な作調の上に都会的な好みが加えられ需要が高まっていったといえます。都会の需要がなければ、おそらく唐津焼はこれほどの繁栄を見せなかったでしょう。したがって、質に優劣はあろうが純然とした茶道具を除いて唐津焼を茶陶と雑器というように区別してみることは当を得ていません。それは美濃の織部焼にもいえることで、織部焼のすべてが茶陶であったとは思えないし雑器として生まれたものでも時代の人々が洒脱な装飾性を好んでいますからには、当然その作風は洒脱なものとならざるをえないでありましょう。
 窯場全体の作風をリードしていくのは、やはり上質の作品であることは、桃山時代のどの窯場でも同じです。上質の作品が茶の湯の世界の需要品であったならば、そこで焼かれる多くの粗陶もその影響を受けざるをえないでありましょう。とにかく、藩の保護と都会の需要がなければ盛大に窯の煙をあげることは不可能であり、需要が高まるには、時代の好みがおのずから反映されねばなりません。朝鮮から移住した多くの陶工が、李朝の焼き物とは異なった、和陶としての唐津焼を焼造していることは、その消息を明らかに物語っているのです。
 慶長前期に美濃の陶工加藤景延らの唐津来訪があり、美濃風の作調が大いに流行して定着したことも明らかです。加藤景延が慶長二年に「筑後守」の称号を受け、古田織部、寺沢志摩守などとの関係から唐津に下向し、その作風の指導に直接あたったように思われるのは、甕屋の谷窯、多久高麗谷、内田皿屋の三窯の多くの作品が、志野や織部とあまりにも類似していることから推測されるのです。しかも、彼は美濃に帰国するに及んで唐津風連房式登窯を久尻の元屋敷に構築しています。作風の上で唐津に影響を及ぼしながら量産に適した唐津窯を美濃に取り入れるなど、極めて積極的な行動者であったことがうかがわれます。それも、桃山という時代であればこそなしえたところでしょう。

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