石州流茶道の祖。
徳川将軍家の茶道師範。
1605年(慶長一〇)片桐市正旦元の弟主膳正貞隆の子として生まれました。
本名貞俊、のち貞昌と改めました。
1624年(寛永元)従五位下石見守に叙任、これによって世に石州と呼ばれました。
大徳寺の玉室宗珀に参禅し三叔宗関の号があります。
また能改庵・浮瓢軒・松陰斎・頓斎とも称しました。
大和小泉(奈良県大和郡山市小泉町)において一万三千余石を領しました。
1633年(寛永一〇)京都東山知恩院の普請奉行、1642年(同一九)関東郡奉行、1650年(慶安三)東山道の水害地巡察、東海道富士・天竜二川沿岸堤防検視、1660年(万治三)五畿内水害視察など主として幕府の建設土木関係の勤務に従い、東福門院の命によって仙洞御所の園池を完成したこともあります。
茶は千道安の弟子桑山宗仙から奥義を受け、また金森宗和・松花堂昭乗・小堀遠州の諸先輩と交わりが多く啓発されました。
1665年(寛文五)船越永景と共に柳営に入り将軍家綱の茶道師範となり、この時三十九葉の懐紙にしたため上進したのが「石州三百ヶ条」だと伝えられます。
以後柳営茶道の規格はすべて石州に出ることとなり、諸大名の茶道は競って石州流に傾いました。
1670年(寛文一〇)六十六歳で家督を三男貞房に譲って隠退。
1673年(延宝元)11月20日没、六十九歳。
石州の茶は道安の佗び茶を基本としているがその立場上自然武家茶の格を保ち、筆者による表具布の差別、貴人相伴の法、拝領道具の茶法などの定型が決められるに至りました。
弟子に藤林宗源・恰渓和尚・松浦鎮信・丹羽加賀守・清水動閑・大西閑斎・久保宗竹らがあり、やがてこの門流が繁行してほとんど江戸時代の数奇藩主方面の茶を風鐸しました。
かねて大和小泉に慈光院を建立したが、その書院と庭園の二畳台目の茶席に石州の風流をみることができます。
道具の好みものも多いようです。