尾張瀬戸の陶家で、代々同名を襲名しました。
初代重吉は明和年間(1764-72)の良工で、1801年(享和元)初めて瀬戸において製磁が開始された際率先してこの業に転じた十四名のうちの一人でありました。
以来もっぱら心を青花磁器の製造に傾けて、この地の製磁創業のことに尽くしました。
二世重吉は1806年(文化三)父の業を継ぎ製磁の完成に勉励しました。
たまたま翌年6月加藤民吉肥前国(佐賀・長崎県)でその製法を習得して帰村したのでこれに習い、苦心の結果ついに完全な青花磁器の製造を完成させました。
三世重吉もまた生涯を製磁のことに尽くし一意その発達に苦心しました。
四世重吉の技は父祖に劣らず、家を継ぐと共に清々園と号して斯業の改良を図り、釣焼・棚積など焼成方法の上に大きな発明・改良を加えるなど瀬戸地方における機械化の先駆となり、日本陶器合名会社の設立時にも大きく貢献しました。