唐津と美濃の関係について。すなわち美濃の諸窯と肥前の唐津諸窯は、東と西に位置して、桃山時代に大いに活躍した窯場でした。いずれも、当時、他の窯では行われていなかった施釉陶を焼きました。美濃の窯は鎌倉時代以来の古瀬戸の延長線上に展開したものであり、唐津は朝鮮から渡ってきた陶工によって始められ、いわば李朝の陶風を伝えた窯です。したがって、基本的な成形法には両者で大きな違いがあり、美濃では手で回す手轆轤を用いましたが、唐津では葦で蹴る蹴轆轤を用いています。さらに美濃ではたたら作りや型抜きによって成形がなされていますが、唐津ではかなり変化に富んだ形のもめでもほとんど轆轤か叩作りで成形されています。このように成形の上では大きな違いを見せていますが、加飾においては施釉と鉄絵具による下絵付という共通点をもっていました。そして、そうした共通性が文禄から慶長、元和にかけて、両者の間に作風の上での交流がはかられる要因になっています。
美濃で焼かれた志野や織部と、唐津で最も多く焼かれている絵唐津は、いずれも鉄絵具で文様があらわされていますが、この鉄絵具による下絵付の技法を用いたのはどちらの窯が早かったのでしょうか。発生の段階で両者の間に関係があったかどうかは、今のところ判然としません。単純に考えますと、当時、鉄絵文様のある焼き物を盛んに焼いていたのは朝鮮でしたから、その技術がそのまま伝わったと考えられる唐津の方が早かったと見ることができます。しかし、絵のある唐津で、天正年間以前に焼かれたと断定できる資料はありません。一方、美濃でも鉄絵具の絵付がいつ頃から始まったかは明らかではありませんが、その作風から推して、天正年間後期にはすでに始まっていたように推測されます。とすれば、現存する作品から推測する限りでは、唐津とは関係なしに美濃で鉄絵付が始まっていたかのように思われます。古い志野に描かれている絵が唐津ものには見ない絵であることも、美濃で鉄絵付が独自に始まったのではないかという推測を深めさせます。さらに、文禄年間以後と思われる絵唐津の文様は、明らかに志野や織部の影響が濃厚にうかがわれ、器形も同じ傾向を見せています。だが一方では、唐津には唐津独特の李朝風の絵文様の展開があり、二つの窯場における鉄絵の発生の関係については、天正年間以前の唐津焼の研究が深まるのを待つ今後の課題としたいです。
鉄絵と同じような問題が釉薬の上にもうかがわれます。すなわち長石釉の使用です。美濃では遅くとも天文年間には長石釉の使用が始まっていました。唐津では唐津焼の発生年代が未だに判然としないので確かなことはわかりませんが、岸岳古窯でも天正年間にはすでにその使用が始まっていたのでしょうし、あるいは唐津焼の発生当初から行なわれていたかもしれません。したがって、ここでも一方が他方に影響を与えたという推定をくだすことはできません。長石釉は朝鮮から伝えられたと思われますので、唐津が先行したと見るのが妥当ですが、いまわかっているかぎり即物的には美濃の方が早く、どのような径路で朝鮮風のこの釉技が美濃にもたらされたか、今後の考究を待ちたいです。一方、唐津の窯では早くから藁灰釉のかかった、いわゆる斑唐津を焼造していますが、美濃ではそれは行われなかった、ということは釉技の上でも美濃は唐津の影響を受けていなかったと見ることができるのではないでしょうか。
志野や織部と唐津を数多く観察してみますと、一部の例外を除いては、その器形の上で、志野や織部はほとんど唐津焼の影響を受けていませんが、逆に唐津焼には強い影響を及ぼしています。文禄・慶長、元和にいたる唐津焼の繁栄が、都会の需要に応じてのものであったことは明らかですから、その作風に、すでに天正年間以来優れた陶芸を焼造して多くの人々の間で評価の高かった美濃の作風を取り入れることは、同じ鉄絵施釉陶を焼く窯場としては当然の成り行きであったといえます。ことに茶陶では、いわゆる織部好みを多く焼造していますが、それはこの時代の人々の大いに需めるところでもありました。しかし唐津焼は、朝鮮から帰化した多くの陶工が従事していた窯でしたから、織部好みを中心とした時代の好みを受け入れながらも、本来の持ち味を失うことなく、唐津焼として賞翫しうる一つの美質を示したのでした。
片口の水切り
古唐津古窯跡地でほぼ共通しています。大きさや焼方は色々有るけれども片口の作り方は同じようです。水切りは抜群に機能しています。現在は装飾のため片口が造られていますが、元々用をなすために造られた片口で四百年前はそれが当たり