薩摩焼白物の銘款。
薩摩焼は島津氏の事業として起こり、特に白陶は藩侯の調度および贈答用ばかりに限られ外部への分譲は許されませんでした。
陶工金和の時これを世間に分けようと請願しましたが、大白焼が当時珍重品であったために依然許可されませんでした。
しかし、しばしばの請願により光久の代に至ってやっと藩窯の不合格品だけの分譲か許されました。
唐千烏の印はこの分譲不合格品の標示として刻された印であります。
しかしのちにこのことが慣例となり、陶工か私腹を肥やそうとして特に精巧品にもこの印を刻して世に出しました。
斉彬の安政年中(1854-60)に至り藩窯・民窯を通じて白物分譲の制限が解かれ、自然この印の使用もなくなりました。
(『薩摩焼総鑑』)